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桐生愛国飛行場跡地 [├空港]

  2009年5月、2016年4月訪問 2023/4更新  

無題8.png
撮影年月日1947/10/29(昭22)(USA R408-No1 47) 
出典:国土地理院ウェブサイト(地理院データを加工して作成)

群馬県桐生市のお隣、笠懸村(現みどり市)にあった「桐生愛国飛行場」。

後述しますが終戦までの10年間だけ存在した小さな飛行場ですので、

かなりマイナーな部類だと思います。

資料によれば、「戦後飛行場跡地は開拓された」と記されています。

上の航空写真は終戦から2年後の飛行場跡地。

パッチワークのように畑が広がっていますが、飛行場跡地の様子が明らかに周囲と異なってますね。


この飛行場跡地には2009年5月にお邪魔していたのですが、おおよその場所しか分かりませんでした。

最近になって「航空路資料第3 関東地方飛行場及不時着陸場 昭和18.8 水路部」という資料をゲットし、

その中に当飛行場についての詳しい地図があったため、現在の地図に落としてみることに。

ところがこの地図とグーグルマップを比較してみると、両毛線と県道69号線はまあいいとして、

それ以外のありとあらゆる道路が当時と現在では違うのです。

とっかかりとなる基準点が作れないため、結局ほとんど目測で作図し、

後からいろいろ数字を見ながらツジツマ合わせの微調整する。

というやり方で作図しました。

上図、これで一応飛行場敷地面積、縦横比、それから飛行場北東の角地と、線路/県道との離れ具合、

数字的にはピッタリです。

数字的には。

まあこれで大きなズレはないかと。 

で、敷地の北東角地に事務所、格納庫があることが分かったので、ここの写真を撮ろうと出掛けたのでした。 

DSC_0103.jpg (オイラの計算が正しければ)飛行場敷地北東の角地はココ。

ここから画面右奥に向かって飛行場だったはずです。 

2010/9/30追記:
すずき@東毛さんの記事「桐生愛国飛行場跡 (みどり市笠懸町)」(下記リンク参照)に飛行場の地図が載っています。

 

歴史

桐生愛国飛行場は1934年に着工、翌1935年3月25日に逓信大臣から非公共飛行場として使用許可を受けました。

開場後どんなことに使用していたかといいますと-

・陸海軍からの委託で飛行学校生がフランス製アポロ式複葉機による落下傘の投下試験
・県下青少年の士気を鼓舞し、銃後に備える心構えを培う啓蒙活動
・旧制中学生や青年団幹部を対象としたグライダー滑空訓練

またこの飛行場から羽田飛行場まで直線距離でちょうど100キロで、

この区間が逓信省乗員養成所の試験コースとして使用されることもあったのだそうです。

 

この飛行場は終戦間際の頃、米軍機の空襲を受けています。

格納庫は跡形もなく吹き飛ばされ、隠してあった飛行機1機が機銃掃射で完全に破壊され、

飛行場とその付近は、機銃弾の薬莢が散乱していたそうです。

こうして桐生愛国飛行場はその機能を失ってしまいました。

これが笠懸村唯一の空襲だそうですから狙い撃ちされたんでしょうね。

よく見つけるもんですね。

 

建設までのいきさつ

陸軍は非常時の国民の精神動員計画の実践として帝国飛行協会を中心に300ヵ所の

「愛国飛行場」建設計画を打ち出しました。

これは、一般市民、非軍需企業からの献金で飛行場を建設して陸軍に献納してもらおうというものです。

当桐生愛国飛行場もこの流れに乗ったもので、

地元桐生の森宗作(有力な織物業者、四十銀行頭取)が航空機の将来性に着目し、

民間有志の手によって航空事業に寄与したいとの念願から建設された飛行場です。

オイラの知る限り、当時の新設飛行場はほとんどが最初から軍が建設したもので、

あとは逓信省と自治体のものがチラホラある程度なのですが、こんなケースもあったのですね。

 

因みに陸軍に飛行機を献納すると、「愛国号」となり、

海軍に献納したものは、「報国号」となりました。

 

飛行場着工の2年前、帝国飛行協会桐生支部の発会式が行われました。

名士の講演会その他の催しなどで航空思想の宣伝に努め、同志を集めることに尽力し、基金獲得を続けました。

愛国美談の献金運動が進んだのだそうです。

こうして集まった基金により、帝国飛行協会桐生支部の事業として飛行場が建設されました。

ここに敷地が決まった理由として、森宗作の所有地がこの用地の一部であったこと、

この事業に共鳴した当時の笠懸村長がここの用地の大半を所有していたことから用地取得が容易であり、

この付近が民家から遠く、特別の障害物もないことなどがあったと言われています。

整地工事の際、地形が西高東低だったため、トロッコを使用して西から東へ土を運んで平坦にしたのだそうです。

余談ですが当時軍(特に陸軍)が建設した飛行場は周辺の地割などお構いなしの真四角のものが多いです。

それと比べるとここの飛行場は周囲の畑に遠慮したようなイビツな形で、

この辺が軍と民間の違いなのかなぁ、と思いました。

 

空襲により機能を失った飛行場はしばらくの間放置されて荒れるに任せてあったのですが、

やがて農地解放の結果、11戸の農家が入植し、立派な農地に生まれ変わり、

戦後の食糧不足を補うのに役立ちました。

こうしたいきさつからこの部落は今でも「就農」と呼ばれているのだそうです。

 

■前出の防衛研究所収蔵資料「航空路資料第3 関東地方飛行場及不時着陸場 昭和18.8 水路部」

にある当飛行場についての情報を以下抜粋させて頂きます。

第1 桐生愛国飛行場(昭和17年12月調)
管理者 大日本飛行協会群馬支部(桐生市役所内)。
位置 群馬県新田郡笠懸村大字鹿字鹿ノ川。
   (桐生市の南西方約6粁、北緯36°22′6、東経139°17′2)。
種別 非公共用陸上飛行場。

着陸場の状況
高さ
 平均水面上約123米。
広さ及形状
 長さ東西430米、幅南北300乃至400米の梯形地域なり・着陸地域は概ね
 図示の長さ北東-南西400米、北西-南東400米及東西310米、幅各20米
 の芝敷滑走路を最適とす(付図参照)。
地表の土質
 赤土を混ずる尋常土。
地面の状況
 地表は概ね平坦なるも北より南に向け1/180の下り勾配を有す・一面に良好
 なる牧草密生し約5噸の重壓に耐え得る硬度なり・降雨及季節に因る影響
 なく且排水良好なり。
場内の障碍物
 なし。

適当なる離着陸方向
 地方風の関係上夏季は南東、冬季は北西を適当と認むるも陸軍機は従来北
又は南に向け離着陸せりと言う。
施設
 第1格納庫(間口14米、奥行14米、軒高2.7米)1・第2格納庫(間口18
米、奥行27米、軒高3.4米)1・飛行場事務所兼休息所1・倉庫1・自動
車庫等あり・合宿所(収容員数50)は目下建設計画中なり。
昼間標識 地名標識「キリフ」(場内の略中央に白書す)・吹流1・着陸
     誘導表示盤(滑走地区の両端に4箇)あり。
夜間標識 なし。

周囲の状況
山岳
 北方約3粁に鹿田山(高さ227米)、東方約3.2粁に茶臼山(高さ約300米)
 等の山岳連互するも付近は概ね平坦地にして特に南方は地貌広濶なり。
樹林
 西方約400米に松林(高さ20米)、南方300米に雑木林(高さ15-20米)
 存在す、其の他の外方周囲は概ね丈低き桑畑又は果樹園なり。
電線
 北西端より外方約80米に鐡道に沿い高さ3米の電話線1條あり。
着目標
 桐生市街、渡良瀬川、東部桐生線、両毛線、格納庫。

地方の状況
軍隊及憲兵
 東部第38部隊、高崎憲兵分隊(高崎市)各西南西方約30粁。
警察署及役場
 桐生警察署(桐生市本町)北東方約8粁、鹿の川巡査駐在所北東方約1.5
 粁・笠懸村役場(鹿の川)北東方約1.5粁。
医療
 桐生市に市立病院、私立病院4及医院50あり。
宿泊
 桐生市に旅館約31(収容員数総計300)あり。
清水
 場内に水質良好なる井水あり。
応急修理
 落下傘性能試験実施の為常時藤倉工業株式会社の地上整備員駐在するを以
 て一時的小修理は可能なり、大修理は中島飛行機株式会社太田工場(南東
方約15粁)に依るを可とす。
航空需品
 本場に相当量の航空用燃料及潤滑油を貯蔵しあり、大量需要の際は中島飛
 行機株式会社太田工場より補給するを可とす。

交通、運輸及通信
鉄道
 岩宿駅(両毛線)北東方約2.5粁、阿佐美駅(東武鉄道)東北東方約3粁、
 桐生駅(両毛及足毛線)北東方約7粁。
乗合自動車
 笠懸村役場前停留所(北方約1.5粁)を経て桐生及前橋方面に、又大原停留
 所(南方約1.5粁)を経て桐生及前橋方面に至る乗合自動車便(何れも東武
 自動車株式会社)あり。
道路
場の東方約400米に北は桐生市、南は太田町及伊勢崎市に至る鉄道あり・
飛行場北東隅より此の県道に通ずる幅員6米の飛行場専用道路あり。
運送店
 桐生市内に運送会社5(貨物自動車総計59、乗用自動車19)あり。
電信及電話
 最寄電信局は北東方約2.5粁の岩宿駅公衆電報取扱所なり・飛行場事務所
 に電話(笠懸25番)あり。

気象
測候所
 前橋測候所(前橋市岩神町)西方約20粁・毎日1回(午前8時頃)航空気
 象を観測す。
地方風
 3-11月間は概ね南東風多きも風力弱し、12-翌年2月間は北西風(俗称
「赤城颪」)多し・冬季赤城山頂に雲ある場合は10米/秒前後の北風強吹す。
天候
 前橋測候所に於ける2557-2600年44箇年間の統計次の如し。(以下月ごとのデータ省略)
地方特殊の気象
 夏季(7、8月)雷雨多く冬季(11-翌年4月)降雪あり。
気象予察の俚諺
 新潟県境より群馬県北部に亙り降雪の場合は北風となる・1箇年を通じ南
 方より雲を生ずる場合は雨となり、冬季は雪となること多し。

其の他
1. 本場は昭和10年3月非公共用飛行場として設置せられ目下藤倉工業株式
会社の軍用落下傘性能試験場として使用中なり。
2. 昭和18年5月着工の予定を以て南側及西側の一部を含む総計約4万坪を
 拡張計画中なりと言う。

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■国立公文書館デジタルアーカイブ 昭和十四年一月 航空要覧 逓信省航空局編輯 帝國飛行協会発行

の中で、「本邦飛行場一覧(昭和十三年十月現在)」非公共用飛行場 として以下記されていました(9コマ) 

名 称  桐生愛国飛行場
経営者  帝國飛行協会
所在地  群馬縣新田郡笠懸村大字鹿ノ川
水陸の別 陸
滑走区域 東西四三五米 南北四三〇米
備 考  (記載無し)

かどや公園の石柱


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帝國飛行協會桐生支部

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昭和十年九月十五日建之


飛行場跡地から両毛線を越えた北側に「かどや公園」があります。

公園南東角の駐車場に石柱があり、

「帝國飛行協會桐生支部」と彫られています(先頭のグーグルマップ青マーカー)。

当時飛行場の旗を立てる柱を支えていたと考えられていて、

飛行場内にお住まいの方から預かり保存しておられるのだそうです。

当公園は元々「火鉢博物館」だったんですが、名称変更していると「すずき@東毛」さんから教えて頂きました。

詳しくは下のコメント欄をご覧くださいませ。

「すずき@東毛」さん、ありがとうございましたm(_ _)m 


       群馬県・桐生愛国飛行場跡地      
台風の際、風で飛行機が付近の畑に飛ばされてしまい、監視当番が大慌てをしたこともあったのだそうです。飛行場であった当時の面影は、事務所だった建物の一部が僅かに残されているのみなのだそうです

桐生愛国飛行場 データ
管理者:帝国飛行協会桐生支部長 森宗作、陸軍に献納 
種 別:非公共用陸上飛行場
所在地:群馬県新田郡笠懸村大字鹿字鹿ノ川(現みどり市笠懸町鹿)
座 標:N36°22′6″E139°17′2″
着陸地域:400mx310m(幅20mの芝敷滑走路)
面 積:16.5ha
標 高:123m
風 向:概ね南東、但し12月から2月まで北西

沿革
1932年11月 06日 帝国飛行協会桐生支部発会式
1934年    建設着手
1935年03月 25日 逓信大臣から非公共飛行場として許可
    09月 15日 グライダーの初滑空
1943年05月 拡張工事着工予定
       終戦間際に空襲を受け、飛行場としての機能を失う

この記事の資料:
笠懸村誌下巻
群馬の戦争遺跡
防衛研究所収蔵資料「航空路資料第3 関東地方飛行場及不時着陸場 昭和18.8 水路部」

関連サイト:
すずき@東毛さんの記事「桐生愛国飛行場跡 (みどり市笠懸町)」     


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