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浅茅野第二飛行場 [├空港]

  2009年7月、2023年6月訪問 2023/7更新  


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撮影年月日 1947/10/21(昭22)(USA M579 126)   

出典:国土地理院ウェブサイト(地理院データを加工して作成)

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宗谷岬から国道238号線をオホーツク海に沿って30キロ程南下したところにある「さるふつ公園・道の駅」

大戦当時、道の駅の敷地を含め、その西側には「浅茅野(あさじの)第二飛行場」がありました。

上の写真は道の駅西側部分。現在は村営牧場が広がっています(手前はパターゴルフ場ですが)。

当時はちょうどこの辺りに、滑走路、誘導路が広がっていたハズです。

そして、1947年の航空写真から滑走路、誘導路の線をグーグルマップに落としてみると、

現在でもビックリする程当時の地割が残っていました。

現地で未確認なんですが、無蓋掩体壕も1基そのまま残っているようです(航空写真の赤←部分)。

 

地図に表示されている通り、この部分は完全に「村営牧場」のエリア。

部外者のオイラが勝手に入って良いのか不明なのですが、

「現地に行って、入れるものならば通ってみよう」と考えてました。

で、イザ車で向かったら、特に「関係者以外立ち入り禁止」という標識もなく、あっさり入ることができました。

てっきり、「村営牧場」という巨大な牧場が1つあって、延々と柵で囲われているのかと思っていたのですが、

幾つかに分割して柵で囲ってありました(分割した1つがまたドデカイんですが)。

以下、現場の写真をズラズラと。

あ、その前にですね、「浅茅野第二飛行場の滑走路、誘導路の一部が道路として残っている」

というのは今のところソースなしで、オイラの持論です(少なくともネットでは確認することができませんでした)。

結構時間をかけて慎重に確認したつもりなのですが、オイラの壮大な勘違いの可能性もありますので、

どうかご了承下さいませ。

 

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青マーカー地点。

滑走路南側。 当時は誘導路のT字路になっていました。

2005年の地図で見ると原型を留めてますが、現在車で通れるのはここから南と西に向かう部分のみ。

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黄マーカー地点。 

同じく滑走路南側。誘導路のT字路がそのまま道路になっています。

この少し手前でシカが出ました。

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紫マーカー地点。 

行き止まり。

当時はここから緩やかに右側にカーブを描きながら黒マーカー地点(滑走路西側端)に誘導路が続いていたはずです。

2005年の地図で見ると、この先の部分も微妙に残ってるみたいですね。

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黒マーカー地点。

滑走路西側の端の角っこです。

向こう側に小さく見えているのは道の駅の施設で、道の駅の辺りが滑走路の東側の端っこでしたから、

当時はここからあの施設に向かって滑走路が延びていたはず。

2005年の地図だとうっすら滑走路の形が浮かんでいるように見えるのですが、

現地では特に道の駅方向に滑走路跡を示すようなものは発見できませんでした。

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灰マーカー地点。 

奥の建物は道の駅の施設です。

こちら側は途中まで当時の滑走路に沿った道路が続いてます。

ここからあの施設に向かって、ダーッと滑走路があったハズ。



(以下2023年6月撮影)
 
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赤マーカー地点。
 
無蓋掩体壕跡。
 
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掩体壕入口側から撮ってるつもり。
 

   宗谷郡・浅茅野第二飛行場   

浅茅野第二飛行場 データ
設置管理者:旧陸軍
種 別:陸上飛行場
設置目的:宗谷海峡防衛、対米作戦
所在地:北海道宗谷郡猿払村浜鬼志別
座 標:N45°19′45″E142°09′59″
面 積:33ha
滑走路:1,600m×200m
方 位:09/27
無蓋掩体壕:30(31とする資料あり)
(座標、方位はグーグルアースから)

沿革
1943年04月 着工、同年12月に用地買収
1944年7月? 完成
1945年09月 米軍進駐により駐屯部隊解散となり閉鎖。

第2飛行場は1943年(昭和18年)5月に予定地が決定し、鉄道工業が請け負った。
12月に陸軍省が浜鬼志別原野214番地の33haを買収、
44年7月までに滑走路の転圧を終えて一応の完成を見ている(沿革と一部矛盾してますが、資料によりいろいろです)。

関連サイト:
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稚内空港 [├空港]

  2009年7月、2023年6月訪問 2023/7更新  


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撮影年月日1974/07/23(MHO741X C7A 9) 滑走路1,200m時代の稚内空港
出典:国土地理院ウェブサイト(地理院データを加工して作成)
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SkyVector.com

北海道稚内市にある「稚内空港」。

宗谷湾沿いに位置しています。

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ターミナルの色、変わってますね。

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展望デッキには出られません。残念。

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ここのスペースから眺めることができます。

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すぐ下に立ち入りできない屋外のデッキが見えます(涙

このデッキも変わった色ですね。

宮古空港みたい。

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ところでですね、この記事書いてて改めて見返して気が付いたんですけど、

前記事(利尻空港)で見たヒコーキとこのヒコーキは同じヒコーキでした。

新千歳に戻った後、今度はコッチに来たんですね^^

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(以下2023年6月撮影)

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今回は展望デッキに出られました。

フェンスが張り巡らされましたが、大き目の穴が設けられてます(下段の穴は塞がれてる)。

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あっち側。

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そっち側。

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    稚内市・稚内空港      

    ビュー:☆☆★★★  
4Fに屋内型の無料展望デッキあり
エプロン、滑走路全域見渡せる

    施設:☆☆☆★★  
ターミナル前に無料駐車場あり
レストラン、売店あり

    マニア度:☆☆★★★  
周辺は撮影スポットに恵まれている

    総合:☆☆★★★  
空港周辺は荒涼とした草原。天気と相まってとても寂しい風景でした

稚内空港 データ
設置管理者:国土交通省→北海道エアポート 
3レター:WKJ
4レター:RJCW
空港種別:拠点空港(国管理空港)
運用時間:8:30~18:30
所在地:北海道稚内市大字声問村字声問
標 点:N45°24′15″E141°48′03″
標 高:8.0m
面 積:96ha
滑走路:2,000m×45m
磁方位:08/26

航空管制周波数
・航空路管制
 札幌コントロール(北海道東セクター)127.50 132.60 134.25
・飛行場アドバイザリー 
稚内レディオ 118.30 126.20

沿革
1956年11月 札幌航空保安事務所稚内出張所設置
1959年07月 開港 滑走路1,200m
1962年04月 航空保安事務所に昇格。札幌の管轄外となる
1986年10月 滑走路延長1,800m
1988年07月 滑走路延長2,000m
2020年01月 15日 北海道エアポート、ビル施設等事業開始
2021年03月 北海道エアポート、空港全体の運用開始

関連サイト:
Hokkaido Airports 
稚内空港ビル  
北海道開発局/稚内空港      
国土交通省東京航空局/稚内空港    
ブログ内関連記事
      

この記事の資料:
新千歳市史通史編下巻


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利尻空港 [├空港]

  2009年7月訪問 2022/12更新  


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撮影年月日1973/08/15(HO736Y C1 2) 滑走路600m当時の利尻空港
出典:国土地理院ウェブサイト(地理院データを加工して作成)
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SkyVector.com

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北海道利尻島の「利尻空港」。

RWY07からやって参りました 

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新千歳発 ANA4929便 

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結構大きなデッキ

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本当は正面にばばーんと利尻富士がそびえているはずなのですが…

今日は麓がちょっと見えているだけ。残念。

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12:55 定刻より10分遅れで到着

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13:35 今度は定刻より5分早い出発

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新千歳に戻って行きました。


    北海道・利尻空港     

  ビュー:☆☆☆★★  
2階に無料展望デッキあり
フェンス低く、エプロン、滑走路全域見渡せる

    施設:☆☆☆☆★  
明るくコンパクトで利用しやすいターミナル
展望デッキ手前に小さい売店、喫茶店あり
ターミナル前に無料駐車場あり

    マニア度:☆☆☆★★  
展望デッキ正面に秀峰利尻富士

    総合:☆☆☆★★  
展望デッキ正面に見える利尻富士が麓まで隠れて見えないと大変らしい

利尻空港 データ
設置管理者:北海道
3レター:RIS
4レター:RJER
空港種別:地方管理空港 
運用時間:9:00~17:00
所在地:北海道利尻郡利尻富士町鴛泊字本泊
標 点:N45°14′23″E141°11′29″
標 高:30.1m
面 積:66ha
滑走路:1,800m×45m
磁方位:07/25

航空管制周波数
・航空路管制
 札幌コントロール(北海道東セクター)127.50 132.60 134.25
・飛行場アドバイザリー
 利尻リモート 122.70(RAG)

沿革
1962年08月 開港 滑走路600m
1974年05月 滑走路延長800m
1997年04月 新滑走路使用開始800m
1996年06月 滑走路延長1,800m

関連サイト:
北海道開発局/利尻空港     
国土交通省東京航空局/礼文空港   
ブログ内関連記事
 


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礼文空港(休止中) [├空港]

  2009年7月訪問 2022/12更新  


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撮影年月日1977/10/27(CHO771 C2 3) 翌年に開港を控えた礼文空港
出典:国土地理院ウェブサイト(地理院データを加工して作成)
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SkyVector.com

 

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北海道礼文島にある「礼文空港」。

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標識に従って鋭角に左折してどんどん登って行くと空港です。

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VOR/DMEが設置してありました。

ここまでの方位/距離をヒコーキに知らせます。

遮るものがなく、風が非常に強いです。

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一旦登ったところから少し下っていった所に空港入口がありました。

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    礼文郡・礼文空港   

他サイトにエアー北海道時代の記録が残っていて、1日1便お昼の時間帯に稚内と25分で結んでいたことが書かれてました

礼文空港 データ(運行当時含)
設置管理者:北海道
3レター:RBJ
4レター:RJCR
空港種別:地方管理空港 
運用時間:9:00~15:00
所在地:北海道礼文郡礼文町
標 点:N45°27′18″E141°02′21″
標 高:27.3m
面 積:11ha
滑走路:800m×25m
磁方位:14/32
航空管制周波数 124.30(稚内レディオ)

沿革
1965年    空港設置調査開始
1978年06月 開港 日本近距離航空DHC-6 礼文-稚内季節運航
1084年03月 日本近距離航空 通年運航開始
1993年03月 進入角指示灯供用開始
1994年07月 エアー北海道に移管
2003年04月 定期便運休
2009年04月 2015年3月31日まで6年間 空港休止に
2014年12月 15日、国交省、休止期間を6年間延長し、2021年3月末までと発表
2021年02月 25日 国交省、休止期間を5年間延長し、2026年3月末までと発表

関連サイト:
北海道/礼文空港  
国土交通省東京航空局/礼文空港 
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愛別飛行場(運用当時) [├空港]

   2009年7月 訪問 2022/12更新  

愛別飛行場は2013年12月31日に廃止しました。当記事は運用当時のものです。廃止後の記事



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北海道上川郡愛別町にあった「愛別飛行場」。

付近にあった案内標識

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立派な碑ですね。

坂を上がって行くと頂上が開けていて、まずこの碑が目に付きます。

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カラフルな格納庫(の裏側)。

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格納庫の表側

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事務所をノックしたのですがお留守でした。残念。

ちょうどどこかに飛んで行ってたのかしらん。

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広々とした駐車場

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RWY07側


     上川郡・愛別飛行場    

ダイコロ社の「ダイコロ愛別飛行場」でしたが、北陸航空及び大阪共同航空が管理する「愛別飛行場」となりました。その後、国土交通省東京航空局に対し北陸航空株式会社より愛別飛行場廃止届の提出があり受理したため、2013年12月31日をもって廃止となりました。愛別町は全国の市町村で初めて自家用飛行機を持った町で、ムーニーM20K「あいべつ号」を当飛行場で運用していました。

愛別飛行場 データ
管理者:北陸航空、大阪共同航空
種 別:非公共用
所在地:北海道上川郡愛別町字愛別683
標 点:N43°52′56″E142°36′34″
標 高:312m
滑走路:880m×25m アスファルト舗装
磁方位:07/25
格納庫:48m×20m駐機面積960㎡コンクリート舗装
駐車場:大型車3台、普通車35台
航空管制周波数 123.5 AIBETSU FLIGHT SERVICE

関連サイト:
国土交通省/東京航空局プレスリリース「愛別飛行場(非公共用)供用廃止について」  
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旭川空港 [├空港]

  2009年7月、2023年6月訪問 2023/7更新  
 

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撮影年月日1967/05/23(MHO673X C1 10) 開港から11ヵ月後の旭川空港 
出典:国土地理院ウェブサイト(地理院データを加工して作成)

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SkyVector.com

北海道上川郡にある「旭川空港」。

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展望デッキから見た左側(RWY34)

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正面から見るとこんな感じ。 

PBBにあの動物園の宣伝が。

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このところ小さな飛行場とか、飛行場跡地ばかり行っていて、いわゆる「空港」には久しぶりに来ました。

グアムを別にすれば、「初めてお邪魔する空港」としては昨年の徳島空港以来1年ぶりです。

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右側(RWY16)

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デッキの端からだと、ちょおっと照明のポールが邪魔ですけど、眺めバッチリですね。

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デッキにはこんなものも。

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明るいターミナル内部。

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ターミナル隣にある「航空公園グリーンポート」

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グリーンポートからエプロンの様子や…

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タキシングするヒコーキがよく見えます。

以下、同じくグリーンポート側から

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今度は滑走路の反対側に来ました。

こちら側からだと、大雪山、十勝岳を背景にした美しい写真が撮れるそうで非常に楽しみにしてたのですが、

遠くの方が霞んでました(涙

周辺にはすんごい大砲構えた人たちが何人かいました。

やっぱり超有名なスポットなんですね~。

 

ところで以前も書いたのですが。

DC-9系とかDC-10系とか、リアエンジンて、胴体と平行でなくて前上がりに取り付けられてますよね。

この理由が未だ分かりません。

上のような写真を見るたび、もー気になって気になって。

どなたかご存知の方教えてください~m(_ _)m

教えてくださった方には、旭山動物園1年間フリーパス、なんとペアでプレゼント!(嘘)

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離陸から2分後、再び上空に姿を現しました。

はいすてーしょん?


(以下2023年6月撮影)

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   上川郡・旭川空港   

 

  ビュー:☆☆★★★   
ターミナル3階に広い展望デッキあり。大人50円
所々フェンスが高いが、見晴らし良い

  施設:☆☆☆☆★   
ターミナル前に有料駐車場あり
建物は明るくキレイ
土産物店では、ロイズチョコ、白い恋人、ラーメンなど
案内表示が大きくハッキリしていて非常に分かりやすい
空港正門周辺も美しい

  マニア度:☆☆☆☆★   
航空公園グリーンポート、空港西側、RWY34エンド周辺など、撮影スポット多い

  総合:☆☆☆☆★   
数十キロの範囲内に大雪山、十勝岳、富良野があり、風景写真で有名な美瑛も近い
「これぞ北海道」という美しい風景に囲まれた空港

旭川空港 データ
設 置:国土交通省 管理:旭川市→北海道エアポート
3レター:AKJ
4レター:RJEC
空港種別:拠点空港(特定地方管理空港)
運用時間:8:00~21:00
所在地:北海道上川郡東神楽町
標 点:N43°40′15″E142°26′51″
標 高:210.5m
面 積:214ha
滑走路:2,500m×60m
磁方位:16/34
航空管制周波数
・飛行場管制 
 大雪タワー 118.55 126.20
・航空路管制
 札幌コントロール(北海道東セクター) 127.50 132.60 134.25

沿革
1966年04月 千歳航空保安事務所旭川出張所新設
     06月 開港 滑走路1,200m、第三種空港
1967年10月 千歳航空保安事務所旭川出張所分離
1980年06月 第2種(B)空港に変更
1982年02月 滑走路1,640mに延長
    11月 滑走路2,000mに延長
1997年02月 滑走路2,500mに延長
2004年10月 コールサインを「旭川レディオ」から「大雪タワー」に変更。管制官配置
2017年10月 3日、 国際線ターミナルビル起工式。2018年12月開業予定
2018年11月 22日、 国際線ターミナルビル開業。初便はJALホノルル発のチャーター機
2020年01月 15日 北海道エアポート、ビル施設等事業開始
2020年10月 1日 北海道エアポート、空港運営開始 

関連サイト:
Hokkaido Airports 
旭川空港ターミナル      
北海道開発局/旭川空港      
国土交通省東京航空局/旭川空港   
ブログ内関連記事   

この記事の資料:
新千歳市史通史編下巻


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美瑛町滑空場 [├空港]

  2009年7月訪問 2022/12更新  

 

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北海道上川郡美瑛町にある「美瑛滑空場」。

探すのに少し手間取りました。

道道沿いに案内板発見!

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美瑛滑空場到着~

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中に入ることはできませんでした。残念!

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    上川郡・美瑛滑空場    

予約を入れれば、体験飛行できるそうです

美瑛町滑空場 データ
設置管理者:美瑛町
開設期間:5月~11月の土・日曜日 休日/平日・祝日
運用時間:9:00~17:00
所在地:北海道上川郡美瑛町字美沢川向
標 点:N43°31′45″E142°34′07″
標 高:362.7m
滑走路:1,000m×40m
方 位:13/31
航空管制周波数 130.8

関連サイト:
FLY Team/美瑛滑空場 
ブログ内関連記事  


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赤平スカイスポーツ振興センター [├空港]

  2009年6月訪問 2022/12更新  

 

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北海道赤平市の運営するスカイスポーツ振興センター。

隣接する滑走路(赤平航空公園)では、パラプレーンやモーターグライダー、

飛行機やヘリコプターなどのラジコンを飛ばすことができます。

ただし現在当建物は休止中。

「使ってない」ということは、現場に行って初めて知りました。

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独特な外観ですね。

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施設前の駐車場はご覧の通り。

コンテナとか農機具などがたくさん置いてありました。 

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隣接する空知川の土手から見るとこんな感じ。

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土手の反対側はこんな感じ。

吹流しのポールでしょうか。

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建物使用してない→滑走路見当たらない→溶けて無くなったに違いない

と勝手に思い込んでいたのですが、戻ってからよく調べたら、

上の写真の奥の方に立派なアスファルトの滑走路があるみたいです。トホホ。

2006年にラジコンヒコーキの大会でココの滑走路を使用したというサイトがありましたし、

2009年にも使用する予定をしている。というサイトがありましたので、

施設休止後も滑走路は使用しているみたいですね。

2014/2/19追記:2013年に滑走路撮って来ました。詳しくは下記「ブログ内関連記事」の二つ目の■をご覧くださいませ


    赤平市・赤平スカイスポーツ振興センター   

市のサイトを見てみると、厳しい財政状況からここ以外にも様々な施設が遊休状態にあり、現在これらの施設の有効活用と財産処分(売払い・解体など)の検討を進めているようです

赤平航空公園 データ
設置管理者:赤平市
所在地:北海道赤平市住吉町152-4
標 点:N43°34′22″E141°59′27″
標 高:35.0m
滑走路:120m×20m
方 位:08/26

沿革
1992年? オープン
2002年 施設管理期間短縮
2004年 施設休止

関連サイト:
赤平スカイスポーツ振興センター
ブログ内関連記事   


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南幌場外離着陸場 [├空港]

   2009年6月訪問 2022/12更新  



空知郡南幌町にある「南幌場外離着陸場」。

夕張川の河川敷内、なんぽろリバーサイド公園にある小さな滑走路です。

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お邪魔した時はちょうど草刈作業中で近づくことができませんでした。残念。

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南幌スポーツ航空協会さんが活動してます 


    空知郡・南幌場外離着陸場    

クラブ員の方がウルトラライトプレーンで活動されています。

南幌場外離着陸場 データ
設置管理者:南幌町
種 別:場外 ULP用
所在地:北海道空知郡南幌町南12線西3番地
座 標:N43°05′32″E141°40′02″
滑走路:200mx2本
磁方位:10/28、15/33
(座標はグーグルアースから)

関連サイト:
南幌スポーツ航空協会  
なんぽろリバーサイド公園  
ブログ内関連記事    


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札幌第一(北海タイムス社、札幌)飛行場跡地 [├空港]

  2009年6月、2023年6月訪問 2023/7更新  


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測量年1928(46-10-3-2茨戸)  
出典:国土地理院ウェブサイト(地理院データを加工して作成)

札幌市にあった「札幌飛行場」。

かつてはここから羽田に毎日定期便の飛来がありました(後述)。

沿革にもまとめましたが、1925年(大正14年)に北海タイムス後援の道内宣伝飛行のため、

当地が飛行場として(一時的に)使用されました。

それから2年後の1927年、北海タイムス社が現在北区役所のある北24西6を中心に飛行場開設しました

(先頭のグーグルマップ青マーカー)。

■「航空年鑑昭和6年(1931年)」には、

「北海タイムス社飛行場(陸)札幌市北二十四・二十五條西六・七・八丁目(東西一九〇南北三六〇)」

と記載されているとアギラさんから情報頂きました。

「札幌飛行場」でググると、「北海タイムス」というワードはたくさん出てくるんですが、

「北海タイムス社飛行場」というそのものズバリの飛行場名は、

現在のところググってもこのアギラさん情報以外出てきません。ありがたや。

で、頂いた情報の「札幌市北二十四・二十五條西六・七・八丁目」を囲ったのが先頭のグーグルマップのグレー部分。

「東西一九〇南北三六〇」とは、飛行場の敷地の広さを示す(190mx360m)ものだと思うんですが、

その通りの大きさに引いたのがパープル部分です。

…なんか、パープル部分を横に寝かせた方がしっくりくるような。。。

グレーの範囲内に飛行場があったはずなので、パープルをどの位置に落ち着けようか。と思ったんですが、

パープルの横幅だと、2ブロック使えば東西方向は充分おつりがくる大きさなんですよね。

でもせっかく資料に「西六・七・八丁目」とあるので、3ブロックにまたがった位置に置いてみました。

北海タイムス社が飛行場を開設したのが1927年、後述しますが逓信省がここを拡張したのが1933年。

上の地図は1928年測量ですから、「北海タイムス社飛行場」が絶賛運用中の地図ということになります。

測量が行われた当時、確かにここに飛行場があったはずなんですが、特にそういう地割、記載はないですね。

イマイチハッキリしないんですが、ともかくこの辺りに「北海タイムス社飛行場」があったはずです。

この場所に立って、1927年にタイムスリップして、位置を確認したい!

位置の確認さえできれば、もう戻れなくてもいい!(マテ)


無題a.png
「今昔マップ on the web」より作成(昭和10年修正) 

前述の通り、「北海タイムス社飛行場」は1933年に逓信省の「札幌飛行場」となって拡張されました。

上に貼った地図の通りで、今回はちゃんと「札幌飛行場」とありますね。

その後1937年に公共用陸上飛行場として許可を受け、同年東京への定期便の運航が始まりました。

■朝鮮交通史1037p 

日本航空輸送株式会社の東京-仙台-青森-札幌 定期便が設けられました。

資料:定期航空路線図 自昭和13年10月1日至昭和14年3月31日 によれば、毎日運航でした。
9:30東京発 11:00仙台着/11:20仙台発 1:00青森着/1:10青森発 2:40札幌着
9:00札幌発 10:30青森着/10:40青森発 0:20仙台着/0:30仙台発 2:10東京着


■国立公文書館デジタルアーカイブ 昭和十四年一月 航空要覧 逓信省航空局編輯 帝國飛行協会発行
の中で、「本邦定期航空現況(昭和十三年十二月現在)」として以下記されていました(6コマ) 

経営者 大日本航空株式会社
航空線路 東京-札幌
区間 東京-仙台間 毎日一往復
   仙台-青森間 毎日一往復
   青森-札幌間 毎日一往復
線路開設年月 昭和十ニ年四月

■国立公文書館デジタルアーカイブ 昭和十四年一月 航空要覧 逓信省航空局編輯 帝國飛行協会発行

の中で、「本邦飛行場一覧(昭和十三年十月現在)」として以下記されていました(8コマ)■ 

名 称  札幌飛行場
経営者  國
所在地  札幌市北二十四條西五丁目
水陸の別 陸
滑走区域 東西九〇〇米 南北八〇〇米
備 考  (記載無し)

■防衛研究所収蔵資料:航空路資料 第11 北海道地方飛行場及不時着陸場 昭和16年3月刊行 水路部

に当飛行場要図があり、上のグーグルマップはそこから作図しました。

同資料には飛行場についての詳細な情報もあり、「昭和15年8月調」とありますので、

東京便開設から3年後の札幌飛行場について記していることになります。

実はグーグルマップの機能を使って二次元の作図をすると、自動的に面積を出してくれます。

優れものですね(*´∀`*)

薄紫部分が飛行場敷地、濃い紫部分が着陸地区です。

作図後、薄紫部分は「0.549 平方キロメートル」と表示されました(編集画面でないと見れない)。

一方、防衛研究所の同資料によれば、札幌飛行場は「総面積約55萬平方米」とあります。

それで飛行場の地割は大体こんな感じで合ってると思います。

 

L字形の敷地のうち、西側部分が着陸地区で、東側部分は着陸地区から除外されているんですが、

資料によればこれは敷地の東側が泥炭地で軟弱なためで、「要図」には「離着陸禁止区域」と記載があります。

また敷地南西部分(青マーカー)に付帯施設が並んでおり、「要図」にはそれぞれの施設の名称がありました。

東側から順に、航空局庁舎、日航事務所、計量器庫、整備場、日航格納庫、油庫、整備工場、

海軍予備航空団格納庫、北海タイムス社格納庫、帝国飛行協会格納庫 とあります。

グーグルマップを拡大して頂きますと、紫マーカーのところに「札幌飛行場 正門跡」とあるのですが、

「要図」でもまさにこの部分が門として描かれています。

それからこれもアギラさん情報なんですが、

■「航空年鑑昭和15年」大日本飛行協会編(昭和16年発行)「學校グライダー部一覽」(昭和15年10月現在)の中で、

北海道帝國大學學生航空研究會、北海中學校、札幌工業學校グライダー部が札幌飛行場を滑空場として使用していた

と記されています。

アギラさん情報ありがとうございましたm(_ _)m 

■防衛研究所収蔵資料:航空路資料 第11 北海道地方飛行場及不時着陸場 昭和16年3月刊行 水路部

にあった当飛行場情報を以下引用させて頂きます。

札幌飛行場(昭和15年8月調)
札幌市北24條西5丁目(札幌駅の北方約3粁)
所管 航空局
着陸場の状況
高さ 平均水面上約10米。
広さ及形状 本飛行場は長さ南北約800米、幅東西約700米のL字形地(総面積約55萬平方米)なり・着陸区域は南方建物敷地を除き長さ南北約800米幅東西約470米を一辺とし、長さ東西約550米(中央)幅南北約400米の地区を一辺とする略L字形地区なり(付図参照)。
地表と土質 普通土又は泥炭土。
地面の状況 本場は草地を整地の上転圧せるものにして起伏なく一面に芝発生す・南より北に向い下り勾配約1/800、西より東に向い下り勾配1/1200なり・着陸区域は堅硬地なるも東辺より約240米間は泥炭地なるを以て地表軟弱にして離着陸に適せず目下使用禁止中なり・排水設備は南北に走る9條の排水暗渠及之に斜交せる小暗渠多数ありて周囲の排水溝に注ぐ排水良好なり・日射に因る影響は夏季晴天続くときも地面に亀裂を生ずることなく却って良好なり・雪解期は地盤幾分軟弱なとなるも普通の降雨にては變化なし・2月中旬より3月迄は降雪量多く12月中は積雪約30糎、1月-3月間は約140糎に及ぶことあ
り。
場内の障碍物 南側に格納庫及無線鉄塔(高さ20米)あり・本場の北端より北方約230米に高さ約11米の高圧送電線及場の周囲に立木、民家点在す。
適当なる離着陸方向 南北又は東西方向。
離着陸上注意すべき点 南北方向使用の場合は東辺より約300米付近に離着陸し、東西方向使用の場合は240米隔りたる処より発着するを要す・本場はL字形地区なるを以て北西方向の離着陸はL字形の交點の排水溝に突入せざる様注意を要す。

其の他
本飛行場は札幌市の北端北24條西5丁目より琴似村に亙り工費約31萬円を以て昭和8年3月設置せられ、昭和12年2月公共用陸上飛行場として許可せれらたるものなり・昭和12年4月1日より札幌東京間940粁の定期航空開始せられ、大日本航空株式会社の基点終点飛行場として輸送機発着し旅客及郵便の物輸送を行いつつあり、目下毎日1回発着す・下り便は午前7時羽田発仙台
青森を経て午後1時には札幌飛行場に到着す。

排水用の暗渠が張り巡らされていたんですね。

今でも掘れば出てくるのかしらん。

札幌~羽田間、所要時間が約6時間というのが時代ですね~。

ところが戦局の悪化から、この年東京便は無期限運休が決定してしまいます。

年表をご覧頂ければ明らかなんですが、この後徐々に軍の飛行場としての性格が強まってゆき、

札幌飛行場は結局陸軍の飛行場になります。

そして当飛行場が手狭になったことから、陸軍は札幌市内にもう1つ飛行場を建設することを決定。

1942年に当飛行場から北東約4.5kmの場所を用地買収し、着工。

翌1943年に完成しました。

こうしてもう1つ造られたのが現在の「札幌飛行場(丘珠空港)」で、当時は元祖であるこちらを「札幌第一飛行場」、

新しく出来た方を「札幌飛行場」「札幌第二飛行場」とも呼んでいました。

 
■新千歳市史通史編上巻 804pには、札幌飛行場開設、路線運航について以下の通り記されていました。

札幌飛行場
 七年八月の帝国議会で北海道方面定期航路用飛行場の整備が可決され、
八年区九月九日に竣功したのが札幌・北二十四条飛行場である。
 札幌飛行場が整備された翌年の昭和九年から日本航空輸送はローカル線
の運航を開始したが、北海道線の開設は遅れに遅れた。
 北海道が定期航空輸送から取り残されたのは国策にあった。満州、台湾
千二代表されるように航空路も北守南進であった。
 飛行場が完成しても定期便の就航は昭和自由二年度まで待たなくてはなら
なかったが、札幌線の開業によって日本本土縦貫航空路線網が確立した。
しかし、路線が開設されても北海道線は不採算路線で、かつ樺太など外地
への路線延長の見込みもないことから十五年七月九日をもって運休とな
り、戦前における北海道の定期航路はその幕を下ろした。使用機材は十二
年度が米フォッカー(アトランティック)・スーパーユニバーサル旅客機
(中島ライセンス生産)、十三年度からは三菱ひなずる型旅客機でいずれも
乗客数は六人だった。ひなずる型は英エアスピードA・S・6エンボイ旅
客機のライセンス生産として知られる。
 運航は一日一便。仙台と青森に各一〇分間寄港、東京-札幌間の所要時
間は六時間だった。冬季は運休であったが、最も搭乗者数が多かった昭和
十三年においても札幌からの利用者数は僅か七六三人だった。
 札幌飛行場の面積は一六万六八〇坪、滑走路は南北九〇〇㍍、東西八〇
〇㍍、公認施設の中型(乙型)航空東大は南一条西二丁目の丸い今井札幌
本店新館(現・一条館)の屋上にあった。



■防衛研究所収蔵資料「陸空-本土防空-48飛行場記録 内地(千島.樺太.北海道.朝鮮.台湾を含む) 昭19.4.20第1航空軍司令部」

にも1/5,000の要図があり、上のグーグルマップはこの要図から作図しました。

ちょっと下に1947年撮影の航空写真貼ってありますが、この航空写真では舗装滑走路が非常に目立っています。

要図にも同じような斜めに走っている地割(グーグルマップ黄色のシェイプ)があるため、

てっきりこの舗装滑走路を示しているのだろうと考えていたのですが、

要図にはこのグレーのシェイプが「滑走路」ではなく「滑走地区」とあり、破線で描かれていました。

また位置的にも異なっており、矛盾が生じてしまいます。

このため、これは舗装滑走路建設前の転圧滑走路なのだろうと思います。

要図にはいろいろ書き込みと、簡単な情報がありました。

上辺475
底辺720
東西方向最大920+
飛行地区南北方向東辺800
滑走地区900x100
恒風:西北西(滑走路方向)


位置
札幌市北二十四条西五丁目
気象
降雪は二、三月比較的多く曇天の日多し
積雪平均一米内外にして気温最低零下二十三度なり
六~九月に於て霧の発生を見るも八月比較的多し
交通其の他
札幌駅より約二粁にして自動車の運航自在なり
飛行場西方十粁に高さ一、一〇〇米の山岳あり
北方約二〇〇米に高さ約一一米の高圧線あり


続く頁には、更に詳しいバージョンの情報がありました。

札幌飛行場
所在地
 札幌市北二十四條西五丁目
面積
 五十五万百四十七平方米 十六万六百八十坪
土質、高低差 地表面状態
 土及泥炭地 南より北へ1/800 西より東へ1/200
 土地は平坦にして普通土または泥炭にして糾草密生す

気象
恒風
 冬季北西 夏季南東
晴雨日数
 快晴二一日 曇一九四日 雨一三三 雪一一九日
雨期 
 夏期四月-五月 冬期一二月-三月
暴風期
 暴風二〇日 
地方特殊気象状況其の他 
 五月より九月にかけて南東風強く十月より四月迄北西の季節風
 を受け降雪日永く続き天候不良 夏季は低気圧の通過後間も
 なく天候回復するも冬季は低気圧通過後□北西の季節風卓越
 して天気頗る悪し

周囲の状況
煙突
 飛行場南方約三粁に高さ二〇米の北海道帝国大学の煙突あり
山岳
 飛行場西南方約一〇粁の地点に高さ一一〇〇米の山岳あり

 飛行場東方三七五米に幅五米の創成川あり
高圧線
 飛行場北端二二七米に北成(西?)に向け高さ一一米の高圧送電線あり

交通
交通機関
 一、飛行場より南へ約一粁に市電北十八條停留所ありそれより
   市内へ通ず
 二、市中央部より自動車にて約十分飛行場へ着く
交通順路
 札幌駅前電車通り西五丁目停留所より北十八條停留所及飛行
 場へ通ずる直線道路あり


無題a.png
撮影年月日1947/09/10(USA M469 25)  
出典:国土地理院ウェブサイト(地理院データを加工して作成)

Wikiによれば、

「1945年8月 市民を動員して100haへの拡張工事が行われるものの、太平洋戦争の終結とともに中止される」

とあります。

上の航空写真は終戦から2年後のものなんですが、

逓信省時代の飛行場の地割と、拡張工事跡であろう地割が共存しています。

1,200m滑走路が目立ってますね。

■新千歳市史通史編上巻919pには、

「一二〇〇x五〇 板敷舗装 格納庫三棟 無蓋掩体壕1」とありました。

実はオイラ、当第一飛行場の作図として、正方形の敷地の地図をずっと載せていたんですが、

これは特に正方形であることを示す資料があったわけでもなく、

「航空写真でそんな風に見える」、「陸軍飛行場は方形のことが多い」というオイラの主観が根拠でした。

Wikiに「100ha」とあるんですが、 正方形だと130ha位になってしまうため、

改めて航空写真を見直して、どこが削れるか探したのが上の作図です。

まあこの敷地の形にも何の根拠もなく、飽くまでオイラの主観ですのでご了承くださいませ。

北東の角を削ってやっと111haとなり、100haまでにはもう少し削る必要があるんですが、

オイラにはこれが限界でした。

敷地の南西部分、ゴッソリ削れるんですが、ここ取っちゃうと一気に90haになるんですよね。

1947年測量の地図もあるんですが、飛行場の地割は先頭の1935年のものとまったく変わりがないため、

残念ながらどこを拡張したのかの参考にはなりませんでした(;´Д⊂)

草を刈って整地されているだけの滑走路で、機体がぬかるみにはまれば、

みんなでワッショイ、ワッショイ引き上げるというのどかさだったんだそうです。

■新千歳市史通史編下巻
372p
 この間、日本機は飛行制限を受けた。「日本の飛行機は8月24日18時以
降の飛行を禁止する。飛行するものは撃墜する」というものであった。飛
行禁止命令は空襲で陸上交通と通信がマヒしていた日本の終戦事務処理の
連絡手段がなくなるに等しかった。
 日本政府は連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)に対して主要都市間
の連絡飛行を懇請、9月12日付SCAPIN23で東京を中心とした急行便
1、普通便3の4路線が認められた。
 9月14日から日本人の自主運行によって1日4便の終戦連絡定期(緑十
字飛行-グリーンクロスフライト)が運航された。北海道方面は普通便の
第3航空路として東京-仙台矢本(現・空自松島)-青森油川-札幌間が、
月・火・木の週3便運航された。東京羽田飛行場が米陸軍に接収されてい
たため千葉県の陸軍松戸飛行場を代替として使い、札幌は北24条の札幌第
二飛行場を使った。緑十字飛行は10月9日をもってGHQから運航が禁止
された。その理由は陸上交通が次第に回復、整備されつつあり航空機を使
用する必要がなくなったということであったが、実情は惨憺たるもので
あった。
 緑十字飛行の運航禁止によって終戦連絡事務の人員およひ郵便物と貨物
の移動が停滞した。これを受け10月10日からは代替として米軍による帝国
航空便(インペリアルクーリエ)が運航された(S21・2・6廃止)。週
4便が運航され東京立川飛行場から第一千歳(14日初便のみ北24条・札幌
第二)に飛来した。仙台矢本と青森油川に寄航して所要時間は6時間だった。


終戦直後の緑十字飛行、帝国航空便で使用した過去があったのですね。 

■新千歳市史通史編上巻952p
 十月二十六日、札幌第二飛行場の板敷滑走路は油脂で、残置日本機は火
炎放射器によって米軍の手で燃やされた。

それから、わざわざ「札幌北二十四条の札幌第二飛行場」と記し、当飛行場を「第二」としています。

D20_0005.jpg

紫マーカー地点。

一見何の変哲もない通りに見えますが、画面中央に門柱が並んでいるのがわかりますでしょうか。

D20_0007.jpg

前述の通り、「要図」でもちょうどこの付近に正門があり、正門の左側に諸施設が並んでいました。

現在は開発が進み、すっかり市街地に変貌を遂げたため、門柱、碑が唐突にそこにあるという印象です。

最後の札幌飛行場長だった故辻領一さんの夫人ヤスノさんの証言でも、

「正門は北24西8にありました」とのことで、ここはまさにその住所です。

D20_0008.jpg

右柱

D20_0010.jpg

右柱後方にはこんなレリーフが。

「飛」の文字が入っているので載せておきます。

D20_0016.jpg

左柱

D20_0014.jpg

説明板

D20_0011.jpg

「風雪」碑

D20_0012.jpg

消えてしまった全国無数の飛行場もこうして碑が残っていると探すのにとても助かるんですが…(願望)

かつてここでは20年程の期間、当たり前のようにヒコーキが飛び回る日常があり、

この場所から羽田への定期便が飛んでいた時代が確かにありました。

門柱と碑が今もこうして無言の証人となっています。


(以下2023年6月撮影)

DSC_0795_00001.jpg

赤マーカー地点。

札幌サンプラザ前。

地下鉄駅近の大都市ですが、当時はここの角から飛行場が広がってました。

DSC_0797_00001.jpg

黒マーカー地点。

1947年撮影の航空写真によれば、ココのちょっと後ろから画面奥に向って滑走路が伸びてました。


    北海道・札幌第一(北海タイムス社、札幌)飛行場跡地      

・北海タイムス社飛行場(1927年開設) データ
設置管理者:北海タイムス
種 別:陸上飛行場
所在地:北海道札幌市北二十四・二十五條西六・七・八丁目
飛行場:東西190mx南北360m
(データは航空年鑑昭和6年から)

・札幌飛行場(1940年8月資料) データ
所 管:航空局
所在地:北海道札幌市北24條西5丁目
標 高:10m
飛行場:800mx700m L字形地
面 積:55ha
着陸区域:800mx470m、550mx400m L字形地
(データは水路部資料から)

・札幌旧飛行場(1944年4月資料) データ
設置管理者:陸軍
種 別:陸上飛行場
所在地:北海道札幌市北二十四条西五丁目
面 積:55.147ha
滑走地区:900mx100m
方 位:10/28
(データは防衛研究所資料から、方位はグーグルアースから)

・札幌第一飛行場(終戦時) データ
設置管理者:陸軍
種 別:陸上飛行場
所在地:北海道札幌市北区北24条西8丁目1番地
座 標:N43°05′23″E141°20′15″
標 高:12m
面 積:100ha
滑走路::1,200mx50m
方 位::12/30
(座標、標高、方位はグーグルから、滑走路長は新千歳市史通史編上巻から)

沿革
1925年    北海タイムス後援の道内宣伝飛行のため、当地が飛行場として使用される
     06月 26日、永田重治操縦士の操縦するアブロ式504K複葉機が初の試験飛行を実施
1927年01月 旧北海タイムス社、現在北区役所のある北24西6を中心に飛行場開設。格納庫、事務所等設置
1932年08月 帝国議会が札幌飛行場建設を可決
1933年06月 9日 逓信省、北24条一帯を55万平方メートルの国営飛行場とし、民間機や報道用の定期空輸に使用
       南北約800m東西約870m
1936年    陸軍特別大演習観兵式開催
1937年02月 公共用陸上飛行場として許可 
     03月 逓信省より飛行場長派遣。航空局札幌飛行場を設置。
     04月 1日 日本航空輸送株、フォッカー・スーパーユニバーサル機による札幌-仙台-東京間の定期航路開始
1938年    丸井百貨店の屋上に航空燈台設置
     11月 フォッカー機が東嶽山山中に墜落したため東京便の定期航路一時中止
1939年    海軍予備航空団支部を設置。国策会社として大日本航空輸送株式会社誕生
1940年    戦局次第に厳しさを増す。東京便の無期限運休決定。会社経営による航空事業停止
    10月 この頃、北海道帝國大學學生航空研究會、北海中學校、札幌工業學校グライダー部が滑空場として使用
1941年    大日本飛行協会札幌飛行訓練所設置
1942年09月 日米開戦により北海タイムスは施設一切(飛行機3機、格納庫2棟等)を大日本飛行協会に献納
        以後札幌飛行場は札幌飛行訓練所となり、陸軍教官により北大等の学生に操縦教育を施す場となる
        陸軍飛行第13戦隊設置。九七式戦闘機9機配置
1944年   初めて軍用の板敷き滑走路(1,200mx50m)が完成したが、ほとんど使われなかったという
1945年     陸軍紺五四○部隊が駐屯。九五式練習機を配備。戦争末期には特攻訓練が行われた
        隣地約99万平方メートルの買収や寄付を受けて大拡張工事着手
     08月 15日 終戦
     09月 20日~翌10月7日まで月、火、木曜日に緑十字機飛来
     10月 14日 帝国航空便
       26日  板敷滑走路は油脂で、残置日本機は火炎放射器によって米軍により焼却

関連サイト:
みてきて北区/75.昭和二十年、炎の中に消える-札幌飛行場  
札幌飛行場   
ブログ内関連記事    

この記事の資料:
新千歳市史通史編上巻
新千歳市史通史編下巻
航空年鑑昭和6年
航空年鑑昭和15年
朝鮮交通史
防衛研究所収蔵資料「航空路資料 第11 北海道地方飛行場及不時着陸場 昭和16年3月刊行 水路部」
防衛研究所収蔵資料「陸空-本土防空-48飛行場記録 内地(千島.樺太.北海道.朝鮮.台湾を含む) 昭19.4.20第1航空軍司令部」


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太田(太田小泉)飛行場跡地 [├空港]

  2009年6月訪問 2022/12更新  

無題4.png
撮影年月日1947/10/27(USA M606 48) 
出典:国土地理院ウェブサイト(地理院データを加工して作成。以下3枚とも)

群馬県太田市にあった「太田飛行場」。

大戦当時東洋一の規模を誇った中島飛行機の専用飛行場でした。

先頭のグーグルマップの通りで、

飛行場は中島飛行機の生産工場である「太田製作所」と「小泉製作所」にはさまれる形になってるのでした。

太田飛行場は両方の工場で作られたヒコーキのテスト飛行場兼納入発着場でした。

そのためそれぞれの工場で完成した飛行機を運ぶために、

グレーの太線で示した飛行場直通の「専用道路」が設けられました。

専用道路は幅30m以上もあり、完成した機体が主翼を広げたまま飛行場に向けて進んで来たのだそうです。

 

■防衛研究所収蔵資料「関東地方飛行場及不時着陸場 昭和18年8月刊行 水路部」の中に、

当飛行場の情報がありました。

以下引用させて頂きます。

第3 太田〔小泉〕飛行場(昭和18年5月調)

管理者 中島飛行機株式会社。
位置 群馬県邑楽郡小泉町大字上小泉字対比地。
   (小泉町の北西方約2粁、北緯36°15′5、東経139°24′2)。
種別 非公共用陸上飛行場。

着陸場の状況
高さ
 平均水面上約27米。
広さ及形状
 本場は総面積160萬平方米にして長さ北西-南東1,600米、幅北東-南西
 1,000米の矩形地域なり・着陸地域は概ね図示の長さ北西-南東1,300米、
 幅70米の舗装滑走路を最適と認むるも風向等に依りては滑走路の北東外
 側350米、南西外側100米迄の白線以外の地区を使用するを可とす(付図
参照)。
地表の土質
 沙混り赤土。
地面の状況
 滑走路は「アスファルト」滲透式簡易舗装にして日射及季節に因る影響な
 き平坦且堅硬地なり・西側格納庫の前面に舗装せる整備場あり之より滑走
 路に連絡する幅50米の誘導路1條あり・其の他の地域は極めて平坦にし
 て一面に良好なる張芝密生し常時戦闘機程度の着陸に支障なき硬度を有す
 ・排水施設は地下に盲暗渠、場周に排水開渠を設けあり排水概ね良好なる
 も豪雨後は処々地盤に若干弛みを生ずる箇所あるも使用上影響なし・冬季
 は風塵立ち易く且西風強吹する為張芝未成育地区は地表稍凸凹を生ず。
場内の障碍物
 南東側の両端に高さ9米の格納庫3あり。
適当なる離着陸方向。
 恒風の関係上冬季は北西、夏季は南東(滑走路方向)を可とす。
離着陸上注意すべき点
 なし。
施設
 海軍関係格納庫(間口50米、奥行55米、高さ14米)3・其の他(間口50
 米、奥行45米、高さ9米)3・陸軍関係工場2・飛行場事務所等あり。
 昼間標識 不明。
 夜間標識 各格納庫上に障碍物標示燈を点灯す。

周囲の状況
山岳
 付近一帯は極めて平坦なる農耕地なるも北西方約5粁に高さ223米の太田
 金山あり又北方は約8.5粁にして渡良瀬川に達し之より以北は河流に沿い山
岳重畳せる赤城山系の麓に達す。東、西及南方一帯は極めて広濶なる平野
なり。
樹林
 周囲に障碍となる樹林なきも付近に点在する人家の周囲に針葉樹林あり。
河川
 南方約4粁に略南東流する利根川あり。
建築物
南西場外に格納庫(高さ14米)及陸軍関係の太田製作所工場等あり。
着目標
 利根川、中島飛行機株式会社小泉工場、格納庫。

地方の状況
軍隊及憲兵
 東部3784部隊(太田町大字小舞木)北西方約2粁・太田憲兵分遣隊(太田
 町大字飯田)北西方約3粁。
警察署及役場
 太田警察署(太田町1丁目)北西方約4粁・小泉町役場(小泉町)南東方約
 2粁。
医療
 太田町に病院1,医院10あり。
宿泊
 太田町に旅館5(収容員数計147)あり。
応急修理
 南方約1粁に在る中島飛行機株式会社小泉製作所に依るを可とす。
航空需品
 小泉町に在る海軍第三燃料廠に相当量の航空用燃料を貯蔵す。

交通、運輸及通信
鐡道
 西小泉駅(東武鉄道小泉線)南方約1.5粁・西小泉-太田町及舘林間は
 昭和18年6月より電化予定なりと言う。
乗合自動車
西小泉駅前より西は尾島町に、東は舘林方面に至る乗合自動車便あり。
道路
 本場より北は太田町、南は小泉製作所に通ずる飛行場専用道路あり。
運送店
 小泉町及太田町に運送店2、貨物及乗用自動車各約50台あり。
電信及電話
 小泉郵便局(電信及電話取扱)南東方約2粁・場内に電話(小泉48番)あり。

気象
測候所
 熊谷測候所(熊谷市大字熊谷)南方約12粁。
地方風
 本場は開設以来日尚浅く統計資料なきを以て熊谷測候所に於ける45箇年
 間の統計を参考に記載す。(以下月ごとのデータ省略)
地方特殊の気象
 夏季に於ける雷雨は概ね榛名山方向に発生し利根川に沿い南東方に移動す
 るを常とす。
気象予察の俚諺
 青葉の候に西風あらば3日以内に天候変る・春及夏季の雨は南東方向の雲
 切るれば晴、冬季は山頂の雲切るれば晴と言う。

其の他
本場は昭和14年10月中島飛行機株式会社の設置に係る非公共用飛行場にして
目下海、陸軍軍用試作機の試験飛行に主用せられつつあり。

■防衛研究所収蔵資料「本土における陸軍飛行場要覧 第一復員局(陸空 本土防空7)」

にも当飛行場の情報がありました。

飛行場名  太田
位 置   群馬県新田郡太田町
規 模   要図(長さの数字がかすれて判別できず)
舗 装   一二〇〇米
      基礎割栗石敷
      表層アスファルト乳剤
      厚五糎
付属施設
 収容施設 ■〇〇〇名分
 格納施設 掩体 大六〇ヶ所
摘 要   施設民有

 

日本軍の軍用機の一大生産拠点だった当地は当然米軍の主攻撃目標とされ、たびたび空襲を受けます。

特に1945年2月には大規模な空襲を受けたのですが、

それでも太田製作所で完成したヒコーキの検査、納品は変わらず当飛行場で行われたのだそうです。

手順は、

製作所→太田飛行場→給油ライン試験→地上試験→飛行試験→政府へ納入

という段取りでした。

そして終戦。

工場からヒコーキを運ぶ専用道路は、戦後も長らく「専用道路」と呼ばれていたのだとか。

その立派な道路は現在も残っています。

ということでお邪魔してみました。

無題.png

D20_0006.jpg

青マーカー地点。

飛行場から太田製作所に伸びる専用道路

無題0.png

D20_0011.jpg

赤マーカー地点。

飛行場から「小泉製作所」に伸びる専用道路

小泉製作所は海軍専用工場として太田製作所の後に建てられました。

1941~1945年まで、零戦を主力に九七式艦攻、月光、天山、彩雲、銀河等約9,000機が生産されました。

当時は零戦がこの道路を通って続々とやって来たのですねぇ。

ちなみに戦時中にジェット機を飛ばすことができたのは、

ドイツ、イギリス、アメリカ、日本なのですが、

日本製ジェット機の組み立て、エンジンの試運転はここで行われました(初飛行は木更津)。

D20_0014.jpg

この道は飛行場のすぐ南を走る国道354号線なのですが、

地元の方の言い伝えによりますと、この道路は緊急着陸用の滑走路とされていたのだそうです。

無題.PNG
写真:国土画像情報(オルソ化空中写真) 国土交通省
撮影年度:1974年 地区名:足利南部 編集・加工:空港探索・とり

1974年当時の様子。

この飛行場は戦後米軍が使用したため、終戦から30年経っていますがまだ滑走路跡が残ってますね。

余談ですが、新田(生品)飛行場の記事 で群馬名物赤城颪のことと、

「滑走路の(ほぼ)延長線上に赤城山がある」ということを書きましたが、

この太田飛行場の滑走路の向きも同様です。

現在飛行場跡地には、富士重工の群馬製作所大泉工場が建てられ、スバル車のエンジン、ミッションなどを作っている他、

広大なモータープールになっています。

D20_0028.jpg

太田運動公園から:(多分)富士重工部品センター

D20_0029.jpg

同じく太田運動公園側にある門

自動車業界も大不況の折ですが、大きな車が盛んに出入りしてました。

D20_0035.jpg

敷地の南端部分:敷地のこちら側は広大なモータープール。

今にも ぶーん。 とヒコーキが飛んできそうな・・・

D20_0038.jpg

南端には公園駐車場が整備されていて、周囲を徘徊するのに利用させていただきました。


    群馬県・太田飛行場跡地     

太田飛行場 データ
管理者:中島飛行機株式会社
種 別:非公共用陸上飛行場
位 置:群馬県邑楽郡小泉町大字上小泉字対比地(現群馬県太田市龍舞町)
座 標:N36°15′5″E139°24′2″
標 高:27m
面 積:99ha(1,600mx1,000m)
滑走路:1,300m×70m(アスファルト舗装)
方 位:13/31
(方位はグーグルアースから)

沿革:
1938年10月 「太田飛行場敷地小泉町関係地主協議会」開催
       売り渡し価格決定の方法が協議される。委員選定
    11月 土地価格基準書作成
    12月 敷地代金ならびに補償料支払い通知が出される
1939年03月 03日 起工式
1941年02月 15日 開場式
1945年02月 10日 太田大空襲 飛行場は無事だった    
       終戦、接収 米陸軍飛行隊駐留
1959年 この頃工場の一部返還、返還運動が活発化
1969年 日本に返還、これにより群馬県のすべての施設が返還された。 大蔵省所管
1983年 富士重工群馬製作所大泉工場が稼動

関連サイト:
中島飛行機の想い出 「後期」

この記事の資料:
群馬の戦争遺跡
太田市史史料編 近現代
防衛研究所収蔵資料「関東地方飛行場及不時着陸場 昭和18年8月刊行 水路部」
防衛研究所収蔵資料「本土における陸軍飛行場要覧 第一復員局(陸空 本土防空7)」
「21世紀へ伝える航空ストーリー 戦前戦後の飛行場・空港総ざらえ」


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尾島飛行場跡地 [├空港]

  2009年6月、2016年4月訪問 2022/12更新  


無題.png
国立国会図書館デジタルコレクションPhotos Nos. 1 to 2950, incomplete, and Takamatsu, Tachikawa emergency landing grounds (Joint Target Group numbers). (Cont.) Report No. 1-e(1), USSBS Index Section 7 
バッチリマークされてますね。(PUTINさんから情報いただきましたm(_ _)m) 

無題4.png
撮影年月日 1946/06/08(昭21)(USA M159-A-5 99)  
出典:国土地理院ウェブサイト(地理院データを加工して作成)


滑走路位置の特定がなかなかできないまま記事をアップしていた「尾島飛行場」なのですが、

■「航空路資料第3 関東地方飛行場及不時着陸場 昭和18.8 水路部」

の中に、尾島飛行場の詳細な地図があり、これまでどんなに探しても出てこなかった着陸帯、

格納庫、油庫等の位置がハッキリと図示されていました(;´Д⊂)

その通りに作図したのが上図です。

「尾島飛行場は群馬県と埼玉県に跨っている」という点は幾つもの資料に出ているのですが、

実際に資料の通りに線を引っ張ってみると、着陸帯はほぼ埼玉県にあります。

中島飛行機の創設者、中島知久平の出身地は、群馬県新田郡尾島村字押切(現在の群馬県太田市押切町)。

「これからは航空機の時代である」との信念の元、海軍を辞して地元に戻り、ヒコーキ工場と飛行場を造ります。

2つ前記事の「中島新邸」のすぐ近くに作ったデコボコの滑走路こそ、尾島飛行場。

後に中島飛行機は爆発的な発展を遂げ、太田市に巨大工場群と太田飛行場という立派な飛行場を作ります。

「中島飛行機」というと、この太田市の大工場と飛行場に目が向きがちですが、

中島飛行機が発足したばかりの時期、できたヒコーキを飛ばしていたのはこの「尾島飛行場」でした。

 

前述の通り尾島飛行場の敷地は群馬県、埼玉県にまたがっており、ほとんどが県の所有地でした。

そのため両県の知事に許可を求める必要がありました。

テスト飛行開始翌年の大正8年、 群馬県内地域が2月20付、埼玉県内地域が2月12日付で、

飛行場として正式に認可されました。

これを祝して4月25日に尾島飛行場開場式が行われました。

大正8年4月26日付の上毛新聞には、「尾島飛行場の開場式盛大に挙行」として、

「新田郡太田町日本飛行機製作所尾島飛行場開場式は、25日、利根川原なる同飛行場において盛大に挙行されたり。

数万の観衆が見守る中、練習用125馬力中島式5号にて絶技を演ず」。

という記事が載りました。

 

ヒコーキ製作の会社を立ち上げ、記念すべき第1号機が完成し、早速尾島飛行場に運んでテスト飛行を開始したのですが、

当初は失敗の連続で、なかなか満足に飛ばすことができませんでした。

そのため当時太田の町では、

「札はだぶつく、お米は上がる、何でも上がる。上がらないそい中島飛行機」

「飛行機乗りには娘はやれぬ 落ちたヒコーキで芋を掘る」

などという落首が流行ったのだそうです。

後に国内の飛行機メーカーとしては三菱と双璧を誇り、

「中島と三菱に作れないもの即ち国産化不可能」とまで言われるようになった中島にも、こんな創生期があったのですね。

 

■国立国会図書館デジタルコレクションに「報知年鑑.大正16年」があり、

この中に、本邦民間飛行場調〔大正15.8〕として27の民間飛行場の一覧がありました。

当飛行場関係箇所を引用させていただきます(下記リンク参照)。

使用者 中島知久平
種類 陸上
位置 群馬県新田郡尾島町大字堀口押切埼玉県大里郡男沼村字小島出来島、間々田の5大字に跨る
面積 231,179坪

押しも押されぬ軍用機メーカーの飛行場なんですが、民間飛行場なんですね。

無題k.png
1/50000「深谷」昭和14要修・昭和15.9.30発行「今昔マップ on the web」より作成

昭和14年の地図。

上述の飛行場開場式から既に20年も経過しており、

一方太田飛行場の開場式は昭和16年でしたから、この時点ではまだありませ。

ここがメインの飛行場だったのですが、ものの見事に単なる河原ですね。

中島邸も、母屋の上棟が昭和5年なのですが…

「今昔マップ」にも「戦時改描の可能性」とあります。

 

上述の防衛研究所収蔵資料「航空路資料第3 関東地方飛行場及不時着陸場 昭和18.8 水路部」

から、当飛行場の部分を以下引用させて頂きます。

第2 尾島飛行場(昭和18年2月調)
管理者 中島飛行機株式会社。
位置 群馬県新田郡尾島町大字押切、埼玉県大里郡男沼村大字小島。
   (尾島町の南東方約2.5粁、北緯36°14′5、東経139°20′6)。
種別 地方公認陸上飛行場。

着陸場の状況
高さ
 海抜約30米。
広さ及形状
 本場は長さ東北東-西南西最大1,400米、幅南北最大482米の箆形地区に
 更に東北東外側に在る畑地の南側に沿い長さ東西600米、幅50-150米の
 整地地区を含む東西に狭長なる地域なり・着陸地域は概ね図示の長さ略
 東西1,300米、幅南北200-300米の四辺形地区なり(付図参照)。
地表の土質
 沙礫を混ずる尋常土。
地面の状況
 本場は利根川左岸沙洲の発達せる河原にして河面より高さ約3米の護岸工
 事を施し且沙礫の上に尋常土を約1尺盛土し整地工事を施したるものなり
 ・地表は凸凹起伏なき平坦地なるも全般的に南方河岸に向け1/400の下り勾
 配を為す・着陸地域及其の付近一帯の地盤は堅硬にして一面に良好なる芝
 及雑草を生じ冬季は刈取手入を施す・排水概ね良好なるも降雨の為地盤軟
 弱となりたる箇所は常時転圧しあるを以て降雨直後と雖も離着陸に支障な
し・場内北西部より格納庫の前面に至る「コンクリート」舗装の誘導滑走
 路1條あり。
場内の障碍物
 なし。
抵当なる離着陸方向
 東北東又は西南西(堤防に平行方向)。
離着陸上注意すべき点
 冬季北風強吹する場合は着陸稍困難なり・場の北側に沿へる高さ3米の堤
 防に注意を要す。
施設
 格納庫(間口49米、奥行54米、軒高9米)2・其の他大型機10、小型機
 40収容し得るもの1あり・飛行場事務所・修理工場1・油庫2・電動機
器室1・休息所及見張所等あり。
昼間標識 吹流1(北西部の堤防上に在り)。
夜間標識 なし。

周囲の状況
堤防
 場の北側に沿い高さ3米、幅7米の堤防ある外付近に障碍となる山岳、丘
 陵及樹林なく四周概ね開闊なり、特に利根川河流に沿う略東西方向は開闊
 なり。
河川
 場の南側に沿い南東流する利根川あり大洪水の際は場内に浸水することあ
 り・場の南西端付近より対岸の埼玉県下に連絡する人馬用の渡船場あり。
建築物
 場外北西方に格納庫(高さ15米)4及其の他の付属建築物、北方に中島邸
 及押切村落の人家あり。
着目標
 利根川、妻沼鉄橋、格納庫、吹流。

地方の状況
軍隊及憲兵
 東部第3784部隊(太田町大字小舞木)北東方約7粁・太田憲兵分遣隊(太
田町)北東方約8粁。
警察署及役場
 太田警察署(太田町1丁目)北北東方約10粁、尾島駐在所(尾島町)北西
 方約2.5粁・尾島町役場(尾島町)北西方約2.5粁、男沼村役場(埼玉県大
里郡男沼村)南方約1粁。
医療
 尾島町に医院3、太田町に医院5あり。
宿泊
 尾島町(北西方約2.5粁)に旅館1(収容員数約40)・太田町(北北東方約
10粁)に旅館5(収容員数計147)あり。
清水
 場外格納庫付近に水質良好なる動力「タンク」式井戸2あり。
応急修理
 本場の修理工場にて応急修理程度は可能なり、大修理は中島飛行機株式会
 社小泉工場(東北東方約6粁)に依るを可とす。
航空需品
 本場に相当量の航空用燃料及潤滑油を貯蔵す。

交通、運輸及通信
鐡道
 木崎駅(東武鐡道伊勢崎線)北西方約4.5粁、中島飛行機株式会社小泉工
 場(東北東方約6粁)内に東武鐡道小泉線の引込線あり。
乗合自動車
 尾島町より北は太田町、東は小泉町、西は境町の各方面に至る乗合自動車
 便あり、最寄停留所は尾島町(北西方約2.3粁)なり。
道路
 場の西側に沿い北は尾島町を経て太田町方面に、南は利根川を介して対岸
 埼玉県下に至る幅員6米の県道あり又場の北側に在る堤防上の道路は東方
 小泉町に連絡す。
運送店
 木崎駅(北西方約4.5粁)前に木崎合同運送株式会社(トラック1台)あり
 ・尾島町(北西方約2.3粁)に新田合同運輸有限会社(乗用車3台)あり。
電信及電話
 尾島郵便局(電信取扱)北西方約2.5粁・飛行場事務所に電話(太田544番)
 あり。

気象
測候所
 熊谷測候所(埼玉県熊谷市)南南東方約12粁、毎日1回(午前8時頃)航空
 気象を観測す。
地方風
 夏季は東南東風多く稀に南風あり・冬季は北西風多く稀に北風あり・
 4-10月間は約1乃至4米/秒の東南東風、11-翌年3月間は約5乃至8米/秒の
 北西風吹くを常とす。
天候
 熊谷測候所(南南東方約12粁)に於ける2557-2600年44箇年間の統計次
 の如し。(以下月別データ省略)
地方特殊の気象
 夏季は特に雷雨多し・気流は一般に良好なるも冬季北風強きときは不良な
 りと言う。
気象予察の俚諺
 春季より夏季の間北方の山岳見ゆるも南東方に黒雲の生ずるときは雨とな
 ること多し・秋季は北西方の赤城山見えざるときは雨となる。

其の他
1. 本場は中島飛行機株式会社試作機の試験飛行場なるも最近立川陸軍飛行学
 校尾島分教場開設に因り陸軍機の訓練飛行に主用せられつつあり。
2. 本場の北東方約6粁に中島飛行機株式会社の設置せる太田飛行場(本誌第
3参照)あり。
3. 昭和10年利根川大氾濫の際飛行場全面3日間浸水せしも減水後翌日より
 離陸可能、1週間後より着陸可能と為れりと言う。

整備地区と着陸地域は堤防で隔てられていた訳ですが、ヒコーキが行き来できるように、

コンクリート舗装の誘導路で連絡していたんですね。

また、なんとなく河原をそのまま使っただけなのかと勝手に思っていたんですが、

「高さ3mの護岸工事、1尺(約30cm)の盛土をして整地」とあります。

凄い手間かかってますね(@Д@)

 

尾島飛行場は終戦まで使用されていたのですが、

その後の尾島飛行場に関しては、ほとんど資料が残っていません。

市史に「1945年7月28日 関東地方に来襲したP51 240機が太田、尾島、生品、赤堀各地を銃撃」

とする記録が残っている程度です。

生産が拡大すると、中島飛行機は太田市中心部に拠点が移動してしまい、

中島飛行機についての記録もそちらに話が移ってしまいます。

尾島飛行場には戦後ほどなく酪農家が入植し、今に至るのだそうです。

DSC_0043.jpg

撮影地点・1 土手の上から滑走路方向

DSC_0059.jpg

撮影地点・2 格納庫、油庫等があった辺り

当時はここからコンクリート製の誘導路で飛行機が滑走路に行き来していたんですね。

DSC_0047.jpg

撮影地点・3 この先に格納庫等がありました。


   群馬県・尾島飛行場   

尾島飛行場 データ
設置管理者:中島飛行機株式会社
種 別:地方公認陸上飛行場
所在地:群馬県新田郡尾島町大字押切、埼玉県大里郡男沼村大字小島(現在の群馬県太田市押切町)
座 標:N36°14′5″E139°20′6″
標 高:30m
面 積:76.4ha
滑走路:700mx300m 緊急時には1,000mx600m(水路部資料では1,300mx200-300m)
方 位:07/25?
(方位はグーグルアースから)

沿革
1917年    測量
1918年    整備され、滑走路使用可能の状態に。中島一号機のテスト飛行始まる
1919年04月 25日 尾島飛行場開場式
1943年   この頃立川陸軍飛行学校尾島分教場開設
1945年    終戦 入植

 

関連サイト
国立国会図書館デジタルコレクション/報知年鑑.大正16年(225コマ) 
太田(太田小泉)飛行場跡地 
中島新邸 

この記事の資料:
太田市史通史編 近現代
群馬の戦争遺跡
歴史のなかの中島飛行機
防衛研究所収蔵資料「航空路資料第3 関東地方飛行場及不時着陸場 昭和18.8 水路部」


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新田(生品)飛行場跡地 [├空港]

  2009年5月訪問 2022/12更新  


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撮影年月日1947/10/27(USA M606 36) 
出典:国土地理院ウェブサイト(地理院データを加工して作成)


群馬県太田市新田市野倉にかつて「新田陸軍飛行場」がありました。

兵器の主力は戦艦から航空機の時代へ移行し、陸軍内部でも航空機の増強が叫ばれ始め、

飛行機の操縦者を大量に養成する必要が出てきました。

操縦技術を習得する専門学校として1935年に熊谷陸軍飛行学校開校。

その実習地として選ばれたのが当地区だったのだそうです。

 

因みにここから北北西6.2キロのところに前記事でご紹介した桐生愛国飛行場が、

そしてここから南東11.2キロのところに太田小泉飛行場がありました。

それぞれ成り立ちの異なる飛行場なのですが、すごい密度ですね。

飛行場は上図の周囲の道路などまったく無視した四角の地割部分がそれです。

一辺1.6キロという広範囲に渡って周辺と45度のズレがあるため、

地元の方でも方向感覚を狂わされるそうです。

余談ですが、群馬県といえば「かかあ天下と空っ風」。

この「空っ風」とは、当飛行場の北西(飛行場の向きのほぼ延長線上)にある

赤城山から吹き降ろす強風のことで、この赤城颪などを考慮したためにこんな向きになった。

という話があるのですが、陸軍の方形の飛行場って、全国的にこんな向きが多いんですよね~。

■防衛研究所収蔵資料「陸空-本土防空-48飛行場記録 内地(千島.樺太.北海道.朝鮮.台湾を含む) 昭19.4.20第1航空軍司令部」

に 新田飛行場(昭十八・七・六) 地図がありました。

先頭のグーグルマップ、四角の飛行地区が道路でほぼ半分になってますが、これは同資料の地図から作図しました。

西側が850mx1,600m、東側が750mx1,600m(東部の施設区画除く)と記入されています。

同資料の情報を以下記させて頂きます。

位置
 群馬縣新田郡生品村
積量
 約二,五六〇,〇〇〇平方米
地表の状況
 北方に向1/300の勾配あり全般には概ね平坦なるも芝着甚だ
 悪く土質は全般砂土にして季節風に依り砂塵猛烈なり
周囲の状況
 飛行場南北側約二〇〇米まで一般に耕作地及荒地にして
 民家及大なる道路なきも外周に山林多し
天候気象の交感
 十一月頃より三月頃まで北西の風強く降雨少量のため風埃多
 し 天気は良好なるも温度は季節風のため低し温度は天
 気良好なるため少し四月より十月頃迄は風弱く南東より
 吹く天気平均良きも夏季雷雨甚し
格納施設
 現用格納庫一棟三九六〇平方米(九七式重爆撃機
 一〇機)假授受末済格納庫一棟 □右 假授受末済
 飛行機工場一棟三一九〇平方米
居住施設
 兵舎一棟学生少飛生一八〇名 営内下士官二七名兵二名
 假空中勤務者控所(営内下士官四名)
営外者住宅関係
 一、治良門橋付近の部落は収容力なく太田町中島飛行
   機会社所在するため勿論余力なきも辛うじて主力は治良
   門橋其の他は伊勢崎、大間及桐生、大田(ママ)及飛行場付近
   の部落に散在し在り
 二、工員約〇〇名は付近に下宿しあるも地方の米□(麦?)不足のため営内
   に於て兵食を実費支払いにて給しあり
交通連絡の状況
 最寄駅(東部鉄道治良門橋駅及藪塚)迄約三粁ありて
 其の間定期連絡機関なし道路も未だ移管完了せざるため放置
 しありて路面状況極めて不良なり
其の他
 (記載無し)

■防衛研究所収蔵資料「陸軍航空基地資料 第1 本州、九州 昭19.10 水路部」の中で、

当飛行場の地図があり、先頭のグーグルマップはこの地図から作図しました。

同資料の情報を以下引用させて頂きます。

「新田陸軍飛行場 群馬県新田郡生品村 36°20′0N 139°18′5E」

面積 北西-南東1,600米 北東-南西1,600米 総面積257萬平方米
地面の状況 北東-南西に向け1/120の下り傾斜を為す
硬度は普通にして一面に芝密生す
排水概ね良好、冬季風塵立ち昇る
目標 太田町、東武鉄道桐生線
障碍物 東方約2粁を距てて高さ200米の山脈あり
北、東及西方一帯は森林地帯なり
離着陸特殊操縦法 (記載なし)  
格納設備 格納庫 鉄造(80x50米)1棟 木造(32x41米)1棟、(75x41米)2棟
照明設備 (記載なし) 
通信設備 (記載なし)  
観測設備 陸軍気象観測所あり、航空気象を観測す
給油設備 (記載なし)  
修理設備 (記載なし)  
宿泊設備 (記載なし)  
地方風 (記載なし)  
地方特殊の気象 夏季雷雨多し
交通関係 治郎門橋駅(東武線)東方2粁
東側に隣接して太田町及桐生市に至る県道あり
其の他 (記載なし)  
(昭和18年4月調)
 

■防衛研究所収蔵資料「本土における陸軍飛行場要覧 第一復員局(陸空 本土防空7)」

にも当飛行場の情報がありました。

飛行場名  新田
位 置   群馬県新田郡生品村
規 模   要図(南北1600)
舗 装   ナシ
付属施設
 収容施設 三〇〇名分
 格納施設 (記載無し)
摘 要   施設軍有

この要図には、飛行場の敷地の上に矢印が描かれています。

矢印の向きは南東([右斜め下])で、特に何の説明も記されていません。

飛行場の要図でしばしばこうして[右斜め下]が描かれる場合、恒風を示していることが多いです。

この[右斜め下]が恒風を示しているとするなら、飛行場敷地の方形とは、向きが数十度ズレています。

まあ四角の敷地を対角線に使用した方が、滑走距離を長くとれますしね。

D20_0012.jpg

県道332号線のところから撮影してみました。

この真っ直ぐの道が飛行場の南東の境界線。向かって右側が飛行場跡です。

(向こう側に渡ってから)カメラを右側に振ってみると…

D20_0010.jpg

こんな感じ。

おや?

画面左側の草むらに何かありますね? 

行ってみましょう(わざとらしい)。

D20_0006.jpg

赤マーカー地点。

「少年飛行兵操縦教育校 旧陸軍熊谷飛行学校 陸鷲修練之地 新田教育隊跡地」

とありました。

ところでこの飛行場の呼び名なのですが、

サイトによって「新田飛行場」、「生品(いくしな)飛行場」と名称が異なります。

飛行場があった当時ここは、「新田郡生品村」でした。

おおよそですが、軍関係は「新田飛行場」と呼び、

地元自治体は「生品(いくしな)飛行場」と呼んでいるケースが多いような気がします。

因みに「新田町の歴史年表」では、「生品飛行場」と表記されていました。

この場所はその後どんどん合併が進み、生品村→新田町→(現)太田市と変化しました。

予備知識なしで一から調べるオイラのような部外者にとって、

平成の大合併はまったくもってやっかいです。

新田飛行場.JPG
写真:国土画像情報(オルソ化空中写真) 国土交通省
撮影年度:1974年 地区名:桐生、上野境 編集・加工:空港探索・とり

1974年の写真。

D20_0018.jpg

D20_0014.jpg

上の2枚は、飛行場跡地のほぼ真ん中の風景です。


   群馬県・新田(生品)飛行場跡地   
当時は掩体壕が30基ほどあったのだそうです。

新田(生品)飛行場 データ
設置管理者:日本陸軍
種 別:陸上飛行場
所在地:群馬県新田郡生品村(現・太田市新田市野倉)
座 標:36°20′0N 139°18′5E
標 高:74m
飛行地区:1,600mx1,600m
面 積:257ha
(標高はグーグルアースから)

沿革
1938年03月 生品飛行場完成。一番機飛ぶ
1944年09月 19日 生品飛行場の練習機同士が生品村国民学校上空で衝突。搭乗員全員死亡
       12月 飛行場内に中島飛行機太田製作所の疎開工場が設けられる
1945年07月 01日 朝6時、艦載機の編隊2~10機が太田、生品飛行場に爆撃、機銃掃射
       同日9時半から約40機が主力をもって生品飛行場攻撃
       ?日 12機の艦載機により空襲を受け、石油に引火して火災発生 
       10日 機銃掃射、爆撃を受け、飛行場としての機能喪失 
       28日 熊谷方面から3編隊で進入、P51 240機のうち数十機が太田地方へ、
       このうち3機は生品を攻撃(米軍資料では都良崎を主目標とした26機が生品も攻撃。となっている)
    08月 14日 夜、生品飛行場および市野井、村田など空襲
    10月 14日 生品飛行場に40人進駐
1946年03月 12日 生品飛行場跡地に入植開始

関連サイト:
電撃! 激坂調査隊が行く/旧陸軍の飛行場跡をめぐる      
↑情報の極めて少ない飛行場なのですが、非常に良質のサイトです。
オイラもこんな記事が書けたら…と思いました。脱帽です。

この記事の資料:
鳥之郷国民学校昭和20年度教務日誌
太田市通史編 近現代
群馬の戦争遺跡
新田町誌第一巻「通史編」別冊付録・新田町の歴史年表
防衛研究所収蔵資料:陸軍航空基地資料 第1 本州、九州 昭19.10 水路部
防衛研究所収蔵資料「本土における陸軍飛行場要覧 第一復員局(陸空 本土防空7)」
防衛研究所収蔵資料「陸空-本土防空-48飛行場記録 内地(千島.樺太.北海道.朝鮮.台湾を含む) 昭19.4.20第1航空軍司令部」


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桐生愛国飛行場跡地 [├空港]

  2009年5月、2016年4月訪問 2023/4更新  

無題8.png
撮影年月日1947/10/29(昭22)(USA R408-No1 47) 
出典:国土地理院ウェブサイト(地理院データを加工して作成)

群馬県桐生市のお隣、笠懸村(現みどり市)にあった「桐生愛国飛行場」。

後述しますが終戦までの10年間だけ存在した小さな飛行場ですので、

かなりマイナーな部類だと思います。

資料によれば、「戦後飛行場跡地は開拓された」と記されています。

上の航空写真は終戦から2年後の飛行場跡地。

パッチワークのように畑が広がっていますが、飛行場跡地の様子が明らかに周囲と異なってますね。


この飛行場跡地には2009年5月にお邪魔していたのですが、おおよその場所しか分かりませんでした。

最近になって「航空路資料第3 関東地方飛行場及不時着陸場 昭和18.8 水路部」という資料をゲットし、

その中に当飛行場についての詳しい地図があったため、現在の地図に落としてみることに。

ところがこの地図とグーグルマップを比較してみると、両毛線と県道69号線はまあいいとして、

それ以外のありとあらゆる道路が当時と現在では違うのです。

とっかかりとなる基準点が作れないため、結局ほとんど目測で作図し、

後からいろいろ数字を見ながらツジツマ合わせの微調整する。

というやり方で作図しました。

上図、これで一応飛行場敷地面積、縦横比、それから飛行場北東の角地と、線路/県道との離れ具合、

数字的にはピッタリです。

数字的には。

まあこれで大きなズレはないかと。 

で、敷地の北東角地に事務所、格納庫があることが分かったので、ここの写真を撮ろうと出掛けたのでした。 

DSC_0103.jpg (オイラの計算が正しければ)飛行場敷地北東の角地はココ。

ここから画面右奥に向かって飛行場だったはずです。 

2010/9/30追記:
すずき@東毛さんの記事「桐生愛国飛行場跡 (みどり市笠懸町)」(下記リンク参照)に飛行場の地図が載っています。

 

歴史

桐生愛国飛行場は1934年に着工、翌1935年3月25日に逓信大臣から非公共飛行場として使用許可を受けました。

開場後どんなことに使用していたかといいますと-

・陸海軍からの委託で飛行学校生がフランス製アポロ式複葉機による落下傘の投下試験
・県下青少年の士気を鼓舞し、銃後に備える心構えを培う啓蒙活動
・旧制中学生や青年団幹部を対象としたグライダー滑空訓練

またこの飛行場から羽田飛行場まで直線距離でちょうど100キロで、

この区間が逓信省乗員養成所の試験コースとして使用されることもあったのだそうです。

 

この飛行場は終戦間際の頃、米軍機の空襲を受けています。

格納庫は跡形もなく吹き飛ばされ、隠してあった飛行機1機が機銃掃射で完全に破壊され、

飛行場とその付近は、機銃弾の薬莢が散乱していたそうです。

こうして桐生愛国飛行場はその機能を失ってしまいました。

これが笠懸村唯一の空襲だそうですから狙い撃ちされたんでしょうね。

よく見つけるもんですね。

 

建設までのいきさつ

陸軍は非常時の国民の精神動員計画の実践として帝国飛行協会を中心に300ヵ所の

「愛国飛行場」建設計画を打ち出しました。

これは、一般市民、非軍需企業からの献金で飛行場を建設して陸軍に献納してもらおうというものです。

当桐生愛国飛行場もこの流れに乗ったもので、

地元桐生の森宗作(有力な織物業者、四十銀行頭取)が航空機の将来性に着目し、

民間有志の手によって航空事業に寄与したいとの念願から建設された飛行場です。

オイラの知る限り、当時の新設飛行場はほとんどが最初から軍が建設したもので、

あとは逓信省と自治体のものがチラホラある程度なのですが、こんなケースもあったのですね。

 

因みに陸軍に飛行機を献納すると、「愛国号」となり、

海軍に献納したものは、「報国号」となりました。

 

飛行場着工の2年前、帝国飛行協会桐生支部の発会式が行われました。

名士の講演会その他の催しなどで航空思想の宣伝に努め、同志を集めることに尽力し、基金獲得を続けました。

愛国美談の献金運動が進んだのだそうです。

こうして集まった基金により、帝国飛行協会桐生支部の事業として飛行場が建設されました。

ここに敷地が決まった理由として、森宗作の所有地がこの用地の一部であったこと、

この事業に共鳴した当時の笠懸村長がここの用地の大半を所有していたことから用地取得が容易であり、

この付近が民家から遠く、特別の障害物もないことなどがあったと言われています。

整地工事の際、地形が西高東低だったため、トロッコを使用して西から東へ土を運んで平坦にしたのだそうです。

余談ですが当時軍(特に陸軍)が建設した飛行場は周辺の地割などお構いなしの真四角のものが多いです。

それと比べるとここの飛行場は周囲の畑に遠慮したようなイビツな形で、

この辺が軍と民間の違いなのかなぁ、と思いました。

 

空襲により機能を失った飛行場はしばらくの間放置されて荒れるに任せてあったのですが、

やがて農地解放の結果、11戸の農家が入植し、立派な農地に生まれ変わり、

戦後の食糧不足を補うのに役立ちました。

こうしたいきさつからこの部落は今でも「就農」と呼ばれているのだそうです。

 

■前出の防衛研究所収蔵資料「航空路資料第3 関東地方飛行場及不時着陸場 昭和18.8 水路部」

にある当飛行場についての情報を以下抜粋させて頂きます。

第1 桐生愛国飛行場(昭和17年12月調)
管理者 大日本飛行協会群馬支部(桐生市役所内)。
位置 群馬県新田郡笠懸村大字鹿字鹿ノ川。
   (桐生市の南西方約6粁、北緯36°22′6、東経139°17′2)。
種別 非公共用陸上飛行場。

着陸場の状況
高さ
 平均水面上約123米。
広さ及形状
 長さ東西430米、幅南北300乃至400米の梯形地域なり・着陸地域は概ね
 図示の長さ北東-南西400米、北西-南東400米及東西310米、幅各20米
 の芝敷滑走路を最適とす(付図参照)。
地表の土質
 赤土を混ずる尋常土。
地面の状況
 地表は概ね平坦なるも北より南に向け1/180の下り勾配を有す・一面に良好
 なる牧草密生し約5噸の重壓に耐え得る硬度なり・降雨及季節に因る影響
 なく且排水良好なり。
場内の障碍物
 なし。

適当なる離着陸方向
 地方風の関係上夏季は南東、冬季は北西を適当と認むるも陸軍機は従来北
又は南に向け離着陸せりと言う。
施設
 第1格納庫(間口14米、奥行14米、軒高2.7米)1・第2格納庫(間口18
米、奥行27米、軒高3.4米)1・飛行場事務所兼休息所1・倉庫1・自動
車庫等あり・合宿所(収容員数50)は目下建設計画中なり。
昼間標識 地名標識「キリフ」(場内の略中央に白書す)・吹流1・着陸
     誘導表示盤(滑走地区の両端に4箇)あり。
夜間標識 なし。

周囲の状況
山岳
 北方約3粁に鹿田山(高さ227米)、東方約3.2粁に茶臼山(高さ約300米)
 等の山岳連互するも付近は概ね平坦地にして特に南方は地貌広濶なり。
樹林
 西方約400米に松林(高さ20米)、南方300米に雑木林(高さ15-20米)
 存在す、其の他の外方周囲は概ね丈低き桑畑又は果樹園なり。
電線
 北西端より外方約80米に鐡道に沿い高さ3米の電話線1條あり。
着目標
 桐生市街、渡良瀬川、東部桐生線、両毛線、格納庫。

地方の状況
軍隊及憲兵
 東部第38部隊、高崎憲兵分隊(高崎市)各西南西方約30粁。
警察署及役場
 桐生警察署(桐生市本町)北東方約8粁、鹿の川巡査駐在所北東方約1.5
 粁・笠懸村役場(鹿の川)北東方約1.5粁。
医療
 桐生市に市立病院、私立病院4及医院50あり。
宿泊
 桐生市に旅館約31(収容員数総計300)あり。
清水
 場内に水質良好なる井水あり。
応急修理
 落下傘性能試験実施の為常時藤倉工業株式会社の地上整備員駐在するを以
 て一時的小修理は可能なり、大修理は中島飛行機株式会社太田工場(南東
方約15粁)に依るを可とす。
航空需品
 本場に相当量の航空用燃料及潤滑油を貯蔵しあり、大量需要の際は中島飛
 行機株式会社太田工場より補給するを可とす。

交通、運輸及通信
鉄道
 岩宿駅(両毛線)北東方約2.5粁、阿佐美駅(東武鉄道)東北東方約3粁、
 桐生駅(両毛及足毛線)北東方約7粁。
乗合自動車
 笠懸村役場前停留所(北方約1.5粁)を経て桐生及前橋方面に、又大原停留
 所(南方約1.5粁)を経て桐生及前橋方面に至る乗合自動車便(何れも東武
 自動車株式会社)あり。
道路
場の東方約400米に北は桐生市、南は太田町及伊勢崎市に至る鉄道あり・
飛行場北東隅より此の県道に通ずる幅員6米の飛行場専用道路あり。
運送店
 桐生市内に運送会社5(貨物自動車総計59、乗用自動車19)あり。
電信及電話
 最寄電信局は北東方約2.5粁の岩宿駅公衆電報取扱所なり・飛行場事務所
 に電話(笠懸25番)あり。

気象
測候所
 前橋測候所(前橋市岩神町)西方約20粁・毎日1回(午前8時頃)航空気
 象を観測す。
地方風
 3-11月間は概ね南東風多きも風力弱し、12-翌年2月間は北西風(俗称
「赤城颪」)多し・冬季赤城山頂に雲ある場合は10米/秒前後の北風強吹す。
天候
 前橋測候所に於ける2557-2600年44箇年間の統計次の如し。(以下月ごとのデータ省略)
地方特殊の気象
 夏季(7、8月)雷雨多く冬季(11-翌年4月)降雪あり。
気象予察の俚諺
 新潟県境より群馬県北部に亙り降雪の場合は北風となる・1箇年を通じ南
 方より雲を生ずる場合は雨となり、冬季は雪となること多し。

其の他
1. 本場は昭和10年3月非公共用飛行場として設置せられ目下藤倉工業株式
会社の軍用落下傘性能試験場として使用中なり。
2. 昭和18年5月着工の予定を以て南側及西側の一部を含む総計約4万坪を
 拡張計画中なりと言う。

1.png
■国立公文書館デジタルアーカイブ 昭和十四年一月 航空要覧 逓信省航空局編輯 帝國飛行協会発行

の中で、「本邦飛行場一覧(昭和十三年十月現在)」非公共用飛行場 として以下記されていました(9コマ) 

名 称  桐生愛国飛行場
経営者  帝國飛行協会
所在地  群馬縣新田郡笠懸村大字鹿ノ川
水陸の別 陸
滑走区域 東西四三五米 南北四三〇米
備 考  (記載無し)

かどや公園の石柱


DSC_0059_00001.jpg
帝國飛行協會桐生支部

DSC_0054_00001.jpg
昭和十年九月十五日建之


飛行場跡地から両毛線を越えた北側に「かどや公園」があります。

公園南東角の駐車場に石柱があり、

「帝國飛行協會桐生支部」と彫られています(先頭のグーグルマップ青マーカー)。

当時飛行場の旗を立てる柱を支えていたと考えられていて、

飛行場内にお住まいの方から預かり保存しておられるのだそうです。

当公園は元々「火鉢博物館」だったんですが、名称変更していると「すずき@東毛」さんから教えて頂きました。

詳しくは下のコメント欄をご覧くださいませ。

「すずき@東毛」さん、ありがとうございましたm(_ _)m 


       群馬県・桐生愛国飛行場跡地      
台風の際、風で飛行機が付近の畑に飛ばされてしまい、監視当番が大慌てをしたこともあったのだそうです。飛行場であった当時の面影は、事務所だった建物の一部が僅かに残されているのみなのだそうです

桐生愛国飛行場 データ
管理者:帝国飛行協会桐生支部長 森宗作、陸軍に献納 
種 別:非公共用陸上飛行場
所在地:群馬県新田郡笠懸村大字鹿字鹿ノ川(現みどり市笠懸町鹿)
座 標:N36°22′6″E139°17′2″
着陸地域:400mx310m(幅20mの芝敷滑走路)
面 積:16.5ha
標 高:123m
風 向:概ね南東、但し12月から2月まで北西

沿革
1932年11月 06日 帝国飛行協会桐生支部発会式
1934年    建設着手
1935年03月 25日 逓信大臣から非公共飛行場として許可
    09月 15日 グライダーの初滑空
1943年05月 拡張工事着工予定
       終戦間際に空襲を受け、飛行場としての機能を失う

この記事の資料:
笠懸村誌下巻
群馬の戦争遺跡
防衛研究所収蔵資料「航空路資料第3 関東地方飛行場及不時着陸場 昭和18.8 水路部」

関連サイト:
すずき@東毛さんの記事「桐生愛国飛行場跡 (みどり市笠懸町)」     


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成増陸軍(高松)飛行場跡地 [├空港]

  2009年4月訪問 2022/12更新  


無題b.png
撮影年月日1944/10/24(C36(8913) C2 398) 
出典:国土地理院ウェブサイト(地理院データを加工して作成)

東京都練馬区。

練馬区といえば光が丘公園ですが(個人の感想です)、ここに日本陸軍「成増飛行場」がありました。

先頭のグーグルマップの飛行場敷地、誘導路、掩体壕は米陸軍マップから作図しました(下記リンク参照)。

1941年12月の対米開戦から破竹の進撃を続ける日本軍に対し、

1942年4月、米軍は軽量化した陸軍の爆撃機B-25を空母から発艦させるという奇想天外な作戦により、

東京をはじめとする都市部を爆撃(ドーリットル空襲)。

戦線を南方に急拡大していた日本軍は、突如本丸に踏み込まれた事実に衝撃を受けます。

本土防空を担当していた陸軍は帝都(東京)防衛強化が急務であることを痛感。

急遽飛行場を建設することにしたのでした。

そして選ばれたのが当時の東京都板橋区練馬田柄、練馬土支田、練馬高松でした。
(*戦後、板橋区の一部が分離して練馬区が発足)

「練馬高松」が由来だと思うのですが住民からは「高松飛行場」とも呼ばれました。

Wikiによりますと、「1943年6月24日 - 飛行用予定地の地権者が、印鑑持参で再び区役所に呼ばれ、買収契約が強制調印され、居住する約60戸に対し、8月末までに立ち退くよう申し渡される。土地は時価より高額で買い取られたが、農作物の補償はなく、移転費用は現物支給である上に、移転期日に間に合わず、移転者は困惑した。」と書かれていました。

■防衛研究所収蔵資料「陸空-本土防空-48飛行場記録 内地(千島.樺太.北海道.朝鮮.台湾を含む) 昭19.4.20第1航空軍司令部」

に 東京飛行場がありました。

同資料の情報を以下記させて頂きます。

位置
 東京都豊島区上練馬
地表の状況
 第一期工事として東西一五〇〇x四五〇の地区の整地を八月
 末までに転圧芝張を九月下旬迄に第二期工事南北一八
 〇〇x五四〇の整地を九月末迄に転圧芝張を十月迄に
 終了の予定
周囲の状況
 南側及北側の道路上に送電線あり 飛行に支障あ
 るものと認む
天候気象の交感
 粘土質の赤土の為完成後と雖も相当期間天候気象
 の交感あるものと認む
付属施設
 第一期工事として本部、中隊兵舎、炊事、浴湯等
 を十月中旬に工坊、倉庫、格納庫等を第二期工
 事として十二月末完成の予定
交通状況
 東上線いけぶくろ発しもあかつか駅より十分以内
 交通便
其の他
 南北方向に滑走路の舗装計画あり

■防衛研究所収蔵資料「本土における陸軍飛行場要覧 第一復員局(陸空 本土防空7)」

飛行場名  成増
位 置   東京都豊島区上練馬
規 模   要図(東西1500 南北1800 滑走路60×1200)
舗 装   六〇×一二〇〇米 基礎砂利圧入一部玉石地形 
      表装コンクリート(調合一、三、六)厚十二糎
付属施設
 収容施設 六〇〇名分
 格納施設 掩体 有蓋三二棟
摘 要   施設軍有

そして終戦。

飛行場は接収されて駐留米陸軍家族のための住宅になり(後に空軍に移管)、

米十八代大統領グラントにちなみ、「グラントハイツ」と命名されました。

何故に大昔の大統領??と不思議だったのですが、グラントは陸軍出身の有名な将軍なのですね。

余談ですが実はオイラ一時期成増に住んでまして、ずっとグランハイツだと思ってました。

周囲でも正しく呼んでた人はいなかった気がします。

その後、ここに住んでいた家族の帰国、移転が進み、徐々に空洞化していきます。

返還運動が始まり、1973年ついにグラントハイツは全面返還されました。

オルソ.PNG
写真:「国土画像情報(オルソ化空中写真) 国土交通省」
撮影年度:1974年 地区名:赤羽、志木、東京西部 編集・加工:「空港探索・とり」

1974年当時の写真。

全面返還が1973年ですからその翌年ですね。

敷地の上の部分が一部東側に飛び出ていますが、1,500mの補助滑走路予定地だったのだそうです。

敷地の3分の1を公園にすることになり、返還の翌年から工事が始まりました。

そして1981年、60.7haの光が丘公園が開園したのでした。

ということで公園内部をうろついてきました。

D20_0016.jpg

D20_0014.jpg

青マーカー地点。

「イチョウ並木」周辺。

園内に図書館があり、郷土コーナーに飛行場時代の地図などあったのですが、

南北に伸びるこの通りの少し西側に並行して滑走路があったようです。

D20_0011.jpg

遠くからでもよく目立つ清掃工場の真っ白な煙突。

ナビ無し車やバイクで走ってた時は方向掴むのに非常にお世話になってました。

D20_0008.jpg

D20_0006.jpg

赤マーカー地点。

園内の体育館と図書館の間、けやき広場の前にある平和記念碑

D20_0002.jpg

平和記念碑(全文) この地には 一九四三年(昭和十八年)帝都(首都)防衛のため成増陸軍飛行場がつくられ 多くの若い生命が空に散っていった。地元住民にとっても 農地を強制買収され 基地づくりに動員された忘れがたい地である。終戦直後の一時期 この広大な地域は米軍キャンプとして接収され米国第十八代大統領グラント将軍にちなみグラントハイツと呼ばれた。その後 多年にわたる返還運動が実り みどりと太陽の武蔵野台地にコミュニティ「光が丘」が誕生した。練馬区は一九八三年(昭和五十八年)に「非核都市練馬区宣言」を制定し 「世界の恒久平和は人類共通の願い」であるとして「核兵器の廃絶と軍縮」を強く訴えている。本年は戦争終結から五十年 歴史の大きな節目の年にあたる。この時にあたり戦中 戦後の歴史の激しい流れを見つめてきたこの地に区民の総意を込めて平和の記念碑を建て 練馬地域の多数の戦没者を悼むとともに 空爆による被災者や第二次世界大戦による内外諸国民の多大な犠牲を省みるものである。ここに練馬区民は 戦争の悲惨さと平和の尊さを心に刻み 平和を守る決意を新たにしたい。 一九九五年(平成七年)八月十五日 練馬区

 

「練馬区史現勢編」119pから始まる「第五節 グラント・ハイツ」の中で、

当飛行場について非常に詳しく記されていました。

飛行場建設の経緯から、敗戦、グラント・ハイツの整備、その後のグラント・ハイツの縮小と、返還交渉、

返還後を見据えた跡地利用についての動き等、記されているのですが、

ここではグラント・ハイツの縮小まで(119~128p)を以下引用させていただきます。

成増飛行場時代
飛行場建設
 昭和十八年の春、太平洋戦争「緒戦の勝利」に酔ったのもつかの間、いよいよ戦局にその激しさが増してきたある日、土支田・田柄地区の地主約五〇〇名は、板橋区役所に呼び出された。とるものもとりあえず参集した人たちを前に、陸軍航空本部の大河内中佐は、戦局の重大さを説いたあと、帝都防衛のための飛行場建設用地として、土支田・田柄地区が最適である旨を説明した。そして半ば命令的に協力方を要請した。言い分がある者はいうようにと付け加えたが、誰も意見を述べる者はいなかった。(中略)
  それより先、昭和一七年に、東京府から、この辺を緑地帯にする計画があるという名目で、測量が行われたことがあっ
た。付近の住民には、一朝有事の時は、ここを避難場所にするというふれこみであった。土地の八幡神社境内を借り受け
て、測量事務所が建てられた。時には、発煙筒などを打ち上げて風向きを調査することもしていた。
 はじめは、今の平和台・早宮地区の平坦な原を候補地にしたそうであるが、気流の関係や、高圧線が通っているので、第
二の候補地である土支田・田柄地区に変更になったという話ものこっている。
 さて、飛行場予定地に該当する地主は六月二四日、再び板橋区役所に印鑑持参で呼び出され、六〇日以内、おそくとも八
月持つ実までには必ず立退くよう申し渡された。
当時の字名別の移転件数は、
高松 十九軒
大門山 四軒
八丁堀 三軒
八丁原 三〇軒
上田柄 一軒
神明ヶ谷戸 (辻庚申も含む)九軒
合計 六六軒
であった。しかし、実際に移転したのは「八〇カマド(世帯)」といって、疎開者や、同居の世帯も含まれていた。
土地はすべて国の買上げで行われ、価格は登記の面積に対して坪当り、
田 五円
山林 五円
畑 一〇円
〃(島地といって良くない所)九円
宅地 十五円
であった。当時、田や山林は坪で三円程度であったので、軍は堂々と闇で買ってやるのだと、恩きせがましくいっていた。
しかし、宅地などは一〇円で売って、いざ移転先を探そうと思っても、なかなか買えなかった。移転を余儀なくされた人た
ちが、六〇日間という限られた期間内に、どれほど苦労したか、筆舌につくせないものがあった。
 土地代金は銀行振込で行われたが、離農補償や立毛補償(作物に対する補償)は全くなかった。移転料としても金銭では一切出ずに、申請にもとづいて、現物支給された。木材は勿論、セメントから釘一本にいたるまで、資材で無償支給された。だが、配給される前に引越し期限がせまって、二重の出費を余儀なくされた家も多かった。
 サラ地で渡すという条件であったために、立木を伐り、住宅を壊しているそばから、飛行場建設の工事は開始されていっ
た。
 赤羽の工兵隊、中野の豊多摩刑務所の囚人、朝鮮人労務者、各種の産業報国隊、動員学徒などが、毎日数千人昼夜兼行で
作業に従事した。東西に横切る田柄川付近が低地であったために、南北の高い土地をけずって整地を行なった。
 しかし、設計にミスがあったのか、のちに中央の主滑走路付近に水が溢れ問題になり、軍の命令によって東側の田柄川が
排水路として使われることになった。それまで、土支田の八丁堀から、田柄に至る約二〇町歩の耕作面積をもっていた田柄
田圃は、このときを機に消滅の運命となった。
 こうして成増飛行場は完成した。(中略)
このほか付近には、高射砲や探照灯の陣地も建設された。また、飛行機の格納と、緊急避難を目的とした掩体壕も築造された。簡単なものは、樹木で覆った程度のものもあった。堅固なコンクリート製のものは、芯に竹を使った。鉄筋よりかえって柔軟で丈夫だったそうである。
 今も、春日町五丁目に高射砲の台座が、田柄四丁目と谷原三丁目に掩体が当時の面影を残している。

飛行第四七戦隊
 昭和一八年一〇月、新たに建設された成増飛行場へ、柏にあった独立飛行第四七中隊がその名も「飛行第四七戦隊」と改称され三中隊編成で移駐してきた。初代の戦隊長は下山登中佐である。第一中隊を旭隊、第二中隊を富士隊、第三中隊を桜隊と呼んだ。
 帝都防衛が目的であったため、配備された飛行機は二式単座戦闘機「鍾馗」七〇~九〇機であった。二式とは戦前の日本で使っていた紀元年号でいう「皇紀二六〇二年」の二年式、つまり昭和十七年、新たに設計製造された最新鋭の重戦闘機のことである。隊員は「二単」の愛称で呼んでいた。ほかの戦闘機は零戦とか、一式戦、三式戦で通っているが、二式だけは「屠竜」と呼ばれる複座(二人乗)の戦闘機があったので、これと区別するため「二単」といっていた。
 整備隊は総勢六〇〇名といわれ、飛行機の実働率九〇パーセントと、当時の飛行隊の中では、おどろくべき優秀さを誇っていた。整備のすぐれているだけ、付近住民への迷惑度もまた高かった。エンジン調整は夜中の〇時、三時と夜明けの六時の三回行われていた。朝から、いつなん時でも、迎撃に発進できる状態にしておくためである。エンジンの試運転がはじまると、三〇メートルとはなれていないある民家では、たまったものではない。草から、木の葉から、小さな庭木までフッとばされてしまう。鶏も卵を産まなくなるし、牛もあばれてしようがない状態がしばらく続いた。
 ここに飛行場を作った目的の一つに、皇居上空に三分以内でとどくということもあった。「鍾馗」の性能は、それを充分に満たしていた。とくにその上昇力、水平最大速度は、当時のアメリカの最新鋭機グラマンF6Fよりすぐれていたという。長所があれば短所があるのは止むを得ないことで、着陸に難点があった。滑走路をオーバーして先方の建物に、衝突したり、付近の民家や神社の高い木にぶつかることは、しばしばであった。
 ほかの飛行隊ではあまり評判のよくなかった「鍾馗」も、ここでは訓練の成果か、関東地区防空戦隊の最新鋭という折紙
をつけられていた。
 翌一九年になると、米軍はマーシャル群島に上陸(二月)、ついで一〇月、レイテ島に上陸、日本本土空襲がはじまった。その頃、飛行第四七戦隊の中に、体当たり専門の震天制空隊が編成された。一一月二四日、B29迎撃に勇躍、発進した隊員見田義雄伍長は、愛機「二単」の操縦桿をにぎったまま、銚子沖に散華し、体当たり玉砕第一号として、翌日の新聞紙上を飾った。彼は付近住民の間でも人気者であった。若くて好男子で、若い女性にも勿論だったが、男の子にも強い影響を与えたらしく、少年航空兵志願の若者たちがあとにつづいた。
 隊員と付近の住民との交流は親しみの深いものであった。住民もまた戦争遂行に協力を惜しまなかった。昭和二〇年二月一五日は大雪であった。飛行機の発進は全く不可能である。土支田町、田柄町、高松町、春日町の男という男は雪かきに出動した。ひざまでのゴム長などは役に立たない。スコップとモッコだけで、翌日の夜明けまでには、飛行機の発着が出来るまでに滑走路の雪かきを終えた。成増飛行場は、北は川越街道、南は富士街道にはさまれる、一.五㎢に及ぶ面積を有していた。東武東上線成増駅に近いため、一般には「成増飛行場」と呼ばれていたが、地元では、正門が高松にあったために「高松飛行場」と呼んでいた。戦後わかったことであるが、米軍の航空写真にも"TAKAMATSUCHO A/F"と記載されている。当然のことながらB29の攻撃目標に設定されていたわけで、事実、二〇年三月九日と、四月五日の二回にわたって爆撃をうけた。隣接する民家数戸も被爆、炎焼した。
 四月八日大本営陸軍部は「大本営に於ける本土作戦準備計画」なるものを策定し、
…航空関係兵站準備の重点は、飛行機保全施設の強化、特攻機用爆弾の整備、指揮情報通信網の整備、並に航空燃料
の地域別分散確保とし、之が実施は六月末完成を目途とす。
と、命令した。
 飛行第四七戦隊も、その頃までには、「鍾馗」から四式戦「疾風」に機種が改変され、その主力は沖縄作戦参加のため、
山口県小月飛行場に移動していった。
 かくして、敗戦を迎えるわけであるが、戦争遂行を強いられ、先祖伝来の土地を強制的に取り上げられた農民たちの感慨
はまた、ひとしおであった。
 降伏後、日ならず、八月二十四日数台のジープに分乗したアメリカ兵が成増飛行場にやって来た。そして戦いに傷ついた
戦闘機にガソリンをまいて、それに火をつけた。もうもうたる黒煙が翌日まで、土支田・田柄・高松の空を焼いていた。中
に、ベニヤ板で作られた模擬飛行機も何機かあった。日本陸軍に名声を博した飛行第四七戦隊震天制空隊のつわものも、か
くして一片の灰となって練馬の空に消えていったのである。


グラント・ハイツ時代
グラント・ハイツ建設
 昭和二一年にはいると、一部の旧地主の呼びかけによって、飛行場跡に耕作がはじまった。食糧のなかった時代なので、大蔵省もわりあい簡単に許可してくれた。まず、耕作組合を結成、測量も行なって、一反歩程度の単位で耕地整理を済ませ、各戸に割当てた。もちろん中央の主滑走路は、厚いコンクリートで舗装されているので、北側の補助滑走路付近がその耕作地となった。補助滑走路はコンクリートが打ってなかったとはいえ、飛行機が離着陸するのに充分なほど、地面は堅くつき固められていた。耕作にあたっては、スコップが曲るくらいの苦労が重ねられた。
 飛行場に農地をとられ、泣く泣く離農を強いられた人々、二年も三年も、あるいは五年も六年も、軍隊に、外地に、故郷をはなれて出征し、やがて復員して来た人たちにとって、忘れられない練馬の土のにおいであった。
 しかし、耕作は一年程度で終止符をうってしまった。二二年春、三月頃になると川越街道から入る道路の工事がはじまったのである。まきつけはしたけれど、収穫のできる見通しのない、くたびれもうけの耕作であった。「成増建設事務所」の看板が掲げられ、上板橋駅から旧陸軍第一造兵廠(現在の陸上自衛隊練馬駐屯地)まで敷設されていた鉄道線路が新たに延長された。終点の「ケーシー駅」は現在の田柄第三小学校の北側に設けられた。当時の地図によると、「啓志線」と漢字で記されているが、工事責任者のケーシー中尉の名をとってつけられた名称だという。横浜の米軍物資輸送本部から、山手線外廻り経由で、直通の二輌連結車が三〇分おきに運転された。日本の大小建設会社八〇社と、延二八〇万人の労働者が動員され突貫工事で建設が進められた。使用したセメントが七〇万袋だったという。
 昭和二三年六月、アメリカ陸軍の家族宿舎が完成し、「グラント・ハイツ」と命名された。当時の規模は、米軍側の報告
によると次のようなものであった。

…東京都心の北西の飛び地にある。グラント・ハイツは第二次大戦終結後、アメリカ軍が日本政府から没収した。
 三〇〇六の施設の内訳は、総面積四四七・一エーカー(一・八㎢)の土地に七三〇の建物。総床面積二二〇万平方フィート(二〇万五千㎢)。一、二八六の付属の住宅設備。八八人の収容能力を持つ四つのBOQタイプの建物。総道路延長一四・七マイル(二万三六五〇m)。学校、教会、劇場、PX、ガレージ、ドライブイン、民留置、売店、補給部隊付属供給部、将校クラブ、下士官クラブとプールがある。
 第五空軍部隊は、一九五八年七月一日、所有地の支配職務移動の一環として、グラント・ハイツの管理を陸軍から引継いだ。現在の施設は陸軍時代のときと、ほとんど変わらないで残っている。(原文は英文・カッコ内は筆者注)
 
 これでみても判るとおり、飛行場時代よりさらに広範囲にわたって土地接収が行なわれた。米軍の場合は国に対する賃貸
であった。地代は坪当り二五銭。当時の貨幣価値の変動は驚くべきもので、その値上げ交渉のために、田柄地区の地主二
四、五名は「グラントハイツ田柄町地主会」を結成した。地主会の総面積は約三万坪であった。数度の値上げに成功したも
のの、三五年特別調達局の要請で止むなく売却することとなった。当時の価格で坪当り一万一、二千円であった。基地に分断された元の土支田町東側の人々は、しばらくの間、学校に通うのも選挙に行くのも、基地を大きく迂回しなければならなかった。そして親戚つき合いも自然と疎遠になってしまった。

(コラム)グラント将軍
 占領軍がなぜグラント将軍の名をつけたのか理由ははっきりしない。おそらくグラントが世界一周をした帰りみち、明治一二年五月に日本に立ち寄った縁を考えたのであろう。しかし、日本にとっての恩人の名も現代では通用せず、多くの人がクランドハイツと呼んでいた。ひろびろとした旧飛行場の跡であるからグラウンドと思ったのも無理はない。
 一八二二年四月、オハイオ州の生れ。軍人としての教育を士官学校で受け、メキシコ戦争に参加後、退役していたが、南北戦争が起こると北軍の義勇軍大佐として奮戦、つぎつぎに南軍を打ち破り、ついに北軍の総帥になり、六五年四月には南軍の知将リー将軍を降し、戦争を終結にみちびいた。六九年には共和党から推されてアメリカ第一八代の大統領に就任した。しかし、政界の腐敗事件のため二期で辞任した。
 前大統領グラント一家の来訪は、維新後まだ日の浅い日本にとっては、ある意味では大事件であった。その歓迎方法について数か月前からあれこれ議論したが、欧米流にやるのが良いだろうということになって、外国事情に詳しい渋沢栄一と福地源一郎(二人ともこの前年外国にならって設立した「東京商法会議所」の会頭、副会頭である)が案を練り、宿舎は芝離宮、七月三日の横浜到着のときは、祝砲二一発を放ち、岩倉右大臣、伊藤博文以下参議各官の出迎え、東京では、昼食会、夜会、観劇(新富座)さらに上野公園での天皇臨御の上での大歓迎会など計画し実施された。
 グラントは、この好意に深く感謝した。折からわが国と清国との間に琉球の帰属について論争があり、清国は琉球が古くから清国に朝貢していたことを理由に自国領を主張していた。しかし島津藩の解体によりわが国は琉球を日本の国土として考えていたので衝突したのである。グラントは日本の主張を正しいものとして清国との間にはいり、一応これを解決した。グラントは、さらにわが国の対外政策にも多くの助言をおこない、海外事情にうとい政府を激励して帰国した。
 上野公園にグラント夫妻が記念に植樹したヒノキとギョクランがあり、グラントの横向きの銅板レリーフが記念碑として立てられている。像の下に「平和をわれわれに」と英文でしるされている。グラント・ハイツもその役割を果そうとしたのであろうか。

練馬の中のアメリカ
 ゲートと、金網のバリケードに守られたアメリカ人の国が、練馬の真ん中に出現したのである。移転してきた軍人家族は千二百世帯といわれていた。日本人従業員も最多時で五千人いたという。一戸に必ずメイドが一人つき、階級の上位の軍人家族には、ボーイや運転手がいた。通勤のメイドも中にはいたが、多くは住込みか、メイド寮に収容されていた。メイド寮は学校の校舎並みの大きな二階建ての建物であった。ボーイの養成所もあって、会話やマナーを教えていた。
 メンテナンスといって、施設の維持管理や、補修を行う管理事務所にも、多くの日本人従業員が仕事にたずさわってい
た。このほか、前掲の米軍レポートには記載がないが、電話局、ローラースケート場、ゴルフ練習場、陸上トラックなどの
施設ができた。
 川越街道からゲートのあった赤塚新町にかけて、米軍相手の商店が建ち並んでいた。カラフルな衣装や、アメリカ人好み
の珍しい品々に土地の人々はただ、目を見張るばかりであった。日本人女性のいるカフェーなどもあったが、朝霞のキャン
プと異なって、家族住宅であったため治安はわりあい良好であった。
 子供の悪戯は今でも万国共通である。金網をぬけ出しては、付近の民家の柿の実や、草花を取って喜んでいる姿は、日本
人の子供と少しもかわらなかった。家族ぐるみのつき合いをしている家も少なくなかった。誕生日の祝いとか、クリスマス
とかに、招んだり、招ばれたりしていた。
 消火栓や貯水槽の不完全な時代であったのに、ハイツの中は完備されており、付近の日本人住宅の火事にも、その防火施
設が活躍してくれた。衛生管理も行きとどいていた。夏季の害虫駆除は、飛行機を飛ばして薬剤散布を行なった。付近の一
般住宅にも、ハイツの従業員が来て作業をしてくれた。おかげで米軍のいる間は、付近に蚊や蠅が全くいなかった。ただ、
虫がいないので花をつける胡瓜、茄子、トマトなど果菜類の栽培はできなかった。
 ハイツに隣接の農家は、鶏二〇羽、豚三頭、牛一頭以上の飼育はしないよう指導されていた。人糞など不潔な肥料は、もちろん、厳禁であった。
 昭和三四年の春から、ハイツは逐次、立川・横田基地へと移転していった。
 同年四月、東上線上板橋駅・グラント・ハイツ間、六・三kmのケーシー線が完全廃止となった。建設途上の昭和二二年には延一万六〇九〇車(二万一七九二t)二三年には一万三四七五車(五万一五一四t)もの資材輸送を行っていた本線も、住宅完成後は当然ながら、わずかに日用品を輸送するのみで、その量は大幅に減少していた(『東武鉄道六十五年史』)。
 基地縮小がすすむにつれて、日本人従業員の離職問題が表面化してきた。これより先、東京都ではハイツ完成後も間もない昭和二三年一二月、田柄町に「成増労務管理事務所」を設け、引き続き駐留従事者の管理にあたっていた。その後、この「成増労管」は「新宿労管」に吸収合併されたものの、離職者には失業保険にあたる補償や、支度金の支給などを行なった。
 練馬区でも、中高年で離職したメイドで、それまで寄宿舎や、米人家族のハウスに住み込んでおり、離職後住宅に困窮す
る人たちに、住宅の斡旋などを行なった。また、メンテナンスや清掃関係に従事していた人々は、離職後それぞれの特技を
生かした会社を設立した。経営的には、なかなか苦しい時代もあったが、区の支援もあって現在は活発な事業をつづけてい
る会社もある。(以下略)


       東京都・成増陸軍飛行場跡地       

帝都防衛基地として調布飛行場と双璧でしたが、末期には特攻隊が移駐してきたそうです。

成増陸軍飛行場 データ
設置管理者:陸軍
種 別:陸上飛行場
所在地:東京都豊島区上練馬(現・練馬区光が丘)
座 標:N35°46′00″E139°37′46″
標 高:40m
規 模:東西1500m 南北1800m
面 積:181ha
滑走路:1,200m×60m(18/36)コンクリート舗装(道路や家屋模様に迷彩が施された)
(座標、標高はグーグルアースから)

沿革
1942年   測量開始
1943年   風向調査
    06月 24日 陸軍と地権者との用地譲渡契約調印
    08月 成増陸軍飛行場着工
    10月  飛行第四七戦隊、柏より改称して移駐
    12月 飛行場竣工
1944年    飛行第四七戦隊に体当たり専門の震天制空隊編成
1945年03月 9日 爆撃を受ける
     04月 5日 爆撃を受ける
     08月 15日 終戦。24日、米兵がやって来る
1946年    耕作組合を結成。飛行場跡地で耕作が始まる
1947年04月 駐留米軍の家族住宅着工
1948年06月 アメリカ陸軍の家族宿舎完成。「グラント・ハイツ」と命名
     12月 東京都、田柄町に「成増労務管理事務所」開設
1955年    居住する米軍の帰国や移転によりハイツ内は空洞化→返還運動が活発になる
1958年07月 1日  グラント・ハイツの管理が米陸軍から第五空軍部隊に引き継がれる
1959年   春、ハイツは逐次、立川・横田基地へと移転
    04月 東上線上板橋駅~グラント・ハイツ間6.3kmのケーシー線が完全廃止
1973年    グラントハイツ全面返還
1981年12月 光が丘公園開園
1992年03月 光が丘団地完成

関連サイト:
U.S. Army Map Service, 1945-1946  

この記事の資料:
現地の碑文
練馬区史現勢編
光が丘の地図集
防衛研究所収蔵資料「本土における陸軍飛行場要覧 第一復員局(陸空 本土防空7)」
防衛研究所収蔵資料「陸空-本土防空-48飛行場記録 内地(千島.樺太.北海道.朝鮮.台湾を含む) 昭19.4.20第1航空軍司令部」


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坂戸飛行場跡地 [├空港]

  2009年3月訪問 2023/6更新  

無題5.png
1946/02/13(USA M44-A-5VT 12) 
出典:国土地理院ウェブサイト(地理院データを加工して作成)


埼玉県坂戸市にあった陸軍の「坂戸飛行場」。

ここはオイラの地元にあった飛行場です。

■防衛研究所収蔵資料「陸空-本土防空-48飛行場記録 内地(千島.樺太.北海道.朝鮮.台湾を含む) 昭19.4.20第1航空軍司令部」

に 坂戸飛行場の地図があり、先頭のグーグルマップはここから作図しました。

同資料の情報を以下記させて頂きます。

位置
 埼玉縣入間郡坂戸町
積量
 約二三〇万平方米
地表の状況
 概ね良好にして野芝及雑草混生しあり大体に於て北方
 小傾斜をなしあるも中央部より北方に亘り一五〇〇分の一
 程度の傾斜をなし排水概ね可なるも地下水高し
周囲の状況
 西北に高さ約五米の松林あるも演習上差支なし
将来拡張の能否
 東方に対し現有幅員の儘二〇〇米の拡張可能なるも民家約三〇
 戸の移転を要す
天候気象の交感
 通常は排水可なるも豪雨に際しては建物付近一帯に亘り浸水
 することあり
格納施設
 格納庫六棟(八,一〇〇平方米)あり
飛行機掩体数
 大型機用七個の構築を計画し逐次作業を実施中
居住施設
 なし
交通連絡の状況
 一、自動車運行可なり
 二、東上線(坂戸駅)川越-越生間バス(飛行場正門前を運行
   す)坂戸駅-越生間は越生鉄道あり
其の他
 一、建物地帯より外周道路に沿ひ南方に対し排水溝の完備を
   希望す
 二、消火栓の施設を完備せられ度

■防衛研究所収蔵資料「陸軍航空基地資料(本州、九州)昭19.10 水路部」に当飛行場の資料がありました。

■「防衛研究所収蔵資料:陸軍航空基地資料 第1 本州、九州 昭19.10 水路部」の中でも、
「坂戸陸軍飛行場 埼玉県入間郡坂戸町 35°57′0N 139°25′0E」として、以下全く同じ記載がありました)

面積 北西-南東1,300乃至1,600米 北東-南西1,500米
地面の状況 平坦且堅硬にして植芝密生す
目標 坂戸町、東武鉄道東上線
障碍物 東端より東方約250米に低圧電線、更ニ500米を距てて
高圧電線各1條あり
離着陸特殊操縦法 (記載なし) 
格納設備 大、小格納庫6棟あり
照明設備 (記載なし)
通信設備 (記載なし)
観測設備 なし
給油設備 燃料補給可能
修理設備 なし
宿泊設備 なし
地方風 (記載なし)
地方特殊の気象 7,8月頃雷雨多く5月頃降雹あり
  12月至翌年3月間ハ降雪あり 冬季北風強吹し気流は不良なり
交通関係 坂戸駅(東武鉄道東上線)西方900米
其の他 (記載なし) 
(昭和18年4月)

(「交通関係」の項目、飛行場中心から1.8km先の「坂戸駅」が記されています。本当は飛行場の目の前に若葉駅があるんですが、若葉駅は1979年開業のため、当時は未だありませんでした)

先頭のグーグルマップは同資料から作図したものなんですが、

ご覧の通りで、飛行場敷地の地割はほぼそのまま残っており、

現在跡地には、若葉台団地と富士見工業団地が広がっています。

敷地に斜めの緑線が走ってますが、これは工業団地と住宅団地を隔てる幅50mの緩衝緑地帯です。

■防衛研究所収蔵資料「本土における陸軍飛行場要覧 第一復員局(陸空 本土防空7)」
にも当飛行場の情報がありました。

飛行場名  坂戸
位 置   埼玉県入間郡坂戸町
規 模   要図(東西1400)
舗 装   ナシ
付属施設
 収容施設 三〇〇名分
 格納施設 掩体 有蓋一九棟
摘 要   施設軍有

 

飛行場が建設された土地の歴史

f.png
『川越』五万分一地形圖【測量時期】 明治40年測図/大正12年修正、測図の縮図/昭和14年第2回部分修正及部分修正、測図の縮図 【発行時期】 昭和16年4月発行 (飛行場建設前)

地元図書館に当時の史料が何冊もありましたので、いろいろ混ぜて以下記事にさせて頂きました。

ここには元々、片柳新田、関間新田、鶴ヶ島村大塚野新田があり、この3新田で飛行場のほぼ全域です。

・片柳新田は享保年間(1716年~1736年)、代官川沢木右衛門の計画で、片柳村民によって開墾されました。

 主な農産物は、雞、大麦、小麦、繭、粟などでした。

・関間新田は、享保10年(1725年)、関間三郎兵衛によって開墾されました。

 曹洞宗福泉寺がありました。

 農産物は、雞、大麦、小麦、大豆、粟、生糸などでした。

・鶴ヶ島村大塚野新田は、大塚原と称されていましたが、元文元年(1736年)、

 隣村青木村の百姓鈴木喜平治により開墾され、大塚野新田になったとされているのだそうです。

 大塚野新田は人家が少なく、極めて広大な平地林でした。

 そのため飛行場建設にあたり、ほぼ全域が買収地となり、8戸9世帯が脚折に移転しました。

 これにより、大塚野新田の字は消えてしまいました。

 買収当時、当地は全体的に森に囲まれた屋敷が畑の中に点在しており、昼間でも薄暗く、

 うっそうとした森や林がかなり広い面積で続いていました。

ということで、坂戸飛行場が建設された土地は、森や林などが広がっていた場所の開墾が始まってから、

200年かそれ以上が経過していたのですね。

 

用地買収

昭和15年(1940)2月、坂戸町役場に突然陸軍少佐が憲兵と副官を連れてドカドカと

畳敷きに土足で上がり込んで来ました。

机の上に地図を広げるや否や、「軍に必要な施設を建設するのでこれだけの土地が必要なのです。

ご協力頂きたい。北方の戦備が重要で、それに対する備えもあってまげてご同意願いたい」。と言われました。

地図を見ると230町歩即ち70万坪で、川越、坂戸、鶴ヶ島、勝呂と、一市、一町、ニヵ村にまたがっていました。

既に軍でその地域の土地所有者は全部調べ上げてあり、地主宛ての通知書も出来ており、

「お忙しいとは思うが、緊急を要する軍の仕事であるから今日中に全部配ってもらいたい」と有無を言わせぬ命令。

受け取ったのは確か午後3時ごろ。

その手紙の内容が、「明日午前9時に認印を持って坂戸小学校に集合せよ」

ということで、細部については申しかねると言ったきりでした。

実は当時、この地域にサイドカーで軍人が巡視に来たので、地区の住民は不可解に思っていたのだそうです。

軍の機密、国家存亡の危機、国防上の重要問題と言われると我々は何も言えず、その夜は大騒ぎで配達したのでした。

翌日、少佐が軍刀をガチャつかせながら登壇し、

「坂戸に軍の施設を作らねばならぬことになった。古来、国滅びて山河ありと言うが、

国が滅びれば、もう我々の生命もないはずだ。その点をよくお考え下さって軍の施策にご協力いただきたい。

もちろんこの用地が皆さんの尊い財産だと言うことは、軍も十分知っておる。

しかし、これを作らねば、皆さんの将来はおろか、

二千六百年の輝かしい歴史を有する大日本帝国の前途さえ保障は出来んのだ。

その点、十分にご理解くださって異議なく賛成を頂きたい。

もちろんタダでもらうというのじゃない。適正な価格で買い上げます。

それでは、どなたもご異議はございませんね。ではご協力ありがとうございました。

廊下に皆さんの承諾書が出来ておりますから、それに署名捺印の上、お帰り願いたい」。

で幕。その間20~30分くらいだろうか。

少佐:「各町村で責任者はお残り頂きたい。その中で価格の協定委員を選んで頂きます。

協定委員は何名でも結構ですが、常識的に鶴ヶ島は10人くらい、後は5人くらいで如何でしょう」。

それから1,2日後、価格協定委員の名簿を提出してすぐ価格協定の会議が開催されました。 

この価格協定会議の席上面白いことがありました。

鶴ヶ島から選出された委員が大勢いる真ん中にあぐらをかいている人がいて、

「今日は価格を決めるってんだが、軍部がどういうソロバンをはじくか、あんまり安いようなら、

俺はぶっ殺されたっていい、喧嘩を売ってやる」と息巻いているんです。

その豪傑氏、そこまではよかったんですが、ちょっと言い過ぎて、

「150円以下のことを言えば…」って単価を出しちゃった。

当時のこの辺りの山林はちょっと奥の方に入ると一反大体90円が相場です。

その少し前に高萩の飛行場用地買い上げでは100円を割ったと言いますから、

そんな空気もうすうす察していたんでしょうね。

(陸軍は高萩の開墾地を接収し、昭和13年12月に使用開始しています。今回の坂戸飛行場の出来事は昭和15年2月の話)

少佐がやって来て、

「それでは今日は皆さんの大変貴重な財産を国で頂戴するのだから、その単価をお決め頂くわけだ。

皆さんの方にご意見、ご要望があれば、遠慮なく申し出て欲しい」と言うわけですが、誰も言おうとしない。

するともう一度意見はないかと念を押しました。このときも誰も何も言わない。

「どなたにも意見、異論がないとすれば、こちらの予定買い上げ価格を発表します」

と言って黒板にスラスラと書きはじめました。

一反につき田350円、山林250円でした。

地主側の内心考えている価格の倍以上の発表に皆びっくりした。

これまたドエライ数字が出されたわけです。豪傑氏の150円などとんだ茶番になってしまったわけです。

こんな調子だから異議一つ出ないで、流石の豪傑氏もただ下を向いておりました。

その後は金の支払い方法を決めた。

普通なら登記だなんて騒ぐわけでしょうが、陸軍省の職権で処理しちゃうから、登記も登記簿もあったもんじゃない。

全部向こうで「陸軍省」ってハンコ押して買い上げになった。

工事着手は早急で、8月15日が最終期限。

金の支払いは早かったのですが、山林については、その木を材木屋に売らねばならない。

軍から早く早くと急がされるものだから、材木屋がいっぱいやって来て、山林地主との商談となったが、

期限がないので、二束三文の投売りとなりました。

一方、これは鶴ヶ島地区での話なのですが、

2月3日に調印して、5月中旬にには樹木伐採、地均し工事に着工するとの移転期限を突き付けられ、

あまりの短期間の期限に地主住民には反論する者も出たのですが、

「移転先のない者は満州へ行け! 土地や移転に関することは国で負担する」との申しつけに、

当時は戦争遂行への至上主義の社会情勢の風に吹き飛ばされ、余儀なく調印となってしまったのだそうです。

その後の整理作業は請負業者の責任において進められましたが、緊急を要する軍の仕事というので、

住民も進んで作業隊を組織して応援し、1日50銭くらいの日当が支払われました。

 

建設工事

昭和15年2月起工。

用地買収話があった同じ月にもう起工です(@Д@)

移転作業と飛行場建設工事が同時並行で進んだのですね。

飛行場の整地作業は各地から入り込んだ請負業者、地元の応援、学校生徒等が勤労奉仕を行いました。

現在の若葉駅東方山林内の六尺道の道端には、大きな堆土の上に浅間様が祭られていて、

その堆土を地均しするため「トロッコ」に使うレールを縦横に敷設してしまい、

移転住民は家財道具を運び出すのに至難な状態に追い込まれ、万策を講じて移転したのでした。

3ヶ月半では住宅を建てる暇など無く、大工も徴用で不足しており、釘なども少なくそれどころか、

飛行場内を片づけるため、家屋は壊し始めを催促され、火をつけて燃やした人もあったそうです。

やがて工事が始まると、ともかく緊急を要することながら、若い労働者が少なく、

現在のような機械はなくすべて人力に依るため、八王子刑務所とか聞きましたが、

囚人800人も頼み入れ、しかも逃亡を防ぐため、厳重な警戒と監視のもとに工事に従事させたのだそうです。

鶴ヶ島に仮の刑務所を造り、朝などは作業員と囚人が一緒に整列して訓示を受け作業にかかりました。

やがて誰もが懸命に宅地を買い求めたそうですが、購入する宅地や畑は売渡価格の倍額位で、

これもまた苦労されたようです。

工事中、十数ヵ所から正中2年(1325年)、宝徳4年(1452年)、文明2年(1470年)の板碑二十数枚、

大人でも二抱えもある大土瓶(中に一人分の白骨)が掘り出されました。

工事請負の小林組は永源寺境内に改葬し、中央に白骨を埋葬、周囲に板碑を建て、丁重に弔ったのだそうです。

こうして工事は進み、予定より早く竣工したのでした。

 

飛行場開設

昭和16年5月に飛行場開きがありました。

当日は、原田勅任技師、校長・寺倉中将、幹事・藤本少将以下学校幹部。

地元側として、坂戸、鶴ヶ島、名細、勝呂、大家、入西、三芳野の各町村長ら約250人が参列しました。

修ふつ、入魂の儀、玉串奉てん、式辞、祝詞、谷田部中尉の操縦機による上昇、反転、急降下、宙返り、錐もみ等、

雨中の特殊飛行実施。

正午から中央格納庫で祝宴。

雨のため、編隊飛行、落下傘投下、地元の山車、屋台、旗行列は中止されましたが、

町村民が多数飛行場に押し寄せ、前途を心から祝福したのだそうです。

初代場長には、地元霞が関村的場出身の長島幸治中尉が着任しました。

 

飛行場運用 

坂戸飛行場は、正式名称「陸軍航空士官学校坂戸飛行場」といい、

陸軍航空士官学校の坂戸分教場として開設されました。

航空士官学校では、操縦者の養成ばかりでなく、整備、通信、偵察、爆撃、航法などの

専門家の養成も行われていました。

生徒隊が編成されており、第2生徒隊(第58期生)第23中隊五コ区隊があったと伝えられています。

操縦訓練については基本操縦から入り、徐々に高等技術に移りました。

修武台の陸軍航空士官学校ができ、その分教場として坂戸飛行場が使用されました。

そのため修武台からトラックで生徒が毎日通ってきました。

1機にだいたい5人の生徒がいて、絶えず交代して教官から操縦技術を習いました。

最初は複葉機から始め、上達してくると99式(勅許偵察機と呼んでいた)になりました。

(座談会では、この99式はロンドンへの飛行を達成したのと同型機であることに触れられています・下記リンク参照)

ここは赤土の飛行場だったので、空気取り入れ口にごみが詰まって難渋したのだそうです。

飛行場南側の一番川越寄りの場所は飛行場手前が斜面になっていて、風が吹いているとこの勾配で下降気流が発生します。

この斜面側からの着陸の場合、力も落としているため、下降気流で車輪をひっかけてしまい、

操縦士たちを悩ませたのだそうです。

 

坂戸、鶴ヶ島上空では、垂直に上昇し、あるいは降下し、見るもハラハラする猛訓練が実施されました。

そんな中、若葉駅から約1km(現在の共栄富田整形外科)に隣接した地点に訓練機が墜落し、

エンジンは6m(3~5mという記述あり)も地中深く、土中に操縦士の肉片が巻き付いたまま突っ込むという事故がありました。

97式戦闘機で7,000m上空からの事故だったのですが、

この操縦士が五味ケ谷出身者(飛行場のため移転家庭)で、鶴ヶ島で初めての航空関係の将校でした。

当時、豊岡の航空士官学校では「彼は郷里の空で我が物顔に飛んで、間違って落ちたのだろう」

などと非難の声が上がったのだそうです。

ところが、機体の墜落現場から離れた畑の中から補助翼が見つかりました。

すぐに豊岡の航空士官学校に連絡したところ、即座に教官が補助翼を回収に駆け付けました。

教官によれば、極めて優秀で非常に沈着な操縦士だったのだそうです。

これで、「間違って落ちた」のではなく、旋回訓練中機体が空中分解したのだろう。ということになり、

操縦士の汚名をぬぐうことが出来たのでした。

 

昭和18年3月、メーカーの中島飛行機の社員で、太田小泉飛行場勤務のパイロットが、

坂戸飛行場に飛来したことがあったのですが、 その時の搭乗機がキ44鍾馗で、着陸することができず、

引き返って赤トンボで様子を見に来たことがありました。

 

飛行場の周囲には柵がなく、出入りは自由でした。

近所の家で、夏はスイカ、小豆等出して厚遇してくれました。

坂戸駅前の第一勧銀(現・みずほ銀行)のところに清川という料亭があり、二人の将校が宿泊していました。

またその近辺に整備士などが多数泊まっていました。

現地自活と称して、鶏を飼って卵をかえしたり、周囲の太い松から松根油をとったりしました。

 

昭和19年3月最初の日曜日(ネットで調べたら5日だった)の朝起きたら、突然の爆音がしました。

太田から来たという零戦の3機編隊のうち、2機は無事着陸したのですが、1機がひっくり返ってしまい、

機体と地面(大雪だったとあるので雪面かも)の間に挟まれてしまいました。

救助しようとしたのですが、操縦者の顔が見るうちに紫色になって亡くなってしまいました。

 

97式重爆撃機3機、双発高等練習機2機があり、主として医療機器等の輸送を行っていました。

当時松山中学の2年生だった方が、夏休みに坂戸飛行場の草刈りに駆り出され、自宅から自転車で出かけたのだそうです。

この方は3年生になると、大島屋という旅館に泊まり込み、グライダー訓練を受けました。

昭和19年の7月か8月、97式重爆撃機でグライダーの曳航中に、地元のおばあさんに痛ましい事故が起きてしまいました。

通常はグライダーを離した後、97式は着陸前に一度飛行場に進入して長さ100mくらいの索を落とすところが、

この時はどうしても落ちません。

この機体は手動で落とすことができないため、仕方なくそのまま着陸することにしました。

重爆で1,000m程度の滑走路に降りるため、かなり手前から進入しないとオーバーランしてしまいます。

索を引きづったまま着陸進入したところ、

たまたま農作業をしていたおばあさんの両腕に索が絡まって引っ張ってしまい、両腕切断となってしまったのでした。

今でも仲間が集まると、あそこでおばあさんの腕をとってしまった、大変申し訳ないことをしてしまったと、

このおばあさんの話が必ず出るのだそうです。

(このおばあさんは長生きされたのだそうです)

 

昭和19年9月に操縦要員として移駐して来た方によれば、

軍といえども食糧難で、主食は玄米、副食は連日ごぼう、甘藷など繊維の多いものが続き、

上空では腸ガスが膨張して苦しんだのだそうです。

また甘藷から作ったアルコール燃料で飛び、匂いで酔っぱらう候補生もいたのだそうです。

戦局が激しくなってくると、坂戸飛行場にも無蓋掩体を造りました。

大急ぎで造れとのことで、スコップともっこだけで手作業だったのだそうです。

「旧陸軍坂戸飛行場の足跡」72pに、この掩体の様子を描いた絵図があり、

それによりますと、土塁の断面は、上底1m、下底1.8m、高さ2mの台形でした。

この台形の土の壁で、幅30m、奥行40mのコの字状の囲いを造り、ここに九九式高練を2機縦列駐機させていました。

土塁は飛行場から切り出した芝をサンドイッチ状に挟んであり、崩れを防ぎました。

また、鶴ヶ島市太田ヶ谷の高徳神社(先頭のグーグルマップ紫マーカー)まで誘導路を作り、

神社の隣に飛行機を置いていたのだそうです。

「旧陸軍坂戸飛行場の足跡」には、

「終戦後1年抑留されて帰って来たら、まだ高徳神社に飛行機が残っていた」という話が載っています。

飛行場で掩体を造っていたのと同時期、空挺隊のグライダー訓練の真っ最中でもあり、

ク11という双胴型、最終教育のク8というグライダーを使用していました。

この時訓練していた方の中に、後に沖縄に突入した義烈空挺隊の方々がおられたようです。


 

艦載機による空襲が激しくなり、

飛行学校本体は空襲を逃れるため、満州牡丹江温春に向け、昭和20年2月から大移転を開始しました。

列車で陸路を行き、日本海を渡りました。

この時非常整備員として、900馬力の練習用飛行機1機で牡丹江省の東京城へ移転した方がいます。

飛行時間3時間が限度の機体で、米子、海寧、牡丹江と、1日大体2時間半位飛んで、5日がかりて、

地図と羅針盤を頼りに、18才の若者が操縦し、向かったのでした。

後で知ったのですが、当時親戚は、このまま死んでしまうのではないかと言っていたのだそうです。

 

そして飛行学校の満州への移転と入れ替わるように、立川からの移動がありました。

昭和20年3月頃からの度重なるB29、グラマンの襲撃のため、立川陸軍航空廠は分散することになり、

5月頃、整備部を高萩へ、倉庫関係は狭山飛行場へ、飛行班は坂戸飛行場に疎開させました。

(現在の立川駐屯地は、戦時中は陸軍の立川飛行場でした)

昭和20年5月に立川飛行場から移動してきた方によりますと、

坂戸飛行場には東西方向に1本、砂利敷き滑走路があったのだそうです。

 

この時、立川飛行場で輸送第14中隊に所属していた方が疎開で坂戸飛行場に移り、

一番最初に任務に就いたのが、沖縄に米軍が上陸する時点で弾薬が足らないので、沖縄へ物量投下せよというものでした。

この時は3機で行って、帰って来たのはこの方の機だけでした。

それが終わると、今度はプノンペンで養成した航空隊の操縦者を、特攻隊要員として九州まで運ぶ任務でした。

この頃は坂戸飛行場も空襲が激しくなっていて、グラマンの艦載機P51が夜明けと同時に来襲する状態でした。

このため輸送隊は、夜明け前にここを離陸したのでした。

帰ってくるともう次の飛行機を整備して飛ばされました。

終戦までの3カ月の間に3回くらいこうした輸送を行い、この間も落とされた仲間がいました。

終戦の直前にまた任務についたのですが、右エンジンの不調で滋賀県の八日市に着陸しました。

そこでグラマンの空襲を受け、飛行機が焼かれてしまったため、戻って来て、

次の任務をもらって出る時が8月15日でした。

 

飛行班の任務は、立川飛行場で造られた完成機のテスト飛行やその補給で、

その頃は特攻機の部品集めや特攻機に改造する古い飛行機集めが多かったのだそうです。

その頃はもう日本は航空機の大半を失って迎撃するどころではなく、退避するしかありませんでした。

昭和20年6月以降、南方戦線への輸送に従事していた方によれば、

コースは、坂戸飛行場-熊本-大邱(韓国)-南京(中国)-アモイ(中国)-プノンペン(現カンボジア)

往復で約10日位かかりました。

その頃は、大分戦力も弱まり、辛うじて飛行場だけが確保されていた状態でした。

また、本土決戦に備えるため、貴重なパイロットの搬送が行われました。

97式重爆撃機で往復しました。

操縦士1人、副操縦士2人、機関士1人、無線士1人で乗客は15人程度でした。

爆撃機でしたが、力がなく余り乗せられませんでした。

空襲を逃れるため、いつも日の出前に出発しました。

坂戸飛行場は滑走路がアスファルトやペトンではなく土だったため、

離陸するのに摩擦が大きく、爆撃機用の滑走路でないため、2キロ程度と短く離着陸には相当な技術を要しました。

7月には坂戸も米軍機のの襲撃を受け、機銃掃射やロケット砲の投下を受け、飛行機1機を焼失しました。

8月14日夜、熊谷市がB29の爆撃を受け炎上するのが坂戸からはっきりと見えたのだそうです。
(熊谷空襲:正確には日付が変わった15日午前0時23分~1時39分)

8月15日正午、玉音放送。2,3名の脱走兵が出ました。

実は8月10日頃から無条件降伏の放送が盛んに日本語で流されていたのですが、

当時のことなので、どうせ敵のデマだろうと気にも留めませんでした。


 

戦後

8月15日終戦。

戦後、坂戸飛行場に集結された1式戦闘機(隼)十数機を飛べなくするためのプロペラはずし作業には涙が止まらず、

しみじみと敗戦を実感したのでした。

8月19日に、満州国皇帝(ラストエンペラー)を救いに行くようにという命令を受けたため、

マッカーサー司令部の許可を得て、飛行機にペンキで1mの白帯の標識をせよという指示を得ました。

が、皇帝陛下を迎えに行くこと自体はやってはいけないことだったので、落とされる覚悟でした。

連れてきたなら夜でも何でもとにかく内地まで帰ってこいという指示で、

キの67(4式重爆)という一番新しい飛行機で韓国の京城まで行き、

皇帝を待ったのですが、待機三日目になっても現れない。

それどころから飛行機を襲撃される騒ぎになり、このままでは飛行機が燃やされてしまうということで、

陛下を乗せずに坂戸飛行場まで戻ってきました。

皇帝がソ連に抑留されてしまっていたことは、後になって知ったのでした。

 

9月3日に千葉県木更津、館山、8日には東京、14日には埼玉への進駐が行われました。

埼玉に進駐したのはアメリカ第43師団の将兵7,000人で、まず熊谷市三ヶ尻の元陸軍飛行学校に落ち着き、

その後順次県内の各軍事施設に分かれて行きました。

そして11月末までに埼玉県内への進駐兵は13,800人を数えたのだそうです。

9月中頃、坂戸飛行場に2台のジープに分乗したアメリカの兵隊5,6人が何の前触れもなく到着。

飛行場内の機材、武器弾薬の員数点検の使命だったと思われます。

その将兵らは鶴ヶ島の無線送信所と川角の通信施設の所在を尋ねたというからそのままそちらに廻ったのでしょう。

20年秋にアメリカ軍が駐留しましたが、11月に引き揚げました。

 

(以下「旧陸軍坂戸飛行場の足跡」78p 坂戸飛行場と進駐軍 より抜粋)

坂戸飛行場には米軍386歩兵部隊E中隊が進駐した。

坂戸国民学校は、進駐前から高等科1,2年生が飛行場で畑を作っていた。

進駐後は飛行場は米軍の管理下に置かれ、門に傭兵が配置された。

(中略)ある晩、巡査が米兵を連れて来宅し、通訳してくださいと言う。

そこで、米兵に尋ねてみると、 盗みの疑いで日本人の男が飛行場に捕まえられている、と答えた。

これを巡査に伝えると、彼は急遽巡査部長を呼んできた。

米兵に案内されて飛行場へいくと、石灰を盗んだ容疑者がいたが、

彼の弁明を聞いた米兵側はそれ以上彼を追求しないで放免した。

しかし、坂戸飛行場の進駐軍に関して忘れられないのは、坂戸国民学校の教員・生徒との友好的な交流であった。

初めは、米兵の方から1人か2人連れで学校へ時々やってきた。

彼らの中にクラーク氏がいた。

敬虔なクリスチャンで温厚な人柄だった。

ガムもかまずタバコも吸わなかった。

ハイスクール卒の若い下士官だった。

学校側はこのクラーク氏に特に親近感を抱くようになり、学校に招いて会食したり、生徒の習字等の作品を送ったりした。

また彼はもちろん他の米兵達も一緒に招待して、生徒の踊りや歌を披露したこともある。

国民学校にも英語という科目はなかったが、坂戸には進駐軍がいるという特殊事情から、

高等科1,2年生に英語を教えることとなり、私が担当させられた。

クラーク氏はこの英語の授業で何度か私の助手をつとめてくれた。

昭和20年12月24日のクリスマス・イブには、飛行場で米兵に、生徒と青年団が踊りを披露した。

この行事についてクラーク氏が書いてくれた印象記の一部を次に要約しておく。

「これは、私が日本へきて経験した最も楽しい晩でした。

美しいkimonoを来て美しいobiesを絞めた少女達はまるでお人形のようで、

私は彼女たちをアメリカへ連れて帰りたいほどでした。

私はこれを母が見られたよいのにと願っていました。

ある士官は、終わってから私に、同じことを妻に願っていたよ、と話してくれました。

幼い男優と女優はプロのような演技を見せてくれました。」

クラーク氏は昭和21年2月末に帰国することとなった。

学校は彼のために職員室で送別会を開いた。

彼は日本と坂戸についての印象記を書いてきてくれた。

その中で彼は「私は坂戸の子供が大好きです。…日本人は友好的な国民です。…」と述べ、最後は「坂戸国民学校の

先生方ご一同が私に示して下さったご厚意に心から感謝したいと思います。」と結んであった。

(抜粋終わり)

 

富士見開拓農協

昭和21年、戦争犠牲者となった人々が雑草の生い茂る旧飛行場跡に入植することになりました。

約30世帯、土地割り当て1町~1町5反。

正式名称は「坂戸地区開拓地」で、農協を組織する際、「富士山がよく見えるから」ということで、

「富士見開拓農協」としたのでした。 

入植したのは地元の次男、三男、軍人などで農業未経験者も多かったです。

飛行場は芝が張っていて、それを軍のタンクにプラウをつけて引っ張って土をひっくり返しました。

山を削って平にし、その上に砂利を敷いて押し固めてある。

そんな土地なので、ジャガイモを蒔いたが、収穫が種よりも少ないこともありました。

先に入植した人々は、練成講習修了者の意気盛んな人たちで、埋め立て小屋に風は吹き込む、

雨は漏る、月の光の差し込むところに寝起きし、朝早くから夕方遅くなるまで汗と埃にまみれ、

藷を食し、頑張っている姿にはまったく頭が下がったものでした。

初めは薩摩芋などが多かったのですが、だんだん世の中が静まると作物も変わってきて、

西瓜がとてもよくできました。

冒頭「飛行場が建設された土地の歴史」で触れましたが、

飛行場のあった土地は、元々1700年代に開墾され、少しずつ開けていったのでした。

戦争が終わり、跡地は再び開墾から始まったのですが、

同時に終戦の翌年以降、跡地には各種学校が開校していきます。

 

昭和28年2月19日付の毎日新聞埼玉版にはこんな記事が載りました。

未処理爆弾に戦く 旧坂戸飛行場付近の住民 夜もろくに眠れぬ 県も早速調査を開始
昨年発見された六十キロ爆弾と小銃弾などが県当局に届け出たにも拘わらず、
未だに何ら処置されず付近住民をおののかせている。
この爆弾は昨年十二月二十七日未だに放置され、地元民は当局のルーズさに呆れると共に、
一刻も早く処理するよう要望している。

そして昭和28年9月には、跡地に米軍通信基地を作る計画が持ち上がり、地元に緊張が走る一幕がありました。

もしかしたら対抗案としての意味合いが含まれていたのかもしれませんが、それから1年半後の昭和30年4月には、

坂戸町観光協会、富士見開拓団農協、東京教育大学坂戸分農場といった地元発の跡地利用案として、

植物園、果樹園、総合グランド等を備えた大観光地にする計画が出されました。

これらの案がどのような変遷を経て、現在の工業団地、大規模団地になったのかは不明ですが、

米軍通信基地になっていたり、大観光地になっていたり、という可能性もあったのですね。

飛行場の名残の給水塔が今の坂戸中学校の校庭に残っていたのですが、1968年(昭和43年)に取り壊したのでした。

おるそ坂戸飛行場全図.PNG
写真:「国土画像情報(オルソ化空中写真) 国土交通省」
撮影年度:1974年 地区名:川越北部地区 編集・加工:「空港探索・とり」

上の写真は1974年撮影。住宅都市整備公団が入って9年後の様子です。

西側の一部に住宅地ができていますが、北東の工業団地区画はまだまだですね。

無題f.png
撮影年月日1946/11/14(USA R318-A-8 19) 
出典:国土地理院ウェブサイト(地理院データを加工して作成)

給水塔と防火水槽。

無題g.png
撮影年月日1946/02/13(USA M44-A-5VT 12) 
出典:国土地理院ウェブサイト(地理院データを加工して作成)

上の方で、「誘導路を作り神社の隣に飛行機を置いていた。終戦後1年抑留されて帰って来たら、まだ飛行機が残っていた。」

と話に出てきた高徳神社(白矢印)。

終戦から半年後の撮影ですから、この時はまだヒコーキが残っていたはずです。

ドコが誘導路になっていたか不明なんですが、飛行場から伸びるやけに立派な道があり、

もしかしたらコレなのかも(赤矢印)。

 

D20_0014.jpg

若葉駅前の高層団地から見た飛行場跡地。

田んぼや山林の広がる場所がその後芝の飛行場となり、

戦後は一面の開墾地、そして今はこの状態。 

目まぐるしい変貌を遂げた場所ですね。


       埼玉県・坂戸飛行場跡地       

ここは元々田んぼや山林の広がる場所で、こういう所には大抵神社があるのですが、飛行場建設の際に移転しており古い寺社は全くありません。
ある整備兵だった方の回想録が残っていて、「坂戸飛行場に転属、当飛行場で九十九式高等練習機の整備作業を行った」と書かれていました。

坂戸飛行場 データ
設置管理者:陸軍
種 別:陸上飛行場
所在地:埼玉県旧川越市、入間郡坂戸町、鶴ヶ島村、勝呂村(現・埼玉県川越市、坂戸市、鶴ヶ島市)
面 積:231ha(北西-南東1,300~1,600m 北東-南西1,500m)
座 標:35°57′0N 139°25′0E
標 高:33m
(標高はグーグルアースから) 

沿革
1940年02月 3日 陸軍、地元から土地買い上げ交渉。その後同月起工
    05月 1日 大塚野新田住民、大字脚折に移転
    08月 11日 地鎮祭
1941年05月 25日 陸軍航空士官学校坂戸飛行場開設
    07月 坂戸無線送信所開設。22日、関間新田の神明神社移転
    12月 関間新田の福泉寺、板橋へ移転
1943年夏  この頃グライダー訓練をしていた  
    11月 21日 朝香宮が来場
1944年   この頃から東上線から見えないよう、鎧戸が降ろされた。
       掩体造り。空挺隊の突入訓練(グライダーに20名程度乗り込み、97式重爆撃機で曳航)
    03月 雪中零戦の不時着事故
    06月 助教・須川曹長の東松山市の不時着殉職事故
    08月 曳航機(97式重爆のワイヤーがはずれず)飛行場北端にて農作業中の主婦の両腕切断事故
       夏頃、飛行機が5,6機あり、周辺の松林に緑のネットや枝を被せて隠していた
    11月 この頃からB29の空襲が始まる
1945年02月 23日 満州牡丹江温春に移転開始
    03月 東京大空襲。坂戸からも赤く見えた。空襲に備え、飛行場内の全飛行機撤収
    05月 8日 第15・第16輸送飛行隊が坂戸飛行場に移動
    07月 坂戸飛行場に米軍艦載機による空襲始まる
    08月 15日 終戦 
    11月 米軍歩兵部隊、坂戸飛行場に駐留
1946年    入植開始
    04月 坂戸青年学校に坂戸実務学校、坂戸実修女学校併設
1948年09月 埼玉県坂戸町外5ヵ村立高等学校開校
1949年   富士見開拓団農村工業協同組合設立
1950年04月 坂戸町引揚者住宅建設
1951年07月 30日 飛行場開拓、坂戸町大字千代田、勝呂村大字栄設置。この年村山女史高等学校開校
1952年   坂戸町立坂戸中学校が移転してくる
    05月 12日 越生線浅羽踏切で駐留米軍ジープと電車衝突
    12月 27日 飛行場跡地付近の雑木林(防空壕)の中から60キロ爆弾十数発と小銃弾発見される
1953年02月 19日 「不発弾未だ処理されず」の新聞記事
       09月 跡地を米軍通信基地にする計画が持ち上がり、緊張高まる
1955年04月 跡地を植物園、果樹園、総合グランドなどを備えた大観光地にする計画が立案される
1956年05月 22日 坂戸町大字石井に米軍ジェット機墜落
1963年   女子栄養大学教養部開校  
1965年    住宅都市整備公団、飛行場跡地を「住・工セット型団地」として造成
1971年   坂戸町役場庁舎が当地に移転
1973年   土地区画整理事業(若葉台団地)が事業認可される
1975年   富士見開拓農業協同組合解散
1979年03月 30日 若葉台団地入居開始
    04月 2日 若葉駅開設
1995年11月 1日現在、飛行場跡地(坂戸市千代田地区、鶴ヶ島市富士見地区)の人口:17,930人
       26日 戦後50周年記念坂戸市役所にて「旧陸軍坂戸飛行場にかかる座談会」

関連サイト:
神風号亜欧連絡飛行・1 

この記事の資料:
坂戸史 通史編Ⅱ
坂戸の歴史
坂戸風土記3,4,6,8号  
旧陸軍坂戸飛行場の足跡
防衛研究所収蔵資料「陸軍航空基地資料(本州、九州)昭19.10 水路部」
防衛研究所収蔵資料:陸軍航空基地資料 第1 本州、九州 昭19.10 水路部
防衛研究所収蔵資料「本土における陸軍飛行場要覧 第一復員局(陸空 本土防空7)」
防衛研究所収蔵資料「陸空-本土防空-48飛行場記録 内地(千島.樺太.北海道.朝鮮.台湾を含む) 昭19.4.20第1航空軍司令部」


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伊江島補助飛行場 [├空港]

  2006年5月訪問 2022/12更新  

無題c.png
撮影年月日1944/09/29(USAokinawa MR7.RV40BG 150) 
出典:国土地理院ウェブサイト(地理院データを加工して作成)
1.png
Ryukyu Islands airfields. Report No. 1-b(10), USSBS Index Section 6 
(国立国会図書館ウェブサイトから転載)

沖縄本島の西、僅か5kmに位置する伊江島。

東西8km余の小さな島なんですが、 1943年に日本軍はここに「伊江島飛行場」を建設し始めました。

「西飛行場」、「中飛行場」、「東飛行場」と、三つの飛行場を建設する計画で、当時東洋一の規模を誇りました。

実際に東、中飛行場が完成したのが1944年9月末。

上の航空写真は1944年9月29日撮影のものですから、完成した頃のものと思います。

■防衛研究所収蔵資料:「南西諸島航空基地一覧図 昭和19・11 第三航空艦隊司令部 」の中に、

伊江島飛行場の略図があり、先頭のグーグルマップはこの図と航空写真から作図しました。

 

・西飛行場

「南西諸島航空基地一覧図 昭和19・11 第三航空艦隊司令部 」の中でも西飛行場だけは略図はなく、

同資料の伊江島全体図に「伊江島第三」と文字情報があるのみです。

日本軍が西飛行場をどんな形に設計していたのかについては、なかなか資料が見当たらないんですが、

アジ歴の Translation No. 65, 12 May 1945, digest of Japanese air bases.21コマ目 には、

IE SHIMA
IE SHIMA NO.2(CONSTRUCTION SUSPENDED)
IE SHIMA NO.3

として3つの滑走路の長さと幅の数字と共にその形が描かれています。

この2つの資料から、IE SHIMA NO.3=西飛行場 と思われ、NO.3 は、1200x200 とあります。

上の航空写真の"A→"の部分、 中、東両飛行場と並ぶような形で、うっすらと滑走路っぽい地割が見えます。

作図してから測ってみたところ幅は210mで、おそらくここに「西飛行場」を建設しようとしていたのではないかと。

・中飛行場

「南西諸島航空基地一覧図 昭和19・11 第三航空艦隊司令部 」の略図と航空写真の形が一致している唯一の飛行場。

東飛行場と比較しても、誘導路、駐機場の建設も進んでますね。

但し交差する二本の滑走路の長さを示す数字が異なっており、

南北方向の滑走路は、 略図では1500x200(1500x50)と記されているのに対し、

航空写真にある通りに作図したら、1,300x55m。

北東~南西方向の滑走路は、略図では1800x200(1500x50)と記されており、

航空写真にある通り作図すると、1,500x65m でした。

略図の伊江島全体図に「伊江島第二」と記されています。 

・東飛行場

航空写真では、 北東~南西方向の滑走路1本しかないように見えますが、

略図には三本の滑走路が描かれていて、グーグルマップの作図にあるように、

アラビア数字の"4"の縦棒がちょっと左に寄ったような形。

略図では、南北方向2000x200(1800x50)は「未着手」、

東西方向2000x150(1800x50)は「一時中止」と書かれています。

で、「未着手」の南北滑走路についてなんですが、

航空写真で見ると、ちょうど略図で滑走路の描かれている位置、方向に白い線が走っています(←B)。

それでグーグルマップでは、この線を基準に南北滑走路の作図をしてあります。

 

次に「一時中止」の東西滑走路なんですが、略図では文字通りアラビア数字の"4"の横棒のように、東西方向の滑走路。

ところが航空写真では、その場所で目を凝らしてもそれらしい地割が見当たりません。

「一時中止」ですから、何かの痕跡はあるはずなのに。。。と思って眺めると、やけに目立つ "↑C" が気になります。

略図では、東西滑走路と南北滑走路が南端で接していてるんですが、

Cの腺を伸ばした先は、南北滑走路の南端と、ほぼピッタリ略図通りの重なり方をしています。

滑走路の方向がかなり違っているのが気になるんですが、

誘導路にしては太くて真っ直ぐだし、長さも絶妙だし、このC線が東西滑走路なのではないかと。

略図の伊江島全体図に「伊江島第一」と記されています。

 

「第2章 旧軍飛行場用地問題の歴史的な背景とその後の経過 - 沖縄県」には、

伊江島飛行場建設のいきさつについて、おおよそこんなことが書かれていました。

「陸軍航空本部は昭和18年(1943年)夏から地元土建会社に委託して読谷村と伊江島に飛行場の建設を進めていたが、資材と労働力の不足が重なって工事は進んでいなかった。新設の第32軍の主任務は昭和19年(1944年)7月末を目途に航空作戦準備を完了することであったが、4月現在、陸軍飛行場は一つも完成しておらず、飛行場建設が新設の沖縄守備軍の急務となった。
 飛行場建設の中核を担う第19航空地区司令部は満州に駐屯して飛行場の整備に任じていたが、昭和19年(1944年)3月26日付け部隊命令によって第32軍の指揮下に編入され、4月12日、那覇市内に司令部を開設した。
 こうして沖縄県の飛行場設定に従事する全部隊は4月下旬から5月上旬にかけて任地に展開を完了し、建設作業に取り組んだ。
 昭和19年(1944年)7月7日、サイパン島の攻防戦で日本軍が全滅し終息すると、南西諸島の防備がにわかに重視され兵力の増強が行われた。  同年7月24日、大本営は「陸海軍爾後ノ作戦指導大綱」を策定し、米軍の侵攻に対して決戦を指導した。
 決戦方面により捷一~四号作戦と呼び、南西諸島方面は捷二号作戦と呼ばれた。この捷号作戦の主眼は来攻する敵艦船を航空兵力で叩くことにあった。ところが、この時期の第32軍は上陸戦に備えての陣地構築に力を注いでいたため、
大本営は度々視察団を沖縄に派遣し飛行場建設を督促した。9月には飛行場つくりの名人といわれた参謀を着任させ、地上兵力を飛行場建設に投入させることにより、飛行場を急速に完成させた。
 9月末日までに南西諸島の飛行場(徳之島1、沖縄本島3、宮古島2、石垣島1)はおおむね完成したが、10月10日、米機動部隊に南西諸島全域に5波に及ぶ大規模な空襲をかけられ、沖縄の主要な飛行場と港湾施設と県都那覇市のほとんどが無残に破壊されてしまった。 空襲後まもない10月12日には、伊江島飛行場や読谷飛行場などの本島の飛行場は昼夜兼行の補修整備が行われ、台湾沖航空作戦の中継基地として使用された。」

資料の後半に登場する10月10日の大規模な空襲は、1944年のいわゆる「十・十空襲」です。
 
先頭の航空写真は、1944年9月29日に米軍が撮影したもの。
 
「十・十空襲」のデータにされたんでしょうね。
 

その後西滑走路が未完成の段階で軍の方針が変更となり、

1945年3月、地上戦直前に滑走路放棄を決定。爆破して破壊します。

そして翌月の4月、アメリカ軍が伊江島を占領し、直ちに滑走路補修、拡張工事を行いました。

 

全国には日本軍の飛行場が米軍に接収されるというケースが数多く存在しますが、

オイラの知る限り、そのいずれも 終戦→接収 という順番です。

ところが唯一地上戦が行われた沖縄には、終戦に米軍の飛行場があり、

直接沖縄と日本本土を攻撃するために用いられていたという点で特異です。

この伊江島飛行場も例外ではなく、

早くも5月10日からは沖縄と日本本土への出撃基地として使用されています。

 

そして終戦。

「正式降伏受理の打合せをなすため一行は日本飛行機により伊江島の飛行場に至り同地より米国の飛行機によりフィリピン マニラに輸送せらるるものとす 右一行の日本への帰還も同様の方法に依るものとす」

との命を受け、日本降伏連絡使節の一行は白塗り・緑十字の一式陸上攻撃機で伊江島飛行場に到着。

ここで米軍C-54輸送機に乗り換えてマニラに向かいました。

オルソ伊江島全体.JPG

1977年撮影の伊江島全体図。3本の滑走路がくっきりと写ってますね。

東西約8キロ、南北約3キロ、外周24.2キロの小さな島に3本の滑走路を建設するため

大勢の島民の従事、強制退去、そして米軍上陸の際には多くの人命が奪われました。

現在も島の35%が米軍の基地です。

オルソ伊江島字.JPG
写真(上2枚とも):「国土画像情報(オルソ化空中写真) 国土交通省」
撮影年度:1977年 地区名:伊江島 編集・加工:「空港探索・とり」

滑走路部分拡大図。大戦前後の写真はこちらのサイトに掲載されていました。

その後旧東飛行場は1970年に返還されて民間の「伊江島空港」になりました。

(伊江島空港についてはこちらをご覧ください)

旧中、西飛行場は現在も米軍管理下にあります。

旧西飛行場はフェンスで囲われた米軍基地内にあり立ち入りが制限されているのですが、

旧中飛行場はフェンスの外にあり、条件付で自由に往来可能となっています。

ということで旧中飛行場をうろついてきました。

(以下の写真は以前アップした旅行記の使い回しです)

3507897.jpg

3507899.jpg

OSD:米海兵隊作戦支援分遣隊

3507900.jpg

3507902.jpg

滑走路を横切る形で道路があり、地元の車が普通に横断してました。


    伊江島・伊江島補助飛行場    

伊江島補助飛行場 データ
設置管理者:米国海兵隊
用 途:演習場
所在地:沖縄県国頭郡伊江村(字西江上、字西江前、字東江上、字東江前、字川平)
座 標:N26°43′19″E127°46′36″
面 積:801.5ha
滑走路
 旧西飛行場:1,650m(04/22)
 旧中飛行場:2,100m(04/22)
 (座標、滑走路長はグーグルアースから)

沿革
1943年 夏頃、陸軍航空本部、伊江島飛行場工事開始
     東、中、西の滑走路(1,500m)を有する飛行場として建設
1945年03月 10日 第32軍、地上戦直前に滑走路爆破命令
    04月 米軍伊江島占領 滑走路補修
    05月 沖縄と日本本土への出撃基地として使用開始。その後部分返還、用途の変遷を経て現在に至る
    08月 9日、長崎に原爆を投下したB29が飛来。給油後テニアン島に帰投
       19日と21日。降伏受理の打ち合わせのため河辺虎四郎中将(参謀本部次長)と随員13名、
       東京・マニラを往復した際、当飛行場を経由
2017年11月 14日 F-35訓練ふまえ改修開始 

関連サイト
沖縄県/伊江島補助飛行場      
読谷村史/降伏使節団の往来      
ブログ内関連記事
   

この記事の資料:
防衛研究所収蔵資料:「南西諸島航空基地一覧図 昭和19・11 第三航空艦隊司令部 」
「第2章 旧軍飛行場用地問題の歴史的な背景とその後の経過 - 沖縄県」


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旧陸軍高萩飛行場跡地 [├空港]

  2009年1月、2017年1月 訪問 2022/12更新  


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(昭和13年11月撮影)高度約1,000米 方位NNW 距離約1,100米
7.png
1938年(昭和13年)11月調査資料添付地図 Translation No. 21, 23 December 1944, airways data; Kanto Chiho. Report No. 3-d(20), USSBS Index Section 6 (国立国会図書館ウェブサイトから転載。上2枚とも)

無題4.png
撮影年月日1947/09/08(USA M452 52) 
出典:国土地理院ウェブサイト(地理院データを加工して作成) 

埼玉県日高市にあった陸軍の「高萩飛行場」。

■防衛研究所収蔵資料:「S14.10 航空路資料 第3 其の3 関東地方飛行場及不時着陸場 水路部」

高萩陸軍飛行場(昭和13年11月調)
埼玉県入間郡高萩村大字森戸新田、同郡高麗川村(川越市の西方約10粁)
(陸軍航空士官学校飛行場)

着陸場の状況
高さ 平均水面上約60米。
広さ及形状 本飛行場は東西約1,300米、南北最大約1,300米の略正方形
地区(総面積165萬平方米)なり・着陸可能区域は周辺より内方約100米に当
る図示の如き長さ約1,100米の略正方形地区なり(付図参照)。
地表の土質 黒色壌土、一部赤土。
地面の状況 本場は雑木林地帯を飛行場として均土整地せしものにして着
陸地域の外方地区は重さ約3屯の「ローラー」を以て転圧しあり地表軟弱且稍不
整地なるも着陸区域内は重さ約8屯の「ローラー」にて転圧しあり凸凹起伏な
き平坦地なり・南西より北東に向い約1/130の下り傾斜あり・場の中央短形区域
は芝張にして其の他の区域は雑草密生す・格納庫前面に2條の「コンクリー
ト」造整備場あり・晴雨及季節に因る地面の影響なきも相当の乾燥地なり・場
の周囲に幅約2米の排水溝を設け之を開渠に導き更に小渓に注がしむ即ち場の
北東隅のものは開渠(内幅1.2米、深さ1米)の延長約350米にして面積50
米平方深さ6米の溜枡に導き更に暗渠(内径0.9米、深さ1.2米)に依り延
長500米にして北方の小渓に注ぐ、南方のものは同じく開渠(内幅0.8米、深
さ1米)に導き延長約300米にして小畔川に注がしむ。
場内の障碍物 着陸区域内にはなし。
適当なる離着陸方向 南北。
着陸上注意すべき点 場の北西側駒寺野新田付近の樹木(高さ約10乃至
15米)は近く伐採の予定なるも離着陸の際目障りと為ると言う・格納庫完成
迄は場内適当の場所に天幕張假格納庫を設置することあり着陸の際注意を要す。
施設 格納庫2(高さ約15米、間口約41米、奥行約48米)工事中にして
基礎工事のみ完成す・格納庫敷地の北方約300米及西方場の外周約250米道路
付近に高さ約30米の吹流柱あり・建築物敷地内には講堂、教官室、飛行場事務
室、門衛、自動車庫、軽油庫、高架水槽等の諸施設あり。

其の他
本場は陸軍航空士官学校(豊岡町)所属の飛行場にして現在は主として95式
3型練習機を使用し離着陸訓練中なりと言う・本記事は昭和13年11月末の現
状に就き記述せるものにして当時整地中の飛行場及建築中の格納庫あり・航空
設備未だ完備するに至らざるも飛行場完成の上漸次充実の予定なり。
 

上に貼った航空写真では、飛行場敷地東側に格納庫とコンクリート整備場がズラリと並んでますが、

この資料には、「格納庫前面に2條の「コンクリート」造整備場あり」とあります。

そして添付してある地図には、南側の2つのみ描かれています。

先ずは南側の2つが先に造られたんですね。

 

■防衛研究所収蔵資料「陸空-本土防空-48飛行場記録 内地(千島.樺太.北海道.朝鮮.台湾を含む) 昭19.4.20第1航空軍司令部」

に 1/20,000 高萩飛行場(昭和十八、七、一五) がありました。

先頭のグーグルマップはここから作図したんですが、マップの通りで飛行地区を西、中、東と三地区に分けてありました。

また、恒風:北北西(十月-四月)、南南東(五月-九月)と記されていました。

同資料の情報を以下記させて頂きます。

位置
 埼玉縣入間郡高萩村及高麗川村
積量
 総面積二,二九七,八五六平方米
  建物地帯 一〇二,六八〇平方米
  滑走地帯 二一九五,一七六平方米
地表の状況
 地盤概ね良好にして被覆草は野芝を主とし雑草混生しあり
 傾斜約一五〇〇分の一にして排水良好なるも各地区共離着陸のため
 中央部稍低下し水溜を生す
周囲の状況
 北方一五〇米に民家(駒寺野新田)あるも演習場障害なし
将来拡張の能否
 南方は斜面、東方は施設地帯にして拡張不可能なり
 西方は現有飛行場巾(一六八八米)にて一〇〇〇米の拡張可能なるも、
 民家の移転(約六〇戸)を要す
天候気象の交感
 地下水高きを以て豪雨後は離着陸に注意を要す 夏季は
 霧の発生(拂暁より〇九〇〇)多く又雷雨比較的多し
 二月下旬北風多し
格納施設
 現有格納庫一二棟あり(一七,六〇〇平方米)
飛行機掩体
 大型機用五 小型機用三
 現在構築中にして十月下旬迄に完成の予定
居住施設
 なし
交通連絡状況
 豊岡川越坂戸に至る道路は自動車の運行自在なり
 川越市には「バス」運行しあり 其の他飛行場より大飯線高萩
 駅あるも交通は比較的不便なり
其の他
 建物地帯は狭隘にして民家に近接しありて防諜及火災予
 防上適当ならざるを以て該地帯を東側(一〇〇米)に拡張を
 希望す

将来的に拡張が必要となった場合、約60戸もの民家があるものの、西側に1,000m拡張可能であること、

東側の建物地帯は100mの拡張を希望していたことが記されています。

■「日高市史 近・現代資料編」にも当飛行場の資料がありました。以下抜粋させて頂きます

旧日本陸軍高萩飛行場
正式名:陸軍航空士官学校高萩分教場
飛行場開場:昭和14年4月
東西1,800m、南北1,180m 213万㎡
地面の状況:平坦且堅硬ナリ 殆ド一面ニ張芝及雑草密生ス 降雨後ノ排水概ネ良好ナリ
目標:川越市、飯能市、東上線
障碍物:ナシ
離着陸特殊操縦法:
着陸ハ東側格納庫寄リニ於テ南北方向ヲ可トス
格納設備:格納庫 40m×50m2楝、30m×35m2棟
通信設備:高萩郵便局(電信及電話取扱)東方約700m
観測設備:ナシ
給油設備:燃料補給可能
修理設備:ナシ
宿泊設備:川越市ニ旅館数軒アリ
地方風:
1-3月間ハ北風、4-7月間ハ南東風、8月ハ東風、9-12月間ハ北東風ナリ
地方特殊ノ気象:5月頃降雹アリ 7、8月頃雷雨多シ 冬季北風強吹ス
交通関係:川越駅(東上線)ヨリ「バス」ノ便アリ
其ノ他:本場ハ陸軍航空士官学校分教場ナリ

敷地の大きさについての情報が現地の碑文と若干異なっています(後述)。

それから交通関係として川越駅が紹介されているのが不思議です。

当時既に東上線も越生線も全通しており、八高線も開通してました。

特に越生線の西大家駅から飛行場まではほんの数キロなのですが…。

川越ですら「旅館数軒アリ」という当時の事情からすると、

川越からバス利用というのが結局は無難だったのでしょうか。

 

■防衛研究所収蔵資料「本土における陸軍飛行場要覧 第一復員局(陸空 本土防空7)」

飛行場名  高萩
位 置   埼玉県入間郡高萩村
規 模   要図(南北1260~1200 東西1000)
舗 装   ナシ
付属施設
 収容施設 三〇〇名分
 格納施設 掩体 大七ヶ所 小七ヶ所
摘 要   施設軍有

先頭の航空写真の通り、格納庫と格納庫前のコンクリ舗装面がクッキリ残っていたので、

グーグルマップ上にキチンと作図して再びお邪魔したのでした。

DSC_0001.jpg
撮影地点1

上の航空写真の通りで、飛行場敷地東側には、格納庫とコンクリ舗装の駐機場が7組並んでいます。

これは北から4番目の駐機場跡地を飛行場側から見たところです。

ファミマの敷地は当時の駐機場にきっちりと収まっています。

上の写真、オレンジの線を引いた部分が駐機場跡なのですが、

不思議なほど正確に舗装面跡が杭で囲われて地割として残っていました。

DSC_0006.jpg
撮影地点2

これも飛行場側から見ています。

オレンジ線で囲ったのが駐機場跡。

この写真だとトラックに隠れて見えないんですけど、杭で囲われた敷地の先にファミマがあり、

その先のベイシア(奥の灰色と赤色の大きな建物)の辺りまで当時は駐機場で、更にその先に格納庫がありました。

DSC_0011.jpg
撮影地点3

こちらはお隣の北から5番目の駐機場跡。

こちらもやはりコンクリ舗装面だった場所が正確に民家敷地になっています。

民家にカメラを向けてしまうことになるので、なんだか構図が中途半端ですが、

画面右端のオレンジ線を引いた場所が当時のコンクリ舗装面。

1947年の航空写真で4番目と5番目を比較すると、5番目の方が数メートルだけ西にズレているのですが、

現在の地割でも、ファミマのとこの杭の境界より、こちらの民家の敷地の境界がきっちり数メートル西にズレています。

陸軍が飛行場用地を買収した後、「ここは元○○家の土地だから~」なんて考慮しつつ、

格納庫やコンクリ舗装面の場所決めをしたとは考えられません。

それでもなぜか、軍の都合で「ここと、ここ」と決めた格納庫、コンクリ舗装面の地割が、

(ほんの一部ですが)現在まで正確に残っている。

どういう経緯を経てここが戦後の境界線として確定したんでしょうか。

DSC_0009.jpg
撮影地点4

ファミマとベイシアの間の道路。

飛行場があった当時、ここが格納庫前のコンクリ舗装面同士をつなぐ通路でした。

現在も(幅が少々狭くなりましまたが)道路として残っています。

DSC_0016.jpg

DSC_0018.jpg
撮影地点5

飛行場敷地北側。

この周辺の山林に飛行機を隠していたのだそうです。


D20_0007.jpg

赤マーカー地点。

高萩北公民館の道路に面した一角に上のようなものがあります。

D20_0005.jpg

高萩飛行場跡(全文)
所在地 日高市大字旭ヶ丘全域 萩飛行場は、昭和十三年十二月、陸軍航空士官学校(現在の入間市)の高萩分教場として使用開始された。
当時この地は、北海道などからの入植者によって山林が農地として開拓されていたが、日華事変の拡大に伴い軍用地として接収された。
飛行場の規模は、東西一七〇〇メートル、南北一三〇〇メートル、面積は約二二〇ヘクタールで、飛行場設備の主な建物としては、格納庫四庫(内二庫は鉄骨)、本部舎(二階建)、兵舎二棟(二階建)、機材庫、車庫、庶務事務所、講堂、将校下士官用控室、炊事用建物などであった。
飛行練習は、主に通称赤トンボと呼ばれていた九五式練習機などを用いて行われた。
昭和二十年二月まで、航空士官学校生徒の飛行練習場として、大きな役割を果たした。飛行場としては、同年八月の終戦まで使用された。
平成八年一月 高市教育委員会

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紫マーカー地点。

少し離れた神社にも碑がありました。

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碑文(全文)
昭和二十年終戦を迎えるや、首都衛星基地であった旧陸軍高萩飛行場跡へ十二月一日国の緊急開拓政策のもとに県下でもいち早く高萩開拓団を組織し、鍬入れを行った。
当地は旧高萩村及び旧高麗川村の一部に亙り、総面積は出耕作地も含め六十余万坪に及び主として復員軍人、引揚者、近隣の二三男の百二十四名で構成し、字を旭ヶ丘と命名した。
当時世相は混沌とし、農業経験の未知に加えて食糧物資は極度に不足し、更に打続く各種災害等に依り、経営基盤の弱い入植者の生活は困窮を極めた。
然し同士一同克くその苦難に耐え、昭和二十二年より国の助成による住宅の建設も始り、二十三年秋には待望の点灯工事を了え、同年農協法の施行により開拓団を旭ヶ丘開拓農協に改組し、苦難の中にも一歩一歩建設への段階を進め、二十七年国の開拓完成検査に全員合格した。
更に心の據り処として部落中央に旭ヶ丘神社を建立し、幹線道路も逐次整備を進め、四十年代に入り蔬菜を中心とする営農も漸くその基礎を固めることが出来た。
昭和四十四年開拓農協を解散し各自一本立ちの農家として再出発出来たのも、一重に各行政当局、各種諸団体、諸先輩の尽力指導の賜であることは勿論、入植者一同の団結と努力の成果であろう。
茲に当地の足跡を後世に伝えると共に旭ヶ丘の将来の繁栄を希念しこの碑を建てる 昭和五十三年十二月一日

D20_0016.jpg

当時飛行場の本部舎内にあった気象室で天気図の作成をしていた方が

現在当地区の地主会長を務めておられ、この記念碑を建立したのだそうです。

ちなみに2008年10月に建てられたばかり。

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この碑文は北公民館に設置されている説明版の文章とまったく同じで、

文末の「平成八年~」の部分が、「所在地 日高市大字旭ヶ丘全域 及び一部森戸新田を含む」

になっていました。

D20_0023.jpg

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神社周辺はこんな感じ。

オルソ高萩飛行場全図.PNG
写真:「国土画像情報(オルソ化空中写真) 国土交通省」
撮影年度:1974年 飯能、川越南部、越生 編集・加工:「空港探索・とり」

こちらは1974年当時の写真です。

現在と比べるとまだまだ建物が少ないですね。

こうして直線道路が整備されている様子を見ると、「どの道路が滑走路跡だろうか」

などと考えてしまうのですが、特定の場所を舗装して滑走路としていたのではなく、

格納庫や本部舎などを除き一面芝生の平地だったそうで、

道路が整備されたのは戦後だそうです。

 

「旧陸軍坂戸飛行場の足跡」の中に、昭和16年に高萩飛行場に整備士として入職した宮崎氏の話が載せられていて、

宮崎氏によりますと、「高萩は重爆の飛行場でしたから、生徒に操縦を教えていました」

とありました。


        埼玉県・旧陸軍高萩飛行場跡地       

旧陸軍高萩飛行場(陸軍航空士官学校高萩分教場) データ
設置管理者:日本帝国陸軍
所在地:埼玉県入間郡旧高萩村及び旧高麗川村(現:埼玉県日高市旭ヶ丘)
座 標:N35°54′46″E139°21′50″
標 高:60m
面 積:220ha(南北1260m~1200m 東西1000m)
滑走路:飛行場内は全面芝生で舗装された滑走路なし
    気象条件により石灰粉でラインを引き、離着陸の目安として使用
(座標はグーグルアースから) 

沿革
1930年    北海道などからの入植者によって山林が農地として開拓される
1938年12月 日華事変の拡大に伴い軍用地として接収
       陸軍航空士官学校(現在の入間市)の高萩分教場として使用開始
1945年02月 2月まで航空士官学校生徒の飛行練習場として使用される
1945年08月 終戦により飛行場としての使用停止
1945年12月 飛行場跡地の開拓が始まる
1978年12月 1日 神社に碑建立
1996年01月 公民館に碑建立
2008年10月 神社に碑建立(二つ目)

関連サイト
埼玉ニュース   

この記事の資料:
「日高市史 近・現代資料編」
旧陸軍坂戸飛行場の足跡
現地の碑文
防衛研究所収蔵資料:「陸軍航空基地資料(本州、九州)昭19.20 水路部」に坂戸飛行場と共に図あり
防衛研究所収蔵資料:「S14.10 航空路資料 第3 其の3 関東地方飛行場及不時着陸場 水路部」
防衛研究所収蔵資料「本土における陸軍飛行場要覧 第一復員局(陸空 本土防空7)」
防衛研究所収蔵資料「陸空-本土防空-48飛行場記録 内地(千島.樺太.北海道.朝鮮.台湾を含む) 昭19.4.20第1航空軍司令部」


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アントニオ B. ウォン・パット国際空港(グアム国際空港) [├空港]

  2008年11月訪問 2022/12更新  


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SkyVector.com

グアム島ほぼ中部にある「アントニオ B. ウォン・パット国際空港(グアム国際空港)」。  

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通路に設置してある公衆電話。

受話器が傾いでるので直そうとしたのですが直りませんでした。

仕様みたいです。


     アントニオ B. ウォン・パット国際空港(グアム国際空港)      

    ビュー:☆★★★★  
展望デッキなし
通路の窓から覗く感じになり視界は限られる

    施設:☆☆☆☆★  
ギフトショップ、飲食店が充実       

    マニア度:☆★★★★  
特に発見できず
タイミングが良ければ海外エアライン等珍しい機体が見られるかも

    総合:☆☆☆★★  
館内表示、放送等日本人客への対応万全 
空港に降り立った観光客から歓声が上がるほどターミナルから眺める景色も美しい

アントニオ B. ウォン・パット国際空港 データ
3レター:GUM
4レター:PGUM
運用時間:24時間
所在地:タモン、バリガダ
標 点:N13°29′00″E144°47′45″ 
標 高:91m
滑走路:3,052m×46m(06R/24L)
        3,053m×46m(06L/24R)
航空管制周波数
・飛行場管制 
 アガナタワー 118.1 340.2
 デリバリー 121.9
 グランド 121.9 336.4
 ランプ 121.6
・飛行場情報放送 
 ATIS 119.0
・進入・ターミナルレーダー管制
 アプローチ/ディパーチャー 118.7 269.0
  GUAM CERAP 118.4 118.7 120.5

沿革 
1976年01月 開港
1982年01月 旅客ターミナルビルオープン
1996年09月 新東側ターミナルビルオープン
1998年08月 新西側ターミナルビルオープン

関連サイト:
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児玉飛行場(八町八反の飛行場)跡地 [├空港]

  2008年11月訪問 2022/11更新 

6.png
撮影年月日1946/06/08(USA M159-A-5 103) 
出典:国土地理院ウェブサイト(地理院データを加工して作成) 

埼玉県児玉町。

かつてここに陸軍児玉飛行場がありました。

陸軍らしい1,500mx1,500m正方形の飛行場で、当地は元々その広さから「八町八反」(「八丁八反」)と呼ばれており、

地元の方からは「八町八反の飛行場」と呼ばれていたのだそうです。

2021/8/29追記:しむさんから正門の位置にについてコメント頂きました(グーグルマップ紫マーカー/航空写真白矢印)。

ここは付属地区の外周道路に面しており、この場所から飛行地区に向って真っすぐの太い道路が続いていることから、

ここが正門である可能性が高いと思います。 しむさんありがとうございましたm(_ _)m

■防衛研究所収蔵資料「陸空-本土防空-48飛行場記録 内地(千島.樺太.北海道.朝鮮.台湾を含む) 昭19.4.20第1航空軍司令部」

に児玉飛行場要図 があり、先頭のグーグルマップはここから作図しました。

方形の飛行地区の少し南側が滑走路延長のために東西両側に少し飛び出してますが、

同要図ではこの部分が1,800mx300mと記されており、その通りに作図しました。

同資料の情報を以下記させて頂きます。

位置
 埼玉縣児玉郡共和村
積量
 二,四七五,四〇三平方米
交通連絡の状況
 八高線児玉駅東北二粁
其の他
 (記載無し)

■防衛研究所収蔵資料「本土における陸軍飛行場要覧 第一復員局(陸空 本土防空7)」
に当飛行場の情報がありました。

飛行場名  児玉
位 置   埼玉県児玉郡共和村
規 模   要図(長さの数字がかすれて判別できず)
舗 装   ナシ
付属施設
 収容施設 ■〇〇名分 ■〇〇名分工事中
 格納施設 掩体 有蓋大一三棟 有蓋小一二ヶ所
摘 要   施設軍有

D20_0017.jpg

戦後入植者により開墾され、現在は一部工業団地になっています。

この飛行場、完成したのは1943年10月なのですが、

1944年秋、この基地から硫黄島攻撃の重爆撃機を離陸させるため、

飛行場の東西に250mずつ突き出した長くて頑丈な滑走路(2,000m)作りが始まりました。

既に必要な物資を失っていたため、滑走路には「マガダム式」を採用。 

神流川、利根川から運んで来た直径15~20センチの玉石を幾千万ともしれず敷き詰め、

その隙間に砂利を敷き、さらに赤土で覆ってローラーで転圧します。

この気の遠くなるような作業には小学生まで動員されました。

上の地図では分かりませんが、共栄地区がかつての滑走路跡だそうです。

現在でも庭先を20~30センチ掘ると、石や砂利が出てきてまるでコンクリートのように固く、

大根などは作れないのだそうです。

戦後、こうした事情を知らずに当地に越して来た方は、

「どうして我が家の庭にはこんなにびっしり石が敷き詰められてるのだろう??」と不思議に思うのだそうです。

飛行場から飛び出した部分の舗装は結局終戦まで終わらなかったのだそうです。

D20_0018.jpg

工業団地周辺

D20_0025.jpg

赤マーカー地点。

飛行場跡地の一角にこのような記念碑があります。

複数の石碑があり、裏側にも文字が彫られているのですが、

D20_0031.jpg

このようにぐーっと一周できるよう整備されています。

通路には大型のクモの巣がたくさん張られていますので、

通る時は十分注意した方がよいです。

D20_0030.jpgjj.jpg 

D20_0027.jpg

(裏側はこんな)

碑文(全文)第二次世界大戦の苛烈な戦局下、当地に建設された児玉飛行場の生涯は、まさに戦いの厂史であった、即ち陸軍航空特別攻撃隊の出撃基地として、日本々土に来襲する敵軍の勢を砕く古今未曽有の航空作戦に貢献した。児玉飛行場の栄誉は埼玉県はもとより全国に其の名を馳せている。其の建設を胸に秘める児玉郡下市町村住民の血と汗の協力に拠る「八丁八反の飛行場」こそ日本最後の砦として神洲不滅の奇跡を信じ、各種団体から小学校児童に至るまで、困苦欠乏に耐えつゝ工事に奉仕し、昭和十七年春より約一年有半の歳月を経て完成した。昭和十八年十月熊谷陸軍飛行学校児玉教育斑(初代隊長浅井策大尉)として使用開始し、同校の九十五式一型練習機が初めて児玉飛行場に着陸した。先ず、暁部隊の将校、下士官学生十五名に飛行機の操縦技術を施し前線に送った。続いて、昭和十九年四月学徒動員の陸軍特別操縦見習士官二○○名が入校し、児玉教育隊と改称され、三ヶ月の最短期間に操縦教育を終了し陸軍特別攻撃隊要員として第一線に配属された。又同年八月、第一練習飛行隊の編成を見るや全将兵は、児玉郷の山河に別れ南国ジャワ島に移駐した。同年十月児玉基地と改称、第一四四飛行場大隊が配備され、各分科飛行部隊及び、特別攻撃隊の基地、拠点となって帝都の防衛、硫黄島攻撃、或いわ太平洋近海を遊弋する敵機動艦隊に対する攻撃等、重要航空作戦の任に当たった。昭和二十年八月十五日大詔を拝し戦局を結ぶ、児玉基地は、映画「日本の一番長い日」によって全国民に伝えられたが、祖国日本の栄光を背負って戦った、児玉飛行場は尊くも又悲しい無限の教訓を残して、その思い出だけを住民、軍関係の記憶に止どめて日本と運命を共にし、三年有余の厂史を閉じた。我が民族の限り無い雄叫は、厂史の試練に苛なまれ乍らも、同年秋、百十余名の開拓団員の入植となり、農耕地にすると同時に一部は工業団地として再生し今日に至る。戦後三十五年を閲し、往時の□(留?)魂、姿を偲ぶ何物もなく、追想のみ錯綜し物心共に漠々たるものを覚ゆる時此の縁故ある地に生存する有志の悲願が凝って記念碑建立の声こんこんとして湧くが如く起る。幸にして地元同志の篤志と物心両面の援助と更に碑建設の諸般に亘り住民各位の甚大なる協力を受けたことはまさに天佑神助と信じ共に感謝するところである。茲に熊谷陸軍飛行学校、第一練習飛行隊第一四四飛行場大隊の関係者並びに地元有志の発願により、児玉飛行場を飛び立ち祖国の為に散華された幾多将士を始め教育訓練中殉職した戦友の冥福を永久に祈り、再び戦争を繰返さないことを願いつゝ世界の平和と日本の繁栄を祈念してこの碑を建立する。昭和五十五年十一月十五日 児玉飛行場跡記念碑建設委員会

D20_0020.jpg

この石碑の裏側には、輸送飛行隊で殉職した方の階級と氏名が彫られていました。

D20_0021.jpg

第四教育飛行隊鎮魂碑(抜粋)児玉飛行場跡に、護国生死を共にと集いたる第四教育飛行隊に在籍の士が、今茲に訓練中、不幸その任に殉ぜし者、或は米機襲来に斃れし者を部隊終焉の地に、永えに眠られん事を願い、この碑を建立する。部隊は昭和十七年滋賀縣八日市に飛行第三戰隊北方進出の後を享け軽爆撃機操縦者の戰技訓練を主務とした新設部隊であったが、戰局の推移に鑑み、南方補給作戰更に名阪神地区の要地防空戰斗等の戰斗行動に参加、昭和二十年三月部隊はこの地に移駐、戰局漸く悪化するや本然の任務たる教育訓練から特別攻撃隊の養成へと変遷を経て、振武第二九九隊、三○○隊、三○一隊、三○二隊、三○三隊、三○四隊を編成、沖縄特攻作戰の為南下征途に就かしめた。此の間の訓練においても幾多の尊き命が失われたが屍を越え国の護持に訓練は日夜を分かたず続けられた。 二十年八月に入るや米機の空襲も熾烈を極め対空戰斗においても戰死者が出るに至った。斯くして頽勢の挽回ならざるまゝに終戰の日を迎えたが、青春の血滾る憂国の至情も詔勅の渙発に旬日を出ずして敗戰の處理を完了、茲にこの児玉において部隊の歴史は閉ざされた。短期間乍ら苛酷な情勢下における児玉飛行場での生活の一日一日は終生忘れ得ぬものがあり、更に幽明境を異にした幾多の戰友をこの地に残したまま家郷に戻らねばならなかつたことは断腸の思であつた。離散の日より三十七年を歴し、今漸く兄等の安住と、兄等に心の再開を願える地を、児玉飛行場之跡碑奉賛会の御厚志により得ることが出来、この碑の建立される日を迎え得た。昭和五十七年十月十日 八日市会 冲之原会 児玉会

D20_0038.jpg

碑の片隅に野ざらしになっている金属の塊。

プロペラかタイヤの軸かと思ったら、焼夷弾の残骸だそうです。

D20_0039.jpg

青マーカー地点。

近くの公民館にも碑がありました。

碑文(全文)当開拓地は太平洋戦争遂行の為航空後方基地として終戦二年前に完成した旧陸軍児玉飛行場跡地である 戦後緊急食料増産対策として  基地残留部隊員を基幹として復員軍人引揚者開拓者及び周辺町村の次男三男百十六名を以って昭和二十年十月開墾に着手した 以来三十年困苦に耐え欠乏を忍んでひたむきの努力を重ねて今日に至る ここに三十周年を迎へるに当り今は亡き友と共に入植者の足跡を記し子孫の繁栄を祈りこの碑を建立するものである 昭和五十二年四月二十日 児玉開拓農業協同組合

D20_0040.jpg

 

エステー化学の門(紫マーカー)が当時の飛行場の門だったのだそうです(アギラさん情報)。

・不発弾

 沿革にもまとめましたが、2016年5月6日、本庄市内共栄地内(陸軍児玉飛行場の正門跡付近)にて、道路工事中に、長さ1メートル、直径40センチメートルの円筒形の不発弾が発見されました。陸上自衛隊第102不発弾処理隊の調査により、米国製250kg爆弾と判明。自衛隊の処理隊では信管を安全に取り外すための準備作業として、信管を固定しているネジの部分に定期的に油を差す作業を実施(少なくとも3週間はかかる作業らしい)。当日の避難指定区域を半径300メートル以内と定め、6月25日に無事処理終了。


       埼玉県・児玉飛行場跡地         

訓練生を送り出すと飛行場は使命を一変させ、激戦地へ食料や兵員を空輸する実戦基地となりました。硫黄島への出撃なども行い、かなりの死傷者を出しました。しかし支援物資はほとんど友軍の手には届かなかったようです。終戦時には本土決戦用の飛行機約80機がほぼ無傷で残っていたそうです。
余談ですが、8月15日のポツダム宣言受諾演説後、海軍厚木基地司令は徹底抗戦を強固に主張。これに当児玉基地も同調しました。厚木基地司令は憲兵により逮捕、海軍病院に監禁されましたが、これに納得できない部下らが零戦・彗星・彩雲など計32機に搭乗して厚木基地から脱出。このうち彗星など13機が未だ抵抗を続ける陸軍児玉飛行場に降り立ったのですが、すぐ厚木に連れ戻されるという一幕があったのだそうです。

児玉飛行場 データ
設置管理者:陸軍
用 途:操縦教育、航空後方基地
所在地:埼玉県児玉郡共和村(現・本庄市共栄)
座 標:N36°13′27″E139°08′29″
標 高:81m
飛行地区:1,500mx1,500m
滑走路:2,500m×60m
(座標、標高はグーグルアースから)

沿革
1942年    春 建設開始
1943年10月 熊谷陸軍飛行学校児玉出張教育斑として使用開始。暁部隊の将校、下士官学生十五名に操縦訓練
1944年   正月から建設途上の飛行場を使って暁武隊将校を訓練(「児玉飛行場哀史」・アギラさん情報)
     03月 完成(「児玉飛行場哀史」・アギラさん情報。碑によると、1943年半ばの完成)
1944年04月 児玉教育隊に改称。特別操縦見習士官200名入校(7月末まで・アギラさん情報)
     08月 第一練習飛行隊編成。ジャワ島に移駐
     10月 児玉基地に改称。第一四四飛行場大隊配備
1944年   秋 マガダム式滑走路建設開始
1945年08月 終戦
    10月 百十余名の開拓団員入植
1977年04月 20日 児玉開拓農業協同組合、碑建立
1980年11月 15日 児玉飛行場跡記念碑建設委員会、碑建立
1982年10月 10日 八日市会 冲之原会 児玉会、碑建立
2016年05月 6日、不発弾発見
    06月 25日 不発弾処理

この記事の資料:
現地の碑文
防衛研究所収蔵資料「飛行場記録 内地(千島、樺太、北海道、朝鮮、台湾を含む) 昭和十九、四、二〇調製 第一航空軍司令部」
防衛研究所収蔵資料:「本土における陸軍飛行場要覧 第一復員局」
防衛研究所収蔵資料「本土における陸軍飛行場要覧 第一復員局(陸空 本土防空7)」


余談:「帝都防衛??」

「操縦技術習得」、「輸送」、「特攻隊」 、「敵艦隊攻撃」、「敵基地攻撃」等、様々な任務を担った児玉飛行場でしたが、その1つに「帝都防衛」がありました。

時々この周辺を車で走るオイラからすると、これには違和感を感じます。

「敵の艦載機、爆撃機相手にこんな奥地からはるばると?? …随分悠長だなぁ」というのが第一印象でした。

例えばですが、児玉飛行場から東京湾まで車でいくとすると、

最寄のICから関越道、首都高など使って、まったく混んでなければ約80分、

日中の時間帯なら、2~3時間というところでしょうか。

下道を走るとなると一体何時間かかることやら。

そこで、当時陸軍が使用していた戦闘機で児玉飛行場を離陸して、東京湾まで何分で行けるか計算してみました。

 

児玉飛行場→東京湾 距離:80km

「隼(後期型)」 最高速度:548km/h

「疾風」      最高速度:624km/h

として、

時速500キロ出したとすると、所要時間は9.6分

時速600キロ出したとすると、所要時間は8.0分

です。

児玉から東京湾の手前まで10分を切るんですねΣ(゚Д゚;)

実際にはもう少しかかるのでしょうが、大戦当時のレシプロ機とはいえ、

その速さは凄まじいものがあったのでした(@Д@)


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埼玉県・関東松山(唐子)飛行場跡地 [├空港]

  2008年11月訪問 2022/11更新  


無題b.png
撮影年月日1947/10/24(昭22)(USA R356 18) 
出典:国土地理院ウェブサイト(地理院データを加工して作成)

埼玉県東松山市にある東松山工業団地。

元は陸軍の「関東松山(唐子)飛行場」でした。

■防衛研究所収蔵資料「本土における陸軍飛行場要覧 第一復員局(陸空 本土防空7)」

に当飛行場の要図があり、先頭のグーグルマップはこの要図から作図しました。

同資料の情報を以下引用させて頂きます。

飛行場名  松山
位 置   埼玉県比企郡宮前
規 模   要図(北西-南東1800 北東-南西1500)
舗 装   ナシ
付属施設
 収容施設 五〇〇名分
 格納施設 (記載無し)
摘 要   施設軍有

2014/9/21追記:アギラさんから情報頂きました。第232飛行場大隊補給中隊の横塚氏によりますと、正式名には「関東」が付くとのことでしたので、飛行場名修正致しました。アギラさんありがとうございましたm(_ _)m

この場所に旧陸軍が飛行場を造るまでのことは、

前記事(東武東上線物語・)に書きました。

この記事では、終戦後この飛行場跡地がどうなったか書きます。

 

まずは飛行場に関する部分だけ簡単におさらい。 

1943年(昭和18年) 陸軍、松山飛行場建設開始

1945年(昭和20年)1月 
  松山飛行場建設のため武州松山(現東松山)~武蔵嵐山間移築
  同年8月 飛行場未完成のまま終戦

1945年(昭和20年)9月初め
最初期の開拓者たちが飛行場跡地に到着。

跡地北側に日本軍残留部隊が何人か残っていました。

飛行場は未完成でしたが、北端、東側山中の大小2棟の格納庫や、西側山中の部隊用建物や武器その他被服、

軍靴などを収納する建物も完成し、飛行場の発着機能は十分果たされるまでになっていたようです。 

飛行場には半地下兵舎が残っていて、到着した入植者は当初そこに分宿したりしたそうです。

最初期の入植者の言葉が残っています。 

「初めてこの地を訪れた時、軍用地とは言いながら、まだ出来上がらない飛行場で、一見平地のように見えるが山あり谷ありの場所を削り埋めた、草も満足に生えぬような赤土であり、鋤もきかないような赤土地帯(関東ローム層)であった」。

1945年(昭和20年)10月4日 米軍飛行場跡地に進駐

松山中学校内の旧日本軍の医薬品などを監視するという名目で駐屯。

この跡地に飛行機が残っていたという記述が「東武鉄道百年史」と松山市の市史にあり、

記述が微妙に異なるのですが、併記しておきます。

・格納庫にあった飛行機1機を同年暮れに爆破
・不時着したとかいう飛行機が2機、飛行場跡地に残っており、計器類はすべて剥ぎ取られた状態でした。この飛行機は後に米軍に燃やされました。

「黄塵を友として」という史料の中ではこの頃のことについて、

最初期の入植者が入って間もなく進駐があり、開拓を目的に集まって来た人たちが皆追い出されてしまいまったこと、

飛行場の周囲に柵をされ、鉄条網が張られ、突然のことに事情が分からず後から入ろうとした人は

銃を突きつけられ追い返されてしまったことなど述べられています。

一方市史の中では、

1945年(昭和20年)10月、進駐軍のいた飛行場跡には既に麦まきをする人が現れる。

と書かれています。飛行場の一部は立ち入り禁止から免れたということなのでしょうか。

それはともかく、全国的には進駐した米軍が飛行場を拡充してそのまま運用するケースもありましたが、 

当地への進駐は非常に短期間で、結局この地で飛行機が飛び交うことはありませんでした。

1945年(昭和20年)11月頃 米軍松山飛行場跡地から撤退

米軍のいなくなった地に再び開拓者たちが戻って来て開墾が始まりました。

1946年(昭和21年)1月14日付 朝日新聞

「不要飛行場引渡し」の見出しの下、こんな記事が載りました。

米軍総合司令部渉外局12月発表 第八軍司令官代理ホール中将は12日 占領軍に不要な日本の全飛行場を
可及的速やかに農耕要地として日本側に引き渡すよう命令した。

終戦後の食糧危機を受けての事と思われますが、

「農耕要地として」という条件で全国の不要飛行場引渡し令が下されました。

こうした占領軍のお墨付きもあり、以後開拓が進むことになったのですが、それは苦労の連続だったようです。  

開拓者の苦労については、市史の中でこう綴られていました。

「北海道、東北、奄美大島、外地から終戦引揚者が無一文でここに入った。農業の経験も持たずに入植して来た人が大部分であり、作物の作り方、蒔き付け時期すらわからない。サツマイモ、陸稲が主だったが、その後スイカ、メロン、落花生、栗が盛んとなり、酪農も広く行われた。地元の人たちからは「飛行場の人」などと呼ばれ、独との感じをもっていたが、「新郷」という字名が付けられ、組合ができ、共同出荷場を作った」。

荒れ果て、痩せた土地の開墾作業は困難の連続で、強い季節風は黄塵を巻き上げて前が見えないほどであり、

そのことが前出の史料、「黄塵を友として」という書名にもなっています。


1953年(昭和28年)「グライダー事件」発生

飛行場跡地を「宮前滑空場」にしよう、というグライダー滑空場誘致運動が起こりました。

大変な苦労をしながらも、懸命に開拓を行っている当人たちの頭越しでのこの計画に入植者たちは猛反発。

滑空場の計画図面には2本の滑走路があったため、

「グライダー滑空場は将来飛行場になる危険がある」と主張を展開。

誘致案取り下げで騒動は落着しました。

この騒動について史料の中では、

「悪気はないものの、入植者の懸命な努力にもかかわらず営農不振が続き、外部の人に『何か有効利用を』という気を起こさせてしまう要因となった」

と述べられていました。

その後もこの地には、大学進出、工場立地などの案が上っては消えるということを繰り返しました。

1965年頃(昭和40年代) 開発の波が押し寄せる

この頃になると、各地の開拓地が工業団地、大学、住宅団地などの開発地として狙われ始めました。

それは30年代後半から一向に成果の上がらない開拓地や

首都圏に近い開拓地が高度成長に追いつかない開拓農業に見切りをつけた結果でもありました。

松山周辺でも高速道建設についての噂話が地元の人々から上がり始めるようになり、

国営森林公園建設決定、1967年(昭和42年)には大東文化大学東松山校舎開校など、

松山飛行場跡地周辺にも確実に開発の波が押し寄せてきました。

こうした情勢の中、新郷、都地区の工業団地開発計画を立てた市長が三選されます。

1969年(昭和44年)4月 工業団地の造成工事開始

開拓地の36%がその対象となりました。

1971年(昭和46年)3月 森林公園駅開業

オルソ松山飛行場全図.PNG
写真:「国土画像情報(オルソ化空中写真) 国土交通省」
撮影年度:1974年 武蔵小川 東松山 編集・加工:「空港探索・とり」

1974年撮影。 工業団地の造成工事開始から5年後の写真です。

1974年(昭和49年)7月 森林公園開園

1975年(昭和50年)8月 関越道(練馬~東松山 開通)

1980年(昭和55年)7月 関越道(東松山~前橋 開通)→飛行場跡地を関越道が通る

2002年(平成14年)3月 つきのわ駅開業

2003年(平成15年)   254唐子バイパス2車線暫定開通

 

このように、かつて線路が一本通っているだけだったこの寂しい場所は、

時代に翻弄され、開発の影響を受け、当時の面影をわずかに残しつつも現在のように変わっていったのでした


・松山飛行場の形について
松山飛行場の詳しいデータ(敷地の明確な境界線、滑走路位置など)は、

図書館でもネットでも資料を見つけることができませんでした。

一連の記事の飛行場境界線については、

「黄塵を友として」の付録 1947年10月に米軍が撮影したと思われる写真、

1959年撮影の写真、そして「東武鉄道百年史」の図を参考にしました。

敷地南側はこれでほぼ間違いないと思うのですが、北側部分が定かでありません。

松山飛行場のその後については、跡地の一角に建てられた石碑にもその説明があります(グーグルマップ青マーカー)。

尚、この石碑の中で松山飛行場は、地元の人たちの通称、「唐子飛行場」として登場しています。

D20_0035.jpg

D20_0039.jpg

赤マーカー地点。

都開拓記念碑(全文)
旧村の宮前、唐子両村を境して、民地約二00ヘクタールが大東亜戦争に軍用の唐子飛行場となったが終戦とともに、戦後国民の食糧事情が飢餓の状態であったので、開拓による食糧増産が国策となり、唐子飛行場跡地も開拓入植の土地となりこの旧宮前地区には昭和二十五、二十六年にわたり、旧宮前、唐子の人達家族ごと十五戸が入植となった。

この地は字名を都と称し、唐子分は新郷と称したとくに、表土をけずられてあるこの都は、黄塵にして荒れ、開拓家族は、石油ランプをたよりに起居し、農具も鍬や万能の、手による作業で、血と汗にまみれ排水工事を施工、困苦の日々の闘いの開拓であった。開拓当初、都開発者は唐子開拓農業協同組合を設立したが旧村がそれぞれに町村合併により東松山市と滑川村とになり、組合も松山開拓農業協同組合と合併した。

電灯も入り辛苦の十数年、作物も実りが得られるようになった。この頃より国の経済の動向は農業から工業生産と変化した。市村も将来の発展的計画に基づき県企業局の協力のもとに工業団地として組合にその協力を求められた。血と汗の結晶の土地であるが組合として協力の決がとられた。その後地区内を関越高速道の通過があり全員が協力した。以上のように開拓者一致の協力は、この地域と住民の発展を大きく進展させたことは事実でありかっての苦闘の努力は歴史を綴り不滅に輝き続けてゆくことであろう。

都開拓三十周年記念の開拓者建碑にあたり碑文とする 滑川村長小久保正男 
昭和五十八年四月吉日建之 


        埼玉県・関東東松山飛行場跡地       

関東松山飛行場データ
設置管理者:旧陸軍
目 的:帝都防衛
所在地:埼玉県比企郡宮前(現・東松山市新郷、滑川町都)
滑走路:1,800mx300m(四角の敷地から飛び出た部分)
方 位:13/31
座 標:N36°02′17″E139°21′51″
標 高:48m
面 積:200ha
(座標はグーグルアースから算出)

沿革
1943年    陸軍、松山飛行場建設開始
1945年08月 飛行場未完成のまま終戦
1945年10月 進駐
    11月 返還 本格的に入植が始まる 

関連サイト
Wiki/東松山工業団地 
ブログ内関連記事

参考資料
現地の碑文
松山市史資料編第四巻
東松山市の歴史 下巻
東武鉄道 会社の沿革
黄塵を友として 松山開拓農協五十年の風雪
防衛研究所収蔵資料「本土における陸軍飛行場要覧 第一復員局(陸空 本土防空7)」

資料未確認なのですが、滑川高校郷土部 部報「比企」第二号(1981)に松山飛行場についての詳しい調査報告があるのだそうです。


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霞の目飛行場(旧陸軍仙台飛行場、仙台第二飛行場) [├空港]

  2008年8月訪問 2022/11更新  


無題.png
撮影年月日1947/10/23(USA R349 44) 
出典:国土地理院ウェブサイト(地理院データを加工して作成)
6.png
1/50000「仙台」昭和27年応修「今昔マップ on the web」より作成

無題0.png
SkyVector.com

宮城県 仙台市 仙台空港の北約10kmにある「霞の目飛行場」。 

昭和8年、陸軍飛行学校の練習用飛行場「仙台飛行場」としてに開港しました。

3km程離れた宮城野原陸軍練兵場では大正2年から飛行場としての実績があることから、

宮城野原陸軍練兵場の方を「仙台第一飛行場」、こちらを「仙台第二飛行場」とも呼んだのだそうです。

日本航空輸送株式会社の東京-札幌の定期便が設けられ、当飛行場は青森飛行場と共に、経由地となりました。

今や仙台空港が「東北の空の玄関口」の座に君臨していますが、かつてこんな時代もあったのですね。

■朝鮮交通史1037p 

資料:定期航空路線図 自昭和13年10月1日至昭和14年3月31日 によれば、毎日運航でした。

9:30東京発 11:00仙台着/11:20仙台発 1:00青森着/1:10青森発 2:40札幌着
9:00札幌発 10:30青森着/10:40青森発 0:20仙台着/0:30仙台発 2:10東京着

■国立公文書館デジタルアーカイブ 昭和十四年一月 航空要覧 逓信省航空局編輯 帝國飛行協会発行
の中で、「本邦定期航空現況(昭和十三年十二月現在)」として以下記されていました(6コマ) 

経営者 大日本航空株式会社
航空線路 東京-札幌
区間 東京-仙台間 毎日一往復
   仙台-青森間 毎日一往復
   青森-札幌間 毎日一往復
線路開設年月 昭和十ニ年四月

■国立公文書館デジタルアーカイブ 昭和十四年一月 航空要覧 逓信省航空局編輯 帝國飛行協会発行

の中で、「本邦飛行場一覧(昭和十三年十月現在)」として以下記されていました(8コマ) 

名 称  仙臺飛行場
経営者  國
所在地  宮城縣宮城郡七郷村
水陸の別 陸
滑走区域 東西七五〇米 南北八二〇米
備 考  (記載無し)

ということで、昭和13年、14年には、11時台に東京からの飛来機が、12時台には札幌からの飛来機が毎日ありました。

■防衛研究所収蔵資料「陸空-本土防空-48飛行場記録 内地(千島.樺太.北海道.朝鮮.台湾を含む) 昭19.4.20第1航空軍司令部」

の情報を以下記させて頂きます。

位置
 宮城県仙台市霞目
積量
 九〇八、三五〇平方米 二七五、二五七坪 滑走路なし
地表の状況
 粘土質地盤西北より東南二傾斜其の高低差約三米
 概ね平坦にして糾草及「クローバ」密生す
 飛行場東南部(中央線)に近く地盤軟弱なる所あり
 雨期の使用上注意を要す
天候気象の交感
 降水日数一五五日 無降水日数二一〇日
 風に依る雨期―九月下旬 暴風期自三月下旬
 四月下旬 積雪最も多き時期一月下旬―
 二月上旬 雷電の多き時期―八月上旬 濃霧
 六月―九月
四周の状況
 西三〇〇〇米付近高さ三〇米の煙突各種工場あり
 西方四〇〇〇米に標高約一二〇米の丘陵あり
 東方六〇〇〇米貞山堀及太平洋岸老松密生す
 西方端より三四〇米電圧二二〇〇~六六〇〇Vの高
 圧電線敷條あり
交通機関
 仙台駅 五三〇〇米
 バス 一本杉停留所 一七〇〇米
宿泊地 
 仙台市内
其の他
 (記載無し)

この資料には1/10,000仙台飛行場要図 があり、飛行場敷地の長さとして、

「北西~南東1210 北東~南西950」と記入されています。

グーグルマップで確認すると、「北東~南西950」は現在も950mでピッタリ同じ長さなんですが、

「北西~南東1210」の方は現在の地割だと1,030mで、かなり開きがあります。

上に貼った1947年の航空写真でレイヤを作って確認してみたんですが、

1947年の航空写真の飛行場と、現在のグーグルマップの飛行場の形、大きさは完全に一致していました。

また、「積量」の項目では「九〇八、三五〇平方米 二七五、二五七坪とありますが、

これはhaに換算すると、それぞれ90.8ha、90.9haになります。

先頭のグーグルマップの通り飛行地区を囲ってみたところ、90.8haでした(編集画面だと面積が表示される)。

ということで、これは防衛研究所資料の1210という数字の誤記ではないかと。

全国に数多ある「元軍用飛行場だった飛行場」は、

当時の飛行場敷地のかなりの部分が現在まで引き続き飛行場として使用されるケースが多いですが、

ここまで完全な形が現在までそのまま受け継がれているのは非常に珍しいと思います。

同要図には、恒風:西北西12月~4月(一月最も卓越す) 5月~10月東南東とも記されていました。

 

■防衛研究所収蔵資料「本土における陸軍飛行場要覧 第一復員局(陸空 本土防空7)」

にも当飛行場の情報がありました。

飛行場名  仙台
位 置   宮城県宮城郡七郷村
規 模   要図
舗 装   ナシ
付属施設
 収容施設 記載無し
 格納施設 記載無し
摘 要   施設官有


以下赤マーカー地点から。

D20_0137.jpg

D20_0134.jpg

D20_0106.jpg

R/W32エンド

D20_0109.jpg

ヘリがやって来て…

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D20_0112.jpg

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D20_0124.jpg


     宮城県・霞の目飛行場、旧仙台第二飛行場      

陸上自衛隊の航空隊、宮城県警察のヘリコプター基地、休日には市民のグライダー滑空場として使用されています

霞の目飛行場 データ
・陸軍当時
設置管理者:陸軍
種 別:陸上飛行場
所在地:宮城県宮城郡七郷村
面 積:90.8ha
飛行地区:1,030mx950m
滑走路:1,210m(要図より)

・現在
設置管理者:防衛省
4レター:RJSU
種 別:陸上自衛隊が管理する飛行場
運用時間:24時間
所在地:宮城県仙台市若葉区霞目1-1-1
標 点:N38°14′07″E140°55′21″
標 高:7m
滑走路:708m×30m(14/32)  400m×15m(09/27)

沿革
1933年 日本陸軍飛行学校の練習用飛行場「仙台飛行場」として開港
1945年 接収

関連サイト:
ブログ内関連記事   

この記事の資料:
朝鮮交通史
防衛研究所収蔵資料「本土における陸軍飛行場要覧 第一復員局(陸空 本土防空7)」
防衛研究所収蔵資料「陸空-本土防空-48飛行場記録 内地(千島.樺太.北海道.朝鮮.台湾を含む) 昭19.4.20第1航空軍司令部」


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飛騨農道離着陸場(飛騨エアパーク) [├空港]

  2008年7月訪問 2022/11更新  


岐阜県高山市にある「飛騨農道離着陸場(飛騨エアパーク)」。

D20_0372.jpg

ちゃんと大きく標識にも出てますね。

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海自からの貸与という形で展示機がありました。 

哨戒ヘリ:HSS-2B(ちどり)

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初等練習機KM-2(こまどり)

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反対側はこんな感じ。

ヒコーキ好きの習性としてもっと滑走路に近づきたいのですが、

滑走路に向かう道という道に立ち入り禁止の標識が。


      岐阜県・飛騨農道離着陸場(飛騨エアパーク)      

文字通り山の中の小さな飛行場。飛騨から大都市圏に農産物を出荷するため、1995年に開港。毎年7‐9月に名古屋や東京、大阪などに野菜を空輸してきた。ピークの2000年に66回あったフライトは、交通網の発達で年々減少。2007年は9回(計画は16回だったが、荒天のため7回は中止)飛んだ。2008年度は名古屋行き9回、神戸行き3回の計12回を予定している。
他の農道空港の例にもれず、当飛行場も本来の目的である農業振興基地としての使用だけでなく、防災活動拠点、救急医療活動拠点、レジャー基地としての運用を行っている。毎年恒例の「スカイホリデー」にはグライダー、曳航機の体験搭乗が行われ、室屋さんアクロも。 

飛騨農道離着陸場(飛騨エアパーク) データ
設置管理者:岐阜県
種 別:飛行場外離着陸場
所在地:岐阜県高山市丹生川町北方2635‐7
標 点:N36°10′34″E137°19′00″
標 高:714m
面 積:10.2ha
滑走路:800m×25m(着陸帯:920m×60m)
磁方位:10/28
 駐機場 2バース
ヘリポート着陸帯:35m×30m
 駐機場 4バース
航空管制周波数
・飛騨フライトサービス 130.75
・ローカルボイス 122.6

沿革
1995年 開港

関連サイト
岐阜県/飛騨エアパーク  
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旧高松空港(旧陸軍林飛行場)跡地 [├空港]

  2008年7月訪問 2022/11更新  

無題e.png
撮影年月日1947/09/08(USA M450 18) 
出典:国土地理院ウェブサイト(地理院データを加工して作成)

香川県の旧高松空港。

元々は、陸軍高松飛行場(林飛行場)でした。

■「戦前戦後の飛行場・空港総ざらえ」の中で当時の様子について扱われていました。

以下引用させて頂きます。

高松海軍飛行場
木田郡林村
訓練/作戦
800x15
約821,610(現在の高松空港の8倍の広さ)
1944年秋、まだ十分整地できていないのに
三重県明野陸軍飛行場から高
松隊がきて開隊、射撃訓練を始めた。まもなく訓練
飛行場から作戦飛行場になる。
20年2月本土決戦
用に訓練に差し支えない範囲で、飛行機を隠すこと
になった。由良山には格納庫が造られ、飛行場から
タコの足のように誘導路が造られた。また、10kmも
離れた屋島神社参道の松並木、大田上町の広田神
社、一宮村の香東川河原、木太町の大池周辺などの
松林の中におおいをして隠した。九七式、四式戦闘
機、双発連絡機などで、数十機に及んだ。一方、秘
匿と同時に、敵の目をごまかすために木や竹で模擬
飛行機を作った。 これは近郊の国民学校で作った
もので、実物そっくりに造り、カムフラージュした。
7月24日にはこの模型飛行機が敵の銃撃を受け、炎
上している。

■防衛研究所収蔵資料「本土における陸軍飛行場要覧 第一復員局(陸空 本土防空7)」

にも当飛行場の情報がありました。

飛行場名  高松
位 置   香川県木田郡林村
規 模   要図(東西2,000 南北1,700)
舗 装   ナシ
付属施設
 収容施設 一〇〇〇名分
 格納施設 飛行機庫五棟
摘 要   施設軍有

かつて空港として運用していた頃の写真↓

オルソ.PNG
写真:「国土画像情報(オルソ化空中写真) 国土交通省」
撮影年度:1974年 高松南部  編集・加工:「空港探索・とり」

1340413_341733.jpg
写真:「国土画像情報(オルソ化空中写真) 国土交通省」
撮影年度:1974年 高松南部  編集・加工:「空港探索・とり」

エプロン周辺の拡大図。

ワイエスですかね。

D20_0270.jpg

赤マーカー地点。

跡地ターミナル部分の一角にある石碑

旧高松空港跡地の碑(全文) ここは昭和の後半から平成の初めまで香川県の空の玄関であった旧高松空港の跡地であるが、旧高松空港の成り立ちは地元との関わりを抜きにしては語ることができない。 太平洋戦争の戦局が厳しくなる中、昭和十九年一月二十三日林村に晴天の霹靂ともいうべき事態が突発した。陸軍省から林村を中心に周辺三町村にまたがる約二百七十ヘクタールに飛行場を建設するとの連絡が入ったのである。時の三宅信夫村長は事の重大さのあまり顔面蒼白、絶句して言葉を失うほどであった。
 五日後の二十八日、林小学校講堂に指定区域内の関係者四百余名が集められ土地の買収家屋の移転を正式に要請された。永年住み慣れた土地家屋への愛着、近隣の親しい友との別れ、新しい土地での生活の不安などが心中に激しく交錯し、場内は寂として声もなかった。戦争に勝つためとはいえ、断腸の思いでこれを承諾せざるを得なかった。
 昭和十三年には優良町村として内務大臣表彰を受けた林村も 田畑の半分近くを失い、公共建物を含めた二百七十五戸の家屋を一挙に移転するに至っては、まさに崩壊寸前となり、村民の苦悩はその極みに達した。周辺市町村からの勤労奉仕隊の援助を得ながらも、縁故知人を頼って列をなして家財を運ぶ村民の姿は今も脳裏を離れるものではない。移転は4月末までの極めて短期間のうちに完了し、引き続き軍は飛行場の建設に着手した。作業はすべて人力に頼るため一般人はもとより学生・生徒まで連日数千人が勤労奉仕に動員された。夜を日につぐ突貫工事の末、八月には東西滑走路が完成し、九月からは軍用機の飛行訓練が始まった。しかし当初計画されていた南北滑走路は翌年八月の終戦時に至も遂に完成し得なかった。
 戦後、飛行場用地についてはいわゆる飛行場解放運動が行われたが、昭和三十年十二月運輸省高松航空保安業務所長と宮井政雄村長との間で高松飛行場敷地設定についての協定書が交わされ決着をみた。その結果大部分が農地等として売渡し、譲与され、約三十二ヘクタールが飛行場として残されることとなった。
 本格的な民間航空による利用は昭和三十年五月の大阪-高松路線の開設にはじまり、昭和三十一年には第二種空港となり、滑走路や通信施設等の整備も順次進められ、香川県の空の玄関として広く県民に親しまれてきたところであるが、平成元年十二月の新しい高松空港の開港に伴い、三十余年に及ぶその使命を終え供用廃止された。
 その後、この空港跡地は高松市の中心部近くに位置する立地条件を活かし二十一世紀に向けて香川県の産業の飛躍的発展や文化の振興を図るための拠点とするため、平成二年四月香川県が国から用地を取得し、技術・情報・文化の複合拠点としての「香川インテリジェントパーク」の形成を図るべく、地元の協力の下鋭意整備が進められたところである。
 今、空港跡地の開発が進む中、空港の歴史を振り返り碑として後世に残するものである。平成六年三月 林地区開発協議会

戦後航空禁止令が解除されて間もない頃、関西の学生航空連盟の部員たちが当飛行場にて滑空訓練を実施しました。

当時滑走路は未舗装で、中央付近に道路が横断しており、そのあたりにウインチを置き、東半分を訓練に使用、

滑走路の西半分は牛の放牧場になっており、飛行機の発着がある時は、滑空機、牛を避難させたのだとか。

草花の咲き乱れる長閑な飛行場だったそうです。

そんな時代があったのですね~(o ̄∇ ̄o)

そんなのんびりした飛行場で我が物顔で飛び回っていたのが、

昭和34年6月に八尾空港に引っ越すことになったのだそうです。

D20_0265.jpg

碑文にある通り、現在跡地は香川県の技術・情報・文化の複合拠点、

「香川インテリジェントパーク」になっていますが、

滑走路跡の中央部分は上空写真にある通り巨大な駐車場になっています。

上の写真はその駐車場部分。

右側が敷地外の道路で左側がかつて滑走路だった駐車場。

D20_0266.jpg

(もしかしたら滑走路面がそのまま使われているかも)と思っていたのですが、

きれいに舗装し直されてました。

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一角に残る、空港の名残(噓)

D20_0277.jpg

かつてのエプロン周辺


       香川県・旧高松空港(陸軍林飛行場)跡地        

空港運用当時から市街地であり、機能拡張が困難なことから移転することとなりました。  

旧高松空港 データ
空港種別:第2種
所在地:香川県高松市林町
標 点:N34°17′43″E134°04′20″
(標点はグーグルアースから)
面 積:32ha
滑走路:1200m×30m
磁方位:09/27

沿革
1944年01月 旧陸軍、林村に飛行場建設着手
1945年09月 接収
1952年06月 接収解除
1955年05月 極東航空が高松~大阪に不定期路線開設
1989年12月 新高松空港開港/旧高松空港廃止
1990年04月 国が用地を取得し、「香川インテリジェントパーク」として整備

関連サイト
滑空場物語 
ブログ内関連記事
 

この記事の資料:
「21世紀へ伝える航空ストーリー 戦前戦後の飛行場・空港総ざらえ」
防衛研究所収蔵資料「本土における陸軍飛行場要覧 第一復員局(陸空 本土防空7)」


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高松空港 [├空港]

  2008年7月、2023年12月訪問 2023/12更新  


無題n.png
SkyVector.com
無題m.png
撮影年月日1988/04/19(SI881X C18 23) 建設の進む高松空港。開港まであと1年8ヵ月

出典:国土地理院ウェブサイト(地理院データを加工して作成)

D20_0160.jpg

香川県のほぼ中央にある「高松空港」。

元々はJR高松駅の南南東約7kmにあったのですが、1989年に現在地に引っ越してきました 

不思議な外観の建物でした。

D20_0163.jpg

ターミナル内部

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展望デッキ入口

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展望デッキ。

広々してます。

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D20_0169.jpg

展望デッキは高いフェンスが張り巡らされ、

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中央部分はガラス張りです

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展望デッキ裏手に展示されてました。

ヒコーキのタイヤ三種

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 (以下2023年12月撮影)

 DSC_1983_00001.jpgDSC_1985_00001.jpg

沁みました。

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 YS-11のタイヤ(ステルス仕様)。

 DSC_1992_00001.jpgDSC_1993_00001.jpgDSC_1994_00001.jpgDSC_1996_00001.jpgDSC_1997_00001.jpgDSC_1998_00001.jpgDSC_1999_00001.jpgDSC_2000_00001.jpg


       香川県・高松空港       

    ビュー:☆☆☆★★  
展望デッキ大人100円。(無料)
エプロン、滑走路全域見渡せる
ガラス越しか、フェンスの網目越しの眺め

    施設:☆☆☆☆★  
お土産:さぬきうどん、海産物、ヒコーキグッズなど
空弁、軽食もあり
レストラン、ショップ多数あり、ビル内各所でさぬきうどんが食べられる 

    マニア度:☆☆☆☆☆  
展望デッキに、747,767,YS‐11のタイヤ展示
空港全域が「さぬき航空公園」と「さぬきこどもの国」で囲まれている     

    総合:☆☆☆☆★  
山の上の緑豊かな空港
手っ取り早く撮影、見学を楽しみたいなら、「さぬきこどもの国」がおススメ

高松空港 データ
運 営:高松空港会社
3レター:TAK
4レター:RJOT
空港種別:拠点空港/民間運営委託空港
運用時間:7:30~21:30
所在地:香川県高松市香南町
標 点:N34°12′51″E134°00′56″
標 高:184.9m
面 積:154ha
滑走路:2,500m×60m
磁方位:08/26
航空管制周波数
・飛行場管制 
 高松タワー 118.30 126.20
・進入・ターミナルレーダー管制
 高松アプローチ 120.40 121.20
 高松ディパーチャー 120.40
・航空路管制
 東京コントロール(播磨セクター)132.70 124.95
 福岡コントロール(四国北セクター)132.40 119.35 
・飛行場情報放送 
 高松ATIS 127.45
・TCAアドバイザリー
 高松TCA 119.025

沿革
1972年02月 新高松空港整備促進協議会設置
1989年12月 新高松空港供用開始/旧高松空港廃止
1992年04月 国際線旅客ターミナル完成
2017年12月 三菱地所など、来年4月の民営化に先立ち空港のビル施設、貨物業務の運営始める
2018年04月 1日 民営化。国管理空港としては2番目
     05月 3日 旧貴賓室でセルフ式コーヒー提供開始。1杯200円
       11日 動態保存中のYS-11、能登空港へ離陸
   11月 19日、立体駐車場新設と発表。2019年4月26日完成予定。収容台数4割増、全体で1,400台へ

関連サイト
TAKAMATSU AIRPORT 
国土交通省大阪航空局/高松空港   
ブログ内関連記事
     


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松山空港(旧海軍松山航空基地、吉田浜飛行場) [├空港]

  2008年7月、2023年12月訪問 2023/12更新  


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撮影年月日1947/12/15(USA M692-1-1 50) 
出典:国土地理院ウェブサイト(地理院データを加工して作成)
無題c.png
SkyVector.com

愛媛県の松山空港。

前記事の通り、前身は海軍松山航空基地(吉田浜飛行場)でした。 

■防衛研究所収蔵資料「海軍航空基地現状表 内地之部 呉鎮守府航空基地現状表」
の中で、当航空基地について一部次のように記載がありました。

基地名:松山基 建設ノ年:1942 飛行場 長x幅 米:126000㎡コンクリート 主要機隊数:小型4.0 主任務:作戦 隧道竝ニ地下施設:居住、電信所、燃料庫、爆弾庫、倉庫、工業場、魚雷調整場 魚雷格納庫 掩体:中型有蓋24 小型有蓋39 分散隠蔽30 其ノ他記事:空爆ニ依リ建物一部焼却

■防衛研究所収蔵資料:5航空関係-航空基地-77 終戦時に於ける海軍飛行場一覧表 昭35.6.29調

には、「松山空開隊(S18.10.1)(昭17建)」とありました。 

■「愛媛県の近代化遺産 -近代化えひめ歴史遺産総合調査報告書-」

には、「昭和18年10月、松山市郊外の生石村、垣生村に松山海軍航空基地と松山海軍航空隊が開設された。航空基地では作戦航空隊の練成が、航空隊では飛行予科練習生の教育が行われた。」「松山基地には四国四県と山口・広島の航空基地を統括する内海航空隊の司令部が置かれた。」「(昭和20年)10月22日、四国占領を任務とするアメリカ軍歩兵第24師団の本体が松山へ進駐した。
松山海軍航空基地や陸軍松山兵営などは占領軍の駐屯地となり、各軍施設は接収された。」

とありました。

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広々とした展望デッキ。

フェンスは高いのですが、 

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こういう隙間があります[わーい(嬉しい顔)]

高いフェンスを設置/設置しようとしている各空港様、

次回フェンス張りの際には是非この形式をご検討いただけませんでしょうかm(_ _)m

このブログのがもれなく1つ増えますよ(エ? 要らない?^^;)

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R/W32エンド

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(以下2023年12月撮影)

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      愛媛県・松山空港       

   ビュー:☆☆☆★★  
広々とした無料展望デッキ
フェンスは高いが、隙間が開いている

    施設:☆☆☆☆★  
レストラン、売店、お土産屋さん
一六タルト、栗タルトなど
ターミナル前に有料駐車場あり 

    マニア度:☆☆☆★★  
掩体壕 

    総合:☆☆☆★★  
市内に非常に近い空港
周辺には住宅が建ち並ぶ

松山空港 データ
設置管理者:国土交通省
3レター:MYJ
4レター:RJOM
空港種別:拠点空港/国管理空港
運用時間:7:30~21:30
所在地:愛媛県松山市南吉田町
標 点:N33°49′26″E132°42′08″
標 高:4.0m
面 積:135ha
滑走路:2,500m×45m
磁方位:14/32
航空管制周波数
・飛行場管制 
 松山タワー 118.35 126.20
・進入・ターミナルレーダー管制
 岩国アプローチ 128.00
 岩国ディパーチャー 128.00
・航空路管制
 福岡コントロール(中国北セクター)132.50 132.90
 福岡コントロール(中国南セクター)126.10 132.90
・飛行場情報放送 
 松山ATIS 126.65

沿革
1942年    建設
1943年10月 1日、松山海軍航空基地、松山海軍航空隊開設
1945年08月 接収
1952年07月 接収解除
1960年10月 滑走路1,200m×30m供用開始
1972年04月 滑走路2,000m×45m供用開始
1991年12月 滑走路2,500m×45m、新ターミナルビル供用開始
2022年05月 26日 国内線旅客ターミナル3階にSKY PARKオープン。フライトシミュレーターなど設置

関連サイト
松山空港     
国土交通省大阪航空局/松山空港   
ブログ内関連記事
  
(ブログ内関連記事のリンク先は、「旅行記」・「空港周辺の掩体壕その1」・「その2」の順です)

この記事の資料:
防衛研究所収蔵資料「海軍航空基地現状表 内地之部 呉鎮守府航空基地現状表」
防衛研究所収蔵資料:5航空関係-航空基地-77 終戦時に於ける海軍飛行場一覧表 昭35.6.29調
「愛媛県の近代化遺産 -近代化えひめ歴史遺産総合調査報告書-」


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豊栄飛行場 [├空港]

  2008年7月訪問 2022/11更新  


広島県東広島市にある「豊栄飛行場」。

山の頂上にあり、周囲も山に囲まれた飛行場です。

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残念!

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来た道を引き返す。

トホホ。 

豊栄フライングクラブ様から写真掲載とリンクの許可頂きました。ありがとうございましたm(_ _)m 


         広島県・豊栄飛行場         

国内で唯一のアスファルト滑走路をもつULP(Ultra Light Plane)専用飛行場。飛行の様子などサイトの写真を見ると、周囲は山に囲まれ、滑走路も山頂にあり、着陸の様子はまるで空母の着艦のように見える。山間部なので気流が乱れそうな気がするが、豊栄町は気流が非常に安定しており、たくさんの候補地の中から最適地として選ばれたらしい。 

豊栄飛行場 データ
設置管理者:豊栄フライングクラブ
所在地:広島県東広島市豊栄町清武
座 標:N34°37′30″E132°47′48″
標 高:600m
滑走路:200m×15m
磁方位:03/21
(座標はグーグルアースから)
追記:滑走路データ、フライングクラブ様からご連絡頂きました。ありがとうございました。

沿革
1992年06月 開港

関連サイト
豊栄フライングクラブ
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後日内部を見学させて頂きました  


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石見(萩・石見)空港 [├空港]

  2008年7月、2023年12月訪問 2023/12更新  


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撮影年月日1991/04/19(CG912X C5 6) 建設の進む石見空港。開港まであと2年3ヵ月

出典:国土地理院ウェブサイト(地理院データを加工して作成)無題a.png
SkyVector.com

島根県西側にある「石見空港」。 

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ターミナルビル内

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ターミナルビル内

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展望デッキ入口から。

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「いしみ」じゃなくて、「いわみ」!

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展望デッキから見たR/W11方向。

隣接する公園の展望台でちょっと見切れますね。

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同じく展望デッキから見たR/W29方向。

こちらはバッチリ。

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展望デッキ正面。

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公園展望台・1

ここはお勧めです。

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公園展望台・2

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公園展望台・3

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公園展望台・4

(これは1番機到着前に撮った写真です)

何度も往復してました。

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公園展望台・5

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公園展望台・6

 



(以下2023年12月撮影)

 

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デッキに出た時から、耳障りな高音(ブランコのキーコキーコに似てる)が気になってたんですが、犯人はコレでした。

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コレでバードストライクが防止できるのなら。。。

オイラは元々高音が耳に響くので、長く留まるのはちょっと辛かったです(XДX)

ということで館内に退散。

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        島根県・石見空港(萩・石見空港)       

    ビュー:☆☆☆☆★  
展望デッキ無料
フェンス低く、見晴らし良い

    施設:☆☆☆☆★  
ターミナル前に無料駐車場あり
建物は明るくキレイ
売店あり。ふぐ、ヒコーキグッズ、各種お土産

    マニア度:☆☆☆☆★  
風の丘広場、眺め最高 

    総合:☆☆☆☆★  
山の中の小ぢんまりとした、よく手入れの行き届いたキレイな空港。

石見空港(萩・石見空港) データ
設置管理者:島根県
3レター:IWJ
4レター:RJOW
空港種別:地方管理空港
運用時間:8:00~19:30
所在地:島根県益田市内田町
標 点:N34°40′35″E131°47′25″
標 高:54.0m
面 積:111ha
滑走路:2,000m×45m
磁方位:11/29
航空管制周波数
・飛行場ドバイザリー
 石見レディオ 118.55 126.20
・航空路管制
 福岡コントロール(中国北セクター)132.50 132.90

沿革
1993年07月 供用開始
2002年03月 愛称「萩・石見空港」採用
2023年03月 14日 ターミナルビル屋上に「鳥ソニック」設置。バードストライク対策検証

関連サイト
萩・石見空港    
国土交通省大阪航空局/石見空港   
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広島空港 [├空港]

 2008年7月訪問 2022/11更新  


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撮影年月日1993/04/20(CG931Y C2 8) 開港半年前
出典:国土地理院ウェブサイト(地理院データを加工して作成)

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SkyVector.com

JR広島駅の東約41kmにある「広島空港」。

元々はJR広島駅の南西約6kmにあったのですが、1993年こちらに引っ越してきました。

元の広島空港は現在、敷地の一部を「広島ヘリポート」として運用しています 

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ターミナル前の広場にある不思議な円柱。

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ターミナル内部

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展望デッキ

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県立中央森林公園の展望台。

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県立中央森林公園の滑走路前の広場。

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        広島県・広島空港        

    ビュー:☆☆☆☆★  
展望デッキ100円。フェンス低く、視界良好

    施設:☆☆☆☆★  
フードコート、お土産屋さん もみじ饅頭、空弁、軽食、ヒコーキグッズあり
ターミナル前に有料駐車場あり

    マニア度:☆☆☆☆★  
中央森林公園 

    総合:☆☆☆☆★  
山の上の空港 

広島空港データ
運営者:広島国際空港会社
3レター:HIJ
4レター:RJOA
空港種別:拠点空港/民間運営委託空港
運用時間:7:30~22:30 (21:30→22:30 2017/10/29より)
所在地:広島県三原市本郷町善入寺
標 点:N34°26′10″E132°55′10″
標 高:331.4m
面 積:198ha
滑走路:3,000m×60m
磁方位:10/28
航空管制周波数
・飛行場管制 
 広島タワー 118.60 126.20
・進入・ターミナルレーダー管制
 広島アプローチ 119.90 124.05 121.50
 広島ディパーチャー 119.90
・航空路管制
 福岡コントロール(中国北セクター)132.50 132.90
・飛行場情報放送 
 広島ATIS 127.25

沿革
1993年10月 供用開始(滑走路2,500m)
2001年01月 滑走路延長(3,000m)
    03月 ILS運用開始 
2008年06月 CAT‐Ⅲa運用開始
2017年03月 28日 JAL、広島空港サクララウンジを14年ぶり刷新
     07月 19日 広島県、 空港の運用時間が夜に1時間延長になり、10月29日から15時間運用と発表
     10月 航空局、2021年4月民営化に向け、企業から投資意向調査開始。2020年5月に事業者決定へ
2018年07月 9日、西日本豪雨により取水場が一時水没したため空港も断水。飲食店、物販店臨時休業
       19日 水道水供給再開。20日より飲食店、物販店順次再開へ 
2019年03月 6日 航空局、2021年4月民営化決定
    06月 26日 国交省、民間委託に向けた事業者公募開始。7月8日に説明会。2020年6月頃優先交渉権者選定計画
    09月 27日 事業社公募一次審査締め切り。非公表の2グループが応募
    10月 31日、国交省、運営委託先の一次審査の結果をに公表。応募があった2グループいずれも二次審査へ
    11月 運営事業者、2020年3月まで競争的対話を実施
2020年07月 二次審査書類提出期限(当初は4月の予定だったが新型コロナの影響で後ろ倒し)
    09月  優先交渉権者選定。SPC(特別目的会社)設立。(当初は6月の予定だったが新型コロナの影響で後ろ倒し)
    12月 18日 国交省、広島国際空港会社(HIAP・三井不動産など)と民営化実施契約を締結
2021年02月 1日 HIAP、ターミナルビルと駐車場の運営開始
    07月 1日 HIAP、空港民営化 
    09月 13日 旅客ターミナルのリニューアル工事開始。2階出発ロビーの天井を改修し自然災害への耐性強化

関連サイト
広島空港 
国土交通省大阪航空局/広島空港  
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岡山空港(岡山桃太郎空港) [├空港]

  2008年7月訪問 2022/11更新  


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SkyVector.com
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撮影年月日1985/04/16(CG851X C10 22) 開港3年前。造成中の様子
出典:国土地理院ウェブサイト(地理院データを加工して作成)

JR岡山駅の北西約11.5kmにある「岡山空港」。

元々はJR岡山駅の南約8.5kmにあったのですが、1988年こちらに引っ越して来ました。

元祖岡山空港は「岡南飛行場」となり、現在も運用しています 

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空港ターミナルビル前にはとても立派な庭園があって、

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だそうです。

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国際線出発口

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国内線チェックインロビー

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展望デッキ

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覗き穴いろいろ

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二段抜き

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二段抜き上欠

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展望デッキから

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岡山空港はこの規模の空港としては珍しく駐車場が無料なのですが、

ターミナルビルに近い第一~第三までは小さくてすぐ満車になってしまいます。 

少し離れたところに大きな第四駐車場があり、これまた無料のシャトルバスが出ています。

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第四駐車場から見た第三駐車場とエプロン。 

岩手の花巻空港っぽいです。

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第四駐車場の一角に設けられた見学席

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時刻表が掲示されています。

素晴らしい。

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「見学席」から。

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着陸進入灯

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空港に隣接する、「自然の森スポーツ広場」

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こちらにも時刻表が設置されてました。

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公園はR/W25エンド付近にあり、滑走路を見下ろせるようになっています。

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          岡山県・岡山空港(岡山桃太郎空港)       

    ビュー:☆☆☆★★  
送迎デッキ大人100円→2018/3/10より無料化
デッキは2つに分かれているが、一度お金を払うと自由に行き来できる
デッキからの見晴らしは良いが、高いフェンスに囲まれており、穴が開いているが、大きなレンズは左右に振れない。

    施設:☆☆☆☆★  
展望レストラン、土産物屋、売店あり。
岡山の民芸品(備前焼など)、吉備団子、モモ、軽食、空弁、ヒコーキグッズ充実
建物は古いが、分かりやすく、明るい
駐車場は無料  第四駐車場はシャトルバスあり

    マニア度:☆☆☆☆★  
第四駐車場見学席、スポーツ広場 

    総合:☆☆☆☆★  
山の上の空港。
利用者が快適に過ごせる工夫が随所に見られる。 

岡山空港 データ
設置管理者:岡山県
3レター:OKJ
4レター:RJOB
空港種別:地方管理空港
運用時間:7:00~21:30
所在地:岡山県岡山市日応寺
標 点:N34°45′25″E133°51′19″
標 高:239.2m
面 積:187ha
滑走路:3,000m×45m
磁方位:07/25
航空管制周波数
・飛行場管制 
 岡山タワー 124.30 126.20
・進入・ターミナルレーダー管制
 高松アプローチ 120.40 121.20
 高松ディパーチャー 120.40
・航空路管制
 東京コントロール(播磨セクター)132.70 124.95
・TCAアドバイザリー
 高松TCA 119.025

沿革
1988年03月 新岡山空港供用開始
1993年03月 滑走路延長(2,000m→2,500m) 
2001年10月 滑走路延長(2,500m→3,000m)
2017年11月 1日、開港30周年を迎え愛称募集開始。12月22日まで
2018年03月 10日、開港30周年記念式典にて愛称「岡山桃太郎空港」に決定と発表。送迎デッキ無料化
2019年02月 15日、JAL、サクララウンジ新設
2020年06月 8日 県、施設リニューアルや民営化について検討委設置

関連サイト
岡山桃太郎空港 
岡山空港ターミナル株式会社   
国土交通省大阪航空局/岡山空港 
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