熊谷線の橋脚 [├場所]
以前書いた熊谷線の記事■で、「利根川を渡る橋脚はすべて撤去されてしまった」
と書いたのですが、H.Kumaさんから「利根川の北側に橋脚が1つだけ残っている」
と教えていただき、先日見て来たのでした。
てっきり河川敷内にあるのだとばかり思っていたのですが、外側にありました。
土手道のすぐ側です。
というか、外側だったから残ったのでしょうか??
土手の上から見るとこんな。
画面奥、線路跡っぽいですね。左側は立派な野球場です。
分かり難くて申し訳ありませんが、画面真ん中らへんに橋脚の頭がちょっと見えてるのわかるでしょうか?
土手道と橋脚、大体同じくらいの高さですね(←これが言いたかった)
橋脚に背を向けるとこんな風景。
利根川が横たわっています。
この辺りは(おおよそ)利根川が県境になっていて、
こちら側は群馬県大泉、あちら側は埼玉県熊谷市(旧妻沼)。
ここから対岸に向かって点々と橋脚が並んでいたのですねぇ…。
同じく橋脚の所から見た国道407号線の刀水(とうすい)橋。
中島飛行機の人たちは熊谷線で妻沼まで来て、バスに乗り換えてこの橋を通って工場に通ってました。
「太田市史通史編 近現代」によりますと、
1945年4月4日 関東地方に進入した約100機のB29のうち約50機が太田方面へ飛来しました。
米軍資料によれば、この時の目標は小泉工場。
ヒコーキ生産を担う太田地方と埼玉、東京方面を結ぶ交通の要衝である、
1943年6月に完成したばかりのこの刀水橋も狙われました。
橋周辺には多数の爆弾が投下されたと言われていますが、破壊は免れました。
当時の橋は1971年に架け替えられるまでその役割を果たしたのだそうです。
土手を降りて橋脚に近づいてみました。
特に立ち入り禁止にもなっておらず、好きなだけにぢり寄れます。
特にこのブツの説明をするものは見当たりませんでした。
土手の上を行き来する学生さん、ジョギング中の人たちはこの物体の正体をご存知なのかしらん。
鉄筋がたくさん飛び出てますね。
こんな小石がむき出しになっている部分も。
記録では、「1944年(昭和19年)4月までに着手」するように。という認可証があり、
1947年(昭和22年)7月には一切の工事が終了していますから、
この橋脚も1944~47年の間に作られたのでしょうね。
物資困窮の中、治水上の問題で大変苦労して橋脚を完成させた訳ですが、
この橋脚は前述の通り河川敷の外側にありますから、治水上万難を排してまで完成させる必然性はないはず。
もしかしたら工期の初期に完成したのかもしれません。
いずれにせよ、作られてから60年以上経過しています。
実はこの日、群馬県の飛行場跡をうろついてきまして、最後にこの橋脚を見たのでした。
前後してしまいますが、飛行場跡の記事もボチボチアップします~。