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矢吹(矢吹が原)飛行場跡地 [├空港]

  2009年9月訪問 2022/12更新  


無題6.png
撮影年月日1947/10/29(USA R413 12) 
出典:国土地理院ウェブサイト(地理院データを加工して作成)

福島県西白河郡矢吹町にあった陸軍の「矢吹飛行場」。

■防衛研究所収蔵資料「陸軍航空基地資料(本州、九州)昭19.10 水路部」の中に当飛行場の地図と情報がありました。

資料の地図、1947年の航空写真、グーグルマップを比較して作図したのが上のマップです。

ハッキリしない部分が多々あるのですが、おおよそこんな感じと思います。

「矢吹町文化センター」の辺りに飛行場諸施設がありました。

同資料から当飛行場の情報を以下引用させて頂きます。

■防衛研究所収蔵資料「陸軍航空基地資料 第1 本州、九州 昭19.10 水路部」の中でも、
「矢吹陸軍飛行場 福島県西白河郡矢吹町 37°12′0N 140°20′5E 」として、以下全く同じ記載がありました。

面積 東西1,300米、南北400乃至800米 総面積80萬平方米
地面の状況 中央稍高く周圍に向け1/80乃至1/300の下り傾斜を為し稍波状に起伏せるも地上滑走の支障とならず、硬度は普通
目標 矢吹町、東北本線
障碍物 なし
離着陸特殊操縦法 離着陸方向は東又は西を可とす
格納設備 木造格納庫(20x30米)2棟あり
照明設備 (記載なし)
通信設備 (記載なし)
観測設備 なし
給油設備 航空用燃料は少量補給し得
修理設備 なし
宿泊設備 矢吹町に旅館4(収容員数計40)あり
地方風 全年を通じては北西風多し
地方特殊の気象 最近の統計に據れば快晴日数19.3、降雨日数181.6 曇天日数155、降雪日数75.7、霧日数13.5なり
交通関係 矢吹駅(東北本線)西方約1.5粁
其の他 (記載なし)
(昭和18年4月調)

■防衛研究所収蔵資料「本土における陸軍飛行場要覧 第一復員局(陸空 本土防空7)」

にも当飛行場の情報がありました。

飛行場名  矢吹
位 置   福島県西白河郡矢吹町
規 模   要図(1400)
舗 装   ナシ
付属施設
 収容施設 空襲により使用禁ず
 格納施設 記載無し
摘 要   施設軍有

■防衛研究所収蔵資料「陸空-本土防空-48飛行場記録 内地(千島.樺太.北海道.朝鮮.台湾を含む) 昭19.4.20第1航空軍司令部」

に 矢吹飛行場(昭十八・七・十〇) がありました。

恒風:北西

同資料の情報を以下記させて頂きます。

位置
 福島縣西白河郡矢吹町東方二粁
積量
 六十六万一千四百七十八平方米
地表の状況
 地盤概ね可にして雑草密生しあるも地表概ね大波状を形成
 しあり排水は比較的良好なるも東側中央部に於て雨溜を生ず
周囲の状況
 西側一〇米に一部雑木林あり北側凸起部両側は断崖なり
天候気象の交感
 天候気象状態は良好なり但し現飛行地区に対する恒風は北
 西、西南の風最も多し冬季に於ては吹雪の来襲比較的多し
格納施設
 格納庫二棟を有し中型機以下二四機を格納し得
居住施設
 兵員収容力七〇名
交通連絡の状況
 交通の便は良好にして矢吹町□駅より自動車にて約十分
営外者住宅関係
 住宅難特に甚しく営外独身者は勿論家族携行者に於て
 も旅館生活をなしある状態なり
将来拡張の能否
 北西五万七六〇米南西四万七千三百十平方米の拡張を航
 本に申請中の外拡張可能なるものなし
其の他
 (記載無し)


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1/50000「須賀川」昭和8年要修「今昔マップ on the web」より作成。(赤丸=文化センター)

1928年(昭和3年)9月 福島県西白河郡の矢吹が原に1機のヒコーキが降り立ちました。

当時、東京朝日新聞社は航空思想の普及と宣伝のため各地に自社機を飛ばしており、

矢吹町有志の要請に応える形で飛来したものです。

当時の矢吹が原は国営猟区の原野で、町の有志が草刈をして整地し、ヒコーキを迎えました。

機は数回の宙返りの後着陸。

ヒコーキなるものを一目見ようと、なんと5万人もの見物人が押し寄せたのだそうです。

そしてこの飛来が、後にここ矢吹が原に陸軍飛行場ができるきっかけとなりました。



その後、現在の矢吹町役場の北西に仮飛行場が設けられました。

滑走路は未舗装だったため、飛来があるたびに草刈、整地が必要で、

地元から勤労奉仕者が大勢動員されました。

1932年(昭和7年)9月18,19日には愛国福島号が、

また1934年(昭和9年)10月27日には霞ヶ浦から海軍偵察機3機が着陸しました。

 

満州事変後の戦争長期化に伴い、全国で飛行機を献納する運動がおこり、

福島県でも献金を集めて、2機の飛行機を献納しました。

1934年(昭和9年)10月28日(霞ヶ浦から海軍機飛来のあった翌日)には、 

福島県民が献納した海軍機報国福島号、陸軍機愛国福島号など4機が命名式と披露のために着陸しました。

この式は県内各界の各士と数千人の観客を集めた盛大なものであり、

こうして当矢吹が原は飛行場としての実績を重ねていったのでした。

 

報知新聞社が矢吹が原を同社の飛行場として確保、軍にも提供するという企画があり、

同社の飛行場予定地であることを示す看板が立てられていた時期もあったのだそうです。

しかし後に陸軍の飛行場候補地として注目され、

これまでもたびたび陸軍機が飛来して用地・気象など調査されており、

1937年5月23日 陸軍飛行場として正式に開場したのでした。

そして戦争の拡大から多くのパイロットが必要となり、

1940年8月25日に埼玉県熊谷飛行学校の矢吹出張班が置かれ、分教場の開場式が行われました。

飛行場は拡張整備され、格納庫、兵舎が建設されました。

 

1943年、学徒動員令により在学中の学生も動員され、「特別操縦見習士官」として入隊しました。

戦争末期の1945年、特攻隊として特攻基地への移動が始まるようになり、

基地内の飛行機は減り、訓練も思うようにできない状態になりました。

戦局の悪化と共に当飛行場も攻撃対象となり、

5月、7月、8月に空襲を受けました。

特に8月の空襲では部隊本部の建物全焼、兵舎も壊滅、

飛行機はすべて山の中に隠したものの、これで基地の機能は失われてしまいました。

 

当基地に入隊した「特別操縦見習士官」の中に、

終戦直後のプロ野球で大変な人気を博した「青バット」の大下弘がおり、

氏は他の隊員らと共に特攻隊員として鉄路、秋田県の特攻基地に向かう途中で敗戦を知ったのだそうです。

終戦時、当飛行場には陸軍練習機6機、海軍偵察機1機、特別攻撃隊機数機が残っており、

整備兵により火がつけられたのでした。

その後1946年2月 飛行場跡地の開墾が始まり、美田広がる現在の姿へと至ります。

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矢吹町文化センター東側の駐車場に飛行場の碑がありました。

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隣にはこんなものが。

矢吹飛行場記念碑建立の記(全文)
 かつて矢吹ヶ原と呼ばれたこの地は、その名の示すごとく萱が茂り疎林が点在する原野であった。
雉、山鳥等の野鳥が多く生息し宮内省の御猟場として明治大正期の貴顕の来訪が頻繁であったと伝えられている。
 今、眼の前に展開する豊かな田園と街並からは想像すべくもないが、この地に昭和初期福島県で最初の飛行場が建設されたのである、然しその事を知る人は年々少なく間もなく忘れ去られようとしている。
近隣の地に近代的設備を誇る福島空港が開港するこの時に、今まさに歴史の中に埋没せんとしている我々の矢吹飛行場を永遠に記念し、語り継いでゆく事は意義深い事と考えられる。
  昭和初期は航空機に対する内外の関心が高まりつヽあった時代だが、昭和三年九月二十三日、草を刈り簡単な整地をしただけの矢吹ヶ原にはじめて朝日新聞社の飛行機が飛来、
上空で数回の宙返りをした後、低空旋回しながら着陸した。
当時の町民有志の熱烈な要請に応えたものであった。
そのころは飛行機を目の前で見る事はたいへん珍しく近郷近在から弁当持参で大勢の見物人が押しかけたそうである。
その後矢吹ヶ原は飛行場として注目され、町民の勤労奉仕により整備され滑走路が作られた。
昭和七年愛国福島号飛来、次いで昭和九年十月二十七日二十八日とあい次いで海軍機、陸軍機が飛来着陸した等の記録が残っている。
その後は陸軍の飛行場候補地となり、用地や気象の調査が繰り返し行われた。
その頃から国際情勢は次第に緊迫、間もなく日中戦争の勃発から長い戦争の時代へと突入して行ったのである。
矢吹飛行場は昭和十二年五月二十三日正式に陸軍の所属となり、昭和十五年八月二十五日熊谷陸軍飛行学校矢吹分校として操縦要員の養成に当る事となる。
当時の練習機は複葉で色や形の印象から住民からは赤とんぼと呼ばれて親しまれた。
然し戦火は拡大し戦況も深刻となって昭和十八年頃からは専ら特攻隊員の養成が行なわれるようになった。
隊員はじめ軍人軍属が多数来町し、町内の旅館に分宿或は民家に下宿した。
時局柄隊員達を預った家は勿論全町民あげて飛行場に協力し、隊員達を支えた事は現在も当時を知る人達の間で語り草となっている。
やがて、戦局は末期的様相を呈し、訓練を終えた隊員は次々と戦場へ飛び立ち、祖国の未来を信じ勝利を念じつヽ多くの若い命が散っていったのである。
そして飛行場は敗戦直前の米軍の爆?と機銃掃射により破壊された。
 敗戦後廃墟となった飛行場跡地は開拓のため入植した人々の筆舌に尽くし難い困難と努力の結果、今日のような豊かな田園風景へと変貌を遂げたのである。
往時を思えば誠に感無量なものがある。
 最近矢吹航空隊を語る会が元隊員の方々、当時の飛行場関係者、矢吹ふるさと塾の塾生の間で持たれ記念碑建立の運びとなった。
 戦前戦中戦後と激動の昭和を振り返る時、二度とあのような悲劇を繰り返してはならないと痛感し、世界恒久の平和を念じてこの碑を建立する。
 平成五年三月吉日

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    福島県・矢吹が原飛行場跡地  
熊谷陸軍飛行学校矢吹分校増田分校の校舎は、現在の矢吹町文化センター敷地内にあったのだそうです

矢吹が原飛行場 データ
設置管理者:旧陸軍
種 別:陸上飛行場
所在地:福島県西白河郡矢吹町(現・西白河郡矢吹町一本木)
座 標:37°12′0N 140°20′5E
面 積:80ha(東西1,300m、南北400~800m米) 
標 高:288m
(標高はグーグルアースから、他は防衛研究所収蔵資料から)

沿革
1928年09月 23日 東京朝日新聞社機飛来。その後町役場北西に仮飛行場が設けられる
1932年09月 18,19日 愛国福島号飛来
1934年10月 27日 霞ヶ浦から海軍偵察機3機飛来
        28日 海軍機報国福島号、陸軍機愛国福島号など4機が命名式と披露のため飛来
1937年05月 23日 陸軍飛行場として開場
1940年08月 25日 熊谷陸軍飛行学校矢吹分教場開場
1943年   学徒動員令により在学中の学生が「特別操縦見習士官」として入隊
1945年05月 11日 空襲
    07月 16日 空襲
    08月 9,10日 空襲、基地壊滅
1946年02月 開墾始まる

この記事の資料:
「矢吹町史 通史編」
「矢吹町生活年表」
「目で見る矢吹町史」
現地の碑文
防衛研究所収蔵資料:「陸軍航空基地資料(本州、九州)昭19.10 水路部」
防衛研究所収蔵資料:陸軍航空基地資料 第1 本州、九州 昭19.10 水路部
防衛研究所収蔵資料「本土における陸軍飛行場要覧 第一復員局(陸空 本土防空7)」
防衛研究所収蔵資料「陸空-本土防空-48飛行場記録 内地(千島.樺太.北海道.朝鮮.台湾を含む) 昭19.4.20第1航空軍司令部」


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コメント 11

tooshiba

現在の日本で「愛国」だの「報国」だの(IMEには候補として入っていましたがね)なんて言葉を口にしたら、ドン引きされるでしょう。

しかし、60数年前はむしろそれを口にしないと非国民扱いだったわけでして、価値観の劇的な変化が起きたことは間違いありませんね。

冒頭の感覚というのは、公立学校の教員で組織される団体にすっかり毒されているからでしょう。
友愛一辺倒では、世界から舐められて、カツアゲされ続けるだけなのに。
現政権のみならず、歴代の自民党政権も、金の詰まった財布を広げて、「好きなだけ持ってっていいよ」とやっていたわけですが。その金は、国債と言う借金だったりするわけですが。

ただねー、、、教師の団体のコンセプトも、「教え子を戦争に送り出すことは断じて許さない」という信念ゆえであれば、一方的に批判することも難しい・・・すごく複雑です。

結論としては、戦争なんて起きない方が良いが、仮に戦うとしても、負けてはならないのだと思います。
by tooshiba (2009-11-16 12:30) 

Takashi

何も残っていないように見える土地ですが、いろいろな歴史があるんですね。
こういった記念碑をつくり、後世に伝えていくことが大事だと改めて思いました。
by Takashi (2009-11-16 12:54) 

masa

すっかり秋の風景ですね。
とりさんの写真は緑のきれいな季節に写された
写真が印象に残ってます。
by masa (2009-11-16 17:35) 

カンクリ

へぇ~、矢吹にそういう飛行場があったんですか・・。
やはりとりさんのブログはタメになります!
ところで、先日の「それがマニア」のBI編を只今構想中です。
近日中にブログにてアップしたいと思ってますので、宜しくお願いします☆
by カンクリ (2009-11-16 20:46) 

me-co

隣の隣町須賀川に2年間住んでいましたが、矢吹の飛行場跡は知りませんでした・・・しかし、見事な圃場整備!それとわかりそうな痕跡すら無いですねvv
by me-co (2009-11-17 00:56) 

とり

皆様 コメント、nice! ありがとうございます。

■tooshibaさん
>コンセプト
そういう信念だったのですか。
知りませんでした。
それはとても重要なことですね。

■Takashiさん
仰る通りと思います。
直接話をお聞きしてこういう碑を作る時間はどんどん少なくなってますからね。

■masaさん
どうもありがとうございますm(_ _)m
これからドンドン季節感がずれていきますよ~^^

■カンクリさん
おおっ、楽しみにしてます^^

■me-coさん
なんと、須賀川に住んでおられたのですか!
矢吹はすっかり田園地帯ですね~
by とり (2009-11-18 06:26) 

sak

日本の飛行場や飛行場のあったところ
いろんな歴史が残っているのですね

by sak (2009-11-18 23:49) 

とり

■sakさん
現地を歩いていると、今は跡形もない場所でも、かつてそこに住み、働き、飛行場にかかわっていた大勢の人のことをいろいろ考えてしまいます。
by とり (2009-11-20 08:01) 

Rinx

始めまして、矢吹町のK高校でこの飛行場について調べているRinxと言います。
自分は昨年、この飛行場のことをKFBふるさとCM大賞、矢吹町作品で取り上げさせていただき、その際に飛行場についての調査を行いました。
この飛行場について情報を集めているとのことですので、自分が知ったことを下記に連ねていこうと思います。

飛行場自体は、文化センターから農業短期大学校の敷地にかけて存在していたようです(当時を知る方からの聞き込み情報なので、おそらく間違いないかと)。
ちなみに、この当時を知る方というのは、この飛行場で少年整備員をやってらした方です。おそらく、飛行場を知る最後の方・・・なのではないかと思います。

大体、今の文化センターの辺りに校舎や格納庫があったため、飛行場は文化センターのところにあった、と言われるようです。

配備されていた機体は、赤トンボの愛称で有名な九五式一型練習機を中心とと、飛燕などが配備されていた、とのことです。終戦時に残っていた練習機と特別攻撃隊機は、この二つだったのではないかと推測されます。海軍偵察機は、情報が手元にありませんので分かりかねます。申し訳ありませんm(_ _)m

この飛行場、実は矢吹分校校歌なるものが存在しまして、それの作曲者は彼の有名な山田耕作(彼の息子が矢吹分校で学んでいたとのことです)、作詞者は軍歌の歌詞では高名な土岐善麿だった、とのことです。こちらは、現在矢吹町の男声合唱団の皆さんと共に復元を行っています。

飛行場があった当時は、矢吹は今のような田園の町ではなく、森と荒地が続く荒野であった、とのことです。矢吹が今のような姿を見せたのは、戦後の開拓事業によって開墾されたからです。その際に、飛行場跡も全て整備されてしまいました。最後まで残っていた旧矢吹中学校校舎も、矢吹の中学統合時に取り壊され、現在の文化センターになってしまいました。
本来ですと、文化センター内に歴史博物館的なものを作り、そこに飛行場の資料なども展示すべきだったのですが・・・
残念ながらスペースが取れないなどの理由でそれは実現されず、当時の資料は現在個人の所有になっています。
もっとも、その方がこの間の夏にお亡くなりになってしまい、一部資料は散逸してしまいました。
・・・が、まだご存命であった頃に取材に伺い、その時資料を動画で撮影したものは残っています。

自分からの情報はこのぐらいでしょうか。
もし、何かご不明な点などありましたら、メールでお問い合わせいただければ可能な限りお答えさせていただきます。
メールは、名前をクリックすると出るようになっている・・・と思います(^_^;)

そちらでも、何か新しい情報がありましたらお教えいただけますと幸いです。
それではどうぞ、よろしくお願い致します。



追伸:今年のKFBふるさとCM大賞でも、矢吹町の作品のうち一つでこの飛行場について取り上げています。もし視聴可能であれば、ぜひご覧下さい。
12月中には放送になるかと思いますが、いつになるかはわかりません。申し訳ありませんm(_ _)m
どうぞこちらもよろしくお願い致します。

それでは、夜分遅くに失礼致しました。
by Rinx (2009-12-05 01:20) 

とり

Rinxさん
コメントが遅くなってしまい大変失礼致しました。
>今の文化センターの辺りに校舎や格納庫があったため、飛行場は文化センターのところにあった、と言われるようです。
とのことですが、ネットで事前に調べた際にはむしろその逆で、当飛行場について詳しく扱っている複数のサイトでは、
「農業短期大学校の敷地が飛行場であった」。と説明されており、オイラがお邪魔した際にもそういう目で見ていました。
ところがその後いろいろ調べていくうちにいくつか疑問点が。
1・最初期の飛行場は、現文化センターの北西にあったと史料に明記されている
2・現文化センターの場所に飛行場関連の建物がある
3・通常軍の飛行場では、建物と滑走路を集約する傾向があるが、当地の
文化センターと農業短期大学校の間には川が流れ、高低差がある(飛行機の運用には非常に手間になる)
4・飛行場が建設された時期からすると、わざわざ秘匿化することは考えにくい
5・1947年の写真で見ると、明らかに現文化センターから北側に開発の痕跡が残っている
ということで、ネットでは「農業短期大学校の敷地が飛行場であった」とする情報ばかりだったのですが、
敢えて文中の地図とキャプションを付けました。
文化センターの所に建物があったのは、当時の写真、碑文から曲げようのない事実ですし、
Rinxさんの仰る当時の関係者の方の情報通りであれば、建物は文化センター側、
滑走路は農業短期大学校の敷地側。ということだったのかもしれませんね。
いずれにしろ貴重な情報ありがとうございました。m(_ _)m
by とり (2010-02-19 20:17) 

どみんご

6日、矢吹飛行場を三度目の調査。
矢吹町の高橋紀子さんという研究かが詳細な矢吹飛行場ものがたりを編纂中。近日、詳細なものがまとまります。乞うご期待。
by どみんご (2014-05-07 23:25) 

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