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大月防空監視哨跡 [├場所]

  2009年10月訪問 2023/1更新  

 

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昭和17年に本土初空襲があり、来襲する敵機を監視するために「防空監視所」が各地に作られました。

そのうちの一部が現存しており、山梨県大月市にもあると聞いてお邪魔しました。

大月市の防空監視哨跡は、市立中央病院のすぐ南側にある「(お)むすび山」の頂上にあります。

病院のすぐ東側にある坂を上って行くと間もなく上に貼った標識があります。

なぜか同様の標識が2つあって、微妙に表記が異なっているという……^^;

この先は車で乗り入れるような所ではありません。

距離は大したことないのですが、かなり険しい山道です。

熊出没を警告する標識があったのですが、登山口で犬にすんごい吼えられたので多分大丈夫でしょう。

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到着~。

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丸い穴が開いています。

「聴音壕」跡。

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下りてみました。

直径4.5m、深さは1.5mだそうです。

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周囲は木が生い茂り、視界は思ったほど開けていません。

当時はこうじゃなかったんでしょうね。

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ここでくる日もくる日も監視を続けたのですね。

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説明文がありました。

「大月防空監視哨跡」(全文) 日本は昭和十六年(一九四一年)十二月アメリカ・イギリス等に宣戦布告をし、第二次世界大戦に突入した。緒戦こそ戦果が上がったが軍事も経済も豊かな連合軍にかなうはずもなく、昭和十七年のミッドウェー海戦に敗れてからは不利を余儀なくされた。昭和十七年米爆撃機による本土初空襲があり、空の守りとして「民防空監視隊」が組織された。その時山梨県には甲府・大月・南部に監視隊本部が設置され、その下にそれぞれ十五・一〇・七の監視哨が置かれた。大月監視隊本部は、昭和十八年暮れに猿橋から大月へ警察署と共に移転し、傘下には、丹波・西原・上野原・七保・大月・笹子・谷村・吉田・精進・河口の各監視哨があった。監視哨は、哨長一名監視隊員九名で編成され、三交代で昼夜を分かたず空の守りについていた。その役割を、昼は二名で双眼鏡で空を監視し、夜は一名が監視、一名は聴音壕の中で飛行機の音を聴き飛んでいる方向や機種を探り、一名は電話番としてキャッチした情報を本部に伝えるという、分担制で果たしていた。左にある縦穴は聴音壕の、右の平な部分は事務所のあった跡である。監視隊本部では、各監視哨からの情報を、女子隊員が警察電話を使い、直通で東部軍管区へ通報した。東部軍管区では、これらの情報を、警戒警報や空襲警報を発令したり、立川にある飛行集団本部に連絡し、迎撃の飛行機を発進させたりする判断の資料とした。昭和十九年サイパン島が占領され、そこから飛び立つアメリカ爆撃機B29は富士山を目標に北上し、東に折れて京浜方面へ、西に進んで中京方面へ向かうという進路を取るようになり、大月の監視哨の役割は重要性を増してきた。昭和十九年から二〇年にかけて、B29による本土爆撃は三五三回におよび、東京をはじめ二○○近くの都市が空襲され、八月には広島・長崎に原爆が投下された。八月十五日敗戦。「国敗れて山河あり」、そして疲弊という無謀な戦争によるつけも残った。戦後半世紀を経た今、この地から望める大月の町を眺めるにつけ、世界に平和が続くことを祈らずにはいられない。五〇年前の苦しみを平和への一里塚ととらえ、この記念碑を建てた。決して戦争賛美の為ではない。(この文は、当時の大月監視隊本部隊長山口明男氏の貴重な体験談をもとに作りました。)平成三年 大月公民館

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   山梨県・大月防空監視哨跡   

説明版にある「爆撃隊はサイパン島から富士山目指して北上、その後西、東に進路をとった」という記述が非常に生々しく感じました。同じ山梨県の大月監視隊本部傘下の「七保監視哨」に勤務していた方の体験談が残っており、8月13日の大月大空襲の際、「本来なら発見時刻、何時何分何秒、敵、味方、機種、高度何米、飛行方向を報告するのですがその余裕は全くありませんでした」とありました。また「聴音」と聞くと、果たしてどの程度聞き分けることができるのか疑問だったのですが、訓練によって叩き込まれたその精度たるや、聞き分けで間違えることなどなかったのだそうです。

大月防空監視哨 データ
設置管理者:旧陸軍
所在地:山梨県大月市大月町
座 標:N35°36′20″E138°56′10″
標 高:462.2m
(座標はグーグルアースから)


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静岡ヘリポート [├場所]

  2009年10月訪問 2023/1更新  

 

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静岡市は「地震防災強化地域」内にあるため、災害、高速交通に対応することを目的に当ヘリポートが設置されました。

施設は遊水地内にあるため、ご覧の通りで全国唯一の高床式構造になっています。

床下は調整池として利用し、時間雨量50ミリでもヘリポートが機能するようになっています。

またこの高床式構造は、予想される東海地震(マグニチュード8)に耐えられる頑丈な設計になっています。


   静岡県・静岡ヘリポート   

静岡ヘリポート データ
設置管理者:静岡市
種 別:公共用ヘリポート(高床式)
運用時間:7:00~19:00(または日没まで)
所在地:静岡県静岡市葵区諏訪8-10
標 点:N35°01′28″E138°24′31″
標 高:10.5m
面 積:3.6ha
着陸帯:(A)35m×30m (B)35m×30m
エプロン:大型1バース(直径26m) 中型5バース(直径20m)
*離着陸できるヘリコプターは全長26m以下で、且つ、最大離陸重量11t以下の機種に限る

航空管制周波数
・飛行場アドバイザリー
 静岡フライトサービス 130.65(3マイルの地点でコンタクトすること)


沿革
1986年07月 庁内プロジェクトチームを発足
1988年03月 建設地決定
1989年05月 運輸省(旧国土交通省)から設置許可を得る
1990年10月 工事開始
1992年08月 供用開始(平成19年度末までに30,535機が着陸)

関連サイト:
静岡市まちづくり公社/静岡ヘリポート  


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岩手県・慰霊の森 [├場所]

  2009年9月訪問 2023/1更新  



日本の航空史上、決して忘れることのできない場所、岩手県雫石。

昭和46年7月30日に全日空機と自衛隊機が当地上空で衝突するという大事故が起きてしまいました。

現場には「慰霊の森」が整備されています。

御所湖(ごしょこ)というダム湖沿いの道に「慰霊の森」への標識が出ていました。

標識に従って山道に入って行く一本道へ。

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山道に入ってすぐの所に案内板がありました。

赤の文字は、衝突してバラバラになった機体がどこに落下したかを示しています。

相当広範囲に広がっていることに驚きました。

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一本道をどんどん進んで行くと、やがてこんな場所に出ました。

ここから未舗装です。

轍は続いていますが、オイラの車ではとても通れそうもありません。

ここに車を置いて徒歩で行くことに。

標識が全くないのが気になるのですが…

時刻は午前5:40。木々に遮られてまだまだ薄暗いです。

熊や蛇が出やしないかと心配しながら入っていきました。

5分位進んだところで、資材置き場に行く手を阻まれてしまいました。

とても「慰霊の森」という雰囲気ではありません。

「???」と思いながら仕方なく引き返すことに。

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なんと一本道の途中に「慰霊の森」に通じる登口がありました。

オイラはこれに気付かずに先に進んでしまっていたのでした。

湖から標識に従って山の中の一本道を進んで右側です。行かれる方はご注意を。

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航空安全祈念の塔:「内閣総理大臣 三木武夫書」と書かれていました。

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現場にあった碑文
(一部抜粋) とき 昭和四十六年七月三十日午後二時五分頃 緑の山々に囲まれた 平和で豊かな田園のまち ここ雫石の空に突如轟音とともに全日空機五八便七二七型機と航空自衛隊第一航空団松島派遣隊所属F八六Fジェット戦闘機の空中衝突事故が発生 北海道からの帰途 乗客一六二名の尊い命が一瞬にしてつゆあけの夏空に散った 世界民間航空史上最大の事故といわれ 国内は勿論 世界の人心を驚愕させた惨状は実に筆舌に尽し難く 山気溢れるなかで遺体の捜索は困難を極め 肉親を求める悲しき遺族の叫びは ここ岩名目山の森にこだましてさながら地獄の様相を呈し 只唖然と涙さえ枯れ果てたあの生々しき悪夢は忘れることができない これら多くの人々を恐怖と悲しみの渕に沈めた惨事は発生以来岩手県 雫石町 盛岡市をはじめ静岡県 富士市 関係諸機関 地域住民すべての人々の涙ぐましい善意と人間愛に満ちた犠牲的奉仕の姿は 永久に遺族の胸中から消えさせることはない 昭和四十七年七月三十日 全日空機遭難者遺族会

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「慰霊の森」より:

2019/4/4追記:1975年に完成し老朽化した「航空安全祈念の塔」を2019年5月以降解体し、11月に小規模化し新設する計画だそうです。

 

所在地:岩手県岩手郡雫石町西安庭第47地割

関連サイト:
森のしずく公園 


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福島県・会津塩川バルーンフェスティバル会場 [├場所]

10月17日 いつもブログでお世話になっているカンクリさんにお誘いいただき、

福島県の「会津塩川 バルーンフェスティバル2009」を見に行ったのでした。

開会式は朝の6時から。ということで、前日仕事が終わってから出発して、会場手前のSAにて車中泊。

会場周辺に着いたのは朝5時でした。

周辺はまだ真っ暗。そして濃い霧に包まれています。

SAからここまでくる途中、真っ暗で真っ白な中、後ろからトレーラーに張り付かれ、死ぬほど怖かったとです(つД⊂;)

譲れるところで譲りましたけども。

河川敷に降りる道路のところに機材搬入の車が何台か待機していて、非常灯をピカピカさせてました。

駐車場にて仮眠。

 

6時になり、会場で開会式が始まりました。

周辺はまだまだ薄暗く、まっしろ。

来賓のお言葉の後、主催者から、

「生憎のキリだが、これは逆に間違いなく晴れるということです。 キリが晴れるまで待機します」

とのことだったので、再び車に戻って仮眠。

寝てばっかりのオイラ。

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8時頃会場に行ってみたら、まだ真白なのですが、体験搭乗が始まってました。

カンクリさんもこれに応募していたのですが、残念ながらモレてしまったのだそうです。

人気あるんですね~。

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数十メートル上昇して降下します。

1回数分程度でしょうか。

降下の最中も1,2秒バーナー噴射して、落下速度を抑えてました。

濃霧で薄暗い河川敷に響くバーナーの「シュゴーッ」という音が印象的でした。

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ボンベ交換中~。

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バルーンは、まず送風機で風を送り、ある程度膨らんでからバーナーに点火します。

上の写真は、バルーンのてっぺんからのロープを引っ張っているところ。

このバルーン、展示も兼ねているのか、少なくとも1時間以上、送風機で風を送るだけでした。

ロープを引っ張る人たちも、最後は座り込んでました^^;

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9:34 徐々に明るくなってきて、新たにバルーンの準備が始まりました。

Honda Racing のおそろいの服のチームで、確か強豪チームと紹介されていたハズ。

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バーナーの噴射口は固定式かと思ったら、ある程度動かすことができ、

気球内のどこに熱風を吹くか、ある程度操作できます。

この辺も腕の見せ所なのだそうです。

バーナーから炎が上がっている時は、この距離でもジリジリ熱かったです。

球皮やロープは相当耐熱性があるんでしょうね~。

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準備が整うと、スーッと上昇。

ほとんど無風だと思っていたのに、どんどん流れていきます。

最初の準備段階の写真からここまで約20分でした。

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ちょっと高度が上がるとたちまち霞んで消えてしまいました。

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本当は6:30に競技開始だったのですが、ようやくキリも晴れ、10:30競技開始の運びとなりました。

一斉にバルーンが膨らんでいきます。

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バルーンによる競技が開始されました。

「うさぎ狩り」というものらしいのですが、

競技開始と共にバルーンは一斉に会場から姿を消してしまい、

観客の我々は「………。」という感じなのでした ^^;

 

実はこのバルーンフェスタには11:00にふくスカから室谷さんが飛来してエアロバティックを披露してくれる予定だったのですが、

キリがなかなか晴れずにバルーン競技開始が遅れてしまったため、

ふくスカ側と連絡をとり、室谷さんの飛来は30分遅れにしてもらったのだそうです。

 

次回はその室谷さんの飛行の様子を。

期待せずにお待ちください。


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宗谷岬・祈りの塔 [├場所]



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日本最北端の碑を見下ろす丘の上にあります。

sakさんの記事で知って訪問しました。

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「冷戦下」「アメリカを離陸」「大型機」「未明」

この撃墜事件から2年後には、あの御巣鷹の事故が起きてしまいました。

もう四半世紀になるのですね。


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国土交通省札幌航空交通管制部 [├場所]



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「国土交通省札幌航空交通管制部」

日本が航空管制を行う管轄空域 「福岡FIR」 はさらに4つに分割され、

札幌、東京、福岡、那覇の4カ所にある「航空交通管制管制部」で管制が行われています。

上の写真は、その4ヵ所の中の1つ、「札幌航空交通管制部」で、丘珠空港のすぐ近くにあります。

担当空域内で巡航中の航空機、離陸後の上昇飛行、着陸のための降下飛行を行う航空機に対して

管制を行っています。

朝もはよから厳重な警備が行われてました。

 

沿革
1963年04月 札幌管制所設置
1966年05月 札幌管制所を交通管制部に昇格させ航空局の管轄となる
2025年04月 札幌管制所廃止計画(高高度空域は福岡ACCが担当、低高度空域は東京ACCに統合)

関連サイト:
航空管制業務について 

この記事の資料:
新千歳市史通史編下巻


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妻沼駅跡以南 [├場所]



前記事からの続きです。

この記事では妻沼駅(赤マーカー)からスタート。

熊谷駅方向に車で向かいます。

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5:妻沼駅

熊谷線が展示してある場所から予定線跡の道路をさらに熊谷に向かうと、

すぐにこんな、こんもりした不思議な場所に出ます。

「ここは駅前だった。あそこは通れたに、今は通れないですよ」

裏手で作業していたおばーちゃんが当時のこと話してくれました。

これが熊谷線の終点、妻沼駅跡だそうです。

他のサイトを見ると、妻沼駅跡には緑十字の石碑が残っているとあったのですが、

残念ながら発見できませんでした。

撤去されたのか、オイラが見落としたのか…。

さらに熊谷に向かって南下します。

妻沼駅から先も、線路跡は片側一車線の舗装された道路になっています。

楽です。

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6:途中にある「東武橋」

当時と同一かどうかは不明ですが、以前は熊谷線が渡るための橋でした。

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こんなプレートが。

1988年とありますね。

ということは、1983年に廃線後、1988年に道路橋にしたということなのかしらん。

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しばらくこんな立派な道がまっすぐ延びているのですが…

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7:県道341交差点

この県道341との交差点で情況は一変します。

線路跡はこの先も未舗装道路で続いているのですが、車両通行止めになっていて通ることができず、

左右どちらかに曲がらねばなりません。

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近くに車を停めて、通行止めになってる部分に来てみました。

イキナリ変わりましたね。

まあこっちのがより「廃線跡」という感じですけども。

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そしてこんな看板が立ってました。

東武熊谷線跡地緑道整備事業  この緑道は熊谷市が東武鉄道(株)から借地して築造しています。このため緑道を使って開発・建築や出入口の設置はできませんのでお知らせします。 熊谷市

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そしてこの看板の後、道路は延々農耕車のみ通行可能に…(泣)

オイラは通れないので、仕方なくタッキングしながら進みます。

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所々線路跡を横断する道路があるのですが、こういう丸太が立ってました。

かつての踏み切り跡なのでしょうか。

結局、8の国道17号熊谷バイパスの下をくぐる所まで進んだのですが、バイパスまでずっとこんな感じでした。

…そろそろ薄暗くなってきたので時間切れ。

セブンでアイスを買って引き上げることにしたのでした。

 

(つづきます)


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西小泉駅周辺 [├場所]



前記事の続きです。

消えてしまった貨物線の名残を探してみることにしたのでした。

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先頭のグーグルマップ青マーカー(1:西小泉駅)

駅前の陸橋から:

手前側が熊谷方向です。

見にくいですが、奥に西小泉駅があります。

線路とホームから続く不思議な空間と柵。

当時はこちらに向かって仙石河岸線の線路が伸びていたのですね。

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これは同じ陸橋から300mmで撮ったものなんですが、陸橋から望遠使うのは恥ずかしかったです。

…じゃなくてですね、この駅についてネットでいろいろ調べていたら、

「この駅には廃線になってしまった部分に12キロポストが残っている」と書かれていました。

特にどれが。と明記はしていなかったのですが、手前の白い棒みたいのがそうなんじゃないでしょうか??

もっとアップで見てみると…

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あなたはだんだん棒の真ん中に「2」という文字が見えてくる。見えてくる見えてくる~。

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別角度から:

ハイ、棒の真ん中に「2」という文字がだんだん(以下省略

心の清らかな人だと、「2」の上に「1」も見えるかもしれません。

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ホーム内から:

…こっちは見えませんでした^^;

ということで、かつて書かれていた「12」が塗りつぶされてしまったようですが、

この先に線路が延びていた当時はこれが、「ここは12キロだよ!」と主張していたのではないかと思いました。

もし見当違いでしたら、ツッコミいただけると助かります。

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ホームから:

この右側の白いもの、9の下に小さく11と書かれてますが、「11.9キロ」ということでしょうか??

このブログには鉄道マニア鉄道関係にお詳しい方が結構来てくださってますので、

解説していただけると嬉しいです。

ホームには学生たちと、数組の南米系の人たちが。

ホームの端の所で、小さい男の子と若いお父さんが追いかけっこをしたりしてのんびりした雰囲気でした。

ホームには入場券で入ったのですが、出るときに駅員さんから「あ、撮影ですか。どうも、ご苦労様です」

と笑顔で敬礼されました(゚Д゚;≡;゚Д゚)

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駅を後にして、妻沼、熊谷方向に向かいました。

途切れてしまったレールの先へ進みます。

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線路跡は、「いずみ緑道」として整備されてました。

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沿線だった頃の名残の柵

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緑道で散歩中の南米系の方に何人もすれ違いました。

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緑道を歩きながらあるものを探してずっとキョロキョロしてたのですが、ついに見つけました。

画面中央にあるやつです。

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東武杭発見!!

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別の所でももう1つ見つけました。

ということで、まだまだここが線路跡だった頃の名残が残っているのでした。

この後、更に線路跡に沿って南下してみました。

 

(続きます)


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尾島RCスカイポート [├場所]

  2009年6月訪問 2022/12更新  



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ここは中島新邸から西に2.3キロほどの河川敷にあるRC用滑走路「尾島RCスカイポート」です。

ちょうど上半身裸の兄さんたちが盛んにラジコンヒコーキを飛ばしてました。

ピスト?に人がいたので、「見学で来ました~」と恐る恐る声を掛けてみたら、

「どうぞどうぞ~」とにこやかに応じてくださいました。

 

「尾島RCスカイポート」では、この地で生まれた世界の飛行機王・中島知久平にちなみ、

毎年「RC航空ページェント」という全国規模のラジコン模型飛行機のイベントが行われます。

国内外のトッププレイヤーの操縦による飛行機、ヘリコプター、ジェット機の妙技が繰り広げられ、

観衆は4万人にも達し、シャトルバスが運行される大規模なイベントなのだそうです。

すんごいイベント会場なのですね。(@Д@)

 

ところで、この近くに中島飛行機の「尾島飛行場」という飛行場があったはずなのですが、

数年前からいろいろ調べても、場所を特定することができませんでした。

場所の手掛かりになる文章はあるのですが、地図上に「ココ!」と示したものが見つからないのです。

で、尾島飛行場を探しているうちに偶然この「尾島RCスカイポート」を発見しました。

この「尾島RCスカイポート」をネットでいろいろ調べてみたら、

「かつての尾島飛行場ほど近い場所に作られた」と書かれているではありませんか。

それで現地に行って地元の方に聞いてみたら、

「尾島飛行場は確かに近くだけどここじゃないですよ。車で来たのなら…」と地面に地図を書いてくれました。

ということで、この後教えていただいた場所に行ってみたのでした。


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中島新邸 [├場所]


尾島飛行場を探してたまたまお尋ねした方が元役場の方で、

「飛行場跡のすぐ近くに中島邸があるから見たことなければ是非一度見たらいいですよ」

とお勧めいただき、行ってみたのでした。

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「中島新邸」は、中島飛行機の創設者、中島知久平が両親のために建てた邸宅です。

中島知久平の生家は「中島旧邸」として別にあります。

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塀の先が見えません!(@Д@)

「大きな塀がずーっと続いていてすごいですよ!」と言われていた通りでした。

邸宅は現在無人で中に入ることはできません。

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建設費は現在の価格で50億円にもなったのだそうで、先ず目に留まったのは、その大きさ、 

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そして立派さ。

この門の屋根だけで、オイラのアパートの一室をスッポリ覆えるんじゃないでしょうか…^^;

しかし近寄ってよく見てみると…

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瓦は割れ、木は朽ち、

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砕けた瓦の破片が引っかかってました。

中島飛行機の運命を象徴しているようで、寂しい光景。

 

現在太田市では、この中島新邸を中核とした、

「中島知久平記念・地域交流センター」の建設計画があるそうです。

中島飛行機を設立し、「日本の飛行機王」と呼ばれた中島知久平の偉業を後世に伝え、

建物などの貴重な文化的遺産を保存し、活用を図っていくのだそうです。

 

(後日内部公開されたので見てきました)


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東京ヘリポート [├場所]

  2009年6月訪問 2022/12更新  

 

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東京都江東区にある「東京ヘリポート」。

道路に標識が出てました。

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ヘリポート正門前にある都バスのバス停。

東京のバス停はオシャレですな~(*´∀`*)

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正門前交差点名

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入口のところにこんな横断幕が。

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正門入ったところ。

正面の建物、待合室になっていたので入ってみようと思ったのですが、

インターホンで利用会社など細々と伝えるようになっていて入れませんでした。

以前は見学でも自由に立ち入れたのですが、テロ以降厳しくなったらしいです。残念。

仕方なく外周を回ってみることに。

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外周は三方からよく眺めることができます。

これは南側。

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ここはヘリコプターの基地、東京ヘリポートです。1972年6月の誕生。
敷地面積は14万7,152.6㎡で、東京ドームが1個丸々入って少し余る広さ。
国内12ヵ所のヘリポートの中でもっとも大きく、世界でも最大級の第1級ヘリポートです。
ここに置いてあるヘリコプターの数(定置数)は150~160機。
日本全国の13パーセント以上が集まっています。
しかし1日当たりの離発着回数は約132回で全国9位。
ゆとりあるヘリポートといえます。

だそうです。

ヘリポートに来たのは初めてなので比較ができないんですが、でっかいんですね。

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ヘリが盛んに離着陸をしていたのでシャッタースピードを1/60まで落として挑戦してみたのですが、

ほとんどブレてました…。_| ̄|○ il||li

(比較的)まともなものを載せておきます。

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ちゃんと離着陸ポイントから離陸するヘリ。

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外周は公園としてよく整備されていました。

公園ぽい写真はなぜか1枚たりとも撮ってませんが、

お散歩、ジョギング、サイクリング、みなさん思い思いに楽しんでました。

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コンパス修正場

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離着陸ポイント。

離陸も着陸も、みんなちゃんとここからしてました。

「当たり前だろ!」と怒られそうですが。

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北東の角にあった案内図。

すぐ近くに駐車場があったのですね。

何の疑いもなくヘリポート内の駐車場に停めてました(汗

そして戻ってから気がついたのですが、お隣は地下鉄車庫。

ここも見ればよかった…。

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同じく北東の角から。

記事を作った2009年当時、埼玉県桶川市の雄飛航空が「成田ヘリ・エクスプレス」を運行していました。

これは東京(当東京ヘリポート)、埼玉、群馬と成田空港を結ぶものです。

1機貸切で最大5人まで乗ることができ、例えば当東京ヘリポートから成田空港まではわずか20分!!

料金は260,350円(税込)です。5人で割り勘すれば、1人たったの5万チョイ。安いですね!

…というプランがあったんですが、その後2013年頃公式サイトでは、このサービスを確認することができません。 


   東京都・東京ヘリポート   


東京ヘリポート データ
設置管理者:東京都
4レター:RJTI
空港種別:公共用ヘリポート
運用時間:8:30~16:30
所在地:東京都江東区新木場4丁目
標 点:N35°37′58″E139°50′34″
標 高:5.0m
面 積:14.7ha
滑走路:90m×30m
磁方位:01/19
航空管制周波数
・飛行場アドバイザリー
 晴美レディオ 122.70 126.20

沿革:
1964年 辰巳ヘリポートの名称で江東区辰巳に開港。
1971年 名称を東京ヘリポートに変更。
1972年 江東区新木場の現在地に移転。

関連サイト:
東京都港湾局/東京ヘリポート  


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熊谷線の橋脚 [├場所]

 

以前書いた熊谷線の記事で、「利根川を渡る橋脚はすべて撤去されてしまった」

と書いたのですが、H.Kumaさんから「利根川の北側に橋脚が1つだけ残っている」

と教えていただき、先日見て来たのでした。

てっきり河川敷内にあるのだとばかり思っていたのですが、外側にありました。

土手道のすぐ側です。

というか、外側だったから残ったのでしょうか??

D20_0057.jpg

土手の上から見るとこんな。

画面奥、線路跡っぽいですね。左側は立派な野球場です。

D20_0066.jpg

分かり難くて申し訳ありませんが、画面真ん中らへんに橋脚の頭がちょっと見えてるのわかるでしょうか?

土手道と橋脚、大体同じくらいの高さですね(←これが言いたかった)

D20_0064.jpg

橋脚に背を向けるとこんな風景。

利根川が横たわっています。

この辺りは(おおよそ)利根川が県境になっていて、

こちら側は群馬県大泉、あちら側は埼玉県熊谷市(旧妻沼)。

ここから対岸に向かって点々と橋脚が並んでいたのですねぇ…。


D20_0058.jpg

同じく橋脚の所から見た国道407号線の刀水(とうすい)橋。

中島飛行機の人たちは熊谷線で妻沼まで来て、バスに乗り換えてこの橋を通って工場に通ってました。

「太田市史通史編 近現代」によりますと、

1945年4月4日 関東地方に進入した約100機のB29のうち約50機が太田方面へ飛来しました。

米軍資料によれば、この時の目標は小泉工場。

ヒコーキ生産を担う太田地方と埼玉、東京方面を結ぶ交通の要衝である、

1943年6月に完成したばかりのこの刀水橋も狙われました。

橋周辺には多数の爆弾が投下されたと言われていますが、破壊は免れました。

当時の橋は1971年に架け替えられるまでその役割を果たしたのだそうです。

D20_0040.jpg

土手を降りて橋脚に近づいてみました。

特に立ち入り禁止にもなっておらず、好きなだけにぢり寄れます。

D20_0042.jpg

特にこのブツの説明をするものは見当たりませんでした。

土手の上を行き来する学生さん、ジョギング中の人たちはこの物体の正体をご存知なのかしらん。

D20_0043.jpg

D20_0045.jpg

鉄筋がたくさん飛び出てますね。

D20_0047.jpg

こんな小石がむき出しになっている部分も。

D20_0052.jpg

記録では、「1944年(昭和19年)4月までに着手」するように。という認可証があり、

1947年(昭和22年)7月には一切の工事が終了していますから、

この橋脚も1944~47年の間に作られたのでしょうね。

物資困窮の中、治水上の問題で大変苦労して橋脚を完成させた訳ですが、

この橋脚は前述の通り河川敷の外側にありますから、治水上万難を排してまで完成させる必然性はないはず。

もしかしたら工期の初期に完成したのかもしれません。

いずれにせよ、作られてから60年以上経過しています。

実はこの日、群馬県の飛行場跡をうろついてきまして、最後にこの橋脚を見たのでした。

前後してしまいますが、飛行場跡の記事もボチボチアップします~。

 

ブログ内関連記事
東武熊谷線物語・1 
東武熊谷線物語・2
  


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成増陸軍飛行場の掩体壕 [├場所]

前記事の続きです。

 

成増飛行場の掩体壕が1基残っていることはネット情報に出ており、

一度見てみたいなぁ。と思っていました。

ただし、所有者の方が撮影、訪問を望んでおられないということで、

ネットではおおまかな場所は出ているのですが、詳しい住所等は不明です。

流石にネットにアップする方は皆さん所有者の意思を尊重しておられるようです。

今回光が丘公園をうろついた際、掩体壕を探してみることにしました。

 

まずは園内の図書館で情報収集。

郷土資料の中に当時の成増飛行場の掩体壕についての記述がありました。

成増飛行場には、上空から発見されないようカモフラージュしたコンクリート製、有蓋の「特装掩体壕」が25基、

そして土壁で囲っただけで無蓋の「土塁掩体壕」が12基あったのだそうです。

 

現存する掩体壕がある辺りは「北部掩体壕群」といい、

当時は「特装掩体壕」3基、「土塁掩体壕」4基があったそうです。

当時の掩体壕配置図と現在の地図を穴が開くほど見比べてアタリをつけ、出発。

 

現場周辺についておおよそこの辺りだろうと思われる所を歩きました。

カメラは車にしまって手ぶら。

ブロックを順番に囲んでいきます。

オイラは仕事柄、住所情報でお客さんの家を探すことが時々あるのですが、

住所や地図が不完全だったり区画整理されていないと、一軒一軒しらみつぶしです。

なんだか普段やってることと変わりないような…。

 

仕事だと目当てのお宅がなかなか見つからない場合、手当たり次第に家を訪ねて

「○○さんというお宅はこの近くでしょうか?」などと尋ねるという最終手段があるのですが、

今回に限っては所有者ご本人が公開しておられないので、この最終手段は使えません。

自力で探すしかないのですが、見つかるかどうかまったくわかりません。

(見つけられずに引き返すことになるかも…)などということも考えながら歩き回り…

 

探し始めて17分、見つけました。

ほんの1,2秒で視界から消えてしまいそうな細い路地の奥に、灰色の開口部が!

たまたま反対側を向いてたら気が付かずにそのまま通り過ぎてました。

住居人以外通るはずのない細い路地を進むと、門扉にぶつかります。

その門扉のところから10秒程拝見させて頂きました。

掩体壕の開口部は路地に正対しているのではなく、かなり斜めになっています。

ここは陸軍の飛行場ですから当然といえば当然なのでしょうが、

開口部は細工をしておらず、そのままかまぼこ型の陸軍型。

内部は物置になっています。

掩体壕を物置にすること自体はよくある活用法ですが、なんと、ここの掩体壕は上に住居が造られていました。

鉄骨の柱で補強もしてあります。

余談ですが高知空港近くの前浜掩体壕群には7基の掩体壕が残っていて、

その中の7号基は車道と用水路が通っているというビックリ掩体でしたが、こちらもスゴイです。

いろんな掩体壕があるものなんですね~。

 

ブログ内関連記事:
東京都・成増陸軍飛行場跡地
高知空港周辺の掩体壕


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国土交通省 坂戸航空無線通信所 [├場所]

  2009年4月訪問 2022/12更新  


無題6.png
撮影年月日1946/11/14(USA R318-A-8 38) 

出典:国土地理院ウェブサイト(地理院データを加工して作成)

ここはオイラの自宅からゆるゆると歩いて10分位の場所です。

フェンスで囲まれた敷地に巨大な鉄塔、アンテナが設置されていて以前から気になってました。

周辺は駅からも国道からも少し離れた静かな住宅密集地で、

点在する地主さんの大きな家と畑がぽっかり空間を作っているような所です。

先日徒歩でぐるっと回ってきました。

D20_0029.jpg

正面入口はこんな感じ。バリケードが設置されていた時期もあります。

D20_0028.jpg

住所は鶴ヶ島市なのですが、なぜか隣接する坂戸市の名前が。

一体どんな大人の事情が??

D20_0019.jpg

周囲はフェンスで厳重に囲まれていてその中にいろいろ通信施設があります。

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1番目立つ鉄塔。

右側の建物は3割うまい餃子屋さん。

 

余談ですが弟が地元の会社に勤めておりまして、交通安全だかの講習で警察が職場訪問した際、

わざわざこの施設に触れ、

「非常に重要な施設でテロ警戒をしています。何か情報がありましたら些細なことでも連絡してください」

と言われたのだとか。

 

確かにとても重要な施設っぽい雰囲気はあります。

しかし、それではここで具体的にナニをしているのか、一切ナゾの施設だったのですが、

国会図書館からお取り寄せした資料: 「坂戸航空無線通信所の紹介」によりますと、

福岡FIR(飛行情報区)を航行する航空機の管制情報を短波受信し、

その情報を100km以上離れた成田国際空港の国際対空管制通信卓まで、

マイクロ波中継装置を介して伝送しているのだそうです。

せいぜい所沢とか羽田とのやりとり位かなぁ。と思っていたのですが、まさかの福岡FIR!

福岡FIRがどの程度の範囲のものなのか、興味のある方は文末にリンクを貼っときましたのでご覧くださいませ。

結構すごいことしてたんですね。

 

ちなみにここから東北東1.8キロほどの所に旧陸軍坂戸飛行場(下記リンク参照)がありました。

「(終戦の年の)9月中頃、坂戸飛行場に2台のジープに分乗したアメリカの兵隊5,6人が何の前触れもなく到着。飛行場内の機材、武器弾薬の員数点検の使命だったと思われる。その将兵らは鶴ヶ島の無線送信所と川角の通信施設の所在を尋ねたというからそのままそちらに廻ったのだろう。」という記録が残っています。

この通信所は旧日本陸軍参謀本部の短波無線通信所として開設しています(下記沿革参照)。

結構古くからあるんですね。これも今回調べて初めて知ってビックリでした。

鶴ヶ島にそれらしい施設が他にあったという話も聞かないですし、

鶴ヶ島の無線送信所」というのはここのことだったんじゃないでしょうか。

 

東京航空局坂戸航空無線通信所 データ
設置管理者:国土交通省
所在地:
埼玉県鶴ヶ島市脚折100
座 標:N35°56′50″E139°23′09″(グーグルアースから)
面 積:44,965㎡
設 備:11基のHFアンテナ、マイクロ波鉄塔、庁舎、電源局舎、兵舎(現在は不使用) 

沿革
1941年07月 旧日本陸軍参謀本部の短波無線通信所として開設
1946年12月 接収
1960年02月 返還 運輸省の短波無線送信所に
1962年11月 短波無線送信所を友部出張所(現友部航空無線通信所)に移設
1963年01月 蟹ヶ谷出張所と航空交通管制本部(現東京交通管制部)から短波無線受信施設を移設
       マイクロ波中継システムを新設
       短波無線受信所となる
1965年05月 坂戸出張所と改称
1967年10月 東京航空局設置に伴い、坂戸航空無線通信所と改称
       モスクワ回線の日高受信所が新設され、当所所管として運用開始
1983年03月 日高受信所廃止
1997年04月 国際対空通信防災対策装置(RCM‐93‐2A)新設
2007年01月 那覇HF統合に伴い、短波受信機を那覇空港事務所から移設
2008年03月 航空保安情報ネットワーク設置
     07月 運用・信頼性管理システム(ORM)運用開始

ところでこの施設は2009年4月1日付で東京空港事務所に集約される予定です。

返還後運輸省管轄になってから49年、旧日本軍が開設してから68年の歴史を閉じることになっています。

もっとも、この記事を書いている時点でもう5月になろうとしていますが、

外から見る限り閉鎖に向けた動きは感じられません。

むしろ外周フェンスを張り直し、今まで土で雑草だらけだった境界部分が舗装されて、

「キレイになった♪」と近所の奥さんが大喜びしてました。

また何か大きな動きがあれば書こうと思います。

 

関連サイト:
国土交通省/情報区(FIR)及び管制部管轄空域   
ブログ内関連記事:
坂戸飛行場跡地   

この記事の資料:
「坂戸航空無線通信所の紹介」


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東武熊谷線物語・2 [├場所]

小泉に東洋一の中島飛行機工場があり、たくさんの軍用機を生産するために

膨大な人員、資材を運ばなければならないー

まさに中島飛行機があるからこその熊谷線でした。

ところが終戦により、熊谷線は一瞬にしてその存在意義を失いました。 

今の路線を維持することすら危ういです。二期工事は当然中止。

軍事路線であり、沿線の利便性など考慮せずに建設された熊谷線は、

熊谷~妻沼間、10.1キロの沿線に住む人々の生活路線となりました。

 

さて、利根川を越えて、熊谷と小泉を結ぼう、という計画は中止となったのですが、

それでも、利根川の橋脚工事は治水上直ちに中止することができず、

河川の流れに支障をきたさないように工事は続けられました。

しかし工事用のセメントが極度にひっ迫し、入手難となったため、利根川上流河川管理事務所と協議。

その結果、1947年(昭和22年)2月工事中の第7,8,9,12号橋脚の基礎井筒工と、

進行中の橋台、橋脚は万難を排して完成させることになりました。

「小泉線と接続させよう」という話はその後何度も持ち上がることになるのですが、

その可能性は非常に低く、少なくとも今すぐ使うわけではないと分かっている橋脚の建設工事-

実際に作業に当たっていた工事関係者はどんな心境だったのでしょうか。

1947年(昭和22年)7月、一切の工事終了。

 

これは熊谷駅(赤マーカー)と、前記事で出た東上線の東松山駅(青マーカー)の位置関係です。

こうして見ると、東上線の東松山駅がすごく近いのが分かります。

実際熊谷駅と東松山駅は、直線距離で12キロ弱しかありません。

JRを除く私鉄としては総延長全国第2位の東武鉄道の中で、

唯一隔絶しているのが東上線であり、

東松山から熊谷を経て小泉でくっつけよう、という構想もありました。

東上線から熊谷、伊勢崎、日光に一本で行けたら便利だったでしょうね~。

例えば今の時期、東上線沿線から紅葉狩と言えば、東上線に乗って秩父方面とか、

関越道で渋川伊香保方面とかが便利なのですが、

行楽に向かう先にも変化があったのではないでしょうか。

また、都心周辺ではありがちですが、この辺りも道路、鉄道、共に東京方向ばかりが充実し、横の移動が大変です。

そういった面でも貴重な路線になったと思うのですが…。

 

その後、熊谷線は営業不振が続き、1974年(昭和49年)8月、

妻沼~新小泉間3.7kmの未成線廃止申請を提出し、許可されました。

終戦で路線延長はまずあり得ないだろう。とだれの目にも明らかだったでしょうに、

提出した建設計画そのものは戦後30年近く生き続けていたのですね。

1978年(昭和53年)8月 利根川橋梁の橋台、橋脚、基礎井筒などの構築物撤去工事許可を取り、

1979年(昭和54年)3月までに撤去工事完了。

そして1983年(昭和58年)5月31日 熊谷線廃止。

1943年(昭和18年)12月に開業した熊谷線は、40年でその歴史を閉じ、

ついに熊谷線が利根川を越えることはありませんでした。

おるそ橋.PNG
写真:「国土画像情報(オルソ化空中写真) 国土交通省」
撮影年度:1974年 妻沼地区 編集・加工:空港探索・とり

1974年撮影の航空写真に妻沼線利根川橋の橋脚が残ってました。

1979年(昭和54年)3月までに撤去工事完了してますから、その5年前ですね。

左側の橋は国道407号です。

無題5.png
撮影年月日1980/10/15(CKT801 C15 40) 
出典:国土地理院ウェブサイト(地理院データを加工して作成) 

橋脚撤去完了から1年半後。

橋脚はきれいさっぱり撤去され、跡形も残ってません。

残っていれば見に行きたかったのですが…。 

と残念に思っていたのですが、その後コメント欄にH.Kumaさんから「利根川の北側に橋脚が1つだけ残っている」

と情報頂き、後日見に行ったのでした

オルソ妻沼.PNG
写真:「国土画像情報(オルソ化空中写真) 国土交通省」
撮影年度:1974年 妻沼地区 編集・加工:空港探索・とり

1974年撮影の利根川橋南側の写真。

築堤、道路の立体交差化も済み、後は線路を敷けば今すぐにでも営業できそうです。

1945年(昭和20年)9月までに小泉との接続を目指していましたから、

工事開始や終戦のタイミングがあとほんの数ヶ月ずれていれば、完成していたんじゃないでしょうか。 

もったいなや~。

 

実は熊谷線が営業していた晩年、オイラはテツでして、熊谷線に乗ってました。

画像 001.png

サインをねだっちゃうという… ^^;

久々に引っ張り出して改めて眺めたのですが、「サインください」という餓鬼のお願いに、

律儀に「東武鉄道」から書き初めて下さった車掌さんに感謝です。

熊谷線熊谷駅の時刻表をメモってましたので、こんな運行だったんだぁ。

ということで一応載せておきます。

熊谷駅発 妻沼方面
5:35 6:15,56 7:49 8:42 9:40 10:23 11:38 12:48
13:45 14:38 15:45 16:50 17:42 18:40 19:25 20:18 21:05

1日17本ですね。

6時台を除いて1時間に1本の超のんびりダイヤ、しかも始発駅なのに、

発車時刻がマチマチなのは、高崎線、秩父鉄道との接続の関係でしょうか。 

そして最終がまさかの21:05。

「終電乗り遅れ」ドラマがいくつも繰り広げられたんでしょうね~。

画像.png

大変見苦しい写真で恐縮ですが、その時の(友人が撮った)写真が残ってました。

撮影時期、場所は不明です。
追記:ぽりさんから情報いただきました。R17熊谷バイパスの代の陸橋付近、当時の大幡駅から少し妻沼側の辺りで撮影されたものではないか、と教えて頂きました。
地図のリンクも貼っていただきましたので詳しくはコメント欄をご覧くださいませ。

単線、ディーゼル、一両編成。ローカル好きにはたまりません。

当時の東武カラー、クリーム一色に塗られた可愛らしい車体です。

地元の人たちからは「特急カメ号」と呼ばれ、親しまれていたのだそうです。 

この熊谷線の車両、随分長いこと旧妻沼町役場(妻沼町は2005年熊谷市と合併)の駐車場の隅っこに

フェンスを張って野ざらし展示されていたのですが、その後見なくなり、解体されてしまったのかと思ったら、

現在は熊谷市立妻沼展示館 にて、屋根付の場所で大切に保管されています。

また、熊谷から妻沼まで、熊谷線の線路跡は一部遊歩道として整備されており、

東武杭もあり、旧妻沼駅周辺など、かつての面影がまだ残されているのだそうです。

当時を偲ぶ、ふいに消えてしまうかもしれない風景。いつかゆっくり見てみたいです。

 

この記事の資料:
東武鉄道百年史
東武鉄道 会社の沿革


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東武熊谷線物語・1 [├場所]

東武鉄道の社史の中で、「熊谷線の建設と東上線の線路移設」という見出しがあり、

この部分に9P割いています。

「東上線の線路移設」とは、前記事で書いた松山飛行場関連のことです。

「軍の要請で敷設した線路」ということで同じくくりなのでしょうね。

時期的には、熊谷線を開通させた約1年後に東上線の線路移設工事に取り掛かっています。 

 

熊谷線は、当時東洋一の規模を誇った中島飛行機の巨大航空機工場への

物資、人員輸送用として軍からの要請で建設することになりました。

当初、熊谷線の建設許可証には、

「1943年(昭和18年)5月までに着工、1945年(昭和20年)5月までに竣工すべし」

と付記されていました。

ところが1943年(昭和18年)7月になって軍から、

「1943年(昭和18年)12月に繰り上げて竣工させるように」と命じられます。

凄まじい短縮要請ですね。

軍からの要請で建設するにもかかわらず、資材も自前で調達しなければならず、

資材不足と軍からの超工期短縮要請に応えるための苦肉の策として、

前記事でも書きましたが、複線で営業している東武日光線を単線化して、

レール、付属品、鋼板桁を充当するという荒業を繰り出しています。

「どの部分を単線とするか」は東武社内でも悩んだようで、

最も影響の少なそうな区間を選んだのですが、

それでも自治体の許可を取り付けるのに50日を要しました。


1943年(昭和18年)12月5日 熊谷~妻沼間営業開始

上のグレー熊谷駅から北上しているブルーの線が熊谷線です。

無事工期を守って開通させることができたわけですが、

これで工事が完了したわけではありませんでした。

上図の通り、熊谷駅から妻沼駅まで線路を引きましたが、

中島飛行機の工場は小泉にあって、妻沼駅から小泉の間には利根川が立ちふさがっていたのです。

それで熊谷線を利用する中島社員たちは、終点妻沼で東武バスに乗り継いでいました。

そのため続けて工事が計画されることになります。

第2期工事は西小泉~仙石河岸間の仙石河岸線(グーグルマップの黒線)中、

大川村地内で分岐し、妻沼駅に至る3.4km(グーグルマップの紫線)でした。

早い話、川を渡って上の方の線路とくっつけるということです。

 

認可証には、1944年(昭和19年)4月までに着手、

1945年(昭和20年)9月までに竣工のこと、と付記されていました。

利根川を越えるために長い鉄橋を架ける必要がありましたが、

これまた資材不足のため橋桁の鉄鋼資材収集は困難を極めました。

川心部の長大径間の桁は、国鉄東北本線岩沼駅(宮城県)に貯積中の

「あぶくま橋梁」架け替えで発生した径間64.05mのトラス桁4連、

そして大阪の城東線淀川橋梁から発生した径間48.42mのトラス桁2連を

国鉄からの払い下げで入手することにしました。

他に、日光線小倉川橋梁からの発生品である鋼鉄桁17連、

同じく黒川橋梁からの鋼鉄桁6連を利用することにしました。

橋の設計図面を見ると、あちこちから寄せ集めた橋桁を使うため、素人目にも形がイビツです。

 

総径間877.72mに及ぶ長大な橋梁工事としては異例の組み合わせであり、

当時如何に資材が不足していたかが分かります。

ところが資材不足に悩まされながらもなんとか調達の目処が立ち、

1945年(昭和20年)9月までの完成を目指して工事が進められたにもかかわらず、

完成予定の1ヶ月前、工事中に終戦を迎えてしまうのでした。

次の記事で、終戦後の熊谷線のことを書きます。

 

この記事の資料:
東武鉄道百年史
東武鉄道 会社の沿革


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東武東上線物語・3 [├場所]

前記事で予想外に反応のあった杭について、
一般的なことしかわからなかったのですが、一応貼っておきます。
詳しい方からの情報お待ちしておりますm(_ _)m

「不動産用語集」より:

・境界・境界杭
境界とは、原則として、不動産登記法で言う土地と土地の境のこと。所有権がある土地の境い目のことを指します。境界とは、土地登記簿や付属地図により、公的に設定された境い目のこと。すべての土地には、法務局により、必ず一区画ごとに地番が付され、一区画を一筆の土地として、一登記用紙を設け、登記簿の表題部に登記される。この地番と地番の境い目を境界という。これにより、境界は所有権の範囲、つまり所有権界と一致するのが原則となる。また、境界を示すために打ちこまれた、石やプラスチック、金属などでつくられ杭のこと境界杭といいます。

また、この東武杭に関しては、東武の私有地でありながら現在は公共の道路として使われているため、固定資産税での優遇措置があるらしいのだそうです。

情報いただいたサイト様、どうもありがとうございました m(_ _)m



それでは前回の続きです。

 

線路跡をたどった後、東松山図書館で当時の様子を調べてみました。

東上線と松山飛行場、地元の人々の時代背景など、

分かった範囲で大体時系列にまとめてみます。

 

1908年(明治41年)10月
東上鉄道(当時は東武鉄道と別会社)、豊島区巣鴨から埼玉県の東松山市、本庄市、群馬県の高崎を経て渋川市に至る鉄道敷設免状を受ける。

個人的に、「東上線」という名前の由来がずっとナゾでした。

地図で見ると、どう見ても東京から西に向かって上がってます。

(東上線じゃなくて、西上線じゃ…)とずっと思ってました。

しかし上の一文が謎解きのカギとなります。

「渋川市に至る~」とある通り、今でこそ埼玉県寄居が終点ですが、

当初は 京から群馬県(野国/州)の渋川市を目指していたのです。

池袋から群馬県渋川ですよ?

地元のオイラはなんかワクワクしてしまいます^^

もしもこの計画が実現していれば、池袋から「温泉特急”いかほ”」なんて出てたりして。

しかも第2期として、新潟県長岡町まで結ぶ、総延長237kmという遠大な構想もありました。

豪儀な話じゃあ、ありませんか。

その場合は「東越線」とかになるのでしょうか。

冬になると、スキー板を抱えた若者が大勢深夜の池袋のホームに並び、

「特急”なえば”」に乗り込んだりとか…。

1911年(明治44年)11月
東上鉄道創立総会

1914年(大正3年)5月
東上鉄道 池袋~田面沢(現川越市~霞ヶ関間に位置)33.5km営業開始

因みに大正10年作成の路線図には、池袋~坂戸間が実線で、そこから先が点線で示されているのですが、

その点線は寄居を通らず、寄居から数キロ熊谷寄りの秩父線小前田駅を経由して高崎まで延びています。

元々東上線の路線はもっと真っ直ぐに計画されていたのですが、

「是非我が町を通って欲しい」という熱烈な誘致活動が各地で起こり、

そんなこともあって結果的に現在のグニャグニャ路線になってしまったといういきさつがあります。

当時小前田を経由して高崎を目指す計画だったのが、結局寄居止まりになってしまったのも、

様々な紆余曲折を経てのことだったのでしょうね。


1923年(大正12年)11月
小川町まで開通


1925年(大正14年)7月
東上線、池袋~寄居間全通

1932年
松山町(現東松山市)が中心になって地元(調錬原付近・箭弓神社裏旧松山陣屋)に「愛国飛行場」を誘致する運動を起こし、帝国飛行協会による土地調査が行われる。

松山町、地元に飛行場作る気マンマンです。


1935年
松山町、工場誘致を本格化させる

松山町周辺の村々の悩みの1つは工業、特に軍需工業の隆盛により、

若年層を中心とする労働力が東京方面に流出し、地域経済の発展を阻害することでした。

そのため、中島飛行機の分工場や、伊藤飛行機製作所等の招致を試みているのですが、

結局工場誘致活動は限られた成果しか挙げることができませんでした。

1938年5月
国家総動員法

輸送機関も戦時輸送統制の対象となり、地方鉄道の国有化、合併が政府指導の下で進められ、

こうした背景で1940年の請願が行われることになったと考えられます。

1940年1月
東上線沿線地域30市町村長が国有国営期成同盟会を結成(会長:川越市長)

「東上線の国有化を請願」-これは今回図書館で初めて知ってビックリしました。

危うく隣の席の人に「東上線、国有化ですって!」と話し掛けるところでした。

もしこれが実現していたら、今頃「JR東上線」だった可能性もあるわけです。

東松山史にこの時の請願書が載っていましたので、要約してみます。

・請願要旨
池袋~寄居間を国庫にて買収し国有化して欲しい

・請願理由
本線は帝都と上越を結び、沿線開発と旅客輸送重要路線としての使命達成が創設の目的であった。ところが、寄居にて秩父鉄道と連絡するところで頓挫してしまっている。しかし、国鉄八高線の開通によって、寄居から高崎に達することとなり、はからずも当初の目的を貫徹することとなった。こうして裏日本に通ずる要路として本線の使命はまったく重大となり、その運用の国防上、産業上に影響するところはきわめて大きいものがある。鉄道会社の経営は、さまざまな要因が複雑にからみ、時局の変化も合わせて困難を極める。本線の産業国防上の重要性を考慮すれば、本線昨日の完璧を期するため、全線国有化こそ現下時局に即応するものである。

沿線自治体が出した請願書ですが、社是まで持ち出すなど、

まるで東武鉄道側が主張しているのかと錯覚するような内容です。

国鉄八高線開通のことに触れているのは、

「東上線を国有化すれば、東京から高崎、新潟までの直通輸送に一層便利ですよ」

というアピールでしょうか。

そもそも、大赤字で廃止を検討しているわけでもないのに、

沿線自治体が雁首揃えて「国で買い取ってください」なんて発想そのものがオイラにゃ理解不能です。

こうした動きについて別の東松山史にはこんな説明がありました。

「国有化運動の背景には、戦時体制に入ってからの輸送量の増大にともなう輸送力増強の遅れという事態があった。この請願書は、東上線が国防上も産業上も重要路線であることを認識させ、沿線の振興を図る意図を持っていた。東上線を重要路線とすることで、工場誘致を積極的に進められるという思惑が働いていたといえよう。」

(こうした動きの中、国は1943,1944年度に22路線《合計1,051.4km、うち未完成14.0km》の民営鉄道の買収を行いましたが、結局東上線が国有化されることはありませんでした。この時期本当に買収された私鉄が結構あったんですね。)

 

ところで東武鉄道側はこの動きをどう捉えていたのでしょう。

普通に考えれば、「我が社の国への売り渡しを画策するなど言語道断!」ということでしょうが、

時代が時代なだけに想像もつきません。

「東武鉄道百年史」という広辞苑並みの分厚い社史があり、その中でこの運動についても触れられていました。

「東上線国有化運動の波紋」として1P強割いています。

その中で、国家総動員法、当時の軍事上の要請という時代背景を取り上げ、

実際に千キロを越える民鉄の国有化があったと述べています。

そして、こうした時流の中でこの運動は起きたこと、

沿線30町村が同盟を結成し、同線が国防上、産業上、重要路線であることを強調し、

同線を国有化して戦争遂行にさらに役立てるべきであると訴えた。

という点を述べています。 

また、「東松山市の市史に当時の請願文が残っていた」として、オイラがこの記事を書くのに重要な史料となった「東松山市の歴史 下巻」から請願文の一部を引用しています。

この社史、外部からの意見に対する反論を載せるなど、人間味を感じさせる箇所が見受けられるのですが、

この国有化運動に関しては起きた出来事を淡々と載せるだけの客観的な論調に終始しており、

沿線自治体の動きに関して、ありがたいとも迷惑だとも、主観的なコメントが一切ありません。

東武が史料として用いた市史には、

「運動の背景には、戦時体制に入ってからの輸送量の増大にともなう輸送力増強の遅れという事態があった

という、自治体が国有化運動を起こしても仕方がない、いわば”東武側の失点”についての文言が含まれているのですが、

東武の社史はこの点に触れていません。

東武の社史編さん委員がこの部分を見なかったのか、あえて触れていないのか、オイラには知る由もありません。

ここからはオイラの想像を含むのですが、この当時の東上線は、人員輸送、貨物輸送共に戦争特需で絶好調でした。

東武側とすればそれでよいのかもしれませんが、沿線自治体側からすれば、

単に自分の町の労働者を東京方面の軍需工場に吸い取られているだけ。

ならばということで松山町を中心に工場誘致活動を始めましたが、仮に大規模誘致に成功しても、

現実問題として東上線の輸送力増強の遅れがネックとなっています。

ならば国有化して設備投資に国の金が使えるようになればこうした心配もなくなる! ということなのでしょうか。

社史のこのページは、

「結局、東上線は国有化されることなく、いつか運動は立ち消えとなり、終戦でこの請願は目的を喪失した」

という一文で結ばれています。

1941年
「鉄道、軌道統制令」、「配電統制令」

1943年(昭和18年)
松山飛行場建設開始。

ここでやっと本編の主役、「松山飛行場」の登場です。

「営業している線路をどかして、そこに軍用飛行場を造る」-

当時の世情をご存知の方にとっては、「あの時代なら、まぁ、あるんじゃない?」

と、違和感なくすんなり受け入れられるのかもしれませんが、

個人的な感覚としては、これはあまりにも突拍子のないことに思えたのですが、

そこに至るまでの流れを抜き出してみると上述のようになります。

ここまでの流れを要約してみますと-
・軍部の権限強化に拍車をかける数々の法律施行
・飛行場誘致活動を行い、東上線国有化の請願書を提出する地元
・軍需工場用に線路を引くため、複線営業区間を単線に変えてまで協力する東武鉄道

やはり「時代」なのでしょうか。

飛行場建設を巡る周辺環境がこれだけ整っているのであれば、

「営業している線路をどかして、そこに軍用飛行場を造る」ということは、

当時としては決して突拍子のないことではないのかもしれません。

 

余談になりますが、

国が22路線、千キロ以上の民営鉄道の買収を実施したことについて上で書きました。

それとは別に、「鉄道の休止、廃止」も実施されています。

1943~1945年(昭和18~20年)にかけて、「企業整備」という名の下、不要不急線は撤去、転用され、

これにより休止鉄道は36企業(165km)、廃止鉄道は17企業(62km)に上りました。

東武鉄道は1943年(昭和18年)7月に越生鉄道(坂戸~越生間 10.9km)を買収したのですが、

翌1944年(昭和19年)12月、軍部からこの「不要不急線」に該当するとして運休命令が下ります。

従業員、車両は、宇都宮線西川田駅に移され、中島飛行機の地下工場で働く従業員の輸送に当たりました。

線路その他の諸資材は、被爆が予想された東上線の復旧用としました。

1945年(昭和20年)1月
「軍需充足会社令」、「地方鉄道及軌道における納付金等に関する法律」

次々発令される法律により、東上線も厳しい統制下に置かれ、

ますます戦時体制の一翼を担うこととなります。

1945年(昭和20年)8月
終戦

線路移設までして用地を確保した松山飛行場は、結局未完成のまま終戦を迎えたのでした。

(「埼玉県・松山飛行場」に続きます)

 

 

この記事の資料:
東武鉄道百年史
東松山市史


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東武東上線物語・2 [├場所]



前記事の続きです。

旧線路の道を実際に歩いてみよう。ということで、

自宅から徒歩で最寄の○戸駅まで行き、武蔵嵐山まで電車で移動しました。

普段は遠くまで車で出掛けてますが、今回の見学はとっても地元です^^

武蔵嵐山駅に到着し、徒歩で移動開始。

尚、道路、線路の写真はすべて東京に向かって撮ってます。

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A地点

武蔵嵐山駅下車後、最初の踏み切り。

しばらくは真っ直ぐな線路が続きます。

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B地点

左に大きくカーブしてますね。

開業当時、線路は曲がらずに真っ直ぐでした。

ここが旧線との分岐地点。 

電車が走っているあたりは、新線ということになります。

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C地点

ここから線路跡の小道が始まります。

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今から六十数年前、約20年間、ここに線路が伸び、列車が走っていたのですね。 

ネットで調べたところ、この小道には「東武」の杭があるとのことだったので、キョロキョロしながら進みました。

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初めて発見した東武杭。結構テンション上がりました(゚Д゚;≡;゚Д゚)

引っかいたような跡がついてますが、これは表面についた泥を枝でこそげ落した跡。

この後、国道のローソンの交差点の所までの間に更に2つ見つけました。

よーく探せばもっと見つかるのかもしれません。

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東武の杭があるので、「ここは今も東武の土地である」ということだそうです。

国道の手前で線路跡の小道は一旦途切れてしまいます(上の地図参照)。

国道を渡って向こう側へ。

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D地点

写真は国道の南側の小道です。

この国道、254唐子バイパスなのですが、2002年3月につきのわ駅が開業したのに伴い、

2003年に暫定二車線開通し、2004年に四車線化しました。

ネット情報によりますと、バイパス工事まではこの国道の南側に築堤や、踏み切り跡が残っていたのだそうです。

資料が見つからなかっので、この部分の線路跡を示す点線はおおよそのものです。

実際に歩いてみると、上の地図にはないバイパスと並行する小道が何本かあり、ウロウロしてみました。

(東武杭が発見できれば、そこは線路跡ということに違いない)

と考え、東武杭はないか探していたのですが…

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おおっ、東武杭発見!

…と思ったのですが、「東」の上についているマークが気になります。 

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「東松山市」の杭でした。

ガクッ!!

結局国道の南側で東武杭や、線路跡っぽい形跡は発見できず…。

見る人が見れば何か発見できるのかもしれませんが、オイラ、ただの一般人だからなー。

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E地点

バイパスから工場に沿ってひょっこりと現れる線路跡の小道。 

鉄道が走っていたという面影はまったく残っていませんね。

道はしばらく真っ直ぐ進み…

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F地点

線路はこのまま真っ直ぐ進んでいたのですが、道路はここで右カーブ。

途中、左右が雑木林になっていて、東武杭がありそうな雰囲気だったのですが、

生憎工事中でゆっくり探すことができませんでした。残念。

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G地点

ここから先は飛行場跡の敷地。

現在飛行場の跡地の一部は、この部分がまさにそうなのですが

東松山工業団地になっています。

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飛行場敷地内を直進する線路は、この「都第一公園」をかすめてました。

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H地点

公園内。

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公園に隣接する工場の壁面。

ここが飛行場跡地と分かっていてわざとでしょうか? 

違うんだろうなぁ。

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I地点

飛行場跡地の東側。

飛行場敷地の北東の角の所からすぐに線路跡の道路が始まっています。 

といっても、県道47号線(黄色)の手前までのほんの短い区間ですけど。

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J地点

県道47号を渡り、2ブロック先から再び線路跡の道路が始まります。

この区間は地元の農家のお宅が点在する昔ながらの風景が残っており、

そこここに東武杭が見つかりました。

D20_0006.jpgD20_0007.jpgD20_0008.jpgD20_0009.jpgD20_0010.jpgD20_0011.jpg

この区間で見つけた東武杭ギャラリー。

人目が気になって撮れなかったものもありますし、

丁寧に探せば、まだまだ見つかると思います。

こうして見ると、上が赤いもの、黄色いもの、文字が上にあるもの、側面のもの、

矢印つきのもの、十時線のもの、いろいろありますね。

どういう意味があるんでしょうか。

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K地点

ゴール。

線路が緩やかに分岐していく形がそのまま道路になってます。

「道の記憶」ですね。

 

(続きます)

 

この記事の資料:
東松山市史


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東武東上線物語・1 [├場所]

いつもヒコーキ関係のおバカな記事ばっかし書いてますが、本日はマジメな鉄道の話です。

とり=ヒコーキバ〇 とか思い込んでいる人は、

オイラが決してヒコーキ一色ではないことをとくと思い知るがよいです。

というわけで本日は、オイラがいつもお世話になっております、東武東上線の話をさせていただきます。

 

ところで。

「東武東上線」というと、「イモ電車」とか言ってバカにする人がいますが、

バカにしたアカン!

なんたって東京の池袋から出てるんです。

東京の、ですよ?

尚、予めお断りしておきますが、「わざわざ『東京の』とか言っちゃうトコが既にw」

などというツッコミは一切受け付けません。

正式には「東武東上本線」なのですが、地元では親しみを込めて「東上線」と呼びます。

そう。「東上線」と。

東上線は、東京の池袋から埼玉県の寄居まで走ってます。

今回特に注目していただきたいのは、武蔵嵐山駅~東松山駅間です。 


この区間、開通した1923年(大正12年)11月当時は、

上のグーグルマップの通り、赤で引いたラインの路線でした。

当時この区間(現・武蔵嵐山-東松山)は平坦な松林が主で、

特に線路の北側部分は日中でも女性子供はあまり通らないような、屋根の萱刈り場が多い寂しい場所で、

そこに東上線の線路が一本通っているだけだったそうです。

そして開通から約20年後の1945年(昭和20年)1月、現行の路線に敷き変えが行われました。

 

因みに、上のグーグルマップに駅名が出ていますが、

「つきのわ駅」は2002年3月開業、

「森林公園駅」は1971年(昭和46年)3月開業です。

「森林公園駅」って、新線になって大分経ってからできた駅なんですね~。

では、そもそもなぜ線路を北側に移設したのでしょうか?

それは-


陸軍松山飛行場を建設するためだったのです。

線路を北側に移設し、そこに陸軍の飛行場を建設したんですね。

(な~んだ、この記事も結局ヒコーキがらみジャン!)

と思ったそこのアナタ!

 

仰るとおりです。

 

すいません。 

 

 

気にせず飛行場の話を続けます。

1943年(昭和18年)、飛行場用地の造成工事が始まりました。

一方線路工事の方は、翌1944年(昭和19年)10月に線路変更申請が出され、

11月に認可がおり、直ちに5.3km区間の移設工事が開始されました。

そして1945年(昭和20年)1月 新ルートに切り替えられます。

すごいですね。11月に工事開始して、1月には完成ですよ。

道路、線路の工事については、

「用地取得が済めば、工事の8割は終わったようなもの」みたいな話を聞きますが、それを地でいってますね。 

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撮影年月日1946/04/15(USA M105-A-5 47) 
出典:国土地理院ウェブサイト(地理院データを加工して作成)

因みに松山飛行場の造成工事が始まった1943年(昭和18年)の12月には、 

東武熊谷線(熊谷~妻沼間10.1km)が開通しています。

この周辺には、当時軍用機製作の東の雄、中島飛行機の巨大工場群があり、

従業員と資材輸送のため軍の要請により東武鉄道が新線を建設しました。

この熊谷線の建設の仕方が凄いです。

資材不足の中「一刻も早く作れ」という軍の要請に応える為、

東武日光線の複線区間(合戦場~東武日光間44.5km)を単線とし、

単線化で浮いたレール、鉄鋼桁、付属品を取っ払って来て熊谷線建設に充てたのです(@Д@)

 

そして、日光線の単線化で発生した鉄製の桁は、この松山の新線橋梁工事にも使用されているのです。

軍関連の鉄道工事を急ぐため、複線営業している路線のレールを剥がして単線化してしまう…。

今からではとても想像つかないですね。

おっと、話が脱線してしまいました。

…鉄道だけに。

この熊谷線については、後日別記事を書きますので、興味のある方は見てみてください。

 

さて、飛行場建設予定地では早速整地が始まり、線路の撤去が始まりました。

では飛行場予定地以外の部分の線路はどうなったのでしょう。

使われなくなった線路は撤去費用の関係で休止扱いとし、そのまま放置になることがありますが、

上記の通り他線を単線にしてしまうほど資材不足の折ですから、根こそぎ新線の方に持って行ったのかも。

そして飛行場でない部分の線路跡は、ほぼそっくりそのまま道路になりました。 

戦後となり歳月は流れ、飛行場敷地は工業団地となりました。

そして、道路として残った線路跡地周辺にも開発の波が押し寄せ、徐々に姿を変えていくのですが、

上のグーグルマップを拡大して頂きますと、工業団地の西側と東側両方で、

現在でも元線路だった道路が意外と残っているのが分かります。

ということで…

先日武蔵嵐山駅から旧線路に沿って歩いてきました。 

 

(続きます)

 

この記事の資料:
東松山市史
東武鉄道百年史


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山本五十六記念館 [├場所]

 

新潟県長岡市にある山本五十六記念館。

フロア中央には、旧日本軍 一式陸攻の左翼。

 

それは

あの山本五十六を最後に大空に運んだ翼

あの山本五十六の最後を見つめていた翼

あの山本五十六と同時に最後を迎えた翼

南洋の陽で焼かれ

雨に穿たれ

己の身を削り続けて

彼の人の死から、ずっと時を刻んでいた翼

 

その骨格は、まるでアメ細工のように曲がり、ねじ切られ

長年月の浸食を物語るその翼は

もはや金属には見えず

まるで木か粘土の様

 

それでも

翼いっぱいにはっきりと残る赤い丸

その時それは、「アメリカは敵だ!」という意味だった

時が流れて

日の丸はかすれ

人がそこに付与する意味は変わっても

その翼は、その時代が確かにあったという事実を突きつける 

 

そうして辿った諸々の運命を刻み込んだその翼は

単なる工業製品をはるかに超越し、厳かでさえあり

見る人を厳粛な祈りに似た気持ちにさせるのでした。

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この記念館から道1本隔てて山本五十六の生家があります。

山本五十六がこの世に生を受けた家と、この世を去った時の翼が、時と場所を越えて隣り合っていました。


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徳島飛行場 [├場所]

  2008年7月訪問 2022/11更新  

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「あわおどり空港」になった後の記事はこちら     

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最初の2枚は到着してすぐ撮ったのですが、3枚目は最後に撮ったので、大分たそがれてます。

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ターミナル内部

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展望デッキ

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高いフェンスに囲まれてます。

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エプロン東側の公園から。

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この公園、オイラがお邪魔した時は工事中でした。

R/W29方向はご覧の通りフェンスにかかってしまいます。

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さぬきこどもの国 [├場所]

  2008年7月 訪問 2022/11更新  




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「さぬきこどもの国」。

高松空港の滑走路をはさんで向い側にあります。

ここは「こどもの国」というだけあって、芝生の広がる広々とした敷地に様々な遊具、施設があります。

小さい子供たちが水遊びをしたり、大きい子供たちがサイクリングをしたりしてました。

全景を撮っていれば載せたかったのですが、ヒコーキ関係の写真以外、

なぜか1枚たりとも撮ってませんでした。

なぜヒコーキ以外の写真を撮らないんでしょう??^^;

全体の様子について興味のある方は、関連サイトなどご覧下さいませ。

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ヒコーキ:手をアゲロ!

グラハンさん:ギャー!

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本日は土曜日!ということで、

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主翼の影の部分にイスが見えますでしょうか?

常時おねーさんが張り付いています。

この暑い中、本当にお疲れ様なことです。

「1日中ここにいるんですか?」と尋ねたら、「まさか! 時々交代しますよ」とのことでした。

そりゃそうですよね。

ヒコーキの写真を撮ろうとしたら、スッと動いてくれました。

オイラとしましては、どいてくれなくてもよかったんですけども^^

 

説明板(等)によりますとこのヒコーキ(YS-11A-500R型/JA8743)は、

182機製造された中の115号機です。

1969年7月24日に初飛行。

1969年8月19日に全日空が受領し、

同月25日に全日空241便として伊丹→長崎で路線投入されました。

そして1997年9月11日、エアーニッポン500便として稚内→丘珠

がラストフライト。

退役後、1998年1月、高松空港に最終飛行。 

 

総飛行時間:54,722時間51分

総飛行回数:58,705回

28年と17日の間、1日平均5.73回の飛行。

1回当たり平均56分の飛行時間。

丈夫で働き者なワイエスらしいログですね。

整備の期間は飛べませんから、それ以外の日は毎日毎日

6回の飛行を黙々と続けるというのが標準的な運用だったのでしょうか。

今はおねーさんに見守られ、公園の一角で後輩たちが飛ぶのを眺めながら翼を休める毎日。

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後ろから乗り込みます。

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客室を後ろから見たところ。

座席のとこに写真が貼ってあります。

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前から見たところ。

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コックピット入り口にあったスイッチ類。

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年季の入った操縦輪。

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目の前にターミナル

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前方の入り口のところにいろいろ掲示されてました。

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展示機のフェンスにこんなものが貼ってありました↓

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関連サイト:
さぬきこどもの国


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高知空港周辺の掩体壕 [├場所]




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高知空港西側一帯の水田に点在する掩体壕群 

 

高知空港の前身は、高知海軍航空隊基地でした。

1941年から1945年にかけ、飛行場の誘導線に沿って、コンクリート製掩体壕9基、

木、竹、土製のものを含めて合計41基が作られたそうです。

高知空港の滑走路西側の水田地帯には、7基の掩体壕(大型1基,中型6基)が今も残っています。  

ここは南国市前浜なので、「前浜掩体壕群」 と呼ぶそうです。 

かねてから行きたいと思っていた掩体壕群を見て来ました。

掩体壕群は、2006年2月に南国市の文化財(史跡)に指定され、大切に保存されています。

現地は水田の中に普通に掩体壕が点在していて不思議な世界でした。

周辺図.PNG
写真:「国土画像情報(オルソ化空中写真) 国土交通省」
撮影年度:1975年 後免地区  編集・加工:空港探索・とり

高知空港と「前浜掩体壕群」の位置関係。

赤線で囲われた約350m×500mの範囲に赤点で示された掩体壕が7基現存しています。

原図拡大版 切り出し.PNG
写真:「国土画像情報(オルソ化空中写真) 国土交通省」
撮影年度:1975年 後免地区  編集・加工:空港探索・とり

掩体壕周辺を拡大したのがこちら。

上の2枚は1975年撮影でもう30年以上前のもので、道路、建物など、現在とは異なる部分があります。

掩体壕に振ってある番号は「文化財に推進する会」で話し合って決められたもので、

現地の説明板にも出ている(らしい)公式のものです。

「南から順番に番号をつけた」のだそうです。

黄色の線は県道31号線なのですが、この県道で分割して

それぞれ南から番号を振っていったということなのでしょう。多分。

7つの掩体を全部近寄って撮ってきました。

1号基から順番に貼ってみましたので、よろしければご覧下さいませ。


■1号掩体■ 

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この1号掩体には敵機による機銃掃射の跡がたくさん(数十発単位で)残っているのだそうです。

前面の黒いシミのようなものがそうなのでしょうか?

残念ながらオイラには見分けがつきません。

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左手前にあるのが1号掩体。

その1号掩体の右隣にくっ付く様に小さく見えているのが4号掩体。

そして画面右側に2号掩体が小さく写っています。

前浜掩体壕群の各掩体開口部は、大体南~東を向いているのですが、

この1号掩体だけがそっぽを向くように東北東を向いています。 

地図で確認すると分かり易いです。

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■2号掩体■

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1号掩体(左奥)と2号掩体(右手前)

互いにほぼ逆を向いているのが分かりますね。

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2号掩体は、7基の中で最も車道から離れていて近寄り難かったです。

確かあぜ道はあったのですが、入っちゃってもよかったのかしらん。

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現存する7基は、この2号掩体と6号掩体の向きがほぼ同じな以外、すべて微妙に開口部の向きが異なっています。

航空機の効率的な出し入れのことを考えれば、真っ直ぐの誘導路に沿って

整然と掩体壕を作ればよいのに。と思いますよね。

この前浜掩体群もそうなのかは不明ですが、 掩体群付近に爆弾を落とされた場合、

開口部の向きが同じだと航空機が全滅する危険性があるため、

意図的に向きを変えて建設したのだそうです。


■3号掩体■

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7基の掩体壕の中で、最もツタに覆われている3号掩体。

戦争当時、完成した掩体は上空から目立たなくするために土をかぶせて芝を植えたりしたそうです。

そのため上空からは丘のようにしか見えなかったとか。

ツタが生えている面積では最大の大きさを誇る4号掩体の方が上かもしれませんが、

覆われている割合からいえばこの3号の方が秘匿性が高く、

7基の中では軍部の理想形に最も近いかもしれません。

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3号掩体の最初の写真は県道から撮ったものなのですが、

この3号掩体は県道のすぐそばにあり、視界を遮る障害物もありません。 

そのため車で通りかかって最も発見し易い掩体です。

掩体壕群周辺ではこの県道が最も道幅が広いです。

というか、1本道を入ると、1台でたちまち道を塞いでしまうような道幅のところが多いです。

オイラの小さい車でも、角を曲がる時には脱輪して水田に落ちやしないかとヒヤヒヤしました。

県道は結構通行量がありますが、見ての通りで道幅が限られているため、

(ん~。ドコに停めよう…)と停止したら、たちまち片側交互通行渋滞を作ってしまいました。

ごめんなさい。


■4号掩体■

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比較するものがなくて分かりづらいですが、

この掩体壕は高さ10m、幅45m、奥行22mあり、 日本最大級のものの1つだそうです。

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後ろから見たところ。 

強い存在感を放っていました。

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注意を喚起する南国市教育委員会の立て札。

すっかり放置している感のある松山と比べ、こちらはしっかり残していこうという意図が随所に感じられました。

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内部。天井が高いです。

戦時中は一式陸攻が格納されていたそうです。

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内部側面。 

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切り欠き部分を内側から撮ってみました。

他の中型掩体壕の切り欠き部分が、機首部分で回転するプロペラを避けるための幅広なものなのに対し、

この大型掩体壕は、垂直尾翼を避けるための細いものになっているのが

特徴ですね。

格納する機体の形状に合わせた造りになっています。


■5号掩体■

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(今のところ)乾田になっていて、ツタもからんでおらず、

掩体壕の外見が最も分かりやすい状態を保っています。

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4号以外の6基は全て似た形なので、撮った写真はどれも、「水田の中に掩体」という、

同じような写真が延々続くことになります。

地元の方なら、背景を見て特定できるでしょうが、よそ者のオイラには分かりません。

一応順番に撮っているのですが、判別に迷うものもあり、その場合ヒントになったのが開口部の向きでした。

前述の通り、7基ある掩体は、2号掩体と6号掩体以外はいずれも開口部の向きが微妙に異なっています。

例えば上の写真。

前後に撮った写真を含め、何号掩体だったか分からなくなってしまったのですが、遠くに管制塔が見えます。

開口部の向きと合わせて考えると、この管制塔の見え方に条件が当てはまるのは、

5号掩体のみ。ということで、この写真(と前後の写真)は、5号だった。ということが

分かったのでした。

コマ数を記録しておけば済む話なんですけどね。


■6号掩体■

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7基の掩体群のうち、5基は県道31号線の西側にあります。

6号掩体と7号掩体は県道の東側にある掩体壕です。

前浜掩体壕群はその見晴しの良さから、掩体壕の前で360°見回すと、

大抵2つ、3つと他の掩体を視認することができます。

ところがこの6号掩体だけは、県道近くに位置しているのですが、

建物の死角に入ってしまうため、予め地図で確認していないと見つけにくいです。

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手作り感溢れる造形ですね。

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■7号掩体■

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現存する100基のうち、調布、松山、高知と、たかだか1割しか見ていないのですが、 

こんなに特徴的な掩体壕って、他にあるんでしょうか。

掩体の中を道路と用水路が通っています。 

上の写真だとほんの小さなトンネルに見えますが、なんと地元の車が普通にくぐって行き交ってます。

そして恐らく、地元の方にとっては最も様々な感情が渦巻く掩体壕なのではないでしょうか。

この掩体に最終ナンバーを付したのは、

「推進する会」の意図的なものなのではないかとさえ勘ぐってしまいます。

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戦時中に掩体が作られたわけですが、道路も用水路も、最初からここにありました。

わざわざ道と水路を塞ぐ形で掩体が作られたわけです。

素朴な疑問として、どうしてホンの少し右か左に避けて作らなかったのかと思ってしまいます。

航空基地としての機能を優先させると、この場所に作る必然性があったということなのでしょうか。

道路は(比較的容易に)迂回させることができますが、水路の方はそう簡単にはいきません。

軍はここに掩体を作るため、直径20㎝の土管を埋設して水を通すことにしました。

しかし、大雨の時などとてもこの太さでは足りず、洪水になってしまうということで、

地元の代表が「もっと太い土管に代えて欲しい」と嘆願しに行ったのですが、

「お前たちは非国民か、国賊か! 敵は待ってくれないぞ」

と言われ、まったく聞き入れられなかったのだそうです。

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7号掩体の内部。内壁表面が独特の色と模様になっています。

この7号掩体の内壁には、ムシロと紙製のセメント袋が確認できるそうです。

掩体壕を作るには、まず土を盛って、掩体の形の山を作ります。

山を踏み固めたら、その上に紙製のセメント袋を敷いて、

その上に鉄筋を置き、セメントをかぶせます。

セメントが固まったら中の土を取り除き、掩体壕が出来上がりです。

そんな訳で、内壁表面にはセメント袋が残るのだそうです。 

 

1945年(昭和20年)7月の高知大空襲で街の7割が焼失。2万人が家を失いました。

焼け出された人たちの中にこの掩体壕に住み込んだ人がおり、

煮炊きをしたせいで天井の一部がすすけているのだそうです。

生々しい話です。

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後ろから見たところ。

戦後、農民が後ろの壁を壊して、道と水路を復活させました。

 

元々ここには三島村という村がありました。

当時の三島村長が帝国海軍の拠点であった広島県呉に呼び出され、

「基地を作るから承知せよ」の一言で村の7割が基地となり、

1,500人の村民が強制退去させられて自治体が1つ消滅しました。

そうしたいきさつと共に、特にこの7号掩体は、

「軍は国を守るが、住民を守るわけではない」という思いを抱かせる存在となっているのだそうです。


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松山空港周辺の掩体壕 [├場所]


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撮影年月日1947/04/05(USA M241-2 3) 
出典:国土地理院ウェブサイト(地理院データを加工して作成)

掩体壕(えんたいごう)

全国の陸海軍の飛行場周辺に作られ、その数は当時千を超えていましたが、

終戦から60年以上が経過し、現在残っているのは約100基ほどなのだそうです。 

ここ松山空港の近くにも掩体壕が残っています。

上の航空写真は1947年撮影のもので、現存する3基の掩体壕を示したものですが、

この狭い範囲に限っても、たくさんの有蓋掩体壕が消失したのが分かりますね。

 

「愛媛県の近代化遺産 -近代化えひめ歴史遺産総合調査報告書-」

の中で、掩体壕について非常に興味深い記事がありましたので、

以下引用させて頂きます。

松山海軍航空基地航空機掩体
所在地 松山市南吉田町
設計・施工 計画・呉海軍施設部、工事・銭高組
建築年 昭和19(1944)年
構造概要 RC造平屋建

 一般的に「掩体壕」と呼ばれているが、正式には航空機掩体という。飛行機を敵の空襲から防護するために構
築された。
 掩体は、コンクリート製、木製、土製があり、このうちコンクリート製掩体は、双発機を格納できる大型と、単発機を格納できる中型の二種類があった。松山海軍航空基地にあったものは、全て中型である。
 中型掩体には、単座の戦闘機から三座の攻撃機や偵察機まで、全ての単発機が格納できるようになっていた。その規模は、高さ約8m、幅約25m、全長約15mであった。また、高知のものとは違い、松山の掩体には後部の出入り口が設置されていない。小型機による空襲は、主に海側へ向けて行われたため、掩体の多くは海の方向へ向けて入口が造られた。空襲が激化すると、コンクリート掩体の入口には、爆風除けが設置されたりした。
 松山海軍航空基地には、コンクリート製の中型掩体が25基、土製の小型掩体が38基造られた。
 掩体の構築作業は、航空基地として使用を開始した後の、昭和19年4月から始まった。工事は呉海軍施設部松山工事事務所の下、銭高組が施工を担当した。
 コンクリート製掩体は、松の生木を基礎に使用し、コンクリートと鉄筋を材料として、徴用工と松山工業学校の生徒によって手がけられた。一方、土製掩体は、コの字型に土手を築いたもので、盲唖学校をはじめとする中等学校生徒の勤労奉仕によって造られた。
 掩体は昭和20年2月頃から使用を開始し、3月19日のアメリカ軍艦載機の来襲以降は、大半の機体が掩体に格納された。その後、戦争終結からわずから三年で大半の中型掩体は取り壊されてしまい、平成8年頃には、ほぼ完全なものは三基だけになっていた。その三基も、その後、宅地開発の余波を受けて、大幅に改装されたりした。貴重な歴史遺産として、保存顕彰の必要性を痛切に感じさせられる。

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まず1つ目(黒マーカー)

写真左端に、掩体壕が部分的に写ってます。

結構道沿いに普通にあるんですね。 

写真からだと伝わらないんですが、周囲の風景とは異次元の存在感を漂わせていました。

ものすごく目立ちます。

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掩体壕正面。入口の形に合わせてキレイに覆ってますね。

土地所有者のご主人に快く撮影を許可して頂きました。 

この掩体壕には当時、偵察機「彩雲」が格納されていたのだそうです。

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入口に表札がかかってました。

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掩体壕内部。 

こうして後部が小さくて済むのは、尾輪式ならではですね。

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裏はこんな。

当時はこの上に盛土をして、芝など植えて偽装していたそうですが、

見ての通りですっかり洗い流されてコンクリートむき出し状態です。



この1つ目の掩体壕は松山市指定有形文化財へ登録され、2020年11月28日から一般公開となりました。

この情報はまゆちーさんから頂きました。まゆちーさんありがとうございましたm(_ _)m

ということで、2023年12月に見学してきました。

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掩体壕(全文) 松山市指定有形文化財(歴史資料) 平成三十年五月十八日指定

 掩体壕は、軍用機を敵機の攻撃から守るために作られた格納庫で、太平洋戦争末期には全国の軍用飛行場に作られていた施設である。

 昭和十八(一九四三)年一〇月に松山海軍航空隊(北吉田町)と松山海軍航空基地(南吉田町)が完成した。その後、南吉田と垣生両地区に航空基地の飛行場付帯施設として、有蓋掩体二十三基、無蓋掩体四十基、誘導路などがつくられていたことが、アメリカ軍が撮影した航空写真から確認できる※。戦後、それらのほとんどは消滅したが、南吉田地区には現時点でコンクリート造の掩体壕が三基残っている。

 この掩体壕は、高さ約五.一二メートル、幅約二十三.一メートル、奥行き約十二.二五メートル。主翼格納部の前部アーチと尾翼格納部の後部アーチの大小二つの断面カマボコ型アーチを合わせた形態をしており、平面は凸型で旧海軍掩体壕としての形態を残し、屋根施設のある有蓋型に分類される。

 松山海軍航空基地の歴史や悲惨な戦争を語り継ぎ、平和の尊さを伝える貴重な資料として重要である。

令和二年 十一月 松山市 松山市教育委員会

※アメリカ軍が撮影した松山海軍航空基地(米国国立公文書館蔵)

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勤労奉仕と松山海軍航空基地(全文)
 昭和十八年八月から勤労奉仕が始まり、松山高等学校・愛媛師範学校・松山高等商業学校と市内各中等学校報国隊の学生生徒が松山基地の吉田浜飛行場の整地作業に励んでいました。
 飛行場の整地には、吉田浜の砂丘の砂のほか、海底から汲み上げた砂や弁天山などで採取した赤土や栗石等が使用されました。
 昭和一九年四月からは学生生徒による土製の掩体壕造りが始まりました。この作業に従事した学生生徒は、モッコ担ぎで大変苦しい作業の日々だった事を戦後に語っています。土製の掩体壕は一基造るのに約三か月掛かっていたようで、その作業中、米軍機による空襲に遭うこともありました。

発掘調査で出土した栗石範囲(図と写真)
 地表面から深さ20cm~40cmの溝の中から、2cm~18cm大の栗石が多数見つかっています。
 当時の海軍の資料によると、掩体壕には排水施設を造る必要があるとされており、出土した栗石等の配置から、上記図のように排水施設が整備されていたと考えられます。

 

極天隊(戦闘第四〇一飛行隊)(全文)
 掩体壕内部中央壁左側に書かれた文字は、緑色の塗料で下地を塗り、その上に白色の塗料で「極天隊」、「四〇一」と書かれています。同様の方法で、掩体壕内部後部アーチ左側には、「剣部隊」と書かれています。
 極天隊(戦闘第四〇一飛行隊)は、昭和二〇年二月に松山海軍航空基地で、第三四三航空隊(剣部隊)に編入されました。
 昭和二〇年ともなると日本軍は航空母艦を失い、航空部隊は圧倒的に優勢な米軍の前に苦戦を強いられていました。この航空劣勢を挽回し制空権を一時的にも奪取するため、世界最強の航空隊を作るという考えが推進されていました。
 第三四三航空隊は、源田実大佐のこの構想のもと、各部隊から精鋭搭乗員と整備員が集められ、使用機材も最新鋭戦闘機「紫電改」や新鋭偵察機「彩雲」が充てられました。
 極天隊は、本隊である三個の戦闘機隊に搭乗員を補充する任務に当っていました。その後、本体錬成のために基地が手狭になったからか、昭和二〇年三月一日付で戦闘第四〇一飛行隊に対して徳島基地への移動命令が出され、部隊は三月末までに順次松山基地に移動すると、戦闘第四〇一飛行隊は、五月中旬に松山基地に再度復帰し、錬成任務を遂行している最中に終戦を迎えました。
 戦闘第四〇一飛行隊は、「極天隊」や「極天組」とも言われていました。

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松山海軍航空基地「掩体壕」(全文)
 昭和十六年(一九四一)、砂丘、畑、湿田の広がる温泉郡生石村の沿海部に、日本海軍は松山航空隊と松山航空基地の建設を決定した。約二八六㌶の土地が収用され、百三十の家屋移転を余儀なくされた。

 建設工事は、海軍呉建築部、内務省神戸土木出張所、錢高組によって行われ、昭和十八年(一九四三)十月から使用を開始した。基地には有名な源田実大佐率いる第三四三海軍航空隊(剣部隊)などの航空部隊が駐屯し、零戦、紫電改など各種の航空機が上空を乱舞した。また、生石村にも多くの将兵が下宿した。

 昭和十九年(一九四四)四月以降、松山基地でも空襲に備えて、航空機掩体(有蓋掩体、無蓋掩体)、隧道壕、誘導路、防空陣地の建設が行われた。米軍は松山基地を「Matsuyama west airfield」と呼称し、昭和二十年(一九四五)三月十九日から八月十二日まで十四回の攻撃を行い、生石村でも犠牲者が出ている。

 戦後、日本の復興とともに、掩体は撤去され、隧道壕は封鎖されるなど、基地の痕跡は姿を消していった。戦後七十年を経て戦争を体験した世代が減少する中、「松山の掩体を考える会」(杉野富也会長)等、掩体壕の保存を望む声が多く聞かれるようになった。そのような中、地権者による用地寄付等を経て、平成三十年(二〇一八)五月に松山市指定有形文化財となった。

 ここに掩体壕の保存修理工事を実施し、過去の歴史を学び、後世に平和の大切さが正しく語り継がれていくよう切望するものである。

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D20_0010.jpg2つ目(赤マーカー)

裏側です。

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表に回ってみました。

住宅地に取り込まれてますね。

更に画面右側に進んでみると・・・

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こんな感じ。

流石にまずそうなのでトリミングしました。

掩体壕内部を駐車場として使用しているようです。

なんとも羨ましい使い方です。

ここまでの流れからすると、当然オイラが撮った次の掩体壕の写真が出ると思いますよね?

実はオイラ、出発前に地図を見誤ってしまい、3つ目を発見することができませんでした(;´Д⊂)

(見誤った)地図によれば、3つ目の掩体壕はこの通り沿いにあるはず!

と信じてウロウロしたのですが、見つかりませんでした。

下調べは重要です…_| ̄|○ il||li

 

近くで庭に出ていた奥さんに尋ねてみたのですが、

オイラが見た2つのことはご存じだったのですが、最近こちらに来られたそうで、

それ以外の掩体壕については「知らないですね」とのことでした。

2つ目の掩体壕が宅地に飲み込まれているのを目の当たりにした後だっただけに、

(きっと取り壊して建物を建てたに違いない。多分、アレか、アレだな。うん)

と勝手に納得して現場を離れてしまったのでした。

 

3つ目の掩体壕には、局地戦闘機「紫電改」が格納されていたのだそうです。

気になる方は、「松山空港 掩体壕」などで検索すると、

いくらでも有料優良サイトにヒットしますので、見てみるとよいです。

この3つ目の掩体壕、道路から出っ張ってる裾の部分が切り欠かれているという特徴があり、

是非見てみたかったのですが…。

追記:3つ目の掩体壕見てきました(下記リンク参照)。      

 


■松山の掩体壕について■

現在の松山空港、元は帝国海軍松山航空基地(吉田浜飛行場)で、1943年10月に松山海軍航空隊が置かれました。

戦争末期にこの基地に展開した、紫電、紫電改擁する有名な「第三四三航空隊」は歴戦のベテランパイロット揃いで、

ここで大損害を被った米機動部隊は、この精鋭部隊がいた間は二度と松山上空には近寄らなかったのだとか。

ところで。

掩体壕もなかなか奥が深く、陸軍式と海軍式があります。

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陸軍型(調布飛行場)

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海軍型(高知空港)

見ての通りで、開口部を最小にする覆いが施されているのが海軍型です。

そして当松山の3つの掩体壕には非常に興味深い特徴があります。

ここ松山は海軍の飛行場でしたので、掩体壕の開口部にはこのヒコーキ型の覆いがあるはずなのですが、

「1つ目」、「2つ目」の開口部には覆いがありません。「陸軍式」なのです。

ではなぜ海軍基地に陸軍型の掩体壕が存在するのか。

ここ松山基地の真相は不明ですが、戦争末期には掩体壕建設の際、

資材不足のため、海軍が「陸軍式」を取り入れたこともあったのだそうです。

そして関連他サイトで確認していただけるとわかるのですが、「3つ目」の掩体壕は開口部に覆いのある「海軍式」。

理由は不明ですがともかくここ松山は、

「海軍式掩体壕」と、「陸軍式掩体壕」が混在している様子を現在でも見る事ができるのです。

返す返すも3つ目を見る事ができなくて残念でした。

 

この松山基地周辺には、1944年頃から掩体壕が作られ、

その数はコンクリート製の有蓋掩体壕24基、土製の無蓋掩体壕39基(全部で38基という説もある)だったそうです。

その後開発等により徐々に取り壊されていき、1974年撮影の写真では5基の掩体壕が確認できるのですが、

前述の通り現在残るのは3基のみ。

なんでも全国には、朝鮮戦争の際、鉄筋を取り出すために壊された掩体壕もあるのだとか。

今回見学した掩体壕、1つ目のものは地主さんが入口を覆って倉庫として活用しておられますし、

2つ目も、うまいこと新築の住宅地に取り込まれています。

恐らくもうしばらくの間、この2つは大丈夫でしょう。

 

それでも国内外に残っている掩体壕、今後は、「開発の邪魔だから」という理由に加え、

「老朽化して危険である」という理由による取り壊しもますます増えていくことでしょう。

松山空港の掩体壕については、検索するといくらでも関連サイトが見つかります。

が、『彷徨猫旅記録』というサイトの松山空港掩体壕を扱っているページを特にご紹介します。

1つ1つの掩体を丁寧に建築の観点で扱っている点で特異な記事です。

(福岡亭あめふらし様、ありがとうございました)



沿革
2018年05月 18日 南吉田町1020番地4、1021番地4の掩体壕、松山市指定有形文化財指定
2020年11月 28日 保存整備完成記念セレモニー

関連サイト:
松山市/市指定文化財/掩体壕1基  
松山市指定有形文化財「掩体壕」 
ブログ内関連記事(今回見損ねた掩体壕) 

この記事の資料:
「愛媛県の近代化遺産 -近代化えひめ歴史遺産総合調査報告書-」


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羽田 つばさ公園・3 [├場所]

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つばさ公園の続きです。

この時間帯は太陽が上側の雲に隠れ、落ち着いて撮影できました。

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大分色が落ち着いてきましたね。

ここでちょっと手前の方を…

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すずめすずなり。

公園内には、出勤途上の人、散歩やジョギングの人など結構人が増えてきました。

が、カメラ構えているのはオイラ独り。

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2隻の船がやけに行ったり来たり、うろうろしてました。

…怪しい。

これみよがしに「警戒船」なんて掲げているところが余計に怪しいです。

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7:34

34Lに着陸する1番機 

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7:37

34L からの離陸も始まりました。

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7:38

太陽が高くなり、この方向も大分色が落ち着いてきました。

非常に印象的に見えた、遠方の煙突からの煙もご覧の通り。

(朝だけど)マジックタイム終了~。 


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羽田 つばさ公園・2 [├場所]

前記事からの続きです。

 

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手前の運河?がキラキラでした。

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こちらも太陽がいっぱい。

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04を離陸する海上保安庁のワイエス(JA8702”ブルーイレブン”) 。

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カシャカシャ撮ってたら一瞬キラリと光ったので、(写っててくれよ~~)と思ったら写ってました。

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太陽とヒコーキが重なっているところを撮りたかったのですが、駄目でした。

残念。

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この後太陽は上の雲の中に一旦隠れるのですが、

日の出からここまでの時間帯は、

「目が~!」 「目が~!」 「目が~!」 byムスカ

という感じでした。

はー。目に悪い。

 

 

つづきます。

(この記事の続きは水曜日の予定です)


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つばさ公園・1 [├場所]

 2008年1月 訪問 



以前書いたつばさ公園の記事アスランマリオ師匠から、

「(つばさ公園では)これからの季節、早朝34R方向に朝日が飛行機の上から昇りますよ」

と教えて頂きました。

ということで、1月の末に行って来ました。

予報では、東京地方の天候は前日の夜から日中にかけて晴れ。

せっかく行って曇ってたら泣けてきますからね。

当日の東京地方の日の出時刻は6:43。

4時に自宅を出発。

オイラの自宅から羽田の行き方は非常に単純で、

川越からR254で和光市まで行き、

ここで交差する環八を走れば羽田に着きます。

ということで、出発してから1時間30分後、

オイラはつばさ公園手前の物流センターが集まっている路地に車を停め、車内でじっとしてました。

実はつばさ公園方面には居住者以外は6時まで進入禁止だったのです。

そして6時過ぎ、つばさ公園の駐車場到着。

車から降りて、見上げると、なんと頭上は雲に覆われてます。

…ハレっつったじゃん!!

しかし太陽が昇ってくる部分はまるで窓が開いているかのように雲がなかったのでひと安心。

このまま雲に覆われませんように…。

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まだ日は出てきませんが、空が明るくなってきたので撮影開始。

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こんな感じで、帯状に雲が切れてました。

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スジが差してきました。

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雲の輪郭が輝き始め…

そして…

 

 

 

 

つづきます。

(寸止め大好き)


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さくらの山公園 [├場所]

これも去年の話です。

某友人と友人の友人の家に行く途中、某友人と立ち寄りました(ちゃんと説明する気ゼロ^^;)。

成田空港の16R側(長い方の滑走路)にあるので、頭上を次々とジャンボが飛んで行きました。

流石に有名な撮影スポットだけあり、すんごい機材を持った人がたくさんいました。

 

 

 

 

 

 

 

 


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かかみがはら 航空宇宙博物館 [├場所]

まずは外に展示されている機体から。

 

 

ということで、館内へ(早)。

館内に入ってまず目を引いたのが土井武夫氏のコーナーでした。

土井氏は博物館に隣接する川崎重工の航空機開発の技術者です。

戦前戦後を通じた氏の活動については、その世界では知らない人はいないという人物で、

「日本の有名なヒコーキ技師を挙げよ」と言われたら、零戦の堀越氏らと共に、真っ先に名前が出て来る1人。

上のボードは土井氏の仕事ぶりを示したもので、太い横線は1機の飛行機の設計、試作、飛行試験の工程です。

この工程表によりますと、終戦までのわずか8年間に改造機を含めて

22機種もの飛行機の開発、設計をしていたことになります。

同時進行で何機も…。

言葉では言い表せないような忙しさだったんでしょうね。  

 

昭和6年改定 川崎BMW六型発動機 取扱説明書

こんな時代があったんですね~。

 

「ハ-40エンジン部品」

ハ-40は飛燕に使用されたエンジンです。

写真の部品は昭和19年頃に製作されたもので、土井氏、渡辺氏より寄贈された実物です。 

 

 

ずらりと並ぶ、各務原で初飛行したヒコーキたちの写真。

各務原が各務原たる所以ですね。

もうひとつ、各務原らしいといえば、この低騒音STOL実験機 飛鳥

当博物館の紹介に必ず出て来るアングルの写真です。

機内に入ることができたので、入ってみました。

 

 

 

 

 

特徴的なエンジン取り付け位置とフラップ。

紹介ビデオがありました。

飛鳥は、主翼上面にエンジン排気を吹き出し、それをフラップで下向きにかえることにより、

通常の2~3倍の揚力を発生させ、短い滑走路での運用を可能としました。

また、この技術により急角度での離陸、着陸が可能となり、空港周辺の騒音低減効果も期待されました。

ところが実際に着陸してみると、強烈な下向きの風を発生させているために接地後大きくバウンドしてしまい、

着陸距離は伸びてしまいました。

このため、最適な進入角、速度を探るべく飛行を繰り返しました。

そして、着陸距離480m、離陸距離680mという結果を得ることができました。

ベースとなった川崎C‐1は、元々高い短距離離着陸性能を有する機体として設計されましたが、

数値はそれぞれ、着陸距離823m、離陸距離910mです。

ビデオは、「こうして飛鳥は将来のSTOL機開発の際の貴重なデータを残し、その役割を終えました」

というような締めくくりでした。

実機展示場には、飛鳥以外にもここで開発された各種実験機をはじめ、様々な機体が展示されていました。

他の航空博物館と構成は似てますが、実験機が多いのがここの特徴ですね。 

 

 

実験飛行艇 UF‐XS

PS‐1開発に先立ち、技術研究用に使用された実験飛行艇。 

 

全体写真はなく、こんなマニアックな写真しか撮ってませんでした。とほほ。

興味のあるものしか撮っていないので、かなり偏った記事になってます。

詳しくは、公式サイトをご覧くださいませ 


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京浜島つばさ公園 [├場所]



昨日家族を迎えに羽田に行ってきました。

早目に着いて、先日ゆうさんに教えてもらった「つばさ公園」に行ってきました。

恥ずかしながら羽田空港以外から撮るのは初めてです。

所々ベンチも設置されている非常に細長い公園でした。

運河?を隔ててR/W22,16L,16Rのすぐ側。

ヒコーキが飛んでいない時は静かに波の音が聞こえる場所です。

いいお天気でした。

離陸は34R、着陸は34Lでした。

こんな感じで、はるか手前で離陸します。

公園に近づく頃には高度が高いです。

しかも目線が滑走路より低くて、滑走しているところが見えません。

離陸後、次々と右旋回してました。

ここからは300mmオン。

JA705A/ANA777-200

JA711A/ANA777-200「スターアライアンス」

JA01MC/スターフライヤーA320-200(スターフライヤー1号機)

JA8258/AirDo B767-300(元ANA塗装だった機) 

JA752J/JAL777-300

上と同じJA752J。「チームマイナス6%」機のはずなんですが・・・シールはがしたのかしらん??

鶴丸が見れました~!

JA8983/JAL777-200(JALのトリプルセブン3号機「アルタイル」)

古い機体なんだし、このまま最後まで鶴丸でいてくれないかなぁ。無理かなぁ。

いえ、いてください。おねがいしますおねがいします。

16R側に移動…

RWY04から離陸する海保のガルフストリーム JA501A「うみわし2号」

JA8908/JAL B747-400D(元「がんばれサッカー日本代表!」機)

撮影を始めてから1時間40分、やっとジャンボが撮れました。

ジャンボ、本当に少なくなりましたね。

そのうち、「今日羽田にジャンボが来た!!」なんて話題になるんでしょうね。

JA737B/SNA B737-400

どなどなされてるところ。 

ジャンボキター!

オイラの場合、こうやって遠目に見て自信を持って「アレは○○だ」と言えるのはジャンボだけです^^;

陽炎ですね。

11月に入りましたが、長袖シャツだと暑いくらいの気温でした。

 

ジャンボが滑走路から出たら、もう次の機がファイナルアプローチに入ってます。

こんなタイミングが延々続いてました。

JA8099/ANA B747-400D でした。

おわり~

 

家族のヒコーキの時間まで2時間あったので、

「1時間ここで写真を撮って、それから空港に移動してフジで本を物色して、デッキに行って…」

と考えていたのですが、次々にヒコーキがやって来て、最後はジャンボも来るしで、

気がついたら2時間ここにいましたとさ。


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