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沖縄・2 [■旅行記]

4/20(火)2日目

  6:30起床。冷房の効き過ぎで寒くてよく眠れなかった。着替えてテレビなど見てダラダラ過ごし,7:30に11階のレストランでバイキングの朝食。「和洋バイキング」との事だったが,やはりと言うか,何と言うか,前回のホテルとは雲泥の差のメニューだった。「金額と立地が違う」と言われてしまえば確かにそうなんだけど…。アブラ味噌,干しパパイヤの炒め物などを取る。ご飯はやっぱり本土米と比べてパサパサしている。

 

  今日はレンタカーを借り,午前中は首里城を見学。午後はオイラが沖縄にいた時に住んでいた那覇市楚辺の周辺を回る予定。支度を整え,9時前に出発。地図で確認すると,レンタカー屋さんは国際通りの反対側の端の更に500mくらい先だった。距離にして約2kmだ。「歩くにはちょっと遠い」ということで,モノレールで行くことにする。

  ホームから那覇タワーがよく見える。那覇タワーは前回来た時は薄汚れていたが,すっかりきれいになり,夜にはネオンが光っていた。旭橋駅で下車して,某レンタカーを目指す。今日は快晴で,今回の旅行で初めて沖縄の日差しの強さを感じる。沖縄の日差しは強い。たとえ気温は関東とそれほど変わらなくても,日差しの強さは別格だ。何かの光線を照射されて,エネルギーがどんどん吸い取られているような気がする。

  通りを歩いているとすぐにレンタカー屋さんが見つかり,オイラはI井さんに,「ここの店ですね」と言って店内に入る。既に数人のおじさんたちがカウンターで手続きをしていた。受付のお姉さんがおじさんに向かって,ガラス越しに並んでいる車を指し,「どちらの車にしますか」と尋ねている。外にはホンダフィットと日産マーチが並んでいる。ここでおじさんがマーチを選んだら,次の客である我々はフィットに乗れる。ホンダ党のオイラは心の中で「マーチ,マーチ,」とおじさんに念を送った。すると,おじさんは何かが降りてきたかのように,「あの端のヤツ」と言って,マーチを指名したのだった。オイラの心の中ではファンファーレが鳴り響き,万歳三唱した。これで,今日一日フィットで沖縄ドライブ決定だ。後ろのソファーに仲間のおじさんが数人待っているにもかかわらず,わざわざフィットに比べて車内の狭いマーチを選んでくれたおじさんに頬ずりしたい衝動を抑えつつ,ワクワクしながら手続きに臨む。I井さんが係にチケットを渡すと,係の男性は言った。

「うちは○○レンタカーじゃありません。うちは△△です」

    ガーン!!

  この店に誘導したオイラのせいだ。店を出ながらI井さんに謝るが,「とりのせいで恥をかいた」とブツブツ言われてしまった。トホホ。気を取り直して○○レンタカーを目指す。さらばフィット…。

  今度こそ○○レンタカーに行くと,店先にカッコいいスポーツカーや高級車と共に,2台のコンパクトカーが並んでおり,そのうちの1台はフィットだった。我々はレンタカーを借りるために1人千円しか払っていないので,高そうな車のはずはない。ということは,またしてもフィットに乗れる可能性が50%だ。しかも今回はカウンターに客はいない。店の人から「どちらの車にしますか」と尋ねられたらおもむろに,「ああ,今回はあのフィットにでもしようか」と言えばいいのだ。ヤッター!!

  カウンターで手続きをする。オイラはいつでもフィットを指名できるよう心の準備を整える。ところが受付が終わると,「それでは車にご案内します」と言って店のお姉さんが駐車スペースに我々を誘導するのだ。「オイオイ,選ばしてくれんのか」と思いつつ後からついていくと,店のお姉さんはフィットの手前の車のエンジンを掛け,「こちらです」と言った。よっぽど「あ,あのー,フィットがいいんですけど・・・。えへえへ」とか言おうと思ったが,気弱なオイラはすっかり諦めて何か知らない白い車の運転席に座る。…もう何も言うまい。

  「カーナビ付き」ということだったが,首里城を目的地に設定して走り出すものの,此のカーナビ,性格の悪しき事この上なし! なかなか現在地が確定せず,確定後もなかなか自車のシンボルマークが動かないで,突然画面上を一気にジャンプするのだ。そんなお茶目なカーナビのおかげで交差点で曲がり損ねてしまい,道を間違えるが,カーナビは「コースからはずれました」とのたまうだけで,ルート案内のやり直しは無し。むぅぅ…コイツ,お茶目な上に結構クールなとこもあるじゃないか…。しまいには指定ルートが画面から消えてしまった。…ふーん,結構突き放すタイプなんだ。仕方が無いので運転しながら地図を取り出してルートを確認したり,カーナビをあれこれ操作して悪戦苦闘する。その間助手席のI井さんはぼーっと外を眺めておられた。たまに,「こっちの道じゃないですよね」とか,「カーナビのマニュアルがありますよ」とか言うが,手伝う気はないらしい。内心,「I井さんが『首里城に行きたい』っつうからそこに向かうために苦労してるっつうに…」などと考える。

  どうにかこうにか首里城見学者用の駐車場に近づく。が,満車の表示が出ている。オイラはてっきり入場料800円を払って中に入るものだと思っていたらI井さんは,「外周を回って外から首里城が見えればそれでいいから,外周を回ってよく見える所を探してくれ」と言う。それで車は首里城に沿った小道を走り出す。

 

首里城正面から左回りで少し走った所で見えた城壁。

 

  城壁近くにあった休憩所。屋根が沖縄っぽくてイイ。I井さんは車から一歩も降りようとせず,車内から携帯で写真を撮っていた。虚弱体質の方なのだ。それにしても日差しが強烈だ。車のエアコンかけっぱなし。I井さんから,「もう首里城はいいです。あとはとりさんのナツカシの場所に行きましょう」と言われる。1ヵ所に停まっただけなのに,しかもまだ城壁しか見てないのにもう満足なのか,と不思議に思う。まあ,I井さんが「もういい」と言うのならもういいか,と考えて首里城を離れ,オイラが小学生時代に暮らしていた周辺に向かう。

 

  というわけで,オイラがよく来た与儀公園にやって来ました。公園内に展示されているD51。説明によると,このD51は1938年に小倉で誕生。約40年間九州地区を走り,1975年頃ここに来たとのことだ。写真を撮っていたらおばさんから道を尋ねられるが,答えられなかった。

 

  車輪の周りに何匹もネコがまとわり付いていた。I井さんはずっと車内で待っているので,急いで車に戻る。結局20分近く車内に待たせてしまった。車に戻り,「飽きたんじゃないですか」とか,「疲れたんじゃないですか」と聞くが,「全然大丈夫」と言う。「この後地元の店で泡盛を買いたい」というI井さんのリクエストで,某ストアーに行くことにする。オイラが楚辺に住んでいた頃,近所にあっていつも利用していた店だったが,前回来た時にはなくなっていた。ところがたまたま旅行前に地図を眺めていて,楚辺の元刑務所の裏手に「○○ストアー」という文字があることに気が付いた。もしかしたらここに移転したのかもしれない。ということで試しに行ってみることにする。

  ところが,道が狭くて曲がりくねり,車が通れない細い道になったり,突然行き止まりになったり,一通になったりする。カーナビも全然現在地を示さないため使い物にならない。地図には,某マンションのそばにあることになっているが,マンションは見つかるけど地図ではそばにあるはずの場所に肝心のストアーが無い。「こうなったら地元の人に聞くしかない」と,車を降りて,チラシ配りをしているオバーに聞いてみるが,「分からない」と言う。逆にオバーから,何かパーマ屋がオープンだかなんだかというオイラにとってはどうでもいいチラシを握らされてしまった。結局30分くらい小道をさ迷った末に,「○○ストアーはつぶれたのだ」という結論に達し,探すのを断念する。残念。元自宅があった場所に向かう。 自宅向かいの中央公園の脇に車を停めた。I井さんは公衆トイレに行くために,朝レンタカー屋を出てから初めて車を降りた。

  ここに住んでいた時のこと,当時まだ小学生だったオイラはある日,1人で家の前の通りを歩いていた。道端に1台の車が停まっていた。その車の窓が露で真っ白になっていて,オイラはその車の窓に,「バカ」と大書きした。ふと気がつくと,指でなぞって透明になった部分から,車内の人と目が合った。ある冬の早朝の出来事。

  自宅のあった袋小路に入る。当時とは家並みが随分変わってしまったが,まだ当時のままの家も残っている。ある正月の早朝,お向かいさんの2階の壁に軟式ボールをぶつけて遊ぶというファンキーなことをしたため,突然窓が開き,オバーから,「正月だから静かにしてね」と叱られた家もそのままだ。袋小路は今はアスファルト舗装になっている。オイラが住んでいた当時,小道はどこも白いサンゴが敷いてあり,真夏の昼など太陽の強烈な照り返しで目を満足に開けていられないほど眩しかった。

  そろそろお昼だ。I井さんが「昼食に沖縄ソバが食べたい」と言うので,アテはないけど,壷川の坂を下りて大通りに出てみる。大きな沖縄ソバ屋があったが,ちょうど半額セールということで,駐車の順番待ちの車が数台車道まで伸びている。我々もその後ろに並び,しばらく待ってやっと駐車することができた。店内に入ると,座敷とカウンターがずらりと並び,大賑わいだ。座敷の4人用のテーブルに相席して2人でソーキソバ(半額期間中につき300円)を食べた。味は…普通かな。店員は気さくで感じがよかった。会計の列に並ぶと,店のおばさんが客に最後に「にへーでーびる」と言っている。オイラの番になり,おばさんから最後に言われた言葉は,「ありがとうございました」だった。もうオイラはウチナンチューに見えないらしい。泡盛を買いに,行きに目をつけておいた自宅近くのスーパーに戻ることにする。

 

  スーパーに行く途中にあった店。味わいのある外観に思わず撮ってしまった。程なくスーパー到着。スーパーは開店したばかりのようで,大きくてキレイだった。I井さんが泡盛を物色している間に,オイラもここでポークを探す。ポークはあったが,うちの母はせっかく買い物をしてきても,「自分ならもっと安く買えたのに」と得意げに言うのが慣わしだ。この後農連市場にも行くし,そっちで買ったほうが安いかも,と考え,母に電話する。母は,「相場を忘れた。文句言わない」と言うので,ここで買うことにする。冷えた「げんまい」(ドロドロの玄米に黒砂糖を加えたもの。粘度高し)が6本500円台で売っていた。昔から母が作ってくれて慣れ親しんだ飲み物だが,市販のものはまだ飲んだことがない。買って早速車内で1本飲んでみる。家のものとほとんど変わらずおいしい。コレ,初めての人はけっこう好き嫌いが分かれるだろうなぁ。無事泡盛をゲットしたI井さんはげんまいを「おいしい」と言って飲んでいた。群馬県出身のI井さん,オキナワンテイストは今のところ全部OKだ。沖縄っぽいものが嗜好に合っているのか,単にストライクゾーンが広いのか??レジのおばさんにナントゥーはあるか尋ねたが,「無い」とのことだった。スーパーを出て,母校の周辺を見て回る。

 

  本当は中に入りたかったが,「関係者以外立ち入り禁止」になっていたので,外から写す。本当はそんな警告など無視して中に入ってしまいたいが,学校関係で物騒な事件が起きるご時勢だけに,本当に通報されかねないのでやめた。でも後から考えたら,職員室か用務員室に見学の許可を求めればよかった。オイラが通っていた頃とは校舎の位置が違う。当時オイラの学年は1クラス50人で10組まであり,全校生徒数は少なくとも数千人規模だったはず。少子化の今では考えられないスケールだったわけだ。

  毎日土ぼこりの舞う運動場を,スピーカーから流れる「今日の日はさようなら」を聞きながら横切って下校した。あの歌を歌っていたのが森山良子だと知ったのは,社会人になって大分経ってからのことだった。下校時刻になり,陽も大分傾いているにもかかわらず,まだまだ明るい夕日で運動場が黄色く眩しかったことと,風に運ばれる乾いた土の臭い,それにあの曲が今でも強烈に記憶に残っている。当時運動場は果てしなく広かった。

  オイラの家の向かいは当時は刑務所で,高くそびえるレンガの塀がずーっと続いていた。タクシーで自宅に戻る時,沖縄のどこから乗っても,「那覇市楚辺の刑務所通り」と言えば通じた。その後,刑務所が大きな公園に変わった時,「刑務所通り」と言えば通じた。今地元の人たちは何と言うんだろう。

  当時学校の向かいに駄菓子屋が2軒並んでおり,散々買い食いをしてお世話になった。この駄菓子屋は,オイラの自宅と住所がまったく同じで,しかもそのうちの1軒のオバーはオイラの母親と同姓同名だったため,よく誤配があった(そりゃそうだ)。

   急いではいるが,I井さんを炎天下10分以上車の中に待たせてしまった。今回はI井さんから,「とりの行きたいところに行くのがメインの旅行」だと言われていたが,やはり「炎天下に人を待たせている」という意識が常にあり,心からのんびり楽しむことができなかった。グループ旅行のデメリットをつくづく痛感した。

  出発前の計画では,2日目の午前中いっぱい首里城を見学して,午後から楚辺を回る予定だった。前回の旅行の際には,2日目の朝,I井さんは疲れてホテルに残り,オイラ1人で海岸に行ったという経緯もあり,内心,「午前中たっぷり首里城見学をしたらI井さんはグロッキーになり,午後は1人でのんびり楚辺を回る事になるかも」と考えていた。ところが予想に反して首里城見学は早々に終わり,普段自分に関係のないことには一切関知しないI井さんと午前中から午後にかけてずっとオイラにしか関係のない場所を見て回っている。これも予想外の出来事だった。何度か「疲れませんか」とか,「自分には関係のない所だから飽きたんじゃないですか」と尋ねるが,「沖縄の地元の風景を楽しんでますよ」という答えが返ってくるのであった。そうか,そういう楽しみ方もアリなのね…。

  最後に農連に行く。前回行きたくて行けなかった所だ。すんなり到着し,市場の中の用水路の側にスペースがあったので車を停める。お目当ては家族用土産のナントゥーと,オイラのお得意様用土産のちんすうこうだ。まず駐車した場所周辺をウロウロ探し回るが,野菜や肉の売り場が中心で,モチを売っている雰囲気ではなかった。しかし,この野菜を売っている場所が,子供の頃親の買い物の手伝いで来た時のままの雰囲気で,懐かしくて涙が出そうになる。飼っていたウサギの餌にと,野菜クズをもらいに来たこともあったっけ。コンクリやむき出しの地面の上に簡単な台を置き,様々な肉や野菜が並んでいる。市場は肉や野菜の匂い,人々の活気でいっぱいで,ちょうどベトナムやタイの市場の雰囲気だ。行ったことないけど。

  両側に店がひしめき合う,どこまでも続く細道を歩いてみることにした。道は所々で分岐するが,迷子にならないよう,車を降りた場所からの道をひたすらまっすぐ進んだ。時計屋,服屋,食堂,八百屋,果物屋,土産物屋,総菜屋など,いろんな店がごちゃ混ぜに並んでいる。地元の人が普段使うものを扱う飾り気のない店がほとんどだ。ちんすうこうはそこここで売っているが,ナントゥーはなかなか見つからない。食品売り場のある店を覗き込むが,どこにも置いてなかった。それで土産物屋でちんすうこうを買って,店の人に聞いてみることにした。500円のちんすうこうを10箱全部買い占め(でもまだ足りない),店の人に聞いてみる。すると,「この先右側になんとかというモチの専門店がある。そこならあるはず」ということだった。

  ちんすうこうの買い物を済ませ,言われたとおりしばらく進むと,間口は狭いけど,確かに様々なモチが並ぶ店がある。店の前で足を止め,ナントゥーを探すと,すぐに店のオバーが「いらっしゃい」と話しかけてくる。ナントゥーはあるか尋ねると,オイラの目の前にあった。ナントゥーは板状のモチで,独特の香りと味がする。うちの家族はオイラを除き,全員ナントゥー中毒にかかっていて,誰かが沖縄に行くと,必ずコレを買わねばならない掟があるのだ。

  「コレ頼まれてたんですよ」と言うと,「これは市場でしか売ってないからね」とのことであった。カーサモチもあったので中身を尋ねると,黒糖入りということだった。日持ちするか聞いてみると,「数日はもつ。硬くなっても温めれば大丈夫」ということだった。カーサで包んだ手の平大のモチもあったが,これは一両日しかもたないという。カーサモチ2束とナントゥーを2枚買う。袋に包みながらオバーが,「これも食べてみる?」と先ほどの手の平大のカーサモチを一緒に袋に入れてくれた。ナントゥーを買いに随分奥まで来てしまった。大急ぎで車に戻る。途中,洋服屋なのに,洋服と一緒にザルに入れたモヤシを並べて売っている店が何件かあった。洋服とモヤシ・・・すごい違和感だ。店番のオバーがモヤシの芽をせっせとつまんで売っているのであった。

   本当は農連市場こそ写真に撮りたかったが,地元のオジー,オバーの生活の場を興味本位で覗き撮りするような気がして,結局撮れなかった。今日の午後は楚辺の見学と買い物しか計画していない。もう楚辺周辺で見たい所はすべて見たし,2人とも買い物もほぼ済ませた。子供の頃はいっぱしの探検家気取りで,随分遠くまで遊び歩いているようなつもりだったのに,オイラのフィールドはすごく狭かったんだとつくづく感じた。あんなに遠いと思っていた海岸や,那覇空港は,実は自宅からすぐ近くだし,時々用事があって浦添市にバスで行った時にはちょっとした旅行気分だったが,実はほんの隣町だ。

  さて,まだ2時過ぎだというのにやることがなくなった。I井さんにそのことを言うと,「海に行きたい」と言う。海と言われて瞬間的に「ナンミー」を思い出す。ナンミーとは地元の呼び方で,本当は「波の上ビーチ」という。オイラもどんな場所か分からないけど,近場で海を見るとしたらここしか知らない。カーナビで波の上ビーチを見つけ,走り出すが,混雑した道路に翻弄され,また道を間違えてしまい,悪戦苦闘する。むぅぅ,普段は仕事で1日中車の運転をしているというのにこの体たらく…。

   なんとかナンミー到着。昔友達から何度か「ナンミーに行こう」と誘われたことがあるが,実際に来たのは初めてだ。すぐ両脇を那覇港と那覇新港にはさまれた場所だがそれでも海水はきれいだ。地元の若者達にまじってオジーが日焼けしたり,泳いだり,のんびり海を眺めたりしている。ビーチに「ハブクラゲに注意」という看板が立っていた。ハブクラゲの写真と共に刺された場合の応急処置の仕方が書かれていた。泳ぐ場合は,「防クラゲネット」の中でのみ泳ぎ,それでも刺された場合は監視員に連絡するようにと書かれている。サンダル履きだったので,波の中に足を入れる。まだ3時だ。この後どうしようということになる。

  ふと見ると那覇空港がすぐ近くで,旅客機が見える。そういえば,旅行に出発するほんの数日前に届いた「ぼく管」(航空系PCゲーム)の付録の中に,那覇空港の滑走路延長線上の「瀬長島」と,「かでな道の駅」が紹介されていたのを思い出す。距離的に嘉手納が遠いので,先ずは嘉手納に行き,その後瀬長島に行こうということになる。少し海を眺めて車に戻る。運転はI井さん。

   ヤシの木が並ぶ国道58号を嘉手納に向けて走る。左右に軍用地が続き,空が広い。途中I井さんから,「沖縄は日本に復帰できて嬉しかったんですか」と聞かれた。その場では一応I井さんに,自分が感じている点など,要領を得ない話をした。「沖縄の,日本やアメリカに対する感情」についてはオイラはずっと関心を持ち続けてきた。今までに図書館で調べたり,人から聞いたりして,オイラが考えたことなどを,この「’04 沖縄旅行」の最後に載せる。

  「かでな道の駅」到着。道の駅は1,2階がレストラン,土産物屋で,3階が学習展示室。4階が展望場になっている。エレベーターで4階に上がる。受付で氏名,県外から来た,など書き込み展望場へ。 

 

 

  ちょうどMD‐11が離陸していった。展望場は観光客,航空マニアでにぎわっていた。米軍嘉手納基地の滑走路が眼前に延びている。双眼鏡で見ていたI井さんによると,この飛行機には「WORLD」と書かれていたそうだ。どこから来たどういう飛行機なのかまったく分からない。望遠レンズ付きのカメラを三脚に立て,ABLを聞きながら待機していたマニアたちが一斉にシャッターを切っていた。

 

   高い塀に囲まれた嘉手納基地。この後,ハリアーが飛んで来て,滑走路付近でホバリングをしていた。3階の学習展示室に下りる。ここには嘉手納の歴史,基地問題についての資料が充実していた。奥の方には映写室があった。5分ものが2本あり,どちらか自分で選んで見る事ができるようになっていた。 

  2本とも見たが,上映した映画や展示資料によると,日本軍が嘉手納に滑走路を建設したことが発端となり現在の嘉手納基地問題が始まっている。米軍が沖縄に上陸後,嘉手納の日本軍の滑走路を占領,拡充し,後に大型機が離着陸できるよう4,000m級の平行滑走路が2本作られた。余談だが,最近でこそアジア各国に大規模な空港が続々と開港しているので,それらと比べると4,000m級の平行滑走路2本というのはさして大きいというわけでもなくなっているが,つい最近まで嘉手納基地は「アジア最大級の規模」と言われていたのだ。

  終戦になり,元々嘉手納に住んでいた人々は,再び自分達の住んでいた場所に戻れると考えていたが,嘉手納町の実に85%が戦後も米軍の基地として立ち入り禁止となっており,仕方なく残りの15%に身を寄せ合うようにして暮らし,現在に至る。基地内には今も,破壊を免れた先祖代々の墓や住居が残る。住む場所を追われただけでなく,たびたび軍用機が墜落炎上して町民が犠牲になったり,ジェット燃料が地下水に入り込み,汲み上げた井戸水には火がついたり,さらには昼夜を問わず爆音が響き渡るという環境下での生活を強いられ続けた。

  展示室には,「未来の嘉手納」というコーナーもあり,基地が返還された後,広大な土地をどのように使うかについての計画も示されていた。すっかり重い気分になりながら1階に降りると,土産物コーナーには,嘉手納の様々な米軍機の写真が多数販売されており,複雑な思いがした。午前中,在庫が足りなくて買えなかったお土産用のちんすうこうの残りに,大を3,小を2買い足す。ブルーシールアイスがなめたかったが,レストランは閉まっていたので諦める。 

 

  「かでな道の駅」の様子。車に戻ると,「軍用地購入します」と大きく書かれた車が走っていた。どういうことなんだろう。5:15道の駅出発。嘉手納の後に瀬長島に行く予定だったが,この後レンタカーを返して,ホテルで7時から食事があるので間に合いそうもない。道は結構混んでおり,大した距離でないのにやたらと時間がかかってしまった。明日は12:30の飛行機に乗るまで特に予定はなかったが,運転しながらI井さんが,「明日の午前中は別行動にしませんか」と言ってきた。それで明日は行きそびれた瀬長島に1人で行ってみようと考える。

  ところで前回の旅行の際,レンタカー屋さんに車を返しに行ってから,車内の荷物整理,ゴミ捨てをして慌てた苦い思い出があったので,途中ローソンに寄って荷物整理,ゴミ捨てを済ませる(ここで買い物もしたので許してください)。またまた余談だが,今回の旅行中,ローソンをやたら目にした。ローソンはダイエー系列だが,オイラが住んでいた頃から沖縄には「ダイナハ」というダイエー系列の店があった。そんなわけでダイエーは内地企業だが,古くから沖縄に進出してすっかり浸透していたため,ローソンが出店しやすかったんだろうか。地方に行くと,その地方独自のコンビニを見かけることがあるが,今回の旅行でそういうものは結局見なかった。

  レンタカー屋の手前でガソリンを入れ,6時半レンタカー屋さん到着。レンタカー屋でも給油できるが,割高なのだ。スマートに荷物を降ろし,キーを返して,返却手続きはすぐに終了し,モノレールの駅に歩き始める。ところで「スマートに」と書いたのだが,ローソンで荷物整理をしていて重大な問題が発生していることに気がつく。オイラの荷物がスゲーことになっている。ちんすうこうが小12箱,大3箱。ポークの缶詰が8缶で3キロ分あり,あとはカーサモチとナントゥーもあり,其の重さ筆舌に尽くし難し!I井さんに袋を1つ持ってもらった。お土産だけでこんなになるなんて,明日の帰りは一体どうなるのか。ヨロヨロとモノレールの階段の上り下りをしながら不安になる。

  6:50ホテル到着。1階のローソンで宅急便の取次ぎをしていることを確認する。すぐに11階のレストランで夕食。1番奥の角のテーブルに案内される。既にテーブルにはたくさんの器が並んでいる。窓から国際通りの夜景がよく見えた。明日の昼には機上の人だ。次に沖縄の夜景が見られるのはいつのことだろう。

  朝食がチープだったので大して期待してなかったが,すごいご馳走だった。ご飯はお櫃でお変わり自由。フのお吸い物,ラフテー,白身魚のから揚げ,初日のステーキ店で食べたのよりもおいしいステーキ,その他,忘れてしまったけど,小鉢に山海の珍味が文字通りずらりと並んでいた。デザートはゴマ団子1個。

  7:40部屋に戻る。今日も1階のローソンで酒を買う。I井さんは昨日と同じオリオンビール。オイラはシークワーサーの小さいチューハイを買う。I井さんがシャワーに入っている間に荷物整理をする。この時,農連で買ったモチの袋の中から,オバーがおまけにくれた手の平大のモチと一緒に「コンパン」と書かれた丸いクッキーのようなものも一緒になって出てきた。オバーがオイラに気がつかないようにそっと袋に入れてくれたのだ。オバーありがとう。手の平大のモチは日持ちしないので,今日明日中に食べる必要があるとのことだった。草の包みを開くと,独特の香りがする。少し甘くて粘り気のないモチだった。I井さんにも勧めるが,I井さんは夕食の時,テーブルに運ばれたお櫃を見て火がついてしまったらしく,多分4回位お替りしてご飯を食べ尽くしてお櫃を空にしたため,「今は何も入らない」と言う。そりゃそうだ,無理もない。げんまいも4本残っていたので,1本はオイラが飲み,もう1本とおまけのモチはI井さんに勧める。

  あんまり荷物が多いので,大きなバックにお土産類を詰め込み,宅急便で送ろうかと考える。ちんすうこうの箱だけで大きなバックの8割が埋まってしまっている。これじゃ,まるでちんすうこうの運び屋だ。これでも数を絞り込んだのに…。空いたスペースにポーク,モチ類を入れるともうパンパンだ。僅かに余ったスペースと外ポケットに更にいろいろ詰め込んで試しに持ってみると,「自分で持てるかも」と思えるような重さだった。試しにもう1つのスポーツバックに荷物の残りの着替え,靴,機材類の箱,書籍類を詰めてみる。本当はサブのスポーツバックにお土産を入れようと考えていたのだが,すっかり逆転してしまった。

  荷物詰めの途中でI井さんがシャワーから上がったので,オイラも入る。シャワーから出て,酒を飲みつつ再び荷物詰め作業を続ける。スポーツバックに残りの荷物を全部入れてみると,すっきり収まった。試しに両方の荷物を持ってみる。この重さなら何とかなりそうだ。宅急便を使うと,多分数千円はするだろうし,旅行から帰った翌日からオイラは仕事が続くので,荷物の受け取りが煩わしい。それに長い移動でお土産の箱がつぶれるかもしれない。もちろん自分で運んでも,空港では荷物を預けることになるが,ダメージははるかに少なくて済むはずだ。そう考え,やっぱり自分で運ぶことにした。後日インターネットで調べたら,沖縄から埼玉まで,この大きさで料金は2,840円だった。

  明日は瀬長島でATCを録音しようと考えていたので,朝空港で荷物をカウンターで預けてから羽田に着くまでの間に最低限必要なものだけをハンドバックに入れることにする。それまで旅行の記録は手帳につけていたが,必要な周波数を紙に写し,その紙の裏面に旅行の記録をメモすることにした。空港から瀬長島までの地図が載っているガイドブックも,そのページだけ破って使うことにした。荷物の問題は何とかなったので,ベットで腹ばいになって地図を眺めながら明日の午前中の予定を考える。

  ホテルのエレベーターに張り紙がしてあり,翌朝レストランは7時から8時まで非常に混雑するので,その時間をはずして欲しいと書いてある。レストランが開くのは6:30なので,開店と同時に食べるか,8時以降に食べるかのどちらかだ。I井さんと朝食を何時に食べるか相談する。仮に8時から食事にすると,8:30食事終了,9:00チェックアウト,9:30那覇空港到着で,手続きを済ませ,荷物を預けると,多分10時前になる。飛行機は12:30出発なので,遅くとも12:00には空港に戻らないといけない。そうすると,自由時間は2時間しかないということになる。これでは時間が短すぎだということで,朝食は6:30からということに決まった。

  6:30に朝食を取れば,約3時間半自由時間になる。3時間半で瀬長島に行って,確実に帰ってこれるだろうか。「ぼく管」の付録には瀬長島までの行き方として,「バスターミナルからバスで行き,最寄のバス停から徒歩20分」とある。この行き方はバス停までの移動が面倒だし,時間が読めないので却下。地図で距離を測ると,那覇空港ターミナルから瀬長島まで,道路での距離は7キロほどだ。徒歩だと約2時間。これだと,徒歩で往復するだけで時間オーバーだ。それに瀬長島に行った後,昼食にちょっと寄り道して,前回は入りそびれたJefという店でハンバーガーも食べたい。空港に貸し自転車があればいいんだけど,タクシーを使って瀬長島まで行っても,無人島にタクシーが来るはずないしなぁとか,それならタクシーに「1時間後にまた来てください」と頼もうか,とか,いっそのこと瀬長島は諦めて,ハンバーガーだけ食べに行って,後は空港の展望デッキでATCを録音しながらゆっくり過ごそうか,とかいろいろ考える。10時頃眠くなったのでベッドに入るが,横になりながら,いろいろシミュレーションする。


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コメント 6

楚辺に今もいます(^^)

小学校の向かいの駄菓子や懐かしいです、24年前に授業中、抜け出して
買いに行かされました(^。^;)
樋川もよくバイクで通りますが、大して今も変わりません【時間が止まってる感じ】 では、また遊びに来ますね!
by 楚辺に今もいます(^^) (2007-05-27 17:59) 

とり

楚辺に今もいますさん、めんそ~れ~!!ヽ(*´ヮ`)ノ
あきさみよー、でーじ嬉しいやっさ~。
楚辺の方からコメントいただいたのは初めてです。
>向かいの駄菓子屋さん
アハハ、授業中にですか~。すごい話ですね。(^^;
オイラはもっぱら新里屋ばっかりでした。うぅ、懐かしいなぁ。
>樋川
あまり変わっていないとのこと、嬉しいなぁ。
また是非来てください。楚辺のこと、いろいろお聞きしたいです。
お待ちしておりますよ~^^)/
by とり (2007-05-27 20:02) 

楚辺に今もいます

実は・・・母方が新○なんですよ、このあたり、多いですよねぇ~(笑)
さしみさんは、妻の同級生の男の子の親が経営してたらしいです_(^^;)ツ アハハ
ではでは、また。
by 楚辺に今もいます (2007-05-28 13:05) 

とり

楚辺に今もいますさん
>母方が新○
なんかもうバレバレの感もありますが・・・おお、そうでしたか!
同じクラスに1人はいました~。
>さしみさん
すごいつながりですね~。
大きな声では言えませんが、実は新○はオイラの苗字です。

1つお聞きしても宜しいでしょうか?城岳小学校近くにあった、おおはらストアーはどこかに移転したのでしょうか?オイラが住んでいた頃、散々お世話になったので、すごく気になってます。
でわ~ノシ
by とり (2007-05-28 19:46) 

楚辺に今もいます

おおはらストアーですか!
【私はお客さんじゃなかったのでどうなったのか?わかりませんが・・・】
妻が昔、デートの待ち合わせに使ってた場所らしい(^。^;)
詳しくは後で妻に聞いてみます・・・何か分かったらココにまたカキコしますね(^^)では、また。
by 楚辺に今もいます (2007-06-07 10:34) 

とり

楚辺に今もいますさん
おおはらストアーでデートの待ち合わせですか。いいなぁ。(o ̄∇ ̄o)
もし分かりましたら是非教えてくださいませ。m(_ _)m
by とり (2007-06-08 06:02) 

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