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松山空港周辺の掩体壕 [├場所]


無題b.png
撮影年月日1947/04/05(USA M241-2 3) 
出典:国土地理院ウェブサイト(地理院データを加工して作成)

掩体壕(えんたいごう)

全国の陸海軍の飛行場周辺に作られ、その数は当時千を超えていましたが、

終戦から60年以上が経過し、現在残っているのは約100基ほどなのだそうです。 

ここ松山空港の近くにも掩体壕が残っています。

上の航空写真は1947年撮影のもので、現存する3基の掩体壕を示したものですが、

この狭い範囲に限っても、たくさんの有蓋掩体壕が消失したのが分かりますね。

 

「愛媛県の近代化遺産 -近代化えひめ歴史遺産総合調査報告書-」

の中で、掩体壕について非常に興味深い記事がありましたので、

以下引用させて頂きます。

松山海軍航空基地航空機掩体
所在地 松山市南吉田町
設計・施工 計画・呉海軍施設部、工事・銭高組
建築年 昭和19(1944)年
構造概要 RC造平屋建

 一般的に「掩体壕」と呼ばれているが、正式には航空機掩体という。飛行機を敵の空襲から防護するために構
築された。
 掩体は、コンクリート製、木製、土製があり、このうちコンクリート製掩体は、双発機を格納できる大型と、単発機を格納できる中型の二種類があった。松山海軍航空基地にあったものは、全て中型である。
 中型掩体には、単座の戦闘機から三座の攻撃機や偵察機まで、全ての単発機が格納できるようになっていた。その規模は、高さ約8m、幅約25m、全長約15mであった。また、高知のものとは違い、松山の掩体には後部の出入り口が設置されていない。小型機による空襲は、主に海側へ向けて行われたため、掩体の多くは海の方向へ向けて入口が造られた。空襲が激化すると、コンクリート掩体の入口には、爆風除けが設置されたりした。
 松山海軍航空基地には、コンクリート製の中型掩体が25基、土製の小型掩体が38基造られた。
 掩体の構築作業は、航空基地として使用を開始した後の、昭和19年4月から始まった。工事は呉海軍施設部松山工事事務所の下、銭高組が施工を担当した。
 コンクリート製掩体は、松の生木を基礎に使用し、コンクリートと鉄筋を材料として、徴用工と松山工業学校の生徒によって手がけられた。一方、土製掩体は、コの字型に土手を築いたもので、盲唖学校をはじめとする中等学校生徒の勤労奉仕によって造られた。
 掩体は昭和20年2月頃から使用を開始し、3月19日のアメリカ軍艦載機の来襲以降は、大半の機体が掩体に格納された。その後、戦争終結からわずから三年で大半の中型掩体は取り壊されてしまい、平成8年頃には、ほぼ完全なものは三基だけになっていた。その三基も、その後、宅地開発の余波を受けて、大幅に改装されたりした。貴重な歴史遺産として、保存顕彰の必要性を痛切に感じさせられる。

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まず1つ目(黒マーカー)

写真左端に、掩体壕が部分的に写ってます。

結構道沿いに普通にあるんですね。 

写真からだと伝わらないんですが、周囲の風景とは異次元の存在感を漂わせていました。

ものすごく目立ちます。

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掩体壕正面。入口の形に合わせてキレイに覆ってますね。

土地所有者のご主人に快く撮影を許可して頂きました。 

この掩体壕には当時、偵察機「彩雲」が格納されていたのだそうです。

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入口に表札がかかってました。

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掩体壕内部。 

こうして後部が小さくて済むのは、尾輪式ならではですね。

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裏はこんな。

当時はこの上に盛土をして、芝など植えて偽装していたそうですが、

見ての通りですっかり洗い流されてコンクリートむき出し状態です。



この1つ目の掩体壕は松山市指定有形文化財へ登録され、2020年11月28日から一般公開となりました。

この情報はまゆちーさんから頂きました。まゆちーさんありがとうございましたm(_ _)m

ということで、2023年12月に見学してきました。

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掩体壕(全文) 松山市指定有形文化財(歴史資料) 平成三十年五月十八日指定

 掩体壕は、軍用機を敵機の攻撃から守るために作られた格納庫で、太平洋戦争末期には全国の軍用飛行場に作られていた施設である。

 昭和十八(一九四三)年一〇月に松山海軍航空隊(北吉田町)と松山海軍航空基地(南吉田町)が完成した。その後、南吉田と垣生両地区に航空基地の飛行場付帯施設として、有蓋掩体二十三基、無蓋掩体四十基、誘導路などがつくられていたことが、アメリカ軍が撮影した航空写真から確認できる※。戦後、それらのほとんどは消滅したが、南吉田地区には現時点でコンクリート造の掩体壕が三基残っている。

 この掩体壕は、高さ約五.一二メートル、幅約二十三.一メートル、奥行き約十二.二五メートル。主翼格納部の前部アーチと尾翼格納部の後部アーチの大小二つの断面カマボコ型アーチを合わせた形態をしており、平面は凸型で旧海軍掩体壕としての形態を残し、屋根施設のある有蓋型に分類される。

 松山海軍航空基地の歴史や悲惨な戦争を語り継ぎ、平和の尊さを伝える貴重な資料として重要である。

令和二年 十一月 松山市 松山市教育委員会

※アメリカ軍が撮影した松山海軍航空基地(米国国立公文書館蔵)

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勤労奉仕と松山海軍航空基地(全文)
 昭和十八年八月から勤労奉仕が始まり、松山高等学校・愛媛師範学校・松山高等商業学校と市内各中等学校報国隊の学生生徒が松山基地の吉田浜飛行場の整地作業に励んでいました。
 飛行場の整地には、吉田浜の砂丘の砂のほか、海底から汲み上げた砂や弁天山などで採取した赤土や栗石等が使用されました。
 昭和一九年四月からは学生生徒による土製の掩体壕造りが始まりました。この作業に従事した学生生徒は、モッコ担ぎで大変苦しい作業の日々だった事を戦後に語っています。土製の掩体壕は一基造るのに約三か月掛かっていたようで、その作業中、米軍機による空襲に遭うこともありました。

発掘調査で出土した栗石範囲(図と写真)
 地表面から深さ20cm~40cmの溝の中から、2cm~18cm大の栗石が多数見つかっています。
 当時の海軍の資料によると、掩体壕には排水施設を造る必要があるとされており、出土した栗石等の配置から、上記図のように排水施設が整備されていたと考えられます。

 

極天隊(戦闘第四〇一飛行隊)(全文)
 掩体壕内部中央壁左側に書かれた文字は、緑色の塗料で下地を塗り、その上に白色の塗料で「極天隊」、「四〇一」と書かれています。同様の方法で、掩体壕内部後部アーチ左側には、「剣部隊」と書かれています。
 極天隊(戦闘第四〇一飛行隊)は、昭和二〇年二月に松山海軍航空基地で、第三四三航空隊(剣部隊)に編入されました。
 昭和二〇年ともなると日本軍は航空母艦を失い、航空部隊は圧倒的に優勢な米軍の前に苦戦を強いられていました。この航空劣勢を挽回し制空権を一時的にも奪取するため、世界最強の航空隊を作るという考えが推進されていました。
 第三四三航空隊は、源田実大佐のこの構想のもと、各部隊から精鋭搭乗員と整備員が集められ、使用機材も最新鋭戦闘機「紫電改」や新鋭偵察機「彩雲」が充てられました。
 極天隊は、本隊である三個の戦闘機隊に搭乗員を補充する任務に当っていました。その後、本体錬成のために基地が手狭になったからか、昭和二〇年三月一日付で戦闘第四〇一飛行隊に対して徳島基地への移動命令が出され、部隊は三月末までに順次松山基地に移動すると、戦闘第四〇一飛行隊は、五月中旬に松山基地に再度復帰し、錬成任務を遂行している最中に終戦を迎えました。
 戦闘第四〇一飛行隊は、「極天隊」や「極天組」とも言われていました。

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松山海軍航空基地「掩体壕」(全文)
 昭和十六年(一九四一)、砂丘、畑、湿田の広がる温泉郡生石村の沿海部に、日本海軍は松山航空隊と松山航空基地の建設を決定した。約二八六㌶の土地が収用され、百三十の家屋移転を余儀なくされた。

 建設工事は、海軍呉建築部、内務省神戸土木出張所、錢高組によって行われ、昭和十八年(一九四三)十月から使用を開始した。基地には有名な源田実大佐率いる第三四三海軍航空隊(剣部隊)などの航空部隊が駐屯し、零戦、紫電改など各種の航空機が上空を乱舞した。また、生石村にも多くの将兵が下宿した。

 昭和十九年(一九四四)四月以降、松山基地でも空襲に備えて、航空機掩体(有蓋掩体、無蓋掩体)、隧道壕、誘導路、防空陣地の建設が行われた。米軍は松山基地を「Matsuyama west airfield」と呼称し、昭和二十年(一九四五)三月十九日から八月十二日まで十四回の攻撃を行い、生石村でも犠牲者が出ている。

 戦後、日本の復興とともに、掩体は撤去され、隧道壕は封鎖されるなど、基地の痕跡は姿を消していった。戦後七十年を経て戦争を体験した世代が減少する中、「松山の掩体を考える会」(杉野富也会長)等、掩体壕の保存を望む声が多く聞かれるようになった。そのような中、地権者による用地寄付等を経て、平成三十年(二〇一八)五月に松山市指定有形文化財となった。

 ここに掩体壕の保存修理工事を実施し、過去の歴史を学び、後世に平和の大切さが正しく語り継がれていくよう切望するものである。

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D20_0010.jpg2つ目(赤マーカー)

裏側です。

D20_0011.jpg

表に回ってみました。

住宅地に取り込まれてますね。

更に画面右側に進んでみると・・・

D20_0012.jpg

こんな感じ。

流石にまずそうなのでトリミングしました。

掩体壕内部を駐車場として使用しているようです。

なんとも羨ましい使い方です。

ここまでの流れからすると、当然オイラが撮った次の掩体壕の写真が出ると思いますよね?

実はオイラ、出発前に地図を見誤ってしまい、3つ目を発見することができませんでした(;´Д⊂)

(見誤った)地図によれば、3つ目の掩体壕はこの通り沿いにあるはず!

と信じてウロウロしたのですが、見つかりませんでした。

下調べは重要です…_| ̄|○ il||li

 

近くで庭に出ていた奥さんに尋ねてみたのですが、

オイラが見た2つのことはご存じだったのですが、最近こちらに来られたそうで、

それ以外の掩体壕については「知らないですね」とのことでした。

2つ目の掩体壕が宅地に飲み込まれているのを目の当たりにした後だっただけに、

(きっと取り壊して建物を建てたに違いない。多分、アレか、アレだな。うん)

と勝手に納得して現場を離れてしまったのでした。

 

3つ目の掩体壕には、局地戦闘機「紫電改」が格納されていたのだそうです。

気になる方は、「松山空港 掩体壕」などで検索すると、

いくらでも有料優良サイトにヒットしますので、見てみるとよいです。

この3つ目の掩体壕、道路から出っ張ってる裾の部分が切り欠かれているという特徴があり、

是非見てみたかったのですが…。

追記:3つ目の掩体壕見てきました(下記リンク参照)。      

 


■松山の掩体壕について■

現在の松山空港、元は帝国海軍松山航空基地(吉田浜飛行場)で、1943年10月に松山海軍航空隊が置かれました。

戦争末期にこの基地に展開した、紫電、紫電改擁する有名な「第三四三航空隊」は歴戦のベテランパイロット揃いで、

ここで大損害を被った米機動部隊は、この精鋭部隊がいた間は二度と松山上空には近寄らなかったのだとか。

ところで。

掩体壕もなかなか奥が深く、陸軍式と海軍式があります。

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陸軍型(調布飛行場)

D20_0101.jpg 

海軍型(高知空港)

見ての通りで、開口部を最小にする覆いが施されているのが海軍型です。

そして当松山の3つの掩体壕には非常に興味深い特徴があります。

ここ松山は海軍の飛行場でしたので、掩体壕の開口部にはこのヒコーキ型の覆いがあるはずなのですが、

「1つ目」、「2つ目」の開口部には覆いがありません。「陸軍式」なのです。

ではなぜ海軍基地に陸軍型の掩体壕が存在するのか。

ここ松山基地の真相は不明ですが、戦争末期には掩体壕建設の際、

資材不足のため、海軍が「陸軍式」を取り入れたこともあったのだそうです。

そして関連他サイトで確認していただけるとわかるのですが、「3つ目」の掩体壕は開口部に覆いのある「海軍式」。

理由は不明ですがともかくここ松山は、

「海軍式掩体壕」と、「陸軍式掩体壕」が混在している様子を現在でも見る事ができるのです。

返す返すも3つ目を見る事ができなくて残念でした。

 

この松山基地周辺には、1944年頃から掩体壕が作られ、

その数はコンクリート製の有蓋掩体壕24基、土製の無蓋掩体壕39基(全部で38基という説もある)だったそうです。

その後開発等により徐々に取り壊されていき、1974年撮影の写真では5基の掩体壕が確認できるのですが、

前述の通り現在残るのは3基のみ。

なんでも全国には、朝鮮戦争の際、鉄筋を取り出すために壊された掩体壕もあるのだとか。

今回見学した掩体壕、1つ目のものは地主さんが入口を覆って倉庫として活用しておられますし、

2つ目も、うまいこと新築の住宅地に取り込まれています。

恐らくもうしばらくの間、この2つは大丈夫でしょう。

 

それでも国内外に残っている掩体壕、今後は、「開発の邪魔だから」という理由に加え、

「老朽化して危険である」という理由による取り壊しもますます増えていくことでしょう。

松山空港の掩体壕については、検索するといくらでも関連サイトが見つかります。

が、『彷徨猫旅記録』というサイトの松山空港掩体壕を扱っているページを特にご紹介します。

1つ1つの掩体を丁寧に建築の観点で扱っている点で特異な記事です。

(福岡亭あめふらし様、ありがとうございました)



沿革
2018年05月 18日 南吉田町1020番地4、1021番地4の掩体壕、松山市指定有形文化財指定
2020年11月 28日 保存整備完成記念セレモニー

関連サイト:
松山市/市指定文化財/掩体壕1基  
松山市指定有形文化財「掩体壕」 
ブログ内関連記事(今回見損ねた掩体壕) 

この記事の資料:
「愛媛県の近代化遺産 -近代化えひめ歴史遺産総合調査報告書-」


コメント(27)  トラックバック(0) 
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コメント 27

ぴーすけ君

こんな所に存在してるんですか∑(゜▽゜ll)ビックリ!
by ぴーすけ君 (2008-09-17 07:22) 

アスランマリオ

掩体壕のガレージ夢です。
by アスランマリオ (2008-09-17 08:36) 

hiro78

大変興味深い記事ですね。
リンク先にまでお邪魔してじっくりと読み耽ってしまいました。
ガレージとは、素晴らしいですね~
by hiro78 (2008-09-17 10:39) 

miffy

掩体壕、美保基地の中で見たことがあります。
今もあるのかしら・・・
by miffy (2008-09-17 14:42) 

tooshiba

先の戦争もしくは旧軍に対する評価次第ではないでしょうか。
負けた・忌まわしいものと認識されれば、軍隊の遺構なんて「ぶっ壊してしまえ!」となるでしょうし、はたまた「歴史の遺産だから大事にとっておこう」と考える方もいるでしょう。(歴史マニア、軍ヲタとは限りません。)

陸軍型と海軍型、それぞれ1つずつを再現して半永久的に保存していれば、それ以外は全て撤去されても、仕方がないかなと思います。
土地が私有地であればなおさら「残しておいて」とお願いされても、邪魔なだけでしょうし(ガレージその他に転用済みならともかく)。

とりさんが今ある姿を画像で残されていれば、そのうち、資料的な価値も出てくるでしょう。
ガン( ゚д゚)ガレ
by tooshiba (2008-09-17 15:31) 

赤と青

さすがに頑丈そうな・・・・・。
by 赤と青 (2008-09-17 16:51) 

masa

貴重な写真ですね。
私、こういったの初めて見ました。
by masa (2008-09-17 17:43) 

sak

次回松山で時間ができたら見に行ってみます。
掩体壕って言うのですね
実家の近くにあって...地元では格納庫って呼んでいました。
小学校への通学路(^^
上に登って遊んでたの思い出しました。
中で人が住んでいたような...まだあるのかな?

by sak (2008-09-17 18:29) 

ジョルノ飛曹長

おおー
掩体壕ですねーー。
千葉の茂原にも掩体壕が数個残っていて、見に行ったことがあります。
頑丈につくったがために、壊すのが一苦労、そのため残っているのも多いんですよね^^
松山空と言えば343空(後期)ですね。343空は一度解隊されたのですが、松山で再編成されたらしいですね。
主戦闘機は局地戦闘機の紫電改ですね。^^
源田指令が外地の歴戦のパイロットのよりすぐりだけをかき集めて作った航空隊で、豊後水道をのぼってくる敵の戦爆連合300機を相手にたった12機で戦い全機帰還、撃墜30機以上という好成績を残しています。
ただやはりアメリカの物量には勝てず、押し寄せる波状攻撃に機体がもたず、消耗していき壊滅してしまいました。
343空を話だすと1日中話してしまいそうなのでここまでにしておきます。(笑)
by ジョルノ飛曹長 (2008-09-17 19:04) 

まめ助の母

近くに点在しているってかんじですね
ゲームのゼビウスを思い出しました。

そういうものがあるなんて知りませんでした。
確かにむき出しじゃ見つかってしまいますよね

そっか〜
ちゃんと残してちゃんと語り継いでもらいたいですね
by まめ助の母 (2008-09-17 21:20) 

とり

皆様 コメント、nice! ありがとうございます。

■ぴーすけ君さん
ええ、ホントに。
オイラもビックリでした。

■アスランマリオさん
オイラもこんなガレージのオーナーになりたいっ!
マリオさんのミニなら何台はいるんでしょうか??^^

■hiro78さん
おお、こういうの、興味ありますか。
お役に立てて嬉しいです^^

■xml_xslさん
nice! ありがとうございます。

■miffyさん
美保基地の掩体壕、見ましたか!
今もあるみたいですよ。

■tooshibaさん
確かに見方によって評価がガラッと変わりますよね。
1週間後に高知空港の掩体壕記事をアップしますが、こちらの掩体壕の扱いは、オイラにとって理想形です。

■赤と青さん
仰るとおり頑丈そうですよね。
「壊しにくい」とうのが、存続の理由だったりするそうです。^^;

■masaさん
オイラも初めて見たのは1年前です。
こんなものがまだのこってるんですね。

■sakさん
おお、そんな貴重な体験が!
掩体壕に関しては、サイトが充実してますから、sakさんのご実家の地名と「掩体壕」とで検索すればすぐ確認できると思いますよ。

■ジョルノ飛曹長殿
あ、やっぱり予想通り一番熱い!^^

■まめ助の母さん
はい。仰るとおり結構固まってますね。
ゼビウスって知らないんですけど、掩体壕っぽいのが出てくるんでしょうか??
調べてみよう・・。
by とり (2008-09-17 22:12) 

an-kazu

画像ではかなり立派そうですが、実際はどうでしたでしょうか?

千葉県茂原市のは、素人の技が随所に見られましたが(^^ゞ
by an-kazu (2008-09-17 23:17) 

pica

いつもと違う雰囲気の写真ですね。
…と、思ったのは私だけ??

いまだに残っているのには感動します。
by pica (2008-09-18 00:12) 

Tripleseven

中四国1の記事を読んだ時、多分掩体壕の記事が出るだろうと思ってました。
しかし、まさか掩体壕をガレージにに使うオシャレな人がいるとは思いませんでした。
さて、理想的な掩体壕の扱い方って何でしょうかね?1週間後をチェックしましょう。
by Tripleseven (2008-09-18 00:46) 

Qoo

掩体壕と言うモノの存在を始めて知りました
大変参考になります
まだまだ戦争の跡が至る所に残っているのですね
防空壕だったところはうちの近所にもあるのですが、掩体壕は無いでしょうね
関連サイトも覗いてみます
by Qoo (2008-09-18 06:13) 

カンクリ

このような土地は私有地になるのでしょうか?2つ目の車庫はナントも上手く利用しているというか、個性的というか・・要はある意味羨ましい?(笑)
by カンクリ (2008-09-18 09:57) 

OILMAN

こんにちは。
掩体壕というものがあるのですね。
こういう歴史的な構造物はぜひとも残していってほしいです。
by OILMAN (2008-09-18 19:56) 

コスト

松山来ましたねー。松山にも掩体壕あったんですね。
松山空港は、1、2回しか利用してないので周辺に掩体壕が残ってるとは全然気づきませんでした^^;
高知空港周辺のように周りが農地でないから数も少ないし、住宅地にまぎれてるんですね。
しかし、壊しにくいから残ってるのが理由とは(笑)
ここでも陸軍式と海軍式は分かれてるんですね。これも初めて知りました。
松山は広島にフェリーで行くのに観光港に運賃が高い伊予鉄で行くんですけど、空港はバスで行ったら20分もかからず、運賃も全然安かったので近かったとをよく覚えていました。
でも海側から滑走路に入るせいか、市内は全然騒音がなかったんですよ。
市内からの距離はたぶん、福岡空港とかと同じくトップクラスの近さです。
でも福岡は市内上空を飛ぶので東区ではかなりうるさかったです。
松山では路面電車で清水町とか鉄砲町の電停近くに住んでました。
懐かしいです^^
by コスト (2008-09-18 21:11) 

とり

■an-kazuさん
あー、すみません、オイラそこまで見分けられませんでした。

■picaさん
>いつもと違う
そ、そうですか?
確かに連日の暑さで参ってましたが・・・。
オイラも気が付いていない何かがあるのでしょうか??

■Triplesevenさん
>出るだろう
鋭いっ!
ガレージが掩体壕。
我々ヒコーキ好きにとってはロマンですよね^^

■Qooさん
オイラも去年初めて実物を見てショックを受けたばかりなんですよ。
Qooさんのご近所には防空壕だったところがあるのですね。
まだまだ戦争跡はあちこちにありますね。

■カンクリさん
>土地
オイラもよくわかってませんが、私有地だったり、そうでなかったり、いろいろな形態があるみたいですよ。
>ある意味羨ましい
ですね~^^

■OILMANさん こんにちは。
こういうものがあるんですね~。
戦争体験者から直接話をお聞きすることがますます難しくなるからこそ、こういうものを大事にして欲しいです。
by とり (2008-09-18 21:12) 

とり

コストさん
>まぎれてる
そうですねー。
>騒音
確かに、掩体壕を探して市内をさまよいましたけど、うるさくなかったです。
風向きもあるのでしょうが。
コストさんの「市内に近い」情報のおかげでガス代大助かりでした^^
>電停
おお、初めて見た言葉です。そうかー、電停って言うんですね。
by とり (2008-09-19 05:39) 

Qoo

とりさーん(^^)
しばし休憩しますが、ここには遊びに来ますので
引き続き宜しくお願いしますね(^_^)V
少し気持ちの整理をしたいのですよ

by Qoo (2008-09-19 19:42) 

とり

■夢空さん
nice! ありがとうございます。

■yannさん
nice! ありがとうございます。

■そらまめさん
nice! ありがとうございます。

■Krauseさん
nice! ありがとうございます。

■Qooさん
了解です。
是非遊びに来てください。
再開をお待ちしてます。
by とり (2008-09-20 07:14) 

とり

SpeedBirdさん
nice! ありがとうございます。
by とり (2008-10-04 07:36) 

まゆちー

唐突にコメント失礼します。
掩体壕を検索していて辿り着きました。
ここで掲載されている掩体壕のある所の隣町出身&現在も近所に在住なので、幼い頃からよく見て育ちました。
懐かしいとともに、整備されてない、市に保存する気がない等ちょっと寂しくなりました^^;

ページ下部にありましたリンク先サイトも見て気が付いたのですが、リンク先サイト様に掲載されている写真の、掩体壕④にあたる場所のものですが、20数年前までは存在していたと記憶しています。
小学生の頃、県道を車で通る度に道路の両側のすぐ近くに掩体壕が見えていたはずですし、確か東から西へ向けて機体を入れる形のものが存在していたと思います。道路から入り口が見えていなかったはずですし、お尻しか見えない~と車内で会話していた記憶が残っていますので、多分④の場所で間違いないかと。
※航空写真を確認したところ、1989年の写真までは確認ができたので、記憶違いではないみたいでした(*>ω<*)

懐かしいのと身近なものが掲載されていることで長々と書いてしまいましたが、時々来訪させて頂きます^^



by まゆちー (2014-11-26 03:23) 

とり

■まゆちーさん いらっしゃいませ
④はやっぱりなくなっていたのですね。
地元の方の意識の中に掩体豪がずっとあり続けている様子を垣間見ることができました。
貴重なお話感謝致しますm(_ _)m
by とり (2014-11-26 06:28) 

まゆちー

二度目ですが、小耳に挟んだので一応と思いまして、報告です。
写真の①の場所にあった掩体壕だと思うのですが、松山市指定有形文化財へ登録され、今年の11月28日から一般公開されております。
また松山へお越しの際は是非立ち寄られてみてください。
by まゆちー (2020-12-30 12:01) 

とり

■まゆちーさん 
二度目まして。この情報は全く知りませんでした。
12年前にこの掩体壕見学させて頂いたのですが、掩体壕を改造したご本人と思われるご主人が、
それはそれは気さくに案内して下さったのをハッキリ覚えております。
今年は暗いニュースが多かったですが、最後に明るいニュースを頂きました。
こんな動きが広がってくれると嬉しいのですが。。。
頂いた情報は記事に反映させて頂きました。
松山にお邪魔する際は必ず見に行きます。
貴重な情報をありがとうございましたm(_ _)m
by とり (2020-12-31 05:05) 

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