SSブログ

今後の予定など。 [■ブログ]

ブログ上では3ヵ月間「北海道強化月間」で引っ張りましたが、

その間、東北、中部に行ってまして、現在も九州を回っております。

簡単に今後のアップ予定なのですが、

来週から年末まで「東北強化月間」で、その後、「中部強化週間」、「九州強化月間」と続く予定です。

九州のことは、全部アップできるのは何か月も先になってしまいますが、

12月~6月頃までは例年引き籠りになり、極度のネタ欠乏症になりますので丁度良いのです。

それと、このところ真面目な記事ばかり続きましたが、

おバカ記事なども織り込みますので宜しければお付き合いくださいませ(o ̄∇ ̄o)ニヤ

 



話はガラっと変わりますが。

 

この後はオイラの病気の話ですので、興味のない方、暗い話の嫌いな方は飛ばしてください。

 

少し前にオイラの母親の脳の血管異常のことを書きました。

その後これが子供に遺伝している可能性が非常に強いということが発覚しました。

なんでも、脳、肺、内臓など、臓器に血管異常が起こり易いのだそうです。

ということで、先日全身の検査したのでした。

実はオイラは「閃輝暗点」という発作があります。

ほとんどの方にとって耳慣れない言葉と思いますが、

突然焦点を合わせた部分が真っ暗になり、その周辺がキラキラ光って見えるのです。

いえ、別にクスリやってませんよ?

こうなると約40分、ほとんど目が見えない状態なので、ひたすら横になって大人しくしているよりありません。

で、通常この症状が出ると、続いて猛烈な頭痛、吐き気を伴うのだそうですが、

オイラにはそれがありません。

それ自体は喜ばしいことなのですが、Wikiによりますと、頭痛や吐き気を伴わない場合は脳血管異常の疑いがある。

と書かれてました。

「楽あれば苦あり」ですね。

ということで、(きっとオイラの脳にも異常が発見されるに違いない)と確信しました。

ところがCT,MRIの結果、なぜか脳には異常はなく、代わりに肺に異常が見つかったのでした。

肺に穴が空いていて、酸素化していない血液が流出しているのだそうです。

そうか! だからオイラは昔から声が小さかったんだ(納得)。

試しに胸を押さえてみると、なんとなく急に声が大きくなった気がします。

学生の時にマラソンでは呼吸が非常に苦しくなったのですが、これもきっと肺に穴が空いているせいなのです。

次々に解き明かされる真実。

 

流出の割合を詳しく調べることになり、

オイラの聞き違いでなければ、体内に放射能を打ち込み、それで抜け具合を測定するのだと言われました。

地下の厳重な部屋に連れて行かれ、なんか大きな機械に寝かされるオイラ。

あちこちにあの放射能のマークが。

腕に注射を刺され、自動で注射から薬剤が体内に流れる機械をセットされ、1人きりにされました。

わーっと腕が熱くなる感覚がある中、なんかいろいろ撮られました。

自宅に戻ってから、放射能を打ち込まれたせいで体が青白く光らないか心配だったのですが、

そんなことはなかったです。

 

検査の結果、肺の穴は大したことはなく、ほとんど無視できるレベルとのことでした。

オイラの声が小さいのも、マラソンで息が苦しかったのも、理由は別のところにあるようです。

ただし、今後新たに血管異常が発生する可能性があるとのことで、定期的に検査をすることになったのでした。

今はこうしてヘラヘラとあちこち出掛けて何日も飛行場を見て回ったりしてますが、

こんなことができるのもある程度の健康があればこそ。

本当に健康は大事ですね。

皆様もどうぞ健康には十分ご留意を。

 

最後に、今回病院に通って感じたことを一つ。

病院には、重い病気とこれから一生付き合わねばならい子どもたちがいます。

生涯、装具を使用しなければならない子供たちも。

普段そういう子供たちと接する機会の少ないオイラは、

そうした子供たちや装具に対して勝手なイメージを作り上げてしまっていたのですが、

その子供たちにも、親御さんにも喜怒哀楽があり、

装具や器具にはアニメのシールが貼ってあったり、飾りがつけられているのでした。

 

反省。

そして、人間て、逞しい。


コメント(20)  トラックバック(0) 
共通テーマ:日記・雑感

北方領土の飛行場 [├雑談]

千島列島には戦時中、旧日本軍がたくさんの飛行場を建設しました。

北海道つながりということで、特に北方領土の飛行場を載せてみました。


「天寧航空基地」

択捉島中央部東岸に位置する単冠湾に陸軍が建設した飛行場。

画面右上にコの字が並んでますが、無蓋掩体でしょうか。 

現在は「ブレベストニク空港/空軍基地」となっています。

2007年の情報では、新千歳にも就航しているサハリン航空がここに定期便を飛ばしていたようなのですが、

サハリン航空のサイトを確認したところ、現在の路線図にここは含まれていませんでした。

行ってみたいのですが、ロシアの国内線で北方領土に行くというのもなんだかなぁ…

 

上の画面 → の方向にもう1つ溶けかかった滑走路が隣接してます。

よろしければ拡大かスクロールして見てみてください。

こちらは旧海軍の天寧航空基地跡だそうです。

陸軍と海軍が仲良く?滑走路を並べていたのですね。

どういういきさつだったのでしょうか。

因みにここ単冠湾は、真珠湾攻撃前に帝国海軍機動部隊が最終集結した場所でもあります。

択捉島の飛行場跡を更に2つ。

 
 
上の2つは、旧海軍の「留茶別第一~三飛行場」のいずれかだと思うのですが、よくわかりません。

「メンデレーエフ空港」

こちらは旧日本軍が建設したものではなく、後からロシア側が建設した空港のようです。

現在拡張工事中で、早ければ来年にも使用可能の見通しであると今年の8月のニュースで紹介されていました。

知床半島からほんの数十キロ先でこんな工事をしてたんですねぇ。

 

いろいろ資料を見ますと、北方領土には他にも飛行場があったようなのですが、

オイラがグーグルで見つけることができた飛行場(跡地)はこれだけでした。

因みに樺太にも溶けかかった滑走路がいくつかあります。


コメント(14)  トラックバック(0) 
共通テーマ:趣味・カルチャー

北海道旅行・6 [■旅行記]

6日目

昨日の夕方、小樽港から新潟行きのフェリーに乗ったのでした。

午前4時、日の出を撮ろうとデッキに出たら、真っ暗で激しい雨。

バシバシと雨が当たるすごい音が。

そんな悪天候の中、かなり近くで船のものと思われる強いライトがいくつも光ってました。

オイラがのほほんと寝ている間にもこうやって働いている人たちがいるんだな~。

などと思いつつ    二度寝。

 

8時頃起床。

相変わらず空は一面の鉛色。そして海は真っ黒。

この時点で少々揺れていたのですが、

「この先大きな動揺が予想されるため、風呂を閉鎖するかもしれません」

とアナウンスがありました。

後部甲板に出てみると、ひっくり返りそうなほどの強風。

怖い。

 

10時 本格的に揺れ始めました。

特に上下動がすごい。

10:30 風呂閉鎖。

ますます酷い揺れ。

上下動に加え、横揺れも大きくて、時折船首?から「ガーン」という音が響き、船全体に衝撃が走ります。

寝ていると体が動いてしょうがない。

なんか「午後から更に揺れる」とか言うし…そうだ、早目に食事を済ませよう。

ということで11時、早目の昼食うどん。

このフェリーのうどんは関西風で美味しいのだ。

うどんを食して後、しばしテーブルでメジャーリーグの試合を見ながら旅行の記録つけ。

昼頃、「動揺が激しいため、汁物の提供をストップします」とアナウンス。

早目に食べといてよかった。

D20_0171.jpg

12:19

何かにつかまりながらでないととても真っ直ぐ歩けない揺れが続き、

通路を行き交う乗客はみんなあっちへヨロヨロ、こっちへヨロヨロ ~~~(⊃゜Д゜)⊃

(こんなに揺れるとは、波はどんだけすごいんだろう)

ということで甲板に出て見たのですが…ア、アレ??  大した波はないですね。不思議だ。。。。

もっとこう、ハワイの伝説のウエーブみたいな大波を想像してました。

ベッドに戻って昼寝。

昨晩から揺れるたびにミシミシ音がしてたのですが、

今は揺れるたびに「ギギギギキ~」と悲鳴を上げるような音がします。

アナウンスでは必ず最後に「安全な航行に支障ありませんのでご安心ください」という台詞が付く。

しかし今もすんごい揺れなのに、もっと酷くなったら一体どうなるんだろう・・・

と心配だったのですが、結局この頃が揺れのピークで、その後徐々に治まったのでした。

D20_0176.jpg

13:35

通常、といってもこれでやっと2往復目ですが、入港1時間ほど前から船底で車の固定を外すような音が響き、

入港30分ほど前になるとドライバーは車両甲板に誘導されます。

ところが今回は違っていて、

「動揺があるので車両の固定解除は入港後に行います。ドライバーの車両甲板への誘導は入港後改めてお知らせします」。

とのことでした。

むむむ、この後仕事の電話をたくさんするから早く帰りたいんだけどな~。

D20_0181.jpg

14:55 防波堤の内側に入りました。

D20_0182.jpg

14:57

D20_0001.jpg

15:15 後部甲板より:

既に180度回頭しており、これからバックで左側に接岸するところです。

本来ならこの時間にはもう車両甲板に移動しているので、接岸作業を撮ることはできません。

せっかくなので船上からの接岸を撮ってみました。

D20_0004.jpg

15:16

D20_0006.jpg

15:16

D20_0008.jpg

15:17

D20_0010.jpg

15:18

D20_0012.jpg

15:19

D20_0014.jpg

15:20

D20_0017.jpg

15:21 

D20_0022.jpg

15:22

D20_0029.jpg

15:24

D20_0034.jpg

15:26 接岸完了。かな?

徒歩の乗客の下船が始まりそうです。

いつもなら1分の狂いもなく時間ピッタリに接岸するのですが、今回は4分早いです。

これから車両の固定解除があるのでわざと早目にしたのでしょうか。

この後アナウンスがあったので自分の車に戻り、下船後、お弁当を買って高速で自宅に戻ったのでした。

高速走行中、ものすごいスピードで走り去る車があったのですが、

しばらくしたら追いつきました。

(???)と思って見てみたら、ハンドルにマンガ雑誌を広げてました。

どんだけ早く読みたいねん!(XДX)

 

旅行中、随分塩分の多い道を走ったので、戻ったら足回り含めて洗わなきゃ。

と思っていたのですが、新潟からの山越えの時、しばらく豪雨でした。

もう水洗いはいいや。


去年、今年でこんな感じになりました。

去年は14ヵ所、今年は24ヵ所回りました。

残りは道東エリアです。

また来年行く予定ですが、道東エリアには離島はないものの、

現在分かっているだけで行きたい場所が30ヵ所もあるので、あと1回で回れるかは微妙です。

 

次の記事で北海道番外編を書きますが、旅行記はこれで終りです。

8月1日から始まった「北海道強化月間」、途中で北海道以外の記事も随分入りましたが、延々3か月も続いてしまいました。

長々とお付き合いいただきまして、ありがとうございましたm(_ _)m

 

(おわり)

走行距離:2,147km

燃費:21.1km/L


コメント(21)  トラックバック(0) 
共通テーマ:旅行

沼ノ端飛行場跡地 [├空港]

  2009年7月、2016年7月訪問 2022/12更新  


無題4.png
撮影年月日 1944/10/14(昭19)(9122 C3 60) 
出典:国土地理院ウェブサイト(地理院データを加工して作成)

北海道苫小牧市、苫小牧港のすぐ東側にかつて「沼ノ端飛行場」がありました。

■防衛研究所収蔵資料「陸空-本土防空-48飛行場記録 内地(千島.樺太.北海道.朝鮮.台湾を含む) 昭19.4.20第1航空軍司令部」

の中に当飛行場の要図があり、先頭のグーグルマップは、この要図から作図しました。

ご覧の通りで東側に1本だけの滑走路、そして西側に丁の字の滑走路がありますが、要図では、

東側の1本だけの滑走路は、滑走路の呼び方については特に説明がなく、長さのみ「1200x50」とあり、

西側の丁の字の方は、南北方向が「一号滑走路 1500」、東西方向が「二号滑走路 1500」と書き込みがありました。

また恒風は、春西風、 夏東南東風とありました。

要図に含まれている情報を以下引用させて頂きます。

位置
北海道膽振国勇払郡苫小牧町字沼端
飛行場
総面積四六〇、〇〇〇平方米滑走路五〇米×一二〇〇米
土質は火山灰質及噴出せる軽石よりなる約一米層なり
周囲は平坦にして濶葉樹林及荒地なり
一般に□位高く一米乃至一米五〇位なり
気象
南々東及北々西の風卓越し夏季南々東の風稍に
強く春季は西風なり
気象状況の良好なる時期は五、六、九、十月にして夏季
は霧稍多し 冬季は積雪平均六糎なり
交通
室蘭本線沼ノ端駅より南方約三五〇米なり
各機種の離着陸可能なり

要図ではちゃんと3本の滑走路が描かれているのに、情報欄で触れられているのは、東側の1本のみ。

ナゾです。

■新千歳市史通史編上巻919pには、

沼ノ端
一五〇〇x一〇〇 コンクリート舗装
一五〇〇x三〇〇 転圧舗装
一二〇〇x三〇〇 転圧舗装+無蓋掩体壕35
(沼ノ端南・中小企業工業団地一帯)

とありました。

蛇足なのですが、飛行場西側にある日高本線、

室蘭本線と分岐する部分の線形がどう見ても当時と現在とで異なっていて、

どういうことか?? とかなり混乱したのですが、

実は日高本線、苫小牧港建設のため、1962年に線路の移設工事をしてました。

 

個人的には滑走路が残ってて欲しかったのですが、残念ながら既に完全に溶けてるようです。

となると次は当然「掩体壕が残ってないか」ということになるわけです。

実は当飛行場には当時、大小35の掩体壕が造られたのだそうで、

その中の1つが溶けかかった状態で奇跡的に残っている。と記されているサイトがあります(下記リンク参照)。

現場の写真はあるのですが、場所が明記されていません。

ということで、自力で探してみることにしました。

ありそうな場所としては、

1:誘導路跡で、2:緑が残っている場所 なのではないかと考えました。

この2つの条件が重なるのが上の写真の印の場所なのですが…

残念ながら3時間歩いたのですが、会社の敷地内だったり、緑があまりに深くて中に入れず、

発見できませんでした。とほほ。


2016年7月にまたお邪魔しました。以下追記です。

以前tuka@北海道さんから掩体壕の場所をピンポイントで教えて頂いており

(上の1944年の航空写真の赤矢印のものと思われる)、今回見に行ったのですが、深い排水路と濃い緑に阻まれ、

道路から30m先にあるはずなのに、近づくことはおろか、視認することもできませんでした。とほほ。


「目でみる沼ノ端のあゆみ」に当飛行場について記されていました。

以下、関係個所を引用させて頂きました。

陸軍飛行場の建設と勤労動員

 沼ノ端に陸軍飛行場の建設が始まったのは一九四三(昭和一八)年であった。まず、駅前から勇払方面へむかう道路の西側に滑走路の建設が始まった。当時このあたりは、灌木(低木)の林と草原の広がる土地であった。(中略)工事は、樹木を伐り根を起こし地表面を平らにならし、学校のグランド造成と同じように、滑走路に粘土を五センチ程の厚さに敷きならし、ローラで圧力をかけるというものであった。ローラは大勢の人で引いた。苫小牧の中学や工業学校の生徒たちが、勤労奉仕で動員されてきたという。沼ノ端の国民学校高等科の生徒も動員された。滑走路の長さは千数百メートルであった。この飛行場が一九四三年度中に出来上がると、隼戦闘機が訓練のためにやってきた。一時期、多いときには五十数機が、編隊飛行、急降下、急上昇、左右急旋回、きりもみ飛行、木の葉落ち飛行などの訓練を行うのを住民は見ていた。

 さらに一九四三年から翌年にかけて、勇払道路の東側に、約千五百メートルのT字型二本の滑走路をもつ、コンクリート造りの本格的な飛行場の建設が始まった。もちろん、これは後日わかったことで、当時はどの程度のものが建設されるのか、住民には判らなかった。この計画が決定するとともに、一九三五(昭和十)年に、勇払原野開拓の実践例として期待され入植していた人々は、室蘭本線北側の地に移転を余儀なくされた。

 一九四三年の十月から、沼ノ端駅構内設備の増改築が行われた。貨物一番線の延長、貨物二番線の増線、貨物二番線に堅ホーム新設、貨物一番ホーム増設、貨物上屋ならびに保管庫改築など、全て本格的な飛行場建設の資材を運び込むためであった。工事は十一月に竣工しているから、以後建設資材の受け入れが本格化したであろう。

 建設工事のため、苫小牧町だけでなく、近隣町村の一般住民、学校生徒が動員された。一般住民の場合は、町内会あるいは部落会単位で勤労報国隊が結成され、動員されたであろう。学徒の場合は、一九四四(昭和一九)年一月の「緊急学徒動員要綱」によって、一年間ほぼ四ヶ月を標準として継続的に動員を行うこととした。さらに、七月には、学徒勤労動員は国民学校高等科児童以上にまで範囲が及び、一日十時間労働の励行が決められた。八月には、「学徒勤労令」によって、従来引き続き学徒を動員させる期間は二ヶ月以内であったのが一年以内に改められた。このような状況のもとで、各地の住民、生徒、児童が動員されたのである。

 飛行場は、一九四四年中に完成した。沼ノ端には、飛行場建設を管理し、防衛する目的で陸軍の部隊が駐屯していた。兵士はテントか三角兵舎に居住し、将校は沼ノ端市街地の旅館や民家に泊まっていた。多くの人の労力とたくさんの資材が用いられた、この飛行場が完成した後、どのように使われたのか、筆者は知らない。陸軍航空隊が配備されなかったのは確かである。

まず西側の転圧式滑走路が1943年度に完成し、

次いで東側のT字型コンクリート滑走路が1944年に造られた。ということのようですね。

「コンクリート造りの本格的な飛行場」とあるのですが、1944年、1947年の航空写真(USA M589 15)で見ると、

東側T字滑走路のうち、北西~南東方向の滑走路の一部がまるでレントゲン写真のように部分的に白く映っています。

全面的にコンクリートを打設したのではなく、部分的なものだったのかもしれません。

滑走路のあった場所にお邪魔してきました。

DSC_0166.jpg

赤マーカー地点。

西側滑走路南側エンド部分から滑走路方向。

DSC_0169.jpg

緑マーカー地点。

T字滑走路東側エンド付近から滑走路方向。

DSC_0162.jpg

黄色マーカー地点。

T字滑走路南側エンド付近から滑走路方向。


     小牧市・沼ノ端飛行場跡地    
前出の「目でみる沼ノ端のあゆみ」には沼ノ端駅について、飛行場建設にともなう資材の到着があったこと、召集や徴用によって現場を離れる男子鉄道員が続出したため、鉄道省では全国的に女子職員を増やして対応したことが記されていました。このため沼ノ端駅でも、十数人の女子駅員が交代で24時間の勤務に就いていたのだそうです

沼ノ端飛行場 データ
設置管理者:陸軍
種 別:陸上飛行場
所在地:北海道膽振国勇払郡苫小牧町字沼端(現・苫小牧市沼ノ端)
総面積:46ha

・西側の滑走路
座 標:N42°39′46″E141°41′48″
飛行地区:1,330m×320m
滑走路:1,200mx50m
方 位:15/33
標 高:6m
・一号滑走路
座 標:N42°39′35″E141°42′54″
滑走路:1,500m×300m
方 位:15/33
標 高:6m
・二号滑走路
座 標:N42°39′54″E141°42′41″
滑走路:1,500m×300m
方 位:08/26
標 高:5m
(座標、滑走路長さ、方位、標高はグーグルアースから)

沿革
1943年    西側滑走路着工。1943年度中に完成
    10月 沼ノ端駅構内設備の増改築工事開始
    11月 沼ノ端駅構内設備の増改築工事竣工
       この年、西側T字滑走路建設始まる
1944年07月 14日、沼ノ端初空襲。主に飛行場要地に来襲と記録あり
       この年西側T字滑走路完成

関連サイト:
苫小牧民報/「沼ノ端に2つの飛行場」■(リンク切れ)  
苫小牧民報/「苫小牧市内に掩体壕」■(リンク切れ) 
北海道の旧飛行場 
ブログ内関連記事
 

この記事の資料:
新千歳市史通史編上巻
蝦夷古地図 地図で見る苫小牧の歴史
目でみる沼ノ端のあゆみ
防衛研究所収蔵資料「陸空-本土防空-48飛行場記録 内地(千島.樺太.北海道.朝鮮.台湾を含む) 昭19.4.20第1航空軍司令部」


コメント(17)  トラックバック(0) 
共通テーマ:趣味・カルチャー

鯉沼スカイパーク [├空港]

  2009年7月訪問 2022/12更新  

 

D20_0113.jpg

北海道勇払郡にある「鯉沼スカイパーク」。

D20_0105.jpg

北海道スポーツ航空連盟の会長さんにお会いすることができました。

とても気さくな方で、突然の訪問だったにもかかわらずいろいろお話を聞かせていただきました。

とても広々とした滑走路。

大きな空港は気象観測を続けて膨大なデータを取り、慎重に滑走路の向きを決定するので、

その近隣であれば、気象を大きく変える山などなければ同じ滑走路の向きで間違いないのだそうです。

こちらでは、ほど近い新千歳空港と同じ滑走路の向きになっているのだそうです。

D20_0110.jpg

スカイスポーツにも後継者?不足の問題があるのだそうです。

オイラも入会誘われました^^

環境は最高の場所ですので、「やってみようかなぁ」と思った方は、

下に連絡先がありますので、連絡してみてください。

D20_0111.jpg


    勇払郡・鯉沼スカイパーク   

鯉沼スカイパーク データ
所在地:北海道勇払郡厚真町鯉沼
座 標:N42°38′35″E141°52′43″
滑走路:320~330m
方 位:01/19
(座標はグーグルアースから)

ブログ内関連記事  


コメント(14)  トラックバック(0) 
共通テーマ:趣味・カルチャー