富高航空基地跡地 [├空港]
2009年10月、2024年1月訪問 2024/9更新
撮影年月日1947/11/06(USA R169 61)■
出典:国土地理院ウェブサイト(地理院データを加工して作成。写真内の説明は甲斐誠二さんから)
1/50000「富髙」昭和7年要修「今昔マップ on the web」から作成
宮崎県日向市にあった「富高海軍航空隊基地」。
当時、着任した兵隊さんから直接話を聞かれ、現在は「語り部」をしておられる甲斐誠二さんという方がおられ、
上に貼った1947年の航空写真の説明は、甲斐誠二さんから情報頂いて加えました。
詳しくはコメント欄をご覧ください。
頂いた情報を元に記事を大幅に修正させて頂きました。
甲斐誠二さん貴重な情報をありがとうございましたm(_ _)m
■防衛研究所収蔵資料:5航空関係-航空基地-77 終戦時に於ける海軍飛行場一覧表 昭35.6.29調
には、「昭15建」とありました。
■防衛研究所収蔵資料「海軍航空基地現状表 内地之部 佐世保鎮守府航空基地現状表」
の中で、当航空基地について一部次のように記載がありました。
基地名:富高 建設ノ年:1940 飛行場
長x幅 米:1800x1000芝張ノ内700x60
600x60コンクリート 主要機隊数:小型練6.0 主任務:教育 隧道竝ニ地下施設:居住、指揮所、電信所、燃料庫、爆弾庫、魚雷調整場、魚雷格納庫、工業場、倉庫 掩体:中型小型無蓋48
資料によりますと、「700x60,600x60のコンクリート舗装」とありますね。
上の航空写真のメガネ型コンクリートの長さをいろいろ計ってみたんですが、
最長でもせいぜい400m程度しかありませんでした。
当地は1947年3月以降の写真しか閲覧できないんですよね。
もしかし舗装が剥がされちゃったのかしらん。
飛行場の広さ(1,800mx1,000m)のわりに舗装部分が短い気がします。
これは飽くまで一般論になってしまうんですが、
飛行場敷地に地盤がしっかりしている箇所と、軟弱な箇所が混在していることがあって、
軟弱な部分のみ舗装するケースがあります。
なので、僅か400m程度しかコンクリ舗装してないというのは、全然アリです。
後述しますが、これは有蓋掩体壕の一部が残る場所にあった説明版の一部です。
最も長いL型のコンクリート舗装が中央上に映っており、「駐機場跡」とあります。
長い舗装部分に沿うように格納庫っぽいものも並んでますし、確かにここは駐機場ですね。
紫マーカー地点。
協和病院玄関前の舗装面には一部色の異なる部分があります。
特攻基地滑走路跡(全文)
ここ病院の敷地一帯は、太平洋戦争中には「富高海軍航空隊基地」とし特に戦争末期には第一線基地とし又特攻基地として重要な役目を果たしていました。この案内板の前にありますコンクリート部分は 当時の滑走路の一部でありまして、戦時中そのままのものであります。 現在の平和の前にはこのコンクリートの滑走路から特攻機が飛び立ったのです。恒久の平和を願う為にこの滑走路を保存するものです。
1957年、当病院が開設される時、初代理事長の切望により残されたもので、
氏は中学時代に学徒勤労動員で本飛行場の拡張工事、掩体壕作りに参加しています。
病院は将来に渡って原型を残したい考えなのだそうです。
緑マーカー地点。
「神風特別攻撃隊出撃之地」の碑
当病院の所に戦闘指揮所があり、特攻に行くひとがあると黄色い旗が立ったのだそうです。
黒マーカー地点。
碑の隣にある「爆弾ノ痕」 直径12m,深さ3m
艦載機の250キロ爆弾の跡ではないかとされているそうです。
灰マーカー地点。
小倉ヶ浜有料道路 料金所前にある「富高海軍航空隊基地跡」碑。
→2013年5月10日に無料化しました。
黄マーカー地点。
しらさぎ公園
しらさぎ公園にある「富高海軍航空隊跡地プロペラ展示施設」(全文)
この地は昭和4年(1929年)に富高飛行場として発足以来、終戦までは富高海軍航空隊基地として予科練、予備学生等、大空を夢見た若き搭乗員の高度な技術育成のため、通称「赤とんぼ」の中練機で日夜訓練を重ねたのである。またこの基地が開戦当初のハワイ真珠湾奇襲作戦の訓練基地であり、お倉ヶ浜沖の岩場が爆撃投下の攻撃目標として訓練され今ではその岩場も小さくなって残っている。更に神風特攻隊の出撃基地でもあり、多くの若者たちが祖国の勝利と安泰を信じて、ここから飛び立ち二度と帰ることはなかった。その跡地に海上自衛隊のご厚意により借用したプロペラを展示し、「富高海軍航空隊」の史実と世界恒久平和を後世に語り継ぐとともに、二度と戦争を起こさないことを誓うものである。
平成15年6月5日設置
展示物 KM-2型航空機用プロペラ
型式:HC-A3x20-1E
直径:90インチ(228.6cm)
重量:98ポンド(44.4kg)
底辺の長さ:198cm
高さ:171.5cm
この公園の場所が分からなくて何人かの方にお聞きしたのですが、
「しらさぎ公園」という名称はあまり知られていないようで、
「プロペラが展示してある公園」とお聞きしたら一発でした。
赤マーカー地点。
掩体壕の一部と説明板
当飛行場の掩体壕はすべてなくなってしまい、現在ではこの掩体壕の一部分が僅かに残るのみだそうです。
「一部が残っている」 ということと、「往還の公民館の近く」ということしか分からず、随分探しました。
10人位の方にお聞きしたのですが、みなさん掩体壕はすべて消えてしまったと思っておられるようでした。
結局、往還の公民館北側の交差点で発見。見つけてみれば大きな交差点にあり、非常に目立ってます。
一番上の地図の緑丸は、消滅した掩体壕群の場所です。
説明板にあった掩体壕の写真
(以下2024年1月撮影)
2009年にお邪魔した時とは随分変わっていました。
協和病院正面に向って左側には、
紫マーカー地点。
「滑走路跡」が整備されています。
2009年にお邪魔した時より、コンクリート表面が少々削れているように見えます。
特攻基地滑走路跡
ここ病院の敷地一帯は、太平洋戦争中には「冨高海軍航空隊基地」とし特に戦争末期には第一線基地とし又特攻基地として重要な役目を果たしていました。後方にありますコンクリート部分は当時の滑走路の一部でありまして、戦時中そのままのものであります。現在の平和の前にはこのコンクリートの滑走路から特攻機が飛び立ったのです。恒久の平和を願う為にこの滑走路を保存するものです。
緑/黒マーカー地点。
病院正面に向って右側少し奥には、神風特別攻撃隊出撃之地碑と、すぐ後ろに爆弾穴があります。
記
コノ附近一帯ハ、第二次世界大戦末期、特攻基地トナツタ旧海軍航空隊富高飛行場ノ跡デアル。
コノ記念碑ハ、祖国ノ難ニ殉ジテコノ基地ヲ飛ビ立チ、征イテ再ビ還ラザリシ神風特別攻撃隊ノ英霊、並ビニ、コノ基地ノ建設ニ従事シ、不幸傷病ニ斃レタ一般市民・動員学徒・朝鮮人・中国人労務者ノ霊、及ビ遠クコノ地異国ノ空ニ散華シタ米国空軍将兵ノ霊ヲ弔ウタメニ建立サレタモノデアル。
昭和三十五年 秋 協和病院 昭和五十二年夏 再建
宮崎県・富高航空基地跡地
富高航空基地 データ
設置管理者:海軍
種 別:陸上飛行場
所在地:宮崎県日向市
座 標:N32°24′30″E131°38′03″
面 積:132.2ha
飛行場:1,800mx1,000m(芝張)
滑走路:700m×60m,600m×60m(コンクリート) 方 位:18/36,17/35
(座標、方位はグーグルアースから。飛行場、滑走路長さは防衛研究所資料から)
沿革
1929年01月 町側のあっせんで海軍が三千町歩の用地買収の契約が整い、実地視察
03月 下旬に用地買収終了
04月 着工。砂地が多くしまりが悪いため、県庁のハンドローラー借り入れ
06月 開場。常駐者のいない臨時の訓練飛行場となる
07月 03日、冨髙飛行場に飛行機16機飛来
飛行場用地ははじめ7万坪だったが、二回目の拡張工事で16万坪、三回目の拡張工事で約40万坪となる
1930年 陸海軍による演習が盛んに行われるようになる
1935年 最後の拡張工事終了
1940年 建設
1941年10,11月 真珠湾奇襲作戦の訓練が行われる
1944年03月 冨髙上空で米艦載機と富高飛行場の零戦が空中戦
当時当飛行場は築城航空隊富高分遣隊となっており、練習生300人、練習機は30機であった
11月 冨髙海軍航空隊として独立。練習航空隊の指定を受け、陸上操縦教育を行う
1945年02月 燃料、機材の不足から当飛行場での搭乗員教育が中止される
03月 冨髙航空隊廃止。同航空隊から編成された特攻隊が岩国に移動。5月まで夜間体当たり訓練を実施
04月 菊水一号作戦(特攻作戦)開始。冨髙は鹿屋への中継地となり若い特攻隊員が川辺で過ごす姿が見られる
21,22日 B29による爆撃を受ける。格納庫をはじめ甚大な被害を受ける
08月 終戦時、零戦20機残存
関連サイト:
ブログ内関連記事■
この記事の資料:
甲斐誠二さんからの情報
現地の説明板
宮崎の戦争
「日本海軍航空史」(終戦時)
防衛研究所収蔵資料:5航空関係-航空基地-77 終戦時に於ける海軍飛行場一覧表 昭35.6.29調
防衛研究所収蔵資料「海軍航空基地現状表 内地之部 佐世保鎮守府航空基地現状表」