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成増陸軍(高松)飛行場跡地 [├空港]

  2009年4月訪問 2022/12更新  


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撮影年月日1944/10/24(C36(8913) C2 398) 
出典:国土地理院ウェブサイト(地理院データを加工して作成)

東京都練馬区。

練馬区といえば光が丘公園ですが(個人の感想です)、ここに日本陸軍「成増飛行場」がありました。

先頭のグーグルマップの飛行場敷地、誘導路、掩体壕は米陸軍マップから作図しました(下記リンク参照)。

1941年12月の対米開戦から破竹の進撃を続ける日本軍に対し、

1942年4月、米軍は軽量化した陸軍の爆撃機B-25を空母から発艦させるという奇想天外な作戦により、

東京をはじめとする都市部を爆撃(ドーリットル空襲)。

戦線を南方に急拡大していた日本軍は、突如本丸に踏み込まれた事実に衝撃を受けます。

本土防空を担当していた陸軍は帝都(東京)防衛強化が急務であることを痛感。

急遽飛行場を建設することにしたのでした。

そして選ばれたのが当時の東京都板橋区練馬田柄、練馬土支田、練馬高松でした。
(*戦後、板橋区の一部が分離して練馬区が発足)

「練馬高松」が由来だと思うのですが住民からは「高松飛行場」とも呼ばれました。

Wikiによりますと、「1943年6月24日 - 飛行用予定地の地権者が、印鑑持参で再び区役所に呼ばれ、買収契約が強制調印され、居住する約60戸に対し、8月末までに立ち退くよう申し渡される。土地は時価より高額で買い取られたが、農作物の補償はなく、移転費用は現物支給である上に、移転期日に間に合わず、移転者は困惑した。」と書かれていました。

■防衛研究所収蔵資料「陸空-本土防空-48飛行場記録 内地(千島.樺太.北海道.朝鮮.台湾を含む) 昭19.4.20第1航空軍司令部」

に 東京飛行場がありました。

同資料の情報を以下記させて頂きます。

位置
 東京都豊島区上練馬
地表の状況
 第一期工事として東西一五〇〇x四五〇の地区の整地を八月
 末までに転圧芝張を九月下旬迄に第二期工事南北一八
 〇〇x五四〇の整地を九月末迄に転圧芝張を十月迄に
 終了の予定
周囲の状況
 南側及北側の道路上に送電線あり 飛行に支障あ
 るものと認む
天候気象の交感
 粘土質の赤土の為完成後と雖も相当期間天候気象
 の交感あるものと認む
付属施設
 第一期工事として本部、中隊兵舎、炊事、浴湯等
 を十月中旬に工坊、倉庫、格納庫等を第二期工
 事として十二月末完成の予定
交通状況
 東上線いけぶくろ発しもあかつか駅より十分以内
 交通便
其の他
 南北方向に滑走路の舗装計画あり

■防衛研究所収蔵資料「本土における陸軍飛行場要覧 第一復員局(陸空 本土防空7)」

飛行場名  成増
位 置   東京都豊島区上練馬
規 模   要図(東西1500 南北1800 滑走路60×1200)
舗 装   六〇×一二〇〇米 基礎砂利圧入一部玉石地形 
      表装コンクリート(調合一、三、六)厚十二糎
付属施設
 収容施設 六〇〇名分
 格納施設 掩体 有蓋三二棟
摘 要   施設軍有

そして終戦。

飛行場は接収されて駐留米陸軍家族のための住宅になり(後に空軍に移管)、

米十八代大統領グラントにちなみ、「グラントハイツ」と命名されました。

何故に大昔の大統領??と不思議だったのですが、グラントは陸軍出身の有名な将軍なのですね。

余談ですが実はオイラ一時期成増に住んでまして、ずっとグランハイツだと思ってました。

周囲でも正しく呼んでた人はいなかった気がします。

その後、ここに住んでいた家族の帰国、移転が進み、徐々に空洞化していきます。

返還運動が始まり、1973年ついにグラントハイツは全面返還されました。

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写真:「国土画像情報(オルソ化空中写真) 国土交通省」
撮影年度:1974年 地区名:赤羽、志木、東京西部 編集・加工:「空港探索・とり」

1974年当時の写真。

全面返還が1973年ですからその翌年ですね。

敷地の上の部分が一部東側に飛び出ていますが、1,500mの補助滑走路予定地だったのだそうです。

敷地の3分の1を公園にすることになり、返還の翌年から工事が始まりました。

そして1981年、60.7haの光が丘公園が開園したのでした。

ということで公園内部をうろついてきました。

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青マーカー地点。

「イチョウ並木」周辺。

園内に図書館があり、郷土コーナーに飛行場時代の地図などあったのですが、

南北に伸びるこの通りの少し西側に並行して滑走路があったようです。

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遠くからでもよく目立つ清掃工場の真っ白な煙突。

ナビ無し車やバイクで走ってた時は方向掴むのに非常にお世話になってました。

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赤マーカー地点。

園内の体育館と図書館の間、けやき広場の前にある平和記念碑

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平和記念碑(全文) この地には 一九四三年(昭和十八年)帝都(首都)防衛のため成増陸軍飛行場がつくられ 多くの若い生命が空に散っていった。地元住民にとっても 農地を強制買収され 基地づくりに動員された忘れがたい地である。終戦直後の一時期 この広大な地域は米軍キャンプとして接収され米国第十八代大統領グラント将軍にちなみグラントハイツと呼ばれた。その後 多年にわたる返還運動が実り みどりと太陽の武蔵野台地にコミュニティ「光が丘」が誕生した。練馬区は一九八三年(昭和五十八年)に「非核都市練馬区宣言」を制定し 「世界の恒久平和は人類共通の願い」であるとして「核兵器の廃絶と軍縮」を強く訴えている。本年は戦争終結から五十年 歴史の大きな節目の年にあたる。この時にあたり戦中 戦後の歴史の激しい流れを見つめてきたこの地に区民の総意を込めて平和の記念碑を建て 練馬地域の多数の戦没者を悼むとともに 空爆による被災者や第二次世界大戦による内外諸国民の多大な犠牲を省みるものである。ここに練馬区民は 戦争の悲惨さと平和の尊さを心に刻み 平和を守る決意を新たにしたい。 一九九五年(平成七年)八月十五日 練馬区

 

「練馬区史現勢編」119pから始まる「第五節 グラント・ハイツ」の中で、

当飛行場について非常に詳しく記されていました。

飛行場建設の経緯から、敗戦、グラント・ハイツの整備、その後のグラント・ハイツの縮小と、返還交渉、

返還後を見据えた跡地利用についての動き等、記されているのですが、

ここではグラント・ハイツの縮小まで(119~128p)を以下引用させていただきます。

成増飛行場時代
飛行場建設
 昭和十八年の春、太平洋戦争「緒戦の勝利」に酔ったのもつかの間、いよいよ戦局にその激しさが増してきたある日、土支田・田柄地区の地主約五〇〇名は、板橋区役所に呼び出された。とるものもとりあえず参集した人たちを前に、陸軍航空本部の大河内中佐は、戦局の重大さを説いたあと、帝都防衛のための飛行場建設用地として、土支田・田柄地区が最適である旨を説明した。そして半ば命令的に協力方を要請した。言い分がある者はいうようにと付け加えたが、誰も意見を述べる者はいなかった。(中略)
  それより先、昭和一七年に、東京府から、この辺を緑地帯にする計画があるという名目で、測量が行われたことがあっ
た。付近の住民には、一朝有事の時は、ここを避難場所にするというふれこみであった。土地の八幡神社境内を借り受け
て、測量事務所が建てられた。時には、発煙筒などを打ち上げて風向きを調査することもしていた。
 はじめは、今の平和台・早宮地区の平坦な原を候補地にしたそうであるが、気流の関係や、高圧線が通っているので、第
二の候補地である土支田・田柄地区に変更になったという話ものこっている。
 さて、飛行場予定地に該当する地主は六月二四日、再び板橋区役所に印鑑持参で呼び出され、六〇日以内、おそくとも八
月持つ実までには必ず立退くよう申し渡された。
当時の字名別の移転件数は、
高松 十九軒
大門山 四軒
八丁堀 三軒
八丁原 三〇軒
上田柄 一軒
神明ヶ谷戸 (辻庚申も含む)九軒
合計 六六軒
であった。しかし、実際に移転したのは「八〇カマド(世帯)」といって、疎開者や、同居の世帯も含まれていた。
土地はすべて国の買上げで行われ、価格は登記の面積に対して坪当り、
田 五円
山林 五円
畑 一〇円
〃(島地といって良くない所)九円
宅地 十五円
であった。当時、田や山林は坪で三円程度であったので、軍は堂々と闇で買ってやるのだと、恩きせがましくいっていた。
しかし、宅地などは一〇円で売って、いざ移転先を探そうと思っても、なかなか買えなかった。移転を余儀なくされた人た
ちが、六〇日間という限られた期間内に、どれほど苦労したか、筆舌につくせないものがあった。
 土地代金は銀行振込で行われたが、離農補償や立毛補償(作物に対する補償)は全くなかった。移転料としても金銭では一切出ずに、申請にもとづいて、現物支給された。木材は勿論、セメントから釘一本にいたるまで、資材で無償支給された。だが、配給される前に引越し期限がせまって、二重の出費を余儀なくされた家も多かった。
 サラ地で渡すという条件であったために、立木を伐り、住宅を壊しているそばから、飛行場建設の工事は開始されていっ
た。
 赤羽の工兵隊、中野の豊多摩刑務所の囚人、朝鮮人労務者、各種の産業報国隊、動員学徒などが、毎日数千人昼夜兼行で
作業に従事した。東西に横切る田柄川付近が低地であったために、南北の高い土地をけずって整地を行なった。
 しかし、設計にミスがあったのか、のちに中央の主滑走路付近に水が溢れ問題になり、軍の命令によって東側の田柄川が
排水路として使われることになった。それまで、土支田の八丁堀から、田柄に至る約二〇町歩の耕作面積をもっていた田柄
田圃は、このときを機に消滅の運命となった。
 こうして成増飛行場は完成した。(中略)
このほか付近には、高射砲や探照灯の陣地も建設された。また、飛行機の格納と、緊急避難を目的とした掩体壕も築造された。簡単なものは、樹木で覆った程度のものもあった。堅固なコンクリート製のものは、芯に竹を使った。鉄筋よりかえって柔軟で丈夫だったそうである。
 今も、春日町五丁目に高射砲の台座が、田柄四丁目と谷原三丁目に掩体が当時の面影を残している。

飛行第四七戦隊
 昭和一八年一〇月、新たに建設された成増飛行場へ、柏にあった独立飛行第四七中隊がその名も「飛行第四七戦隊」と改称され三中隊編成で移駐してきた。初代の戦隊長は下山登中佐である。第一中隊を旭隊、第二中隊を富士隊、第三中隊を桜隊と呼んだ。
 帝都防衛が目的であったため、配備された飛行機は二式単座戦闘機「鍾馗」七〇~九〇機であった。二式とは戦前の日本で使っていた紀元年号でいう「皇紀二六〇二年」の二年式、つまり昭和十七年、新たに設計製造された最新鋭の重戦闘機のことである。隊員は「二単」の愛称で呼んでいた。ほかの戦闘機は零戦とか、一式戦、三式戦で通っているが、二式だけは「屠竜」と呼ばれる複座(二人乗)の戦闘機があったので、これと区別するため「二単」といっていた。
 整備隊は総勢六〇〇名といわれ、飛行機の実働率九〇パーセントと、当時の飛行隊の中では、おどろくべき優秀さを誇っていた。整備のすぐれているだけ、付近住民への迷惑度もまた高かった。エンジン調整は夜中の〇時、三時と夜明けの六時の三回行われていた。朝から、いつなん時でも、迎撃に発進できる状態にしておくためである。エンジンの試運転がはじまると、三〇メートルとはなれていないある民家では、たまったものではない。草から、木の葉から、小さな庭木までフッとばされてしまう。鶏も卵を産まなくなるし、牛もあばれてしようがない状態がしばらく続いた。
 ここに飛行場を作った目的の一つに、皇居上空に三分以内でとどくということもあった。「鍾馗」の性能は、それを充分に満たしていた。とくにその上昇力、水平最大速度は、当時のアメリカの最新鋭機グラマンF6Fよりすぐれていたという。長所があれば短所があるのは止むを得ないことで、着陸に難点があった。滑走路をオーバーして先方の建物に、衝突したり、付近の民家や神社の高い木にぶつかることは、しばしばであった。
 ほかの飛行隊ではあまり評判のよくなかった「鍾馗」も、ここでは訓練の成果か、関東地区防空戦隊の最新鋭という折紙
をつけられていた。
 翌一九年になると、米軍はマーシャル群島に上陸(二月)、ついで一〇月、レイテ島に上陸、日本本土空襲がはじまった。その頃、飛行第四七戦隊の中に、体当たり専門の震天制空隊が編成された。一一月二四日、B29迎撃に勇躍、発進した隊員見田義雄伍長は、愛機「二単」の操縦桿をにぎったまま、銚子沖に散華し、体当たり玉砕第一号として、翌日の新聞紙上を飾った。彼は付近住民の間でも人気者であった。若くて好男子で、若い女性にも勿論だったが、男の子にも強い影響を与えたらしく、少年航空兵志願の若者たちがあとにつづいた。
 隊員と付近の住民との交流は親しみの深いものであった。住民もまた戦争遂行に協力を惜しまなかった。昭和二〇年二月一五日は大雪であった。飛行機の発進は全く不可能である。土支田町、田柄町、高松町、春日町の男という男は雪かきに出動した。ひざまでのゴム長などは役に立たない。スコップとモッコだけで、翌日の夜明けまでには、飛行機の発着が出来るまでに滑走路の雪かきを終えた。成増飛行場は、北は川越街道、南は富士街道にはさまれる、一.五㎢に及ぶ面積を有していた。東武東上線成増駅に近いため、一般には「成増飛行場」と呼ばれていたが、地元では、正門が高松にあったために「高松飛行場」と呼んでいた。戦後わかったことであるが、米軍の航空写真にも"TAKAMATSUCHO A/F"と記載されている。当然のことながらB29の攻撃目標に設定されていたわけで、事実、二〇年三月九日と、四月五日の二回にわたって爆撃をうけた。隣接する民家数戸も被爆、炎焼した。
 四月八日大本営陸軍部は「大本営に於ける本土作戦準備計画」なるものを策定し、
…航空関係兵站準備の重点は、飛行機保全施設の強化、特攻機用爆弾の整備、指揮情報通信網の整備、並に航空燃料
の地域別分散確保とし、之が実施は六月末完成を目途とす。
と、命令した。
 飛行第四七戦隊も、その頃までには、「鍾馗」から四式戦「疾風」に機種が改変され、その主力は沖縄作戦参加のため、
山口県小月飛行場に移動していった。
 かくして、敗戦を迎えるわけであるが、戦争遂行を強いられ、先祖伝来の土地を強制的に取り上げられた農民たちの感慨
はまた、ひとしおであった。
 降伏後、日ならず、八月二十四日数台のジープに分乗したアメリカ兵が成増飛行場にやって来た。そして戦いに傷ついた
戦闘機にガソリンをまいて、それに火をつけた。もうもうたる黒煙が翌日まで、土支田・田柄・高松の空を焼いていた。中
に、ベニヤ板で作られた模擬飛行機も何機かあった。日本陸軍に名声を博した飛行第四七戦隊震天制空隊のつわものも、か
くして一片の灰となって練馬の空に消えていったのである。


グラント・ハイツ時代
グラント・ハイツ建設
 昭和二一年にはいると、一部の旧地主の呼びかけによって、飛行場跡に耕作がはじまった。食糧のなかった時代なので、大蔵省もわりあい簡単に許可してくれた。まず、耕作組合を結成、測量も行なって、一反歩程度の単位で耕地整理を済ませ、各戸に割当てた。もちろん中央の主滑走路は、厚いコンクリートで舗装されているので、北側の補助滑走路付近がその耕作地となった。補助滑走路はコンクリートが打ってなかったとはいえ、飛行機が離着陸するのに充分なほど、地面は堅くつき固められていた。耕作にあたっては、スコップが曲るくらいの苦労が重ねられた。
 飛行場に農地をとられ、泣く泣く離農を強いられた人々、二年も三年も、あるいは五年も六年も、軍隊に、外地に、故郷をはなれて出征し、やがて復員して来た人たちにとって、忘れられない練馬の土のにおいであった。
 しかし、耕作は一年程度で終止符をうってしまった。二二年春、三月頃になると川越街道から入る道路の工事がはじまったのである。まきつけはしたけれど、収穫のできる見通しのない、くたびれもうけの耕作であった。「成増建設事務所」の看板が掲げられ、上板橋駅から旧陸軍第一造兵廠(現在の陸上自衛隊練馬駐屯地)まで敷設されていた鉄道線路が新たに延長された。終点の「ケーシー駅」は現在の田柄第三小学校の北側に設けられた。当時の地図によると、「啓志線」と漢字で記されているが、工事責任者のケーシー中尉の名をとってつけられた名称だという。横浜の米軍物資輸送本部から、山手線外廻り経由で、直通の二輌連結車が三〇分おきに運転された。日本の大小建設会社八〇社と、延二八〇万人の労働者が動員され突貫工事で建設が進められた。使用したセメントが七〇万袋だったという。
 昭和二三年六月、アメリカ陸軍の家族宿舎が完成し、「グラント・ハイツ」と命名された。当時の規模は、米軍側の報告
によると次のようなものであった。

…東京都心の北西の飛び地にある。グラント・ハイツは第二次大戦終結後、アメリカ軍が日本政府から没収した。
 三〇〇六の施設の内訳は、総面積四四七・一エーカー(一・八㎢)の土地に七三〇の建物。総床面積二二〇万平方フィート(二〇万五千㎢)。一、二八六の付属の住宅設備。八八人の収容能力を持つ四つのBOQタイプの建物。総道路延長一四・七マイル(二万三六五〇m)。学校、教会、劇場、PX、ガレージ、ドライブイン、民留置、売店、補給部隊付属供給部、将校クラブ、下士官クラブとプールがある。
 第五空軍部隊は、一九五八年七月一日、所有地の支配職務移動の一環として、グラント・ハイツの管理を陸軍から引継いだ。現在の施設は陸軍時代のときと、ほとんど変わらないで残っている。(原文は英文・カッコ内は筆者注)
 
 これでみても判るとおり、飛行場時代よりさらに広範囲にわたって土地接収が行なわれた。米軍の場合は国に対する賃貸
であった。地代は坪当り二五銭。当時の貨幣価値の変動は驚くべきもので、その値上げ交渉のために、田柄地区の地主二
四、五名は「グラントハイツ田柄町地主会」を結成した。地主会の総面積は約三万坪であった。数度の値上げに成功したも
のの、三五年特別調達局の要請で止むなく売却することとなった。当時の価格で坪当り一万一、二千円であった。基地に分断された元の土支田町東側の人々は、しばらくの間、学校に通うのも選挙に行くのも、基地を大きく迂回しなければならなかった。そして親戚つき合いも自然と疎遠になってしまった。

(コラム)グラント将軍
 占領軍がなぜグラント将軍の名をつけたのか理由ははっきりしない。おそらくグラントが世界一周をした帰りみち、明治一二年五月に日本に立ち寄った縁を考えたのであろう。しかし、日本にとっての恩人の名も現代では通用せず、多くの人がクランドハイツと呼んでいた。ひろびろとした旧飛行場の跡であるからグラウンドと思ったのも無理はない。
 一八二二年四月、オハイオ州の生れ。軍人としての教育を士官学校で受け、メキシコ戦争に参加後、退役していたが、南北戦争が起こると北軍の義勇軍大佐として奮戦、つぎつぎに南軍を打ち破り、ついに北軍の総帥になり、六五年四月には南軍の知将リー将軍を降し、戦争を終結にみちびいた。六九年には共和党から推されてアメリカ第一八代の大統領に就任した。しかし、政界の腐敗事件のため二期で辞任した。
 前大統領グラント一家の来訪は、維新後まだ日の浅い日本にとっては、ある意味では大事件であった。その歓迎方法について数か月前からあれこれ議論したが、欧米流にやるのが良いだろうということになって、外国事情に詳しい渋沢栄一と福地源一郎(二人ともこの前年外国にならって設立した「東京商法会議所」の会頭、副会頭である)が案を練り、宿舎は芝離宮、七月三日の横浜到着のときは、祝砲二一発を放ち、岩倉右大臣、伊藤博文以下参議各官の出迎え、東京では、昼食会、夜会、観劇(新富座)さらに上野公園での天皇臨御の上での大歓迎会など計画し実施された。
 グラントは、この好意に深く感謝した。折からわが国と清国との間に琉球の帰属について論争があり、清国は琉球が古くから清国に朝貢していたことを理由に自国領を主張していた。しかし島津藩の解体によりわが国は琉球を日本の国土として考えていたので衝突したのである。グラントは日本の主張を正しいものとして清国との間にはいり、一応これを解決した。グラントは、さらにわが国の対外政策にも多くの助言をおこない、海外事情にうとい政府を激励して帰国した。
 上野公園にグラント夫妻が記念に植樹したヒノキとギョクランがあり、グラントの横向きの銅板レリーフが記念碑として立てられている。像の下に「平和をわれわれに」と英文でしるされている。グラント・ハイツもその役割を果そうとしたのであろうか。

練馬の中のアメリカ
 ゲートと、金網のバリケードに守られたアメリカ人の国が、練馬の真ん中に出現したのである。移転してきた軍人家族は千二百世帯といわれていた。日本人従業員も最多時で五千人いたという。一戸に必ずメイドが一人つき、階級の上位の軍人家族には、ボーイや運転手がいた。通勤のメイドも中にはいたが、多くは住込みか、メイド寮に収容されていた。メイド寮は学校の校舎並みの大きな二階建ての建物であった。ボーイの養成所もあって、会話やマナーを教えていた。
 メンテナンスといって、施設の維持管理や、補修を行う管理事務所にも、多くの日本人従業員が仕事にたずさわってい
た。このほか、前掲の米軍レポートには記載がないが、電話局、ローラースケート場、ゴルフ練習場、陸上トラックなどの
施設ができた。
 川越街道からゲートのあった赤塚新町にかけて、米軍相手の商店が建ち並んでいた。カラフルな衣装や、アメリカ人好み
の珍しい品々に土地の人々はただ、目を見張るばかりであった。日本人女性のいるカフェーなどもあったが、朝霞のキャン
プと異なって、家族住宅であったため治安はわりあい良好であった。
 子供の悪戯は今でも万国共通である。金網をぬけ出しては、付近の民家の柿の実や、草花を取って喜んでいる姿は、日本
人の子供と少しもかわらなかった。家族ぐるみのつき合いをしている家も少なくなかった。誕生日の祝いとか、クリスマス
とかに、招んだり、招ばれたりしていた。
 消火栓や貯水槽の不完全な時代であったのに、ハイツの中は完備されており、付近の日本人住宅の火事にも、その防火施
設が活躍してくれた。衛生管理も行きとどいていた。夏季の害虫駆除は、飛行機を飛ばして薬剤散布を行なった。付近の一
般住宅にも、ハイツの従業員が来て作業をしてくれた。おかげで米軍のいる間は、付近に蚊や蠅が全くいなかった。ただ、
虫がいないので花をつける胡瓜、茄子、トマトなど果菜類の栽培はできなかった。
 ハイツに隣接の農家は、鶏二〇羽、豚三頭、牛一頭以上の飼育はしないよう指導されていた。人糞など不潔な肥料は、もちろん、厳禁であった。
 昭和三四年の春から、ハイツは逐次、立川・横田基地へと移転していった。
 同年四月、東上線上板橋駅・グラント・ハイツ間、六・三kmのケーシー線が完全廃止となった。建設途上の昭和二二年には延一万六〇九〇車(二万一七九二t)二三年には一万三四七五車(五万一五一四t)もの資材輸送を行っていた本線も、住宅完成後は当然ながら、わずかに日用品を輸送するのみで、その量は大幅に減少していた(『東武鉄道六十五年史』)。
 基地縮小がすすむにつれて、日本人従業員の離職問題が表面化してきた。これより先、東京都ではハイツ完成後も間もない昭和二三年一二月、田柄町に「成増労務管理事務所」を設け、引き続き駐留従事者の管理にあたっていた。その後、この「成増労管」は「新宿労管」に吸収合併されたものの、離職者には失業保険にあたる補償や、支度金の支給などを行なった。
 練馬区でも、中高年で離職したメイドで、それまで寄宿舎や、米人家族のハウスに住み込んでおり、離職後住宅に困窮す
る人たちに、住宅の斡旋などを行なった。また、メンテナンスや清掃関係に従事していた人々は、離職後それぞれの特技を
生かした会社を設立した。経営的には、なかなか苦しい時代もあったが、区の支援もあって現在は活発な事業をつづけてい
る会社もある。(以下略)


       東京都・成増陸軍飛行場跡地       

帝都防衛基地として調布飛行場と双璧でしたが、末期には特攻隊が移駐してきたそうです。

成増陸軍飛行場 データ
設置管理者:陸軍
種 別:陸上飛行場
所在地:東京都豊島区上練馬(現・練馬区光が丘)
座 標:N35°46′00″E139°37′46″
標 高:40m
規 模:東西1500m 南北1800m
面 積:181ha
滑走路:1,200m×60m(18/36)コンクリート舗装(道路や家屋模様に迷彩が施された)
(座標、標高はグーグルアースから)

沿革
1942年   測量開始
1943年   風向調査
    06月 24日 陸軍と地権者との用地譲渡契約調印
    08月 成増陸軍飛行場着工
    10月  飛行第四七戦隊、柏より改称して移駐
    12月 飛行場竣工
1944年    飛行第四七戦隊に体当たり専門の震天制空隊編成
1945年03月 9日 爆撃を受ける
     04月 5日 爆撃を受ける
     08月 15日 終戦。24日、米兵がやって来る
1946年    耕作組合を結成。飛行場跡地で耕作が始まる
1947年04月 駐留米軍の家族住宅着工
1948年06月 アメリカ陸軍の家族宿舎完成。「グラント・ハイツ」と命名
     12月 東京都、田柄町に「成増労務管理事務所」開設
1955年    居住する米軍の帰国や移転によりハイツ内は空洞化→返還運動が活発になる
1958年07月 1日  グラント・ハイツの管理が米陸軍から第五空軍部隊に引き継がれる
1959年   春、ハイツは逐次、立川・横田基地へと移転
    04月 東上線上板橋駅~グラント・ハイツ間6.3kmのケーシー線が完全廃止
1973年    グラントハイツ全面返還
1981年12月 光が丘公園開園
1992年03月 光が丘団地完成

関連サイト:
U.S. Army Map Service, 1945-1946  

この記事の資料:
現地の碑文
練馬区史現勢編
光が丘の地図集
防衛研究所収蔵資料「本土における陸軍飛行場要覧 第一復員局(陸空 本土防空7)」
防衛研究所収蔵資料「陸空-本土防空-48飛行場記録 内地(千島.樺太.北海道.朝鮮.台湾を含む) 昭19.4.20第1航空軍司令部」


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