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青森県立三沢航空科学館 [■旅行記]

  2004年9月、2023年6月訪問 2023/6更新  


三沢空港東側に隣接する「青森県立三沢航空科学館」。

すごく立派な建物。

施設前には太平洋横断成功者の記念碑。

「太平洋無着陸横断飛行に挑戦した飛行士の勇気とこれを支えた三沢村民の遺徳を讃える。2004年3月 三沢市長」

と刻まれており、2人ともリンゴを持ってました。

入ってすぐの所には「航研・真紅の翼」の復元機が。

紹介ビデオを見ると,この機体は当時フランスが持っていた周回速度,距離記録を塗り替えたのだそうです。

それまで航空機の開発競争は,常に大西洋をはさんで行われており,

日本が航空の分野で世界記録を達成したのは,これが最初のことでした。

1938年(昭和13年)5月13日(金)に離陸したこの機は記録を出すため,通常の風防がありません。

また主輪が完全引き込み式で,これはこの形式の飛行機としては世界初だそうです。

記録を作るために3人の飛行士が乗り込み,約3日間操縦して記録を達成。

飛行中は各部の故障が次々に発生したが,手の空いている者が修理をし,飛行を続けました。

千葉県の木更津飛行場を離陸し,周回コースは,

千葉県犬吠崎~群馬県太田市の中島飛行機本館上空~神奈川県平塚海岸の航空灯台を回る,一周約400キロのコース。

「なんでここに航研機があるの?」と不思議にだったのですが,

機体の設計者である,かの木村秀夫氏,それに製造者,操縦士はそろって青森県人とのことで,

なるほどこの機は青森県と深いつながりがあるのです。

展示機の製作に当たっては,できる限り当時の材料,製造方法を踏襲して2年をかけて完成させたのだそうです。

これだけ大きな機体であるにもかかわらず,主翼,胴体表面は羽布で覆われている。

すっかり紹介ビデオに見入っていると,かなりお年を召した小柄なおじいさんがやって来て,

「これ,航研機ですか?」と尋ねられた。

ビデオで設計者,製造者,操縦士の名前が紹介されると,何度もうなずいていた。

今から思えば,当時のことなどご存知のようだったので,いろいろ聞いてみればよかった。

YS‐11のコクピット。

中に入れないよう,手前に柵あり。

各計器版のクローズアップが撮りたくてデジカメを柵の中に伸ばしたら,警報が鳴ってしまい,

慌てて腕を引っ込めましたΣ(゚Д゚;)

YS‐11のキャビン。

館内には展示機が数機ありますが,体験施設の充実した科学館という感じで,飛行機一色ではありませんでした。

また,体験施設にはこわそうな女性が必ず張り付いていて,小心者のオイラにはとても近づく気になれなかった。

映画上映の告知があったが,それまで少し時間があったので,張り出されている来館者の感想を眺めることに。

「従業員の態度が悪い」という酷評が随分貼られており、しかしその反面「とても良い」という意見も。

また,「所沢の施設と同じくらい良い」という意見や,「入館料が高い」とか,

「年間パスポートが欲しい」という意見も多数。

オイラももし地元にこんな施設があったらパスポートが欲しい。

時間になったのでAVホールに入るが,結局オイラの貸切状態でした。

映画は2本立てで,両方とも太平洋無着陸横断に関するものでした(映画の内容はこの後別の記事で書きます)。

敷地の庭は非常に広く、そしてきれい。

子供たちが青々とした芝を走りながらあげる歓声がのどか。

この庭に実機が数機展示されていました。

ロッキードP‐3。

P‐3というと対潜哨戒機だけど、この機は米海軍第7艦隊司令官が移動用に使用していた珍しいもので、

仕様が異なるらしい。

 ブルーインパルス仕様のT‐2

日本語の警告。

前から見た風防のアップ。

ずらりと並ぶ展示機のしっぽ。

手前から順番にF‐104、T‐2、ブルーインパルス仕様のT-2、F‐1、P‐3。

再び建物内に戻り,エレベーターで展望台に上がってみた。

非常に見晴らしが良いが、残念ながら三沢飛行場の滑走路は防風林に隠れ、見えない。

これも展望台で撮った写真。

こちら側の窓からは三沢基地が見えるはずなんですが,スモークガラスになっていて,

「基地撮影ご遠慮ください」と書かれてました。

正面のガラスからは滑走路が見えず,こちら側はスモークガラスで基地が見えない。トホホ。

 


(以下2023年6月撮影)

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タイドウォーター石油(スポンサー企業)のエンジンオイル「ビードル」(上の黒缶)が機名の由来なんだそうです。

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これだけの量のガソリン(ドラム缶18本分)を積んで飛んだの図。

よく飛べましたね(@Д@)

1931年(昭和6年)に三沢・淋代海岸から離陸し、太平洋無着陸横断飛行に成功したミス・ビードル号の復元機です。ミス・ビードル号は、アメリカ・べランカ社製の単発5人乗りの旅客機の後部座席と機体底部を燃料タンクに改造して
長距離飛行に備え、太平洋無着陸横断に挑戦しました。約3,600ℓ(ドラム缶18本分)の燃料を積んだ機体は、1,800m滑走して地上を離れました。
また離陸後、飛行中の空気抵抗を減らして燃料の節約を図るために、車輪を切りはなせる構造になっていました。約41時間後、ワシントン州ウェナッチバレーに胴体着陸して、太平洋無着陸横断飛行を成し遂げました。

BELLANCA CH300 諸元
全幅 551inch/14.22m
全長 331inch/8.420m
高さ 133inch/3.376m
翼面積 25.4㎡
エンジン P&W Wasp 450HP
プロペラ 調節ピッチ

ミス・ビードル号 年表
1927年(昭和2年)5月20日~21日 リンドバーグによる大西洋横断飛行
1931年(昭和6年)4月20日 朝日新聞が太平洋無着陸横断飛行の初の成功者に懸賞金をだすことを発表
 8月6日 ミス・ビードル号が立川飛行場に飛来
 9月29日 ミス・ビードル号、淋代海岸へ
 10月4日~5日 ミス・ビードル号、世界初の太平洋無着陸横断飛行に成功

1927年のリンドバーグによる大西洋横断飛行の成功に刺激され、太平洋無着陸横断飛行レースが始まりました。当時日本には、重い飛行機が離陸できる飛行場がなかったため、粘土と砂鉄の混じった固い砂浜の淋代海岸(当時三沢村)が最適であったことと、最短の飛行コースとなる大圏コースがとれることから出発地として選ばれました。ミス・ビードル号で世界早まわり一周飛行に挑戦中のパングボーンとハーンドンが、シベリアの悪天候のため記録更新が不可能となったため、太平洋無着陸横断飛行に挑戦し、見事に成功しました。

クライド・パングポーン(1896-1958)
陸軍で飛行技術を習得。巡回飛行団で、アメリカ各地を巡り11年間に15万人を運んだり、曲芸飛行を見せるゲイツ飛行サーカス団のベテランパイロットでした。パイロットで豊かな資金源を持つハーンドンに世界一周の挑戦を持ち掛けました。太平洋無着陸横断飛行の記録達成後もパイロットとして活躍し、62歳で病気のため亡くなりました。

ヒュー・ハーンドン(1904-1954)
パリの飛行学校に留学し、飛行技術を習得。ゲイツ飛行サーカス団でパングボーンと出会いました。世界一周の計画をパングボーンから聞き、資金をハーンドンが全額出資し、世界一周をめざしました。太平洋無着陸横断飛行の記録
達成後、航空会社のパイロットとなり、エジプトのカイロ支店長在職中に50歳で亡くなりました。

1927年のリンドバーグによる大西洋横断飛行の成功に刺激され、翌年、アメリカ・タコマ市の材木商ジョン・バンフが、太平洋無着陸横断飛行に懸賞金を付けたことから、太平洋無着陸横断飛行レースが始まりました。
朝日新聞社は、1931年(昭和6年)4月20日、太平洋無着陸横断飛行(本州とカナダのバンクーバーより南の間を飛行)の最初の成功者に、日本人であれば10万円、外国人であれば5万円の懸賞金を出すことを発表しました。当時の日本には、横断飛行のために多量のガソリンを積んだ重い飛行機が離陸できる飛行場がなかったため、粘土と砂鉄の混じった固い砂浜の淋代海岸(当時三沢村)が最適であったことと、最短の飛行コースとなる大圏コースがとれることから出発地として選ばれました。
「タコマ市号」「パシフィック号」「クラシナマッジ号」などが、太平洋横断飛行に挑みましたが、失敗に終わりました。そのつど、村人たちは無償で、砂浜の滑走路の整備や宿舎の提供をしたりして、横断飛行が成功するまで、挑戦者たちを営々として援助しました。

1931年(昭和6年)8月6日、アメリカ人クライド・パングポーンとヒュー・ハーンドンの乗った、べランカ式スカイロケット機「ミス・ビードル号」が、立川飛行場に飛来しました。二人は、世界早まわり一周飛行に挑戦中でしたが、シベリアの悪天候で記録更新が不可能となり、太平洋横断飛行に賞金が出ていることを知り、これに挑戦することにしました。しかし、日本への入国許可を取らずに飛来したため、スパイ容疑で警察に拘束されてしまいます。折しも国賓待遇で来日していたリンドバーグとパングボーンが旧知の間柄であったのが幸いして釈放され、横断飛行に挑
むことができるようになりました。パングボーンとハーンドンは、機体に改造を施し、太平洋横断飛行に必要な準備をして、9月29日淋代海岸へ向かいました。10月4日午前7時1分、ミス・ビードル号は、重々しく大地を離れ、太平洋上へ飛び立ちました。

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奈良原式2号機と白戸式旭号(白戸氏は青森県金木町生まれ )

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航研機

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B-29やコニーに使われたエンジン

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2003年に初飛行したのでもう20年も前の機体なんですが、非常に美しい状態に保たれてました。

 

 

関連サイト:
青森県立三沢航空科学館


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コメント 2

イングランドのチャリーおじさん

航空科学館の屋外展示場に展示されている「Fー104 」の隣は、三菱高等練習機「T-2」ではないでしょうか、確かこれの派生型として「F-1支援戦闘機」はありましたけれど
by イングランドのチャリーおじさん (2005-12-31 11:02) 

とり

イングランドのチャリーおじさん 、いらっしゃいませ~ヽ(*´ヮ`)ノ
航空科学館のHPで確認したところ、オイラがF-1と書いたのは、手前から
T-2,T-2,F-1 でした。
ご指摘ありがとうございました。
by とり (2006-01-02 07:53) 

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