SSブログ

新田原飛行場(高鍋陸軍飛行場) [├空港]

  2009年10月訪問 2023/1更新  


無題1.png
撮影年月日 1947/01/25(昭22)(USA M25A-20 43)  
出典:国土地理院ウェブサイト(地理院データを加工して作成・2枚とも)

無題6.png
SkyVector.com

宮崎県の航空自衛隊新田原(にゅうたばる)基地。

2016年まで飛行教導群のいた基地です。

2017年現在、グーグルアースで使用している画像の取得日は2016/12/7で、

Wikiによれば、2016年6月10日 小松基地へ移転完了とあるのですが、

エプロンにはあの独特なカラーリングのF-15がズラリと駐機しています。

当基地は、かつて陸軍の「新田原飛行場」でした。

 

■「戦前戦後の飛行場・空港総ざらえ」の中で、宮崎県の項目に「高鍋陸軍飛行場」が登場します。

初耳の飛行場で、ググってみてもドコにあるのかなかなか分からなかったのですが、

グーグルブックスで検索したところ、戦中について扱った書籍の中に、

「高鍋陸軍飛行場」=「現・新田原基地」と記したものがありました。

アジ歴で検索してみると、 「菊池高鍋飛行場新設敷地買収の件」という文書が閲覧できます(下記リンク参照)。

この文書は昭和13年2月の新設敷地買収に関するもので、新田原飛行場建設とタイミングも同じでした。

高鍋町は新田原飛行場のある新富町の隣町ということもあり、

「高鍋陸軍飛行場」=「陸軍新田原飛行場」なのだと思います。

■防衛研究所収蔵資料「第四十一航空地区飛行場記録 昭和二十年九月二十日(陸空-本土周辺-114)」

の中で、当飛行場についての記述がありましたので、引用させて頂きます。

判決 自重十五屯以下の飛行機の使用に適す
飛行地区
 滑走地区 一二〇〇x一〇〇 約二十糎のコンクリートマガダム舗装
 舗装路 七〇〇x五〇 約十糎のコンクリートマガダム舗装
 土質 粘質壊土
 地表面の状況 舗装路外は張芝にて地耐力可なるも既設陣地あり着陸困難なり
 周辺障碍物の有無 なし
付属地区
 誘導路 なし
 宿営 三角兵舎二十棟(五〇〇名収容可)但し八月二十六日暴風に依り大部破損す
 夜間着陸設備 なし
 動力線 なし
 電燈線 前頃兵舎に配線ありしも暴風に依り大部分切損す
 給水 井戸は十六を有するも冬期に於て水量少なり
其の他
主風向 西北風但し海陸風の影響大なり

付属地区の項目に、「誘導路 なし」とありますね。

オイラにはあるように見えるんですが、どういうことなのかしらん。

実は同資料では、終盤の頁で当飛行場の「要図」と「飛行場記録」がコンパクトにまとめられて再登場しているのですが、

両者には細かな差異があります。

以下異なっている箇所を列挙します。

・舗装路:「七〇〇x五〇 約十糎のコンクリートマガダム舗装」→「滑走路及誘導路「コンクリートマカダム」舗装」
・土質:「粘質壊土」→「粘土質壊土」
・給水:「水道なし」を追加

同資料内の要図によりますと、滑走路東端の更に東側部分に、

「此の付近転圧不十分 着陸不能」とありました(グーグルマップ赤マーカー)。

■防衛研究所収蔵資料「本土における陸軍飛行場要覧 第一復員局(陸空 本土防空7)」

にも当飛行場の情報がありました。

飛行場名  新田原
位 置   宮崎県児湯郡新田原村
規 模   要図
舗 装   一〇〇×一二〇〇
      基礎築石地形
付属施設
 収容施設 一七〇〇名分
 格納施設 掩体 大三〇ヶ所 小二〇ヶ所
摘 要   施設軍有

 

下の沿革にもまとめたんですが、陸軍飛行場は戦後一旦農地になり、その後再び飛行場に戻っています。

こういうケースもあるのですね。

旧軍用飛行場を戦後再び飛行場として使用する場合、

滑走路、誘導路、エプロン、格納庫等、元々使用していたものをほぼそのまま使用したり、

それが現在までそのまま残って居たりするケースも多々あるのですが、

先頭のグーグルマップの通りで、ここは滑走路も誘導路、エプロンも元のものはほとんど使用していません。

芝張りならともかく、せっかく舗装した立派なものだったのに、これは珍しいです。

民間に払い下げられたのが1947年。

航空自衛隊の飛行場建設が決まったのが1957年で、飛行場が完成したのは翌年でした。

10余年の時を経て再び飛行場になるまでの間に、舗装がすっかり剥がされて、完全に農地に戻ったのかしらん。

なんて思っていたのですが。。。

無題7.png
1961/10/07(昭36) KU611YZ 1 6   

これは滑走路完成から3年後の写真です。

陸軍当時の滑走路、誘導、エプロンが残っていたにもかかわらず、

新たな滑走路、誘導路、エプロンを建設したことが分かります。

また、この記事内でこれまでずっと、「滑走路の向きは変わっていないっぽい」などと書いていたのですが、

これもオイラの先入観からくる勘違いでした(キレイさっぱり消し去った)m(_ _)m 

年代を追って当飛行場の様子を見ていくと、1990年代後半には旧滑走路等の痕跡はほぼ消えています。

それでも新設滑走路と誘導路に挟まれた部分には、一部ですが今でも旧滑走路面が斜めに残っています。

 

オイラの妄想話はここまでにして話は変わりますが、

ここには有蓋掩体壕が4基現存しています(上のグーグルマップの青マーカー)。

基地南側の外周道路からポコポコと見えます。

現存する掩体壕に西側から勝手に番号をつけました。順番にアップします。


1番目の掩体壕 

D20_0265.jpg

開口部が北北東を向いており、外周道路から見るとほぼ正面に口を開けてます。

D20_0254.jpg

ここの掩体壕、開口部がみんなきれいな弧を描いてました。

陸軍型ですね。

ご覧の通り前には広々とした草原が広がっており、ステージのような不思議な場所でした。

D20_0251.jpg

内部の様子

D20_0253.jpg


2番目の掩体壕

D20_0275.jpg

東北東を向いている2番目の掩体。

1番目の掩体の場所から丸い背中が見えました。

D20_0270.jpg

他の掩体が開口部に直接軽トラで乗り付けて荷物の積み下ろしができるのに対し、

この掩体だけは前が畑になっているのでオイラは近寄れませんでした。

畑に入ってしまわないように慎重に。

D20_0280.jpg

奥に見えているのは1番目の掩体。


3番目の掩体壕

D20_0318.jpg

外周道路から見たところ。

D20_0315.jpg

東南東を向いている3番目の掩体

D20_0310.jpg

ロールがいっぱい入ってました。

D20_0317.jpg


4番目の掩体壕

D20_0289.jpg

北北東を向いている4番目の掩体。

D20_0292.jpg

こちらは柵が設けてあって内部に入れないようになってました。

D20_0293.jpg

D20_0296.jpg


     宮崎県・新田原飛行場    

外周道路は狭く、車同士がすれ違うポイントが制限されてます。地元車はよく心得ていて、かなり手前で延々待っていてくれる場合があり、要注意でした

・陸軍新田原飛行場 データ
設置管理者:陸軍
種 別:軍用飛行場
所在地:宮崎県児湯郡新田原村
座 標:32°05'11.5"N 131°26'55.8"E
標 高:74m
滑走路::1,200mx100m(11/29)
(座標、標高、方位はグーグルアースから。他は防衛研究所収蔵資料から)

・航空自衛隊新田原基地(現在) データ
設置管理者:防衛省
種 別:軍用飛行場
所在地:宮崎県児湯郡新富町大字新田19581
4レター:RJFN
標 点:N32°05′01″E131°27′05″
標 高:79m
滑走路:2,701mx46m(10/28)

沿革
1937年春頃 飛行場建設が村に対して内々に打診される
1938年04月 22日県から村助役に対し、新田原一帯を陸軍飛行場とするため本年度から工事着手決定と伝えられる
       23日 地主会招集
       24日 新田原村長名で予定地の作付け中止通知依頼。
       憲兵分駐所長、特高主任出席の下第一回土地買収委員会開催
1939年01月 9日 宮崎県、第六師団経理部から整地工事の委託を受ける
       30日 県、正式受諾
     02月 01日 着工
1940年07月 17日 熊谷陸軍飛行学校新田原分教場開設
     10月 01日 大刀洗陸軍飛行学校新田原分教場となる
1945年   終戦
1947年   農林省に所管換え、開拓農地として民間に払い下げられる
1957年   航空自衛隊新田原基地開設が決定される
1958年   滑走路完成

関連サイト:
アジ歴/菊池高鍋飛行場新設敷地買収の件  
ブログ内関連記事      

この記事の資料:
防衛研究所収蔵資料「第四十一航空地区飛行場記録 昭和二十年九月二十日(陸空-本土周辺-114)」
防衛研究所収蔵資料「本土における陸軍飛行場要覧 第一復員局(陸空 本土防空7)」
「21世紀へ伝える航空ストーリー 戦前戦後の飛行場・空港総ざらえ」


コメント(13)  トラックバック(0) 
共通テーマ:趣味・カルチャー

富高航空基地跡地 [├空港]

  2009年10月、2024年1月訪問 2024/3更新  


3.png
撮影年月日1947/11/06(USA R169 61)  
出典:国土地理院ウェブサイト(地理院データを加工して作成。写真内の説明は甲斐誠二さんから)
4.png
1/50000「富髙」昭和7年要修「今昔マップ on the web」から作成

宮崎県日向市にあった「富高海軍航空隊基地」。

先頭のグーグルマップ、ちょっと不思議なことになっていますが、

水色のシェイプは、現地しらさぎ公園内に展示してある地図から、

黄色のシェイプは上に貼った1947年の航空写真で目立っている部分で、甲斐誠二さんから情報頂きました。

甲斐誠二さんは当時、着任した兵士から直接話を聞かれたとのことで、

現在は「語り部」をしておられるのだそうです。

詳しくはコメント欄をご覧ください。

頂いた情報を元に記事を大幅に修正させて頂きました。甲斐誠二さん貴重な情報をありがとうございましたm(_ _)m 


■防衛研究所収蔵資料:5航空関係-航空基地-77 終戦時に於ける海軍飛行場一覧表 昭35.6.29調

には、「昭15建」とありました。 

■防衛研究所収蔵資料「海軍航空基地現状表 内地之部 佐世保鎮守府航空基地現状表」

の中で、当航空基地について一部次のように記載がありました。

基地名:富高 建設ノ年:1940 飛行場 長x幅 米:1800x1000芝張ノ内700x60 600x60コンクリート 主要機隊数:小型練6.0 主任務:教育 隧道竝ニ地下施設:居住、指揮所、電信所、燃料庫、爆弾庫、魚雷調整場、魚雷格納庫、工業場、倉庫 掩体:中型小型無蓋48 

資料によりますと、「700x60,600x60のコンクリート舗装」とありますね。

上の航空写真のメガネ型コンクリートの長さをいろいろ計ってみたんですが、

せいぜい300m程度しかありませんでした。

当地は1947年3月以降の写真しか閲覧できないんですよね。

もしかし舗装が剥がされちゃったのかしらん。

剥がされておらず、元々この形なのだとしたら、これは飽くまで一般論になってしまうんですが、

飛行場敷地に地盤がしっかりしている箇所と、軟弱な箇所が混在していることがよくあり、

軟弱な部分のみ舗装するケースがあります。

なので、僅か300m程度しかコンクリ舗装してないというのは、全然アリです。

D20_0240.jpg

後述しますが、これは有蓋掩体壕の一部が残る場所にあった説明版の一部です。

最も長いL型のコンクリート舗装が中央上に映っており、「駐機場跡」とあります。

長い舗装部分に沿うように格納庫っぽいものも並んでますし、確かにここは駐機場ですね。

D20_0193.jpg

紫マーカー地点。

協和病院玄関前の舗装面には一部色の異なる部分があります。

特攻基地滑走路跡(全文) 
ここ病院の敷地一帯は、太平洋戦争中には「富高海軍航空隊基地」とし特に戦争末期には第一線基地とし又特攻基地として重要な役目を果たしていました。この案内板の前にありますコンクリート部分は 当時の滑走路の一部でありまして、戦時中そのままのものであります。 現在の平和の前にはこのコンクリートの滑走路から特攻機が飛び立ったのです。恒久の平和を願う為にこの滑走路を保存するものです。


D20_0195.jpg

1957年、当病院が開設される時、初代理事長の切望により残されたもので、

氏は中学時代に学徒勤労動員で本飛行場の拡張工事、掩体壕作りに参加しています。

病院は将来に渡って原型を残したい考えなのだそうです。

D20_0224.jpg

緑マーカー地点。

「神風特別攻撃隊出撃之地」の碑

当病院の所に戦闘指揮所があり、特攻に行くひとがあると黄色い旗が立ったのだそうです。

D20_0230.jpg

D20_0216.jpg

黒マーカー地点。

碑の隣にある「爆弾ノ痕」 直径12m,深さ3m

艦載機の250キロ爆弾の跡ではないかとされているそうです。

D20_0225.jpg


D20_0197.jpg

灰マーカー地点。

小倉ヶ浜有料道路 料金所前にある「富高海軍航空隊基地跡」碑。

→2013年5月10日に無料化しました。

D20_0210.jpg

黄マーカー地点。

しらさぎ公園

しらさぎ公園にある「富高海軍航空隊跡地プロペラ展示施設」(全文)
 この地は昭和4年(1929年)に富高飛行場として発足以来、終戦までは富高海軍航空隊基地として予科練、予備学生等、大空を夢見た若き搭乗員の高度な技術育成のため、通称「赤とんぼ」の中練機で日夜訓練を重ねたのである。またこの基地が開戦当初のハワイ真珠湾奇襲作戦の訓練基地であり、お倉ヶ浜沖の岩場が爆撃投下の攻撃目標として訓練され今ではその岩場も小さくなって残っている。更に神風特攻隊の出撃基地でもあり、多くの若者たちが祖国の勝利と安泰を信じて、ここから飛び立ち二度と帰ることはなかった。その跡地に海上自衛隊のご厚意により借用したプロペラを展示し、「富高海軍航空隊」の史実と世界恒久平和を後世に語り継ぐとともに、二度と戦争を起こさないことを誓うものである。
平成15年6月5日設置

展示物 KM-2型航空機用プロペラ
型式:HC-A3x20-1E
直径:90インチ(228.6cm)
重量:98ポンド(44.4kg)
底辺の長さ:198cm
高さ:171.5cm

この公園の場所が分からなくて、何人かの方にお聞きしたのですが「しらさぎ公園」という名称はあまり知られていないようで、

「プロペラが展示してある公園」とお聞きしたら一発で通じました。



D20_0237.jpg

赤マーカー地点。

掩体壕の一部と説明板

当飛行場の掩体壕はすべてなくなってしまい、現在ではこの掩体壕の一部分が僅かに残るのみだそうです。

「一部が残っている」 ということと、「往還の公民館の近く」ということしか分からず、随分探しました。

10人位の方にお聞きしたのですが、みなさん掩体壕はすべて消えてしまったと思っておられるようでした。

結局、往還の公民館北側の交差点で発見。見つけてみれば大きな交差点にあり、非常に目立ってます。

一番上の地図の緑丸は、消滅した掩体壕群の場所です。

D20_0234.jpg

D20_0240.jpg

D20_0233.jpg

説明板にあった掩体壕の写真


(以下2024年1月撮影)

 
DSC_2367_00001.jpg

協和病院正面に向って左側には、

DSC_2366_00001.jpg

紫マーカー地点。

「滑走路跡」があります。

2009年にお邪魔した時より、コンクリート表面が少々削れているように見えます。

DSC_2365_00001.jpg

特攻基地滑走路跡
 ここ病院の敷地一帯は、太平洋戦争中には「冨高海軍航空隊基地」とし特に戦争末期には第一線基地とし又特攻基地として重要な役目を果たしていました。後方にありますコンクリート部分は当時の滑走路の一部でありまして、戦時中そのままのものであります。現在の平和の前にはこのコンクリートの滑走路から特攻機が飛び立ったのです。恒久の平和を願う為にこの滑走路を保存するものです。

DSC_2369_00001.jpg

緑/黒マーカー地点。

病院正面に向って右側少し奥には、神風特別攻撃隊出撃之地碑と、すぐ後ろに爆弾穴があります。


 コノ附近一帯ハ、第二次世界大戦末期、特攻基地トナツタ旧海軍航空隊富高飛行場ノ跡デアル。
 コノ記念碑ハ、祖国ノ難ニ殉ジテコノ基地ヲ飛ビ立チ、征イテ再ビ還ラザリシ神風特別攻撃隊ノ英霊、並ビニ、コノ基地ノ建設ニ従事シ、不幸傷病ニ斃レタ一般市民・動員学徒・朝鮮人・中国人労務者ノ霊、及ビ遠クコノ地異国ノ空ニ散華シタ米国空軍将兵ノ霊ヲ弔ウタメニ建立サレタモノデアル。
 昭和三十五年 秋 協和病院 昭和五十二年夏 再建


     宮崎県・富高航空基地跡地     

富高航空基地 データ
設置管理者:海軍
種 別:陸上飛行場
所在地:宮崎県日向市
座 標:N32°24′30″E131°38′03″
面 積:132.2ha
飛行場:1,800mx1,000m(芝張)
滑走路:700m×60m,600m×60m(コンクリート) 方 位:18/36,17/35
(座標、方位はグーグルアースから。飛行場、滑走路長さは防衛研究所資料から)

沿革
1929年01月 町側のあっせんで海軍が三千町歩の用地買収の契約が整い、実地視察
    03月 下旬に用地買収終了
    04月 着工。砂地が多くしまりが悪いため、県庁のハンドローラー借り入れ
    06月 開場。常駐者のいない臨時の訓練飛行場となる
    07月 03日、冨髙飛行場に飛行機16機飛来
       飛行場用地ははじめ7万坪だったが、二回目の拡張工事で16万坪、三回目の拡張工事で約40万坪となる
1930年   陸海軍による演習が盛んに行われるようになる
1935年   最後の拡張工事終了

1940年   建設
1941年10,11月 真珠湾奇襲作戦の訓練が行われる
1944年03月 冨髙上空で米艦載機と富高飛行場の零戦が空中戦
       当時当飛行場は築城航空隊富高分遣隊となっており、練習生300人、練習機は30機であった
    11月 冨髙海軍航空隊として独立。練習航空隊の指定を受け、陸上操縦教育を行う
1945年02月 燃料、機材の不足から当飛行場での搭乗員教育が中止される
    03月 冨髙航空隊廃止。同航空隊から編成された特攻隊が岩国に移動。5月まで夜間体当たり訓練を実施
    04月 菊水一号作戦(特攻作戦)開始。冨髙は鹿屋への中継地となり若い特攻隊員が川辺で過ごす姿が見られる
       21,22日 B29による爆撃を受ける。格納庫をはじめ甚大な被害を受ける
    08月 終戦時、零戦20機残存

関連サイト:
ブログ内関連記事    

この記事の資料:
現地の説明板
宮崎の戦争
「日本海軍航空史」(終戦時)
防衛研究所収蔵資料:5航空関係-航空基地-77 終戦時に於ける海軍飛行場一覧表 昭35.6.29調
防衛研究所収蔵資料「海軍航空基地現状表 内地之部 佐世保鎮守府航空基地現状表」


コメント(29)  トラックバック(0) 
共通テーマ:趣味・カルチャー

宇佐航空基地(宇佐海軍航空隊)跡地 [├空港]

  2009年10月、2016年5月訪問 2023/1更新  


無題5.png
撮影年月日 1947/04/16(昭22)(USA M271 16)  
出典:国土地理院ウェブサイト(地理院データを加工して作成)  

大分県宇佐市の日豊本線と宇佐市役所にはさまれたエリアにはかつて海軍の「宇佐航空基地」ありました。

■防衛研究所収蔵資料「海軍航空基地現状表 内地之部 呉鎮守府航空基地現状表」
の中で一部次のように記載がありました。

基地名:宇佐 建設ノ年:1940 飛行場 長x幅 米:1300x1300芝張ノ内1800x80コンクリート 主要機隊数:小型5.5 主任務:教育作戦 隧道竝ニ地下施設:居住(3000平米)指揮所、電信所、燃料庫、爆弾庫、工業場、倉庫、魚雷調整場 魚雷格納庫 掩体:中型有蓋1 中型無蓋41 小型有蓋5 小型隠蔽30 其ノ他記事:桜花格納隧道10機分 同切込掩体33機分 

■防衛研究所収蔵資料:5航空関係-航空基地-77 終戦時に於ける海軍飛行場一覧表 昭35.6.29調

には「宇佐空開隊(S14.10.1)(昭15建)」とありました。 

周辺には掩体壕など様々な遺跡が残っています。

 

城井1号掩体壕
(以下、写真は2009年のものと2016年のものが混在しています。ご了承くださいませ。市の史跡になっている城井1号以外の掩体壕はすべて所有者、近隣の方から許可を得て撮影させて頂きました。快く許可下さった地元の皆様に心より感謝申し上げます。どうもありがとうございましたm(_ _)m )

D20_0071.jpg

D20_0011.jpg

宇佐市指定史跡として整備されている「城井1号掩体壕 」。

周辺に案内標識もあり、探しやすいです。

ご覧の通り、駐車場、トイレ完備。奥に1号とは別の掩体壕も見えます。

D20_0009.jpg

D20_0056.jpg

D20_0013.jpg

国東半島杵築沖で地引網にかかり引き上げられた零戦のエンジンとプロペラが展示されています。

この掩体壕は元々零戦用のものだったそうです。

D20_0019.jpg

D20_0024.jpg

ぼろぼろのプロペラ

D20_0032.jpg

天井アップ。かなり凸凹していて、足跡らしきものがいくつもありました。

D20_0033.jpg

掩体壕の床面には、格納状態を示す零戦原寸大の線が引かれてました。

D20_0039.jpg

全国から参集した154人の若者がここから沖縄の空に散っていきました。

154名の特攻隊員の氏名、出身地が刻まれています。

D20_0045.jpg

特攻隊が飛び立っていくのを手を振って見送った人々をイメージして造られたモニュメントなのだそうです。

 

城井掩体壕群・2
(以下、「城井掩体壕群、畑田掩体壕群等、表記は、「宇佐市平和資料館」の資料に記載されているものを使用させていただきました。ただし末尾のアラビア数字はオイラが便宜上付けたものです。ご了承くださいませ)

D20_0004.jpg

1号掩体のすぐ近くにあります。

D20_0067.jpg

農機具置き場になってますね。

 

城井掩体壕群・3

DSC_0057.jpg

工場に隣接しており、パイプ?が掩体壕の中に入っていくという、独特の外観です。

 

城井掩体壕群・4

D20_0083.jpg

1号掩体からそれほど離れておらず、周辺は車一台がやっと通れる道なので、徒歩がよいかもしれません。

1号掩体から南東方向を眺めると、ポコッと掩体の背中が見えます。

掩体入り口部分にひさしが設けられていて、カーポートになっています。

 

中型掩体壕

県道629号線 教覚寺入口の押しボタン式信号の交差点から北に200mちょっと行くと右手にあります。

周辺は田んぼが広がっていて見通しが非常に良く、見ないように努力しても絶対視界に入ってきます。

D20_0156.jpg

開口部隣に民家があります。

D20_0166.jpg

DSC_0051.jpg

これでも「中型有蓋掩体壕」。デカイです。

宇佐に現存する10基の掩体壕の中では最も大きいです。

DSC_0052.jpg

 

畑田掩体壕群・1

DSC_0059.jpg

農機具置き場になっていますね。

 

畑田掩体壕群・2

DSC_0063.jpg

こちらも農機具置き場。

 

畑田掩体壕群・3

DSC_0071.jpg

 

畑田掩体壕群・4(未撮影)

この掩体壕は私有地内にあるのですが、オイラがお邪魔した時はお留守だったため、撮影していません。

(本当は位置確認のため遠くから撮ったけど)

 

畑田掩体壕群・5

DSC_0066.jpg


ということで、「城井掩体壕群」4基、「畑田掩体壕群」5基(1基は未撮影)、そして森山の「中型掩体壕」1基、

これが城井1号掩体壕の説明版にある「10基の掩体壕」と思います。

また、「宇佐市平和資料館」の資料によれば、森山の「中型掩体壕」の西北西約340mのところに、

「無蓋掩体壕跡」があります。

こちらは自宅に戻ってから気が付いたたため現地で確認していないのですが、

「多分コレ」と思う場所を上のグーグルマップにプロットしてあります。

 

平和への願い碑

D20_0075.jpg

城井1号掩体から東約270mの所にある「平和への願い」碑。

碑の側面に「宇佐海軍航空隊滑走路跡」と記されていますね。

ここから真っ直ぐ北に伸びる「フラワーロード南北2号線」 が滑走路跡で、

特攻隊がここから飛び立ち、それを見送った場所には、

D20_0076.jpg

こうしたモニュメントが580mに渡り、道路に沿って並んでいます。

D20_0078.jpg

 

爆弾池 

D20_0091.jpg

県道629号線沿いに標識があります。

標識に従い左右に広大な田んぼが広がる道を進みます。

県道から二つ目の高圧線鉄塔の手前の道を右折して少し進むと・・・

D20_0105.jpg

こんな場所に出ます。奥に白い棒が見えますね。

D20_0092.jpg

直径20m、深さ3mの池。

杭の片面にこんな説明が。
「この大きな穴は、米軍機から落とされた爆弾によりできたものです。水がたまることから爆弾池と呼ばれています。基地跡には、このような穴がたくさんあり、終戦後に元の水田に返されました。しかしこの穴だけは、「悲惨な戦争の想いを後世に語継ぐ」という所有者の強い思いから、その後の場整備事業でも埋められることなく残されています。」

方形の水田の角に丸い穴があるので、機械化農業には大変な支障だと思います。

毎年毎年手間を惜しまずに池を残し続けておられる農家の方には頭が下がります。

2016/7/23追記:当「爆弾池」には2009年にお邪魔したのみで、2016年には行っていないのですが、グーグルマップ(画像取得日:2015年12月)で確認すると、現在ここは史跡見学場として整備されているようです。

 

落下傘整備所

D20_0126.jpg

県道629号線 爆弾池の標識からさらに東に進むと、こんな標識があります。

ところがここから先の案内がないんですよ。

結局二つしか見つけられず…。

見取り図を作ったのですが、自宅で地図とつき合わせてみたらうまく照合できませんでした。

混乱の元なので地図の掲載はやめておきます。

D20_0115.jpg

多分これが「通信室」ではないかと。

D20_0124.jpg

案内板で「レンガ建物」として示されている「落下傘整備所」。

住宅密集地にあり、壁には生々しい機銃掃射の跡が残っています。

D20_0120.jpg

 

機銃掃射跡の残る壁

D20_0146.jpg

D20_0132.jpg

D20_0134.jpg

柳ヶ浦小学校の低いコンクリート製の壁に幾つも弾痕が残っています。

D20_0136.jpg

 

正門の標柱

弾痕跡からほんの40m先にあります。

D20_0144.jpg

D20_0140.jpg

宇佐海軍航空隊の隊門。

浄化槽の埋設工事の際、当時隊門があった付近で掘り当てられたのだそうです。

D20_0145.jpg

小学校では子供たちの元気な声が響いてました。


     大分県・宇佐航空基地跡地    

宇佐航空基地 データ
設置管理者:海軍
種 別:陸上飛行場
所在地:大分県宇佐市柳ヶ浦 他
座 標:N33°32′55″E131°20′34″
面 積:150ha
滑走路:(開隊時)1,150mx30m  (終戦時)1,800mx80m
方 位:18/36
(座標、方位はグーグルアースから)

沿革
1939年10月 1日、艦上爆撃機、艦上攻撃機の練習航空隊として宇佐郡柳ヶ浦村(現大分県宇佐市)に宇佐空開隊
1940年    建設
1941年10月 7日 真珠湾攻撃に参加する空母「翔鶴」、「瑞鶴」の艦上攻撃隊が宇佐で訓練開始
    12月 8日 日米開戦
    12月 28日 真珠湾攻撃に参加した飛行隊が宇佐に帰隊
1943年07月 9日 一般人、学徒の勤労奉仕隊により無蓋掩体壕作り始まる
1945年01月 初旬 有蓋掩体壕づくりが始まる
    02月 11日 赤江(現・宮崎空港)から雷神部隊(「桜花」による特攻隊) が約30機の「一式陸攻」で移動してくる
    02月 16日 練習連合航空隊司令長官より、110名の特攻訓練命令
    03月 1日 宇佐航空隊が作戦部隊になる
    03月 18日 艦載機による初空襲。死者14名
    04月 1日 宇佐航空隊の保有機157機、隊員2,486名
    04月 6日 第1八幡護皇隊艦爆隊・艦攻隊が沖縄方面へ特攻出撃。以降5月11日まで81機、154名が戦死
    04月 21日 B-29による空襲、壊滅的被害。死者320名。以降、4/26 5/7,10,14 8/8にも空襲
    05月 5日 宇佐航空隊解隊 西海海軍航空隊宇佐基地となる(残存機26) 
    05月 7日 八面山上空にて小月基地の陸軍機がB29に体当たりして撃墜する。捕虜2名を宇佐基地に連行
    08月 8日 空襲により航空隊周辺の畑田・江須賀地区などが大きな被害を受ける
    08月 15日 終戦。戦後は水田、住宅地が広がる

関連サイト:
大分県/城井一号掩体壕  
ブログ内関連記事    

この記事の資料:
現地の説明版
防衛研究所収蔵資料「海軍航空基地現状表 内地之部 呉鎮守府航空基地現状表」
防衛研究所収蔵資料:5航空関係-航空基地-77 終戦時に於ける海軍飛行場一覧表 昭35.6.29調


コメント(24)  トラックバック(0) 
共通テーマ:趣味・カルチャー

航空自衛隊築城飛行場(旧海軍築城航空基地) [├空港]

  2009年10月訪問 2023/1更新  


無題c.png
撮影年月日1947/12/15(USA M690 23) 
出典:国土地理院ウェブサイト(地理院データを加工して作成)
2.png
SkyVector.com
 

福岡県にあった旧海軍の「築城(ついき)航空基地」。

現在は航空自衛隊築城基地になっています。

■防衛研究所収蔵資料「海軍航空基地現状表 内地之部 呉鎮守府航空基地現状表」

の中で、当飛行場について一部次のように記載がありました。

基地名:築城 建設ノ年:1941 飛行場 長x幅 米:1400x1200芝張ノ内1800x40コンクリート 主要機隊数:小型9.0 主任務:教育作戦 隧道竝ニ地下施設:居住(3750平米)、指揮所、電信所、燃料庫、爆弾庫、魚雷調整場 魚雷格納庫、倉庫、工業場 掩体:中型有蓋4 中型無蓋20 小型有蓋8 小型無蓋20 小型隠蔽170 其ノ他記事:建物空爆ニ依リ焼失 

■防衛研究所収蔵資料:5航空関係-航空基地-77 終戦時に於ける海軍飛行場一覧表 昭35.6.29調

には、「築城空開隊(S17.10.1)(昭16建)」とありました。 

基地の北側には掩体壕が数基現存しているということでお邪魔しました。

D20_0187.jpg

青マーカー地点。

県道25号沿いに遺跡見学者用の駐車場がありました。

D20_0166.jpg

駐車場内に立派な案内板があります。

D20_0169.jpg

現存する有蓋掩体壕:3 無蓋掩体壕:7  
消滅・半壊した有蓋掩体壕:5 無蓋掩体壕:12

かなり残ってますね。

それらが誘導路で結ばれ、南側の基地につながっています。

D20_0168.jpg

掩体壕以外にも施設、弾痕跡など残ってますね。

D20_0173.jpg

遺跡見学者の駐車場から東に新しい立派な道路が延びていて、その先左側にすぐ現れるのがこの

「稲童1号掩体壕」です。

地図上できちんと名前が付けられているのはこの1号掩体だけ。

D20_0182.jpg

D20_0178.jpg

地図上には、この「稲童1号掩体」の北東に更に2つ、有蓋掩体壕が現存すると明記されています。

実際に行ってみようと道を進むと「野犬注意」の看板が現れ、

そして本当に2匹の犬がけたたましく吠えながら走ってきました(@Д@)

目の前には掩体壕が。

こっちは車なので、犬に構わず車内から撮ることはできるのですが、

ここは私有地なので撮影許可が必要です。

すんごい吼えてる犬でも大丈夫な犬は大丈夫ですが、この犬は目つきがヤバイので撮影は諦めて引き返しました。

とほほ。

*オイラが撮影し損ねた掩体壕、これ以外の掩体壕については、所有者の許可を得て撮影したサイトがいくつかあり、

閲覧することができます。興味のある方は「稲童掩体壕」などで検索してみてください。

(説明板より)
「築城海軍航空隊」は、昭和17年10月に宮崎県富高町(現・日向市)に練習航空隊として開隊し、昭和18年6月に築城に移転しました。米軍の空襲が激化した太平洋戦争末期には、特別攻撃隊(特攻隊)の出撃基地にもなり、多くの兵士が飛び立って行きました。現在、飛行場は、行橋市、築城町、椎田町にまたがり、「航空自衛隊築城基地」として利用されています。


    福岡県・築城飛行場    

・築城航空基地(戦時中) データ
設置管理者:海軍
種 別:陸上飛行場
所在地:福岡県行橋市、築城町、椎田町
飛行場:1,400mx1,200m(芝張)
滑走路:1,800m×40m(コンクリート)
方 位:07/25
(飛行場、滑走路長さは防衛研究所資料から)

・築城飛行場(現在) データ
設置管理者:防衛省
種 別:軍用飛行場
所在地:福岡県築上郡築上町
標 点:N33°41′06″E131°02′25″
座 標:17m
滑走路:2,399m×46m
方 位:07/25
(情報はWikiから)

沿革
1939年春  海軍が飛行場建設計画の通知を八田村役場に提出
    12月 飛行場建設開始
1941年   建設
1942年10月 1日、築城空開隊
1943年   宮崎県富島町から築城へ初代築城海軍航空隊が移転
    12月 零戦訓練開始
1944年02月 553航空隊と改称され北海道美幌に転出
    03月 築波海軍航空隊が移駐し第二代築城海軍航空隊 開隊
    08月 基地周辺に掩体壕が築造される
1945年02月 特攻隊編成される
    08月 7日 米軍、稲童地区を空襲。特に稲童出屋地区、被害大
    09月 2日 築城海軍航空隊、廃止となる。接収

関連サイト:
ブログ内関連記事   

この記事の資料:
現地の説明板
「日本海軍航空史」(終戦時)
防衛研究所収蔵資料「海軍航空基地現状表 内地之部 呉鎮守府航空基地現状表」
防衛研究所収蔵資料:5航空関係-航空基地-77 終戦時に於ける海軍飛行場一覧表 昭35.6.29調


コメント(14)  トラックバック(0) 
共通テーマ:趣味・カルチャー

ロタコ(御勅使川飛行場)跡地 [├空港]

  2009年10月訪問 2023/1更新  


無題6.png
撮影年月日1948/10/19(USA M1196-A 103)  
出典:国土地理院ウェブサイト(地理院データを加工して作成)

終戦直前、東京の立川航空廠の機能を分散する目的で甲府盆地の西部、御勅使川扇状地に秘匿飛行場が計画されました。

飛行場の名称を「ロタコ」と言います。

なんとも変った名称ですが、「ロタコ」の「ロ」は、「イロハのロ」で「第2」を表し、

「タ」は「立川」、「コ」は「航空廠」をそれぞれ表すとされています。

「ロタコ」→「第2立川航空廠」ということですね。

戦時中の文書では地名から「御勅使川原(みだいがわら)飛行場」 などの呼称で記載されているそうです。

D20_0040.jpg

この飛行場跡地には掩体壕の基礎が3つ残ってまして、

これは1,2号掩体のどちらかの基礎部分です(この奥にもう1つありました)

D20_0042.jpg

3号掩体基礎

D20_0046.jpg

D20_0050.jpg

手前に基礎が少し見えてますが、ここから奥のブロック塀にかけて掩体壕があったと思われます。

D20_0055.jpg

A地点:誘導路跡の道路

ゆるやかに右に曲がった先に滑走路があったハズです。

D20_0061.jpg

B地点

恐らくこの方向に滑走路が伸びていたと思うのですが…

D20_0062.jpg

B地点 

左側は果樹園です。

D20_0065.jpg

C地点

滑走路北端と思われる部分

ここから真っすぐ滑走路が伸びていたはずです。


     山梨県・ロタコ(御勅使川飛行場)跡地    
秘匿飛行場というその性格からか、滑走路や飛行機を隠した掩体壕 、誘導路、地下壕、兵舎、航空本部などロタコを構成する諸施設は、3キロ四方の広範囲に分散して配置され、扇状地や西に接する山地の山裾に点在していました

ロタコ飛行場 データ
設置管理者:旧陸軍
種 別:陸上飛行場
所在地:山梨県南アルプス市有野、飯野
座 標:N35°39′19″E138°27′10″
面 積:800ha
滑走路:1,500m×100m
方 位:17/35
(座標、方位はグーグルアースから)

沿革
1944年秋頃  工事が一部始まる
1945年03月 地域住民を総動員して工事本格化する。工事は終戦の日まで続けられた 
2005年    南アルプス市教育委員会による発掘調査、聞き取り調査実施

関連サイト:
南アルプス市/遺跡で散歩 vol.5「戦争遺跡『ロタコ』を歩く」 
南アルプス市/ロタコ(御勅使河原飛行場)跡3号掩体壕 

この記事の資料:
山梨県南アルプス市/ロタコ(御勅使河原飛行場跡)


コメント(9)  トラックバック(0) 
共通テーマ:趣味・カルチャー

静岡空港(富士山静岡空港) [├空港]

  2009年10月、2023年5月訪問 2023/5更新  


無題1.png
SkyVector.com無題2.png
撮影年月日 2009/04/22(平21)(CCB20094 C42 6) 
出典:国土地理院ウェブサイト(地理院データを加工して作成)  6月4日の開港まであと1ヶ月ちょっとの滑走路。

D20_0196.jpg

2009年6月4日に開港した静岡空港に行ってきました。

東名道の島田ICから15分ほどで到着。

尚、島田ICから静岡空港への分かり易い行き方ですが、

空港まで標識が出てますので、それに従って右に曲がったり左に曲がったりするとよいです(役に立たない情報)。

D20_0198.jpg

空港周辺には茶畑が広がってます。

オイラは一応狭山茶の地元民なのですが、この規模の大きさ、空港の斜面に作られた段々畑の美しさはすごいです。

実は静岡空港には2007年12月にも行ってまして、

当時はターミナル周辺は当然工事中で近寄れず、展望台から眺めたのでした(下記リンク参照)。

その時利用した「石雲院展望台」が現在も利用可だったので、まずはココから眺めてみることに。

11534320.jpg

2007年12月撮影の建設現場。

試験飛行を早く始めるため、管制塔を優先して作ってました。

D20_0013.jpg

現在はこんな。

11534328.jpg

2007年12月撮影のエプロン周辺の様子

D20_0014.jpg

現在はこんな。

ちなみにこの時は朝の7時台で、3機のヒコーキが出発準備をしてました。

D20_0003.jpg

出発準備中~

11534336.jpg

2007年12月撮影の管制塔アップ

D20_0005.jpg

現在はこんな。

ショボイ写真なので小さいです^^;

D20_0008.jpg

同じく展望台から

なんか霞んでるのか、山肌がよく見えません。

この後ターミナルに移動したら、すっかり雲の中に隠れてしまいました。

D20_0016.jpg

ターミナル前。

D20_0017.jpg

駐車場は無料です。

P1~P5まであってすごく広々してます。

車中泊してる車もチラホラ。

駐車場隣にセルフSSもあります。

D20_0180.jpg

展望デッキも無料

D20_0029.jpg

デッキの隅っこからみるとこんな。

入口は写真奥にあります。

D20_0177.jpg

入口付近は高い透明の壁

D20_0033.jpg

それ以外も高いフェンス

これは造園業者が使うような脚立でないとクリアできませんね。

D20_0026.jpg

そしてこのフェンス、残念ながら覗き穴が付いてません。

オイラが切って差し上げたいです(;´Д⊂)
2010/01/21追記:通りすがりの者さんから情報いただきました。覗き穴あるそうです。オイラは発見できなかったのですが、行かれる方は穴を探してみてくださいm(_ _)m
2010/05/27さらに追記:覗き窓は後から設けたのだそうです。

で、このフェンス越しにスポットにいるヒコーキを撮ると… 

D20_0024.jpg

こうなります。。。(;´Д⊂)

D20_0022.jpg

デッキにはこんな立派な説明写真と時刻表が。

JAL……。

D20_0037.jpg

さて。静岡空港出発1番機は8:35発なのですが、ここから40分、45分と、5分ごとに続けて3機離陸します。

まずは1番機 FDA101便小松行きが定刻より2分早く動き始めました。

D20_0047.jpg

JA01FJ

FDAが最初に受領した機体です。

D20_0062.jpg

滑走路上にて離陸直前の101便。

吹流し、ずっとこういう向きでした。

「離陸、着陸は風に向かって」が基本なんですが、

エプロンを出て左折すると、すぐエンドなのです。

この程度なら構わず追い風で離陸なのですね~。

D20_0082.jpg

D20_0083.jpg

ヒコーキがフェンスをクリアする頃には、300㎜ではこんな風になってしまいます(´;ω;`)ブワッ

D20_0090.jpg

本当はJALが2番機のはずなのですが、「2名様搭乗待ち」とのことで、

FDA111便熊本行きが先にプッシュバック開始

JA02FJ FDA2号機です。 

FDAでは1機ごとにボディーカラーを変えることにしているのですが、この2号機については

公式サイトで人気投票を行い、この「ライトブルー」に決定したのだそうです。

D20_0101.jpg

ワンテンポ遅れてJAL機も動き始めました。

定刻より8分遅れ。

D20_0113.jpg

こんな風景ももうすぐ見られなくなってしまうのですねぇ。

D20_0117.jpg

さっきの赤いヒコーキはエンドまで移動して離陸したのですが、

この青いヒコーキは滑走路に進入後右折して・・・

D20_0138.jpg

そのまま飛んで行きました。

手前の黒っぽいフェンスに人がいるのが見えますでしょうか。

さっきまでオイラがいた「石雲院展望台」です。

展望デッキの撮影だとフェンス越しになってしまうため、本当はオイラもアッチに移動したかったのですが、

10分間の間に3機まとめて飛んでいってしまうため、気がついた時にはちゃんかちゃんかちゃん。

なのでした。

D20_0139.jpg

MD機はさすがにエンドまで移動してから離陸しました。

JAL3810便 福岡行き

D20_0168.jpg

D20_0181.jpg

展望デッキ手前はこんな。

なんだか楽しげな雰囲気です。

D20_0182.jpg

D20_0195.jpg

ターミナルの隣、P5の奥に展望広場があります。

D20_0192.jpg

エンドが目の前。

さっきの赤いヒコーキとJAL機はここでぐーっと向きを変えて飛んでったんですね。

今日みたいな滑走路の使い方なら、着陸はここから撮るとよさそうですね。

D20_0184.jpg

エプロンがバッチリ見えますね。

ちなみに管制塔奥のこんもりしたところが「石雲院展望台」です。


(以下2023年5月の様子)


DSC_0086_00001.jpg

DSC_0080_00001.jpg (以前guchiさんからご紹介のあったフードコート)

DSC_0084_00001.jpgDSC_0083_00001.jpg

以前通りすがりの者さんからご指摘のあった通り、覗き穴が設けられてました。

DSC_0088_00001.jpg


    静岡県・静岡空港(富士山静岡空港)     

  ビュー:☆☆★★★   
3Fに広い無料展望デッキあり
フェンス高く、覗き穴あり
展示品、双眼鏡等特になし

  施設:☆☆☆☆☆   
ターミナル前に無料駐車場あり
スタッフさんとても親切でした
建物は明るくキレイ
レストランあり。売店充実
空弁、空港限定スイーツ、うなぎパイ、お茶、ワサビ等
ヒコーキストラップ、プラモも多数
盲導犬用トイレ設置。詳しくは馬さしさんのブログをご覧くださいませ(下記リンク参照)

  マニア度:☆☆☆★★   
展望広場、展望台、富士山、安全わらじ

  総合:☆☆☆★★    
他サイトなど見ても、富士山がよく見える日は限られているらしい
非常に厳しい情況での開港だが、できたからには頑張って欲しい
展望デッキ等今後に期待

富士山静岡空港データ 
運 営:富士山静岡空港株式会社
3レター:FSZ
4レター:RJNS
空港種別:地方管理空港
所在地:静岡県牧之原市・島田市
標 点:N34°47′46″E138°11′22″ 
面 積:190ha
滑走路:2,500mx60m
着陸帯:2,620mx300m
磁方位:11/29
エプロン(バース数):大型ジェット用2、中型ジェット用1、小型ジェット用2
運用時間:8:30~20:00
標 高:132m(433ft)
概算事業費:空港本体約490億・全体事業費約1,900億円
駐車場:一部有料
ターミナルビルコンセプトの中に、「富士山を眺望できること」が含まれている。

沿革
1987年12月 17日 空港建設予定地を榛原・島田に決定
1991年11月 29日 第6次空港整備五箇年計画に予定事業として組み入れ
1993年08月 予定事業から新規事業へ格上げ
1994年06月 平成6年度政府予算へ組み入れ
1996年    運輸省、県に対し静岡空港設置許可。用地買収開始
1998年11月 20日 本体工事起工式を開催。本体盛土工事開始
2006年01月 愛称「富士山静岡空港」に決定
2007年    用地取得完了
2008年10月 22日 制限表面に抵触する立木問題のため、暫定的に2,200m滑走路で開港することに
2009年01月 試験飛行開始
     06月 4日 開港(立木問題のため、2,200m暫定運用)
     07月 23日 FDA初就航
     08月 27日 滑走路完全運用開始(2,500m)
2010年04月 1日 日本航空グループ撤退
2011年04月 23日 空港東側に展望広場オープン
2016年11月 ターミナルビル増築工事開始。延床面積1.5倍へ
2017年12月 静岡エアコミュータ、レオナルドヘリコプターズと業務提携し、空港内に整備工場新設と発表
2018年04月 10日 増築部分を新国内線エリアとして供用開始。既存スペースは全て国際線エリア化
       静岡県、2019年4月民営化に向け、三菱地所と東急電鉄連合に優先交渉権
     10月 30日、新国際線ターミナル供用開始
     11月 7日 県、富士山静岡空港(三菱地所・東京急行電鉄グループ)に運営権設定。22日実施契約を締結
     12月 6日 静岡県内の有名店を集めた「フードコートFSZ」オープン
        22日 ビジネスラウンジ YOUR LOUNGE オープン
2019年04月 1日 民営化
     11月 15日 駐車場の一部を有料化、事前予約制へ

関連サイト:
富士山静岡空港     
国土交通省東京航空局/静岡空港   
盲導犬用トイレ設置についての馬さしさんの記事     
ブログ内関連記事

この記事の資料:
日本のエアポート04 東海3空港


コメント(22)  トラックバック(0) 
共通テーマ:趣味・カルチャー

花巻(いわて花巻)空港・新ターミナル [├空港]

  2009年9月訪問、2023年5月 2023/6更新  


無題3.png
撮影年月日1983/05/23(TO831 C4 10) 
出典:国土地理院ウェブサイト(地理院データを加工して作成)

すぐ上の航空写真は、1983年撮影の旧ターミナル使用中の花巻空港です。

国道4号の空港側歩道からエプロン(写真中央の長四角)までは僅か58mしかなく、

この幅58mの中に正門、道路、駐車場、ターミナルビルを設置していました。

この状態を解消すべく、滑走路反対側に新ターミナルビル建設が始まったのでした。

そして2009年4月9日に新ターミナルがオープンしました。

遅ればせながら、それから5か月後に見に行ったのでした。

D20_0044.jpg

RWY20エンド

新ターミナル北側から反時計回りで見てきました。

エアバンドレシーバーでタイミングを計れば迫力のある画が撮れそうです。

D20_0047.jpg

RWY20エンド西側にある「ふれあい広場」

D20_0051.jpg

ターニングパッドがすぐ側に見えてますので、じっくり撮るならここからが良さそうです。

D20_0059.jpg

「ふれあい広場」から滑走路に沿って遊歩道が整備されてます。

駐車場付き。

D20_0061.jpg

旧ターミナル

もう取り壊しちゃっただろうか。などと心配してたのですがちゃんと残ってました。

中を覗いてみたのですが、無人でした。

ターミナル前の駐車場はスペースが非常に狭くて、一般車両の駐車はできなかったのですが、

今回はここに停めさせていただきました。

D20_0060.jpg

旧ターミナル前のエプロン。

旅客機は新ターミナルに移りましたが、管制塔はこちら側ですし、旧のエリアは完全閉鎖ではないみたいです。

D20_0070.jpg

RWY02エンドにやってきました。

東側に公園が整備されてます。

D20_0072.jpg

青い線が3本引かれてますが、これはある動物の足です。

滑走路面が目線より遥かに高くて、こちらの公園は緩衝地帯の意味合いが強いと思いました。

RWY02エンド周辺あちこちうろついたのですが、

撮影には反対側のRWY20エンドの「ふれあい広場」が適しているようです。

10139423.jpg

これは2年前に撮った新ターミナル入口

D20_0076.jpg

こちらが今回撮った写真。

D20_0077.jpg

D20_0075.jpg

ターミナルに入るとすごく目に付く建物。

この周辺は「花巻流通団地」の広大な区画がありました。

まだまだガラガラでしたけど。

D20_0078.jpg

花巻空港旧ターミナルは国道4号のすぐ隣にあったわけですが、国道とターミナルがあまりに近すぎて、

ターミナル前に一般駐車場スペースを確保できず、

ターミナル南側の駐車場までゾロゾロ歩いて移動しなければなりませんでした。

雪や風の強い日は大変だったと思います。

新ターミナルは国道から滑走路の向こう側に渡らねばならないのですが、

ターミナル前に広大な無料駐車場を設けることができました。

D20_0079.jpg

ターミナル横から。

横着しないで望遠で撮ればヨカッタ…。

D20_0175.jpg

駐車場からターミナルに向かう横断歩道の先にはアレがありました。

D20_0083.jpg

数奇な運命を辿った零戦のプロペラ

旧ターミナルでは展望デッキに展示されていましたが、

新ターミナルでは一番目立つ場所に設置されてます。

D20_0082.jpg

D20_0084.jpg

ターミナル内部は当たり前ですがキレイで明るかったです。

D20_0085.jpgD20_0086.jpg

D20_0087.jpg

展望デッキに向かう階段の踊場にはこんなものが飾られてました。

D20_0172.jpgD20_0174.jpg

知らず知らずのうちにJAL好きになってしまうようにアチコチにサブリミナル効果を狙った装置が巧妙に配置されてました。

D20_0173.jpg

展望デッキ無料!

と、ココまでは非常に良かったのですが…

D20_0090.jpg

非常に高いフェンスが設置されました。

D20_0091.jpg

一応この穴と、

D20_0092.jpg

アクリル?の板から眺められるようになってます。

D20_0094.jpg

D20_0095.jpg

RWY20側はこんな。

完全にフェンスがかかってしまいます。

(RWY02側は撮りませんでした。すいません)

D20_0098.jpg

旧ターミナルでもあった宮沢賢治の世界が展望デッキに再現されてました。

手前は木製スロープ。

D20_0102.jpg

滑走路をはさんで向かい側に見える旧ターミナル。

こうして見るとなんかとても立派ですね。

旧ターミナル展望デッキから滑走路、ヒコーキを撮ると、背景の山並がとても美しいのですが、

新ターミナルから見る逆側も山が見えますね。

冬季は雪化粧してキレイに見えるんでしょうか。

D20_0105.jpg

D20_0118.jpg

D20_0129.jpg

D20_0132.jpg

9:45

タキシングを始めたJAL機だったのですが、この場所で動かなくなりました。

なぜかと言いますと……

D20_0139.jpg

9:47

着陸機を待っていたのでした。

花巻には平行誘導路がないためこうなるのです。

着陸機が通過後、離陸機は滑走路上に入って左折。エンドまで移動開始。

新ターミナルはRWY02エンドに結構近いです。

そのため、左折した離陸機はすぐにRWY02エンドに到達して向きを変え、離陸の体勢を整えることができるのですが、

着陸機が反対側のRWY20エンドまで行ってターニングパッドで向きを変え、

エプロンまで戻ってくるのをずっと待っていなければなりません。

D20_0154.jpg

9:51

着陸機が戻ってきました。

離陸機がここで一時停止してから既に6分経過してます。

滑走路からどいて、これでやっと離陸機が滑走開始です。

D20_0162.jpg

9:51

D20_0170.jpg

9:52

フェンスやらなにやらでとっても残念な写真になってしまいました(泣)。

「ふれあい広場」からだといい写真が撮れるんでしょうね~(遅)。

D20_0035.jpg

D20_0037.jpg

ということで、現在平行誘導路の工事をしています。

総延長3,455mで、2011年度完成予定だそうです。

誘導路沿いに一般道があります。ここも撮影ポイントになるかしらん。

 

おまけ

岩手.png

部分、2,000m時代のターニングパッドの名残だそうです^^(情報:takkunさん。詳しくはコメント欄をご覧くださいませ。)


(以下2023年5月撮影)

DSC_0358_00001.jpgDSC_0362_00001.jpgDSC_0363_00001.jpgDSC_0372_00001.jpgDSC_0369_00001.jpgDSC_0368_00001.jpgDSC_0366_00001.jpg

アクリル板曇ってきてました(つД⊂;)


       岩手県・花巻空港(いわて花巻空港)      

    ビュー:☆☆☆★★  
広々とした展望デッキ 無料
旧ターミナルで展示されていたエンジン、ローターブレード等はなし

    施設:☆☆☆☆☆  
売店はお土産類、飛行機関係品、特産品(牛タンなど)が充実している。空港限定スイーツあり
レストラン、軽食あり
ターミナル前に1,150台分の無料駐車場

    マニア度:☆☆☆★★  
零戦のプロペラ
RWY20「ふれあい広場」

    総合:☆☆☆☆★  
滑走路東側に旅客ターミナルが移動して大きく生まれ変わった
周辺はのんびりとした場所
新ターミナルでも「~イーハトーブの風にのって~」をキャッチコピーにしており、
空港のイメージキャラクター「はなっぴー」など、郷土色を出しながら愛される空港作りをしていることが感じられる
空港名を伏せると、一体ドコの空港が分からなくなってしまいそうな空港も多いが、ここは「岩手県に来たなぁ」と実感させてくれる

花巻空港 データ
設置管理者:岩手県
3レター:HNA
4レター:RJSI
空港種別:地方管理空港
運用時間:8:00~19:30
所在地:岩手県花巻市葛地内
標 点:N39°25′43″E141°08′07″
標 高:89.7m
面 積:170ha
滑走路:2,500m×45m
磁方位:02/20
航空管制周波数
・飛行場アドバイザリー
  花巻レディオ 118.20 126.20
・航空路管制
 東京コントロール(東北セクター)118.90 135.90

沿革
1964年04月 供用開始(滑走路1,200m)
1983年03月 滑走路延長2,000m
1988年03月 東北新幹線開業
1997年03月 秋田新幹線開業
2005年03月 滑走路延長2,500m
2009年04月 新ターミナルオープン

関連サイト:
岩手花巻空港ターミナルビル株式会社    
国土交通省東京航空局/花巻空港   
ブログ内関連記事:
旧ターミナル当時       
新ターミナル建設当時
    

 

D20_0068.jpg

(おまけ)公園のナゾの足の正体は、「みみずく」くんでした。


コメント(25)  トラックバック(0) 
共通テーマ:趣味・カルチャー

六郷(明田地)飛行場跡地 [├空港]

  2009年9月、2018年6月、2019年9月訪問 2023/1更新  


無題5.png
撮影年月日 1948/05/20(昭23)(USA R270 120)  
出典:国土地理院ウェブサイト(地理院データを加工して作成)

秋田県「六郷飛行場」のあった「六郷明天地野(ろくごうみょうてんちの)」 

美郷町民さんから情報頂きました。地元では「明田地(みょうでんじ)飛行場」と呼ばれていたそうです。

地元中学で当飛行場について調査したサイトのリンクを貼って頂きました(リンク切れのため削除しました)。

美郷町民さんありがとうございましたm(_ _)m

 

秋田県仙北郡仙南村出身の飛行家、佐藤章氏が明天地野に降り立ってから26年後の1945年5月、

軍命でこの明天地野に飛行場の造成が始まりました。

佐藤飛行士が離着陸で使用したすぐ東側に位置する1,500mの滑走路で、

整地して野芝を敷いただけの簡単なものでした。

滑走路の予定地にかかり、移転させられた屋敷もありました。

また飛行場跡近くには、「飛行機離着陸の支障」を理由に途中で切られてしまった松が今も残っています。

切られて以来、枝は横に広がるだけなのだそうです。

整地作業には地元だけでなく、仙北郡内から多くの児童生徒が駆り出されました。

動員されたのは4年生以上で、毎日のように作業し、大八車で芝運びをしたこともあったのだそうです。

現在の大曲高校の女生徒たちは、大曲から徒歩で鍬を担いで来て、石を拾い、地ならしの作業をしたのだそうです。

作業中の7月25日、飛行機が数機飛来し旋回するので手を振って迎えたところ、なんとそれは米軍の戦闘機で、

機銃掃射を浴びせてきたため慌てて林の中に隠れて命拾いをするという一幕もあったのだそうです。

多大の労力を費やした飛行場でしたが、結局ここから日本軍機が飛び立つことはありませんでした。

戦後の開拓で滑走路を含む一帯はすべて水田に姿を変えました。

D20_0118.jpg

現在は美しい水田が広がっています。

DSC_0183.jpg

赤マーカー地点。
 
美郷町球場から滑走路方向
 
DSC_0186.jpg

青マーカー地点。
 
美郷町球場前から滑走路方向
 
DSC_0194.jpg

緑マーカー地点。
 
「小西家の松」
 
快く撮影許可して下さいましたm(_ _)m 
 
DSC_0195.jpg
 
DSC_0192.jpg

横枝は戦後払ったもので、飛行場は関係ないのだそうです。
 
DSC_0193.jpg

「根が出てるけど生き続けている」と仰ってました。
 
DSC_0197.jpg

中央二本のうち、右側が切られた松
 
DSC_0190.jpg

「飛行場建設の時、上が切られた杉もあるんですよ」とお宅の裏手に案内して頂きました。 
 
DSC_0196.jpg

外から見るとこんな感じ。
 
DSC_0018.jpg
 
黄色マーカー地点。
 
滑走路北東部分にある案内板。
 
六郷飛行場跡(全文) 六郷飛行場は、太平洋戦争末期に陸軍が整備を進めていた秘匿飛行場の一つである。この飛行場が造成されたのは、本県出身の飛行家・佐藤章(美郷町金沢西根出身)が訪問飛行を行った明田地の原野東側であり、この地名から「明田地飛行場」とも呼ばれている。詳しくは、裏面に説明文を掲載しております。
 
 
DSC_0019.jpg
 
六郷飛行場跡(全文) 六郷飛行場は、太平洋戦争末期に陸軍が整備を進めていた秘匿飛行場の一つである。昭和二十年(一九四五)五月十四日、能代飛行場に本部を置く第七十四飛行場大隊の大隊長らが六郷町役場を訪れ、明田地の原野をそのまま利用し、特攻用の秘匿飛行場を児童の手で整備してもらえないかと、六郷国民学校に打診したのが始まりである。これを受けて六郷を含む近隣の児童二千名以上をはじめとして、(旧制)中学校、高等女学校の生徒、近隣町村の成人までを動員して、幅約二百メートル、長さ約千五百メートルの飛行場の整備が八月十四日終戦前日まで続いた。 作業が進んでいた七月十五日の出来事として、米軍の艦載機八機に飛行場を発見され、突如として機銃掃射を受けて避難したという話が伝わっている。その後も終戦前日まで作業は続けられたが、結局飛行場は使用されないまま終戦を迎えることとなった。現在は、開拓農家が入植し水田へと変わり、山裾を削った燃料貯蔵庫跡と、離発着の妨げになるという理由で幹の上部を切断された小西家の松が残っている。

7月15日六郷飛行場機銃掃射による銃弾(美郷町歴史民俗資料館所蔵)

六郷飛行場燃料貯蔵庫跡 六郷飛行場から約一キロメートル離れた山裾に三か所の壕を掘り、その上を厚い板で覆って土を被せ、飛行機の燃料を格納することになっていたという。飛行場と結ぶ道路も同時に整備された。

後三年空襲被害状況 昭和二十年(一九四五)八月十日早朝、後三年駅で下り一番列車が戦闘機に襲われ、死者四名、重傷五名、軽傷二名が出た。一両目には兵隊、二・三両目には一般客と学生が乗っていたといわれる。引用・参考文献「六郷小学校百年の歩み」「旧陸軍六郷飛行場関係史料調査報告書」

 
DSC_0020.jpg
 
案内板の所から見た滑走路方向はこんな感じ。
 

    秋田県・六郷(明田地)飛行場跡地   

六郷(明田地)飛行場 データ
設置管理者:旧陸軍
種 別:陸上飛行場
所在地:秋田県仙北郡美郷町六郷明天地野
座 標:N39°24′14″E140°34′46″
滑走路:1,500mx200m
方 位:02/20
(座標、方位はグーグルアースから)

沿革
1945年05月 14日 飛行第隊長より六郷役場に飛行場建設打診。その後周辺地域住民の協力で造成始まる
    06月 下旬 ほぼ完成
    07月 15日 艦載機による機銃掃射
    08月 14日 飛行場の整備続く。15日終戦
       戦後進駐軍機飛来。 その後は開拓地に

関連サイト: 
美郷町/六郷飛行場跡  
六郷飛行場 六郷に飛行場を造ることになったいきさつ等記されています
ブログ内関連記事    

この記事の資料:
六郷町史
秋田魁新報
現地の案内板


コメント(21)  トラックバック(0) 
共通テーマ:趣味・カルチャー

升形(最上)滑空場、升形飛行場跡地 [├空港]

  2009年9月、2012年9月訪問 2023/1更新  


無題2.png
撮影年月日 1947/11/11(昭22)(USA M638 167)  

出典:国土地理院ウェブサイト(地理院データを加工して作成)

「近代戦は最終的には航空機による戦闘が勝敗の帰趨を決する」との認識から

滑空訓練の重要性が重視されるようになり、

昭和17年ここ新庄に滑空場を設置しようという試みが具体化しました。

滑空場候補地は当初、東山地内で、同年7月に大日本飛行協会が実地調査を行いました。

そして当地に東北一の滑空場建設を目指したのですが、

用地内に広い水田、畑が含まれており、「食糧増産を急務とする時局に合致しない」ということで実現しませんでした。

 

滑空場設置と平行して滑空指導者の人材育成も行っており、

操縦課・製造課の科目については、滋賀県と大阪府に代表者を派遣して受講させています。

また同じく昭和17年、新庄の中学校では滑空訓練が正科となり、

新荘中学校での盛んな滑空訓練はしばしば紙上で報道されたのでした。

 

そして翌昭和18年5月、次なる滑空場候補地である最上郡八向村升形地内に大日本飛行協会の現地調査が入りました。

同地は30万坪の痩地のため当時は荒地となっており、滑空場用地として好条件であるとされました。

こうして升形が滑空場用地と決定し、建設計画が動き出したのでした。

昭和18年7月11日 起工式

郡内中学校、青年学校生徒15,000名の勤労奉仕と地元八向村森林組合総動員の応援を見込み、着工しました。

30万坪のうち、10万坪の整地と格納庫、宿舎を8月末までに竣工、9月初旬開場の予定で作業が進められました。

昭和18年9月20日 滑空大会と開所式を兼ねた式典が山形県知事代理臨席の下盛大に挙行されました。

第一期工事として郡内の学徒延べ3万人、地元升形集落民150余名の勤労奉仕作業によって完成したのでした。

用地が決定してからは人海戦術による突貫工事で一気に出来上がったのですね。

当時の様子が地元紙で報じられているのですが、

面積、経費、棟数、収容人数については機密として伏字になっています。

また、この完成を以て工事は終了というわけではなく、開所式後も拡張工事が継続されました。

「新庄北高等学校百年史」によりますと、同校生徒の昭和18年から20年までの勤労動員について記載があり、

升形滑空場や真室川飛行場等々多くの動員先が挙げられています。

■防衛研究所収蔵資料「海軍航空基地現状表 内地之部 舞鶴鎮守府航空基地現状表」
の中で、当飛行場について一部次のように記載がありました。

基地名:升形 建設ノ年:1945 飛行場 長x幅 米:600x30方向NW 主要機隊数:小型 主任務:退避 

 

ところで。

パイロット養成が非常に重要というのは理解できるとして、

そのために「グライダー訓練」に力を入れるというのがイマイチピンとこなかったのですが、

市史の中にこんな一節がありました。

「滑空場建設の目的は優秀な飛行機搭乗員の養成にあった。軍と大日本飛行協会が一体になって、搭乗員になるための基礎訓練を行い、陸軍特別幹部候補生または海軍予科練習生に進ませることであった。そのため19年度は約千人を目標に、米沢八幡原、新庄升形、酒田の三訓練所で滑空猛訓練と航空兵志願者に必須な学科の学習が、朝五時起床の厳しい日課の中で行われた。」

現代の純粋なグライダー訓練とは異なり、

最初から軍用機の搭乗員たる軍人育成を目的とした実技と学科だったわけですね。

 

新庄市の市史で升形滑空場は「最上滑空場」とも表記されており、

開所式後も学徒団体の勤労作業で拡張工事を継続しています。

昭和20年6月26日の山形新聞に、第2回戦時青少年滑空訓練生の入所式は24日午後2時から行われたこと、

今回の入所の130名は向こう1ヵ月間訓練を受けることになることなど書かれていました。

終戦ギリギリまでこのようなことが行われていたのですね。。。

 

また、新庄市史第五巻の中で8月10日の空襲について触れ、

升形滑空場は神町飛行場(現在の山形空港)に属する飛行兵の訓練場とされ数機の航空機もあったので、

特に激しい攻撃目標とされたこと、

真室川飛行場、升形滑空場にもこれを迎え撃つ高射砲も航空機もなかったこと、

両飛行場には複葉の練習機(いわゆる赤とんぼ)があったが飛行は禁止されていたこと等記されていました。

 

またこれと同様ですが、「升形飛行場」で検索すると、

「神町海軍飛行場の補助飛行場として、海軍の升形飛行場(800mx30m)が造られた」という記述が多数出てきます。

市史の内容と合わせ、当初は大日本飛行協会の滑空訓練場として開場したものの、

後に海軍の補助飛行場「升形飛行場」として使用されるようになったようです。

D20_0041.jpg

 

 


     山形県・升形(最上)滑空場、升形飛行場跡地    
当滑空場は、「第六地方防空訓練場」とも呼ばれました

 

升形(最上)滑空場、升形飛行場 データ
種 別:滑空訓練場
所在地:山形県新庄市升形
滑走路:800mx30m(「戦前戦後の飛行場・空港総ざらえ」には600mx30mとあり)
座 標:N38°45′24″E140°14′17″
面 積:99.2ha

沿革
1943年05月 大日本飛行協会による現地調査が行われる
    07月 11日起工式
    09月 20日開場
       後に神町海軍飛行場の補助飛行場となる
1945年08月 8、10日空襲により多大の被害を受ける
       戦後開墾される

この記事の資料:
新庄市史 第5巻 新庄市/編 283-286,294-300p
新庄市史 資料編(下) 新庄市/編 319-321p
かつろく風土記 続 23-25p
山形県史 通史編 第5巻 山形県/編 947-948p
新庄北高等学校百年史 272-282p
山形市史
「21世紀へ伝える航空ストーリー 戦前戦後の飛行場・空港総ざらえ」
防衛研究所収蔵資料「海軍航空基地現状表 内地之部 舞鶴鎮守府航空基地現状表」


コメント(10)  トラックバック(0) 
共通テーマ:趣味・カルチャー

日飛(漆山)飛行場跡地 [├空港]

  2009年9月訪問 2022/12更新  


無題1.png
撮影年月日1947/04/12(USA M201 73)  
出典:国土地理院ウェブサイト(地理院データを加工して作成)

山形県山形市にあった「日飛飛行場」。  

D20_0104.jpg

いきなり刑務所の写真からですが、ここに日飛(にっぴ)飛行場がありました。 

D20_0105.jpg

日飛飛行場から南南西約8キロの所に「日飛(日本飛行機)山形工場」がありました。

現在の末広町、美畑町、鉄砲町1丁目にまたがる約15ヘクタールの敷地で、1942年3月操業。

この工場で、通称「赤とんぼ」と呼ばれた九三式中間練習機、秋水などを製造したのだそうです。

そして日飛飛行場はその名の通り、この「日飛」専用の飛行場なのでした。

アスファルトやコンクリートは使われず、土を平らにしただけだったそうです。

■「航空特攻戦備」第2期 として以下記載がありました(下記リンク参照)。PUTINさんから情報頂きましたm(_ _)m

方面  舞鶴
牧場  漆山
滑走路 三〇〇×一,〇〇〇SN
縣郡村 山形、東村山 出羽村
記事  既設(日□社)

県史によりますと、同工場では赤トンボを月に40機ほど生産していたと記されており、

同工場OBの方の「ピーク時には月産80機だった」という記述も残されています。

大戦時に関して素人同然なのでまったくの受け売りなのですが、

空技廠で開発した九一式を川西航空機が改良したのが九三式で、

その後この九三式は日本の各メーカーで生産されたのですが、そのうち約半数が日飛製なのだそうです。

以下、県史より抜粋:「練習機の生産は、航空ガソリンの不足のためパイロットの訓練が制約されたにも関わらず戦争末期に至るまで続けられたが、これは米軍の本土進攻に対する特攻機として用いるためであった。練習機は比較的生産費が少なくて済み、未熟なパイロットでも十分に操縦が可能である上に、特攻兵器として十分な運動性能と航続力を持っていたからである。山形工場では特に木製飛行機生産のために多くの仏壇及び木工関係者が徴用された」

■防衛研究所収蔵資料「海軍航空基地現状表 内地之部 舞鶴鎮守府航空基地現状表」

基地名:漆山 建設ノ年:1945 飛行場 長x幅 米:1000x30方向S-N 主要機隊数:小型 主任務:退避 其ノ他記事:旧航空機制作会社施設

「漆山飛行場は陸軍の練習用飛行場で、毎日のように赤トンボが危なっかしい飛び方をしていた」

という記述も残っているのですが、少なくとも1945年には海軍の「漆山航空基地」になっていたようです。

 


     山形県・日飛飛行場跡地    
終戦までに全国の県庁所在地の大部分が空襲を受けたのですが、8月14日時点で東北地方で戦災を受けていないのはは秋田と山形のみでした。その秋田も15日未明に空襲を受けたため、山形市民は「次は我々だ」と覚悟していたのですが同日終戦となり、山形市は数少ない非戦災都市となったのだそうです

 

日飛飛行場 データ
設置管理者:日本飛行機→海軍
種 別:陸上飛行場
所在地:山形県山形市あけぼの2丁目他
座 標:N38°18′43″E140°21′34″
滑走路:1,000m×300m(01/19)
補助滑走路:800m
(座標、方位はグーグルアースから)

沿革
1945年08月09日 飛行場空襲を受ける

関連サイト:
「航空特攻戦備」第2期(21コマ) 

この記事の資料:
山形県史
山形市史


コメント(17)  トラックバック(0) 
共通テーマ:趣味・カルチャー

むつみ飛行場 [├空港]

  2009年9月訪問 2022/12更新  

 

D20_0080.jpg

山形県西置賜郡にある「むつみ飛行場」。

最上川むつみ橋下流の河川敷にあります。

しらたかスカイスポーツクラブの活動拠点です。

D20_0102.jpg

手前にB滑走路、そして画面奥の土手?に沿ってA滑走路があります。

D20_0093.jpg

A滑走路 こっち側

D20_0096.jpg

A滑走路 あっち側 

D20_0100.jpg

D20_0095.jpg

D20_0087.jpg

そしてB滑走路のこっち(以下省略)

D20_0098.jpg

D20_0090.jpg

D20_0091.jpg 


 

     山形県・むつみ飛行場    
認定スクールのある本格的なULPクラブ。公式サイトはとても分かりやすくて楽しい雰囲気が伝わってきます

むつみ飛行場 データ
種 別:場外離着陸場
所在地:山形県西置賜郡白鷹町高玉 最上川むつみ橋下流
座 標:N38°09′48″E140°03′44″
滑走路:A:500m(09/27) B:400m(11/29)
(座標はグーグルアースから)

沿革
1989年 クラブ結成

関連サイト:
しらたかスカイスポーツクラブ  


コメント(14)  トラックバック(0) 
共通テーマ:趣味・カルチャー

八幡原飛行場(大日本飛行協会山形県支部第二滑空訓練所)跡地 [├空港]

  2009年9月、2016年7月訪問 2022/12更新  


無題2.png 
撮影年月日 1947/11/13(昭22)(USA M646 164)  
出典:国土地理院ウェブサイト(地理院データを加工して作成)

山形県米沢市にはかつて「八幡原飛行場」がありました。

現在は「八幡原中核工業団地」になっています。

「八幡原1丁目の一角に飛行場の碑がある」とネットにあり、2016年に再びお邪魔したのでした。

DSC_0076.jpg

「八幡原飛行場跡地」碑

八幡原飛行場の由来(全文)
 1930(昭和5)年4月24日、上郷、万世両村で整地奉仕中の八幡原、帝国飛行協会の実地検分の結果、8万坪(26万4,000平方メートル)の飛行場の実現可能の見込みとなり、防空演習(5月4日)に備え延長300メートル、幅150メートルの滑走路設置に着手する。
 1935(昭和10)年5月9日、八幡原が飛行機離着陸場に決定する。(全国764カ所)県内は八幡原と尾花沢の2カ所。帝国飛行協会が一朝有事に備え全国飛行網充実のため選定した。
 同年9月、同飛行場竣工、約26万平方メートル。格納庫敷地120坪(360平方メートル)11月23日開場式を行い、この日安国飛行士操縦のアポロ式が津田沼飛行場から同地に着陸。
 1940(昭和15)年7月1日、八幡原に格納庫を建設、練習機学生号を常置。1941(昭和16)年6月16・17の両日、米沢高等工業、興議館、米工、米商の滑空部合同のグライダー講習を同飛行場で開催。地元の上郷村は1町8反(約3万5,000平方メートル)の敷地を無償提供、ほか約3万平方メートルの敷地を買収する。学徒動員された市内女子学生が羽黒川の石を運んで滑走路づくりに奉仕した。同場に練武廠舎工費5万円で完成。同年8月4日、大日本飛行協会山形県支部第2滑空訓練所に指定され開所式を行った。1942(昭和17)年11月1日、第11回明治神宮国民練成大会(現国体)に米商滑空部が東北代表として滑空訓練の実技を発表、高松宮殿下台臨のもと優等賞を受ける(於石岡)。1943(昭和18)年9月1日から5日間、グライダーの滑空訓練を行う。
 戦後は食糧増産や開拓者が入植するなど飛行場の形態は失われた。1946(昭和21)年、進駐軍により競馬場設置運動起こり、1948(昭和23)年に第1回の公営競馬が行われたが、後に閉鎖となる。1953(昭和28)年11月、1954(昭和29)年4月、1955(昭和30)、1956(昭和31)年4月、米澤新聞社主催のトライベーサー機で観光飛行。1961(昭和36)年4月、1962(昭和37)年5月、1963(昭和)年4月、米澤新聞社主催のセスナ機で観光飛行。
 このころから米澤新聞社の清野幸男氏(現社長)らが置賜に空港建設をと訴え、1970(昭和45)年12月15日、米澤市議会に置賜空港建設(コミューター空港)の請願書を提出され、議会は採択したが、日の目を見ないまま空港建設はとん挫した。行政当局が米沢の将来の展望に関心がなかったのか、観光立国の現在、誠に残念なことだ。空飛ぶ飛行機を見たならば先人の遺徳を偲びその名をとどめる。
平成22年(2010年)9月20日 航空100年記念日(国土交通省)
米澤新聞社社長 清野幸男

米沢市史に当飛行場についての記述がありましたので、要約して以下記させていただきました。 

1933年(昭和8年)12月 上郷村、万世村の両村長と有力者らが一同に会し、

両村にまたがる八幡原に飛行場を建設することについて協議し、「八幡原飛行場設置期成会」を結成しました。

次いで各関係機関への陳情運動を開始。

1934年(昭和9年)4月、飛行場敷地実地調査のため、帝国飛行協会と逓信省の役員が現地を視察しました。

飛行場の敷地は南北約600m、東西約600mの8万3226坪と定められ、

「都市近郊であり地質が砂利層のため排水がよく、飛行場には好適」と折り紙がつけられました。

その後、飛行場建設の認可が下り、昭和10年9月に構築作業開始。

上郷村をはじめ、近隣各村の青年団、消防組合、米沢市内の学生、生徒の労役奉仕で、11月22日に完成。

その翌日、飛行場開きには安岡一等操縦士が東京から飛来し、市の上空で宙返り、横転などの妙技を披露しました。

その後八幡原飛行場では、昭和11年7月14日、軍用機の離着陸テストが実施され、

軍の飛行場としての利用が期待されたのですが、

昭和12年7月の日中戦争勃発で軍用機の利用は過疎となりました。

一方、航空・国防思想の普及と航空兵養成の観点から、グライダー訓練が盛んに奨励され、

市内の中等学校にも滑空部が結成されました。

昭和16年8月、八幡原飛行場は大日本飛行協会山形県支部第二滑空訓練所に指定されて開所式が行われました。

昭和17年5月には、紀元二千六百年事業として計画された八幡原練武廠舎が落成。

本部、講堂、宿舎、衛兵所、倉庫などを擁し、約500名を収容する滑空訓練の殿堂となりました。

以後、在郷軍人や国防婦人会、青少年の心身練成の場として供されました。

昭和20年、飛行場の軍事化のため、近隣の学生を動員して作業が行われています。

戦後の1945年(昭和20年)9月13日には、早くも米沢に米軍の先遣将校が福島からジープで入って来ました。

一行はキャニングストン少佐と下士官、通訳の3名に、案内役の福島県警察職員1名。

キャンプ設営地の視察が目的であり、米沢警察署長が、米工専、米工、米中、松岬国民学校、八幡原飛行場を案内しました。

結果として、松岬国民学校、青年学校(住之江町)、米沢建築工補導所(同)を兵舎とすることになったのでした。

2014/9/12追記:アギラさんから情報頂きました。「航空年鑑昭和15年」大日本飛行協会編(昭和16年発行)「學校グライダー部一覽」(昭和15年10月現在)の中で、米澤高等工業學校滑空研究會が当飛行場を使用していたという記録が残されています。アギラさん情報ありがとうございましたm(_ _)m 

終戦当時小学校3年生であった地元民の方の証言が残されています。

「米沢市郊外に存在した旧軍の飛行場は現在の工業団地附近に存在し、ほぼ正方形のような形であった。昭和19年頃に飛行場の南側を拡張する工事が行われたが、完成する前に終戦となった。その場所は、進駐軍が競馬場として利用していた場所で、その後、米沢市の何人かで競馬場を大きくした。 」

 

飛行場の位置について:

当飛行場の位置については、当地の碑文その他の資料で幾つかヒントとなるものがあり、

最も具体的なものの1つからは、「飛行場だった場所が競馬場になった」と受け取れます。

上に貼った航空写真のリンクで確認していただければ明らかなんですが、この競馬場は南北に長いです。

で、 「飛行場だった場所が競馬場になった」のだとすると、

先頭の航空写真では競馬場トラックの北東に碑が建立したことになり、

碑の位置は、「飛行場の北端付近」となります。

ところが、2014年8月17日付の山形新聞には、「碑はその(飛行場の)南端だった場所に立つ」とあり、

この記事は地元同窓会のサイトにも引用されています(下記リンク参照)。  

一体どちらが正しいのか。。。

当飛行場の形について、地元民の方の証言によれば、「ほぼ正方形のような形であった」とあります。

大きさについては、時代と共に拡張されていったようですが、600mx600m が資料内にある最大値です。

ということで、碑を中心としてそのくらいの正方形の地割はないかと探したのが先頭の航空写真です。

碑の北側にそれらしい地割がありました。

その地割を拾って作図したのが先頭のグーグルマップです。

ただし、ご覧の通りで北西側の地割がハッキリしないのと、これだと、450mx500mで一回り小さいです。

競馬場のトラックは、その北側がほんの一部かすっている程度で、これだと「飛行場跡地を競馬場にした」とは

ちょっと言い難い感じです。

飛行場の正確な位置をご存知の方からの情報お待ちしておりますm(_ _)m

 

D20_0077.jpg

おまけ:

碑の西約1kmにある「米沢ヘリポート」。

八幡原中核工業団地の一角に位置しています。

D20_0072.jpg

D20_0075.jpg

D20_0076.jpg



     山形県・八幡原飛行場跡地    
学生だった当時、八幡原飛行場でグライダー訓練を行ったこと、戦後やって来た米軍が予想に反して陽気で友好的で拍子抜けしたこと等綴った手記が残されていました

八幡原飛行場 データ
種 別:陸上飛行場、滑空練習場
所在地:山形県米沢市八幡原
座 標:N37°54′27″E140°10′23″
面 積:27.5ha
(座標はグーグルアースから)

沿革
1933年12月 八幡原飛行場設置期成会結成
1934年04月 帝国飛行協会と逓信省の役員が飛行場敷地実地調査
1935年09月 飛行場建設開始・同年11月22日 飛行場完成
1941年08月 大日本飛行協会山形県支部第二滑空訓練所に指定

関連サイト: 
空への憧れいつしか 滑空部・八幡原飛行場 楽しかったグライダー訓練  

この記事の資料:
米沢市史


コメント(9)  トラックバック(0) 
共通テーマ:趣味・カルチャー

岩手陸軍飛行場(後藤野飛行場)跡地 [├空港]

  2009年9月訪問 2022/12更新  


無題0.png
撮影年月日1947/11/01(昭22)(USA M621 321)   
出典:国土地理院ウェブサイト(地理院データを加工して作成)

岩手県にあった「岩手陸軍飛行場(後藤野飛行場)」。

ここは飛行場敷地の地割がハッキリせず、なかなか作図できなかったんですが、

サイト:「地域遺産を語り継ぐ会」様(下記リンク参照)の作図を参考にやっと作ることができましたm(_ _)m 

飛行場敷地のかなりの部分は現在、後藤野工業団地になっており、後は畑が広がっています。

敷地西側の地割は現在畑で消えていますね。

「地域遺産を語り継ぐ会」様よりの情報ですが、

上の航空写真の白っぽく見えている部分が滑走路だったそうです。

また、現県道103号線は花巻に至る、そして同192号線は藤根に至る飛行場道路だったそうです。

■防衛研究所収蔵資料「本土における陸軍飛行場要覧 第一復員局(陸空 本土防空7)」
に当飛行場の情報がありました。

飛行場名  岩手
位 置   岩手県和賀郡藤根村
規 模   要図 1500x1500
舗 装   ナシ
付属施設
 収容施設 五〇〇名分
 格納施設 記載無し
摘 要   施設軍有

同資料の要図から、正方形の飛行場敷地の中に設けられた滑走路の作図をすることができました。

■「防衛研究所収蔵資料:陸軍航空基地資料 第1本州、九州 昭19.10 水路部」

岩手陸軍飛行場
岩手県和賀郡藤根村
39°19′6N 141°1′0E

面積 北西-南東1,750米 北東-南西1,750米 
地面の状況 概ね芝地なるも所々に砂利露出す、北西-南東に向け1/80乃至1/100の
下り傾斜を為す 硬度は普通にして排水良好なり
目標 和賀川、横黒線軌道
障碍物 西方約2粁に南北に縦走する奥羽山脈あり
離着陸特殊操縦法 (記載無し)
格納設備 木造格納庫(20x30米)4棟あり
照明設備 (記載無し)
通信設備 横川目郵便局(電信及電話取扱)南西方約4粁
観測設備 水沢測候所(南東方約25粁)あり
給油設備 少量あり
修理設備 なし
宿泊設備 兵舎あり
地方風 全年を通じ南南東風多し
地方特殊の気象 冬季降雪あり、最近の統計に依れば雪日数81.4、霧日数14.9なり
交通関係 横川目駅(横黒線)南西方約5.5粁「バス」の便なし
其の他 (記載無し)
(昭和18年4月調)
 

 

近隣にある「北上平和記念展示館(紫マーカー)」に当飛行場につしての非常に詳しい資料がありました。

以下抜粋して記させて頂きます。

■岩手県陸軍飛行場
 岩手県陸軍飛行場(通称は後藤野飛行場)は、昭和12年9月2日黒沢尻 花巻町をはじめとする隣接2町11ヶ村による後藤野飛行場設置期成同盟会の結成によって建設を促進することとなった。既に数箇所の候補地があげられていたが、後藤野は広さと地形の平坦さとから適地とされ、百万坪の寄附採納をへて昭和12年11月29日後藤野飛行場設置は正式に決定された。
 昭和13年6月6日起工式を挙行。工事は県内各地から一般、婦人会、青年団、中等学校生徒などの勤労動員がなされ、その数は延べ12万851人に及んだ。要した費用は8万9000円。かくして、昭和13年11月6日、わずか148日の工期をもって岩手県陸軍飛行場並びに飛行場道路の竣工式が行われた。
 当初は、教育訓練用として使用され、連日双葉の練習機が飛んだ。昭和16年太平洋戦争が始まると、次第に作戦用飛行場に転換され、ついに特攻隊の訓練地にかわっていった。
 終戦近く、昭和20年5月頃は特攻隊を編成して前線基地に出陣するなど緊迫感につつまれたが、終戦と
なり竣工以来およそ6年10ヶ月で使命を終えた。 

■蜃気楼が見えた「後藤野」
 後藤野は、4キロ先まで見渡す限りの広大な原野で、太い木が育たず森林が形成された形跡もない土地であった。また、「きつねだて」という蜃気楼の現象が1907年(明治40年)頃まで、毎年暮れより1月の始めにかけて見られたそうである。

■「飛翔の地」後藤野
 野ぎつねが駆け巡った後藤野の草原は、過去の歴史から見ても、いくたびの戦いの兵隊や軍馬が行軍する軍事上の要路であり陣営を張った聖地でもあった。八世紀末には、坂上田村麻呂が蝦夷(阿弖流為総大将)討伐のため、この地で大軍の観兵式を行ったと伝えられています。十一世紀中ごろには、後藤野は前九年の役の重要な舞台のひとつともなり、阿部貞任を追って源義家(八幡太朗義家)が後藤野に軍を進めた。それ以来後藤野は八幡原とも呼ばれた。また義家が、前九年の戦いのために荒れ果てた当地方の安泰を願って、京都伏見稲荷神社(千本鳥居がある所)より分祀したのが、現在の後藤野稲荷神社だとも伝えられている。
 十二世紀末になると、平泉に黄金文化を築いた奥州藤原氏の第四代藤原泰衡を討伐するために、源頼朝が鎌倉からこの地に進軍した。泰衡が家来の河田次郎に暗殺され、頼朝はその泰衡の首を確かめるため、紫波のの(原文ママ)陣ヶ丘に28万4千騎の大軍をもって向かう途中、後藤野に一夜の陣営を張ったという。
 また、この地域は全国的にも一揆が多く発生した場所で、1866年(慶応2年)この年、鬼柳、黒沢尻で起こった一揆の衆約一万人が、後藤野の荒野で勢揃いをして紫波神社まで押し寄せ、最終的には三万人もの大一揆となったことなどが、和賀町に伝わる古文書『慶応二寅ノ巻』に詳しく記されている。
 終戦後は、岩手県に民間飛行場(現:花巻空港)の建設が持ち上がり、後藤野の飛行場跡地が有力となるが、開拓者、農民、市民の反対派は後藤野に集結し、トラクターに乗り込み県庁に向かったという。これが、後藤野における最後の一揆(反対)運動である。
 これらの歴史から思うと、この地(後藤野)は『飛翔の地』として位置付けされていたのではないだろうか。 後藤野-最北の特攻出撃基地-加藤昭雄著より参考転記

■後藤野に飛行場を進言した澤藤幸治黒沢尻町長
(経歴等中略) 飛行場の誘致合戦激化 1931年(昭和6年)9月18日、『満州事変』を契機として、大々的に戦争熱・愛国熱が煽られ、飛行機・飛行場の献納運動が全国的にまき起こっていった。その後、陸軍省航空隊拡張計画で東北に一ヵ所の陸軍飛行場建設の意向が示されると、県内各地で飛行場の誘致活動が活発となるのである。そのころには、金ヶ崎(高谷野原)仮飛行場で熊谷飛行学校の飛行訓練等も行われ事実上陸軍省航空本部も金ヶ崎を最適地とみなしていた。そんな中、岩手県はたび重なる凶作や1933年(昭和8年)3月3日の三陸沖大地震による大津波が引き起り、やっと立ち直りを見せた時で飛行場を誘致することは地域経済への効果は多大に影響するとの思いがあり、各地での誘致合戦が激化することとなる。

■後藤野に飛行場を進言する
 1936年(昭和11年)9月26日岩手県盛岡市出身で、陸軍航空界の先駆者といわれる長澤賢治郎陸軍少将(当時熊谷飛行学校校長)がこの日、黒沢尻中学校(現:黒沢尻北高等学校)での講演のため黒沢尻を訪れていた。この時、澤藤幸治黒沢尻町長(当時)が長澤少将に後藤野を視察してくれるよう進言した。「本県には飛行場がないから見ておいても良いが、何せ雪が多くて困る」と当初は乗り気でなかった長澤少将を、昼食前のわずかな時間に無理やり連れだすような形で、その視察は行われたという。10月には、黒沢尻町評議員会で後藤野飛行場建設の意思決定がなされ、その後1937年(昭和12年)黒沢尻、花巻の二町と藤根、江釣子、岩崎、横川目、飯豊、二子、湯田、笹間、太田、湯口、湯本の11ヶ村で「後藤野飛行場設置同盟会」を結成し実現を図った。同年、11月27日 後藤野飛行場の献納が正式に決定され、本格的に工事が始まるのである。

■近年の工業都市基盤を創りだした澤藤幸治
 澤藤幸治氏の経歴を見てみると、戦争末期の時代に大阪で新聞記者を経験した後、澤藤商店・東京では出版社など開業している。当時、親友であった風見章氏(元代議士)との交流もあったことから、戦争関連・軍事産業の詳しい状況が把握できたと思われる。この地域の主な産業基盤は農業が主体で、毎年凶作が続き苦しい生活をおくっていた時代である。そんな中、軍事産業がいかに地域の経済効果を高めるかを澤藤幸治氏は思い描いていたのではないだろうか。事実、飛行場工事に伴う道路工事や飛行場の整地作業などで、多くの労働者が訪れ街は活気づくのである。また、飛行場献納式の時には秩父宮を迎えるなどで、街は大いに沸き立ったていった。(ママ)その後も、軍関係者が管理施設の建設を行うと共に飛行訓練が開始されると、街への経済効果がいっそう表れて来るのである。
 戦局も厳しくなり、都心にあった中島飛行機の工場が空爆を避け、北上近郊の各地に工場が建設される事になった。これにより、下請け工場や工業技術者も増え益々にぎわいを見せるのである。戦後は、こういった技術を生かした中島飛行機黒沢尻工場のちのイワフジ工業などの様に各地に引き継がれ、工業都市としての技術基盤が創られていったのである。

■岩手陸軍(後藤野)飛行場の誘致決定
 期成同盟会は、各関係方面に陳情を行うと、「飛行場敷地30万坪(99㌶)では役に立たぬ、近代空の門戸としての飛行場は少なくとも100万坪(330㌶)を要する」と、陸軍の本音をあからさまに言われるのである。同盟会は、計画を急遽120万坪(396㌶)に変更し、日本一広い後藤野飛行場が1937年(昭和12年)11月27日に正式決定されるのである。(地代は、1坪当り5銭という安値で、泣く泣く印鑑をつかされたという。金ヶ崎で32銭と主張する地主と、20銭を主張する村側で折り合いがつかなかった事を聞けば、あまりにも非情に思うがその時代、言葉にすることが非国であった。

■岩手県は財政難
 この頃の岩手県は、続く大凶作に見舞われ悲惨の極にあった。更に1933年(昭和8年)3月3日の三陸沖大地震は三陸沿岸に
大津波を引き起こし、大きな被害をもたらした。このような中で岩手県は一機の飛行機の献納すら不可能な状況で、飛行場
の建設費は、県費に負担がかからない方法を講究しなければならなかった。ちょうどそのころ、『秩父宮台慮奉戴青年勤労報国団』が県下各学校・地域、職場を単位として、その年の5月に結成され、ねがってもないこの運動に便乗し、抜根、芝払い、整地作業をすべて青少年の勤労奉仕に頼るという計画を立てたのである。また、県民の戦争への意識を高揚する恰好の材料として連日新聞紙上でその模様が報道されたという。
                
■飛行場の起工式が行われる
 1938年(昭和13年)6月6日、後藤野飛行場建設の起工式が行われ、黒沢尻中学校(現:黒沢尻北高等学校)生徒225名が最初の労力奉仕に参加した。伐木、伐根、刈り払いが中心で、高い所の土をリヤカーで低い所へ運び整地するという全く原始的な人海戦術であった。奉仕団の宿舎としては近郷の小学校校舎が割り当てられ、近くの在郷軍人会の者が作業の指揮をとった。労力奉仕には、県下の全中等学校(現:高等学校)が二泊三日でかり出される。1ヶ月間の第1期工事には、県下13校、延べ9,198人が勤労奉仕に参加。第2期工事は整地作業に移り、上記の中等学校(高等学校)に加えて、上記以外の沿岸県北の中等学校(高等学校)・女学校・専門学校・青年勤労報国団・婦人団体・小学校児童教員団・消防団等計305団体が参加した。

■勤労達の日程
 朝は4時に起床し、一汁一菜の朝食をしてから約4㌔道を歩いて飛行楊(ママ)に着き、午前7時に国旗掲揚、宮城揺拝(ママ)をして仕事を始める。50分勤労して10分間は体操し、正午から1時間半休んで5時まで働き、又4㌔の道を歩き宿舎に戻る。入浴もせず小学校の板の間に毛布一枚にくるまって蚊帳もつらず眠っていた。17歳の生徒達には相当な重労働であったろう。

■秩父宮を迎えての飛行場献納式
 1938年(昭和13年)9月25日、秩父宮(昭和天皇の弟宮)を迎えて岩手陸軍飛行場の受納式(献納式)が挙行されることとなり、神事の後献納にいたる経過報告、献納書贈呈、受納書交付があり、陸軍大臣代理岩下新太郎少将より『岩手陸軍飛行場』の命名が宣せられた。岩手県下の、付近町村勤労奉仕団等約十万人が参列したという。

■勤労奉仕による飛行場の完成
 完成全体面積は、120万坪(396ヘクタール)・飛行場:17.5kmx17.5km、管理施設:300mx300m、関東の熊谷飛行場(314ヘクタール)をしのぐもので、抜根、整地作業は建設機械のなかった当時、県下中等学校(現:高等学校)地域青年団、職場を単位として結成された青少年勤労報国団の勤労奉仕によって、すべて人力によって行われた。
 1938年6月6日の起工式から竣工まで総工日数148日、延べ12万851人が勤労奉仕に参加したが、総工費はわずか8万7千円だった。飛行場道路が花巻間21㌔藤根駅間4㌔で用地費3万5千円、工事費が21万円だったことからすると、飛行場整地の工費8万7千円がいかに安あがりだったかが伺える。完成後も飛行場拡張整備のため、勤労奉仕の青年学徒8千人を動員して終戦まで行われた。


■地域は活気に満ちた
 献納式典が終わると、午後からは航空ページェントに移り、陸軍戦闘機3機、偵察機1機の外に中島式AS型旗葉機(ママ)が参加して、後藤野飛行場で高等飛行を公開し、さらにグライダー協会による滑空競技が行われ、集まった観衆は熱狂した。当目(ママ)の藤根駅の乗降客は1万599人に達し、活気に満ちていたという。

■『和賀新聞』勤労奉仕による二重三重の意義を惟い発行
 我等は本飛行場の抜根整地工作が、県下各団体員、学校生徒等の勤労奉仕によって出来上がったことに格別の意義を認めねばならぬ。事変下において団体の勤労奉仕は何処でも奨励され実行されている。現在の事変下のみならず、今後の所謂長期建設下又はそれ以後の恐らく遠い将来ではあろうが平和時代於てさえ、これは多々益々奨励され実行されなければならぬことであろう。けれども何分にもこの勤労奉仕なるものは、率直にいえば足下から鳥が立つように催されたものであった。故に他の場合に徹するに、往々にして或は心構えに周到を欠き或は順序方法を過った例もないではなかった。実際上の目的を持った勤労奉仕は、夫等の点に於て断然その選を異にする。我が後藤野に於げる汗の奉仕に参加したものは千万言の訓言教示を俟たずして、如実に勤労奉仕の精神を体得した筈である。本県飛行場がかくして県下青年諸子の尊き体験によって完成した所りでなく、本県の勤労奉仕がこの飛行場の完成を契機として本物となったと云っても必ずしも不言であるまい。その点からしても、本飛行場の竣功は永久に紀念せられなくてはならぬ。
 本紙は、本日我が郡下藤根村に堂々とその功を竣った陸軍飛行場の受納式が行わるゝに当って、以上の如き二重三重の意義を惟い、こゝにこの記念号を発刊する次第である。」(『和賀新聞』九月二十五日付)


■後藤野飛行場の完成によって練習機が飛び交う
 完成した岩手陸軍飛行場は、陸軍航空整備学校演習部隊本部、熊谷飛行学校岩手分教場となり、教育飛行訓練が行われることになる。しかし、竣工から2~3年間は、冬季は積雪が多く、西風が強いということで使用されなかったようだ。ところが、竣工3年後の1941年(昭和16年)12月8日 ハワイ真珠湾攻撃をし宣戦布告してから状況が変わり、この頃から慌ただしくなりはじめ整備学校演習部隊本部が設置されることになる。

■勝ち戦と思われていた時
 翌年、1月マニラ占領、2月シンガポール陥落と続く緒戦の勝利に国民は熱狂した 「演習部隊本部」設置されると整備学校の学生が多数やってきて、後藤野飛行場は赤トンボと呼ばれる練習機や偵察機が上空を飛ぶ姿が見られる様になり、いよいよ活気が満ちてくるのである。

■戦況が厳しくなり、後藤野飛行場が大きな役割
 真珠湾攻撃からわずか半年後の1942年(昭和17年)6月、ミッドウェー海戦の敗北を境に戦況は一変する。8月にはアメリカ軍がガダルカナル島に上陸し、6ヵ月にわたって2万4千人の戦死者、餓死者を出すという死闘の末1943年(昭和18年)2月 日本軍はガダルカナル島撤退を余儀なくされた。その後も、アッツ島守備隊2千638人が玉砕した。南方、北方の一連の戦況の悪化により、日本軍は航空政策の転換を余儀なくされ、後藤野飛行場はこれまでにも増して大きな役割を果たす時がきたのである。
 南方戦線の敗北により航空操縦者が大量に失われた結果、不足する下級将校を補充するため、学徒出陣が決定され、大学・高専を繰り上げ卒業した特別操縦見習士官及び小学校高等科(現:高等学校)卒業者を対象とする操縦特別幹部候補生(特幹)の若い航空操縦者(後の特攻隊員)を増やしていった。これにより、後藤野飛行場はこの『特操』の教育訓練用飛行場としての機能を活用されていったのである。

旧軍の飛行場の名称は、地元の市や町の名前を付けることが多いのですが、県名を付けるのは結構珍しいです。

どういうことかと不思議に思っていたんですが、「東北に陸軍飛行場を一つ」という構想から始まり、

周辺2町11村の期成同盟が結成され、県のかなり広範囲の勤労奉仕活動によって出来た飛行場。

といういきさつがあったんですね。

県の財政難にもかかわらず、日本一の飛行場を作ってしまった発想も凄いです。

それでは飛行場に行ってみます =(⊃゜Д゜)⊃

D20_0177.jpg

「後藤野工業団地」が見えてきました。

D20_0190.jpg

飛行場敷地の中央付近に公園(グーグルマップ赤マーカー)があります。

D20_0191.jpg

この公園内に、碑、説明板がまとまって設置してありました。

D20_0182.jpg

D20_0183.jpg

裏側には沿革が刻まれてました。

沿革(全文)
  一九三七年(昭和十二年)日中戦争が始まった七月、岩手県下の市町村長会議で愛国機の献納と飛行場設置が決議され、当時の黒沢尻、花巻の二町と藤根、江釣子、岩崎、横川目、飯豊、二子、湯田、笹間、太田、湯口、湯本の十一ヶ村で「後藤野飛行場設置同盟会」を結成し、地権者から僅少価格で用地を買収して、その実現を図った。
  広さ百二十万坪(三九六ヘクタール)は関東の熊谷飛行場(三一四ヘクタール)をしのぐもので、抜根、整地作業は建設機械のなかった当時、県下中等学校(現高等学校)地域青年団、職場を単位として結成された「青少年勤労報国団」の勤労奉仕によって、すべて人力によって行われた。
  翌年九月二五日秩父宮を迎えて献納式が行われ「岩手陸軍飛行場」と命名された。起工式から竣工まで一四八日、延十二万八五一人、総工費僅か八万七千円であった。
  当所は陸軍の教育訓練飛行場として使用され、上空には赤トンボと呼ばれた複葉練習機が飛び交ったが、一九四四年(昭和十九年)本土が空襲を受けるようになって俄かに実戦基地化され、「神鷲隊」という特攻隊が移駐し短期間の訓練の末各地に配属されていった。翌年八月九日 米軍艦載機により空襲を受けて飛行場の施設が破壊され、隣接する民家に投下された爆弾で横川目国民学校四年○○○君(当時十歳)が犠牲となった。同日、特攻隊三機が発進したが〇〇〇〇中尉(二十二歳)〇〇〇〇少尉(二十二歳)〇〇〇伍長(十九歳)は 還らぬ人となった。
  一九四五年(昭和二十年)八月十五日終戦となって飛行場の役目が終った後藤野は、国から払い下げを受け開拓団が入植して農地に生まれ変わり、さらにその一角には工場が誘致され工業団地となって発展した。当時の飛行場の面影を残すものは何もなく忘れ去られようとしている。戦後五十年に当り、この地が飛行場跡であることを後世に伝え、さらなる平和を願い、地区民ならびに篤志者の淨戝と、北上市、花巻市の御援助により記念の碑を建立するものである。
一九九五年(平成七年)十二月二十一日
後藤野飛行場史跡整備委員会

D20_0179.jpg

説明板拡大

碑文にもありますが、「県から軍に献納された飛行場」なんですね。

陸軍が使用しましたので、「愛国飛行場」ということでしょうか。

D20_0180.jpg

説明板の地図拡大

この公園は工業団地の隅っこにあるのですが、

飛行場があった時にはこの公園が中心地だったのですね。

それにしても、こんなに飛行場の資料が充実している跡地は初めてです。

まだそんなに見学してませんけど。

この後地元の図書館に寄ったら休館だったのですが、もういいことにしました。

D20_0188.jpg

秩父宮殿下を迎えて行われた献納式を記念する碑

D20_0198.jpg

公園のすぐ近くにはこんな風景が広がってました。

D20_0199.jpg


   岩手県・岩手陸軍飛行場(後藤野飛行場)跡地   

岩手陸軍飛行場 データ
設置管理者:旧陸軍
種 別:陸上飛行場
所在地:岩手県和賀郡藤根村(現・北上市和賀町後藤)
座 標:39°19′6N 141°1′0E
面 積:396ha
飛行場:1,750mx1,750m
滑走路:1,500mx2(03/21,14/32)
管理施設:300mx300m

沿革
1931年09月 18日、満州事変。 全国で飛行機、飛行場の献納。その後陸軍が東北に一つの飛行場建設意向示す
1933年03月  三陸沖大地震による大津波。地域経済効果から各地での飛行場誘致合戦が激化
1936年09月 熊谷飛行学校校長、後藤野視察
    10月 黒沢尻町評議員会で後藤野飛行場建設の意思決定
1937年07月 2町11ヶ村による後藤野飛行場設置同盟会結成
    11月 27日、後藤野飛行場の献納が正式に決定される
1938年06月 6日 起工式
    09月  25日 秩父宮を迎えての献納式。陸軍航空整備学校演習部隊本部、熊谷飛行学校岩手分教場
1942年    この頃から赤トンボが飛び交うようになる
1943年    特操の教育訓練用飛行場として機能するようになる
1945年02月 熊谷飛行学校は第六練習飛行隊に改編。特攻隊の訓練基地となる
    03月 10日 県内初空襲
    08月 空襲を受ける
戦後は農地、工業団地になる

関連サイト:
地域遺産を語り継ぐ会  

この記事の資料:
現地の碑文、説明版
北上平和記念展示館
防衛研究所収蔵資料:陸軍航空基地資料 第1本州、九州 昭19.10 水路部
防衛研究所収蔵資料「本土における陸軍飛行場要覧 第一復員局(陸空 本土防空7)」


コメント(21)  トラックバック(0) 
共通テーマ:趣味・カルチャー

福島県・梁川場外離着陸場 [├空港]

  2009年9月訪問 2022/12更新  

 

D20_0172.jpg

福島県‎伊達市にある梁川場外離着陸場。

阿武隈フライングクラブの飛行場で、阿武隈川の河川敷にあります。

D20_0177.jpg

ご覧の通り立入禁止で滑走路に立ち入ることはできません。

D20_0181.jpg

向こうに大きな橋が見えますね。

ということで行ってみました。

D20_0192.jpg

「梁川大橋」から見た飛行場


    福島県・梁川場外離着陸場    

梁川場外離着陸場 データ
管理者:阿武隈フライングクラブ
種 別:場外離着陸場
所在地:福島県‎伊達市‎梁川町‎小中島十‎ 阿武隈川右岸河川敷
座 標:N37°52′04″E140°36′24″
標 高:38m
滑走路:200m×25m
方 位:09/27
(座標、標高、方位はグーグルアースから)


コメント(4)  トラックバック(0) 
共通テーマ:趣味・カルチャー

原町飛行場(雲雀ヶ原臨時飛行場)跡地 [├空港]

  2009年9月訪問 2022/12更新  


無題8.png
撮影年月日 1947/09/17(昭22)(USA M486 15)  
出典:国土地理院ウェブサイト(地理院データを加工して作成) 

*見学の際、たくさんの地元の方にご協力いただきました。御礼申し上げます。

福島県南相馬市にあった「原町飛行場」。

■防衛研究所収蔵資料:「陸軍航空基地資料(本州、九州)昭19.10 水路部」に地図があり、

先頭のグーグルマップはそこから作図しました。

敷地境界線西側、南側が自信ないです。

資料内に当飛行場についての情報がありましたので、以下引用させて頂きます。
(「防衛研究所収蔵資料:陸軍航空基地資料 第1 本州、九州 昭19.10 水路部」の中でも、  「原町陸軍飛行場 福島県相馬郡太田村 37°36′5N 140°56′0E」として、以下全く同様の記載がありました)

面積 北東-南西 1,200乃至2,050米 北西-南東1,200米
地面の状況 平坦なるも南西より北東に向け1/100の下り傾斜を為す
硬度は普通にして一面に良好なる芝密生す 排水良好なり
目標 原町、陸前浜街道
障碍物 南東方付近に比高25米の丘陵、西方約4粁に国見山(高さ564米)あり
離着陸特殊操縦法 着陸方向は北東又は北西を可とす
格納設備 木造格納庫(20x30米)4棟あり
照明設備 なし
通信設備 北東方2粁に原町郵便局(電信及電話取扱)あり
観測設備 なし
給油設備 航空用燃料は少量程度補給可能なり
修理設備 なし
宿泊設備 原町に旅館9あり
地方風 11月-翌年3月間は北西風、4-6月間は南東風 7,8月は東風又は南東風、9,10月は東風又は南東風なり
地方特殊の気象 12月-翌年3月間は暴風期なり、7,8月は雷雨多し 冬季は比較的積雪少し
交通関係 原町駅(常磐線)北東方4.2粁 東側に接して原町に通ずる県道あり
其の他 (記載なし)
(昭和18年4月調)

■防衛研究所収蔵資料「本土における陸軍飛行場要覧 第一復員局(陸空 本土防空7)」

飛行場名  原町
位 置   福島県相馬郡太田村
規 模   要図(1500x2000)
舗 装   ナシ
付属施設
 収容施設 八〇〇名分
 格納施設 飛行機庫一棟 掩体 有蓋七棟 無蓋五五ヶ所
摘 要   施設軍有

■防衛研究所収蔵資料「陸空-本土防空-48飛行場記録 内地(千島.樺太.北海道.朝鮮.台湾を含む) 昭19.4.20第1航空軍司令部」

に 1/1000 原ノ町飛行場(昭十八・七・十二) がありました。

位置
 福島縣相馬郡石神村馬場
積量
 二、九〇〇、〇〇〇平方米
地表の状況
 地盤概ね良好にして牧草密生しあり
 傾斜は南北に約1/600にして排水良好なるも北
 西隅地盤稍軟弱なり
周囲の状況
 滑走地区に連なり東方及南方に比高二〇米の小
 山あり西方三五〇米の地点には約五七米の国見
 山あり北側中央には高さ二五米の原紡工場あり
将来拡張の能否
 北方に巾三〇〇米長五〇〇米拡張可能なるも相
 当の工事を要し原紡工場及民家三の移転を
 要す
天候気象の交感
 排水は良好にして豪雨直後の使用に支障なし
 冬季北西北夏季は南東四月下旬―九月上旬
 霧生ず(海霧にして時間的)冬季強風のため気流
 悪く飛行し得ざることあり(一月、十一月)
格納庫
 格納庫七棟(六〇〇〇平方米)あり
居住施設
 約一五〇名収容施設あり
交通連絡の状況
 原町との間砂利道にして自動車の交通自在
其の他
 原ノ町□□□□□□□□□高さ約二〇〇米のコンクリート無線


福島県の旧原町(現在は合併して南相馬市)には有名な相馬野馬追祭場地があります。

その西隣に「原町飛行場」がありました。

原町飛行場のあった場所は、南相馬市原町区大字馬場、大字大木戸を中心に、

北東の神ケ崎、本陣前地区まで広がる一帯なのですが、

これはかつての旧相馬郡大田村から石神村にかけてに相当し、かつては周囲を野馬土手で囲まれた中村藩の放牧地で、

牛越原と呼ばれ、一般には野馬原と称していました。

明治初年、放たれていた野馬は捕らえられ、広大な原野は民間に払い下げられました。

雲雀ヶ原(ひばりがはら)と名付けられた原野は町の権力者に買い取られたところが多く、

他町村からやって来た多くの入植者が借地し、耕作地に変えていったのでした。

 

「野馬原」が入植地として変化を遂げていく一方で、

1919年(大正8年)、原町議会では飛行場の誘致を試みています。

この時の誘致はうまくいかなかったのですが、

1921年(大正10年)、東北県下に設置する陸軍飛行場候補地として当地が注目され、

町役場からは測量図面などの資料が提出されています。

翌1922年(大正11年)3月、陸軍は原町で飛行演習を実施し、大群衆が観戦しました。

これにより一般に航空思想が広まりました。

しかし結局飛行場建設には至らず、誘致運動も次第に沈静化しました。

 

1931年(昭和6年)、誘致運動が再燃することになります。

「陸軍飛行学校において東北地方に適当な飛行演習所を物色中」との情報を聞き、

志賀原町町長が上京して陸軍省に陳情、近隣の村々では、飛行協会を組織するなどして万全を期しました。

同年12月には2度にわたって調査官が候補地を訪れています。

調査結果は良好でした。

翌1932年(昭和7年)に決定した目論見書では、

土地総面積195,766坪1合、国有・民有の原野購入費用他として18,890円を計上しています。

今回は陸軍省から調査官の派遣や、土地整理の内達まであったため、実現するものと思われました。

しかし、その後誘致運動は中断され、飛行場建設計画はとん挫することになります。

 

原町は飛行場誘致に積極的だったのに対し、地元自治体も全面的に賛成だったわけではありませんでした。

1932年(昭和7年)、石神村は飛行場建設を議会で否決。

一方の太田村では1936年(昭和11年)、村議会で飛行場用地の払い下げを可決、

隣接する村で対応が分かれたのです。

1937年(昭和12年)、臨時陸軍飛行演習所開設決定。

原町では町の有力者が所有している陣ヶ崎部分を飛行場用地に提供しました。

32ヘクタールの土地と12,800円を福島県に寄付、見返りに用地内の伐木許可を申請しています。

用地整理は原町が担当し、急ぎ測量、伐木、整地作業が行われました。

用地内には昭和2年に設置された競馬場があり、原町競馬を終えてから競馬場の木柵を撤去して整地にとりかかりました。

同年10月21日議会提出の飛行場聖地収支清算書には、収入として第二師団経理部と寄付金から1,138円46銭、

支出として伐採保障費や整地費、観音碑移転料などで同額が清算されたとしています。

「雲雀ヶ原臨時飛行場」は11月10日に開場したと言われています。 

 

雲雀ヶ原で多くの人が入植したのは大木戸字南東方地内と松島地内という場所で、

石神村の時代になってからも入植者たちは大木戸集落に所属していましたが、

1939年(昭和14年)3月に念願の1つの行政区として独立し、石神村の「第14区」となりました。

いわゆる「自分達の部落」が誕生したのです。

地区の結束は非常に固いものでした。

そして「雲雀ヶ原臨時飛行場」 は、この石神村「第14区」に隣接していたのでした。

この年の9月、航空本部から2人の担当者が飛行場のある当地の検分に訪れ、綿密な調査を行いました。

両氏によればここは飛行場として適しており、

「14年いっぱいは熊谷飛行学校の演習地として使用し、その後は拡張して陸軍飛行場にする」との意向でした。

 

こうした軍の意向を受け、ついに石神村は昭和7年の飛行場建設反対の決定を覆したのでした。

石神村第十四区の住民にとって、昭和14年12月15日は決して忘れることが出来ない日となりました。

この日役場に集められて聞かされたのは、

「軍の飛行場敷地として買収されるので、戦争完遂のため軍の指示に従い、部落を上げて期日までに移転せよ」

という立ち退き命令であり、一同は「ただ唖然とするばかりであった」のだそうです。

しかも、「代替地は各自で探し、期日までに明け渡すように」というまことに勝手な言い分でした。

「御国のため」という言葉の前には誰も逆らえない、そんな時代でした。

 

住民強制移住の申し渡しから11日後の昭和14年12月26日、

石神村議会は「雲雀ヶ原飛行場設置に関する件」を諮りました。

軍への協力を否めない時代になっていたということと共に、

雲雀ヶ原入植地の大半が借地で自作農が少ないという土地柄が、この決定につながりました。

この時の石神議会では同時に、飛行場設置によって転居を余儀なくされる農民の家屋建材用に、

県道椚平原町線の並木の松を特売することを決めています。

注)1932年(昭和14年)4月、陸軍航空総監部計画設計、熊谷組の施工により、飛行場建設に着手。翌年3月、熊谷陸軍飛行学校第二大隊第4中隊が設置され、6月には原町陸軍飛行場が正式に開場する。という資料あり

 

1940年(昭和15年)に入ると1月から用地の買収が始まりました。

飛行場内を貫通している県道の付け替え、共同墓地の移転売却、移転者に対する交付金等、

軍の豊富な予算に後押しされて、飛行場はあっという間に整備されていったのでした。

移転を指示された石神村の範囲は第十四区と馬場、大木戸の一部でした。

移転者の不動産は評価を受けることになります。

家屋は一等級から八等級の間で評価されるのですが、

当時の小作農の民家は粗末なもので、たいがいは最低評価の八等級でした。

防風林、竹林、果樹や桑園、麦畑も評価され、畑地は反別240円、山林120円でした。

この程度の補償額では、移転先の購入価格を勘案するとまったく余裕はなかったのだそうです。

加えて保証金の支払いは分割払いであったため、現金が必要な各家は相当な難儀を強いられました。

 

全部で100戸近い農家の短期間での一斉移転は他にも思わぬ苦労がありました。

職人は同時に建設する飛行場に徴用されたため、家を立てるにも職人の確保が難しかったのです。

釘やセメントなどは資材不足で配給以外に入手する手立てがなく、多くが値上がりしました。

石神村当局でも移転先を斡旋したり、払い下げ木材を提供するなどの支援をしています。

第十四区として積み重ねてきた歴史や地区のまとまりは、こうして突如突き崩されてしまいました。

移転を余儀なくされた人々は、移転先で様々なものを再び一から積み上げていかねばならなかったのです。

こうして入植者たちの念願だった「第十四区」は、発足から僅か1年余で消滅してしまいました。

結束の強かった「第十四区」の人々はやむなく四散する際、春秋の例祭には寄り合って祭りを行うことを約束したのだそうです。

飛行場の開設という華やかな出来事の影で、理不尽な仕打ちにより多大な労苦を被った人たちがいたのでした。

 

1940年(昭和15年)6月、原町飛行場開場。

当初は「熊谷飛行学校分校」として落成開校式を挙げたのですが、

その後、1941年(昭和16年)6月、明野陸軍飛行学校に移管して「明野飛行学校原町分校」となり、教育課第一中隊を設置。

9月には水戸陸軍飛行学校に移管し、第三中隊を設置。

翌1942年(昭和17年)7月、鉾田陸軍飛行学校に移管、第二中隊を設置。

「鉾田飛行学校原町分校」となりました。

このように、初期には短期間での移管が相次いだのですが、主に陸軍士官学校生の教育が行われました。

戦局悪化が顕著となっていた1944年(昭和19年)5月、「鉾田教導飛行師団原町飛行隊」と改称、

実施学校の軍隊化が急速に推し進められました。

同年11月、陸軍特別攻撃隊が編成され、フィリピン島方面に特攻を実施。

翌1945年(昭和20年)3月以降は、終戦まで本土決戦特攻隊の錬成基地となり、

幾隊もの特攻隊が編成され、地元民の盛大な見送りの中、出撃基地へ前進していきました。

原町飛行場にて編成(仮編含む)された特攻隊は、

フィリピン島方面の作戦においては、八紘部隊大五隊の「鉄心隊」・同第八隊の「勤皇隊」・同十一隊の「皇魂隊」があります。

後の沖縄方面の作戦においては、第四五振武隊の「神州隊」・第六四振武隊の「国華隊」があります。

原町校出身の航空兵が所属した特攻隊は、他にも万朶隊・進襲隊、皇華隊などがあり、

これら以外にも花街飛行場関係の戦没者は数多くいます。

 

飛行場は1945年(昭和20年)2月16日と8月9、10日に艦載機による空襲を受け、

掩体内の航空機や対空陣地に被害が出るとともに、

紡績工場や機関区なども攻撃対象となって原町中心部にまで戦禍が広がったのでした。

8月15日 終戦。原町陸軍飛行場は役目を終えました。


飛行場は戦後接収され、10月20日福島県が飛行場用地全てを引継ぎ、

11月20日に正式に原町町長から福島県に引き継がれました。

雲雀ヶ原は再び農耕地として開放され、かつての住民や外地からの引揚者などにより、開墾地として活用されることになりました。

灌漑用水の確保が難しい土地であったために、

深井戸を掘って地下水を利用できるようになる昭和30年代まで収穫は安定せず、

やむなく土地を離れる人も少なくなかったのだそうです。

強風の吹く日は空が真っ黒になるほどの土ぼこりを巻き上げていた雲雀ヶ原も、

半世紀を過ぎると、初期に住み着いた農家の屋敷林に農村のたたずまいが残る程度で、

すっかり近郊住宅地に変貌してしまいました。

D20_0063.jpg

現在の雲雀ヶ原の通り。

飛行場用地と建築物は払い下げられ、学校などの公共施設として使用されました。

現在では陣ヶ崎の公会堂以外、ほとんどが建て替えられてしまいましたが、

今でも飛行場正門の門柱、格納庫の壁や神社など、わずかな遺構に当時を偲ぶことができます。

また陣ヶ崎公園墓地に飛行場慰霊碑があり、地元空襲による犠牲者、飛行場関係、特攻殉職者の名が刻まれています。

ということで遺構を見て回りました。

D20_0066.jpg

陣ヶ崎二公会堂

飛行場の食堂を移築したものだそうです。

資料によりますと、当時食堂は正門から少し西側に離れた場所にあったようです。

公会堂を探し回っていて発見した時、素人目にはとても戦時中の建物には見えなかったため、

後からもう一度戻ってきて撮ったのでした。

D20_0209.jpg

飛行場格納庫の礎石。かなり大きいです。

D20_0204.jpg

道路沿いに同じ形のものが並んでいて、

D20_0206.jpg

向こう側にも同じものが並んでいました。

D20_0202.jpg

飛行場正門跡。敷地外から。

D20_0199.jpg

D20_0195.jpg

飛行場敷地内から。

D20_0039.jpg

石碑

D20_0041.jpg

「墾心楽土」 碑文(全文) この地区は 藩政時代は野馬の放牧地であったが 明治維新に官地編入となり 其の後部落有志に払い下げられた処である 昭和十五年 原町飛行場が新設され 強制移転となった農家が この地に転住し林野を開畑したが戦事下の食糧難や物資不足の時代の開墾には並々ならぬ困難を極めたのであった 漸く開畑を見たが幾多の被害に適作物も数少なく悩まされ続けたのであるが 昭和三十五年頃より水稲が作付され 飯米の確保が出来安心を得たのである 然かし地下水の過剰揚水が 大瓮地区の地盤沈下の原因と認定され市条令に依り地下水の採取規制となり 又々障壁に当面したのである この解決には 圃場整備事業以外になしと地区組合員一丸となり昭和六十年より事業に着工を見ようやくこの処に完成を見たのである これに依り区画は整備されコストの軽減と横川ダム用水で水源の問題も解決を見たのである 此の重大なる工事完成を実現した喜びとその履歴を永遠に後世に伝える為 此処に記念碑を建立するものである 平成三年三月 古小髙 宏翁撰

基地からこんな近い場所も移転先になったのですね。


     福島県・原町飛行場跡地     

原町飛行場 データ
設置管理者:陸軍飛行場
種 別:陸上飛行場
所在地:福島県相馬郡太田村(現・南相馬市原町区上太田陣ケ崎)
座 標:37°36′5N 140°56′0E
敷 地:2,500mx1,400m
標 高:51m
面 積:220ha
(敷地、標高、面積はグーグルアースから)

沿革
かつては中村藩の放牧地だった
明治初年    広大な原野が民間に払い下げられる
1919年    原町議会、飛行場誘致を試みる
1921年    東北県下に設置する陸軍飛行場候補地として注目され、町役場から測量図面等資料提出
1922年03月 陸軍、飛行演習を実施
1931年12月 町長による上京誘致活動の末調査官が雲雀ヶ原調査
1932年    石神村、飛行場建設を議会で否決
1936年11月 この頃雲雀ヶ原臨時飛行場開場
1940年01月 用地の買収
        原町飛行場熊谷飛行学校分校開校
1942年07月 鉾田飛行学校に移管
1944年05月 鉾田教導飛行師団原町飛行場に改称
    11月 陸軍特別攻撃隊編成
1945年02月 飛行場、原町紡績工場に空襲(県内初空襲)
     03月 終戦まで本土決戦特攻隊の錬成基地となる
         戦後、飛行場跡地は引揚者などにより再び農耕地に

この記事の資料:
原町市史
南相馬市博物館
現地の碑文
いわき地方史研究 第45号
陸軍航空基地資料(本州、九州)昭19.10 水路部」
防衛研究所収蔵資料:陸軍航空基地資料 第1 本州、九州 昭19.10 水路部
防衛研究所収蔵資料「本土における陸軍飛行場要覧 第一復員局(陸空 本土防空7)」
防衛研究所収蔵資料「陸空-本土防空-48飛行場記録 内地(千島.樺太.北海道.朝鮮.台湾を含む) 昭19.4.20第1航空軍司令部」


コメント(21)  トラックバック(0) 
共通テーマ:趣味・カルチャー

第二郡山航空基地(金谷飛行場)跡地 [├空港]

  2009年9月訪問 2022/12更新  


無題8.png
撮影年月日 1947/10/29(昭22)(USA R413 25)  
出典:国土地理院ウェブサイト(地理院データを加工して作成)  

昭和17年、福島県郡山市郡山駅の南、阿武隈川右岸沿いに、

「第一郡山航空基地」、「第二郡山航空基地」が設置されました。

■防衛研究所収蔵資料:5航空関係-航空基地-77 終戦時に於ける海軍飛行場一覧表 昭35.6.29調 には、

「二郡山開隊(S19.3.15)(昭19建)」とありました。

現在の国道49号線を境に南側に第一航空基地(整備教育)の兵舎が林立し、

北側に第二航空基地(練習訓練)の広大な飛行場がありました。

この飛行場は地名から「金谷飛行場」とも呼ばれました。

そして第一、第二は隣接しているのですが、ここから西北西約6km離れた場所には「第三郡山航空基地」もありました。

第三航空基地は現在郡山駐屯地になっています。

「第〇郡山航空基地」という名称から、(じゃあ郡山には第一から第三まで3つの飛行場があったのか)

と思ってしまうのですが、第一は整備士の教育施設だったのだそうで、

「航空基地」と言いつつ実際に飛行場があったのは、第二、第三のみでした。

第一航空隊跡地には現在、日大がありますが、

昭和31年の暮、鉄筋コンクリートの建物(現2号館)が完成し、翌32年から使用開始するまでは、

航空隊が使っていた木造の兵舎を使用していたのだそうです。

D20_0020.jpg

写真は第二航空基地跡で、現在は郡山中央工業団地として整備されています。

防衛研究所収蔵資料「海軍航空基地位置図」の中に「第二郡山航空基地」の略図がありました。

いわゆる細長い滑走路ではなく、八角形っぽい形の着陸帯として描かれており、

大きさは、1,100mx1,250m とありました。

当時の航空写真に八角形の地割が残っていれば作図したかったのですが、

1947年の航空写真を見ても、既に開墾が進んでいるようで、それらしい地割は見つからず、

今のところ詳しい地図等も見つからないため、残念ながら作図できておりません。

「第二郡山航空基地」の敷地は、阿武隈川と谷田川で東西から挟まれており、

2つの河の間は1km強しかありません。

このため飛行場敷地として使用可能な場所はおのずと限定されます。

また、国道49号線すぐ北側にエプロン等諸施設(先頭の航空写真で白く映ってる)がありますから、

このエプロンの辺りから北側に、そして両川いっぱいに着陸帯が広がっていたと思われます。

 

郡山市は積極的に飛行場誘致活動をしており、

1939年(昭和14年)には逓信省が市の案内で大島、庚担原(大槻)、

川田(豊田)、早稲原(喜久田)、境伝左衛門(喜久田)、金谷(高瀬)などを視察しました。

また、これとは別に海軍省は海軍航空隊を福島県内に建設するため調査していたのですが、

1941年(昭和16年)7月、福島市よりも郡山市周辺が適地であるとの結論を出していました。

そして1942年(昭和17年)2月、次の通り設置地域を決定しました。

郡山第一海軍航空隊 田村郡守山町徳定
郡山第二海軍航空隊 田村郡高瀬村金屋
郡山第三海軍航空隊 安積郡大槻町北部

一旦決定された後は突貫工事で建設が進められ、

1日20台の自動車、近郊農村の馬車、牛車が徴用され、海軍施設協力会が創設されました。


軍隊が駐留する都市を広義で「軍都」、「軍郷」と呼びますが、

1944年(昭和19年)1月、内務省は「軍都整備事業計画」を表明しました。

これは、国が正式に指定した「軍都」に支援を行う。というものです。

当時の郡山市長はこの軍都加入を強く希望し、運動の結果茨城県土浦市、青森県大湊市を抜いて、

国から正式に「軍都」と指定された11の都市の1つとなりました。

これにより、

安積橋・上亀田線新設(現:西の内線)(3.5万円、長さ:400m)

金山橋・開成山線新設(現:国道49号)(29万円、長さ3,350m)

が完成しました。郡山市の負担は5万円でした。

こうして郡山は軍都としての道を突き進むことになり、

飛行場には付属の海軍施設部、格納庫、中島飛行機整備工場など数十棟が並び、

軍都整備、軍需工場、軍部隊、貯金局などの誘致で郡山は活気のある街に発展しました。

そして当然のことながら、この「軍都郡山」を米軍が見過ごすはずもなく、

戦争末期には「郡山空襲」として知られる大空襲により、多くの犠牲を出したのでした。

防衛研究所収蔵資料:「海軍航空基地現状表(内地の部)」に第一、第二の資料がありました。

位 置基地名最寄り駅よりの方位 距 離  粁建設年
飛行場
長x幅 米
格納庫収容施設
福島県安積郡永盛村第一郡山
東北本線郡山駅
   S3
1944下記共用
小型 50機分
中型 50機分
10,000名
第二郡山
同     同
   S3
同上
1,100x1,000
芝張
小型100機分
2,000名

 

基地名工場倉庫教育施設隊外酒保
送信所
方位測定所
主要機隊数主任務
第一郡山郡山市〇下記共用飛行機整備教育
第二郡山上記共用小型練6.0同上

 

基地名隧道並に地下施設掩 体其の他記事
第一郡山〇一部工事中  
第二郡山居3,000?、燃、通?他工事中 

〇印……施設あるも数量不明


     福島県・第二郡山航空基地(金谷飛行場)跡地    

郡山市史5近代(下)477pに「郡山地方でも金屋海軍飛行場や、大槻海軍飛行場の建設によってつぶされた耕地も多い」と記されていました。また「日東紡績第三工場も、十九年に中島飛行機に接収された工場の一つである。中島飛行機は接収と同時に飛行機部品の製造を開始した。しかし翌二十年の終戦によって日東紡績に返還されたが、二十一年にパラマウント硝子工業株式会社として再出発するのである。また、松葉製糸も同じように飛行機製造会社の接収に遭い松葉飛行機と改名し、その製造を開始するのである。しかし製造の開始が二十年四月であり実際には準備のみで終戦を迎えている」と記されていました

第二郡山航空基地(金谷飛行場) データ
設置管理者:旧海軍
種 別:陸上飛行場
所在地:福島県郡山市田村町
座 標:N37°22′29″E140°23′54″
着陸帯:1,100mx1,250m(1,500mx1,350mとする資料もあり)
(座標はグーグルアースから)

沿革
1942年02月 飛行場建設決定
1944年03月 15日 第二郡山開隊
1945年04月 12日 郡山大空襲
    07月 29日 市内にパンプキン爆弾(模擬原爆)投下される
    08月 9,10(8,9?)日 飛行場空襲

この記事の資料:
郡山市史
郡山の歴史
「海軍航空基地現状表(内地の部)」
「海軍航空基地位置図」
防衛研究所収蔵資料:5航空関係-航空基地-77 終戦時に於ける海軍飛行場一覧表 昭35.6.29調


コメント(14)  トラックバック(0) 
共通テーマ:趣味・カルチャー

磐城(夫沢磐城、長者ヶ原)飛行場跡地 [├空港]

  2009年9月訪問 2022/12更新 


1.png
撮影年月日1947/04/13(昭22)(USA M216 25) 
出典:国土地理院ウェブサイト(地理院データを加工して作成)

福島県にあった旧陸軍の「磐城飛行場」。


「陸軍航空基地資料(本州、九州)昭19.10 水路部」
「陸空-本土防空-48飛行場記録 内地(千島.樺太.北海道.朝鮮.台湾を含む) 昭19.4.20第1航空軍司令部」

の2資料に要図があり、先頭のグーグルマップはこの2つの要図の組み合わせで作図しました。

■防衛研究所収蔵資料「陸空-本土防空-48飛行場記録 内地(千島.樺太.北海道.朝鮮.台湾を含む) 昭19.4.20第1航空軍司令部」

の情報を以下記させて頂きます。

位置
 福島縣双葉郡熊町村
滑走地区
 地積二一二〇、〇〇〇平方米 中型機用
付属設備
 居住施設一〇〇名を収容し得他に講堂自習室
 (約一五〇名)あり□ピスト分教場水量水質右を
 需要す
周囲の状況
 敷地は長者ヶ原と称する高台にして東方
 を除き敷地周囲と一〇米内外の標高差
 を有し東方は太平洋に面し海面と四〇
 米内外の標高差を有す
気象
 最高気温 三四、七度
 最低気温 零下九、三度

 北西界線より北西に直距離二、五粁にて
 常磐線「ながつか」駅に連絡す
其の他
 憲兵福島縣相馬郡原町 原町分
 隊警察富岡警察署

■上記「陸軍航空基地資料(本州、九州)昭19.10 水路部」に飛行場情報が記載されていました。
■「防衛研究所収蔵資料:陸軍航空基地資料 第1 本州、九州 昭19.10 水路部」でも、
「磐城陸軍飛行場 福島県双葉郡熊町村 37°25′0N 141°1′5E」として、以下全く同じ記載がありました)

面積 東西1,250米、北西-南東1,500米 南北1,200米
地面の状況 植芝
目標 常磐線、新山町、陸前浜街道
障碍物 (記載なし)
離着陸特殊操縦法 (記載なし)
格納設備 格納庫(20x35米)6棟
照明設備 (記載なし)
通信設備 (記載なし)
観測設備 なし
給油設備 航空用燃料補給可能
修理設備 なし
宿泊設備 兵舎あり
地方風 (記載なし)
地方特殊の気象 (記載なし)
交通関係 長塚駅(常磐線)北西方約5粁
其の他 (記載なし)
(昭和18年4月調)

■防衛研究所収蔵資料「本土における陸軍飛行場要覧 第一復員局(陸空 本土防空7)」

飛行場名  磐城
位 置   福島県双葉郡熊町村
規 模   東西1300 南北1100~1200
舗 装   ナシ
付属施設
 収容施設 空襲により大破使用不可能
 格納施設 記載無し
摘 要   施設軍有

■「旧陸軍桶川飛行学校を語り継ぐ会 大空への鎮魂第21号」

位置 福島縣双葉郡熊町村
滑走地区 地積二一二〇〇〇〇平方米、中型機用
付属設備 居住施設一〇〇名を収容し得 他に講堂自習室(約一五〇名)あり 一一ピスト分教場 水量水質 右需要す
周囲の状況 敷地は長者ヶ原と称する高台にして 東方を除き敷地周囲と一〇米内外の標高差を有し 
      東方は太平洋に面し海面と四〇米内外の標高差を有す
気象 最高気温 三四・七度
最低気温 零下九・二度
北西界線より北西に直距離に 五粁にて 常磐線「ながつか」駅に連絡す
其の他 憲兵 福島縣相馬郡原町分隊 警察 富岡警察署

この飛行場は情報がほとんどなく、地元の図書館で位置を確かめたところ、

「夫沢海岸台地」という記述があり、調べた住所でたどり着いたのは、

東京電力福島第一原子力発電所なのでした。

D20_0026.jpg

大熊町夫沢周辺

辿り着いたはいいのですが、

「オ、オイラ、飛行場探してるんだな」

なんて言いながら原子力発電所に入ろうものなら、10分後には白黒の車に乗せられてそうです。

という訳で、流れ着いたのは「展望台」でした。

D20_0213.jpg

そして「東電展望台」の駐車場で発見した飛行場の碑

「磐城飛行場跡記念碑」(全文)

この地起伏少なき松山に 農家散在す、昭和15年4月国家の至上命令により突如 陸軍で飛行場建設決定 住民11戸移転直ちに着工す、当時 工法はトロッコにスコップで手積み 人力で押し逐次軌道延長整地す、作業人夫は請負業者と郡内外の青年団 消防団 大日本愛国婦人会 学徒一般民等献身的勤労奉仕で半ば強制作業で工事が進められた この地水源なく志賀秀孝氏の井戸より送水使用す 17年早春 宇都宮飛行学校磐城分校発足 20年2月磐城飛行場特別攻撃教育隊として独立 日夜猛訓練受け第一線配属若者が 御国のため大空に散華す 同年8月9,10日 米軍空母艦載機の大空襲で施設破壊亦各地方の被害甚大なり 20年8月15日終戦となる その後一部農地開拓す 昭和23年日本国土計画で中央部以北塩田化海水揚げ天日式で濃縮 旧長塚駅近くまでパイプで送り製品化す 34年イオン樹脂交換製塩発達のため閉じる 亦塩田以外の地23年旧地主に払下げ25年植林す 37年東京電力株式会社原子力発電所建設備候補地となり39年買収41年本着工現在に至る 思い出大き この地忘れろるを憂い終戦43回忌に当り大戦で亡くなられた人々の御冥福と恒久の平和を祈り兵舎跡地にこの碑を建立す  昭和63年8月15日 磐城飛行場跡記念碑建立有志会

「東電展望台」は飛行場の兵舎跡だったのですね。

D20_0222.jpg

 

D20_0221.jpg

碑の裏側

当飛行場は「宇都宮飛行学校磐城分校」だったのですが、1945年2月に「磐城飛行場特別攻撃教育隊」として独立しました。

「旧陸軍桶川飛行学校を語り継ぐ会」からいただいた機関紙によりますと、

磐城飛行場が特攻訓練基地として独立してから3ヵ月後の1945年5月、

埼玉県桶川飛行場から当飛行場に飛行兵と整備員が特攻訓練のために短期派遣されています。

桶川飛行場はオイラの地元なのですが、思わぬところで磐城飛行場と繋がりがあったのですね。

陸軍つながりということなのでしょうか。

派遣された整備員の方によりますと、夕方から薄暮にかけての夜間飛行訓練で、

しかも洋上で羅針盤を使った飛行訓練だったのだそうです。

桶川からは、この洋上航法を習わせるために派遣されたのではないかと思われるのだそうです。

整備員の方は、午前中は海で海老取り。砂の中にオキアミが残るのでそれをバケツですくい、

一晩おいて翌朝の味噌汁に入れたのだそうです。

訓練が始まる午後から夕方にかけてが整備員の仕事で、飛行機は95式練習機だったのだそうです。

更に、漁船をめがけて特攻の訓練が行われたのだそうです。

D20_0030.jpg

福島第一原発展望台より

なんとなくテレビで見たことあるような…

展望台のあるこの地が兵舎等がある建物敷地で、原発のある辺りが滑走地区だったようです。

D20_0036.jpg

同じく展望台から

この周辺も飛行場だったと思うのですが…


     福島県・磐城飛行場跡地     

磐城(夫沢)飛行場 データ
設置管理者:旧陸軍
種 別:中型機用飛行場
所在地:福島県双葉郡大熊町夫沢
座 標:37°25′0N 141°1′5E
面 積:300ha(滑走路地区:212ha)
滑走帯:1,300m×1,200m全面芝

沿革
1939年06月 夫沢海岸台地約300haが飛行場用地として買収され、民家10戸が移転 
       熊谷飛行隊磐城分校として滑走路等作られる
1941年04月 夫沢磐城飛行場開場 約60機の練習機が置かれ、飛行兵の訓練をする
1942年   宇都宮飛行学校磐城分校として開校
1945年02月 磐城飛行場特別攻撃教育隊として独立。特攻隊の訓練基地となる
    05月 桶川飛行場から飛行兵、整備員の短期派遣   
    08月 09日 この頃、双葉沖200カイリに空母16隻の機動部隊あり
       09日午前8時頃 夫沢の飛行場を艦載機群が攻撃 格納庫、練習機を機銃掃射で破壊 死者1人
       10日午前9:15頃 艦載機の焼夷弾により、全焼44戸、全壊3戸、半壊3戸、死者6人
※2011/8/8 ざんなんさんからの情報により追記致しました。

関連サイト:
ブログ内関連記事
   

この記事の資料:
大熊町史年表
現地の碑文
「旧陸軍桶川飛行学校を語り継ぐ会 大空への鎮魂第21号」
防衛研究所収蔵資料 「陸軍航空基地資料(本州、九州)昭19.10 水路部」
防衛研究所収蔵資料:陸軍航空基地資料 第1 本州、九州 昭19.10 水路部
防衛研究所収蔵資料「本土における陸軍飛行場要覧 第一復員局(陸空 本土防空7)」
防衛研究所収蔵資料「陸空-本土防空-48飛行場記録 内地(千島.樺太.北海道.朝鮮.台湾を含む) 昭19.4.20第1航空軍司令部」


コメント(14)  トラックバック(0) 
共通テーマ:趣味・カルチャー

矢吹(矢吹が原)飛行場跡地 [├空港]

  2009年9月訪問 2022/12更新  


無題6.png
撮影年月日1947/10/29(USA R413 12) 
出典:国土地理院ウェブサイト(地理院データを加工して作成)

福島県西白河郡矢吹町にあった陸軍の「矢吹飛行場」。

■防衛研究所収蔵資料「陸軍航空基地資料(本州、九州)昭19.10 水路部」の中に当飛行場の地図と情報がありました。

資料の地図、1947年の航空写真、グーグルマップを比較して作図したのが上のマップです。

ハッキリしない部分が多々あるのですが、おおよそこんな感じと思います。

「矢吹町文化センター」の辺りに飛行場諸施設がありました。

同資料から当飛行場の情報を以下引用させて頂きます。

■防衛研究所収蔵資料「陸軍航空基地資料 第1 本州、九州 昭19.10 水路部」の中でも、
「矢吹陸軍飛行場 福島県西白河郡矢吹町 37°12′0N 140°20′5E 」として、以下全く同じ記載がありました。

面積 東西1,300米、南北400乃至800米 総面積80萬平方米
地面の状況 中央稍高く周圍に向け1/80乃至1/300の下り傾斜を為し稍波状に起伏せるも地上滑走の支障とならず、硬度は普通
目標 矢吹町、東北本線
障碍物 なし
離着陸特殊操縦法 離着陸方向は東又は西を可とす
格納設備 木造格納庫(20x30米)2棟あり
照明設備 (記載なし)
通信設備 (記載なし)
観測設備 なし
給油設備 航空用燃料は少量補給し得
修理設備 なし
宿泊設備 矢吹町に旅館4(収容員数計40)あり
地方風 全年を通じては北西風多し
地方特殊の気象 最近の統計に據れば快晴日数19.3、降雨日数181.6 曇天日数155、降雪日数75.7、霧日数13.5なり
交通関係 矢吹駅(東北本線)西方約1.5粁
其の他 (記載なし)
(昭和18年4月調)

■防衛研究所収蔵資料「本土における陸軍飛行場要覧 第一復員局(陸空 本土防空7)」

にも当飛行場の情報がありました。

飛行場名  矢吹
位 置   福島県西白河郡矢吹町
規 模   要図(1400)
舗 装   ナシ
付属施設
 収容施設 空襲により使用禁ず
 格納施設 記載無し
摘 要   施設軍有

■防衛研究所収蔵資料「陸空-本土防空-48飛行場記録 内地(千島.樺太.北海道.朝鮮.台湾を含む) 昭19.4.20第1航空軍司令部」

に 矢吹飛行場(昭十八・七・十〇) がありました。

恒風:北西

同資料の情報を以下記させて頂きます。

位置
 福島縣西白河郡矢吹町東方二粁
積量
 六十六万一千四百七十八平方米
地表の状況
 地盤概ね可にして雑草密生しあるも地表概ね大波状を形成
 しあり排水は比較的良好なるも東側中央部に於て雨溜を生ず
周囲の状況
 西側一〇米に一部雑木林あり北側凸起部両側は断崖なり
天候気象の交感
 天候気象状態は良好なり但し現飛行地区に対する恒風は北
 西、西南の風最も多し冬季に於ては吹雪の来襲比較的多し
格納施設
 格納庫二棟を有し中型機以下二四機を格納し得
居住施設
 兵員収容力七〇名
交通連絡の状況
 交通の便は良好にして矢吹町□駅より自動車にて約十分
営外者住宅関係
 住宅難特に甚しく営外独身者は勿論家族携行者に於て
 も旅館生活をなしある状態なり
将来拡張の能否
 北西五万七六〇米南西四万七千三百十平方米の拡張を航
 本に申請中の外拡張可能なるものなし
其の他
 (記載無し)


無題g.png
1/50000「須賀川」昭和8年要修「今昔マップ on the web」より作成。(赤丸=文化センター)

1928年(昭和3年)9月 福島県西白河郡の矢吹が原に1機のヒコーキが降り立ちました。

当時、東京朝日新聞社は航空思想の普及と宣伝のため各地に自社機を飛ばしており、

矢吹町有志の要請に応える形で飛来したものです。

当時の矢吹が原は国営猟区の原野で、町の有志が草刈をして整地し、ヒコーキを迎えました。

機は数回の宙返りの後着陸。

ヒコーキなるものを一目見ようと、なんと5万人もの見物人が押し寄せたのだそうです。

そしてこの飛来が、後にここ矢吹が原に陸軍飛行場ができるきっかけとなりました。



その後、現在の矢吹町役場の北西に仮飛行場が設けられました。

滑走路は未舗装だったため、飛来があるたびに草刈、整地が必要で、

地元から勤労奉仕者が大勢動員されました。

1932年(昭和7年)9月18,19日には愛国福島号が、

また1934年(昭和9年)10月27日には霞ヶ浦から海軍偵察機3機が着陸しました。

 

満州事変後の戦争長期化に伴い、全国で飛行機を献納する運動がおこり、

福島県でも献金を集めて、2機の飛行機を献納しました。

1934年(昭和9年)10月28日(霞ヶ浦から海軍機飛来のあった翌日)には、 

福島県民が献納した海軍機報国福島号、陸軍機愛国福島号など4機が命名式と披露のために着陸しました。

この式は県内各界の各士と数千人の観客を集めた盛大なものであり、

こうして当矢吹が原は飛行場としての実績を重ねていったのでした。

 

報知新聞社が矢吹が原を同社の飛行場として確保、軍にも提供するという企画があり、

同社の飛行場予定地であることを示す看板が立てられていた時期もあったのだそうです。

しかし後に陸軍の飛行場候補地として注目され、

これまでもたびたび陸軍機が飛来して用地・気象など調査されており、

1937年5月23日 陸軍飛行場として正式に開場したのでした。

そして戦争の拡大から多くのパイロットが必要となり、

1940年8月25日に埼玉県熊谷飛行学校の矢吹出張班が置かれ、分教場の開場式が行われました。

飛行場は拡張整備され、格納庫、兵舎が建設されました。

 

1943年、学徒動員令により在学中の学生も動員され、「特別操縦見習士官」として入隊しました。

戦争末期の1945年、特攻隊として特攻基地への移動が始まるようになり、

基地内の飛行機は減り、訓練も思うようにできない状態になりました。

戦局の悪化と共に当飛行場も攻撃対象となり、

5月、7月、8月に空襲を受けました。

特に8月の空襲では部隊本部の建物全焼、兵舎も壊滅、

飛行機はすべて山の中に隠したものの、これで基地の機能は失われてしまいました。

 

当基地に入隊した「特別操縦見習士官」の中に、

終戦直後のプロ野球で大変な人気を博した「青バット」の大下弘がおり、

氏は他の隊員らと共に特攻隊員として鉄路、秋田県の特攻基地に向かう途中で敗戦を知ったのだそうです。

終戦時、当飛行場には陸軍練習機6機、海軍偵察機1機、特別攻撃隊機数機が残っており、

整備兵により火がつけられたのでした。

その後1946年2月 飛行場跡地の開墾が始まり、美田広がる現在の姿へと至ります。

D20_0224.jpg

矢吹町文化センター東側の駐車場に飛行場の碑がありました。

D20_0225.jpg

隣にはこんなものが。

矢吹飛行場記念碑建立の記(全文)
 かつて矢吹ヶ原と呼ばれたこの地は、その名の示すごとく萱が茂り疎林が点在する原野であった。
雉、山鳥等の野鳥が多く生息し宮内省の御猟場として明治大正期の貴顕の来訪が頻繁であったと伝えられている。
 今、眼の前に展開する豊かな田園と街並からは想像すべくもないが、この地に昭和初期福島県で最初の飛行場が建設されたのである、然しその事を知る人は年々少なく間もなく忘れ去られようとしている。
近隣の地に近代的設備を誇る福島空港が開港するこの時に、今まさに歴史の中に埋没せんとしている我々の矢吹飛行場を永遠に記念し、語り継いでゆく事は意義深い事と考えられる。
  昭和初期は航空機に対する内外の関心が高まりつヽあった時代だが、昭和三年九月二十三日、草を刈り簡単な整地をしただけの矢吹ヶ原にはじめて朝日新聞社の飛行機が飛来、
上空で数回の宙返りをした後、低空旋回しながら着陸した。
当時の町民有志の熱烈な要請に応えたものであった。
そのころは飛行機を目の前で見る事はたいへん珍しく近郷近在から弁当持参で大勢の見物人が押しかけたそうである。
その後矢吹ヶ原は飛行場として注目され、町民の勤労奉仕により整備され滑走路が作られた。
昭和七年愛国福島号飛来、次いで昭和九年十月二十七日二十八日とあい次いで海軍機、陸軍機が飛来着陸した等の記録が残っている。
その後は陸軍の飛行場候補地となり、用地や気象の調査が繰り返し行われた。
その頃から国際情勢は次第に緊迫、間もなく日中戦争の勃発から長い戦争の時代へと突入して行ったのである。
矢吹飛行場は昭和十二年五月二十三日正式に陸軍の所属となり、昭和十五年八月二十五日熊谷陸軍飛行学校矢吹分校として操縦要員の養成に当る事となる。
当時の練習機は複葉で色や形の印象から住民からは赤とんぼと呼ばれて親しまれた。
然し戦火は拡大し戦況も深刻となって昭和十八年頃からは専ら特攻隊員の養成が行なわれるようになった。
隊員はじめ軍人軍属が多数来町し、町内の旅館に分宿或は民家に下宿した。
時局柄隊員達を預った家は勿論全町民あげて飛行場に協力し、隊員達を支えた事は現在も当時を知る人達の間で語り草となっている。
やがて、戦局は末期的様相を呈し、訓練を終えた隊員は次々と戦場へ飛び立ち、祖国の未来を信じ勝利を念じつヽ多くの若い命が散っていったのである。
そして飛行場は敗戦直前の米軍の爆?と機銃掃射により破壊された。
 敗戦後廃墟となった飛行場跡地は開拓のため入植した人々の筆舌に尽くし難い困難と努力の結果、今日のような豊かな田園風景へと変貌を遂げたのである。
往時を思えば誠に感無量なものがある。
 最近矢吹航空隊を語る会が元隊員の方々、当時の飛行場関係者、矢吹ふるさと塾の塾生の間で持たれ記念碑建立の運びとなった。
 戦前戦中戦後と激動の昭和を振り返る時、二度とあのような悲劇を繰り返してはならないと痛感し、世界恒久の平和を念じてこの碑を建立する。
 平成五年三月吉日

D20_0232.jpg

D20_0235.jpg


    福島県・矢吹が原飛行場跡地  
熊谷陸軍飛行学校矢吹分校増田分校の校舎は、現在の矢吹町文化センター敷地内にあったのだそうです

矢吹が原飛行場 データ
設置管理者:旧陸軍
種 別:陸上飛行場
所在地:福島県西白河郡矢吹町(現・西白河郡矢吹町一本木)
座 標:37°12′0N 140°20′5E
面 積:80ha(東西1,300m、南北400~800m米) 
標 高:288m
(標高はグーグルアースから、他は防衛研究所収蔵資料から)

沿革
1928年09月 23日 東京朝日新聞社機飛来。その後町役場北西に仮飛行場が設けられる
1932年09月 18,19日 愛国福島号飛来
1934年10月 27日 霞ヶ浦から海軍偵察機3機飛来
        28日 海軍機報国福島号、陸軍機愛国福島号など4機が命名式と披露のため飛来
1937年05月 23日 陸軍飛行場として開場
1940年08月 25日 熊谷陸軍飛行学校矢吹分教場開場
1943年   学徒動員令により在学中の学生が「特別操縦見習士官」として入隊
1945年05月 11日 空襲
    07月 16日 空襲
    08月 9,10日 空襲、基地壊滅
1946年02月 開墾始まる

この記事の資料:
「矢吹町史 通史編」
「矢吹町生活年表」
「目で見る矢吹町史」
現地の碑文
防衛研究所収蔵資料:「陸軍航空基地資料(本州、九州)昭19.10 水路部」
防衛研究所収蔵資料:陸軍航空基地資料 第1 本州、九州 昭19.10 水路部
防衛研究所収蔵資料「本土における陸軍飛行場要覧 第一復員局(陸空 本土防空7)」
防衛研究所収蔵資料「陸空-本土防空-48飛行場記録 内地(千島.樺太.北海道.朝鮮.台湾を含む) 昭19.4.20第1航空軍司令部」


コメント(11)  トラックバック(0) 
共通テーマ:趣味・カルチャー

沼ノ端飛行場跡地 [├空港]

  2009年7月、2016年7月訪問 2022/12更新  


無題4.png
撮影年月日 1944/10/14(昭19)(9122 C3 60) 
出典:国土地理院ウェブサイト(地理院データを加工して作成)

北海道苫小牧市、苫小牧港のすぐ東側にかつて「沼ノ端飛行場」がありました。

■防衛研究所収蔵資料「陸空-本土防空-48飛行場記録 内地(千島.樺太.北海道.朝鮮.台湾を含む) 昭19.4.20第1航空軍司令部」

の中に当飛行場の要図があり、先頭のグーグルマップは、この要図から作図しました。

ご覧の通りで東側に1本だけの滑走路、そして西側に丁の字の滑走路がありますが、要図では、

東側の1本だけの滑走路は、滑走路の呼び方については特に説明がなく、長さのみ「1200x50」とあり、

西側の丁の字の方は、南北方向が「一号滑走路 1500」、東西方向が「二号滑走路 1500」と書き込みがありました。

また恒風は、春西風、 夏東南東風とありました。

要図に含まれている情報を以下引用させて頂きます。

位置
北海道膽振国勇払郡苫小牧町字沼端
飛行場
総面積四六〇、〇〇〇平方米滑走路五〇米×一二〇〇米
土質は火山灰質及噴出せる軽石よりなる約一米層なり
周囲は平坦にして濶葉樹林及荒地なり
一般に□位高く一米乃至一米五〇位なり
気象
南々東及北々西の風卓越し夏季南々東の風稍に
強く春季は西風なり
気象状況の良好なる時期は五、六、九、十月にして夏季
は霧稍多し 冬季は積雪平均六糎なり
交通
室蘭本線沼ノ端駅より南方約三五〇米なり
各機種の離着陸可能なり

要図ではちゃんと3本の滑走路が描かれているのに、情報欄で触れられているのは、東側の1本のみ。

ナゾです。

■新千歳市史通史編上巻919pには、

沼ノ端
一五〇〇x一〇〇 コンクリート舗装
一五〇〇x三〇〇 転圧舗装
一二〇〇x三〇〇 転圧舗装+無蓋掩体壕35
(沼ノ端南・中小企業工業団地一帯)

とありました。

蛇足なのですが、飛行場西側にある日高本線、

室蘭本線と分岐する部分の線形がどう見ても当時と現在とで異なっていて、

どういうことか?? とかなり混乱したのですが、

実は日高本線、苫小牧港建設のため、1962年に線路の移設工事をしてました。

 

個人的には滑走路が残ってて欲しかったのですが、残念ながら既に完全に溶けてるようです。

となると次は当然「掩体壕が残ってないか」ということになるわけです。

実は当飛行場には当時、大小35の掩体壕が造られたのだそうで、

その中の1つが溶けかかった状態で奇跡的に残っている。と記されているサイトがあります(下記リンク参照)。

現場の写真はあるのですが、場所が明記されていません。

ということで、自力で探してみることにしました。

ありそうな場所としては、

1:誘導路跡で、2:緑が残っている場所 なのではないかと考えました。

この2つの条件が重なるのが上の写真の印の場所なのですが…

残念ながら3時間歩いたのですが、会社の敷地内だったり、緑があまりに深くて中に入れず、

発見できませんでした。とほほ。


2016年7月にまたお邪魔しました。以下追記です。

以前tuka@北海道さんから掩体壕の場所をピンポイントで教えて頂いており

(上の1944年の航空写真の赤矢印のものと思われる)、今回見に行ったのですが、深い排水路と濃い緑に阻まれ、

道路から30m先にあるはずなのに、近づくことはおろか、視認することもできませんでした。とほほ。


「目でみる沼ノ端のあゆみ」に当飛行場について記されていました。

以下、関係個所を引用させて頂きました。

陸軍飛行場の建設と勤労動員

 沼ノ端に陸軍飛行場の建設が始まったのは一九四三(昭和一八)年であった。まず、駅前から勇払方面へむかう道路の西側に滑走路の建設が始まった。当時このあたりは、灌木(低木)の林と草原の広がる土地であった。(中略)工事は、樹木を伐り根を起こし地表面を平らにならし、学校のグランド造成と同じように、滑走路に粘土を五センチ程の厚さに敷きならし、ローラで圧力をかけるというものであった。ローラは大勢の人で引いた。苫小牧の中学や工業学校の生徒たちが、勤労奉仕で動員されてきたという。沼ノ端の国民学校高等科の生徒も動員された。滑走路の長さは千数百メートルであった。この飛行場が一九四三年度中に出来上がると、隼戦闘機が訓練のためにやってきた。一時期、多いときには五十数機が、編隊飛行、急降下、急上昇、左右急旋回、きりもみ飛行、木の葉落ち飛行などの訓練を行うのを住民は見ていた。

 さらに一九四三年から翌年にかけて、勇払道路の東側に、約千五百メートルのT字型二本の滑走路をもつ、コンクリート造りの本格的な飛行場の建設が始まった。もちろん、これは後日わかったことで、当時はどの程度のものが建設されるのか、住民には判らなかった。この計画が決定するとともに、一九三五(昭和十)年に、勇払原野開拓の実践例として期待され入植していた人々は、室蘭本線北側の地に移転を余儀なくされた。

 一九四三年の十月から、沼ノ端駅構内設備の増改築が行われた。貨物一番線の延長、貨物二番線の増線、貨物二番線に堅ホーム新設、貨物一番ホーム増設、貨物上屋ならびに保管庫改築など、全て本格的な飛行場建設の資材を運び込むためであった。工事は十一月に竣工しているから、以後建設資材の受け入れが本格化したであろう。

 建設工事のため、苫小牧町だけでなく、近隣町村の一般住民、学校生徒が動員された。一般住民の場合は、町内会あるいは部落会単位で勤労報国隊が結成され、動員されたであろう。学徒の場合は、一九四四(昭和一九)年一月の「緊急学徒動員要綱」によって、一年間ほぼ四ヶ月を標準として継続的に動員を行うこととした。さらに、七月には、学徒勤労動員は国民学校高等科児童以上にまで範囲が及び、一日十時間労働の励行が決められた。八月には、「学徒勤労令」によって、従来引き続き学徒を動員させる期間は二ヶ月以内であったのが一年以内に改められた。このような状況のもとで、各地の住民、生徒、児童が動員されたのである。

 飛行場は、一九四四年中に完成した。沼ノ端には、飛行場建設を管理し、防衛する目的で陸軍の部隊が駐屯していた。兵士はテントか三角兵舎に居住し、将校は沼ノ端市街地の旅館や民家に泊まっていた。多くの人の労力とたくさんの資材が用いられた、この飛行場が完成した後、どのように使われたのか、筆者は知らない。陸軍航空隊が配備されなかったのは確かである。

まず西側の転圧式滑走路が1943年度に完成し、

次いで東側のT字型コンクリート滑走路が1944年に造られた。ということのようですね。

「コンクリート造りの本格的な飛行場」とあるのですが、1944年、1947年の航空写真(USA M589 15)で見ると、

東側T字滑走路のうち、北西~南東方向の滑走路の一部がまるでレントゲン写真のように部分的に白く映っています。

全面的にコンクリートを打設したのではなく、部分的なものだったのかもしれません。

滑走路のあった場所にお邪魔してきました。

DSC_0166.jpg

赤マーカー地点。

西側滑走路南側エンド部分から滑走路方向。

DSC_0169.jpg

緑マーカー地点。

T字滑走路東側エンド付近から滑走路方向。

DSC_0162.jpg

黄色マーカー地点。

T字滑走路南側エンド付近から滑走路方向。


     小牧市・沼ノ端飛行場跡地    
前出の「目でみる沼ノ端のあゆみ」には沼ノ端駅について、飛行場建設にともなう資材の到着があったこと、召集や徴用によって現場を離れる男子鉄道員が続出したため、鉄道省では全国的に女子職員を増やして対応したことが記されていました。このため沼ノ端駅でも、十数人の女子駅員が交代で24時間の勤務に就いていたのだそうです

沼ノ端飛行場 データ
設置管理者:陸軍
種 別:陸上飛行場
所在地:北海道膽振国勇払郡苫小牧町字沼端(現・苫小牧市沼ノ端)
総面積:46ha

・西側の滑走路
座 標:N42°39′46″E141°41′48″
飛行地区:1,330m×320m
滑走路:1,200mx50m
方 位:15/33
標 高:6m
・一号滑走路
座 標:N42°39′35″E141°42′54″
滑走路:1,500m×300m
方 位:15/33
標 高:6m
・二号滑走路
座 標:N42°39′54″E141°42′41″
滑走路:1,500m×300m
方 位:08/26
標 高:5m
(座標、滑走路長さ、方位、標高はグーグルアースから)

沿革
1943年    西側滑走路着工。1943年度中に完成
    10月 沼ノ端駅構内設備の増改築工事開始
    11月 沼ノ端駅構内設備の増改築工事竣工
       この年、西側T字滑走路建設始まる
1944年07月 14日、沼ノ端初空襲。主に飛行場要地に来襲と記録あり
       この年西側T字滑走路完成

関連サイト:
苫小牧民報/「沼ノ端に2つの飛行場」■(リンク切れ)  
苫小牧民報/「苫小牧市内に掩体壕」■(リンク切れ) 
北海道の旧飛行場 
ブログ内関連記事
 

この記事の資料:
新千歳市史通史編上巻
蝦夷古地図 地図で見る苫小牧の歴史
目でみる沼ノ端のあゆみ
防衛研究所収蔵資料「陸空-本土防空-48飛行場記録 内地(千島.樺太.北海道.朝鮮.台湾を含む) 昭19.4.20第1航空軍司令部」


コメント(17)  トラックバック(0) 
共通テーマ:趣味・カルチャー

鯉沼スカイパーク [├空港]

  2009年7月訪問 2022/12更新  

 

D20_0113.jpg

北海道勇払郡にある「鯉沼スカイパーク」。

D20_0105.jpg

北海道スポーツ航空連盟の会長さんにお会いすることができました。

とても気さくな方で、突然の訪問だったにもかかわらずいろいろお話を聞かせていただきました。

とても広々とした滑走路。

大きな空港は気象観測を続けて膨大なデータを取り、慎重に滑走路の向きを決定するので、

その近隣であれば、気象を大きく変える山などなければ同じ滑走路の向きで間違いないのだそうです。

こちらでは、ほど近い新千歳空港と同じ滑走路の向きになっているのだそうです。

D20_0110.jpg

スカイスポーツにも後継者?不足の問題があるのだそうです。

オイラも入会誘われました^^

環境は最高の場所ですので、「やってみようかなぁ」と思った方は、

下に連絡先がありますので、連絡してみてください。

D20_0111.jpg


    勇払郡・鯉沼スカイパーク   

鯉沼スカイパーク データ
所在地:北海道勇払郡厚真町鯉沼
座 標:N42°38′35″E141°52′43″
滑走路:320~330m
方 位:01/19
(座標はグーグルアースから)

ブログ内関連記事  


コメント(14)  トラックバック(0) 
共通テーマ:趣味・カルチャー

十勝西部地区(新得)農道離着陸場 [├空港]

  2009年7月訪問 2022/12更新  


 

D20_0087.jpg

北海道上川郡にある「新得(西部地区)農道離着陸場」。

農道離着陸場は全国8ヵ所に作られました

北海道北見地区農道離着陸場(スカイポートきたみ)
  〃  新得町農道離着陸場
  〃  美唄市農道離着陸場(スカイポート美唄)
  〃  余市農道離着陸場(あっぷるぽーと余市)
福島県福島市農道離着陸場(ふくしまスカイパーク)
岐阜県飛騨農道離着陸場(飛騨エアパーク)
岡山県笠岡地区農道離着陸場(笠岡ふれあい空港)
大分県豊肥地区農道着陸場(大分県央飛行場)

今回の旅行で上の2つ、北見と、当新得にお邪魔して、これで一応全部見たのでした。

お邪魔する前にネットでいろいろ調べてはみるのですが、

他の7つが公式サイトを持っていたりするのと対照的に、

最も情報がないのがこの新得で、非常に気になってました。

ここだけ愛称もついてないし。

で、イザ行ってみたら、「新得」ではなく上の写真の通り「十勝西部地区」になっていて、

「十勝西部地区農道離着陸場」で検索すると、これまでは調べられなかった地元情報がいろいろ引っ掛かりました。

D20_0088.jpg

案の定というか、門が閉じられていてまったく人気がありません。

カメラをぐーっと左に振ると…

D20_0092.jpg

滑走路に出られるようになっています。

D20_0095.jpg

よく見ると、向こう側に抜けられるようになってますね。

看板には「滑走路、エプロンを許可なく使用することを禁じる」と書かれてますが、

横断するだけならいいのかしらん。

タイヤの泥もついてるし。

迷ったのですが、滑走路の方には行きませんでした。

D20_0094.jpg

R/W35側

D20_0093.jpg

R/W17側 

D20_0097.jpg

周辺を回ってみたら、ランウエイエンド付近に出られました。

R/W35側 

D20_0100.jpg

R/W17側  

供用開始からしばらくは、仙台経由で東京や関西方面に地場の農産物を運んでいた(年間約30回)

のですが、1回のフライトにかかるコストは約40万円で、飛べば飛ぶほど赤字の状態だったそうです。

 

この農道離着陸場の運営は第3セクター方式で、町、農協、西洋環境開発(株)、

生産者でつくる西十勝フライト農業公社(株)などの共同体によって推進されることになりました。

事業開始当時は大規模消費圏に空輸しても採算の取れる高付加価値農産物はありませんでした。

それが可能になる農産物を作り出す計画だったのですが、この試みはうまくいきませんでした。

結局他の農道空港の例にもれず、農産物の空輸のみでは採算が取れず、

現在は多目的利用による有効活用の道を模索しているのですが、

地元議会の議事録を拝見すると、飛行場を活用したい側と地元との意識のズレがあり、なかなか難しい状況のようです。


    上川郡・新得(西部地区)農道離着陸場    

新得(西部地区)農道離着陸場 データ
設置管理者:新得町
所在地:北海道上川郡新得町字上佐幌東1線
標 点:N43°04′32″E142°52′37″
座 標:210.3
滑走路:800m×25m
磁方位:17/35
(座標はグーグルアースから)

沿革
1989年    建設計画 総事業費5億1900万円
1990年    着工
1991年08月 滑走路800m×25m完成
     11月 付帯施設完成
1992年07月 完成

関連サイト:
ブログ内関連記事  


コメント(12)  トラックバック(0) 
共通テーマ:趣味・カルチャー

上士幌航空公園滑走路 [├空港]

  2009年7月訪問 2022/12更新  


北海道河東郡にある「上士幌航空公園空港」。 

D20_0078.jpg

D20_0079.jpg

D20_0076.jpg

朝の5時前に到着したのですが、ちょうどドラッグレース開催日でいかにもという車が続々集結中で、

滑走路周辺は既にロープが張られ、立ち入り禁止になってました。残念。

来年もまた北海道は回る予定なのですが、ここは地理的にもう来ません。

「せっかくここまで来たからには」ということで滑走路ににぢり寄って行ったのですが、

ラップを大音響で鳴らしているお兄さんたちからすんごい機嫌悪そうに睨まれて怖かったです><

それでもオイラとしましては、これでも随分勇気を出して頑張って滑走路に近づいた方なのですが… ^^;

(後でよく考えたら、お兄さんたちは単に眠かっただけかもしれません)


      河東郡・上士幌航空公園    
熱気球、ウルトラライトプレーンなどスカイスポーツの基地になっており、年2回熱気球フェスが開催されています

上士幌航空公園空港 データ
設置管理者:上士幌町
運用期間:5月~10月
所在地:北海道河東郡上士幌町字上士幌基線242番地
標 点:N43°14′40″E143°16′39″
標 高:283.4m
滑走路:850m×20m
磁方位:03/21

関連サイト:
上士幌町/上士幌町航空公園 
ブログ内関連記事  


コメント(6)  トラックバック(0) 
共通テーマ:趣味・カルチャー

足寄芽登飛行場 [├空港]

  2009年7月訪問 2022/12更新  


北海道足寄郡にある「足寄芽登飛行場」。  

D20_0063.jpg

手前に左折できる道がありますね。

ここを左折すると…

D20_0062.jpg

こうなります。

周辺はうっそうと生い茂っているのですが、ここだけ突然開けた場所が広がっています。

やっと来ることができました。

とってもミステリアスな飛行場で、出発前から見たくて見たくて非常に楽しみにしていたのです。

飛行場入り口ですが、立ち入り禁止になっていて入れません。

カメラを右側に振ってみると、

D20_0061.jpg

こんな感じ。

土が見えている部分が滑走路でしょうか。

D20_0068.jpg

道路側から撮りました。

滑走路?正面。

D20_0069.jpg

道路沿いに建物がありました。

画面右側のポールの上に付いているのはラジコン機でしょうか。

いいな~(*´∀`*)

 

この飛行場では足寄スカイスポーツクラブがウルトラライトプレーンを飛ばしています。

サイトを拝見すると、雪に覆われた滑走路にULPが写っており、

元旦からフライトしておられるのだそうで、「氷点下30℃もなんのその」と書かれていました。

北海道の小さな飛行場、滑空場は冬季閉鎖が当たり前なのですが、

そんな過酷な条件でも飛ぼうと思えば飛べるものなんですね~(@Д@)

きっと「寒冷地仕様」の特殊なノウハウがいろいろとあるのでしょうね。


     足寄郡・足寄芽登飛行場    

足寄芽登飛行場 データ

設置管理者:足寄スカイスポーツクラブ
運用期間:通年
所在地:北海道足寄郡足寄町芽登
座 標:N43°19′02″E143°25′52″
滑走路:350m
方 位:01/19
(座標、方位はグーグルアースから)

関連サイト:
足寄スカイスポーツクラブ■(リンク切れ)  
ブログ内関連記事 


コメント(21)  トラックバック(0) 
共通テーマ:趣味・カルチャー

北見地区農道離着陸場(スカイポートきたみ) [├空港]

  2009年7月訪問 2022/12更新  


北海道北見市にある「北見地区農道離着陸場(スカイポートきたみ)」。 

D20_0046.jpg

D20_0045.jpg

「ご自由に、お立ち寄りください」 とてもオープンな飛行場ですね。

残念ながら18時過ぎに到着したため、見学できませんでした。

D20_0049.jpg

案内板も周囲の風景も、いかにも北海道という感じでした。

いつかじっくりお邪魔してみたい場所です。


  北見市・北見地区農道離着陸場(スカイポートきたみ)   

冬期閉場期間には、自動車メ-カ-による寒地走行テストなどにも利用されています

北見地区農道離着陸場(スカイポートきたみ) データ
設置管理者:北見市
種 別:場外離着陸場
運用時間:5月上旬~12月下旬 水~日、祝祭日 9:00~17:00
所在地:北海道北見市豊田635番地3
標 点:N43°46′48″E143°43′51″
標 高:185.51m
滑走路:800m×25m
磁方位:10/28
航空管制周波数
・飛行場アドバイザリー
 女満別レディオ 118.85 126.20
 北見フライトサービス 130.75

関連サイト:
エアロスポーツきたみ  
内閣府NPO/エアロスポーツきたみ(定款、事業報告書閲覧可) 
ブログ内関連記事 


コメント(20)  トラックバック(0) 
共通テーマ:趣味・カルチャー

美幌航空公園 [├空港]

  2009年7月訪問 2022/12更新  


北海道網走郡美幌町にある「美幌航空公園」。

美幌町が管理する滑空場で網走川の河川敷にあります。

D20_0044.jpg

D20_0324.jpg

D20_0323.jpg

キレイに整備されてますね~。

D20_0002.jpg

土手の外側には広い駐車場があり、奥には公園も整備されています。

そしてここの大きな特徴の1つは、展示機がズラリとならんでいること。

以下、ズラズラと。

注!! 現在展示機はT33のみです。


D20_0005.jpg

D20_0004.jpg

D20_0006.jpg


D20_0015.jpg

D20_0017.jpg

てきさん

D20_0011.jpg


D20_0019.jpg

D20_0021.jpg

オイラの実家上空をよく飛んでました。

D20_0024.jpg


D20_0026.jpg

D20_0028.jpg

D20_0032.jpg

D20_0035.jpg

Σ(゚Д゚;) パイプイス?


D20_0036.jpg

D20_0039.jpg

D20_0041.jpg

この胴体は…いつ見てもエグイですねぇ。


     網走郡・美幌航空公園    

スカイスポーツの街として、グライダー・ウルトラライトプレーン・ラジコンなど
多様なスカイスポーツ振興のための拠点となっています

美幌航空公園 データ
設置管理者:美幌町
運用時間:8:45~17:15(休日/12/31~1/2 )
所在地:北海道網走郡美幌町昭野地先
標 点:N43°48′55″E144°04′42″
標 高:18.1m
滑走路:600m×20m
磁方位:03/21
航空管制周波数:130.65

関連サイト:
ブログ内関連記事  


コメント(19)  トラックバック(0) 
共通テーマ:趣味・カルチャー

旧女満別空港跡地(旧海軍美幌第二航空基地) [├空港]

  2009年7月、2023年6月訪問 2023/7更新  


無題3.png
測量年1924(31-13-1女満別)  
出典:国土地理院ウェブサイト(地理院データを加工して作成)

現在の女満別空港のすぐ北側に隣接していた「旧女満別空港」。

その歴史は古く、空港のある大空町のサイト内にこんな説明がありました。

昭和10年当時の話です(下記リンク参照)。

元々は、冷害克服のためオホーツク海の流氷や、気象観測が目的で設置されました。
当時の中央気象台は静岡県清水市三保出張所の根岸錦蔵気象観測隊員を派遣し、
女満別村営の競馬場を滑走路に選び、村民総動員の協力により突貫工事で飛行場を完成させました。
こうして、昭和10年(1935年)3月23日に女満別の空に初の流氷観測機が飛び立ったのです。

1935年、村民総出の工事で500mの滑走路が1週間で完成したとあります。

元々は「気象台の観測用飛行場」として建設されたんですね。

その頃の航空写真か地図が見たかったんですが、当地の1945年までの写真/地図については、

1897年測量の地図、そして上に貼った1924年測量の地図、1944年測量の地図が全てでした。

ということで、先頭の地図は1924年のもので、女満別村集落のすぐ南側に南北方向に伸びる細長い地割があります。

恐らくこれが競馬場で、ここを滑走路にしたのではないかと。



■防衛研究所収蔵資料:航空路資料 第11 北海道地方飛行場及不時着陸場 昭和16年3月刊行 水路部

にあった「要図」から作図しました。

かなりアバウトな地図でいろいろ矛盾が生じており、無理やり作図したおおまかなものですのでご了承くださいませ。

沿革にもまとめましたが、1935年に競馬場を500m滑走路にした後、翌1936年に650mに延長し、

1943年には海軍美幌第二航空基地建設が始まっています。

防衛研究所の「要図」は1940年頃のものなので、

1936年に滑走路を650mに延長して気象観測用飛行場として運用中のものであり、

海軍航空基地として工事が始まる前の時期ということになります。

「要図」にはいろいろ書き込みがありました。

上のグーグルマップの赤マーカーの位置に「中央気象台格納庫」があり、

緑マーカーの辺りは「凸凹アリ」、青マーカーの位置は「種馬所」と記載されていました。

競馬場はなくなりましたが、馬の関連施設が飛行場敷地内にあったんですね。

上記水路部資料から以下引用させて頂きます。

女満別飛行場(昭和15年8月調)
網走郡女満別村(女満別駅の南方約600米)

所管 女満別村役場
着陸場の状況
高さ 平均水面上約17米。
広さ及形状 本飛行場は長さ南北817米、幅東西約403米の短形地区より
北西方道路以西の三角形地区を缺除したる区域(総面積28.6萬平方米)なり
・着陸可能区域は概ね図示の長さ約650米、幅約200米の転圧地区なり(付図
参照)。
地表の土質 火山灰質腐植土。
地面の状況 本場付近一帯は芝雑草密生し格納庫前面付近は凹地を成す・
着陸可能区域は平坦にして起伏なきも南方に向い緩除なる下り傾斜あり・地質
は火山灰地質なるも数年来の耕作により表面は腐蝕土と化す・着陸区域は5頓
「ローラー」を以て転圧しあり89式艦上攻撃機、90式2号偵察機の着陸に対
し硬度十分なり・芝地なるを以て降雨続きの際も地下に滲透し表土泥濘となる
ことなし・炎天続く時も亀裂及凸凹を生ずることなし・雪及霜融の際は地表軟
弱と為り易し。
場内の障碍物 着陸地域内にはなし。
適当なる離着陸方向 南北。
離着陸上注意すべき点 南方約300米に樹林(高さ約10米)及東方に高
さ約7米の電灯線あり離着陸の際注意を要す。
施設 格納庫1(高さ約10米、間口約18米、奥行約13米)(中央気象台
所属)(収容機1)。

DSC_0922_00001.jpg

紫マーカー地点。

女満別中央病院敷地北側にこんな碑があります。

流氷観測飛行記念碑(全文)
 東北・北海道の冷害、凶作の原因解明に昭和十年(一九三五)
三月、女満別村の競馬場跡地を、関口鯉吉調査技師と根岸綿蔵航
空士指導のもと村民(一,三〇〇人)総出で、幅五十米、長さ三
百米の滑走路を一週間の突貫工事で完成させ、同月二十三日、根
岸綿蔵観測隊長の操縦する十式艦上偵察改良機が村民大歓声の中、
オホーツク海の「流氷観測」に離陸したのだった。
 流氷観測は昭和十九年(一九四四)五月まで実施され、大きな
成果を残した。
この地が、根岸隊長と多くの若き流氷観測
隊員、三浦謙之助、大沢 巌、堀 三郎、
菊池 弘氏等が命を賭けて取り組んだ地で
あり、女満別空港発祥の地であることを永
く伝えるものである。

(裏面)
女満別空港略史
昭和10年(1935) 冷害、凶作原因解明のため、女満別競馬場跡地に3月開港
昭和17年(1942) 海軍航空隊美幌航空隊第二飛行基地を誘致、工事開始
昭和18年(1943) 同上第二飛行基地となる
昭和20年(1945) 戦後、同上第二飛行基地を米軍が接収し、一部滑走路を爆破
昭和38年(1963) 第三種空港として供用開始(滑走路1,200m)
昭和52年(1977) YS-11「あわじ号」が胴体着陸
昭和60年(1985) 新女満別空港供用開始(滑走路2,000m ジェット化)
        皇太子ご夫婦(現天皇皇后両陛下)が女満別空港に降り立つ
平成 6年(1994) 空港施設変更工事(滑走路2,500m延長)認可
平成18年(2006) 3月、旅客ビル第Ⅲ期増築工事完了グランドオープン
平成22年(2010) 空港ビル25周年、流氷観測初飛行から75年記念誌発刊
平成27年(2015) 流氷観測初飛行から80年

大空町10年記念 平成27年 大空町建立

碑が建立された場所は、当時の飛行場敷地北端に当たり、すぐ北側に中央気象台格納庫がありました。

いい場所に設置しましたね^^

無題4.png
測量年1944(31-13-2女満別)  
出典:国土地理院ウェブサイト(地理院データを加工して作成)

前述の通り、1943年に海軍美幌第二航空基地建設が始まっており、これはその翌年の地図です。

交差する2本の滑走路の地割がハッキリ描かれていますね。

旧女満別空港、現行の女満別空港、共に南北滑走路1本のみ。という印象が非常に強いんですが、

海軍当時、東西方向の滑走路が交差する2本滑走路にしようとした時代があったんですね~。


新千歳市史通史編上巻 826pによりますと、

戦時中は秘匿性を高めるため、略号が用いられました。

美幌第二(女満別)は網走郡であることから「A地」と呼ばれていたのだそうです。

無題5.png
撮影年月日1947/10/21(USA M577 141)■  
出典:国土地理院ウェブサイト(地理院データを加工して作成) 

沿革にもまとめましたが、当飛行場は1945年に連合国軍により爆破されて使用不能にされました。

上の写真1947年撮影ですから、使用不能にされてから2年後の写真です。

東西方向の滑走路の地割がまだハッキリと残っています。

戦後早々に使用不能とされたのですが、1952年には米軍が修理の上不時着場として接収しました。

爆破したり修理したり忙しいですね。

旧女満別.PNG
写真:国土画像情報(オルソ化空中写真) 国土交通省
撮影年度:1977年 地区名:女満別 編集・加工して使用

その後、1956年の一部返還を受けて丘珠空港線不定期運航が開始され、

1985年に現在の女満別空港とバトンタッチするまでの間、ここが女満別空港でした。

上の写真は1977年撮影なので、管理者が女満別町から北海道に移管し、第三種空港として運用中のものです。

元々村民総出で競馬場を滑走路にしたのは、この南北滑走路の東側部分で、

日本海軍が建設を進めた東西滑走路の周辺に当たります。

元祖の場所から少し西側に造られた滑走路の地割が今日まで残ることになったんですね。

では村民の造った飛行場の地割は消滅してしまったかというとそんなことはなく、道路の方向に残っています。

尤も、滑走路の元となった競馬場の方向が当時からあった道路、鉄道、網走湖、集落等、

地理の関係で決まったように見えるので、

「飛行場の地割が今も道路の方向に残っている」というよりも、

村の開拓の歴史が気象観測飛行場の地割に影響を与え、それが現在も残っているという表現の方が正しいのだと思います。

新空港に移転した後は、ボッシュ社の女満別テクニカルセンターとなりました。 

滑走路はテストコースに。

この経緯は旧紋別空港と似てますね。

「中央気象台の観測用」という稀有な飛行場で始まり、海軍航空基地、米軍の不時着場を経て民間空港となり、

現在はドイツの会社が使用するという。。。

ものすごく歴史のある、そして波乱万丈の空港だったのですね。

「大空町」という町名、2006年の女満別町と東藻琴村の合併で誕生したのですが、

いいですね~^^

D20_0306.jpg

女満別空港跡地。周囲はぐるっと高い塀に囲われています。

旧女満別.PNG
写真:国土画像情報(オルソ化空中写真) 国土交通省
撮影年度:1977年 地区名:女満別 編集・加工:空港探索・とり

ところでこの写真はR/W36東側部分なのですが、部分に掩体壕が残っています。

D20_0303.jpg

D20_0305.jpg

すごいですね。

通称「広告掩体」だそうです。

海軍型掩体壕特有の凸型の開口部

これは道路からも目立つ南側の掩体壕です。

もう1つの北側の掩体壕も見たかったのですが、発見できませんでした。とほほ。


     網走郡・旧女満別空港     

現在空港跡地を使用しているボッシュ社によりますと、施設を現在の2倍に拡張する計画が進行中だそうです

旧女満別空港 データ(当時)
設置管理者:国土交通省 防衛省
空港種別:第3種空港 
所在地:北海道網走郡大空町‎女満別中央‎
座 標:N43°54′19″E144°09′51″
滑走路:1,200mx60m(コンクリート)、1,300mx80m(コンクリート) 「日本海軍航空史」より
    1,500mx80m(戦前戦後の飛行場・空港総ざらえより)
磁方位:18/36
(座標はグーグルアースから)

沿革
1935年03月 中央気象台が気象観測飛行場として設置 滑走路500m
1936年06月 滑走路延長650m
1943年    海軍飛行隊 美幌第二航空基地建設開始
1945年    滑走路等一部は完成したが、連合国軍に爆破され使用不能になる
1952年    米軍、修理の上不時着場として接収
1956年04月 一部返還
    06月 北日本航空、丘珠空港線不定期運航
1958年07月 全面返還 女満別町が管理
    12月 第三種空港F級として供用開始
1960年04月 札幌航空保安事務所女満別出張所設置
1961年04月 女満別町から北海道に移管 
1963年04月 第3種空港として供用開始 滑走路1,200m
1981年09月 ジェット化のため空港南側に新空港着工
1985年04月 新女満別空港供用開始、女満別空港廃止

関連サイト:
大空町/女満別空港の歴史  
ブログ内関連記事  

この記事の資料:
現地の碑文
新千歳市史通史編上巻
新千歳市史通史編下巻
「21世紀へ伝える航空ストーリー 戦前戦後の飛行場・空港総ざらえ」
防衛研究所収蔵資料:航空路資料 第11 北海道地方飛行場及不時着陸場 昭和16年(1941年)3月刊行 水路部


コメント(18)  トラックバック(0) 
共通テーマ:趣味・カルチャー

女満別空港 [├空港]

  2009年7月、2023年6月訪問 2023/7更新  


無題8.png
撮影年月日1986/06/13(HO862X C5A 34) 開港翌年の女満別空港 
出典:国土地理院ウェブサイト(地理院データを加工して作成) 

無題6.png
SkyVector.com

北海道網走郡大空町にある「女満別空港」。

D20_0224.jpg

D20_0226.jpg

D20_0228.jpg

ターミナル内部

D20_0230.jpg

展望デッキ入口

D20_0232.jpg D20_0233.jpg

ヒコーキ用タイヤが置いてありました。

D20_0232a.jpg

D20_0233.jpga.jpg

スペック部分拡大。

乗用車用タイヤと比較すると、内圧と荷重の差がすごいです。

こういう比較は興味深いですね。

D20_0236.jpg

展望デッキ

奥行きが大きいです。

D20_0237.jpg

R/W18方向

D20_0238.jpg

正面

個人的な感想ですが、JAL塗装のエアバス機は未だに違和感があります。

D20_0241.jpg

D20_0245.jpg

D20_0279.jpg

「それじゃあ またね」

D20_0256.jpg

コックピット上部にカナードを取り付けたANA機。

現在ANAは各務原の飛行開発実験団と連携し、民間機の特殊機動飛行技術についてのテストを行っています(嘘)。

「CCV」なんて言うと、もうオッサン扱いなのかしらん。

D20_0261.jpg

D20_0286.jpg


(以下2023年6月撮影)

DSC_0933_00001.jpg

有料のバー(押して回転するやつ)が撤去されて無料になりました^^

DSC_0934_00001.jpgDSC_0935_00001.jpg

フェンスが設置されました。

DSC_0936_00001.jpgDSC_0937_00001.jpgDSC_0938_00001.jpgDSC_0943_00001.jpgDSC_0944_00001.jpg


     網走郡・女満別空港      

    ビュー:☆☆☆★★  
3Fに広い無料展望デッキあり
フェンス低く、エプロン、滑走路全域見渡せる

    施設:☆☆☆☆★  
ターミナル前に有料駐車場あり
建物は明るくキレイ
レストランあり。売店、土産物店充実している。ロイズチョコ、白い恋人、柳月など
JAL系ショップBLUE SKYあり

    マニア度:☆☆☆☆☆  
空港周辺に撮影ポイント多数
隣接する旧女満別空港と掩体壕
展望デッキ入口に展示されているタイヤ

    総合:☆☆☆☆★   
旧空港時代から歴史ある北の空の玄関口
周辺は畑、牧草地が広がり、市街地も近い

女満別空港 データ
管理者:北海道→北海道エアポート
3レター:MMB
4レター:RJCM
空港種別:地方管理空港
運用時間:8:00~21:00
所在地:北海道網走郡大空町
標 点:N43°52′50″E144°09′51″
標 高:33.1m
面 積:167ha
滑走路:2,500m×45m
磁方位:18/36

航空管制周波数
・飛行場管制 
 女満別タワー 118.25 126.20
・航空路管制
 札幌コントロール(北海道東セクター)127.50 132.60 134.24
 札幌コントロール(道東空域セクター)128.325 134.25

沿革
1985年04月 新空港供用開始 滑走路2,000m
2000年02月 滑走路延長 2,500m
2020年01月 15日 北海道エアポート、ビル施設等事業開始
    10月 1日 北海道エアポート、空港運営開始 

関連サイト:
Hokkaido Airports 
女満別空港ビル  
大空町/女満別空港  
北海道開発局/女満別空港  
国土交通省東京航空局/女満別空港   
ブログ内関連記事  


コメント(24)  トラックバック(0) 
共通テーマ:趣味・カルチャー

紋別空港(オホーツク紋別空港) [├空港]

  2009年7月訪問 2022/12更新  


無題5.png
SkyVector.com

北海道紋別市にある「紋別空港(オホーツク紋別空港)」。

D20_0122.jpg

「オホーツク海の雄大さ、力強さをイメージ」した特徴的な外観 だそうです。

D20_0124.jpg

流氷をイメージしたオブジェ だそうです。

D20_0125.jpg

D20_0127.jpg

さあ、クリオネに会いに今すぐ紋別へGo!

D20_0135.jpg

展望デッキにやって来ました。

こんな写真を撮る人などまずおるまい~。

D20_0129.jpg

R/W32側。バッチリ見えます。

D20_0130.jpg

中央。こちらもよく見えます。

D20_0131.jpg

そしてR/W14側もよく見えます。

D20_0136.jpg

ターミナル内部

曲線で構成された天井、全面鏡張りの壁面。明るいです。

手すりには点字の案内プレートが取り付けられています。

D20_0169.jpg

以下、R/W14エンド付近の写真です。

D20_0175.jpg

D20_0176.jpg

D20_0178.jpg

D20_0222.jpg

ターミナルビル反対側は滑走路に沿って道路が続いてます(画面右側が滑走路)。

現在紋別空港は東京便が1日1往復のみ。

ワンチャンスをドコから撮ろうかとせわしなく動き回り、R/W32側から撮ることに。

D20_0184.jpg

12:46

定刻12時50分到着の東京発ANA845便が姿を現しました。

D20_0192.jpg

D20_0196.jpg

D20_0200.jpg

D20_0221.jpg

12時53分 到着~。

定刻13:35発846便になって再び東京に戻っていきます。


     紋別市・紋別空港(オホーツク紋別空港)    

    ビュー:☆☆☆★★  
ターミナル2階に広い無料展望デッキあり
塀低く、エプロン、滑走路全域見渡せる    

    施設:☆☆☆☆★  
小さな売店、喫茶店あり
売店はターミナルの開いている9時~17時まで営業しているが、喫茶店、案内所は定期便が離着陸する時間帯のみ
ターミナル前に広い無料駐車場あり。
建物は明るくキレイ

    マニア度:☆☆☆★★  
展望デッキ、外周道路、撮影に適した場所多い

    総合:☆☆☆★★  
オホーツク海に面した空港
周辺は広々とした牧草地など北海道らしい風景が広がる
札幌便が2007年に廃止してしまい、現在は昼の時間帯の東京便1往復のみ。
ジェット化のためにわざわざ造られた新規空港だが現状ではその能力を十分活かし切っていない

紋別空港 データ
設置管理者:北海道
3レター:MBE
4レター:RJEB
空港種別:地方管理空港
運用時間:9:00~17:00
所在地:北海道紋別市小向
標 点:N44°18′15″E143°24′15″
標 高:17.8m
面 積:129ha
滑走路:2,000m×45m
磁方位:14/32

航空管制周波数
・航空路管制
 札幌コントロール(北海道東セクター)127.50 132.60 134.25
 札幌コントロール(道東空域セクター)128.325 134.25
・飛行場アドバイザリー
 紋別リモート 118.15

沿革
1994年04月 新空港設置許可
1999年11月 供用開始 滑走路2,000m

関連サイト:
オホーツク紋別空港     
北海道開発局/紋別空港  
国土交通省東京航空局/紋別空港   
ブログ内関連記事
  


コメント(20)  トラックバック(0) 
共通テーマ:趣味・カルチャー

旧紋別空港跡地 [├空港]

  2009年7月訪問 2022/12更新  


無題4.png
1997年7月(HO971X 16 3) 運用中の旧紋別空港

出典:国土地理院ウェブサイト(地理院データを加工して作成)

北海道紋別市にあった「(旧)紋別空港」。

現在の紋別空港から東に11キロほどの所にありました。

オホーツク海に面していて、コムケ湖とシブノツナイ湖という2つの湖に挟まれています。

このロケーションが後に悲劇を生むことに(後述)。

D20_0114.jpg

旧紋別空港正門

現在はコンティネンタル・オートモーティブ社の紋別テストセンター/テストコースです。

D20_0111.jpg

かつて空港だった頃の標識が残ってました。

D20_0115.jpg

当時のターミナルビルをそのまま使用しているようです。

ターミナルビル玄関上方には、かつての空港名に代わり、現在の所有者である会社名が掲げられています。

D20_0116.jpg

裏手に回ってみました。(以下R/W30付近)

D20_0119.jpg

ご覧の通りフェンスが続いています。

D20_0120.jpg

かろうじて見えた滑走路面。


    紋別市・旧紋別空港跡地   

2つの湖に挟まれた位置にあったため滑走路の延長ができず移転。廃止から約2年後、個人所有の小型機が誤認着陸してしまうというインシデントが発生しました

旧紋別空港 データ(当時)
設置管理者:紋別市、後に北海道
空港種別:第3種
所在地:北海道紋別市沼の上
座 標:N44°15′33″E143°31′55″
滑走路:1,200m×30m
方 位:12/30
(座標、方位はグーグルアースから)

沿革
1966年07月 開港 滑走路1,200m
1973年08月 北海道の管理に変更
1999年11月 新紋別空港開港に伴い廃港

関連サイト:
ブログ内関連記事  


コメント(11)  トラックバック(0) 
共通テーマ:趣味・カルチャー

浅茅野第一飛行場跡地 [├空港]

  2009年7月、2023年6月訪問 2023/7更新  


8.png
(昭和18年9月27日撮影)高度400米 方位S
9.png
(昭和18年9月27日撮影)高度600米 方位SSE
1945年(昭和20年)5月調査資料添付地図 Translation No. 63, 8 May 1945, photographs of airfields of Karafuto-Hokkaido and Aomori. Report No. 3-d(52), USSBS Index Section 6 (国立国会図書館ウェブサイトから転載。上2枚とも)
無題.png
撮影年月日1947/09/13(USA M513 19) 
出典:国土地理院ウェブサイト(地理院データを加工して作成)
 

前記事の「浅茅野第一飛行場」から国道238号線でオホーツク海沿いに更に南下した所にあった、

陸軍の「浅茅野第一飛行場」。

■防衛研究所収蔵資料「陸空-本土防空-48飛行場記録 内地(千島.樺太.北海道.朝鮮.台湾を含む) 昭19.4.20第1航空軍司令部」

に1/10,000の要図があり、 先頭のグーグルマップはこの要図と、サイト:共同発掘プログラム様(下記リンク参照)と、

上に貼った航空写真から作図しました。

要図には南北の滑走路がなく、共同発掘プログラム様にはあり、航空写真では線が拾えない箇所が多かったりと、

かなり妥協の産物になっておりますが、

瓢箪沼すぐ南側の掩体壕郡がかなりハッキリ残っているのと、天北線の二つを絶対的な基準としています。

要図には、 西風、北東風が恒風とあり、東西方向の滑走路は1400x100、北東~南西の板敷滑走路は1200x60

とあり、 飛行場敷地東側に「気象隊兵舎」、「兵舎二、炊事一」と書かれていました。

同資料の情報を以下引用させていただきます。

位置
北海道宗谷郡猿払村字浅茅野
気象
冬期間は積雪平均一?米にして使用不能なり
十二月初旬より四月中旬頃迄は地下一尺程度凍□す
風は側風を受くる時あるも大なる障碍とならず
交通 其の他
浅茅野駅より約四粁なり
浅茅野部落は戸数約三〇戸にして郵便局
憲兵派出所国民学校(約四〇〇名収容し得)あり

D20_0050.jpg

国道238から真っ直ぐ南下する交差点(青マーカー)があります。

先ずここから赤マーカー地点に向かいました。 

画面奥が赤マーカー地点方向。すぐにこんな小道と交差します。

D20_0051.jpg

現在はサイクリングロードになっている天北線跡です。  

あっち側

D20_0055.jpg

こっち側

D20_0059.jpg

赤マーカー地点付近

この道にはいくつか牧場の入り口があります。

朝の6時過ぎに周辺をウロウロしたのですが、人影はない代わりに朝露に伏した数頭の牛さんにジッと見られました。

飛行場運用当時既にあったのかは不明ですが、

この道は国道238と飛行場を結ぶ3本の道の1つとして1947年撮影の写真にもハッキリ写っています。

特に滑走路西側唯一の道で、南北方向の滑走路を構成しており、掩体壕、誘導路につながっていました。

D20_0063.jpg

ハイ、赤マーカー地点に到着しました。

赤マーカー地点の西側はこんな感じ。画面中央部をズームすると…

D20_0067.jpg

こんな感じ。

上述しましたが、現存する無蓋掩体壕の一部です。

実はですね…この掩体壕の右側にもいくつか掩体壕が残っているのですが、

現地で写真を撮っていた時は「ココに残ってるのはこの2つだけ!」と思い込んでますた。

埼玉からはるばる行ったというのに…下調べ不足です_| ̄|○ il||li

D20_0064.jpg

全体を撮った写真を思いっきりトリミングして、上の写真の右側部分を一応アップしておきます。

なんとなくポコポコしてるのが掩体壕だそうです。

で、この後(裏側から掩体壕が見えないかしらん)と考えて、道道732を走ってみたのですが、

緑が壁のようになってるわ、道はあらぬ方向に向かっていくわでダメでした。とほほ。

(オイラが調べた限りでは)合法的に掩体壕が見られるのはここだけのようです。


D20_0076.jpg

一旦国道(青マーカー)に戻り、国道を南東に進んで再び南に伸びる道に入り、紫マーカー地点に向かいました。

こちらでも先ほど同様すぐに線路跡の小道と交差します。

D20_0080.jpg

紫マーカー地点。

「飛行場前駅」

1955年に国鉄の仮乗降場として開業しました。

開業当時、飛行場は終戦でとっくに閉鎖されていましたが周囲になんにもないため、

「飛行場がないのに飛行場前」になったのだそうです。

路線廃止と共に駅が閉鎖になって今年で20年。ご覧の様子です。

駅跡から更に南下していくと…

D20_0092.jpg

D20_0095.jpg

黄マーカー地点。

道沿いにいくつか古い構造物が現れます。

上2つは同一のものです。橋脚跡?

D20_0097.jpg

ちょっと行った先にも似たようなものが。これも橋脚跡?

D20_0103.jpg

門柱跡だそうです。

D20_0106.jpg

こちらは水槽の支柱だそうです。

D20_0108.jpg

滑走路周辺と思われる辺り。

飛行場だった範囲の道路を全部通ってみたのですが、

上記以外の古い構造物、滑走路跡等特に発見することはできませんでした。


(以下2023年6月撮影)

DSC_0890_00001.jpg

黒マーカー地点。

農機具を入れる場所なんですが、当時はこのちょい先から画面奥に向って南北方向の滑走路が伸びてました。

写真撮ってるこの場所も、当時は滑走路北端から掩体壕に向かう誘導路上。

DSC_0893_00001.jpg

灰マーカー地点。

東西方向の滑走路上から東方向。

ここから画面奥に向って約900m滑走路が伸びてました。

DSC_0894_00001.jpg

同じく灰マーカー地点。

東西方向の滑走路上から西方向。

対で並んでる防風林? が印象的ですね。

DSC_0908_00001.jpgDSC_0904_00001.jpg

紫のシェイプ地点(上2枚とも)。

気象隊兵舎跡。

2つあるレンガ製の円筒状のものは、恐らく兵舎跡地に戦後開拓で作られたものではないかと思うのですが、

どうなんでしょうか。

DSC_0911_00001.jpg

紫のシェイプ地点。

炊事、兵舎跡。

DSC_0915_00001.jpgDSC_0919_00001.jpg

緑マーカー地点。

天北線の飛行場前駅は無くなっちゃったけど、駅跡から200m程の所にバス停の名称として受け継がれてました。

DSC_0921_00001.jpg

反対側のバス停。


 

    宗谷郡・浅茅野第一飛行場跡地   
浅茅野第一/第二飛行場建設には大勢の朝鮮人労働者が動員され、冬期間も続けられた苛酷な工事により多数の犠牲者を出したのだそうです。

浅茅野第一飛行場 データ
設置管理者:陸軍
種 別:軍用陸上飛行場
所在地:北海道宗谷郡猿払村浅茅野及び枝幸郡浜頓別町
座 標:N45°11′24″E142°14′39″
標 高:21m
面 積:120ha
滑走路:
1,200m×60m(03/21)板敷き
1400m×100m 転圧(09/27・未完成)
1,800m×150m 転圧(18/36・未完成)
(座標、標高、方位はグーグルアースから)

沿革
1942年06月 着工
1943年秋   滑走路完成
1944年秋(冬?) 完成
1945年09月 閉鎖

関連サイト:
共同発掘プログラム 
ブログ内関連記事
  

この記事の資料:
防衛研究所収蔵資料「陸空-本土防空-48飛行場記録 内地(千島.樺太.北海道.朝鮮.台湾を含む) 昭19.4.20第1航空軍司令部」


コメント(13)  トラックバック(0) 
共通テーマ:旅行