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札幌第一(北海タイムス社、札幌)飛行場跡地 [├空港]

  2009年6月、2023年6月訪問 2023/7更新  


無題d.png
測量年1928(46-10-3-2茨戸)  
出典:国土地理院ウェブサイト(地理院データを加工して作成)

札幌市にあった「札幌飛行場」。

かつてはここから羽田に毎日定期便の飛来がありました(後述)。

沿革にもまとめましたが、1925年(大正14年)に北海タイムス後援の道内宣伝飛行のため、

当地が飛行場として(一時的に)使用されました。

それから2年後の1927年、北海タイムス社が現在北区役所のある北24西6を中心に飛行場開設しました

(先頭のグーグルマップ青マーカー)。

■「航空年鑑昭和6年(1931年)」には、

「北海タイムス社飛行場(陸)札幌市北二十四・二十五條西六・七・八丁目(東西一九〇南北三六〇)」

と記載されているとアギラさんから情報頂きました。

「札幌飛行場」でググると、「北海タイムス」というワードはたくさん出てくるんですが、

「北海タイムス社飛行場」というそのものズバリの飛行場名は、

現在のところググってもこのアギラさん情報以外出てきません。ありがたや。

で、頂いた情報の「札幌市北二十四・二十五條西六・七・八丁目」を囲ったのが先頭のグーグルマップのグレー部分。

「東西一九〇南北三六〇」とは、飛行場の敷地の広さを示す(190mx360m)ものだと思うんですが、

その通りの大きさに引いたのがパープル部分です。

…なんか、パープル部分を横に寝かせた方がしっくりくるような。。。

グレーの範囲内に飛行場があったはずなので、パープルをどの位置に落ち着けようか。と思ったんですが、

パープルの横幅だと、2ブロック使えば東西方向は充分おつりがくる大きさなんですよね。

でもせっかく資料に「西六・七・八丁目」とあるので、3ブロックにまたがった位置に置いてみました。

北海タイムス社が飛行場を開設したのが1927年、後述しますが逓信省がここを拡張したのが1933年。

上の地図は1928年測量ですから、「北海タイムス社飛行場」が絶賛運用中の地図ということになります。

測量が行われた当時、確かにここに飛行場があったはずなんですが、特にそういう地割、記載はないですね。

イマイチハッキリしないんですが、ともかくこの辺りに「北海タイムス社飛行場」があったはずです。

この場所に立って、1927年にタイムスリップして、位置を確認したい!

位置の確認さえできれば、もう戻れなくてもいい!(マテ)


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「今昔マップ on the web」より作成(昭和10年修正) 

前述の通り、「北海タイムス社飛行場」は1933年に逓信省の「札幌飛行場」となって拡張されました。

上に貼った地図の通りで、今回はちゃんと「札幌飛行場」とありますね。

その後1937年に公共用陸上飛行場として許可を受け、同年東京への定期便の運航が始まりました。

■朝鮮交通史1037p 

日本航空輸送株式会社の東京-仙台-青森-札幌 定期便が設けられました。

資料:定期航空路線図 自昭和13年10月1日至昭和14年3月31日 によれば、毎日運航でした。
9:30東京発 11:00仙台着/11:20仙台発 1:00青森着/1:10青森発 2:40札幌着
9:00札幌発 10:30青森着/10:40青森発 0:20仙台着/0:30仙台発 2:10東京着


■国立公文書館デジタルアーカイブ 昭和十四年一月 航空要覧 逓信省航空局編輯 帝國飛行協会発行
の中で、「本邦定期航空現況(昭和十三年十二月現在)」として以下記されていました(6コマ) 

経営者 大日本航空株式会社
航空線路 東京-札幌
区間 東京-仙台間 毎日一往復
   仙台-青森間 毎日一往復
   青森-札幌間 毎日一往復
線路開設年月 昭和十ニ年四月

■国立公文書館デジタルアーカイブ 昭和十四年一月 航空要覧 逓信省航空局編輯 帝國飛行協会発行

の中で、「本邦飛行場一覧(昭和十三年十月現在)」として以下記されていました(8コマ)■ 

名 称  札幌飛行場
経営者  國
所在地  札幌市北二十四條西五丁目
水陸の別 陸
滑走区域 東西九〇〇米 南北八〇〇米
備 考  (記載無し)

■防衛研究所収蔵資料:航空路資料 第11 北海道地方飛行場及不時着陸場 昭和16年3月刊行 水路部

に当飛行場要図があり、上のグーグルマップはそこから作図しました。

同資料には飛行場についての詳細な情報もあり、「昭和15年8月調」とありますので、

東京便開設から3年後の札幌飛行場について記していることになります。

実はグーグルマップの機能を使って二次元の作図をすると、自動的に面積を出してくれます。

優れものですね(*´∀`*)

薄紫部分が飛行場敷地、濃い紫部分が着陸地区です。

作図後、薄紫部分は「0.549 平方キロメートル」と表示されました(編集画面でないと見れない)。

一方、防衛研究所の同資料によれば、札幌飛行場は「総面積約55萬平方米」とあります。

それで飛行場の地割は大体こんな感じで合ってると思います。

 

L字形の敷地のうち、西側部分が着陸地区で、東側部分は着陸地区から除外されているんですが、

資料によればこれは敷地の東側が泥炭地で軟弱なためで、「要図」には「離着陸禁止区域」と記載があります。

また敷地南西部分(青マーカー)に付帯施設が並んでおり、「要図」にはそれぞれの施設の名称がありました。

東側から順に、航空局庁舎、日航事務所、計量器庫、整備場、日航格納庫、油庫、整備工場、

海軍予備航空団格納庫、北海タイムス社格納庫、帝国飛行協会格納庫 とあります。

グーグルマップを拡大して頂きますと、紫マーカーのところに「札幌飛行場 正門跡」とあるのですが、

「要図」でもまさにこの部分が門として描かれています。

それからこれもアギラさん情報なんですが、

■「航空年鑑昭和15年」大日本飛行協会編(昭和16年発行)「學校グライダー部一覽」(昭和15年10月現在)の中で、

北海道帝國大學學生航空研究會、北海中學校、札幌工業學校グライダー部が札幌飛行場を滑空場として使用していた

と記されています。

アギラさん情報ありがとうございましたm(_ _)m 

■防衛研究所収蔵資料:航空路資料 第11 北海道地方飛行場及不時着陸場 昭和16年3月刊行 水路部

にあった当飛行場情報を以下引用させて頂きます。

札幌飛行場(昭和15年8月調)
札幌市北24條西5丁目(札幌駅の北方約3粁)
所管 航空局
着陸場の状況
高さ 平均水面上約10米。
広さ及形状 本飛行場は長さ南北約800米、幅東西約700米のL字形地(総面積約55萬平方米)なり・着陸区域は南方建物敷地を除き長さ南北約800米幅東西約470米を一辺とし、長さ東西約550米(中央)幅南北約400米の地区を一辺とする略L字形地区なり(付図参照)。
地表と土質 普通土又は泥炭土。
地面の状況 本場は草地を整地の上転圧せるものにして起伏なく一面に芝発生す・南より北に向い下り勾配約1/800、西より東に向い下り勾配1/1200なり・着陸区域は堅硬地なるも東辺より約240米間は泥炭地なるを以て地表軟弱にして離着陸に適せず目下使用禁止中なり・排水設備は南北に走る9條の排水暗渠及之に斜交せる小暗渠多数ありて周囲の排水溝に注ぐ排水良好なり・日射に因る影響は夏季晴天続くときも地面に亀裂を生ずることなく却って良好なり・雪解期は地盤幾分軟弱なとなるも普通の降雨にては變化なし・2月中旬より3月迄は降雪量多く12月中は積雪約30糎、1月-3月間は約140糎に及ぶことあ
り。
場内の障碍物 南側に格納庫及無線鉄塔(高さ20米)あり・本場の北端より北方約230米に高さ約11米の高圧送電線及場の周囲に立木、民家点在す。
適当なる離着陸方向 南北又は東西方向。
離着陸上注意すべき点 南北方向使用の場合は東辺より約300米付近に離着陸し、東西方向使用の場合は240米隔りたる処より発着するを要す・本場はL字形地区なるを以て北西方向の離着陸はL字形の交點の排水溝に突入せざる様注意を要す。

其の他
本飛行場は札幌市の北端北24條西5丁目より琴似村に亙り工費約31萬円を以て昭和8年3月設置せられ、昭和12年2月公共用陸上飛行場として許可せれらたるものなり・昭和12年4月1日より札幌東京間940粁の定期航空開始せられ、大日本航空株式会社の基点終点飛行場として輸送機発着し旅客及郵便の物輸送を行いつつあり、目下毎日1回発着す・下り便は午前7時羽田発仙台
青森を経て午後1時には札幌飛行場に到着す。

排水用の暗渠が張り巡らされていたんですね。

今でも掘れば出てくるのかしらん。

札幌~羽田間、所要時間が約6時間というのが時代ですね~。

ところが戦局の悪化から、この年東京便は無期限運休が決定してしまいます。

年表をご覧頂ければ明らかなんですが、この後徐々に軍の飛行場としての性格が強まってゆき、

札幌飛行場は結局陸軍の飛行場になります。

そして当飛行場が手狭になったことから、陸軍は札幌市内にもう1つ飛行場を建設することを決定。

1942年に当飛行場から北東約4.5kmの場所を用地買収し、着工。

翌1943年に完成しました。

こうしてもう1つ造られたのが現在の「札幌飛行場(丘珠空港)」で、当時は元祖であるこちらを「札幌第一飛行場」、

新しく出来た方を「札幌飛行場」「札幌第二飛行場」とも呼んでいました。

 
■新千歳市史通史編上巻 804pには、札幌飛行場開設、路線運航について以下の通り記されていました。

札幌飛行場
 七年八月の帝国議会で北海道方面定期航路用飛行場の整備が可決され、
八年区九月九日に竣功したのが札幌・北二十四条飛行場である。
 札幌飛行場が整備された翌年の昭和九年から日本航空輸送はローカル線
の運航を開始したが、北海道線の開設は遅れに遅れた。
 北海道が定期航空輸送から取り残されたのは国策にあった。満州、台湾
千二代表されるように航空路も北守南進であった。
 飛行場が完成しても定期便の就航は昭和自由二年度まで待たなくてはなら
なかったが、札幌線の開業によって日本本土縦貫航空路線網が確立した。
しかし、路線が開設されても北海道線は不採算路線で、かつ樺太など外地
への路線延長の見込みもないことから十五年七月九日をもって運休とな
り、戦前における北海道の定期航路はその幕を下ろした。使用機材は十二
年度が米フォッカー(アトランティック)・スーパーユニバーサル旅客機
(中島ライセンス生産)、十三年度からは三菱ひなずる型旅客機でいずれも
乗客数は六人だった。ひなずる型は英エアスピードA・S・6エンボイ旅
客機のライセンス生産として知られる。
 運航は一日一便。仙台と青森に各一〇分間寄港、東京-札幌間の所要時
間は六時間だった。冬季は運休であったが、最も搭乗者数が多かった昭和
十三年においても札幌からの利用者数は僅か七六三人だった。
 札幌飛行場の面積は一六万六八〇坪、滑走路は南北九〇〇㍍、東西八〇
〇㍍、公認施設の中型(乙型)航空東大は南一条西二丁目の丸い今井札幌
本店新館(現・一条館)の屋上にあった。



■防衛研究所収蔵資料「陸空-本土防空-48飛行場記録 内地(千島.樺太.北海道.朝鮮.台湾を含む) 昭19.4.20第1航空軍司令部」

にも1/5,000の要図があり、上のグーグルマップはこの要図から作図しました。

ちょっと下に1947年撮影の航空写真貼ってありますが、この航空写真では舗装滑走路が非常に目立っています。

要図にも同じような斜めに走っている地割(グーグルマップ黄色のシェイプ)があるため、

てっきりこの舗装滑走路を示しているのだろうと考えていたのですが、

要図にはこのグレーのシェイプが「滑走路」ではなく「滑走地区」とあり、破線で描かれていました。

また位置的にも異なっており、矛盾が生じてしまいます。

このため、これは舗装滑走路建設前の転圧滑走路なのだろうと思います。

要図にはいろいろ書き込みと、簡単な情報がありました。

上辺475
底辺720
東西方向最大920+
飛行地区南北方向東辺800
滑走地区900x100
恒風:西北西(滑走路方向)


位置
札幌市北二十四条西五丁目
気象
降雪は二、三月比較的多く曇天の日多し
積雪平均一米内外にして気温最低零下二十三度なり
六~九月に於て霧の発生を見るも八月比較的多し
交通其の他
札幌駅より約二粁にして自動車の運航自在なり
飛行場西方十粁に高さ一、一〇〇米の山岳あり
北方約二〇〇米に高さ約一一米の高圧線あり


続く頁には、更に詳しいバージョンの情報がありました。

札幌飛行場
所在地
 札幌市北二十四條西五丁目
面積
 五十五万百四十七平方米 十六万六百八十坪
土質、高低差 地表面状態
 土及泥炭地 南より北へ1/800 西より東へ1/200
 土地は平坦にして普通土または泥炭にして糾草密生す

気象
恒風
 冬季北西 夏季南東
晴雨日数
 快晴二一日 曇一九四日 雨一三三 雪一一九日
雨期 
 夏期四月-五月 冬期一二月-三月
暴風期
 暴風二〇日 
地方特殊気象状況其の他 
 五月より九月にかけて南東風強く十月より四月迄北西の季節風
 を受け降雪日永く続き天候不良 夏季は低気圧の通過後間も
 なく天候回復するも冬季は低気圧通過後□北西の季節風卓越
 して天気頗る悪し

周囲の状況
煙突
 飛行場南方約三粁に高さ二〇米の北海道帝国大学の煙突あり
山岳
 飛行場西南方約一〇粁の地点に高さ一一〇〇米の山岳あり

 飛行場東方三七五米に幅五米の創成川あり
高圧線
 飛行場北端二二七米に北成(西?)に向け高さ一一米の高圧送電線あり

交通
交通機関
 一、飛行場より南へ約一粁に市電北十八條停留所ありそれより
   市内へ通ず
 二、市中央部より自動車にて約十分飛行場へ着く
交通順路
 札幌駅前電車通り西五丁目停留所より北十八條停留所及飛行
 場へ通ずる直線道路あり


無題a.png
撮影年月日1947/09/10(USA M469 25)  
出典:国土地理院ウェブサイト(地理院データを加工して作成)

Wikiによれば、

「1945年8月 市民を動員して100haへの拡張工事が行われるものの、太平洋戦争の終結とともに中止される」

とあります。

上の航空写真は終戦から2年後のものなんですが、

逓信省時代の飛行場の地割と、拡張工事跡であろう地割が共存しています。

1,200m滑走路が目立ってますね。

■新千歳市史通史編上巻919pには、

「一二〇〇x五〇 板敷舗装 格納庫三棟 無蓋掩体壕1」とありました。

実はオイラ、当第一飛行場の作図として、正方形の敷地の地図をずっと載せていたんですが、

これは特に正方形であることを示す資料があったわけでもなく、

「航空写真でそんな風に見える」、「陸軍飛行場は方形のことが多い」というオイラの主観が根拠でした。

Wikiに「100ha」とあるんですが、 正方形だと130ha位になってしまうため、

改めて航空写真を見直して、どこが削れるか探したのが上の作図です。

まあこの敷地の形にも何の根拠もなく、飽くまでオイラの主観ですのでご了承くださいませ。

北東の角を削ってやっと111haとなり、100haまでにはもう少し削る必要があるんですが、

オイラにはこれが限界でした。

敷地の南西部分、ゴッソリ削れるんですが、ここ取っちゃうと一気に90haになるんですよね。

1947年測量の地図もあるんですが、飛行場の地割は先頭の1935年のものとまったく変わりがないため、

残念ながらどこを拡張したのかの参考にはなりませんでした(;´Д⊂)

草を刈って整地されているだけの滑走路で、機体がぬかるみにはまれば、

みんなでワッショイ、ワッショイ引き上げるというのどかさだったんだそうです。

■新千歳市史通史編下巻
372p
 この間、日本機は飛行制限を受けた。「日本の飛行機は8月24日18時以
降の飛行を禁止する。飛行するものは撃墜する」というものであった。飛
行禁止命令は空襲で陸上交通と通信がマヒしていた日本の終戦事務処理の
連絡手段がなくなるに等しかった。
 日本政府は連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)に対して主要都市間
の連絡飛行を懇請、9月12日付SCAPIN23で東京を中心とした急行便
1、普通便3の4路線が認められた。
 9月14日から日本人の自主運行によって1日4便の終戦連絡定期(緑十
字飛行-グリーンクロスフライト)が運航された。北海道方面は普通便の
第3航空路として東京-仙台矢本(現・空自松島)-青森油川-札幌間が、
月・火・木の週3便運航された。東京羽田飛行場が米陸軍に接収されてい
たため千葉県の陸軍松戸飛行場を代替として使い、札幌は北24条の札幌第
二飛行場を使った。緑十字飛行は10月9日をもってGHQから運航が禁止
された。その理由は陸上交通が次第に回復、整備されつつあり航空機を使
用する必要がなくなったということであったが、実情は惨憺たるもので
あった。
 緑十字飛行の運航禁止によって終戦連絡事務の人員およひ郵便物と貨物
の移動が停滞した。これを受け10月10日からは代替として米軍による帝国
航空便(インペリアルクーリエ)が運航された(S21・2・6廃止)。週
4便が運航され東京立川飛行場から第一千歳(14日初便のみ北24条・札幌
第二)に飛来した。仙台矢本と青森油川に寄航して所要時間は6時間だった。


終戦直後の緑十字飛行、帝国航空便で使用した過去があったのですね。 

■新千歳市史通史編上巻952p
 十月二十六日、札幌第二飛行場の板敷滑走路は油脂で、残置日本機は火
炎放射器によって米軍の手で燃やされた。

それから、わざわざ「札幌北二十四条の札幌第二飛行場」と記し、当飛行場を「第二」としています。

D20_0005.jpg

紫マーカー地点。

一見何の変哲もない通りに見えますが、画面中央に門柱が並んでいるのがわかりますでしょうか。

D20_0007.jpg

前述の通り、「要図」でもちょうどこの付近に正門があり、正門の左側に諸施設が並んでいました。

現在は開発が進み、すっかり市街地に変貌を遂げたため、門柱、碑が唐突にそこにあるという印象です。

最後の札幌飛行場長だった故辻領一さんの夫人ヤスノさんの証言でも、

「正門は北24西8にありました」とのことで、ここはまさにその住所です。

D20_0008.jpg

右柱

D20_0010.jpg

右柱後方にはこんなレリーフが。

「飛」の文字が入っているので載せておきます。

D20_0016.jpg

左柱

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説明板

D20_0011.jpg

「風雪」碑

D20_0012.jpg

消えてしまった全国無数の飛行場もこうして碑が残っていると探すのにとても助かるんですが…(願望)

かつてここでは20年程の期間、当たり前のようにヒコーキが飛び回る日常があり、

この場所から羽田への定期便が飛んでいた時代が確かにありました。

門柱と碑が今もこうして無言の証人となっています。


(以下2023年6月撮影)

DSC_0795_00001.jpg

赤マーカー地点。

札幌サンプラザ前。

地下鉄駅近の大都市ですが、当時はここの角から飛行場が広がってました。

DSC_0797_00001.jpg

黒マーカー地点。

1947年撮影の航空写真によれば、ココのちょっと後ろから画面奥に向って滑走路が伸びてました。


    北海道・札幌第一(北海タイムス社、札幌)飛行場跡地      

・北海タイムス社飛行場(1927年開設) データ
設置管理者:北海タイムス
種 別:陸上飛行場
所在地:北海道札幌市北二十四・二十五條西六・七・八丁目
飛行場:東西190mx南北360m
(データは航空年鑑昭和6年から)

・札幌飛行場(1940年8月資料) データ
所 管:航空局
所在地:北海道札幌市北24條西5丁目
標 高:10m
飛行場:800mx700m L字形地
面 積:55ha
着陸区域:800mx470m、550mx400m L字形地
(データは水路部資料から)

・札幌旧飛行場(1944年4月資料) データ
設置管理者:陸軍
種 別:陸上飛行場
所在地:北海道札幌市北二十四条西五丁目
面 積:55.147ha
滑走地区:900mx100m
方 位:10/28
(データは防衛研究所資料から、方位はグーグルアースから)

・札幌第一飛行場(終戦時) データ
設置管理者:陸軍
種 別:陸上飛行場
所在地:北海道札幌市北区北24条西8丁目1番地
座 標:N43°05′23″E141°20′15″
標 高:12m
面 積:100ha
滑走路::1,200mx50m
方 位::12/30
(座標、標高、方位はグーグルから、滑走路長は新千歳市史通史編上巻から)

沿革
1925年    北海タイムス後援の道内宣伝飛行のため、当地が飛行場として使用される
     06月 26日、永田重治操縦士の操縦するアブロ式504K複葉機が初の試験飛行を実施
1927年01月 旧北海タイムス社、現在北区役所のある北24西6を中心に飛行場開設。格納庫、事務所等設置
1932年08月 帝国議会が札幌飛行場建設を可決
1933年06月 9日 逓信省、北24条一帯を55万平方メートルの国営飛行場とし、民間機や報道用の定期空輸に使用
       南北約800m東西約870m
1936年    陸軍特別大演習観兵式開催
1937年02月 公共用陸上飛行場として許可 
     03月 逓信省より飛行場長派遣。航空局札幌飛行場を設置。
     04月 1日 日本航空輸送株、フォッカー・スーパーユニバーサル機による札幌-仙台-東京間の定期航路開始
1938年    丸井百貨店の屋上に航空燈台設置
     11月 フォッカー機が東嶽山山中に墜落したため東京便の定期航路一時中止
1939年    海軍予備航空団支部を設置。国策会社として大日本航空輸送株式会社誕生
1940年    戦局次第に厳しさを増す。東京便の無期限運休決定。会社経営による航空事業停止
    10月 この頃、北海道帝國大學學生航空研究會、北海中學校、札幌工業學校グライダー部が滑空場として使用
1941年    大日本飛行協会札幌飛行訓練所設置
1942年09月 日米開戦により北海タイムスは施設一切(飛行機3機、格納庫2棟等)を大日本飛行協会に献納
        以後札幌飛行場は札幌飛行訓練所となり、陸軍教官により北大等の学生に操縦教育を施す場となる
        陸軍飛行第13戦隊設置。九七式戦闘機9機配置
1944年   初めて軍用の板敷き滑走路(1,200mx50m)が完成したが、ほとんど使われなかったという
1945年     陸軍紺五四○部隊が駐屯。九五式練習機を配備。戦争末期には特攻訓練が行われた
        隣地約99万平方メートルの買収や寄付を受けて大拡張工事着手
     08月 15日 終戦
     09月 20日~翌10月7日まで月、火、木曜日に緑十字機飛来
     10月 14日 帝国航空便
       26日  板敷滑走路は油脂で、残置日本機は火炎放射器によって米軍により焼却

関連サイト:
みてきて北区/75.昭和二十年、炎の中に消える-札幌飛行場  
札幌飛行場   
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この記事の資料:
新千歳市史通史編上巻
新千歳市史通史編下巻
航空年鑑昭和6年
航空年鑑昭和15年
朝鮮交通史
防衛研究所収蔵資料「航空路資料 第11 北海道地方飛行場及不時着陸場 昭和16年3月刊行 水路部」
防衛研究所収蔵資料「陸空-本土防空-48飛行場記録 内地(千島.樺太.北海道.朝鮮.台湾を含む) 昭19.4.20第1航空軍司令部」


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