戦争遺構 [├雑談]
■旧日本軍の飛行場がいっぱい
旧日本軍が建設した飛行場関連の記事をいくつかアップしました。
オイラがお邪魔したのはまだほんの僅かですが、
全国には旧日本軍が建設した飛行場が非常に多くあります。
1つの県に5ヵ所、10ヵ所、もしくはそれ以上という例も珍しくありません。
■戦争遺構もいっぱい
オイラが見て回っている日本軍の滑走路跡、掩体壕は「戦争遺構」の1ジャンルに過ぎず、
戦争遺構には他にも軍需工場、境界標、基地の付帯施設(高射砲台、事務所、格納庫など)があります。
軍の飛行場に限っても全ての県に最低1つはありましたから、
戦争遺構すべてを含めて細かく探していくと、その数は膨大なものになります。
こうした軍関係の施設は人口密集地やその近郊にも多くありましたから、
大抵自宅から十キロの範囲内に何かあるはずです。
■戦争遺構の現状
オイラと弟は、沖縄、東京、埼玉の小学、中学に通ってまして、
たまたまそのいずれの学校もすぐ近くに軍の飛行場跡がありました。
しかし学校で広島、沖縄の話を聞くことはあっても、地元の飛行場のことは存在すら知りませんでした。
全国に散在する遺構のほとんどは、その存在を忘れ去られて放置されたままです。
掩体壕には破廉恥な落書きがされ、ゴミ捨て場と化していたりします。
こうして埋もれたままになってしまっているのは遺構だけではありません。
当時を知る戦争体験者の方々についても同様です。
■最近の動き
「当時を知る方への聞き取りと、戦争遺構の調査を行おう!」
このところ、そんな動きが全国的に広がっているそうです。
埼玉県桶川市のホンダエアポートもその1つ。
元は陸軍の飛行場なのですがそれ以外のことはほとんど公になっておらず、
川を隔てて2キロほどの所にある同市の図書館併設の歴史資料館に、この飛行場に関する特別な資料はありません。
オイラのような部外者にとって、これ以上のことは調べようのない場所だったのですが、
近年当時の関係者と市が調査、公開を行うようになりました。
埋もれていた自治体の資料と個々の関係者の情報というピースが組み合わさった結果、
予想だにしなかった全体像が浮かび上がっているのだそうです。
■なぜ今調査なのか
戦後64年。戦時中の記憶がある方は七十台。
戦時中の大人の苦労を肌で味わった方は既に八十台以降。
残念ながら当時のことを直接お聞きする時間はそう多く残されていません。
遺構は、「開発の邪魔」とか、「老朽化して危険」などの理由でどんどん取り壊されています。
大げさではなく、調査のためのチャンスは今しか残されていません。
■戦争遺構とは
遺構に対する見方は肯定/否定様々ですが、
オイラ個人はこれを、平和の尊さを伝える郷土の宝と考えています。
戦争を実際に体験した方のほとんどが
「もう二度とあんな悲惨なことを繰り返してはいけない」と強く主張しておられ、
遺構はその主張の真意を理解する助けになると考えているからです。
因みに前述の桶川の飛行場の関係者が中心となって発足した会の目的は、
「この飛行場のことを後世に広く伝えて平和を考える一助にする」というものです。
■遺構がそこにあるということ
例えば飛行場を建設する場合、現在なら大手ゼネコンが大型機械を使って一気に行いますが、
当時は便利な機械は少なく、手作業に依ることが多かったです。
しかも周辺住民がかり出されることも多く、
滑走路用地にびっしりと敷き詰める石の一つ一つを地元の小学生まで動員して集めているケースもあります。
近隣住民は軍の施設に否応なく深く関わらざるを得なかったわけで、
軍が建設した飛行場の記録を調べてみるとそこには大抵、
土地の強制収用、建設のための労働力の提供、施設維持のための協力が求められ、
完成したら完成したで、その周辺の住民も含めて米軍の攻撃対象になるということがつきものであり、
これらは地元の方々の多大の困苦、犠牲の上に成り立っています。
遺構があるということは、多かれ少なかれここでそうしたことが確かにあったという証であり、
周辺には当時を知る方がおられるということです。
■全国に散在するということ
戦争の生き証人と遺構はくまなく日本中に存在します。
わざわざヒコーキや新幹線で広島、沖縄に出向かずとも、
日本中どこに住んでいても、自身が日々生活する馴染みのあるその場所に遺構と語り部はおられます。
戦争遺構を実際に作った方、使った方、そうした方々の言葉には得難い重みがあります。
当時の苦労を実際に経験した方の言葉と、それが確かにここで実際に起こったことを示す遺構は、
平和の尊さを強力に伝えるものになり得ます。
■遺構と平和
広島や長崎、沖縄に訪れ、体験者の話を聞くことは確かに意味のあることですが、
地元の普段見慣れた日常の場所で、かつて非日常のことが実際に生じていたのだ。
ということを戦争を知らない世代が知ることにも意味があると思います。
地元の遺構とその由来を知っていると、今の平和な日常と年配者がちょっと違って映るのではないでしょうか。
この記事の資料:
旧陸軍桶川飛行学校を語り継ぐ会
そうですね。
激戦が行われ一度に多くの犠牲者が出た場所は
クローズアップされているけれど
身近なところにもあるのですよね
戦争の現実を知っておられる方がどんどん少なくなって行く前に
地元とか身近なところでのお話聞いておかなきゃ
そして伝えていかなきゃいけないなぁ...って
by sak (2009-06-01 11:51)
前々回とその前の記事を読んでいつもながらとりさんの調査力に関心させられましたが、「そういう遺構は実は自分の身近にも有る」と思うと、あらためて「戦争はだだの過去の歴史ではない…」と感じさせられます。
体験者の方が少なくなっている今、せめてそういう遺構は後世の為に保存して欲しいですね。
by 北宇のピューマ (2009-06-01 19:40)
こんにちは。
私の地元には今でも防空壕跡、砲台跡なんかが残っています。
駐車場や倉庫に使われていたりして・・・
昔、亡くなった祖父が戦争のことを話してくれました。
爆撃があったこと、疎開のこと、大和のこと、原爆のこと・・・
今はそれを知る人はほとんどいないんですよね。
忘れたい歴史もあると思いますが、忘れてはいけない歴史もあるのでしょうね。
今しかない、私もそう思いました。
by OILMAN (2009-06-01 22:20)
先の大戦は、決してはるか南方の島々などだけの出来事ではなく、
我々の身近でかつ、生活に影響を及ぼしていたということを忘れては
ならないと思います(..)
by an-kazu (2009-06-01 23:32)
常連さんといえども、各自ご意見はおありでしょうが。
とりさんの熱い思いはビシビシ伝わってきましたYo!!
この先いつ戦争が起きるか、また空襲を受けるか(今度は敵がどこになるか分からない!)わけですよね。
まあ、今時なら、核弾頭付のミサイル一発でチェルノブイリ事故並みに被弾地点から半径何百キロが死の土地になるんですかね。まさに腐海・・・
by tooshiba (2009-06-02 01:30)
皆様 コメント、nice! ありがとうございます。
■takemoviesさん
nice! ありがとうございます。
■Krauseさん
nice! ありがとうございます。
■sakさん
>一度に多くの犠牲者が出た場所は
そうそう。それが言いたかったです。
ありがとうsakさん^^
■北宇のピューマさん
>せめて
遺構と体験者の言葉は意思さえあれば永久に残りますからね。
■Takashiさん
nice! ありがとうございます。
■xml_xslさん
nice! ありがとうございます。
■いっぷくさん
nice! ありがとうございます。
■masaさん
nice! ありがとうございます。
■c_yuhkiさん
nice! ありがとうございます。
■そらまめさん
nice! ありがとうございます。
■夢空さん
nice! ありがとうございます。
■U3さん
nice! ありがとうございます。
■qoo2qooさん
nice! ありがとうございます。
■OILMANさん こんにちは。
広島=原爆というイメージですけど、OILMANさん仰ることも広島の重要な事実ですよね。
そもそもなぜ広島に落とされたのかと考えると、
その部分に行き着くのではないかと思いました。
■miffyさん
nice! ありがとうございます。
■SpeedBirdさん
nice! ありがとうございます。
■an-kazuさん
ありがとうございます。
仰るとおりと思います。
■今造ROWINGTEAMさん
nice! ありがとうございます。
■tooshibaさん
>各自ご意見
遺構に関しては過激なものも含めて様々な考えがありますので、
オイラの記事に同意できないと感じる方は当然おられると思いますし、それでいいと思います。
今回の記事は個人的な考えをダラダラ書いただけですので、
掲示板に書いたら、「チラ裏」とか「ブログにでも書いとけ」と叩かれますよね^^;
「オイラが軍の飛行場記事をアップするのはこういう理由なんですよ」ということだけ
分かっていただければ十分です。
by とり (2009-06-02 06:32)
■ぴーすけ君さん
nice! ありがとうございます。
■picaさん
nice! ありがとうございます。
by とり (2009-06-03 06:50)
はじめまして
検索中にたまたまたどり着き、埼玉県内の飛行場跡地に見入ってしまいました。
戦時中に母の生家の裏が飛行場だったとよく話しているんですが、国土交通省の国土変遷アーカイブ( http://archive.gsi.go.jp/airphoto/ )で見てもどうも滑走路らしきものがない。
母の記憶違いか(戦時中の母は就学前)と思っていましたが、ブログを読ませていただいてそこに飛行場が確かにあったことがわかりました。
そして、滑走路らしきものが見当たらない理由も推測できました。
これからもちょくちょくのぞかせていただきます。
by nobi (2009-06-03 12:27)
■nobiさん いらっしゃいませ~ヽ(*´ヮ`)ノ
少しでもお役に立てたのでしたら光栄です。
既にご存知でしたら申し訳ありませんが、
国土地理院の地図 http://archive.gsi.go.jp/airphoto/search.html
は古いものだと戦後すぐのものが残っております。
少しずつ充実させていきますのでまた是非お越しください。
■こけもも:さん
nice! ありがとうございます。
■hiro78さん
nice! ありがとうございます。
by とり (2009-06-04 06:05)
>自宅から十キロの範囲内 そうなんですよねー身近にあるんですよね。
僕も練馬駅前の光が丘公園がそうだったんで、驚きました。
>掩体壕 これも地元の友達ととりさんに言われて存在を知りました。
>戦時中の記憶がある方
うちの会社の会長は、東京でドーリットル空襲できたB-25とその攻撃を
目の前で見たと話してました^^
とりさんの記事を見た後だったんで、マジで!?と思いました。
ほかにも旅順で学生の頃に終戦になって
「引き揚げるのに1年半以上かかった、肺の悪いやつは皆死んだ」
って軽く話してましたけど、すべて貴重な証言ですよね。
by コスト (2009-06-04 21:03)
アチキの家の近くにも飛行場ではありませんが海軍の無線施設がありました。
『ニイタカヤマノボレ』が発信された施設です。
先日散歩してたら境界標を発見しました。
何らかのかたちで語り継ぐ、残すという事はとても大切ですね。
by アスランマリオ (2009-06-04 22:48)
■コストさん
>会長
おお、すごい体験の持ち主ですね!(@Д@)
終戦時は学生さんだったのですね。
■kenjiiさん
nice! ありがとうございます。
■アスランマリオさん
>『ニイタカヤマノボレ』
歴史的な遺構ですね。
軍の境界標ってまだ見たことないんですよ。
よく発見しましたね!
by とり (2009-06-05 06:42)
>学生 そうです、会長は今85歳で、
昭和18年に当時日本の租借地だった旅順にあった
高等学校(旧制)に受かったので学生で行ったそうです
B-25はその前後で見たそうです。
聞いててとりさん以外のとこでドーリットル空襲って聞くとは思わなかったです^^
by コスト (2009-06-06 15:05)
■コストさん
>ドーリットル空襲
そういえばオイラもコストさんご愛読の某週刊誌のSF戦争漫画でしか見たことなかったです^^
リアルで聞いたことはないなぁ。
会長さん、すごい人生を歩んでこられた方なんですね~。
by とり (2009-06-07 06:38)
■春分さん
nice! ありがとうございます。
by とり (2009-06-10 07:42)
■seirenさん
nice! ありがとうございます。
by とり (2009-06-11 07:50)