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大月防空監視哨跡 [├場所]

  2009年10月訪問 2023/1更新  

 

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昭和17年に本土初空襲があり、来襲する敵機を監視するために「防空監視所」が各地に作られました。

そのうちの一部が現存しており、山梨県大月市にもあると聞いてお邪魔しました。

大月市の防空監視哨跡は、市立中央病院のすぐ南側にある「(お)むすび山」の頂上にあります。

病院のすぐ東側にある坂を上って行くと間もなく上に貼った標識があります。

なぜか同様の標識が2つあって、微妙に表記が異なっているという……^^;

この先は車で乗り入れるような所ではありません。

距離は大したことないのですが、かなり険しい山道です。

熊出没を警告する標識があったのですが、登山口で犬にすんごい吼えられたので多分大丈夫でしょう。

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到着~。

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丸い穴が開いています。

「聴音壕」跡。

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下りてみました。

直径4.5m、深さは1.5mだそうです。

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周囲は木が生い茂り、視界は思ったほど開けていません。

当時はこうじゃなかったんでしょうね。

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ここでくる日もくる日も監視を続けたのですね。

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説明文がありました。

「大月防空監視哨跡」(全文) 日本は昭和十六年(一九四一年)十二月アメリカ・イギリス等に宣戦布告をし、第二次世界大戦に突入した。緒戦こそ戦果が上がったが軍事も経済も豊かな連合軍にかなうはずもなく、昭和十七年のミッドウェー海戦に敗れてからは不利を余儀なくされた。昭和十七年米爆撃機による本土初空襲があり、空の守りとして「民防空監視隊」が組織された。その時山梨県には甲府・大月・南部に監視隊本部が設置され、その下にそれぞれ十五・一〇・七の監視哨が置かれた。大月監視隊本部は、昭和十八年暮れに猿橋から大月へ警察署と共に移転し、傘下には、丹波・西原・上野原・七保・大月・笹子・谷村・吉田・精進・河口の各監視哨があった。監視哨は、哨長一名監視隊員九名で編成され、三交代で昼夜を分かたず空の守りについていた。その役割を、昼は二名で双眼鏡で空を監視し、夜は一名が監視、一名は聴音壕の中で飛行機の音を聴き飛んでいる方向や機種を探り、一名は電話番としてキャッチした情報を本部に伝えるという、分担制で果たしていた。左にある縦穴は聴音壕の、右の平な部分は事務所のあった跡である。監視隊本部では、各監視哨からの情報を、女子隊員が警察電話を使い、直通で東部軍管区へ通報した。東部軍管区では、これらの情報を、警戒警報や空襲警報を発令したり、立川にある飛行集団本部に連絡し、迎撃の飛行機を発進させたりする判断の資料とした。昭和十九年サイパン島が占領され、そこから飛び立つアメリカ爆撃機B29は富士山を目標に北上し、東に折れて京浜方面へ、西に進んで中京方面へ向かうという進路を取るようになり、大月の監視哨の役割は重要性を増してきた。昭和十九年から二〇年にかけて、B29による本土爆撃は三五三回におよび、東京をはじめ二○○近くの都市が空襲され、八月には広島・長崎に原爆が投下された。八月十五日敗戦。「国敗れて山河あり」、そして疲弊という無謀な戦争によるつけも残った。戦後半世紀を経た今、この地から望める大月の町を眺めるにつけ、世界に平和が続くことを祈らずにはいられない。五〇年前の苦しみを平和への一里塚ととらえ、この記念碑を建てた。決して戦争賛美の為ではない。(この文は、当時の大月監視隊本部隊長山口明男氏の貴重な体験談をもとに作りました。)平成三年 大月公民館

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   山梨県・大月防空監視哨跡   

説明版にある「爆撃隊はサイパン島から富士山目指して北上、その後西、東に進路をとった」という記述が非常に生々しく感じました。同じ山梨県の大月監視隊本部傘下の「七保監視哨」に勤務していた方の体験談が残っており、8月13日の大月大空襲の際、「本来なら発見時刻、何時何分何秒、敵、味方、機種、高度何米、飛行方向を報告するのですがその余裕は全くありませんでした」とありました。また「聴音」と聞くと、果たしてどの程度聞き分けることができるのか疑問だったのですが、訓練によって叩き込まれたその精度たるや、聞き分けで間違えることなどなかったのだそうです。

大月防空監視哨 データ
設置管理者:旧陸軍
所在地:山梨県大月市大月町
座 標:N35°36′20″E138°56′10″
標 高:462.2m
(座標はグーグルアースから)


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