SSブログ

とり日記 [■ブログ]

オイラの仕事はお得意先回り。

一般家庭やお店などを回ります。

 

ある日のことです。

あるお宅で普通にお客さんとやり取りをしていると、

小さい女の子が物陰に隠れて目だけ出しながら恐る恐る、

「あの…犯人ですかぁ?」

と尋ねてきました。

 

まあ普段は遠くに出掛けてって人んちの畑とか古いコンクリの物体撮ったりして十分怪しいのは認めるけどさ。

仕事中のオイラはそんな正体はひた隠しにしてて、今はそんなに怪しくないつもりなんだけどな。

おじょーちゃん、オイラ怪しい? 犯人みたい??

奥さんが笑いながら教えてくれました。

ほんの数時間前、近くで何か事件が発生して犯人がまだ逃走中なのだそうです。

そういえばパトカーが何台も走ってたっけ。

 

 

もう1つ。

得意先の病院での出来事です。

出入り口のところに小さい男の子が立ち尽くしてます。

通れません(邪魔だなぁ…。親は?)。

男の子がオイラを見上げ、言いました。

「チクンてする?」

色素の薄い白人みたいな男の子でした。

見上げた大きな瞳はまるで池のよう。

はうぅ、かわいぃ~!><

(な、なんかこう、安心すること言わなきゃ。なんかこう…)

「ん、ん~。ん~~。…。…。…ど、どうかねぇ~」

 

 

アドリブ利かネェ~~!! _| ̄|○ il||li

 

おわし。


コメント(22)  トラックバック(0) 
共通テーマ:日記・雑感

新田(生品)飛行場跡地 [├空港]

  2009年5月訪問 2022/12更新  


無題3.png
撮影年月日1947/10/27(USA M606 36) 
出典:国土地理院ウェブサイト(地理院データを加工して作成)


群馬県太田市新田市野倉にかつて「新田陸軍飛行場」がありました。

兵器の主力は戦艦から航空機の時代へ移行し、陸軍内部でも航空機の増強が叫ばれ始め、

飛行機の操縦者を大量に養成する必要が出てきました。

操縦技術を習得する専門学校として1935年に熊谷陸軍飛行学校開校。

その実習地として選ばれたのが当地区だったのだそうです。

 

因みにここから北北西6.2キロのところに前記事でご紹介した桐生愛国飛行場が、

そしてここから南東11.2キロのところに太田小泉飛行場がありました。

それぞれ成り立ちの異なる飛行場なのですが、すごい密度ですね。

飛行場は上図の周囲の道路などまったく無視した四角の地割部分がそれです。

一辺1.6キロという広範囲に渡って周辺と45度のズレがあるため、

地元の方でも方向感覚を狂わされるそうです。

余談ですが、群馬県といえば「かかあ天下と空っ風」。

この「空っ風」とは、当飛行場の北西(飛行場の向きのほぼ延長線上)にある

赤城山から吹き降ろす強風のことで、この赤城颪などを考慮したためにこんな向きになった。

という話があるのですが、陸軍の方形の飛行場って、全国的にこんな向きが多いんですよね~。

■防衛研究所収蔵資料「陸空-本土防空-48飛行場記録 内地(千島.樺太.北海道.朝鮮.台湾を含む) 昭19.4.20第1航空軍司令部」

に 新田飛行場(昭十八・七・六) 地図がありました。

先頭のグーグルマップ、四角の飛行地区が道路でほぼ半分になってますが、これは同資料の地図から作図しました。

西側が850mx1,600m、東側が750mx1,600m(東部の施設区画除く)と記入されています。

同資料の情報を以下記させて頂きます。

位置
 群馬縣新田郡生品村
積量
 約二,五六〇,〇〇〇平方米
地表の状況
 北方に向1/300の勾配あり全般には概ね平坦なるも芝着甚だ
 悪く土質は全般砂土にして季節風に依り砂塵猛烈なり
周囲の状況
 飛行場南北側約二〇〇米まで一般に耕作地及荒地にして
 民家及大なる道路なきも外周に山林多し
天候気象の交感
 十一月頃より三月頃まで北西の風強く降雨少量のため風埃多
 し 天気は良好なるも温度は季節風のため低し温度は天
 気良好なるため少し四月より十月頃迄は風弱く南東より
 吹く天気平均良きも夏季雷雨甚し
格納施設
 現用格納庫一棟三九六〇平方米(九七式重爆撃機
 一〇機)假授受末済格納庫一棟 □右 假授受末済
 飛行機工場一棟三一九〇平方米
居住施設
 兵舎一棟学生少飛生一八〇名 営内下士官二七名兵二名
 假空中勤務者控所(営内下士官四名)
営外者住宅関係
 一、治良門橋付近の部落は収容力なく太田町中島飛行
   機会社所在するため勿論余力なきも辛うじて主力は治良
   門橋其の他は伊勢崎、大間及桐生、大田(ママ)及飛行場付近
   の部落に散在し在り
 二、工員約〇〇名は付近に下宿しあるも地方の米□(麦?)不足のため営内
   に於て兵食を実費支払いにて給しあり
交通連絡の状況
 最寄駅(東部鉄道治良門橋駅及藪塚)迄約三粁ありて
 其の間定期連絡機関なし道路も未だ移管完了せざるため放置
 しありて路面状況極めて不良なり
其の他
 (記載無し)

■防衛研究所収蔵資料「陸軍航空基地資料 第1 本州、九州 昭19.10 水路部」の中で、

当飛行場の地図があり、先頭のグーグルマップはこの地図から作図しました。

同資料の情報を以下引用させて頂きます。

「新田陸軍飛行場 群馬県新田郡生品村 36°20′0N 139°18′5E」

面積 北西-南東1,600米 北東-南西1,600米 総面積257萬平方米
地面の状況 北東-南西に向け1/120の下り傾斜を為す
硬度は普通にして一面に芝密生す
排水概ね良好、冬季風塵立ち昇る
目標 太田町、東武鉄道桐生線
障碍物 東方約2粁を距てて高さ200米の山脈あり
北、東及西方一帯は森林地帯なり
離着陸特殊操縦法 (記載なし)  
格納設備 格納庫 鉄造(80x50米)1棟 木造(32x41米)1棟、(75x41米)2棟
照明設備 (記載なし) 
通信設備 (記載なし)  
観測設備 陸軍気象観測所あり、航空気象を観測す
給油設備 (記載なし)  
修理設備 (記載なし)  
宿泊設備 (記載なし)  
地方風 (記載なし)  
地方特殊の気象 夏季雷雨多し
交通関係 治郎門橋駅(東武線)東方2粁
東側に隣接して太田町及桐生市に至る県道あり
其の他 (記載なし)  
(昭和18年4月調)
 

■防衛研究所収蔵資料「本土における陸軍飛行場要覧 第一復員局(陸空 本土防空7)」

にも当飛行場の情報がありました。

飛行場名  新田
位 置   群馬県新田郡生品村
規 模   要図(南北1600)
舗 装   ナシ
付属施設
 収容施設 三〇〇名分
 格納施設 (記載無し)
摘 要   施設軍有

この要図には、飛行場の敷地の上に矢印が描かれています。

矢印の向きは南東([右斜め下])で、特に何の説明も記されていません。

飛行場の要図でしばしばこうして[右斜め下]が描かれる場合、恒風を示していることが多いです。

この[右斜め下]が恒風を示しているとするなら、飛行場敷地の方形とは、向きが数十度ズレています。

まあ四角の敷地を対角線に使用した方が、滑走距離を長くとれますしね。

D20_0012.jpg

県道332号線のところから撮影してみました。

この真っ直ぐの道が飛行場の南東の境界線。向かって右側が飛行場跡です。

(向こう側に渡ってから)カメラを右側に振ってみると…

D20_0010.jpg

こんな感じ。

おや?

画面左側の草むらに何かありますね? 

行ってみましょう(わざとらしい)。

D20_0006.jpg

赤マーカー地点。

「少年飛行兵操縦教育校 旧陸軍熊谷飛行学校 陸鷲修練之地 新田教育隊跡地」

とありました。

ところでこの飛行場の呼び名なのですが、

サイトによって「新田飛行場」、「生品(いくしな)飛行場」と名称が異なります。

飛行場があった当時ここは、「新田郡生品村」でした。

おおよそですが、軍関係は「新田飛行場」と呼び、

地元自治体は「生品(いくしな)飛行場」と呼んでいるケースが多いような気がします。

因みに「新田町の歴史年表」では、「生品飛行場」と表記されていました。

この場所はその後どんどん合併が進み、生品村→新田町→(現)太田市と変化しました。

予備知識なしで一から調べるオイラのような部外者にとって、

平成の大合併はまったくもってやっかいです。

新田飛行場.JPG
写真:国土画像情報(オルソ化空中写真) 国土交通省
撮影年度:1974年 地区名:桐生、上野境 編集・加工:空港探索・とり

1974年の写真。

D20_0018.jpg

D20_0014.jpg

上の2枚は、飛行場跡地のほぼ真ん中の風景です。


   群馬県・新田(生品)飛行場跡地   
当時は掩体壕が30基ほどあったのだそうです。

新田(生品)飛行場 データ
設置管理者:日本陸軍
種 別:陸上飛行場
所在地:群馬県新田郡生品村(現・太田市新田市野倉)
座 標:36°20′0N 139°18′5E
標 高:74m
飛行地区:1,600mx1,600m
面 積:257ha
(標高はグーグルアースから)

沿革
1938年03月 生品飛行場完成。一番機飛ぶ
1944年09月 19日 生品飛行場の練習機同士が生品村国民学校上空で衝突。搭乗員全員死亡
       12月 飛行場内に中島飛行機太田製作所の疎開工場が設けられる
1945年07月 01日 朝6時、艦載機の編隊2~10機が太田、生品飛行場に爆撃、機銃掃射
       同日9時半から約40機が主力をもって生品飛行場攻撃
       ?日 12機の艦載機により空襲を受け、石油に引火して火災発生 
       10日 機銃掃射、爆撃を受け、飛行場としての機能喪失 
       28日 熊谷方面から3編隊で進入、P51 240機のうち数十機が太田地方へ、
       このうち3機は生品を攻撃(米軍資料では都良崎を主目標とした26機が生品も攻撃。となっている)
    08月 14日 夜、生品飛行場および市野井、村田など空襲
    10月 14日 生品飛行場に40人進駐
1946年03月 12日 生品飛行場跡地に入植開始

関連サイト:
電撃! 激坂調査隊が行く/旧陸軍の飛行場跡をめぐる      
↑情報の極めて少ない飛行場なのですが、非常に良質のサイトです。
オイラもこんな記事が書けたら…と思いました。脱帽です。

この記事の資料:
鳥之郷国民学校昭和20年度教務日誌
太田市通史編 近現代
群馬の戦争遺跡
新田町誌第一巻「通史編」別冊付録・新田町の歴史年表
防衛研究所収蔵資料:陸軍航空基地資料 第1 本州、九州 昭19.10 水路部
防衛研究所収蔵資料「本土における陸軍飛行場要覧 第一復員局(陸空 本土防空7)」
防衛研究所収蔵資料「陸空-本土防空-48飛行場記録 内地(千島.樺太.北海道.朝鮮.台湾を含む) 昭19.4.20第1航空軍司令部」


コメント(18)  トラックバック(0) 
共通テーマ:趣味・カルチャー

桐生愛国飛行場跡地 [├空港]

  2009年5月、2016年4月訪問 2023/4更新  

無題8.png
撮影年月日1947/10/29(昭22)(USA R408-No1 47) 
出典:国土地理院ウェブサイト(地理院データを加工して作成)

群馬県桐生市のお隣、笠懸村(現みどり市)にあった「桐生愛国飛行場」。

後述しますが終戦までの10年間だけ存在した小さな飛行場ですので、

かなりマイナーな部類だと思います。

資料によれば、「戦後飛行場跡地は開拓された」と記されています。

上の航空写真は終戦から2年後の飛行場跡地。

パッチワークのように畑が広がっていますが、飛行場跡地の様子が明らかに周囲と異なってますね。


この飛行場跡地には2009年5月にお邪魔していたのですが、おおよその場所しか分かりませんでした。

最近になって「航空路資料第3 関東地方飛行場及不時着陸場 昭和18.8 水路部」という資料をゲットし、

その中に当飛行場についての詳しい地図があったため、現在の地図に落としてみることに。

ところがこの地図とグーグルマップを比較してみると、両毛線と県道69号線はまあいいとして、

それ以外のありとあらゆる道路が当時と現在では違うのです。

とっかかりとなる基準点が作れないため、結局ほとんど目測で作図し、

後からいろいろ数字を見ながらツジツマ合わせの微調整する。

というやり方で作図しました。

上図、これで一応飛行場敷地面積、縦横比、それから飛行場北東の角地と、線路/県道との離れ具合、

数字的にはピッタリです。

数字的には。

まあこれで大きなズレはないかと。 

で、敷地の北東角地に事務所、格納庫があることが分かったので、ここの写真を撮ろうと出掛けたのでした。 

DSC_0103.jpg (オイラの計算が正しければ)飛行場敷地北東の角地はココ。

ここから画面右奥に向かって飛行場だったはずです。 

2010/9/30追記:
すずき@東毛さんの記事「桐生愛国飛行場跡 (みどり市笠懸町)」(下記リンク参照)に飛行場の地図が載っています。

 

歴史

桐生愛国飛行場は1934年に着工、翌1935年3月25日に逓信大臣から非公共飛行場として使用許可を受けました。

開場後どんなことに使用していたかといいますと-

・陸海軍からの委託で飛行学校生がフランス製アポロ式複葉機による落下傘の投下試験
・県下青少年の士気を鼓舞し、銃後に備える心構えを培う啓蒙活動
・旧制中学生や青年団幹部を対象としたグライダー滑空訓練

またこの飛行場から羽田飛行場まで直線距離でちょうど100キロで、

この区間が逓信省乗員養成所の試験コースとして使用されることもあったのだそうです。

 

この飛行場は終戦間際の頃、米軍機の空襲を受けています。

格納庫は跡形もなく吹き飛ばされ、隠してあった飛行機1機が機銃掃射で完全に破壊され、

飛行場とその付近は、機銃弾の薬莢が散乱していたそうです。

こうして桐生愛国飛行場はその機能を失ってしまいました。

これが笠懸村唯一の空襲だそうですから狙い撃ちされたんでしょうね。

よく見つけるもんですね。

 

建設までのいきさつ

陸軍は非常時の国民の精神動員計画の実践として帝国飛行協会を中心に300ヵ所の

「愛国飛行場」建設計画を打ち出しました。

これは、一般市民、非軍需企業からの献金で飛行場を建設して陸軍に献納してもらおうというものです。

当桐生愛国飛行場もこの流れに乗ったもので、

地元桐生の森宗作(有力な織物業者、四十銀行頭取)が航空機の将来性に着目し、

民間有志の手によって航空事業に寄与したいとの念願から建設された飛行場です。

オイラの知る限り、当時の新設飛行場はほとんどが最初から軍が建設したもので、

あとは逓信省と自治体のものがチラホラある程度なのですが、こんなケースもあったのですね。

 

因みに陸軍に飛行機を献納すると、「愛国号」となり、

海軍に献納したものは、「報国号」となりました。

 

飛行場着工の2年前、帝国飛行協会桐生支部の発会式が行われました。

名士の講演会その他の催しなどで航空思想の宣伝に努め、同志を集めることに尽力し、基金獲得を続けました。

愛国美談の献金運動が進んだのだそうです。

こうして集まった基金により、帝国飛行協会桐生支部の事業として飛行場が建設されました。

ここに敷地が決まった理由として、森宗作の所有地がこの用地の一部であったこと、

この事業に共鳴した当時の笠懸村長がここの用地の大半を所有していたことから用地取得が容易であり、

この付近が民家から遠く、特別の障害物もないことなどがあったと言われています。

整地工事の際、地形が西高東低だったため、トロッコを使用して西から東へ土を運んで平坦にしたのだそうです。

余談ですが当時軍(特に陸軍)が建設した飛行場は周辺の地割などお構いなしの真四角のものが多いです。

それと比べるとここの飛行場は周囲の畑に遠慮したようなイビツな形で、

この辺が軍と民間の違いなのかなぁ、と思いました。

 

空襲により機能を失った飛行場はしばらくの間放置されて荒れるに任せてあったのですが、

やがて農地解放の結果、11戸の農家が入植し、立派な農地に生まれ変わり、

戦後の食糧不足を補うのに役立ちました。

こうしたいきさつからこの部落は今でも「就農」と呼ばれているのだそうです。

 

■前出の防衛研究所収蔵資料「航空路資料第3 関東地方飛行場及不時着陸場 昭和18.8 水路部」

にある当飛行場についての情報を以下抜粋させて頂きます。

第1 桐生愛国飛行場(昭和17年12月調)
管理者 大日本飛行協会群馬支部(桐生市役所内)。
位置 群馬県新田郡笠懸村大字鹿字鹿ノ川。
   (桐生市の南西方約6粁、北緯36°22′6、東経139°17′2)。
種別 非公共用陸上飛行場。

着陸場の状況
高さ
 平均水面上約123米。
広さ及形状
 長さ東西430米、幅南北300乃至400米の梯形地域なり・着陸地域は概ね
 図示の長さ北東-南西400米、北西-南東400米及東西310米、幅各20米
 の芝敷滑走路を最適とす(付図参照)。
地表の土質
 赤土を混ずる尋常土。
地面の状況
 地表は概ね平坦なるも北より南に向け1/180の下り勾配を有す・一面に良好
 なる牧草密生し約5噸の重壓に耐え得る硬度なり・降雨及季節に因る影響
 なく且排水良好なり。
場内の障碍物
 なし。

適当なる離着陸方向
 地方風の関係上夏季は南東、冬季は北西を適当と認むるも陸軍機は従来北
又は南に向け離着陸せりと言う。
施設
 第1格納庫(間口14米、奥行14米、軒高2.7米)1・第2格納庫(間口18
米、奥行27米、軒高3.4米)1・飛行場事務所兼休息所1・倉庫1・自動
車庫等あり・合宿所(収容員数50)は目下建設計画中なり。
昼間標識 地名標識「キリフ」(場内の略中央に白書す)・吹流1・着陸
     誘導表示盤(滑走地区の両端に4箇)あり。
夜間標識 なし。

周囲の状況
山岳
 北方約3粁に鹿田山(高さ227米)、東方約3.2粁に茶臼山(高さ約300米)
 等の山岳連互するも付近は概ね平坦地にして特に南方は地貌広濶なり。
樹林
 西方約400米に松林(高さ20米)、南方300米に雑木林(高さ15-20米)
 存在す、其の他の外方周囲は概ね丈低き桑畑又は果樹園なり。
電線
 北西端より外方約80米に鐡道に沿い高さ3米の電話線1條あり。
着目標
 桐生市街、渡良瀬川、東部桐生線、両毛線、格納庫。

地方の状況
軍隊及憲兵
 東部第38部隊、高崎憲兵分隊(高崎市)各西南西方約30粁。
警察署及役場
 桐生警察署(桐生市本町)北東方約8粁、鹿の川巡査駐在所北東方約1.5
 粁・笠懸村役場(鹿の川)北東方約1.5粁。
医療
 桐生市に市立病院、私立病院4及医院50あり。
宿泊
 桐生市に旅館約31(収容員数総計300)あり。
清水
 場内に水質良好なる井水あり。
応急修理
 落下傘性能試験実施の為常時藤倉工業株式会社の地上整備員駐在するを以
 て一時的小修理は可能なり、大修理は中島飛行機株式会社太田工場(南東
方約15粁)に依るを可とす。
航空需品
 本場に相当量の航空用燃料及潤滑油を貯蔵しあり、大量需要の際は中島飛
 行機株式会社太田工場より補給するを可とす。

交通、運輸及通信
鉄道
 岩宿駅(両毛線)北東方約2.5粁、阿佐美駅(東武鉄道)東北東方約3粁、
 桐生駅(両毛及足毛線)北東方約7粁。
乗合自動車
 笠懸村役場前停留所(北方約1.5粁)を経て桐生及前橋方面に、又大原停留
 所(南方約1.5粁)を経て桐生及前橋方面に至る乗合自動車便(何れも東武
 自動車株式会社)あり。
道路
場の東方約400米に北は桐生市、南は太田町及伊勢崎市に至る鉄道あり・
飛行場北東隅より此の県道に通ずる幅員6米の飛行場専用道路あり。
運送店
 桐生市内に運送会社5(貨物自動車総計59、乗用自動車19)あり。
電信及電話
 最寄電信局は北東方約2.5粁の岩宿駅公衆電報取扱所なり・飛行場事務所
 に電話(笠懸25番)あり。

気象
測候所
 前橋測候所(前橋市岩神町)西方約20粁・毎日1回(午前8時頃)航空気
 象を観測す。
地方風
 3-11月間は概ね南東風多きも風力弱し、12-翌年2月間は北西風(俗称
「赤城颪」)多し・冬季赤城山頂に雲ある場合は10米/秒前後の北風強吹す。
天候
 前橋測候所に於ける2557-2600年44箇年間の統計次の如し。(以下月ごとのデータ省略)
地方特殊の気象
 夏季(7、8月)雷雨多く冬季(11-翌年4月)降雪あり。
気象予察の俚諺
 新潟県境より群馬県北部に亙り降雪の場合は北風となる・1箇年を通じ南
 方より雲を生ずる場合は雨となり、冬季は雪となること多し。

其の他
1. 本場は昭和10年3月非公共用飛行場として設置せられ目下藤倉工業株式
会社の軍用落下傘性能試験場として使用中なり。
2. 昭和18年5月着工の予定を以て南側及西側の一部を含む総計約4万坪を
 拡張計画中なりと言う。

1.png
■国立公文書館デジタルアーカイブ 昭和十四年一月 航空要覧 逓信省航空局編輯 帝國飛行協会発行

の中で、「本邦飛行場一覧(昭和十三年十月現在)」非公共用飛行場 として以下記されていました(9コマ) 

名 称  桐生愛国飛行場
経営者  帝國飛行協会
所在地  群馬縣新田郡笠懸村大字鹿ノ川
水陸の別 陸
滑走区域 東西四三五米 南北四三〇米
備 考  (記載無し)

かどや公園の石柱


DSC_0059_00001.jpg
帝國飛行協會桐生支部

DSC_0054_00001.jpg
昭和十年九月十五日建之


飛行場跡地から両毛線を越えた北側に「かどや公園」があります。

公園南東角の駐車場に石柱があり、

「帝國飛行協會桐生支部」と彫られています(先頭のグーグルマップ青マーカー)。

当時飛行場の旗を立てる柱を支えていたと考えられていて、

飛行場内にお住まいの方から預かり保存しておられるのだそうです。

当公園は元々「火鉢博物館」だったんですが、名称変更していると「すずき@東毛」さんから教えて頂きました。

詳しくは下のコメント欄をご覧くださいませ。

「すずき@東毛」さん、ありがとうございましたm(_ _)m 


       群馬県・桐生愛国飛行場跡地      
台風の際、風で飛行機が付近の畑に飛ばされてしまい、監視当番が大慌てをしたこともあったのだそうです。飛行場であった当時の面影は、事務所だった建物の一部が僅かに残されているのみなのだそうです

桐生愛国飛行場 データ
管理者:帝国飛行協会桐生支部長 森宗作、陸軍に献納 
種 別:非公共用陸上飛行場
所在地:群馬県新田郡笠懸村大字鹿字鹿ノ川(現みどり市笠懸町鹿)
座 標:N36°22′6″E139°17′2″
着陸地域:400mx310m(幅20mの芝敷滑走路)
面 積:16.5ha
標 高:123m
風 向:概ね南東、但し12月から2月まで北西

沿革
1932年11月 06日 帝国飛行協会桐生支部発会式
1934年    建設着手
1935年03月 25日 逓信大臣から非公共飛行場として許可
    09月 15日 グライダーの初滑空
1943年05月 拡張工事着工予定
       終戦間際に空襲を受け、飛行場としての機能を失う

この記事の資料:
笠懸村誌下巻
群馬の戦争遺跡
防衛研究所収蔵資料「航空路資料第3 関東地方飛行場及不時着陸場 昭和18.8 水路部」

関連サイト:
すずき@東毛さんの記事「桐生愛国飛行場跡 (みどり市笠懸町)」     


コメント(18)  トラックバック(0) 
共通テーマ:地域

とり日記 [■ブログ]

母入院の際、暖かいお言葉ありがとうございました。

嬉しかったです。本当に。

 

その母ですが、入院の際主治医から

「退院はまあ、土曜日頃でしょうね~」と言われていたのですが、

その後なぜか「木曜日に退院」と言われ、無事退院しました。

 

手術当日の朝、家族で母の病室に集合。

手術室に移動する少し前に看護婦さんが「ちょっと眠くなりますからね~」と注射。

ガッシリと大柄な看護婦さんで、新人さんを引き連れてます。

「この方、担当してくれている看護婦さん。頼もしいでしょ」

注射されながら要らない説明をする母。

(余計なこと言わなくていいのに~!(゚Д゚;≡;゚Д゚))

 

母はほどなくろれつが回らなくなりました。

「らりるれろ」が「わうううお」みたいになります。

明らかに変です。

ところが本人はろれつは普通だと言い張って認めようとしません。

その主張も全然回ってません。

そのうち「眠い」と言い出しました。

そんな母に「眠いのならば」と ブラックフリスク を素で勧めようとする天然妹。

やーめーてー!><

 

 

術後の説明によりますと、こぶを塞ぐために母の頭には43㎝のプラチナが入りました。

5㎜ほどのこぶなのですが随分入るものなんですね~。

それを知った母のコメント。

「私は高級な人間になった」v(o ̄∇ ̄o)v

 

ヒコーキに乗る時、セキュリティーチェックで引っかかったりしないのかしらん。


コメント(23)  トラックバック(0) 
共通テーマ:日記・雑感

熊谷線の橋脚 [├場所]

 

以前書いた熊谷線の記事で、「利根川を渡る橋脚はすべて撤去されてしまった」

と書いたのですが、H.Kumaさんから「利根川の北側に橋脚が1つだけ残っている」

と教えていただき、先日見て来たのでした。

てっきり河川敷内にあるのだとばかり思っていたのですが、外側にありました。

土手道のすぐ側です。

というか、外側だったから残ったのでしょうか??

D20_0057.jpg

土手の上から見るとこんな。

画面奥、線路跡っぽいですね。左側は立派な野球場です。

D20_0066.jpg

分かり難くて申し訳ありませんが、画面真ん中らへんに橋脚の頭がちょっと見えてるのわかるでしょうか?

土手道と橋脚、大体同じくらいの高さですね(←これが言いたかった)

D20_0064.jpg

橋脚に背を向けるとこんな風景。

利根川が横たわっています。

この辺りは(おおよそ)利根川が県境になっていて、

こちら側は群馬県大泉、あちら側は埼玉県熊谷市(旧妻沼)。

ここから対岸に向かって点々と橋脚が並んでいたのですねぇ…。


D20_0058.jpg

同じく橋脚の所から見た国道407号線の刀水(とうすい)橋。

中島飛行機の人たちは熊谷線で妻沼まで来て、バスに乗り換えてこの橋を通って工場に通ってました。

「太田市史通史編 近現代」によりますと、

1945年4月4日 関東地方に進入した約100機のB29のうち約50機が太田方面へ飛来しました。

米軍資料によれば、この時の目標は小泉工場。

ヒコーキ生産を担う太田地方と埼玉、東京方面を結ぶ交通の要衝である、

1943年6月に完成したばかりのこの刀水橋も狙われました。

橋周辺には多数の爆弾が投下されたと言われていますが、破壊は免れました。

当時の橋は1971年に架け替えられるまでその役割を果たしたのだそうです。

D20_0040.jpg

土手を降りて橋脚に近づいてみました。

特に立ち入り禁止にもなっておらず、好きなだけにぢり寄れます。

D20_0042.jpg

特にこのブツの説明をするものは見当たりませんでした。

土手の上を行き来する学生さん、ジョギング中の人たちはこの物体の正体をご存知なのかしらん。

D20_0043.jpg

D20_0045.jpg

鉄筋がたくさん飛び出てますね。

D20_0047.jpg

こんな小石がむき出しになっている部分も。

D20_0052.jpg

記録では、「1944年(昭和19年)4月までに着手」するように。という認可証があり、

1947年(昭和22年)7月には一切の工事が終了していますから、

この橋脚も1944~47年の間に作られたのでしょうね。

物資困窮の中、治水上の問題で大変苦労して橋脚を完成させた訳ですが、

この橋脚は前述の通り河川敷の外側にありますから、治水上万難を排してまで完成させる必然性はないはず。

もしかしたら工期の初期に完成したのかもしれません。

いずれにせよ、作られてから60年以上経過しています。

実はこの日、群馬県の飛行場跡をうろついてきまして、最後にこの橋脚を見たのでした。

前後してしまいますが、飛行場跡の記事もボチボチアップします~。

 

ブログ内関連記事
東武熊谷線物語・1 
東武熊谷線物語・2
  


コメント(19)  トラックバック(0) 
共通テーマ:趣味・カルチャー