八幡原飛行場(大日本飛行協会山形県支部第二滑空訓練所)跡地 [├空港]
2009年9月、2016年7月訪問 2022/12更新
撮影年月日
1947/11/13(昭22)(USA M646 164)■
出典:国土地理院ウェブサイト(地理院データを加工して作成)
山形県米沢市にはかつて「八幡原飛行場」がありました。
現在は「八幡原中核工業団地」になっています。
「八幡原1丁目の一角に飛行場の碑がある」とネットにあり、2016年に再びお邪魔したのでした。
「八幡原飛行場跡地」碑
八幡原飛行場の由来(全文)
1930(昭和5)年4月24日、上郷、万世両村で整地奉仕中の八幡原、帝国飛行協会の実地検分の結果、8万坪(26万4,000平方メートル)の飛行場の実現可能の見込みとなり、防空演習(5月4日)に備え延長300メートル、幅150メートルの滑走路設置に着手する。
1935(昭和10)年5月9日、八幡原が飛行機離着陸場に決定する。(全国764カ所)県内は八幡原と尾花沢の2カ所。帝国飛行協会が一朝有事に備え全国飛行網充実のため選定した。
同年9月、同飛行場竣工、約26万平方メートル。格納庫敷地120坪(360平方メートル)11月23日開場式を行い、この日安国飛行士操縦のアポロ式が津田沼飛行場から同地に着陸。
1940(昭和15)年7月1日、八幡原に格納庫を建設、練習機学生号を常置。1941(昭和16)年6月16・17の両日、米沢高等工業、興議館、米工、米商の滑空部合同のグライダー講習を同飛行場で開催。地元の上郷村は1町8反(約3万5,000平方メートル)の敷地を無償提供、ほか約3万平方メートルの敷地を買収する。学徒動員された市内女子学生が羽黒川の石を運んで滑走路づくりに奉仕した。同場に練武廠舎工費5万円で完成。同年8月4日、大日本飛行協会山形県支部第2滑空訓練所に指定され開所式を行った。1942(昭和17)年11月1日、第11回明治神宮国民練成大会(現国体)に米商滑空部が東北代表として滑空訓練の実技を発表、高松宮殿下台臨のもと優等賞を受ける(於石岡)。1943(昭和18)年9月1日から5日間、グライダーの滑空訓練を行う。
戦後は食糧増産や開拓者が入植するなど飛行場の形態は失われた。1946(昭和21)年、進駐軍により競馬場設置運動起こり、1948(昭和23)年に第1回の公営競馬が行われたが、後に閉鎖となる。1953(昭和28)年11月、1954(昭和29)年4月、1955(昭和30)、1956(昭和31)年4月、米澤新聞社主催のトライベーサー機で観光飛行。1961(昭和36)年4月、1962(昭和37)年5月、1963(昭和)年4月、米澤新聞社主催のセスナ機で観光飛行。
このころから米澤新聞社の清野幸男氏(現社長)らが置賜に空港建設をと訴え、1970(昭和45)年12月15日、米澤市議会に置賜空港建設(コミューター空港)の請願書を提出され、議会は採択したが、日の目を見ないまま空港建設はとん挫した。行政当局が米沢の将来の展望に関心がなかったのか、観光立国の現在、誠に残念なことだ。空飛ぶ飛行機を見たならば先人の遺徳を偲びその名をとどめる。
平成22年(2010年)9月20日 航空100年記念日(国土交通省)
米澤新聞社社長 清野幸男
米沢市史に当飛行場についての記述がありましたので、要約して以下記させていただきました。
1933年(昭和8年)12月 上郷村、万世村の両村長と有力者らが一同に会し、
両村にまたがる八幡原に飛行場を建設することについて協議し、「八幡原飛行場設置期成会」を結成しました。
次いで各関係機関への陳情運動を開始。
1934年(昭和9年)4月、飛行場敷地実地調査のため、帝国飛行協会と逓信省の役員が現地を視察しました。
飛行場の敷地は南北約600m、東西約600mの8万3226坪と定められ、
「都市近郊であり地質が砂利層のため排水がよく、飛行場には好適」と折り紙がつけられました。
その後、飛行場建設の認可が下り、昭和10年9月に構築作業開始。
上郷村をはじめ、近隣各村の青年団、消防組合、米沢市内の学生、生徒の労役奉仕で、11月22日に完成。
その翌日、飛行場開きには安岡一等操縦士が東京から飛来し、市の上空で宙返り、横転などの妙技を披露しました。
その後八幡原飛行場では、昭和11年7月14日、軍用機の離着陸テストが実施され、
軍の飛行場としての利用が期待されたのですが、
昭和12年7月の日中戦争勃発で軍用機の利用は過疎となりました。
一方、航空・国防思想の普及と航空兵養成の観点から、グライダー訓練が盛んに奨励され、
市内の中等学校にも滑空部が結成されました。
昭和16年8月、八幡原飛行場は大日本飛行協会山形県支部第二滑空訓練所に指定されて開所式が行われました。
昭和17年5月には、紀元二千六百年事業として計画された八幡原練武廠舎が落成。
本部、講堂、宿舎、衛兵所、倉庫などを擁し、約500名を収容する滑空訓練の殿堂となりました。
以後、在郷軍人や国防婦人会、青少年の心身練成の場として供されました。
昭和20年、飛行場の軍事化のため、近隣の学生を動員して作業が行われています。
戦後の1945年(昭和20年)9月13日には、早くも米沢に米軍の先遣将校が福島からジープで入って来ました。
一行はキャニングストン少佐と下士官、通訳の3名に、案内役の福島県警察職員1名。
キャンプ設営地の視察が目的であり、米沢警察署長が、米工専、米工、米中、松岬国民学校、八幡原飛行場を案内しました。
結果として、松岬国民学校、青年学校(住之江町)、米沢建築工補導所(同)を兵舎とすることになったのでした。
2014/9/12追記:アギラさんから情報頂きました。「航空年鑑昭和15年」大日本飛行協会編(昭和16年発行)「學校グライダー部一覽」(昭和15年10月現在)の中で、米澤高等工業學校滑空研究會が当飛行場を使用していたという記録が残されています。アギラさん情報ありがとうございましたm(_ _)m
終戦当時小学校3年生であった地元民の方の証言が残されています。
「米沢市郊外に存在した旧軍の飛行場は現在の工業団地附近に存在し、ほぼ正方形のような形であった。昭和19年頃に飛行場の南側を拡張する工事が行われたが、完成する前に終戦となった。その場所は、進駐軍が競馬場として利用していた場所で、その後、米沢市の何人かで競馬場を大きくした。 」
飛行場の位置について:
当飛行場の位置については、当地の碑文その他の資料で幾つかヒントとなるものがあり、
最も具体的なものの1つからは、「飛行場だった場所が競馬場になった」と受け取れます。
上に貼った航空写真のリンクで確認していただければ明らかなんですが、この競馬場は南北に長いです。
で、 「飛行場だった場所が競馬場になった」のだとすると、
先頭の航空写真では競馬場トラックの北東に碑が建立したことになり、
碑の位置は、「飛行場の北端付近」となります。
ところが、2014年8月17日付の山形新聞には、「碑はその(飛行場の)南端だった場所に立つ」とあり、
この記事は地元同窓会のサイトにも引用されています(下記リンク参照)。
一体どちらが正しいのか。。。
当飛行場の形について、地元民の方の証言によれば、「ほぼ正方形のような形であった」とあります。
大きさについては、時代と共に拡張されていったようですが、600mx600m が資料内にある最大値です。
ということで、碑を中心としてそのくらいの正方形の地割はないかと探したのが先頭の航空写真です。
碑の北側にそれらしい地割がありました。
その地割を拾って作図したのが先頭のグーグルマップです。
ただし、ご覧の通りで北西側の地割がハッキリしないのと、これだと、450mx500mで一回り小さいです。
競馬場のトラックは、その北側がほんの一部かすっている程度で、これだと「飛行場跡地を競馬場にした」とは
ちょっと言い難い感じです。
飛行場の正確な位置をご存知の方からの情報お待ちしておりますm(_ _)m
おまけ:
碑の西約1kmにある「米沢ヘリポート」。
八幡原中核工業団地の一角に位置しています。
山形県・八幡原飛行場跡地
学生だった当時、八幡原飛行場でグライダー訓練を行ったこと、戦後やって来た米軍が予想に反して陽気で友好的で拍子抜けしたこと等綴った手記が残されていました
八幡原飛行場 データ
種 別:陸上飛行場、滑空練習場
所在地:山形県米沢市八幡原
座 標:N37°54′27″E140°10′23″
面 積:27.5ha
(座標はグーグルアースから)
沿革
1933年12月 八幡原飛行場設置期成会結成
1934年04月 帝国飛行協会と逓信省の役員が飛行場敷地実地調査
1935年09月 飛行場建設開始・同年11月22日 飛行場完成
1941年08月 大日本飛行協会山形県支部第二滑空訓練所に指定
関連サイト:
空への憧れいつしか 滑空部・八幡原飛行場 楽しかったグライダー訓練■
この記事の資料:
米沢市史