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東武小泉線物語 [├雑談]

雨で北海道に行けなかったオイラは、代わりに群馬周辺をほっつき歩いてきたのでした。

当ブログはこれから3週間、群馬・埼玉強化月間とさせていただきます。

3週間、話の中心となる中島飛行機と東武鉄道の変遷を時系列にしてみました。



1916年(大正5年)以前の東武小泉線周辺の路線図。

既に国鉄両毛線、東武伊勢崎線、東武佐野線、東武桐生線が走ってました。

この図に今回の主役、東武小泉線を描き加えたらもう現在の路線図になります。

この周辺の鉄道網は早くから確立してたんですね~。



1917年3月12日 
館林-小泉町間10.7km開業
この時は東武鉄道とは別会社で、中原軽便鉄道でした。

1922年2月 
中原軽便鉄道改称。地方鉄道「上州鉄道」に。
開業当初から経営は非常に苦しく、利益を出すことができませんでした。
線名変更も、存続のために打った数々の方策の1つでしたが、結局これもうまくゆきませんでした。



1934年10月 
中島飛行機太田工場拡張、新工場完成
中島飛行機の生産が軌道に乗り、増産に次ぐ増産で爆発的な拡大期に入りました。

1937年1月 
東武鉄道、上州鉄道(館林~小泉町間)を買収 
借入金が累増する一方のため、「東武鉄道と館林駅で接続している」という密接な関係から買収することに。
こうして「東武小泉線」が誕生しました。
     
1937年5月 
東武鉄道、太田-小泉町間5.5kmの建設計画提出
この路線を東西に延ばすことは、上州鉄道創設者の念願でもありました。

1938年4月 
太田-小泉町5.5kmの建設計画認可
認可を受けた線がどこを通る計画だったか、資料を探すことができず不明なのですが、
上のグーグルマップの通りで、太田駅-小泉町駅間にそれっぽい線を引いてみたら、5.3kmでした(ベージュ線)。
認可を受けた5.5kmとは200mしか差がありませんから、
こんな感じでほぼ一直線に二点を結んでいたのではないかと。

ところが…


1939年3月
太田飛行場起工式
中島飛行機が専用飛行場を作ることになりました。
このため、せっかく許可を受けていたのに線路敷設ができなくなりました。



1939年4月13日 
東武鉄道、仙石河岸線開業
小泉町-仙石河岸4.0kmの貨物線です。
利根川の砂利採取のため、河岸まで線路が引かれたそうです。
で、せっかく営業を始めたのですが…



1940年4月 
中島飛行機小泉製作所開設

1940年6月 
仙石河岸線 線路移設 
小泉製作所のために線路をずらすことになり、4.0kmから4.3kmに延びてしまいました…。  
開通してからまだ1年ちょっとしか経ってません。
東武からすれば「またか!」の思いだったかもしれませんが、
小泉町~太田間は計画段階で頓挫しただけマシだったのかもしれません。



1941年2月15日 
太田飛行場開場式

1941年6月 
小泉線 太田-小泉信号所間 開通
軍の要請で小泉製作所への従業員輸送のため、先に提出した計画を変更して、
小泉信号所(後の東小泉)を設け、飛行場を迂回して太田へ線路を延ばすことにしました。
小泉信号所では運転士と車掌が入れ替わり、ポイント切り替えを行ったのだそうです。
因みにこの「小泉信号所」と「小泉町駅」は、駅になったり止めたりを繰り返すのですが、
このへんは面倒なので本筋からそれるので割愛します。気になる方はWikiなどご覧くださいませ。

1941年12月1日
西小泉駅開業
小泉製作所の玄関駅になりました。



1942年2月 
東武、新線敷設申請書を鉄道大臣に提出
軍命により計画された東武熊谷線です。
仙石河岸線 西小泉駅南方で分岐して高崎線熊谷駅まで結ぶ13kmの計画でした。



1943年12月5日 
熊谷線 熊谷~妻沼間営業開始
続けて小泉線との接続工事にとりかかったのですが…



1945年8月 終戦
太田製作所、小泉製作所→米軍に接収
太田飛行場も接収→米陸軍飛行隊駐留

東武熊谷線の二期工事は当然中止。
太田製作所に関して市史によれば、米軍は爆撃後に建物1つ1つについて爆撃の成果を詳細に評価し、
不足が認められた施設には再爆撃を加えるという徹底振りとありました。



1955年9月 
新小泉駅開業 
工業製品輸送に用いられました。

1959年 
元小泉製作所、返還され東京三洋電機に

1960年 
元太田製作所、返還され富士重工群馬製作所本工場に

1969年 
元太田飛行場、返還され富士重工大泉工場に
太田飛行場の返還をもって群馬県のすべての施設が返還されたのだそうです。



1974年8月
妻沼~新小泉間3.7kmの未成線廃止申請→許可

1975年4月 
新小泉駅廃止


1976年10月 
仙石河岸線 廃止
熊谷線の一部となり、中島飛行機の従業員を輸送する計画がありましたが、
結局砂利と工業製品の輸送でその使命を終えました。



1979年3月
熊谷線利根川橋脚撤去工事完了。

1983年6月 
熊谷線廃止



 

 

 

               「 夏 草 や 兵 ど も が 夢 の 跡 」

 

 

 

この記事の資料:
東武鉄道百年史
東武鉄道百年史・史料編
太田市史 近現代