JALのこと・2 安全確保 [├雑談]
前記事の続きです。
今後日本には航空自由化で海外のLCCがどんどん参入するようになります。
日本の航空会社にはきめ細かいサービス、そして安心感という代えがたいアドバンテージがあり、
LCCとは一線を画すプレミア路線という方向性もあったのですが、
この厳しい経営状態では各支援先、株主が納得するようなコストダウンの断行は不可避でしょう。
航空会社の厳しいコストダウンというと、安全性がないがしろになることはないかという問題が出て来ます。
ということで、気になる「整備費」について、JAL、ANAと各LCCの比較をしてみました。
JALの「整備費」を100とした場合、
ANA:87 サウスウエスト:47 エアアジア:50 イージージェット:80
でした。
LCCと比較すると確かに日系は高いのですが、ビックリするほどの差はない。
というのが個人的な印象です。
また「整備費」はコストの中ではごく一部に過ぎず、
JALの「整備費」はコスト全体の6.6%、ANAは5.4%でしかありません。
整備の無駄を省くことは前提として、航空会社にとって最も重要な安全に直結する整備費を削らずとも、
「その他費用」、「人件費」等々まだまだコスト削減の余地はあるはずです。
利用者にとって、航空チケットが安いにこしたことはないのですが、
それでヒコーキ事故が増えてはなんにもなりません。
現在国は、国内の航空会社の安全性に目を光らせると共に、
外国から日本に乗り入れる航空会社にも目を光らせています。
具体的には、運行、整備、パイロットのエキスパートから成るチームで構成された検査官が
乗り入れ便数に応じて抜き打ち検査を行っています。
いつでも見張られているという意識を植え付けることにより、安全性が向上することを期待しているのだそうです。
一方、EUのやり方はもっと徹底したもので、
安全性の基準を設け、この基準に満たない航空会社にはEUへの乗り入れを認めない。
というやり方です。
「乗り入れを認めない」とされた航空会社は公表されており、
実際にアジアや中東の航空会社の中には『EU上空飛行禁止』という会社が沢山有ります。
これから日本にもLCC等、様々な航空会社が参入するようになると、
安全を確保するため、EU並みに毅然とした態度が必要になってくるのかもしれません。
JALのこと・1 [├雑談]
北海道強化月間ですが、ちょっとお休みしてJALネタを。
といっても、巷で交わされているJAL論議とは少しズレてしまいますが。
先日読んだ本の中に面白い資料があったのでご紹介します。
ANA総合研究所が出した「有効座席キロ当たりの費用(2006)」というもので、
ANA、JAL、イージージェット、サウスウエスト、エアアジアという、
ANA、JALと欧米亜の格安航空会社(以下、LCC:ローコストキャリアと表記)のコストを比較した資料です。
(以下、数字はグラフからの読み取りなので誤差が生じます。ご了承くださいませ)
この資料によりますと、「有効座席キロ当たりの費用(コスト)」はANA,JALが約11USセント(以下同)なのに対し、
サウスウエスト:5.5 エアアジア:2.2 イージージェット:7.0
で、日系とコスト最小のエアアジアでは約5倍の差があります。
やはりLCCのコスト縮減の徹底振りは凄まじいものがあります。
次にANA、JALのコストの内訳を見てみます。
この2社のコスト、全体の数値はJALがほんの少し低いだけでほぼ一緒。
内訳も多少凸凹があるものの非常に似通っています。
ここでは特に渦中のJALの内訳を。
人件費:15.0%
燃料費:23.9%
各種空港使用料:7.5%
整備費:6.6%
その他費用:37.1%
これで全体の90%を占め、残り10%に航空機材費、原価償却費、還付弁済費が入ってます。
同じデータでも人によりいろいろな見方があるのでしょうが、
以下オイラの妄想話を。
まず目を引いたのは、最も大きな割合を占める「その他費用」でした。
JALは37.1%なのですが、
ここに挙げられているLCCの「その他費用」はどんな割合かといいますと、
サウスウエスト:16%、
イージージェット:8%
エアアジア:グラフから読み取れない程低い
でした。
一方のANAは31%でやはり高いのですが、JALの”4割弱”というのは
各LCCと比較するとあまりに異常な割合に見えます。
オイラはこの「その他費用」に何が含まれているのか知りませんが、
「安全対策」のような絶対欠かせないもの以外に、
巷で噂されるあんなものやこんなものがいろいろと含まれていそうです。
ところでですね、仮にJALの「その他費用」をイージージェットと同じにすると、
なんと全体のコストはイージージェットと同じになるのです。
条件が違いますからこれで単純にイコールではないんでしょうが、
この数字だけ見ると、JALは「その他費用」の改革さえ実現すれば、
今すぐ欧州で立派なLCCとして通用するのです。
すごいぞJAL!!
「日系大手はとにかくコストが高い」というイメージが定着してますが、
この「その他費用」という不透明な部分を取り外してみると、
高い人件費、先物買いの燃料費とかの問題を依然内包しているにもかかわらず、
それでもイージージェットと互角の勝負になるわけです。
真面目に頑張っている部門がある一方で、権益に巣食う巨大な闇の部分がコストを異様に押し上げ、
様々な要因により続く利用客の世界的減少、政治家のごり押しで存続している赤字路線等々が
収入を減らす…経営が苦しくなるのも道理です。
コストのパートで見ていけば、「その他費用」が明らかに多過ぎるのだから、
この部分を改革すれば良い、なんてオイラでも思いつくわけですが、
こうした点も含めてどうにもできずにズルズルきてしまったからこそ、
今回のようなことになってしまったんでしょうね。
ネットでは楽観論から悲観論までいろいろ流れてますが…
一体どうなるんでしょうか。心配です。
(続きます)
浅茅野第一飛行場跡地 [├空港]
2009年7月、2023年6月訪問 2023/7更新
(昭和18年9月27日撮影)高度400米 方位S
(昭和18年9月27日撮影)高度600米 方位SSE
1945年(昭和20年)5月調査資料添付地図 Translation No. 63, 8 May 1945, photographs of airfields of Karafuto-Hokkaido and Aomori. Report No. 3-d(52), USSBS Index Section 6■ (国立国会図書館ウェブサイトから転載。上2枚とも)
撮影年月日1947/09/13(USA M513 19)■
出典:国土地理院ウェブサイト(地理院データを加工して作成)
前記事の「浅茅野第一飛行場」から国道238号線でオホーツク海沿いに更に南下した所にあった、
陸軍の「浅茅野第一飛行場」。
■防衛研究所収蔵資料「陸空-本土防空-48飛行場記録 内地(千島.樺太.北海道.朝鮮.台湾を含む) 昭19.4.20第1航空軍司令部」
に1/10,000の要図があり、 先頭のグーグルマップはこの要図と、サイト:共同発掘プログラム様(下記リンク参照)と、
上に貼った航空写真から作図しました。
要図には南北の滑走路がなく、共同発掘プログラム様にはあり、航空写真では線が拾えない箇所が多かったりと、
かなり妥協の産物になっておりますが、
瓢箪沼すぐ南側の掩体壕郡がかなりハッキリ残っているのと、天北線の二つを絶対的な基準としています。
要図には、 西風、北東風が恒風とあり、東西方向の滑走路は1400x100、北東~南西の板敷滑走路は1200x60
とあり、 飛行場敷地東側に「気象隊兵舎」、「兵舎二、炊事一」と書かれていました。
同資料の情報を以下引用させていただきます。
位置
北海道宗谷郡猿払村字浅茅野
気象
冬期間は積雪平均一?米にして使用不能なり
十二月初旬より四月中旬頃迄は地下一尺程度凍□す
風は側風を受くる時あるも大なる障碍とならず
交通 其の他
浅茅野駅より約四粁なり
浅茅野部落は戸数約三〇戸にして郵便局
憲兵派出所国民学校(約四〇〇名収容し得)あり
国道238から真っ直ぐ南下する交差点(青マーカー)があります。
先ずここから赤マーカー地点に向かいました。
画面奥が赤マーカー地点方向。すぐにこんな小道と交差します。
現在はサイクリングロードになっている天北線跡です。
あっち側
こっち側
赤マーカー地点付近
この道にはいくつか牧場の入り口があります。
朝の6時過ぎに周辺をウロウロしたのですが、人影はない代わりに朝露に伏した数頭の牛さんにジッと見られました。
飛行場運用当時既にあったのかは不明ですが、
この道は国道238と飛行場を結ぶ3本の道の1つとして1947年撮影の写真にもハッキリ写っています。
特に滑走路西側唯一の道で、南北方向の滑走路を構成しており、掩体壕、誘導路につながっていました。
ハイ、赤マーカー地点に到着しました。
赤マーカー地点の西側はこんな感じ。画面中央部をズームすると…
こんな感じ。
上述しましたが、現存する無蓋掩体壕の一部です。
実はですね…この掩体壕の右側にもいくつか掩体壕が残っているのですが、
現地で写真を撮っていた時は「ココに残ってるのはこの2つだけ!」と思い込んでますた。
埼玉からはるばる行ったというのに…下調べ不足です_| ̄|○ il||li
全体を撮った写真を思いっきりトリミングして、上の写真の右側部分を一応アップしておきます。
なんとなくポコポコしてるのが掩体壕だそうです。
で、この後(裏側から掩体壕が見えないかしらん)と考えて、道道732を走ってみたのですが、
緑が壁のようになってるわ、道はあらぬ方向に向かっていくわでダメでした。とほほ。
(オイラが調べた限りでは)合法的に掩体壕が見られるのはここだけのようです。
一旦国道(青マーカー)に戻り、国道を南東に進んで再び南に伸びる道に入り、紫マーカー地点に向かいました。
こちらでも先ほど同様すぐに線路跡の小道と交差します。
紫マーカー地点。
「飛行場前駅」
1955年に国鉄の仮乗降場として開業しました。
開業当時、飛行場は終戦でとっくに閉鎖されていましたが周囲になんにもないため、
「飛行場がないのに飛行場前」になったのだそうです。
路線廃止と共に駅が閉鎖になって今年で20年。ご覧の様子です。
駅跡から更に南下していくと…
黄マーカー地点。
道沿いにいくつか古い構造物が現れます。
上2つは同一のものです。橋脚跡?
ちょっと行った先にも似たようなものが。これも橋脚跡?
門柱跡だそうです。
こちらは水槽の支柱だそうです。
滑走路周辺と思われる辺り。
飛行場だった範囲の道路を全部通ってみたのですが、
上記以外の古い構造物、滑走路跡等特に発見することはできませんでした。
(以下2023年6月撮影)
黒マーカー地点。
農機具を入れる場所なんですが、当時はこのちょい先から画面奥に向って南北方向の滑走路が伸びてました。
写真撮ってるこの場所も、当時は滑走路北端から掩体壕に向かう誘導路上。
灰マーカー地点。
東西方向の滑走路上から東方向。
ここから画面奥に向って約900m滑走路が伸びてました。
同じく灰マーカー地点。
東西方向の滑走路上から西方向。
対で並んでる防風林? が印象的ですね。
紫のシェイプ地点(上2枚とも)。
気象隊兵舎跡。
2つあるレンガ製の円筒状のものは、恐らく兵舎跡地に戦後開拓で作られたものではないかと思うのですが、
どうなんでしょうか。
紫のシェイプ地点。
炊事、兵舎跡。
緑マーカー地点。
天北線の飛行場前駅は無くなっちゃったけど、駅跡から200m程の所にバス停の名称として受け継がれてました。
反対側のバス停。
宗谷郡・浅茅野第一飛行場跡地
浅茅野第一/第二飛行場建設には大勢の朝鮮人労働者が動員され、冬期間も続けられた苛酷な工事により多数の犠牲者を出したのだそうです。
浅茅野第一飛行場 データ
設置管理者:陸軍
種 別:軍用陸上飛行場
所在地:北海道宗谷郡猿払村浅茅野及び枝幸郡浜頓別町
座 標:N45°11′24″E142°14′39″
標 高:21m
面 積:120ha
滑走路:
1,200m×60m(03/21)板敷き
1400m×100m 転圧(09/27・未完成)
1,800m×150m 転圧(18/36・未完成)
(座標、標高、方位はグーグルアースから)
沿革
1942年06月 着工
1943年秋 滑走路完成
1944年秋(冬?) 完成
1945年09月 閉鎖
関連サイト:
共同発掘プログラム■
ブログ内関連記事■
この記事の資料:
防衛研究所収蔵資料「陸空-本土防空-48飛行場記録 内地(千島.樺太.北海道.朝鮮.台湾を含む) 昭19.4.20第1航空軍司令部」
浅茅野第二飛行場 [├空港]
2009年7月、2023年6月訪問 2023/7更新
撮影年月日 1947/10/21(昭22)(USA M579 126)■
出典:国土地理院ウェブサイト(地理院データを加工して作成)
宗谷岬から国道238号線をオホーツク海に沿って30キロ程南下したところにある「さるふつ公園・道の駅」
大戦当時、道の駅の敷地を含め、その西側には「浅茅野(あさじの)第二飛行場」がありました。
上の写真は道の駅西側部分。現在は村営牧場が広がっています(手前はパターゴルフ場ですが)。
当時はちょうどこの辺りに、滑走路、誘導路が広がっていたハズです。
そして、1947年の航空写真から滑走路、誘導路の線をグーグルマップに落としてみると、
現在でもビックリする程当時の地割が残っていました。
現地で未確認なんですが、無蓋掩体壕も1基そのまま残っているようです(航空写真の赤←部分)。
地図に表示されている通り、この部分は完全に「村営牧場」のエリア。
部外者のオイラが勝手に入って良いのか不明なのですが、
「現地に行って、入れるものならば通ってみよう」と考えてました。
で、イザ車で向かったら、特に「関係者以外立ち入り禁止」という標識もなく、あっさり入ることができました。
てっきり、「村営牧場」という巨大な牧場が1つあって、延々と柵で囲われているのかと思っていたのですが、
幾つかに分割して柵で囲ってありました(分割した1つがまたドデカイんですが)。
以下、現場の写真をズラズラと。
あ、その前にですね、「浅茅野第二飛行場の滑走路、誘導路の一部が道路として残っている」
というのは今のところソースなしで、オイラの持論です(少なくともネットでは確認することができませんでした)。
結構時間をかけて慎重に確認したつもりなのですが、オイラの壮大な勘違いの可能性もありますので、
どうかご了承下さいませ。
青マーカー地点。
滑走路南側。 当時は誘導路のT字路になっていました。
2005年の地図で見ると原型を留めてますが、現在車で通れるのはここから南と西に向かう部分のみ。
黄マーカー地点。
同じく滑走路南側。誘導路のT字路がそのまま道路になっています。
この少し手前でシカが出ました。
紫マーカー地点。
行き止まり。
当時はここから緩やかに右側にカーブを描きながら黒マーカー地点(滑走路西側端)に誘導路が続いていたはずです。
2005年の地図で見ると、この先の部分も微妙に残ってるみたいですね。
黒マーカー地点。
滑走路西側の端の角っこです。
向こう側に小さく見えているのは道の駅の施設で、道の駅の辺りが滑走路の東側の端っこでしたから、
当時はここからあの施設に向かって滑走路が延びていたはず。
2005年の地図だとうっすら滑走路の形が浮かんでいるように見えるのですが、
現地では特に道の駅方向に滑走路跡を示すようなものは発見できませんでした。
灰マーカー地点。
奥の建物は道の駅の施設です。
こちら側は途中まで当時の滑走路に沿った道路が続いてます。
ここからあの施設に向かって、ダーッと滑走路があったハズ。
宗谷郡・浅茅野第二飛行場
浅茅野第二飛行場 データ
設置管理者:旧陸軍
種 別:陸上飛行場
設置目的:宗谷海峡防衛、対米作戦
所在地:北海道宗谷郡猿払村浜鬼志別
座 標:N45°19′45″E142°09′59″
面 積:33ha
滑走路:1,600m×200m
方 位:09/27
無蓋掩体壕:30(31とする資料あり)
(座標、方位はグーグルアースから)
沿革
1943年04月 着工、同年12月に用地買収
1944年7月? 完成
1945年09月 米軍進駐により駐屯部隊解散となり閉鎖。
第2飛行場は1943年(昭和18年)5月に予定地が決定し、鉄道工業が請け負った。
12月に陸軍省が浜鬼志別原野214番地の33haを買収、
44年7月までに滑走路の転圧を終えて一応の完成を見ている(沿革と一部矛盾してますが、資料によりいろいろです)。
関連サイト:
ブログ内関連記事■
北海道旅行・4 [■旅行記]
Ⓐ道の駅さるふつ(浅茅野第二飛行場跡地)→Ⓑ浅茅野第一飛行場跡地→Ⓒ旧紋別空港跡地→Ⓓ紋別空港→Ⓔ女満別空港→Ⓕ旧女満別空港跡地→Ⓖ美幌航空公園→Ⓗ北見地区農道離着陸場→Ⓘ芽登の駐車場(車中泊)
4日目
さるふつ道の駅
3:30 起床 本日もこんなお天気でした。
この周辺は浅茅野第二飛行場の跡地でした。
早速周辺をうろつくことに。
そして出くわした鹿さん。
道内あちこちで「鹿飛び出し注意」という看板を見かけたのですが、
実際に見たのはこの時だけでした。
向こうに見えるのは道の駅の施設です。
一見なんの変哲もない細道に見えますが…
おっと! 今はまだ言えねぇ!
続けてやって来ました。
浅茅野第一飛行場跡地。
これは天北線跡。現在はサイクリングロードになっています。
1989年廃線と共に廃止になった「飛行場前駅」
ホームのアップ
7時過ぎに浅茅野第一飛行場跡の見学を終え、紋別空港に向かいました。
「よつ葉牛乳」発見!
特に深い意味はないです^^
紋別空港は羽田便1日1往復のみで、しかもヒコーキが紋別空港にいるのは12:50~13:35 の間だけです。
10時過ぎには紋別空港についてしまったので、15キロ程先にある旧紋別空港を見学し、昼食を済ませました。
オホーツク紋別道の駅内の喫茶店でイクラ丼。
オホーツクサイクリング。
ヒコーキの時間までまだ少しあったので、サイクリングの様子など撮ってみつ。
今年は道内外から848台の参加だったみたいです。
女満別空港にて。
JASのマーク懐かしいっ!
夕食はセイコーマートの豚丼。うめー!
ということでアチコチ見て回り、足寄芽登の山の中の駐車場で車中泊。
予定では、せいぜい女満別空港までしか回れないだろうと思っていたのですが、
次の見学地のすぐ近くまで進むことができました。
見学できるのは明日1日のみ。
9時頃寝。
(続きます)