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ブログ引越しのお知らせ [■ブログ]

当ブログは 平成22年2月22日をもちまして更新終了致しました。

「空港探索・2」 1ページ目   
現在更新中の「空港探索・3」

 

これまでの閲覧本当にありがとうございました。

次のブログの方でもどうぞ宜しくお願い致します。

とり。

 

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九州旅行・4日目(後編) [■旅行記]


(終日硫黄島)

 

4日目(後編)

ということで村営フェリーは硫黄島に到着しました。

下船したのは5人ほど。ヤングが多いです。

いかにも「観光で来ましたっ」という感じなのはオイラを含めて3人でした。

岸壁に降りてしばらく港の様子を見ていたのですが、

下船した人はすぐ港からいなくなるし、船は積み下ろしが終わるとすぐ出港してしまいました。

これで明日の朝までこの島から出られません。

とりあえず荷物が重いので宿に荷物を置くことに。

感を頼りにウロウロ。

 

小さな店先に集まっていたおばあさんたちが一斉にこっちを見ています。

なんとなく監視されているような気がして逃げるようにあっちの方へ。

しかし暑い! 確か、本日の最高気温は27℃とか言っていたハズ。

テレビで「北海道では初雪」とか言ってたっけ…。

坂の途中で荷物を下ろし、水を飲んで地図を確認。

ちょうど駐在所でお巡りさんが立番していたので宿を尋ねると、ニコニコしながら教えてくれました。

宿到着。イジワルバーサンとの対面です。

 

挨拶を済ますとおばあさんは部屋に案内してくれ、

「暗くなるので温泉からは6時までには戻ってきた方がよい。

温泉では浸かるだけ。濡れた手で顔を触ってはいけない。

温泉の周辺には水を飲める場所がないので、脱水症にならないように、ここで飲み物を買って行くがよい」

とそれだけスラスラ説明すると、どこかへ消えてしまったのでした。

既にイジワルバーサンというイメージが固まっているので、飲み物情報は儲けるためとしか受け取れない。

オイラは水を十分持って来てるから買わないもんね~。

カメラと水とカロリーメイトだけデイバッグに詰めて部屋を出た。

民宿を1人で利用するのは初めてです。

…おばあさんの姿がまったく見えないんだけど、勝手に出掛けてもいいんだよね?

一応「行ってきます~」とおばあさんが居そうな方向に声を掛けてから出掛ける。

明日の朝10:15出港だし、お天気は下り坂だし、今日中に飛行場の見学をしておかないと。

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延々坂を登って行きます。暑い~。

途中でドコモ鉄塔発見。

オイラのauは島に着く前からとっくに圏外でした。

やっぱりドコモのカバー率はすごいですね。

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宿を出てから30分 やっとここまで来ました。

たった30分なのですが、坂がキツイので疲れますた。_| ̄|○ il||li

無事飛行場の見学を終え、ちょっと休憩して後「恋人岬」に行ってみることに。

宿から更に1.5キロ?ほど遠ざかることになるので、どうしようか少し迷ったのですが、

他に行くところもないのでとりあえず行ってみることに。

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高低差が激しくて、徒歩の移動は結構大変です。

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島にはあちこちに牧場があって大きな黒牛がいます。

篠?がたくさん生えていて、ブチッ、ブチッ、と食べてました。

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「岬橋」手前の展望台

手すりの向こう側の篠が撮影の邪魔になるので、手すりを乗り越えて枯草の上に飛び降りたらその下がなくて、

1mほど落ちてしまい、手をついてケガしてしまいました。イテテ!!

もう少しでオロナミンCの助ける人居ない状態になるところでした。

手すりを乗り越えるのは危険なのでやめましょう。

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内側の水の色がまったく違ってますね。

途中、「岬橋」というとても眺望の良い橋があったのですが、橋の真ん中に車が止まっていて、

お兄さんがビデオ回してました。

挨拶しようかと思ったのですが、お兄さんは撮影に没頭してるし、声が入ると悪いかと思ってそのまま通過。

そして恋人岬到着。休憩~。

あれほど晴れていたのに、いつの間にか上空は雲に覆われてしまいました。

そして沖の方に巨大な暗雲が。

雲の進み方からすると直撃は免れそうですが、心配なので早目に戻ることに。

カサ持ってないし。

出先で黒雲が現れると、もうそれだけでドキドキです。

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「岬橋」から。

やや左側の集落の中にオイラの泊まった民宿があります。

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だんだん日が傾いてきました。

これからがオイシイところなのですが、雨具持ってないオイラにとって、この雲の暗くなり方は恐いです。

雷注意報も出てたし、ここから宿へは一生懸命歩いても30分はかかるはず。

急げ~。

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画面左側の岩肌の下っ側からぐーっと迂回してここまで戻ってきました。

ここまで来れば、もう宿までは5分ほど。

最悪雨が降ってきたら、ビニール袋にカメラ入れよう。と考えていたのですが、黒雲はどこかにいってしまい、

結局今日は雨降りませんでした。

「6時までに戻ってくるがよいわ!」と言われていたのですが、まだ5時前です。

このまま宿に戻ったら、「なんでこんなに早く戻ってきたか!」とゴボウでぶたれるかもしれません。

でも今からおばあさんの言っていた数キロ先の温泉に歩いて行く余力はもう残ってません。

港周辺をうろつくことに。

島の住宅地周辺では、そこら中に孔雀が歩き回っており、

安徳天皇の墓があったり、非常に歴史のある島でした。

実はオイラ、飛行場を見に来ただけで、この島については何も知りませんでした。^^;

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6時頃宿に戻りました。

「戻りました~」と声掛けてみましたが、奥の方で「カタッ、カタッ」と音がするだけで応答なし。

うぅ、オイラは一体どうしたら…(;´Д⊂)

とりあえずいそいそと指定された部屋へ入って戸を閉め、落ち着かないので、部屋に置いてあるノートを見てみました。

この部屋に泊まった客の感想がビッシリと綴られています。

おおよそ15年前から5年位前までの記録なのですが、

島の素晴らしさ(特に温泉)と共に、イジワルバーサンの飾らない人柄を絶賛する熱い言葉に溢れていました。

ア、アレ??

 

ノートを読み終わると7時。

(コリャ、本当に食事なしかも(´・ω・`))と思い始めた頃、「食事の用意ができましたよ~」と声がしました。

実はネットでこの宿を酷評する中で、食事のことが挙げられており、

「ただの冷凍食品を並べただけ。不味い。最低。これが客に出すものか!!」 みたいなことが書かれてました。

(い、いったいどんな手抜き料理が??)

もしかしてカップラーメンとバナナとか??  などと思いながら食堂へ。

案内された部屋には、大きな食卓にいろんなご馳走が並んでました。

おばあさんが釣ったという魚、島で採れる野草の天ぷら(名前忘れた)など、普通にとても美味しかったです。

醤油がビックリするほど甘かったですけど ^^;

所用で4日前からここに宿泊しているという鹿児島市在住のおばさんと、

今日のフェリーで来たヤローがオイラを含めて3人。

合計4人の客なのでした。

この島で下船した5人ほどのうち、いかにも「観光で来ました」という感じの3人がもれなくこの宿の客になっているのです。

他にも宿はあるのにすごい偶然だな~。

などとこの時は思っていたのでした。

 

内1人は、「岬橋」でビデオ撮影していた彼でした。

なんでも前日空路で鹿児島空港に着く予定だったのが、件の訓練機の事故で空港が閉鎖になってしまったため、

代わりに降ろされた別の空港から鉄路やっとの思いで鹿児島までやって来たのだそうです。

大の温泉好きで、九州内の温泉を巡っていてこの島の温泉にも入りに来たのだそうです。

この島には複数の温泉があるのですが、彼も、そして部屋のノートでも絶賛の嵐だったのが「東温泉」。

断崖絶壁の波打ち際にある露天で、知る人ぞ知る、超有名温泉らしいです。

オイラは入らなかったと言ったら、

「あの温泉に入らなかったらこの島に来た意味がない」 とまで。

宿のおばあさんから「せっかくだから明日の朝入ってきなさい」と言われました。

 

もう1人も下船時の荷物と服装を覚えている人でした。

3つの島のドコで下りようか、直前まで迷っていて、なんとなくこの島に降りたのだそうです。

みんなでご馳走をつつきながらの自己紹介は、

なんとなく「どうしてこの島に来たか」を申告する流れになって参りました。

正直に「飛行場だけを見に来ましたっ」などと言うときっとドン引きだろうと思い、

おばあさんに竹島入港の際のタイコのことを聞いてみて話題を変えるオイラ。

すると、アレは特別な客がある時だけのものだということが判明。

つまり今回は、赴任して来るK先生のためのタイコだったのです。

我々はK先生のためのタイコに感動して拍手していたのでした。

子供たちは、「別にアンタたちのためじゃないし」とか思ってたんでしょうかね ^^;

珍しいものを見せてもらったし、まぁ、いいですけど。

しかしこれで話の流れは、

「どうしてこの島に来たか」から完全におばあさんによる島のいろんな話へと完全に変わったのでした(o ̄∇ ̄o)ニヤ

 

島に籍を置いているだけの人、籍はないが仕事で長期滞在している人などいて、

この島には実質120人位住んでいるのだそうです。

120人。

学校だと3クラス分ですね。

お互い相手の性格までよく知っており、

「今日あの人は午前中畑に居た。昨日は△△に居た」など、すべて把握されてしまいます。

島から鹿児島に行くことを「鹿児島に上がる」と言うのだそうです。

 

潮風と共に、この島特有の硫黄と亜硫酸ガスのせいで、

「2年前に買った」というポットの淵の部分がもう塗装が取れてサビでボロボロ。

こんな有様なので、車はほんの少しのキズでも、たちまちそこからサビてしまうため、

補修には大変なお金がかかるのだとか。

そういえばネットではここのレンタカー料金について「ぼったくり」とか書かれていたっけ。

 

この宿のおばさんは孔雀を手なずけており、宿の前に"ボタモチ"をすると、叱って3日ほどエサをやらない。

するとそんなことはなくなるのだそうです。

他の孔雀が"ボタモチ"をした時も、おばさんに特になついている孔雀を犯行現場に連行して代表して叱ると、

他の孔雀もそんなことはしなくなるのだそうです。

おばあさんが元気がないと、肩に頭を乗せてきたり、顔を覗き込んだり。

「アレは孔雀の姿をしているだけで、人間とまったく同じだ」と話していました。

 

4日前に鹿児島市から来たおばさんは、この宿で連日供されるご馳走に感激していて、

この間に食べたご馳走がいかに素晴らしかったかを力説していました。

確かにおばあさんの言葉の端々には、

料理が大好きで、客に少しでも美味しいものを食べさせて島の思い出にさせてやりたい。という気持ちが表れてました。

それでも、食材の多くはフェリーに頼っているので、欠航してしまうと大変なのだそうです。

前述の通り、3つの島を結ぶフェリーは2日かけて島を往復するのですが、

確実に鹿児島に戻って来れる状態でないと、すぐに欠航するのだそうです。

実は明日から天気が崩れるため、今日の宿泊予定はキャンセルだな。と思っていたのだそうです。

そんな状態なので、欠航が続いてしまうと食材が底をつき、

客も島から出られずに宿泊日が延長になってしまい、連日保存食を供することになってしまうのだとか。

いつでも店先になんでも並んでるのが当たり前の生活に慣れていると想像できない世界ですね。

(ネットで酷評されていた最悪な食事事情というのはこのことだったのか…)

などと考えながらおばあさんの話を聞いていたのでした。

この頃には、宿についてのネット情報はきっと誤解からくるものなのだろう。という考えに変わっていました。

ノートに書かれている通り、おばあさんは飾り気のないとても気さくな方なのでした。

 

食事が始まってから2時間が経過した頃、

「この島では本当は独り客はお断りなのだ」と教えてくれました。

島の人は基本的に親切で疑うことを知らないので、簡単に騙されてしまいます。

船でフラリとやって来て、島のキャンプ場などに居座り、魚を釣って食いつなぐ人も時々いるのだとか。

そしてアチコチのお宅でモノが無くなることが頻発したりするのだそうです。

この宿でも何度か盗難被害に遭ったのだそうです。

こうなると、その人が島に滞在する間はカギをかけないといけない。

島にはカギをかける習慣がなく、高齢者にとってはそれだけでも大変なことなのだとか。

特に、全員が家族同然で平和そのもののこの島に生まれ育った年配者ほど人を疑うことを知らず、

部屋から大金がなくなってしまい、「どう考えてもアイツだ」と周りの人たちが言っても、

「あの人は私の荷物を運んでくれた。あんな親切な人がそんなことするはずがない。

きっと私がボケてどこかに置き忘れたのだ。そのうち出てくるよ」

ということになってしまうのだそうです。

 

ちなみに現在も怪しげな人がキャンプ場に住み着いていて、

カブで移動しているので島の人たちには「カブの人」として知れ渡り、警戒しているのだそうです。

港に着いた時、近くに集まっていたおばあさんたちが一斉にオイラを監視しているように感じたのは、

被害妄想ではなく、きっとオイラの発する怪しい周波数をキャッチして、

「アイツは怪しい…。『カブ』に続いて2人目目か」 とか思っていたのでしょう。

 

以前この宿に年配の男性一人客が宿泊した時のこと、どうも挙動がおかしくて、

駐在さん立ち合いで荷物検査をしたら、ロープ、軍手が出てきて、

問い質すと、「妻に死なれ、嫌になったので死場所を探して来ました」と答えたのだそうです。

「アナタが死んでしまったら、たった1泊でもかかわりをもったワタシだってとても悲しい。

奥さんのお墓の面倒をアナタがみなくてどうするんですか」

駐在さんと2人で諭したのだそうです。

 

というわけで、1人でこの島に来る人のよからぬ事件を何度も経験するうち、

「独り客には何かあるかもしれない」という懸念がつきまとい、他の宿では上手に断っているのだとか。

そして基本的に1人客でも受け入れてくれるのは現在この民宿だけなのだそうです。

今回泊まった3人のうち、1人は他の宿がすべて"満室"だったため最終的にここで予約をし、

もう1人は駐在所でここを紹介されたのだそうです。

「駐在さんはここが1人客受け入れることを知ってるからね」とのことでした。

オイラはネット評を見て、「どんだけ酷い宿だ」とたまたまここを最初に選びました。

オイラが選んだつもりだったのですが、1人客のオイラには最初からここしか選択権がなかったのです。

 

そういえば。

駐在所のお巡りさんはニコニコ親切に宿の行き方を教えてくれたけど、

実は胸中イロイロ思ってたんでしょうね。

そして宿の名前を失念してしまっていたとしても、ここの宿を案内してくれたんでしょうね。

もしかしたらあの時の立番だって、偶然ではなくいつも入港に合わせて警戒しているのかもしれません。

 

最初は、見知らぬ人たちと食事なんてどうなることか。と心配だったのですが、

おばあさんの島での暮らしのことなどお聞きするうちあっという間に時間は過ぎていき…

23:30 おひらき 

おやすみなさい。

 

(続きます)


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九州旅行・4日目(前編) [■旅行記]


Ⓐ鹿児島中央駅→Ⓑ鹿児島新港→ⓒ竹島→Ⓓ硫黄島→Ⓔ薩摩硫黄島飛行場

 

4日目(前編)

宿泊したホテルは鹿児島中央駅前にあります。

実はこの駅、オイラが高1の夏に沖縄に向かった際の思い出の場所なのです。

7時からの朝食前にちょっと駅前を散歩。

路面電車が走ってました。

おしゃれな車両でとても静か。車輪の「ゴリゴリ」という音が響いてました。

駅がすごく立派になったものよのぅ。

桜島の火山灰があちこちに積もっていて、店先で掃き掃除をしている姿がそこここで見られました。

駅前のレンタカー屋さんの車にもうっすらと灰が積もってました。

(これがあの有名な火山灰か~。一晩でこんなに降ったんだな~)

この時まだ火山灰の恐ろしさを知らなかったオイラは呑気に眺めていたのです。

7時過ぎ、ホテル1階で朝食。

なんだかテーブルがザラザラする。

ここまで入ってくるのか…。

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今回の旅行中、九州各地で東横インを3泊利用したのですが、そのうち2泊は立体駐車場利用でした。

出庫の操作はセルフサービス。

入庫の際に受け取ったカードをかざし、投入口に入れると、後は自動で車が現れます。

よくできてますね~。

立体駐車場なのに、車にはうっすらと灰が。

 

8:20 鹿児島新港 南埠頭到着。

これから船で硫黄島に渡ります。

硫黄島には「薩摩硫黄島飛行場」があるのですが、現在ヒコーキの定期便がないため、

この島へは、船で行く以外方法がありません。

鹿児島新港から硫黄島を含む三つの島に村営の定期フェリーが出ているのですが、

なんとこの村営フェリー、全国版時刻表はおろか、九州版の時刻表にも出ていません。
(小倉の書店でチェックした)

朝鹿児島港を出た船は、竹島→硫黄島→黒島と進み、その日は黒島で停泊。

翌朝、逆コースを辿って午後再び鹿児島港に戻ってきます。

予定表によりますと、11月はこれを12回(枕崎経由4回含) 。

つまり硫黄島に行くには、少なくとも島で一泊することが必要なのです。

再びここに戻ってくるのは30時間後。

1つの飛行場を見るためにこれだけ時間と費用を費やすのですから贅沢です。

 

実は硫黄島には数件の民宿があるのですが、ネットでケチョンケチョンに酷評されている宿があり、

怖いもの見たさも手伝ってその宿で泊まることにしたのでした(o ̄∇ ̄o)ニヤ

ネット予約は不可なので直接電話。

この時の応対が結構ぶっきらぼうで、なんかイジワルバーサンみたいな雰囲気です。

(うおおぉ、これは聞きしに勝る…)なかなか期待を裏切りません。

これは最悪の場合、

「はっはっは!! 食事が出てくると思ったか! そんなに食べたいんなら、このゴボウの根っこでもしゃぶってな!!」

なんて事態も充分あり得ます。

常に最悪の事態に備えるのが探索者の常。

ということで念のため、水を3リットルとカロリーメイト4箱を持っていくことに。 

 

フェリー利用客用の駐車場に車を止め、「みしま待合所」にて切符購入。

「記入をお願いします」と窓口氏に渡された用紙には、目的地、目的、帰りの予定日など記入する欄がありました。

目的地…(いおう島…いおう島…。「いおう」ってどう書くんだっけ??) (゚Д゚;≡;゚Д゚)

漢字力のないオイラ…掲示物をチラ見して事なきを得ました。

運賃は二等の場合、どの島まで行っても、3,500円です。

往復券はあるのですが、鹿児島港で購入すると、単純に7,000円。

島で購入すれば割引になります。流石村営フェリーです。

ということで無事にチケットをゲット。

「出港10分前までに乗船してくださいね~」 と言われました。

 

駐車場と待合所を往復したのですが、目の前の桜島から灰色の帯がこちらに向かって流れています。

そして頭、服にカサカサと灰が降り始めました。

いつの間にか口の中はジャリジャリ。目はシパシパ。メガネはまったく役に立たず。

「灰」とは言いますが、木や紙を燃やしたみたいな、水に溶けちゃうような生易しいモノじゃなく、これは岩石の粒子です。

まともに目を開けてられません。

「こすったら負け」と分かってはいるのですが、ついつい目に手が。

イテテテテテ!!  わ~ なんだコリャ!!(XДX)

見ると、テロリストみたいなカッコして歩いている方がチラホラ。

上空はすっかり灰の帯に覆われて薄暗くて不気味です。

何をする気力も失せ、船のすぐ横に停まっているお弁当販売車でお弁当買って、早々に乗船。

なんだか眼の中に研磨剤が入ってる感じです。ひー。

すっかり戦意喪失。ライフ0になって船室に閉じこもって大人しくしてました。うぅ、火山灰キライ…。

9:30 出港

灰は結構な勢いで降り注いでました。30時間後に戻って来た時、車は一体どうなっているのでしょうか。

レンタカーながら心配です。

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二等船室。ガラガラです。

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12:24

鹿児島を出港してから3時間後、竹島に到着。

ずっと船室でゴロゴロしてたのですが、ようやく目のゴロゴロも収まりました。

いつの間にかいいお天気です。

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海底が見えます。

きれいかー。

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島の子供たちがタイコで出迎えてくれました。

高学年の女の子のよく通る歌声が港に響いてました。

なんて大歓迎な島!

甲板でその様子を見ていた乗客たちは、踊りが終わると一斉に拍手。

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フォークリフトとクレーンで積み下ろしをしてました。

ランプ操作、舫い綱の巻き上げでだと思うのですが、接岸中も船体は大きく左右に傾きます。

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踊りの後、「K先生歓迎式」が行われてました。

式の後、「□□宅で荷揚げ作業があるのでお手すきの方はご協力を」。とのことで、

この後お父さんお母さんたちは車やスクーターであっという間に姿を消しました。

赴任してくる先生のお出迎えから住居のお世話まで、父母総出なのですね。

この時期(昨年10月)の赴任、どういう事情なのでしょうか。

子供たちは照れているのか、先生を遠巻きに見ているだけで近寄ろうとしませんでした。

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12:41 出港

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13:03

硫黄島が近づいてきました。

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あちこちから煙が立ち上ってます。

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13:06

さっき出港した竹島がハッキリ見えます。

以前読んだ本の受け売りなんですが、鹿児島から沖縄本島までは、見える島を伝っていけば着けるのだそうで、

航海術の発達する以前から盛んに交易が行われていました。

ところが沖縄本島から更に西側に行こうとすると、八重山諸島までしばらく何もなく、島伝いに、というわけにはいきません。

この隔絶された環境が、八重山諸島独特の文化の発展、保存につながったのだそうです。

って、鹿児島の先っちょの島でこんなこと書くのもアレですが。

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おもかじいっぱ~い!

13:20 硫黄島入港

 

(続きます)


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新田原飛行場(高鍋陸軍飛行場) [├空港]

  2009年10月訪問 2023/1更新  


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撮影年月日 1947/01/25(昭22)(USA M25A-20 43)  
出典:国土地理院ウェブサイト(地理院データを加工して作成・2枚とも)

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SkyVector.com

宮崎県の航空自衛隊新田原(にゅうたばる)基地。

2016年まで飛行教導群のいた基地です。

2017年現在、グーグルアースで使用している画像の取得日は2016/12/7で、

Wikiによれば、2016年6月10日 小松基地へ移転完了とあるのですが、

エプロンにはあの独特なカラーリングのF-15がズラリと駐機しています。

当基地は、かつて陸軍の「新田原飛行場」でした。

 

■「戦前戦後の飛行場・空港総ざらえ」の中で、宮崎県の項目に「高鍋陸軍飛行場」が登場します。

初耳の飛行場で、ググってみてもドコにあるのかなかなか分からなかったのですが、

グーグルブックスで検索したところ、戦中について扱った書籍の中に、

「高鍋陸軍飛行場」=「現・新田原基地」と記したものがありました。

アジ歴で検索してみると、 「菊池高鍋飛行場新設敷地買収の件」という文書が閲覧できます(下記リンク参照)。

この文書は昭和13年2月の新設敷地買収に関するもので、新田原飛行場建設とタイミングも同じでした。

高鍋町は新田原飛行場のある新富町の隣町ということもあり、

「高鍋陸軍飛行場」=「陸軍新田原飛行場」なのだと思います。

■防衛研究所収蔵資料「第四十一航空地区飛行場記録 昭和二十年九月二十日(陸空-本土周辺-114)」

の中で、当飛行場についての記述がありましたので、引用させて頂きます。

判決 自重十五屯以下の飛行機の使用に適す
飛行地区
 滑走地区 一二〇〇x一〇〇 約二十糎のコンクリートマガダム舗装
 舗装路 七〇〇x五〇 約十糎のコンクリートマガダム舗装
 土質 粘質壊土
 地表面の状況 舗装路外は張芝にて地耐力可なるも既設陣地あり着陸困難なり
 周辺障碍物の有無 なし
付属地区
 誘導路 なし
 宿営 三角兵舎二十棟(五〇〇名収容可)但し八月二十六日暴風に依り大部破損す
 夜間着陸設備 なし
 動力線 なし
 電燈線 前頃兵舎に配線ありしも暴風に依り大部分切損す
 給水 井戸は十六を有するも冬期に於て水量少なり
其の他
主風向 西北風但し海陸風の影響大なり

付属地区の項目に、「誘導路 なし」とありますね。

オイラにはあるように見えるんですが、どういうことなのかしらん。

実は同資料では、終盤の頁で当飛行場の「要図」と「飛行場記録」がコンパクトにまとめられて再登場しているのですが、

両者には細かな差異があります。

以下異なっている箇所を列挙します。

・舗装路:「七〇〇x五〇 約十糎のコンクリートマガダム舗装」→「滑走路及誘導路「コンクリートマカダム」舗装」
・土質:「粘質壊土」→「粘土質壊土」
・給水:「水道なし」を追加

同資料内の要図によりますと、滑走路東端の更に東側部分に、

「此の付近転圧不十分 着陸不能」とありました(グーグルマップ赤マーカー)。

■防衛研究所収蔵資料「本土における陸軍飛行場要覧 第一復員局(陸空 本土防空7)」

にも当飛行場の情報がありました。

飛行場名  新田原
位 置   宮崎県児湯郡新田原村
規 模   要図
舗 装   一〇〇×一二〇〇
      基礎築石地形
付属施設
 収容施設 一七〇〇名分
 格納施設 掩体 大三〇ヶ所 小二〇ヶ所
摘 要   施設軍有

 

下の沿革にもまとめたんですが、陸軍飛行場は戦後一旦農地になり、その後再び飛行場に戻っています。

こういうケースもあるのですね。

旧軍用飛行場を戦後再び飛行場として使用する場合、

滑走路、誘導路、エプロン、格納庫等、元々使用していたものをほぼそのまま使用したり、

それが現在までそのまま残って居たりするケースも多々あるのですが、

先頭のグーグルマップの通りで、ここは滑走路も誘導路、エプロンも元のものはほとんど使用していません。

芝張りならともかく、せっかく舗装した立派なものだったのに、これは珍しいです。

民間に払い下げられたのが1947年。

航空自衛隊の飛行場建設が決まったのが1957年で、飛行場が完成したのは翌年でした。

10余年の時を経て再び飛行場になるまでの間に、舗装がすっかり剥がされて、完全に農地に戻ったのかしらん。

なんて思っていたのですが。。。

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1961/10/07(昭36) KU611YZ 1 6   

これは滑走路完成から3年後の写真です。

陸軍当時の滑走路、誘導、エプロンが残っていたにもかかわらず、

新たな滑走路、誘導路、エプロンを建設したことが分かります。

また、この記事内でこれまでずっと、「滑走路の向きは変わっていないっぽい」などと書いていたのですが、

これもオイラの先入観からくる勘違いでした(キレイさっぱり消し去った)m(_ _)m 

年代を追って当飛行場の様子を見ていくと、1990年代後半には旧滑走路等の痕跡はほぼ消えています。

それでも新設滑走路と誘導路に挟まれた部分には、一部ですが今でも旧滑走路面が斜めに残っています。

 

オイラの妄想話はここまでにして話は変わりますが、

ここには有蓋掩体壕が4基現存しています(上のグーグルマップの青マーカー)。

基地南側の外周道路からポコポコと見えます。

現存する掩体壕に西側から勝手に番号をつけました。順番にアップします。


1番目の掩体壕 

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開口部が北北東を向いており、外周道路から見るとほぼ正面に口を開けてます。

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ここの掩体壕、開口部がみんなきれいな弧を描いてました。

陸軍型ですね。

ご覧の通り前には広々とした草原が広がっており、ステージのような不思議な場所でした。

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内部の様子

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2番目の掩体壕

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東北東を向いている2番目の掩体。

1番目の掩体の場所から丸い背中が見えました。

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他の掩体が開口部に直接軽トラで乗り付けて荷物の積み下ろしができるのに対し、

この掩体だけは前が畑になっているのでオイラは近寄れませんでした。

畑に入ってしまわないように慎重に。

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奥に見えているのは1番目の掩体。


3番目の掩体壕

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外周道路から見たところ。

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東南東を向いている3番目の掩体

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ロールがいっぱい入ってました。

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4番目の掩体壕

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北北東を向いている4番目の掩体。

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こちらは柵が設けてあって内部に入れないようになってました。

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D20_0296.jpg


     宮崎県・新田原飛行場    

外周道路は狭く、車同士がすれ違うポイントが制限されてます。地元車はよく心得ていて、かなり手前で延々待っていてくれる場合があり、要注意でした

・陸軍新田原飛行場 データ
設置管理者:陸軍
種 別:軍用飛行場
所在地:宮崎県児湯郡新田原村
座 標:32°05'11.5"N 131°26'55.8"E
標 高:74m
滑走路::1,200mx100m(11/29)
(座標、標高、方位はグーグルアースから。他は防衛研究所収蔵資料から)

・航空自衛隊新田原基地(現在) データ
設置管理者:防衛省
種 別:軍用飛行場
所在地:宮崎県児湯郡新富町大字新田19581
4レター:RJFN
標 点:N32°05′01″E131°27′05″
標 高:79m
滑走路:2,701mx46m(10/28)

沿革
1937年春頃 飛行場建設が村に対して内々に打診される
1938年04月 22日県から村助役に対し、新田原一帯を陸軍飛行場とするため本年度から工事着手決定と伝えられる
       23日 地主会招集
       24日 新田原村長名で予定地の作付け中止通知依頼。
       憲兵分駐所長、特高主任出席の下第一回土地買収委員会開催
1939年01月 9日 宮崎県、第六師団経理部から整地工事の委託を受ける
       30日 県、正式受諾
     02月 01日 着工
1940年07月 17日 熊谷陸軍飛行学校新田原分教場開設
     10月 01日 大刀洗陸軍飛行学校新田原分教場となる
1945年   終戦
1947年   農林省に所管換え、開拓農地として民間に払い下げられる
1957年   航空自衛隊新田原基地開設が決定される
1958年   滑走路完成

関連サイト:
アジ歴/菊池高鍋飛行場新設敷地買収の件  
ブログ内関連記事      

この記事の資料:
防衛研究所収蔵資料「第四十一航空地区飛行場記録 昭和二十年九月二十日(陸空-本土周辺-114)」
防衛研究所収蔵資料「本土における陸軍飛行場要覧 第一復員局(陸空 本土防空7)」
「21世紀へ伝える航空ストーリー 戦前戦後の飛行場・空港総ざらえ」


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富高航空基地跡地 [├空港]

  2009年10月、2024年1月訪問 2024/3更新  


3.png
撮影年月日1947/11/06(USA R169 61)  
出典:国土地理院ウェブサイト(地理院データを加工して作成。写真内の説明は甲斐誠二さんから)
4.png
1/50000「富髙」昭和7年要修「今昔マップ on the web」から作成

宮崎県日向市にあった「富高海軍航空隊基地」。

先頭のグーグルマップ、ちょっと不思議なことになっていますが、

水色のシェイプは、現地しらさぎ公園内に展示してある地図から、

黄色のシェイプは上に貼った1947年の航空写真で目立っている部分で、甲斐誠二さんから情報頂きました。

甲斐誠二さんは当時、着任した兵士から直接話を聞かれたとのことで、

現在は「語り部」をしておられるのだそうです。

詳しくはコメント欄をご覧ください。

頂いた情報を元に記事を大幅に修正させて頂きました。甲斐誠二さん貴重な情報をありがとうございましたm(_ _)m 


■防衛研究所収蔵資料:5航空関係-航空基地-77 終戦時に於ける海軍飛行場一覧表 昭35.6.29調

には、「昭15建」とありました。 

■防衛研究所収蔵資料「海軍航空基地現状表 内地之部 佐世保鎮守府航空基地現状表」

の中で、当航空基地について一部次のように記載がありました。

基地名:富高 建設ノ年:1940 飛行場 長x幅 米:1800x1000芝張ノ内700x60 600x60コンクリート 主要機隊数:小型練6.0 主任務:教育 隧道竝ニ地下施設:居住、指揮所、電信所、燃料庫、爆弾庫、魚雷調整場、魚雷格納庫、工業場、倉庫 掩体:中型小型無蓋48 

資料によりますと、「700x60,600x60のコンクリート舗装」とありますね。

上の航空写真のメガネ型コンクリートの長さをいろいろ計ってみたんですが、

せいぜい300m程度しかありませんでした。

当地は1947年3月以降の写真しか閲覧できないんですよね。

もしかし舗装が剥がされちゃったのかしらん。

剥がされておらず、元々この形なのだとしたら、これは飽くまで一般論になってしまうんですが、

飛行場敷地に地盤がしっかりしている箇所と、軟弱な箇所が混在していることがよくあり、

軟弱な部分のみ舗装するケースがあります。

なので、僅か300m程度しかコンクリ舗装してないというのは、全然アリです。

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後述しますが、これは有蓋掩体壕の一部が残る場所にあった説明版の一部です。

最も長いL型のコンクリート舗装が中央上に映っており、「駐機場跡」とあります。

長い舗装部分に沿うように格納庫っぽいものも並んでますし、確かにここは駐機場ですね。

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紫マーカー地点。

協和病院玄関前の舗装面には一部色の異なる部分があります。

特攻基地滑走路跡(全文) 
ここ病院の敷地一帯は、太平洋戦争中には「富高海軍航空隊基地」とし特に戦争末期には第一線基地とし又特攻基地として重要な役目を果たしていました。この案内板の前にありますコンクリート部分は 当時の滑走路の一部でありまして、戦時中そのままのものであります。 現在の平和の前にはこのコンクリートの滑走路から特攻機が飛び立ったのです。恒久の平和を願う為にこの滑走路を保存するものです。


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1957年、当病院が開設される時、初代理事長の切望により残されたもので、

氏は中学時代に学徒勤労動員で本飛行場の拡張工事、掩体壕作りに参加しています。

病院は将来に渡って原型を残したい考えなのだそうです。

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緑マーカー地点。

「神風特別攻撃隊出撃之地」の碑

当病院の所に戦闘指揮所があり、特攻に行くひとがあると黄色い旗が立ったのだそうです。

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黒マーカー地点。

碑の隣にある「爆弾ノ痕」 直径12m,深さ3m

艦載機の250キロ爆弾の跡ではないかとされているそうです。

D20_0225.jpg


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灰マーカー地点。

小倉ヶ浜有料道路 料金所前にある「富高海軍航空隊基地跡」碑。

→2013年5月10日に無料化しました。

D20_0210.jpg

黄マーカー地点。

しらさぎ公園

しらさぎ公園にある「富高海軍航空隊跡地プロペラ展示施設」(全文)
 この地は昭和4年(1929年)に富高飛行場として発足以来、終戦までは富高海軍航空隊基地として予科練、予備学生等、大空を夢見た若き搭乗員の高度な技術育成のため、通称「赤とんぼ」の中練機で日夜訓練を重ねたのである。またこの基地が開戦当初のハワイ真珠湾奇襲作戦の訓練基地であり、お倉ヶ浜沖の岩場が爆撃投下の攻撃目標として訓練され今ではその岩場も小さくなって残っている。更に神風特攻隊の出撃基地でもあり、多くの若者たちが祖国の勝利と安泰を信じて、ここから飛び立ち二度と帰ることはなかった。その跡地に海上自衛隊のご厚意により借用したプロペラを展示し、「富高海軍航空隊」の史実と世界恒久平和を後世に語り継ぐとともに、二度と戦争を起こさないことを誓うものである。
平成15年6月5日設置

展示物 KM-2型航空機用プロペラ
型式:HC-A3x20-1E
直径:90インチ(228.6cm)
重量:98ポンド(44.4kg)
底辺の長さ:198cm
高さ:171.5cm

この公園の場所が分からなくて、何人かの方にお聞きしたのですが「しらさぎ公園」という名称はあまり知られていないようで、

「プロペラが展示してある公園」とお聞きしたら一発で通じました。



D20_0237.jpg

赤マーカー地点。

掩体壕の一部と説明板

当飛行場の掩体壕はすべてなくなってしまい、現在ではこの掩体壕の一部分が僅かに残るのみだそうです。

「一部が残っている」 ということと、「往還の公民館の近く」ということしか分からず、随分探しました。

10人位の方にお聞きしたのですが、みなさん掩体壕はすべて消えてしまったと思っておられるようでした。

結局、往還の公民館北側の交差点で発見。見つけてみれば大きな交差点にあり、非常に目立ってます。

一番上の地図の緑丸は、消滅した掩体壕群の場所です。

D20_0234.jpg

D20_0240.jpg

D20_0233.jpg

説明板にあった掩体壕の写真


(以下2024年1月撮影)

 
DSC_2367_00001.jpg

協和病院正面に向って左側には、

DSC_2366_00001.jpg

紫マーカー地点。

「滑走路跡」があります。

2009年にお邪魔した時より、コンクリート表面が少々削れているように見えます。

DSC_2365_00001.jpg

特攻基地滑走路跡
 ここ病院の敷地一帯は、太平洋戦争中には「冨高海軍航空隊基地」とし特に戦争末期には第一線基地とし又特攻基地として重要な役目を果たしていました。後方にありますコンクリート部分は当時の滑走路の一部でありまして、戦時中そのままのものであります。現在の平和の前にはこのコンクリートの滑走路から特攻機が飛び立ったのです。恒久の平和を願う為にこの滑走路を保存するものです。

DSC_2369_00001.jpg

緑/黒マーカー地点。

病院正面に向って右側少し奥には、神風特別攻撃隊出撃之地碑と、すぐ後ろに爆弾穴があります。


 コノ附近一帯ハ、第二次世界大戦末期、特攻基地トナツタ旧海軍航空隊富高飛行場ノ跡デアル。
 コノ記念碑ハ、祖国ノ難ニ殉ジテコノ基地ヲ飛ビ立チ、征イテ再ビ還ラザリシ神風特別攻撃隊ノ英霊、並ビニ、コノ基地ノ建設ニ従事シ、不幸傷病ニ斃レタ一般市民・動員学徒・朝鮮人・中国人労務者ノ霊、及ビ遠クコノ地異国ノ空ニ散華シタ米国空軍将兵ノ霊ヲ弔ウタメニ建立サレタモノデアル。
 昭和三十五年 秋 協和病院 昭和五十二年夏 再建


     宮崎県・富高航空基地跡地     

富高航空基地 データ
設置管理者:海軍
種 別:陸上飛行場
所在地:宮崎県日向市
座 標:N32°24′30″E131°38′03″
面 積:132.2ha
飛行場:1,800mx1,000m(芝張)
滑走路:700m×60m,600m×60m(コンクリート) 方 位:18/36,17/35
(座標、方位はグーグルアースから。飛行場、滑走路長さは防衛研究所資料から)

沿革
1929年01月 町側のあっせんで海軍が三千町歩の用地買収の契約が整い、実地視察
    03月 下旬に用地買収終了
    04月 着工。砂地が多くしまりが悪いため、県庁のハンドローラー借り入れ
    06月 開場。常駐者のいない臨時の訓練飛行場となる
    07月 03日、冨髙飛行場に飛行機16機飛来
       飛行場用地ははじめ7万坪だったが、二回目の拡張工事で16万坪、三回目の拡張工事で約40万坪となる
1930年   陸海軍による演習が盛んに行われるようになる
1935年   最後の拡張工事終了

1940年   建設
1941年10,11月 真珠湾奇襲作戦の訓練が行われる
1944年03月 冨髙上空で米艦載機と富高飛行場の零戦が空中戦
       当時当飛行場は築城航空隊富高分遣隊となっており、練習生300人、練習機は30機であった
    11月 冨髙海軍航空隊として独立。練習航空隊の指定を受け、陸上操縦教育を行う
1945年02月 燃料、機材の不足から当飛行場での搭乗員教育が中止される
    03月 冨髙航空隊廃止。同航空隊から編成された特攻隊が岩国に移動。5月まで夜間体当たり訓練を実施
    04月 菊水一号作戦(特攻作戦)開始。冨髙は鹿屋への中継地となり若い特攻隊員が川辺で過ごす姿が見られる
       21,22日 B29による爆撃を受ける。格納庫をはじめ甚大な被害を受ける
    08月 終戦時、零戦20機残存

関連サイト:
ブログ内関連記事    

この記事の資料:
現地の説明板
宮崎の戦争
「日本海軍航空史」(終戦時)
防衛研究所収蔵資料:5航空関係-航空基地-77 終戦時に於ける海軍飛行場一覧表 昭35.6.29調
防衛研究所収蔵資料「海軍航空基地現状表 内地之部 佐世保鎮守府航空基地現状表」


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