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太平洋無着陸横断への挑戦 [├場所]


(公式サイトから。下記リンク参照)

青森県三沢市淋代海岸。

かつてここは太平洋横断の舞台となった。

これは,1930~32年にかけて行われた5組の男たちによる挑戦の記録である。
                                         (○ロジェクトX風)

 

1組目の挑戦者:ブロムリー,ゲッティー/タコマ市号

1930年8月
 8日 飛行機と共に横浜港に到着。霞ヶ浦飛行場を出発地に決定する。
19日 霞ヶ浦飛行場到着。
30日 離陸失敗(重量過大のため離陸速度に達せず)。
    →周囲に障害物がなく,大圏コース(後述)の場所を探すことにする。

1930年9月
 3日 青森県三沢村周辺を調査。淋代海岸を使用することに決定。 
 7日 タコマ市号 淋代海岸に着陸。
14日 淋代海岸を離陸。悪天候とエンジン故障による排気ガスの機内入り込みにより,横断を断念,引き返す。
15日 濃霧により方向感覚を失い,青森県下北郡尻労海岸に不時着。
17日 再挑戦のため,再び淋代海岸に戻るが,ガス中毒の後遺症が回復せず,計画を断念。
29日 飛行機を淋代海岸から立川飛行場に移動。格納庫にて保管。

1930年11月
21日 ガス中毒後遺症のため静養中のゲッティーを残し,ブロムリーは帰国。
   出港の際「来年3月に再挑戦する」と述べる。

アメリカ製エムスコ機"タコマ市号"
450馬力 最高時速209km
航続時間約50時間

 

2組目の挑戦者:トーマス・アッシュ/パシフィック号

1931年4月
11日 1組目の挑戦者が使用した機体の使用権を得る。
         中島飛行機技師らと共に機体の修理と整備を行う。
21日 朝日新聞社に懸賞金挑戦の申し込み。宿泊先の帝国ホテルにて横断計画の正式発表。

1931年5月
 7日 青森県到着。村長から淋代海岸を案内される。
29日 立川飛行場から淋代海岸へ機体を移動。翌30日に出発することを決定。
30日 悪天候のため出発できず。
31日 離陸を試みるも,回転数上がらず離陸に失敗。

1931年6月
 1日 性能不足を理由に計画断念。
 3日 機体は再び立川へ戻され,保管される。

 

3組目の挑戦者:モイル,アレン/クラシナマッジ号

1931年8月
  6日 横浜港に到着。1組目,2組目が使用した機体の改造に着手,8月末に完成。
31日 初試験飛行。

1931年9月
  3日 日本航空輸送の格納庫にパングボーンら(4組目の挑戦者)を訪問する。 
  5日 立川から淋代に機体移動。
  6日 天候不良のため離陸断念。
  7日 天候不良のため離陸断念。
  8日 淋代海岸を離陸。燃料漏れ,悪天候により,横断を断念。
  9日 無人島に不時着。
12日 無人島を離陸し,ベーリング海西岸,ロシア領マイノビリグインに着陸。
14日? マイノビリグイン離陸。

1931年10月
 7日? タコマ市に着陸(3度目の挑戦で機体は一応アメリカに戻った)。

 

4組目の挑戦者:パングボーン,ハーンドン/ミス・ビードル号

1931年8月
 6日 ハバロフスク飛行場より立川飛行場に飛来。飛行許可を得ずに飛来したため,取調べを受ける。
    許可が下りるまでの間機体の改造を行う。

1931年9月
 27日 機体改造後,初の試験飛行。
 29日 機体を立川から淋代に移動。

1931年10月
 4日 7:01 淋代海岸を離陸。
 6日 0:14(日本時間) アメリカ ウェナッチに着陸。
      太平洋無着陸横断 記録達成
      所要時間:41時間13分

 

5組目の挑戦者:本間,馬場,井下/第三報知日米号

1932年9月
 10日 羽田飛行場から淋代海岸に着陸。
          滑走路の整備を行い,出発日を15日に決定。
 15日 悪天候のため出発断念。その後天候回復せず,出発が大幅に遅れる。
 24日 淋代離陸。間もなく通信途絶。遭難と断定。機体,遺体共に発見できず…

 

その他追加

 5組以外の挑戦: 
  某アメリカ人が米国からの無着陸横断を発表。また,日本人による無着陸横断,島伝いの横断がいくつか企画されたが,いずれも実現しなかった。また,1組目の挑戦者の1人であるブロムリーは,1929年7月29日に,ワシントン州タコマ飛行場からの無着陸横断を試みたが,離陸に失敗。機体は大破してしまう(日本人による達成者が出たら,絶対”プロジェクトX”で紹介されたと思う)

8.png
「22.飛行家「ジョン・エム・ワード」飛行関係」JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.B10074785100、各国人ノ航空関係雑件/米国人ノ部 第4巻(F-1-10-0-4-1_004)(外務省外交史料館) 

ジョン・エム・ワードなる飛行家から「淋代から飛びたい」という申請書が出ていました。

 

 淋代海岸が選ばれた理由: 
   特に青森県が選ばれた理由として,地球が球形であることを考慮に入れた最短コース(大圏コース)であることが挙げられる。本当は北海道の方がさらに有利だったが,太平洋無着陸横断の懸賞金を得るための条件の1つに,「日本は本州内を離着陸地とすること」という条項が含まれていたため,本州では最も米国に近い大圏コースとなる青森が選ばれた。
  その青森県でも特に淋代海岸が選ばれた理由としては,2,000メートルの滑走路が十分に取れ,起伏もほとんどないこと,陸から流れた粘土と,海岸一帯に層を成している砂鉄が交じり合い,波打ち際まで固い岩盤を形成しており,ハーフ・ベイクド・クレイ(=半焼粘土)と形容される状態であった。整備すると容易に滑走路を作ることができること,給油などの手配が容易であること,などが挙げられる。

 

  淋代海岸が選ばれた経緯: 
  日本側からの横断を最初に試みたのはブロムリーとゲッティーだった。2人は当初,出発地として立川飛行場,霞ヶ浦飛行場を計画していた。しかし長距離飛行のために燃料を満載にすると,滑走路が短すぎて離陸できないことが判明する。そのため別の飛行場を探すことになる。
  当時立川飛行場にいた所長が自ら飛行した経験から,青森県八戸市から野辺地町にいたる海岸線周辺に白羽の矢が立つ。さらに所長はつてを頼り,青森県十和田市在住の元海軍航空隊所属の少佐を紹介してもらい,この少佐の尽力により周辺のいくつかの候補地の中から最終的に淋代海岸に決定した。
  この飛行場の名称として幾つかの案が出たが,最初に淋代からの飛行を行ったブロムリーとゲッティーは,「少佐が見つけてくれた飛行場だから」ということで,少佐の名前に因み,「大田エアポートがいい」と主張して譲らなかったという。

 

  記録達成の経緯: 
  それまでの3組が最初から太平洋横断挑戦のために来日したのに対し,ミス・ビードル号で太平洋横断無着陸飛行に成功した2人(クライド・パングボーンとヒュー・ハーンドン)は,当初世界一周の最短記録に挑戦していた。しかしハバロフスクに到達した時点で時間遅れのため,挑戦を断念する。ハバロフスク滞在中に偶然太平洋横断に懸賞金が懸かっていることを知り,急遽予定を変更し,来日。
  日本から正式の許可が下りるまでの間,機体の航続距離を伸ばすための改良を施した。尾輪式の大きな前輪は,離陸後に支柱もろとも落下できるようにした。車輪を切り離すので胴体着陸になるが,胴体も衝撃に耐えられるよう改良を施す。さらに,燃料を余分に200リットルつめるようにした。1931年(昭和6年)10月4日午前7時1分,淋代海岸を離陸。41時間13分の飛行の後,米国ワシントン州・ウェナッチに無事着陸した。

 

  三沢村について:
  いくつか資料を見たが,金さえあれば大抵のものはそろってしまう現代とは異なり、非常に不便な当時のことであり、当時の三沢村の人々の多大な協力なしにこの記録は達成できなかっただろうということをつくづく感じた。食事,宿泊等身の回りの一切の世話を行ったが,わざわざ西洋風料理の勉強までして食材を取り寄せ,食事を提供するという歓待ぶりだった。また村長の呼びかけのもと,離陸挑戦のたびに村の人々が総出で海岸の転圧整備を行い,離陸可能な状態にしている(まさか10年後には敵同士になろうとは…)。離陸機にはフライト中の食事も積み込まれたが,その中に地元のリンゴも含まれていたという。後日,米国側から感謝の印としてリンゴの苗が送られた。この苗は農業試験場で現在も実をつけているという。最近になって三沢市と着陸地であるワシントン州ウェナッチ市は姉妹都市となった。

 

「ミサワ航空史」

三沢に飛来した航空機たち 3p
 アメリカ人のクライド・パングポーンとヒュー・ハインドン両飛行士はアメリカを出発し大西洋を横断する世界一周早回り飛行の記録更新にべランカCH300スカイロケット"ミス・ビードル号"で挑戦中でしたが、ハバロフスクでの着陸時ぬかるみに突っ込み機体を破損、記録達成は絶望的となってしまいました。
 失意の二人はこの地で、日本の朝日新聞社が最初の太平洋無着陸横断飛行に25,000ドルの賞金がかけられていることを知り、直ちにこの記録に挑戦することを計画しました。
 しかし、時は満州事変直後であり外国人(特にアメリカ人)による日本への飛行には、特別の許可が必要でした。なかなか許可が下りず、待ちきれない二人は無許可のまま8月6日にハバロフスクを出発し、函館経由で下北半島から太平洋側の海岸線を南下し工事中の羽田飛行場に着陸しました。(後に立川飛行場に移動)
 無許可で日本まで飛行した彼らの行為は、1不法入国。2航空法違反。3要塞地帯法違反。(太平洋岸の美しい景色を16ミリカメラで撮影していた。)であり、スパイ容疑により身柄を拘束されてしまいました。
 直ちに裁判が行われ、一人2,050円の罰金刑に処せられました。(1,000円で一軒家が買える時代、今日の4,000万円以上の金額)
 元々富豪のハインドンにより難なくこの罰金は支払われ、正式に朝日新聞の懸賞に応募すると同時に太平洋横断飛行許可願を航空局に提出しましたが、スパイ容疑のあった彼らに対して日本の役所は冷淡で許可はなかなか下りませんでした。
 ところが、幸運にも丁度その時期に大西洋無着陸横断を果たした英雄リンドバーグがアン夫人を伴って来日(ロッキード・シリウス水上機で8月26日、霞ケ浦に到着していた)中であり、ミス・ビードル号の事を聞いたリンドバーグは日本政府に善処を陳情し9月19日、やっと許可が下りました。
 許可の下りるまでの間、燃料タンクの増設や、車輪を離陸後投下できるように改造したビードル号は9月29日、立川からより長い滑走路を求めて淋代海岸に着陸しました。
 
 そして、昭和6年(1931年)10月4日午前7時01分、淋代海岸を大勢の村民に見送られて離陸した"ミス・ビードル号"は行程7,910キロメートル、飛行時間41時間12分、平均速度192キロメートル/時で、日本時間6日午後0時11分、アメリカのウェナッチ市郊外に胴体着陸し、世界初の太平洋無着陸横断の大偉業は成し遂げられました。
 この成功には、淋代村民が斜面に杉板を敷き詰めた臨時の滑走路を造ったり、淋代村長が自宅を宿舎に提供したりの日本人の手厚い協力がありました。また、満タンの燃料に加え、二ヶ月分の食糧(バター・チーズ・コーヒー・黒パン・リンゴ・鳥の丸焼き等)が村民の好意で積み込まれた事や、成功の知らせが三沢に届くと、祝電を打つため臨時村議会を招集して予算支出を決めるという騒ぎまであったと記録にあります。
 また、抵抗を減らすため離陸後太平洋上に投下した主脚は、約半年後アメリカの海岸に漂着し機体と同じく太平洋を横断した等のエピソードは今も語り継がれています。
 この太平洋横断飛行の成功は両国の距離を著しく短縮し、日米両国の間に大きな友情の輪をかけましたが、折しも日米の関係は悪化の一途をたどり、リンドバーグの大西洋無着陸横断飛行を上回る快挙を挙げながらも、歴史からは抹殺され続け、忌まわしい太平洋戦争終結から60年以上が経過した現代でも一般にはあまり知られていない事は残念です。
 だからこそ、ここ"青森県立三沢航空科学館"の目玉として実物大のレプリカが展示されていることに大きな意味があるのです。

 

日本人の挑戦者を主体とした記事が「南国イカロス記 かごしま民間航空史」133p以降に記されていました。

以下引用させて頂きます。

太平洋逆横断飛行計画
偏西風つき米側から
 昭和六年(一九三一年)十二月十日、報知新聞社は「太平洋横断三大飛行計画」を公表した。
 第一計画-吉原清治一等飛行機操縦士(佐賀県)が操縦する英国製水陸両用飛行艇「報知日本」
号による北太平洋逆横断飛行計画」。途中八回の着水をする。昭和七年四、五月ごろ実施。
 第二計画-予備役海軍中佐・本間清機長(新潟県)、馬場英一郎一等飛行機操縦士(滋賀県)が操
縦する独逸国製陸上機「第三報知日本」号による北太平洋横断飛行計画。青森県の淋代海岸出発
後、一ないし二回、途中着陸する。時期は第一計画と前後して行う。
 第三計画-予備役陸軍航空兵大尉・名越愛徳(鹿児島県)、予備役陸軍航空兵特務曹長・浅井兼
吉(静岡県)両操縦士による『シャートル-東京間九千キロメートル無着陸世界最初の太平洋逆
横断飛行』計画で、実施時期は昭和七年春。
 計画書の逆横断飛行というのは、アメリカから日本へ飛ぶことである。また「無着陸世界最初
の太平洋逆横断飛行」としたのは、この計画を公表する二か月前の十月四日から五日にかけて、
アメリカ人バングボーンとハーンドン両名によって、淋代-北米ウエナッチ間世界最初の太平洋
横断飛行が成功したばかりで、その逆はまだ行われていないからである。
 名越愛徳(なごや・よしのり)も浅井兼吉も、報知新聞社の太平洋横断飛行計画に参加するため、
みずから現役を退いて予備役編入となったのであった。 
 名越愛徳について述べる前に、これまでの太平洋横断飛行計画にふれておく必要がある。
 報知新聞社の計画公表より四年半前の、昭和二年(一九二七年)五月二十日から二十一日にかけ
て、アメリカの無名青年飛行家リンドバーグが、ニューヨークからパリまで大西洋単独無着陸横
断飛行に成功し、一躍「英雄」となった。
 六日後の五月二十七日、日本では東京・九段の偕行社で、第一回航空懇話会が催され、七十余
人の著名人が参列した。その席上で太平洋横断がはじめて話題にのぼったが、一か月足らず後の
六月二十三日、帝国飛行協会が正式に太平洋横断飛行計画を公表した。それを受けて二社が名乗
りをあげたが、最終的には川西機械製作所飛行機部が残り、同社の製作機を、姉妹会社の川西・
日本航空(株)のパイロットが操縦して太平洋を横断することになった。しかしあくる昭和三年二月
二十九日、監督の後藤勇吉一等飛行機操縦士(宮城県)が長距離航法訓練中に殉職、四か月後の七
月七日帝国飛行協会太平洋横断飛行実行委員会は、使用予定の川西式K-12型機が性能不足のた
め太平洋横断飛行は不可能と判断、その声明書を四日後の十一日に公表した。
 日本における計画とは別に、アメリカでも太平洋横断飛行計画が進められていた。昭和三年に
タコマ市の材木商ジョン・パフレンが計画を公表、まずハロルド・プロムリーがそれに応じ、タ
コマ飛行場から出発しようとして失敗した。間もなくブロムリーは、高空では常に偏西風が吹い
ているので、日本からアメリカに向かって飛ぶのが有利だと判断、飛行機を携えて来日した。し
かしプロムリーは昭和五年九月、青森県・淋代海岸を離陸はしたものの、下北半島に不時着挫折
した。
 翌六年(一九三一年)二月十一日、報知新聞社は吉原清治の「報知日米」号による太平洋横断飛
行計画を公表した。五月四日、吉原清治は東京・羽田の海老取川を離水して北上。青森、北海道
を経由して太平洋上に乗り出したが、新知島(しんしるとう)で遭難した。

スピード記録男・名越
新知島で遭難した「報知日米」号の代替義として、報知新聞社は「第
2報知日米」号を根室に送ったが、波浪のため損傷し、吉原清治の太
平洋横断計画は中断した。
 一方、アメリカ組も、五月三十一日「パシフィック」号が淋代を離陸出来ず断念。九月八日
「クラシナマッジ」号が淋代を離陸、二十一時間飛んだものの途中で不時着し、断念した。
 下志津陸軍飛行学校教官である陸軍航空兵大尉・名越愛徳(なごや・よしのり)が、報知新聞社長
・野間清治を訪れたのは、吉原清治の「第2報知日米」号が損傷してから一か月足らず後の七月
十日であった。
「自分は現役将校でありますが、かねてから国際大飛行を敢行する意図を有し、これまで適当な
後援者を求めておりました。今夏は、全世界の目が太平洋にそそがれております。わが国で、こ
の大飛行に理解を有していられるのは、野間社長をおいて他にはありません。つきましては、ぜ
ひとも自分の計画を後援していただきたいのであります」
 と名越愛徳は熱意を披露した。名越の報知新聞社訪問は、引き続き二十八回にも及び、野間社、
長も心を動かされた。報知新聞社側の記録によると、名越愛徳大尉の『手腕技術力量共に卓絶。
加ふるに、豪■にして細心、沈勇にして果敢、寔に当代に得難し、陸軍の至宝とも謂ふべき優秀
なる青年飛行将校であることが明瞭となったので』、太平洋横断三大飛行計画の一つとして公表
することに決めた。
 計画打ち合わせのとき、野間清治社長が、この飛行の目的は日米親善にあるのだから、なるべ
く日本から飛んでもらいたい、と希望した。すると名越大尉は、
「自分は前人未到の事業に進むことを念願としてやってきました。本間中佐が日本から飛ばれる
と聞き及んでおりますので、自分にはぜひとも米大陸から日本への逆コースを飛ばさせていただ
きたい」
 と切望し、野間社長の了解を得た。なお名越大尉より一つ年下だから三十二歳の浅井特務曹長
も、名越と意気投合して共に現役を退き、民間人としてこの計画に参加することになった。二人
は、報知新聞社の公表より一か月早い昭和六年十一月十四日、横浜出帆の客船で渡米した。シヤ
トルに上陸すると、出発飛行場の選定をしてから東部に向かい、デラウエア州ニューカッスル市
のべランカ航空機製造会社を訪れた。同社製べランカ単葉スカイロケット機「ミス・ヴィード
ル」号は、同年十月四日から五日にかけて、バングボーン、ハーンドン二人によって淋代-ウエ
ナッチ間七九一〇㌔を四一時間十分で、初の北太平洋無着陸横断飛行に成功した機体である。
 名越愛徳は、社長・べランカ博士といろいろと意見を交換した後、ミス・ヴィードル号よりさ
らに長距離を飛行できる機体の製作を依頼した。機体が完成するまで、二人はべランカ単葉機の
同型機で訓練を開始した。(中略)
 (名越大尉は)第十五期生として所沢陸軍飛行学校に入校した。大正十四年航空兵大尉に任官し、
下志津陸軍飛行学校教官となった。
 大正十三年(一九二四年)、名越愛徳中尉はスピードの日本記録を樹立したが、そのころすでに
雲上飛行の第一人者といわれていた。その後、下志津-大連間四二〇〇㌔の長距離飛行に成功し
た。飛びはじめてから九年間に千二百余時間飛行しながら、車輪ひとつパンクさせたこともなく、
陸軍部内で無事故の記録を持つ青年将校であった。

出発直前無残な墜死
名越愛徳と浅井兼吉が太平洋逆横断飛行に使用するべランカ単葉機の、
プラット・アンド・ホイットニー・ワスプ四五〇馬力エンジンは「ミス
・ヴィードル」号と同じだったが、燃料を一二〇㌎も多く積むことが出来、航続距離も九一二〇
㌔と伸び、設計者のべランカ博士が、ニューヨーク-日本間無着陸横断も可能だと保証した。同
機が完成したのは昭和七年(一九三二年)三月二十一日で、真紅の胴体に黒で「報知日の丸」号と
書き込まれた。陸軍大臣・荒木貞夫の命名であった。
 試験飛行は、べランカ航空機製造会社の主任操縦士チャードリックによって行われ、名越愛徳
が同乗した。機体の安定、操縦性能ともに申し分なかった。当日、わざわざ見学にやってきたヒ
ュー・ハーンドンが「ミス・ヴィードル号より優秀だ」と感嘆した。
 八日後の三月二十九日のことである。名越愛徳は、偏流測定器をもう一個とりつけるため、フ
ロイド・ベネット飛行場からべランカ航空機製造会社に飛んで行くことになった。要件がそれだ
けなので、名越は単身で赴くことにし、浅井兼吉が地上でプロペラまわしをしてから始動、十分
間ほど暖機運転をした後、離陸滑走に移った。一〇〇㍍ほどの滑走で離陸上昇、およそ七、八〇
㍍の高度に達したとき、不意に機体が大きく動揺したと思うと、突然、飛行場から四〇〇㍍隔た
った泥沼に墜落、炎上した。
 飛行場からは軍人や警官が駆けつけ、水泳の達者なターナー曹長が、ガソリンが水面にひろが
って燃えさかる中に飛びこみ、変わり果てた名越愛徳を水中から引き揚げた。浅井兼吉もまた、
狂ったように沼の中に飛びこもうとしたが、大勢の米国人にせきとめられて果たせず、引き揚げ
られた遺骸を抱いて男泣きに泣いた。名越愛徳、享年三十三歳。
 事故原因は、ついに解明することが出来なかった。ともかく、あまりにもあっけない最期で、
それだけに渡米に先立って語った言葉が胸をうつ。
「自分と一緒に、士官学校時代に飛行将校を志した者が四人いた。河崎、浦、宮本と自分で、四
人が四人そろって当時の航空本部長・井上幾太郎将軍にすがって、首尾よく飛行将校となること
が出来たが、今は此の三人ともみな殉職してしまった。まず、宮本中尉が大正十二年八月真先に
所沢で殉職、越えて十三年七月、浦中尉が明野ヶ原飛行学校で殉職、河崎中尉は最も勇敢であっ
たが、昭和三年八月、台湾の屏東飛行場で殉職。残るは幸運にも自分一人となったが、今度とい
う今度は、太平洋横断だ。首尾よくし遂げればよし、しくじったら太平洋の藻屑となって、地下
の同僚三人に最近の飛行界の話でも聞かせてやるつもりだ。それにしても、土産話は精々努力し
たものでないともって行けない」
 また福岡県三井郡大城村の実家で、夫の帰国を待ちわびていたヤエヨ未亡人は、報知新聞記者
に次のように語った。
「飛行機の調子も大変よいからと申して参りまして、四月にでもなったら、何時出発するか知れ
ませんので、上京致したいと思っておったところです。試験飛行中にこのようなことになろうと
は思いませんでした。せめてこれが横断の途中であってくれたらと思います。主人は出発に際し
て、私にも覚悟はしておくようにと申しましたが、『何しろ、自分は十年以上も飛行機に携わっ
ているが、今度という今度は男らしい仕事が出来る。この飛行機でやれなかったらやる者がない。
きっと飛んで帰るから…』と喜び勇んで参りましたのに、誠に残念です。それにしても浅井さ
んが無事でおられて何よりでした」
 太平洋横断飛行の第一計画、吉原清治は二か月足らずの後の五月六日オークランドで転覆大破、
第二計画の本間中佐らは六か月後の九月二十四日淋代を出発した後、消息を絶ち、報知新聞社の
三大飛行計画は挫折した。

関連サイト:
ミス・ビードル号公式サイト 
三沢国際クラブ   

この記事の資料:
「ミサワ航空史」
「南国イカロス記 かごしま民間航空史」


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