SSブログ

旧陸軍高萩飛行場跡地 [├空港]

  2009年1月、2017年1月 訪問 2022/12更新  


8.png
(昭和13年11月撮影)高度約1,000米 方位NNW 距離約1,100米
7.png
1938年(昭和13年)11月調査資料添付地図 Translation No. 21, 23 December 1944, airways data; Kanto Chiho. Report No. 3-d(20), USSBS Index Section 6 (国立国会図書館ウェブサイトから転載。上2枚とも)

無題4.png
撮影年月日1947/09/08(USA M452 52) 
出典:国土地理院ウェブサイト(地理院データを加工して作成) 

埼玉県日高市にあった陸軍の「高萩飛行場」。

■防衛研究所収蔵資料:「S14.10 航空路資料 第3 其の3 関東地方飛行場及不時着陸場 水路部」

高萩陸軍飛行場(昭和13年11月調)
埼玉県入間郡高萩村大字森戸新田、同郡高麗川村(川越市の西方約10粁)
(陸軍航空士官学校飛行場)

着陸場の状況
高さ 平均水面上約60米。
広さ及形状 本飛行場は東西約1,300米、南北最大約1,300米の略正方形
地区(総面積165萬平方米)なり・着陸可能区域は周辺より内方約100米に当
る図示の如き長さ約1,100米の略正方形地区なり(付図参照)。
地表の土質 黒色壌土、一部赤土。
地面の状況 本場は雑木林地帯を飛行場として均土整地せしものにして着
陸地域の外方地区は重さ約3屯の「ローラー」を以て転圧しあり地表軟弱且稍不
整地なるも着陸区域内は重さ約8屯の「ローラー」にて転圧しあり凸凹起伏な
き平坦地なり・南西より北東に向い約1/130の下り傾斜あり・場の中央短形区域
は芝張にして其の他の区域は雑草密生す・格納庫前面に2條の「コンクリー
ト」造整備場あり・晴雨及季節に因る地面の影響なきも相当の乾燥地なり・場
の周囲に幅約2米の排水溝を設け之を開渠に導き更に小渓に注がしむ即ち場の
北東隅のものは開渠(内幅1.2米、深さ1米)の延長約350米にして面積50
米平方深さ6米の溜枡に導き更に暗渠(内径0.9米、深さ1.2米)に依り延
長500米にして北方の小渓に注ぐ、南方のものは同じく開渠(内幅0.8米、深
さ1米)に導き延長約300米にして小畔川に注がしむ。
場内の障碍物 着陸区域内にはなし。
適当なる離着陸方向 南北。
着陸上注意すべき点 場の北西側駒寺野新田付近の樹木(高さ約10乃至
15米)は近く伐採の予定なるも離着陸の際目障りと為ると言う・格納庫完成
迄は場内適当の場所に天幕張假格納庫を設置することあり着陸の際注意を要す。
施設 格納庫2(高さ約15米、間口約41米、奥行約48米)工事中にして
基礎工事のみ完成す・格納庫敷地の北方約300米及西方場の外周約250米道路
付近に高さ約30米の吹流柱あり・建築物敷地内には講堂、教官室、飛行場事務
室、門衛、自動車庫、軽油庫、高架水槽等の諸施設あり。

其の他
本場は陸軍航空士官学校(豊岡町)所属の飛行場にして現在は主として95式
3型練習機を使用し離着陸訓練中なりと言う・本記事は昭和13年11月末の現
状に就き記述せるものにして当時整地中の飛行場及建築中の格納庫あり・航空
設備未だ完備するに至らざるも飛行場完成の上漸次充実の予定なり。
 

上に貼った航空写真では、飛行場敷地東側に格納庫とコンクリート整備場がズラリと並んでますが、

この資料には、「格納庫前面に2條の「コンクリート」造整備場あり」とあります。

そして添付してある地図には、南側の2つのみ描かれています。

先ずは南側の2つが先に造られたんですね。

 

■防衛研究所収蔵資料「陸空-本土防空-48飛行場記録 内地(千島.樺太.北海道.朝鮮.台湾を含む) 昭19.4.20第1航空軍司令部」

に 1/20,000 高萩飛行場(昭和十八、七、一五) がありました。

先頭のグーグルマップはここから作図したんですが、マップの通りで飛行地区を西、中、東と三地区に分けてありました。

また、恒風:北北西(十月-四月)、南南東(五月-九月)と記されていました。

同資料の情報を以下記させて頂きます。

位置
 埼玉縣入間郡高萩村及高麗川村
積量
 総面積二,二九七,八五六平方米
  建物地帯 一〇二,六八〇平方米
  滑走地帯 二一九五,一七六平方米
地表の状況
 地盤概ね良好にして被覆草は野芝を主とし雑草混生しあり
 傾斜約一五〇〇分の一にして排水良好なるも各地区共離着陸のため
 中央部稍低下し水溜を生す
周囲の状況
 北方一五〇米に民家(駒寺野新田)あるも演習場障害なし
将来拡張の能否
 南方は斜面、東方は施設地帯にして拡張不可能なり
 西方は現有飛行場巾(一六八八米)にて一〇〇〇米の拡張可能なるも、
 民家の移転(約六〇戸)を要す
天候気象の交感
 地下水高きを以て豪雨後は離着陸に注意を要す 夏季は
 霧の発生(拂暁より〇九〇〇)多く又雷雨比較的多し
 二月下旬北風多し
格納施設
 現有格納庫一二棟あり(一七,六〇〇平方米)
飛行機掩体
 大型機用五 小型機用三
 現在構築中にして十月下旬迄に完成の予定
居住施設
 なし
交通連絡状況
 豊岡川越坂戸に至る道路は自動車の運行自在なり
 川越市には「バス」運行しあり 其の他飛行場より大飯線高萩
 駅あるも交通は比較的不便なり
其の他
 建物地帯は狭隘にして民家に近接しありて防諜及火災予
 防上適当ならざるを以て該地帯を東側(一〇〇米)に拡張を
 希望す

将来的に拡張が必要となった場合、約60戸もの民家があるものの、西側に1,000m拡張可能であること、

東側の建物地帯は100mの拡張を希望していたことが記されています。

■「日高市史 近・現代資料編」にも当飛行場の資料がありました。以下抜粋させて頂きます

旧日本陸軍高萩飛行場
正式名:陸軍航空士官学校高萩分教場
飛行場開場:昭和14年4月
東西1,800m、南北1,180m 213万㎡
地面の状況:平坦且堅硬ナリ 殆ド一面ニ張芝及雑草密生ス 降雨後ノ排水概ネ良好ナリ
目標:川越市、飯能市、東上線
障碍物:ナシ
離着陸特殊操縦法:
着陸ハ東側格納庫寄リニ於テ南北方向ヲ可トス
格納設備:格納庫 40m×50m2楝、30m×35m2棟
通信設備:高萩郵便局(電信及電話取扱)東方約700m
観測設備:ナシ
給油設備:燃料補給可能
修理設備:ナシ
宿泊設備:川越市ニ旅館数軒アリ
地方風:
1-3月間ハ北風、4-7月間ハ南東風、8月ハ東風、9-12月間ハ北東風ナリ
地方特殊ノ気象:5月頃降雹アリ 7、8月頃雷雨多シ 冬季北風強吹ス
交通関係:川越駅(東上線)ヨリ「バス」ノ便アリ
其ノ他:本場ハ陸軍航空士官学校分教場ナリ

敷地の大きさについての情報が現地の碑文と若干異なっています(後述)。

それから交通関係として川越駅が紹介されているのが不思議です。

当時既に東上線も越生線も全通しており、八高線も開通してました。

特に越生線の西大家駅から飛行場まではほんの数キロなのですが…。

川越ですら「旅館数軒アリ」という当時の事情からすると、

川越からバス利用というのが結局は無難だったのでしょうか。

 

■防衛研究所収蔵資料「本土における陸軍飛行場要覧 第一復員局(陸空 本土防空7)」

飛行場名  高萩
位 置   埼玉県入間郡高萩村
規 模   要図(南北1260~1200 東西1000)
舗 装   ナシ
付属施設
 収容施設 三〇〇名分
 格納施設 掩体 大七ヶ所 小七ヶ所
摘 要   施設軍有

先頭の航空写真の通り、格納庫と格納庫前のコンクリ舗装面がクッキリ残っていたので、

グーグルマップ上にキチンと作図して再びお邪魔したのでした。

DSC_0001.jpg
撮影地点1

上の航空写真の通りで、飛行場敷地東側には、格納庫とコンクリ舗装の駐機場が7組並んでいます。

これは北から4番目の駐機場跡地を飛行場側から見たところです。

ファミマの敷地は当時の駐機場にきっちりと収まっています。

上の写真、オレンジの線を引いた部分が駐機場跡なのですが、

不思議なほど正確に舗装面跡が杭で囲われて地割として残っていました。

DSC_0006.jpg
撮影地点2

これも飛行場側から見ています。

オレンジ線で囲ったのが駐機場跡。

この写真だとトラックに隠れて見えないんですけど、杭で囲われた敷地の先にファミマがあり、

その先のベイシア(奥の灰色と赤色の大きな建物)の辺りまで当時は駐機場で、更にその先に格納庫がありました。

DSC_0011.jpg
撮影地点3

こちらはお隣の北から5番目の駐機場跡。

こちらもやはりコンクリ舗装面だった場所が正確に民家敷地になっています。

民家にカメラを向けてしまうことになるので、なんだか構図が中途半端ですが、

画面右端のオレンジ線を引いた場所が当時のコンクリ舗装面。

1947年の航空写真で4番目と5番目を比較すると、5番目の方が数メートルだけ西にズレているのですが、

現在の地割でも、ファミマのとこの杭の境界より、こちらの民家の敷地の境界がきっちり数メートル西にズレています。

陸軍が飛行場用地を買収した後、「ここは元○○家の土地だから~」なんて考慮しつつ、

格納庫やコンクリ舗装面の場所決めをしたとは考えられません。

それでもなぜか、軍の都合で「ここと、ここ」と決めた格納庫、コンクリ舗装面の地割が、

(ほんの一部ですが)現在まで正確に残っている。

どういう経緯を経てここが戦後の境界線として確定したんでしょうか。

DSC_0009.jpg
撮影地点4

ファミマとベイシアの間の道路。

飛行場があった当時、ここが格納庫前のコンクリ舗装面同士をつなぐ通路でした。

現在も(幅が少々狭くなりましまたが)道路として残っています。

DSC_0016.jpg

DSC_0018.jpg
撮影地点5

飛行場敷地北側。

この周辺の山林に飛行機を隠していたのだそうです。


D20_0007.jpg

赤マーカー地点。

高萩北公民館の道路に面した一角に上のようなものがあります。

D20_0005.jpg

高萩飛行場跡(全文)
所在地 日高市大字旭ヶ丘全域 萩飛行場は、昭和十三年十二月、陸軍航空士官学校(現在の入間市)の高萩分教場として使用開始された。
当時この地は、北海道などからの入植者によって山林が農地として開拓されていたが、日華事変の拡大に伴い軍用地として接収された。
飛行場の規模は、東西一七〇〇メートル、南北一三〇〇メートル、面積は約二二〇ヘクタールで、飛行場設備の主な建物としては、格納庫四庫(内二庫は鉄骨)、本部舎(二階建)、兵舎二棟(二階建)、機材庫、車庫、庶務事務所、講堂、将校下士官用控室、炊事用建物などであった。
飛行練習は、主に通称赤トンボと呼ばれていた九五式練習機などを用いて行われた。
昭和二十年二月まで、航空士官学校生徒の飛行練習場として、大きな役割を果たした。飛行場としては、同年八月の終戦まで使用された。
平成八年一月 高市教育委員会

D20_0011.jpg

紫マーカー地点。

少し離れた神社にも碑がありました。

D20_0013.jpg

碑文(全文)
昭和二十年終戦を迎えるや、首都衛星基地であった旧陸軍高萩飛行場跡へ十二月一日国の緊急開拓政策のもとに県下でもいち早く高萩開拓団を組織し、鍬入れを行った。
当地は旧高萩村及び旧高麗川村の一部に亙り、総面積は出耕作地も含め六十余万坪に及び主として復員軍人、引揚者、近隣の二三男の百二十四名で構成し、字を旭ヶ丘と命名した。
当時世相は混沌とし、農業経験の未知に加えて食糧物資は極度に不足し、更に打続く各種災害等に依り、経営基盤の弱い入植者の生活は困窮を極めた。
然し同士一同克くその苦難に耐え、昭和二十二年より国の助成による住宅の建設も始り、二十三年秋には待望の点灯工事を了え、同年農協法の施行により開拓団を旭ヶ丘開拓農協に改組し、苦難の中にも一歩一歩建設への段階を進め、二十七年国の開拓完成検査に全員合格した。
更に心の據り処として部落中央に旭ヶ丘神社を建立し、幹線道路も逐次整備を進め、四十年代に入り蔬菜を中心とする営農も漸くその基礎を固めることが出来た。
昭和四十四年開拓農協を解散し各自一本立ちの農家として再出発出来たのも、一重に各行政当局、各種諸団体、諸先輩の尽力指導の賜であることは勿論、入植者一同の団結と努力の成果であろう。
茲に当地の足跡を後世に伝えると共に旭ヶ丘の将来の繁栄を希念しこの碑を建てる 昭和五十三年十二月一日

D20_0016.jpg

当時飛行場の本部舎内にあった気象室で天気図の作成をしていた方が

現在当地区の地主会長を務めておられ、この記念碑を建立したのだそうです。

ちなみに2008年10月に建てられたばかり。

D20_0019.jpg

この碑文は北公民館に設置されている説明版の文章とまったく同じで、

文末の「平成八年~」の部分が、「所在地 日高市大字旭ヶ丘全域 及び一部森戸新田を含む」

になっていました。

D20_0023.jpg

D20_0022.jpg

神社周辺はこんな感じ。

オルソ高萩飛行場全図.PNG
写真:「国土画像情報(オルソ化空中写真) 国土交通省」
撮影年度:1974年 飯能、川越南部、越生 編集・加工:「空港探索・とり」

こちらは1974年当時の写真です。

現在と比べるとまだまだ建物が少ないですね。

こうして直線道路が整備されている様子を見ると、「どの道路が滑走路跡だろうか」

などと考えてしまうのですが、特定の場所を舗装して滑走路としていたのではなく、

格納庫や本部舎などを除き一面芝生の平地だったそうで、

道路が整備されたのは戦後だそうです。

 

「旧陸軍坂戸飛行場の足跡」の中に、昭和16年に高萩飛行場に整備士として入職した宮崎氏の話が載せられていて、

宮崎氏によりますと、「高萩は重爆の飛行場でしたから、生徒に操縦を教えていました」

とありました。


        埼玉県・旧陸軍高萩飛行場跡地       

旧陸軍高萩飛行場(陸軍航空士官学校高萩分教場) データ
設置管理者:日本帝国陸軍
所在地:埼玉県入間郡旧高萩村及び旧高麗川村(現:埼玉県日高市旭ヶ丘)
座 標:N35°54′46″E139°21′50″
標 高:60m
面 積:220ha(南北1260m~1200m 東西1000m)
滑走路:飛行場内は全面芝生で舗装された滑走路なし
    気象条件により石灰粉でラインを引き、離着陸の目安として使用
(座標はグーグルアースから) 

沿革
1930年    北海道などからの入植者によって山林が農地として開拓される
1938年12月 日華事変の拡大に伴い軍用地として接収
       陸軍航空士官学校(現在の入間市)の高萩分教場として使用開始
1945年02月 2月まで航空士官学校生徒の飛行練習場として使用される
1945年08月 終戦により飛行場としての使用停止
1945年12月 飛行場跡地の開拓が始まる
1978年12月 1日 神社に碑建立
1996年01月 公民館に碑建立
2008年10月 神社に碑建立(二つ目)

関連サイト
埼玉ニュース   

この記事の資料:
「日高市史 近・現代資料編」
旧陸軍坂戸飛行場の足跡
現地の碑文
防衛研究所収蔵資料:「陸軍航空基地資料(本州、九州)昭19.20 水路部」に坂戸飛行場と共に図あり
防衛研究所収蔵資料:「S14.10 航空路資料 第3 其の3 関東地方飛行場及不時着陸場 水路部」
防衛研究所収蔵資料「本土における陸軍飛行場要覧 第一復員局(陸空 本土防空7)」
防衛研究所収蔵資料「陸空-本土防空-48飛行場記録 内地(千島.樺太.北海道.朝鮮.台湾を含む) 昭19.4.20第1航空軍司令部」


コメント(28)  トラックバック(0) 
共通テーマ:趣味・カルチャー

コメント 28

tooshiba

うーん、恐らく現在と違って坂戸や鶴ヶ島あたりでは商用施設が不十分だったからでしょう。
川越線が開業する(昭和15年?)までは、現在の県道川越日高線が開通していればそれを走るバス路線がデフォルトだった可能性は高いです。

現在の国道407号線は、武蔵高萩駅から入間基地(河原町)までを昭和天皇の行幸に際して突貫整備された。という認識ですがどうでしょうか?
by tooshiba (2009-01-31 12:47) 

CARRERA

こんな近くに昔は飛行場があったとは知りませんでした。
でも戦争用なので微妙ですが・・・

ロールオーバー画像バッチリですね!
by CARRERA (2009-01-31 13:18) 

masa

様々な碑があってわかりやすいですね!
by masa (2009-01-31 15:07) 

コスト

>飛行場敷地 これは見事ですね^^わかりやすい画像加工もGJ!
グーグルアース以外に国土画像情報(オルソ化空中写真)というのもあるんですね、比較しやすくてなかなか貴重な資料です。

>どの道路が滑走路跡 僕も滑走路はどこだ?って探しました^^;
やはり戦争中は接収の一言で土地確保されてしまう時代だったんですね。


by コスト (2009-01-31 20:59) 

an-kazu

なるほど、明らかに周囲とは異なっていますね(^_-)
by an-kazu (2009-01-31 21:23) 

まめ助の母

ここも車で走ったことあります。
そして私の妹はほぼ毎日通勤に使ってますね
すぐ近くにおります(^_^)
by まめ助の母 (2009-01-31 22:23) 

とり

皆様 コメント、nice! ありがとうございます。

■xml_xslさん
nice! ありがとうございます。

■tooshibaさん
>商用施設が不十分だったから
川越ですら、ですからね。そうだったのかもしれませんね~。
>突貫整備
この記事を作るため資料集めをしていて行幸のことは出てきたのですが、突貫工事のことは知りませんでした。
ググっても特にヒットしませんでしたが、どうなんでしょうか?
tooshibaさんの元地元ですよね?

■hiro78さん
nice! ありがとうございます。

■CARRERAさん
仰るとおりこれが民間の飛行場として残っていればよかったのですが・・・。
ロールオーバーありがとうございました。
これからも使わせて頂きます!m(_ _)m

■masaさん
masaさんも古の場所を巡っておられますのでご存知と思いますが、
こういう碑をキチンと整備している所とない所で差が激しいです^^;

■コストさん
>国土画像情報
「出所を明記すれば、どう加工して利用しても構わない」という国の太っ腹なサービスです。
数十年前の鮮明な写真がありますので、こういう調べ物には貴重な資料ですね。
>接収の一言
そうですね~。近々アップ予定の坂戸飛行場もすごいですよ。

■あんぱんち?さん
nice! ありがとうございます。

■こけもも:さん
nice! ありがとうございます。

■夢空さん
nice! ありがとうございます。

■kakasisannpoさん
nice! ありがとうございます。

■momo_chanさん
nice! ありがとうございます。

■an-kazuさん
本当ですよね~。
なんだかここだけ上から落ちて来たみたいな唐突な道路の向きになってますね。

■まめ助の母さん
ここはまめ助の母さんのお膝元ですね^^
妹さんもお近くなのですね^^

■ぴーすけ君さん
nice! ありがとうございます。
by とり (2009-02-01 07:50) 

sak

鍬入れって...
そうですね。昔は人の手で土地を開墾していたのですよね。

by sak (2009-02-01 09:33) 

セバスちゃん

歴史に触れる、歴史を知る、いい感じですね。
勉強になります。
by セバスちゃん (2009-02-01 12:49) 

五空

今度萩へ遊びに行こうと思って、偶然、高萩ってのを見つけました。
で、高萩ってどこなんかしら~って思ってたら、とりさんが記事にしてた(笑)
はめ込みみたいな、面白い航空写真ですね。
by 五空 (2009-02-01 19:03) 

ジョルノ飛曹長

このあたりの基地の記録って戦史なんかでもなかなか出てこないんで、情報が少ないですよねー。
場所的に重要な航空基地であったことは間違いないと思いますが。^^
by ジョルノ飛曹長 (2009-02-01 23:41) 

とり

■赤と青さん
nice! ありがとうございます。

■miffyさん
nice! ありがとうございます。

■カンクリさん
nice! ありがとうございます。

■sakさん
sakさんのご指摘で気が付きました。
先人の大変なご苦労があったわけですね。

■Krauseさん
nice! ありがとうございます。

■takemoviesさん
nice! ありがとうございます。

■セバスちゃんさん
オイラも勉強になりました。

■五空さん
おお、すごい偶然ですね^^
萩、いいところですよね~。
>はめ込み
地図で見てるとこの辺だけ浮いてます。

■OILMANさん
nice! ありがとうございます。

■picaさん
nice! ありがとうございます。

■ジョルノ飛曹長殿
やっぱり情報少ない部類に入るのですね~。
>場所的に
児玉より帝都に近いですからね^^
by とり (2009-02-02 07:02) 

Qoo

マウスオーバーの技すごい
あれやってみたいな~
よし! 覚えよう 出来るかな(^^)
by Qoo (2009-02-03 12:25) 

とり

■Qooさん
覚えなくてもいいんです。
ていうかオイラには覚えるなんて絶対無理。
プログラムをコピペすればいいんですよ^^

■ハイマンさん
nice! ありがとうございます。
by とり (2009-02-04 07:09) 

とり

アスランマリオさん
nice! ありがとうございます。
by とり (2009-02-07 07:46) 

Mr.!?

中東京変電所の北側の山林に大きな土手の跡があり、空襲に備えて格納庫からそこへ飛行機を隠したそうです。飛行機の防空壕のようなものです。飛行機を移動させてカモフラージュのシートをかけたそうです。その穴(土手の跡)はいまは痕跡しかありません。不法投棄の温床となり、今はゴミの山です。
時期は全く不明ですが、戦時中1機のゼロ戦が迷い込んで不時着したことがあったそうです。海軍機であるゼロ戦の銀色がものすごく綺麗でカッコ良かったとの逸話があります。パイロットが我が家(当然生まれていませんが)で夕食を食べたそうです。
by Mr.!? (2010-08-06 22:23) 

とり

■Mr.!?さん いらっしゃいませ^^
>夕食
すごいお話が残っているのですね。(@_@)
ここは本土爆撃などまだの比較的早い時期に作られましたから、格納庫からわざわざ近隣の土手に移動させた。というのはきっと末期になってからのことなのでしょうね。
貴重なお話をどうもありがとうございましたm(_ _)m
by とり (2010-08-07 17:45) 

通りすがり

外れの寺社に当時のコンクリート舗装とハンガーの土台が残っています。
また現在駐車場に成っている辺りに高射砲が埋めてあるとの事です。
by 通りすがり (2010-08-15 16:29) 

通りすがり

開栄寺ですね。
お寺から旭が丘病院の列がハンガーエリアだったそうです。
飛行場自体は戦後引揚者の入植地になり今が有るようです。
by 通りすがり (2010-08-15 16:35) 

とり

■通りすがりさん いらっしゃいませ^^
貴重な情報ありがとうございましたm(_ _)m
今度行ってみます。
by とり (2010-08-15 18:31) 

日高市平和委員会

文中コメントのあった境界線の件ですが、日高図書館蔵の資料「開拓50周年記念誌、風雪に耐えて 日高町高麗川新宿地区」という記念誌が保管されています。この資料の中に開設前後の地図が挟み込まれていますので参考になると思います。総ページ数70のこの記念誌まえがきには「・・・。昭和9年を中心に20数名の方々が、遠く北海道より青雲の志を抱き、この地に理想郷を築き上げるべく営々辛苦を重ね、開拓に励み立派な農業用地として、又第二の故郷としてこの地に根をおろし、・・・・」と記しているように、日高市の大部分は開拓者たちの手によって切り開かれて来たことが窺い知れます。高萩飛行場の所在地であるが、昭和12年に開拓地を陸軍が接収してできました。
この記念誌に昭和10年開墾入植図、が附属している。また昭和11~20年新宿区全図と昭和21~30年新宿区全図の、つごう3枚の地図が附属している。1枚目の図には昭和16年軍用地拡張線と書かれた点線が引かれており、2枚目の図にはその線より東側が「軍用高萩飛行場」と記され真っ白になている。しかし一枚目にはきれいな升目が続き、おそらくそこに入植していた方のお名前であろう川口金次ほか8名の方のお名前が記されている。点線は2枚目、3枚目の図では一本の道路になっている。
現在の旭が丘という地名は国道407号線に沿った西側の地区で高麗川駅の東側です。昭和3年ごろに埼玉県耕地課の指導で土地整理組合がこの地域一体に発足し、その整理組合の構成員の一つ、町屋長久保という地域が昭和9年に高萩村ほか二か村耕地整理組合と改称、3か村にまたがる山林約800町歩の大開墾事業が発足したと記されている。昭和9年に北海道旭川周辺から約30戸をが集団移住し、高麗川村分の山林約150町歩の開拓を開始した。この800町歩の中に第1期180町歩、第二期70町歩が陸軍に買収されたのである。(前出、風雪に耐えて、年表より)後に高萩飛行場へと変貌させられている。年表と共に座談会も収録されているが、その中で高萩飛行場と昭和天皇行幸に触れたくだりがあるのでご紹介します。小見出しは原文のまま、発言者のご氏名はイニシアルとした。

強制的な家の移転 
編集部「飛行場ができたのは、強制的なんですか」、
U「軍の力が強く、命令的で無条件ですね」、
F「飛行場ができた時は、閉口しました。家を70mかみに持っていけと言われた。渡辺さん(だいぶ年配の人なんだけど)に頼みました。補償を貰わないと、3回程行きました。可愛そうだからと言って、返事をしてくれました」

天皇陛下の行幸 
編集部「天皇陛下の行幸の時、皆さんはどうなさいましたか」、
I「昭和13~14年ごろだと思うが、盛装して、旗を持って送りました。内野さんのおじいさんは、紋付き着て、汽車が通り過ぎる迄、頭は上げず見なかったね」、
U「うちの親父なんか、根が有難がる方だから、はるかかなに行ってしまうまで、頭は上げないから・・・・。高麗川駅まで、お召し列車で来られた」、
I「15年7月に川越線(当時)が開通して、高萩までお召し列車が行くようになった」、
U「白線が引いてあって、機関士は、何日も前から練習をしたらしいんです。畑や田んぼに、こやしなんか車が通って見えるところに置いてはいけないとか、見回る人が、口うるさく言った。陛下が見える道路は、枝道でも、ちゃんと舗装されていた。ほんとに言いわけ程度だけど」

以上です。この飛行場の用地買収、開設を指示した陸軍省の資料が現存しています。もし興味がおありでしたら「アジア歴史センター」に原版が置いてありますので、高萩飛行場 で検索をかけると10点ほどヒットします。
by 日高市平和委員会 (2010-08-17 16:49) 

とり

■日高市平和委員会様 いらっしゃいませ。
返事が遅れてしまい申し訳ありません。
詳しい情報をありがとうございましたm(_ _)m
いつか教えて頂いた資料を調べてみようと思います。感謝致します。
by とり (2010-08-24 20:54) 

日高市平和委員会

お役に立ちそうでなによりです。このページで話題になった地主会長さんが2010年3月に自叙伝を出版しました。本の名前は「わが青春の記録」、副題が「満州国と在満回顧録」です。この中に高萩飛行場の飛行機を武蔵高萩駅から貨車に載せて港まで運び、そこから輸送船で海を渡り、陸揚げ後はまた貨車により満州に飛行機を送った時の様子や、満州の飛行場で組み立てたときの様子、またご自身が軍属(通信の仕事に従事)になったいきさつなどが綴られています。飯能市立図書館の蔵書になりましたので、借りて読むことができます。この方は日高市では郷土史家として有名な方で、市長さんも一目置いている方です。
by 日高市平和委員会 (2010-11-04 19:50) 

とり

■日高市平和委員会様
そんなすごい体験をした方だったのですか。
著書の情報もありがとうございます。m(_ _)m
by とり (2010-11-16 17:29) 

少年飛行兵

終戦時には第一航空軍第十二飛行団第一、及び第十一戦隊(どちらも戦闘)が配属されていたと思われます。帝都防衛の任務に就いていたと考えると少なくとも24機ほどの戦闘機が配備されていたのではないのでしょうか。近隣の児玉飛行場は第九十八戦隊の四式爆撃機が配属され、海軍との共同作戦にて雷撃部隊として君臨していました。
by 少年飛行兵 (2017-08-03 21:51) 

とり

■少年飛行兵さん
返事が遅くなってしまって申し訳ありませんm(_ _)m
貴重なコメントありがとうございました。
by とり (2017-08-12 07:59) 

PAL

飛行場最南端の直線道路を407号線への近道としてよく通っていました。(2000年代前半から)飛行場の南側一帯は、工業団地と表記があり、何年も空地でした。NECの工場や製茶機械工場(現在のセブンイレブン前)などは、飛行場外にあり、工業団地に全く人気が無かった事が伺えます。深夜などは、最西端にある墓地の裸電球だけが点灯する、真っ暗闇のちょっと不気味な道路でした。それが2000年代中盤に住宅が建ち始め、数年の内に全ての土地が住宅で埋め尽くされました。
ここが元飛行場だったとは露知らず、2016年に川越の叔母が亡くなった時に、お寺の方から飛行場だったと聞きました。
この辺だけが直線道路で、区画を一歩出ると、昔ながらの曲線道路があり、とても不思議な場所でしたが、元飛行場と聞いて、疑問が解けました。
以前、墓地の近くの工業団地区画に一軒だけ住宅があって、クリスマスになるとネオンサインが庭いっぱいに配置され、きれいでした。そのネオンも、今はありません。
by PAL (2022-08-07 14:31) 

とり

■PALさん
時代と共に今もどんどん変わり続けているのですね。
貴重なお話を寄せてくださり、ありがとうございました。
by とり (2022-08-08 04:40) 

コメントを書く

お名前:
URL:
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。

トラックバック 0