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埼玉県・関東松山(唐子)飛行場跡地 [├空港]

  2008年11月訪問 2022/11更新  


無題b.png
撮影年月日1947/10/24(昭22)(USA R356 18) 
出典:国土地理院ウェブサイト(地理院データを加工して作成)

埼玉県東松山市にある東松山工業団地。

元は陸軍の「関東松山(唐子)飛行場」でした。

■防衛研究所収蔵資料「本土における陸軍飛行場要覧 第一復員局(陸空 本土防空7)」

に当飛行場の要図があり、先頭のグーグルマップはこの要図から作図しました。

同資料の情報を以下引用させて頂きます。

飛行場名  松山
位 置   埼玉県比企郡宮前
規 模   要図(北西-南東1800 北東-南西1500)
舗 装   ナシ
付属施設
 収容施設 五〇〇名分
 格納施設 (記載無し)
摘 要   施設軍有

2014/9/21追記:アギラさんから情報頂きました。第232飛行場大隊補給中隊の横塚氏によりますと、正式名には「関東」が付くとのことでしたので、飛行場名修正致しました。アギラさんありがとうございましたm(_ _)m

この場所に旧陸軍が飛行場を造るまでのことは、

前記事(東武東上線物語・)に書きました。

この記事では、終戦後この飛行場跡地がどうなったか書きます。

 

まずは飛行場に関する部分だけ簡単におさらい。 

1943年(昭和18年) 陸軍、松山飛行場建設開始

1945年(昭和20年)1月 
  松山飛行場建設のため武州松山(現東松山)~武蔵嵐山間移築
  同年8月 飛行場未完成のまま終戦

1945年(昭和20年)9月初め
最初期の開拓者たちが飛行場跡地に到着。

跡地北側に日本軍残留部隊が何人か残っていました。

飛行場は未完成でしたが、北端、東側山中の大小2棟の格納庫や、西側山中の部隊用建物や武器その他被服、

軍靴などを収納する建物も完成し、飛行場の発着機能は十分果たされるまでになっていたようです。 

飛行場には半地下兵舎が残っていて、到着した入植者は当初そこに分宿したりしたそうです。

最初期の入植者の言葉が残っています。 

「初めてこの地を訪れた時、軍用地とは言いながら、まだ出来上がらない飛行場で、一見平地のように見えるが山あり谷ありの場所を削り埋めた、草も満足に生えぬような赤土であり、鋤もきかないような赤土地帯(関東ローム層)であった」。

1945年(昭和20年)10月4日 米軍飛行場跡地に進駐

松山中学校内の旧日本軍の医薬品などを監視するという名目で駐屯。

この跡地に飛行機が残っていたという記述が「東武鉄道百年史」と松山市の市史にあり、

記述が微妙に異なるのですが、併記しておきます。

・格納庫にあった飛行機1機を同年暮れに爆破
・不時着したとかいう飛行機が2機、飛行場跡地に残っており、計器類はすべて剥ぎ取られた状態でした。この飛行機は後に米軍に燃やされました。

「黄塵を友として」という史料の中ではこの頃のことについて、

最初期の入植者が入って間もなく進駐があり、開拓を目的に集まって来た人たちが皆追い出されてしまいまったこと、

飛行場の周囲に柵をされ、鉄条網が張られ、突然のことに事情が分からず後から入ろうとした人は

銃を突きつけられ追い返されてしまったことなど述べられています。

一方市史の中では、

1945年(昭和20年)10月、進駐軍のいた飛行場跡には既に麦まきをする人が現れる。

と書かれています。飛行場の一部は立ち入り禁止から免れたということなのでしょうか。

それはともかく、全国的には進駐した米軍が飛行場を拡充してそのまま運用するケースもありましたが、 

当地への進駐は非常に短期間で、結局この地で飛行機が飛び交うことはありませんでした。

1945年(昭和20年)11月頃 米軍松山飛行場跡地から撤退

米軍のいなくなった地に再び開拓者たちが戻って来て開墾が始まりました。

1946年(昭和21年)1月14日付 朝日新聞

「不要飛行場引渡し」の見出しの下、こんな記事が載りました。

米軍総合司令部渉外局12月発表 第八軍司令官代理ホール中将は12日 占領軍に不要な日本の全飛行場を
可及的速やかに農耕要地として日本側に引き渡すよう命令した。

終戦後の食糧危機を受けての事と思われますが、

「農耕要地として」という条件で全国の不要飛行場引渡し令が下されました。

こうした占領軍のお墨付きもあり、以後開拓が進むことになったのですが、それは苦労の連続だったようです。  

開拓者の苦労については、市史の中でこう綴られていました。

「北海道、東北、奄美大島、外地から終戦引揚者が無一文でここに入った。農業の経験も持たずに入植して来た人が大部分であり、作物の作り方、蒔き付け時期すらわからない。サツマイモ、陸稲が主だったが、その後スイカ、メロン、落花生、栗が盛んとなり、酪農も広く行われた。地元の人たちからは「飛行場の人」などと呼ばれ、独との感じをもっていたが、「新郷」という字名が付けられ、組合ができ、共同出荷場を作った」。

荒れ果て、痩せた土地の開墾作業は困難の連続で、強い季節風は黄塵を巻き上げて前が見えないほどであり、

そのことが前出の史料、「黄塵を友として」という書名にもなっています。


1953年(昭和28年)「グライダー事件」発生

飛行場跡地を「宮前滑空場」にしよう、というグライダー滑空場誘致運動が起こりました。

大変な苦労をしながらも、懸命に開拓を行っている当人たちの頭越しでのこの計画に入植者たちは猛反発。

滑空場の計画図面には2本の滑走路があったため、

「グライダー滑空場は将来飛行場になる危険がある」と主張を展開。

誘致案取り下げで騒動は落着しました。

この騒動について史料の中では、

「悪気はないものの、入植者の懸命な努力にもかかわらず営農不振が続き、外部の人に『何か有効利用を』という気を起こさせてしまう要因となった」

と述べられていました。

その後もこの地には、大学進出、工場立地などの案が上っては消えるということを繰り返しました。

1965年頃(昭和40年代) 開発の波が押し寄せる

この頃になると、各地の開拓地が工業団地、大学、住宅団地などの開発地として狙われ始めました。

それは30年代後半から一向に成果の上がらない開拓地や

首都圏に近い開拓地が高度成長に追いつかない開拓農業に見切りをつけた結果でもありました。

松山周辺でも高速道建設についての噂話が地元の人々から上がり始めるようになり、

国営森林公園建設決定、1967年(昭和42年)には大東文化大学東松山校舎開校など、

松山飛行場跡地周辺にも確実に開発の波が押し寄せてきました。

こうした情勢の中、新郷、都地区の工業団地開発計画を立てた市長が三選されます。

1969年(昭和44年)4月 工業団地の造成工事開始

開拓地の36%がその対象となりました。

1971年(昭和46年)3月 森林公園駅開業

オルソ松山飛行場全図.PNG
写真:「国土画像情報(オルソ化空中写真) 国土交通省」
撮影年度:1974年 武蔵小川 東松山 編集・加工:「空港探索・とり」

1974年撮影。 工業団地の造成工事開始から5年後の写真です。

1974年(昭和49年)7月 森林公園開園

1975年(昭和50年)8月 関越道(練馬~東松山 開通)

1980年(昭和55年)7月 関越道(東松山~前橋 開通)→飛行場跡地を関越道が通る

2002年(平成14年)3月 つきのわ駅開業

2003年(平成15年)   254唐子バイパス2車線暫定開通

 

このように、かつて線路が一本通っているだけだったこの寂しい場所は、

時代に翻弄され、開発の影響を受け、当時の面影をわずかに残しつつも現在のように変わっていったのでした


・松山飛行場の形について
松山飛行場の詳しいデータ(敷地の明確な境界線、滑走路位置など)は、

図書館でもネットでも資料を見つけることができませんでした。

一連の記事の飛行場境界線については、

「黄塵を友として」の付録 1947年10月に米軍が撮影したと思われる写真、

1959年撮影の写真、そして「東武鉄道百年史」の図を参考にしました。

敷地南側はこれでほぼ間違いないと思うのですが、北側部分が定かでありません。

松山飛行場のその後については、跡地の一角に建てられた石碑にもその説明があります(グーグルマップ青マーカー)。

尚、この石碑の中で松山飛行場は、地元の人たちの通称、「唐子飛行場」として登場しています。

D20_0035.jpg

D20_0039.jpg

赤マーカー地点。

都開拓記念碑(全文)
旧村の宮前、唐子両村を境して、民地約二00ヘクタールが大東亜戦争に軍用の唐子飛行場となったが終戦とともに、戦後国民の食糧事情が飢餓の状態であったので、開拓による食糧増産が国策となり、唐子飛行場跡地も開拓入植の土地となりこの旧宮前地区には昭和二十五、二十六年にわたり、旧宮前、唐子の人達家族ごと十五戸が入植となった。

この地は字名を都と称し、唐子分は新郷と称したとくに、表土をけずられてあるこの都は、黄塵にして荒れ、開拓家族は、石油ランプをたよりに起居し、農具も鍬や万能の、手による作業で、血と汗にまみれ排水工事を施工、困苦の日々の闘いの開拓であった。開拓当初、都開発者は唐子開拓農業協同組合を設立したが旧村がそれぞれに町村合併により東松山市と滑川村とになり、組合も松山開拓農業協同組合と合併した。

電灯も入り辛苦の十数年、作物も実りが得られるようになった。この頃より国の経済の動向は農業から工業生産と変化した。市村も将来の発展的計画に基づき県企業局の協力のもとに工業団地として組合にその協力を求められた。血と汗の結晶の土地であるが組合として協力の決がとられた。その後地区内を関越高速道の通過があり全員が協力した。以上のように開拓者一致の協力は、この地域と住民の発展を大きく進展させたことは事実でありかっての苦闘の努力は歴史を綴り不滅に輝き続けてゆくことであろう。

都開拓三十周年記念の開拓者建碑にあたり碑文とする 滑川村長小久保正男 
昭和五十八年四月吉日建之 


        埼玉県・関東東松山飛行場跡地       

関東松山飛行場データ
設置管理者:旧陸軍
目 的:帝都防衛
所在地:埼玉県比企郡宮前(現・東松山市新郷、滑川町都)
滑走路:1,800mx300m(四角の敷地から飛び出た部分)
方 位:13/31
座 標:N36°02′17″E139°21′51″
標 高:48m
面 積:200ha
(座標はグーグルアースから算出)

沿革
1943年    陸軍、松山飛行場建設開始
1945年08月 飛行場未完成のまま終戦
1945年10月 進駐
    11月 返還 本格的に入植が始まる 

関連サイト
Wiki/東松山工業団地 
ブログ内関連記事

参考資料
現地の碑文
松山市史資料編第四巻
東松山市の歴史 下巻
東武鉄道 会社の沿革
黄塵を友として 松山開拓農協五十年の風雪
防衛研究所収蔵資料「本土における陸軍飛行場要覧 第一復員局(陸空 本土防空7)」

資料未確認なのですが、滑川高校郷土部 部報「比企」第二号(1981)に松山飛行場についての詳しい調査報告があるのだそうです。


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コメント 32

おすぷれい26

すばらいしですね。私にはとてもじゃないけどココまで調べて書くことなどできませんよ…。脱帽です。
by おすぷれい26 (2008-11-12 08:40) 

tooshiba

よくぞ調べ上げられました。
とりさんのパッショネイトが画面から伝わってきました。
by tooshiba (2008-11-12 11:13) 

アスランマリオ

飛行場のお話というより東松山市の開拓の歴史ヒュ-マンドキュメントですね。
調査執筆お疲れ様でした。
by アスランマリオ (2008-11-12 15:00) 

masa

素晴らしい知識ですね!
とりさんのブログにかける意気込みは
私とは全然違います。
by masa (2008-11-12 17:35) 

ジョルノ飛曹長

いいですねー。こういった歴史が好きなんですよー^^
もっとやってください。期待してます^^
プチ遺跡、プチ史跡大好き!!
by ジョルノ飛曹長 (2008-11-12 22:52) 

hiro78

満足しました~~!
益々興味がつきません。
by hiro78 (2008-11-13 00:28) 

Qoo

とりさんの飛行機・飛行場に掛ける情熱が伝わってきます
本当によく調べましたね~
脱帽です
by Qoo (2008-11-13 06:05) 

とり

皆様 コメント、nice! ありがとうございます。

■おすぷれい26さん
地元のことなので、面白くてついついやっちゃったって感じです^^;

■夢空さん
nice! ありがとうございます。

■tooshibaさん
資料に恵まれました^^

■xml_xslさん
nice! ありがとうございます。

■あんぱんち〜さん
nice! ありがとうございます。

■アスランマリオさん
>開拓の歴史
確かにそんな感じですね。
一つ一つの飛行場にこういう歴史があるんでしょうね~。

■赤と青さん
nice! ありがとうございます。

■masaさん
いいんですよ~。
正直に「呆れた」でも。(o ̄∇ ̄o)ニヤ

■miffyさん
nice! ありがとうございます。

■そらまめさん
nice! ありがとうございます。

■ジョルノ飛曹長殿
了解であります。
実は、今回の松山ほどの記事の量にはならないのですが、まだいくつか作りかけの記事があります。

■hiro78さん
ありがとうございます。
hiro78さんも歴史お好きですか。

■Qooさん
学生時代は歴史大っ嫌いだったのですが^^;
by とり (2008-11-13 07:01) 

OILMAN

こんにちは。
確か東松山のバイパス周辺って平地だったような記憶があるんですが、そういう場所だからこそ飛行場のプランが上がったのでしょうね。
by OILMAN (2008-11-13 16:38) 

まめ助の母

ジョンソン基地もそうですが
米軍が入ってきた所って結構賑やかだったと聞きます。
あと、洋式のおトイレの一般普及も早かったと…
松山もそうだったのかしら?

今回は身近な場所でしかも近く訪れるので
ちょっと嬉しかったです、なんかワクワク!
ちなみに去年の今頃は飛行場だったであろう道を
走ってましたから…もっと早く知っていたら
寄り道して帰ってこなかったかも…
by まめ助の母 (2008-11-13 22:00) 

an-kazu

勉強になりました、ありがとうございますm(_ _)m
by an-kazu (2008-11-14 00:33) 

とり

■ぴーすけ君さん
nice! ありがとうございます。

■takemoviesさん
nice! ありがとうございます。

■OILMANさん こんにちは。
確かにこの辺りは平らですね~。
飛行場造るにはうってつけです。

■まめ助の母さん
>賑やか
そうなのですか、松山は・・・駐留は短期間だったみたいですけど、どうだったんでしょうか。
Σ(゚Д゚;) 帰ってこなかったんデスカ?

■an-kazuさん
いえいえこちらこそ。m(_ _)m
by とり (2008-11-14 06:22) 

コスト

戦争後、すぐに森林公園になったんじゃなかったんですねー

>松山飛行場の形 たぶん資料は軍が持ってて、敗戦直後に軍が資料燃やしたのかもしれないですね
今では、このとりさん作成の図が貴重な資料ですね。

>農業の経験も持たずに入植 引き揚げ者ってどこも大変だったんですね。
農業経験は現代でも都会でサラリーマンしてた人が、
田舎でセカンドライフを過ごす時に問題になるそうです。
農業と田舎の生活を知らずに、田舎で農業のイメージ先行で来て右も左もわからないってのを聞いたことがあります。
老後に移住するのも、田舎にいきなりじゃなくて学生時代いたとか旅行で行ったとかならスムーズに行くのに、サラリーマンの定年になって初めてってのがあるそうです。
by コスト (2008-11-15 11:59) 

sak

いろんな歴史があるのですね。
by sak (2008-11-15 13:40) 

とり

■月夜さん
nice! ありがとうございます。

■コストさん
>すぐに森林公園
そうなんですよ~。オイラもそれがビックリでした。
>松山飛行場の形
可能な範囲でいろいろ探してみたんですが、細かいところで矛盾する部分があるんですよ。オイラなりに、「多分こうであろう」という暫定的な図です。
>イメージ先行
なんとなくのんびりやっていけるようなイメージ、確かにありますよね。相当なギャップがあるんでしょうね。

■sakさん
このシリーズ、もう少し続くのですが、足元の歴史なのに、知らないことばかりでした。お恥ずかしいです。

■くらいふさん
nice! ありがとうございます。

■ハイマンさん
nice! ありがとうございます。
by とり (2008-11-16 16:20) 

アオイクマ

大変に参考になります。
私も独自で、探しておりましたが坂戸だけは、恥ずかしながらどうにかみつけることが、できましたが他に飛行場があったとは露知らず、内容が濃く大変勉強になりました。ありがとうございます。
by アオイクマ (2012-08-03 01:17) 

とり

■アオイクマさん いらっしゃいませ~。
お越し下さりありがとうございました。
地元の方ですね。
オイラもこのところ地元の調べものはすっかりご無沙汰しております。
何か分かりましたら是非教えてくださいm(_ _)m
by とり (2012-08-17 06:07) 

森林じじ

生まれて初めてのコメントです。素晴らしい報告ですね関心いたしました。以前、唐子飛行場を調査した玉川工業高校の冊子には、飛行場の周辺に戦闘機を隠蔽する豪のような物が数箇所あった。浜松飛行場から二機戦闘機が飛来した、一機は砂利敷きの滑走路に車輪を取られ炎上、着陸出来た一機はアメリカ軍に燃やされた、との住民の言動が記述されていました。
by 森林じじ (2012-11-13 22:23) 

とり

■森林じじさん いらっしゃいませ
初めてのコメント、ありがとうございますm(_ _)m
玉川工業高校の冊子からの情報感謝致します。
記事内で記述に矛盾があるように見える戦闘機の数と取扱いについて、
森林じじさんに教えて頂いた冊子の内容と合わせて考えると、
どういう経緯だったのか、理解する助けになりますね。
貴重な情報ありがとうございましたm(_ _)m
by とり (2012-11-15 06:30) 

アギラ

こんにちは、ここ1ヶ月位、未完成と言われた松山飛行場に不時着をした機種、機数、時期が気になり現地や図書館等へ何度か足を運びました。
CD-ROMの埼玉県立玉川工業高等学校郷土研究部作製「幻の飛行場-松山飛行場」の中にはここの第232飛行場大隊補給中隊の横塚氏の証言が記録されていました。敗戦直後にさらなる抗戦のため厚木飛行場から児玉飛行場へ向かう途中の2機が寄航しそのうちの1機は滑走路の圧縮不足が原因で転倒したとありました。当時は不整地離着陸が多かったのでソフトフィールドランディングには慣れていた筈と思っていましたがこの証言で納得ができました。《しかし厚木飛行場から飛来となっていますが松山、児玉と陸軍つながりでいうと厚木でなく相模飛行場からでないかなという気がします》
「黄塵を友として」には2機には写真機が付いていたとありましたので「司偵機」だったかな?とも思います。
「部報比企第2号(滑川高等学校郷土部)」には進駐軍の通訳を務めた舊制松中の小久保教官が飛行場に不時着をした「米軍機の機体」に落書きがたくさんあり日本と異なり驚いた事が書いてありました。「私の開拓史」からの引用では格納庫の1機は年末に米軍に爆破されたともありました。これらの調査書から察するとここには日米の3機があったのではないかと思います。
今回の調査では舊制松山中學校庭にも昭和3年に不時着機の転倒事故があった事もわかりました。(松山高等学校七十年誌 等)

尚、飛行場復元図もこのCD-ROM中にありました。私の手元には簡素に描かれた陸軍の飛行場図を書き写したものがあったので見比べるとメモの方は縦の柱が太く横棒が細い十字形でした。ですがこの復元図は左側から出ている部分は私の図より太く右側から出ている部分は中心からではなく右下部分から出ていました。「黄塵を友として」の付図1(1947年)の写真は途中で切れているので分かりにくいですが左中と右下に突出部が薄く写っているようです。ここを結ぶように1000m×50~60mの滑走路の絵も復元図には描かれていました。
手元にあった別の陸軍資料にはオクタン価の異なる(87と91)2種の揮発油が松山飛行場の燃料実施計画表欄には記載されていました。その表では松山飛行場がなぜか「八街飛行場」に属していたのが気になりました。
唐子飛行場跡へ行った際、近くの都幾川にも行ってみると丸木美術館がありました。昨年、普天間基地飛来機を佐喜眞美術館の屋上から観察をしていたのですが館内にはこの丸木美術館の作品が大きく展示されていました。
今回、当時の高校生の調査パワーは凄いなと思いました。陸軍登戸研究所員で731部隊の人体実験にも関わった幹部に証言させてしまったのも長野の高校生の調査時でした。うるま市の「チャイナ陣地(国民党軍の進駐軍)」調査の方は中学生でしたが。、、、あっ長文になってしまい失礼しました。

by アギラ (2014-05-23 12:09) 

とり

■アギラさん
詳細な調査をされたのですね。頭が下がります。
CD-ROMがあるのですね!
厚木基地の徹底抗戦と、これに当児玉基地も同調したことは存じていたのですが、
ここに松山飛行場も絡んでいたとは知りませんでした(@Д@)
貴重な情報感謝です。
アギラさん仰る通り、反目する海軍ではなく、陸軍繋がりの相模からの方が自然な気がします。
ご存知と思いますが、厚木は首都圏防衛拠点基地に設定されており、終戦時も尚潤沢な戦力を有していましたよね。
十分な戦力があるからこその徹底抗戦で、そこに陸海の垣根を越えて児玉が「同調」したため、
ついでにお隣の松山も。ということなのかと勝手に想像致します。

>写真機が付いていた
オイラもこの本は目を通したはずなのですが、機種絞り込みに繋がる記述があったのですね。
見落としてました。
厚木飛行場の記事に追記しましたが、厚木には終戦時に「彩雲と紫電改で40機」残存という記録が残っていますので、
彩雲の可能性もあるかも。と思いました。

>日米の3機
これまでずっと、戦後当飛行場に残ったのは日本軍機2機だけだと思っていたのですが、
アギラさんのご説明でオイラもそう思いました。

>「八街飛行場」に属していた
八街は下志津陸軍飛行学校の分教場という位置付けと思うのですが、唐子がそこに属するのですか。
確かにどういうことかと気になりますね。
そういえば、唐子はどこの所属なのだろうと調べてみたのですが不明でした。
熊谷の御膝元ではありますが。。。

>滑走路
実は当記事を作るために図書館で調べ物をした際の資料は全て処分してしまったため、手元には何も残っておりません。
そのため折角滑走路位置についてご説明頂いたのですが、残念ながら確認のしようがありません。
国土地理院の写真だと、1946年撮影のものを閲覧することが出来ますが、
http://mapps.gsi.go.jp/contentsImageDisplay.do?specificationId=1796&isDetail=true
アギラさんのご説明からすると、復元図に描かれている滑走路は、西北西~東南東方向ということでしょうか?

佐喜眞美術館と丸木美術館の繋がりも初めて知りました。
高校生、中学生の調査パワーは本当に凄いですね。爪の垢が欲しいです。
こういう長文は大歓迎です。また色々ご教授くださいませ。
by とり (2014-05-24 16:45) 

アギラ

早速ありがとうございます。
松山飛行場復元図をお教えいただいた46年の写真に重ねてみると復元図の形が歪んでおり正確には分かりませんでしたが方位は西北西~東南東は近いのではないかと思います。残念ながらどちらの写真も滑走路は確認できないですね。
右上部に格納庫に通じる2つの半円形の誘導路は46,47年両方で確認できましたがその左隣りにある作業員宿舎や監視塔のあった区域が46年の方はなぜかよく分かりません。右下の突出部分も解り辛いですね。
そして復元図にはダミーの飛行機が格納庫の右下の方に描かれていました。
横塚氏が松山飛行場で見た飛行機は2機だけだったという証言でしたがなぜ米軍機を見ていないのだろうと少々気になっています。(マッカーサーが厚木に来るというので松山のトラックを厚木へ持って行ったので1週間留守にしていたという記述はありました。)

>熊谷の御膝元ではありますが
その表に熊谷南もありましたがこちらはやはり熊谷になっていました。ですが松山は建設途中で飛行機が1機もなかったのにすでに訓練飛行を開始していた熊谷南よりも燃料の量も種類も多かったのはなぜなのか不思議でした。そのため立ち寄った2機は給油目的かな?とも考えました。

>彩雲の可能性もあるかも
ありそうですね。

今回、舊制松山中學の事を調べていた時にグライダー訓練をしていたことが周年誌に書いてありました。以前、熊谷高校八十年誌を見た時も舊制熊谷中學でグライダー訓練をしていた事が書いてありました。
熊中の方は滑走場所が書いてあったので現在調査中ですが現在の地名には見当たりません。また埼玉へ行き調べてこようと思います。分かりましたらまたご報告を致します。
当時の舊制中學は学校行事や体育としてカリキュラムにグライダーがあったのでしょうか?全国の舊制中學がグライダー訓練をしていたとすると滑空場はかなりの数あったことになります。発掘がたいへんそうです。

by アギラ (2014-05-24 23:48) 

とり

■アギラさん
おはようございます。
地図の検証をして下さりありがとうございました。
当飛行場の滑走路は砂利敷きなのだそうで、やはり舗装滑走路と比べて見分けがつきにくいですね。
1947年の写真では早くも敷地内に開拓の跡が見られ、
当時の方々の復興にかける想いは大変なものがあったのだろうと想像致します。

>舊制中學
http://dansa.minim.ne.jp/G-8Akitsu.htm
こちらのサイトの、「② 文部省式1型プライマリーについて」
の中にアギラさんご推察の通りであることが記されております。
ただ、全ての学校が校外に滑空場を持っているわけではなく、
以前調べた際には、学校の校庭を使用しているケースも多々ありました。
http://airport1111.blog.so-net.ne.jp/kyouto-airstrip
こちらの沿革にまとめてありますが、たくさんの学校が練兵場を利用するというケースもあります。
熊中が校外の滑走場所を使用していたというのは初耳です。
分かりましたら是非教えて下さいm(_ _)m
それからオイラは鶴ヶ島市在住でして、熊谷は割と近いです。
調べ物など、何かお役に立てることがありましたら、何なりとお申し付けくださいませ。
by とり (2014-05-25 05:17) 

あるく

割り込み失礼します。
玉川工業のCDROMを県立図書館で見ました。
ですが「冊子」と内容が若干違うようなので探して
みましたが見つかりませんでした。
高校は廃校になってしまったからこれ以上は
無理みたいですね。

県立図書館も統廃合されるとか、
新しくなるとか言われていますが。
無くならないことを祈ります。



by あるく (2014-05-25 23:07) 

とり

■あるくさん 
おお、あるくさんもご覧になりましたか。
冊子とは内容が若干違うのですね。
情報ありがとうございました。
>県立図書館
そんな話があるのですか。
なくならないといいですね。
by とり (2014-05-26 04:30) 

とり

■アギラさん
中学での滑空訓練について、京都府の例ですが、資料がありましたので一応お知らせ致します。
http://lib1.kyokyo-u.ac.jp/kiyou/kiyoupdf/no110/bkue11002.pdf
by とり (2014-05-27 05:23) 

アギラ

遅くなりまして申し訳ございません。
そして貴重な情報をありがとうございました。
当方も多少ですがわかりました。
「熊谷高校80年誌(1975年)」の中に<中46回4卒同窓会だより>からの抜粋転載がありました。
「3年生全員実施ではなく1組1943年7月21日~25日、2組26日~30日の各5日間、河原松原で体操の教員がプライマリーを生徒25人が1人ずつ左前方、右前方2手に分かれゴム索を引っ張り或る程度引っ張ったところで固定索を離す。そうするとグライダーが高度3~4m距離30m位飛んだ」とありました。
そのページには松林をバックにプライマリーと数人が写った写真も添えられていました。写真のキャプションは「荒川河畔グライダー場」とありました。この「河原松山」が何処なのかを探しておりました。

Aさん(M):今は無くなってしまった松林に松脂を採りに行ったことがある。(シャボン玉液に混ぜるといい泡ができるのだそうです)
河原松山にグライダーの格納庫があったが米軍艦載機の銃撃で燃えてしまった。ここに熊谷市立商業学校(県立熊谷商業の前身:作家 森村誠一氏の母校)の滑空部?もあったそうです。

Bさん(F):1943年ごろ?近郷近在の国民学校代表が模型の小さなグライダーを作り河原松山で競技会をしたのでBさんも村の学校代表として参加したそうです。ですが小さなグライダーは自分で作ったのではなく訓導が作ってくれたプロペラの無いものを飛ばしたそうです。
80歳代前半の2人とも現在、熊谷ゴルフクラブ(秩父鉄道石原駅近く)のところが河原松山だったと言っておりました。その隣にある荒川大麻生公園に松を植えて昔のようにする運動が最近始まったそうです。
という事で熊谷の河原松山には滑空場があったそうですが、キャプションのように「荒川河畔グライダー場」と戦中に「グライダー」と言う言葉を果たして使ったのかどうか少々気になっています。

〈帰りがけに熊中教員2人が坊ちゃん(夏目漱石)と田舎教師(田山花袋)の実在モデルだったのでついでに坊ちゃんのモデル弘中氏が住んでいた裁判所近くを探してみると現在は駐車場でした。〉




by アギラ (2014-05-28 00:14) 

とり

■アギラさん
貴重な情報ありがとうございました。
熊谷ゴルフクラブのところが滑空場だったのですね。
後日お邪魔して拙ブログの飛行場リストに加えさせて頂きますm(_ _)m
戦時中に「グライダー」という言葉を使用したかどうか、確かに気になりますね。
零戦のことを当時「ゼロ戦」と表記した例もあるそうですから、
それ程頓着しない人(組織)もあったのかもしれないですね。
戦前は間違いなく「グライダー」という言葉を使用していたのですが、
戦時中は厳密に敵性語として言い換えをした人がいる一方で、そのまま「グライダー」と
いう言葉を使用する人があったかもしれません。

>実在モデル
モデルがおられたのですね!
by とり (2014-05-28 20:14) 

アギラ

こんにちは
浦和図へ行った時の資料が転がっていたのでふと見ると横塚氏が
正式名には「関東」が付くと書いて有りました。
四国と区別するためだと思うのですが。
見落としていました。

by アギラ (2014-09-17 14:53) 

とり

■アギラさん
重要な情報をありがとうございます。
早速各記事修正させて頂きます。
確認したいのですが、正式名称:「関東松山飛行場」ということで宜しいでしょうか?
by とり (2014-09-18 06:27) 

アギラ

いいと思うのですが
付くと書いてあっただけ
でしたので、、すみません。
by アギラ (2014-09-19 21:58) 

とり

■アギラさん
ご返信ありがとうございましたm(_ _)m
当ブログとしても、四国の松山と混同してしまうので、
「関東」を頭に付けさせて頂きます。ありがとうございました。
by とり (2014-09-21 07:18) 

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