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淋代海岸滑走路跡地 [├空港]

    2004年9月、2023年6月訪問 2023/6更新  


無題.png
撮影年月日1947/11/11(昭22)(USA M638 42) 
出典:国土地理院ウェブサイト(地理院データを加工して作成)


太平洋無着陸横断の地,青森県淋代海岸。

1930年~1932年にかけて、ここで太平洋横断の挑戦が繰り広げられました。

この場所が選定されたいきさつについて、 「ミサワ航空史」(2015年1月31日発行)17pにこう記されていました。

飛行場の選定
 元海軍航空隊附少佐三本木町出身太田常利氏は、三本木付近の平原から淋代海岸一帯の太平洋無着陸飛行の発進向け飛行場として、「タコマ号」から「ミス・ビードル号」までの最適地を紹介した人物であった。
 同氏が木ノ下平を物色したのは、朝日新聞の木ノ下飛行士から「タコマ市号」を飛ばそうとするならば、日本の中では先ず三本木付近の平原であるとの折り紙附きの話になって、地元出身のこともあり、この地に出向くことになった。
 このとき飛行場を物色中の飛行士ゲッテイ氏も、取るものもとりあえず突然飛び出してきたそうで、地図一枚も持たず仕事着のままでやってきたが、実に熱心なものであったという。一番先に見た一万平は起伏があり、淋代平は灌木が多く、木ノ下平は起伏が激しく飛行に適せず、市川海岸に八戸の八太郎崎(三戸郡下長苗代村地内)まで実に長いコースをもっているが、地盤が軟弱だと失望していた。しかし、細谷と淋代間の海岸を見てゲッテイ氏非常に激賞していた。ここは波打ち際に、陸から流れる粘土のため非常に固くなっていたので、僅かにローラーをもって地ならしするだけで理想的な飛行場になるというのであった。また、気流の関係も子細に研究していたが、離陸時には支障なかった。
 昭和8年3月3日に三陸大津波があったが、青森測候所の発表では三川目では波の高さが6m、三川目と四川目で死者26名となっている。この津波のあった以前の淋代海岸は、現在のような防風林もなく、今よりも波打ち際が幅広くずっと広大な平坦な、しかも砂鉄を含んだ砂原は、コンクリートを思わせるくらい堅くしまった状況であったといわれている。太田貞利海軍中佐の調査でも、ここが選ばれたというのは、このあたりが大きく注目されたところであったと思われる。いずれにしても、現在の淋代には当時の面影は残っていないのである。

「ミサワ航空史」
三沢に飛来した航空機たち 4p
サビシロエアポート
 このように様々な太平洋無着陸横断飛行の挑戦に使用された三沢の海岸(細谷~淋代間)の砂には、大量に砂鉄が混ざっており、飛行機の重量に耐える強度を有していたことが幸いしたと言えます。(現在は防風林として松が植えられたことにより当時とは大きく変貌しています。)
 三沢村長は、ここにエアポートを造ることを計画しました。(当時、電通、東京日々新聞、東京朝日新聞などの飛行機は東京から北海道に向けて飛行する際の中継飛行場を求めていました。)
 三沢村長の指揮の元、青年団からおばあちゃんまでが手弁当持参で"奉仕作業"による滑走路造りが進められ、長さ100メートルの松板(一枚が長さ3メートル、厚さ約4.5センチメートル)を敷き詰めた滑走路を作り上げ"サビシロエアポート"と命名しました。
 完成した"サビシロエアポート"には以後昭和7年(1932年)頃まで取材のための飛行機が度々飛来したと記録にあります。(飛行機は日増しに進歩し航続力の大きな機体が使用されたため徐々に使われなくなったようです。)
 かくして、三沢と初期の飛行機との関わりは主に淋代海岸地区に集中していたと言えます。(当航空科学館からは、わずか4キロメートル東側の位置です。)


(公式サイトから。下記リンク参照)




太平洋を翔けた人々(案内板から)

 昭和6年10月4日午前7時1分、アメリカ人クライ
ド・E・パングボーンとヒュー・ハーンドン・ジュニ
アの2名の飛行士が乗ったべランカ単葉機「ミス・ヴ
ィードル号」が朱色の機体に425馬力のエンジンを響
かせて、三沢村淋代海岸から米国ユタ州ソルトレイク
・シティを目指して飛行距離約8,000kmのノンストッ
プの旅に出た。そして2日後の6日午前0時14分シ
アトル東方のワシントン州、ウェナッチ飛行場に胴体着
陸を敢行し、無事に着いたのである。ここに人類史上、
初の太平洋無着陸横断飛行(飛行距離:7,910km、所
要飛行時間:41時間13分、平均飛行速度192km/時)
の劇的歴史の1ページが記された。
 この他にも歴史の影に薄いが昭和5年9月のプロム
リーとゲッティ両飛行士の「タコマ市号」の横断飛行
挑戦、不時着による失敗、ついでアッシュ飛行士によ
る「パシフィック号」での挑戦、これまた失敗、さら
にアレンとモイル組の「クラシナマッヂ号」の挑戦が
されたが、結果的に失敗に終った。また、日本人では
昭和7年9月24日の本間清海軍中佐外2名搭乗の「第3
報知日米号」での挑戦、千島沖で行方不明等があるが
いずれも当時の「三沢村淋代海岸」を出立地として、
太平洋無着陸横断飛行に次々と挑戦した歴史的事実が
ある。

飛行に成功したミス・ビードル号のレプリカが展示されていました。

海岸にぽつんとコンクリート製の碑が寂しげに立っているだけの姿を勝手に想像していたのですが、

展望台も設置されていて,結構立派な施設になっています。

ここから700メートルほど後方が実際の滑走起点らしい。

ここをまっすぐ進むとアメリカ。

少し内陸に入った松林にあった碑。

ここは当時の滑走路中央部。

淋代海岸の周辺はこんな感じ。

当初はここを飛行場の1つとして数えていませんでしたが、

1930年から約2年間、ここには村民の協力によって滑走路が整備され、

当時国内に存在した他の飛行場と比較しても、

「課せられた条件下、日本ではここが最適である」として特に選ばれた場所です。

5組の挑戦者たちがここを太平洋横断のための出発地点として選びました。

当時この飛行場に名前をつけよう、という話になった際、

最初の挑戦者はこの飛行場の名称として、この場所を見つけてくれた少佐に因み、

「大田エアポートがいい」と主張して譲らなかったという逸話や、

この場所がさらに発展して世界中へ羽ばたく空港になるように、

という当時の人々の願いが現在の三沢空港に受け継がれていることなどから、

ここを立派な「飛行場跡地」の1つとして数えることにし、

記事修正しました(2008/6/26追記)。


(以下2023年6月撮影)

DSC_0582_00001.jpgDSC_0585_00001.jpg

オレンジマーカー地点(上2枚とも)。

「太平洋無着陸横断飛行機ミス・ビードル号発進地点」

青マーカーの所を海側に入り、道なりに奥へ奥へと進むとあります。

下にリンク貼りましたが、公式サイトにはここが「滑走路起点 0m」とあります。

ここに板敷きの滑走路を作り、滑走開始したんですね。

銘板には、

THE NON-STOP TRANS-PACIFIC FLIGHT MISS VEEDOL STARTING POINT 
SET UP BY MISAWA CITY SEPTEMBER,1991

とありました。

DSC_0611_00001.jpgDSC_0609_00001.jpg

黒マーカー地点(上2枚とも)。

こちらはオレンジマーカー地点から2,000m先にある「滑走路先端地点」。

DSC_0595_00001.jpg

赤マーカー地点。

ビードル号のレプリカは東日本大震災で流されてしまったのですが、すぐ元の場所に戻されました。

DSC_0593_00001.jpgDSC_0592_00001.jpgDSC_0590_00001.jpg

実際の滑走路は、この展望台よりも少し陸側にありました。

写真奥から離陸滑走開始して、展望台はおおよそですが、1,000m地点にありますので、

ここではまだ離陸するために必死で加速している段階です。

ビードル号はガソリンタンクを増設した結果、燃料容量が26%増加しました。

彼らにとっても今回のビードル号は未体験の重さだったはずで、

エンジン全開なのに速度計の針がなかなか上がらず、機体の重さを実感している段階だったんじゃないでしょうか。

ここで180°回頭すると、

DSC_0589_00001.jpg

こんな感じ。

写真奥に向って飛んで加速を続け、1,800m滑走したところで離陸したとあります。

画面左側がアメリカなので、離陸後左旋回しかたと思いきや、

公式サイトには、「離陸後、陸地上空を右旋回し、太平洋上へ」とあります。

旋回は見かけの重さが増える、若しくは揚力が減るんですよね。

大量のガソリンを搭載し、高度も速度もまだまだ低くて余裕のまったくない状態ですから、

風向き的な事情なのか、万一のことを考えるとこの段階での旋回は陸側で済ませたかったのか。

もしかして、献身的に尽力した三沢村民に謝意を示すフライパスだったのでしょうか…

DSC_0588_00001.jpgDSC_0596_00001.jpg

DSC_0599_00001.jpg
グレーマーカー地点。

展望台すぐ近くにあります。

DSC_0601_00001.jpg

紫マーカー地点。 

太平洋横断無着陸飛行記念碑
 この地は、アメリカ青年ヒュー・ハーンドン、クライド・パングポー
ン両氏がミス・ビードル号で太平洋無着陸横断飛行に成功した記念の
地であります。

飛行記録
1.出発時間 昭和6年10月4日 午前7時1分 淋代海岸発
2.着陸時間 昭和6年10月6日 午前0時14分 ウエナッチ飛行場着
3.飛行時間 41時間3分 東奥日報社発表
4.飛行距離 4,877マイル 淋代~ワシントン州ウエナッチ
5.滑走距離 1,800メートル
 
 出発にあたり同機は荷重軽減のため車輪を投下して、その成功を
期し、目的地ウエナッチでは、胴体着陸を決行しました。これに先
だち昭和5年9月アメリカ青年ハロルド・ゲッティ、ハロルド・グ
ロムリーの両氏が「タコマ市号」で同じ試みを行いましたが、パ
イプの故障でカムチャッカ方面より引き返して失敗しています。また、
昭和6年5月と9月に同じくアメリカ人によって横断飛行を試みら
れましたが、失敗しています。なお、日本人では昭和7年9月24日
機長予備役海軍中佐本間清氏外2名にて「第3報知日米号」により
離陸したが千島沖で連絡をたち、行方不明になりました。
悲運の勇者の慰霊碑は浜三沢公園に 昭和37年10月建立されました。
昭和60年8月 三沢市


          青森県・淋代海岸滑走路跡地           

三沢市の入り口には太平洋横断の大きな看板,市のシンボルマークはミス・ビードル号,市のコピーは「異国情緒あふれる町」。「三沢ビードルビーチ」,「ミスビードルドーム」、市内のお土産に「紙飛行機ミスビードル号」,「赤いひこうき」などなど。市を挙げてビードル一色という感じでした。

淋代海岸滑走路 データ
所在地:青森県三沢市淋代海岸
座 標:40°44'43.7"N 141°24'55.2"E(レプリカの設置してある地点)
標 高:5m
滑走路:2,000m
方 位:17/35
(座標、標高、方位はグーグルアースから。滑走路長さは公式サイトから)

沿革:「ミサワ航空史」年表から

1930年09月 14日 太平洋横断飛行のため淋代海岸に飛来していたブロムリー、ゲッティ両飛行士のタコマ号
       淋代を離陸したが機体故障のため引き返して15日、下北郡尻労海岸に不時着し失敗
1931年05月 7日 トマス・アッシュ中尉、太平洋横断飛行の出発点として淋代海岸を調査。
     05月 29日 前回失敗したタコマ市号を改造し、パシフィック号として飛来
     05月 31日 パシフィック号太平洋横断飛行のための離陸に失敗 翌6月1日計画断念
     09月 8日 ドン・モイル、セシル・アレーン両飛行士、前回失敗したパシフィック号を改造した
       クラシナマッジ号で淋代を離陸。機体故障と悪天候のためカムチャッカ半島付近の無人島に不時着
     09月 29日 淋代飛行協会を淋代・細谷両部落が結成 会長小比類巻要
       ヒュー・ハーンドン、クライド・パングボーン両飛行士、淋代に到着
     10月 4日 ミス・ビードル号午前7時1分淋代を離陸 
     19月 5日 午後8時12分(日本時間)ワシントン州ウェナッチに着陸。
       イースタ・ウッドの賞金2万5千ドルと朝日新聞社懸賞金5万円を受ける
     11月 27日 立川陸軍飛行5連隊機4機が淋代に飛来着陸
1932年09月 24日 太平洋横断飛行機報知第三日米号(エム・ユンカースW33 280-360馬力)
       本間中佐、馬場飛行士、 井上通信士が搭乗し午前5時35分淋代を離陸 千島列島付近で行方不明
1961年10月 24日 太平洋横断飛行30周年を記念して淋代海岸に記念碑建立。県知事、米札幌総領事等出席
1962年10月 14日 第三報知日米号の記念碑招和台に建立
1971年11月 4日 太平洋無着陸横断飛行記念碑除幕式。マイヤー・アメリカ大使出席
1981年05月 2日 市長がウェナッチ市の招待を受け渡米
     10月 4日 太平洋無着陸飛行50周年記念式典。ウェナッチ市と姉妹都市締結式が公会堂で行われる。
       ウェナッチ市から親善使節18名参列
1982年05月 1日 ウェナッチ市へ親善使節団派遣
1983年05月 2日 ウェナッチ市へ親善使節団派遣
1984年05月 5日 ウェナッチ市りんご花祭りに三沢青年会議所会員など16名招待される
1985年05月 3日 ウェナッチに親善視察団出発。初の中学生大使4名派遣
1986年05月 2日 ウェナッチ市へ中学生親善大使派遣(2回目)
1988年05月 6日 ウェナッチ市へ市長外中学生大使・文化使節団訪問
1991年08月 10日 ウェナッチ友好親善使節団15名来市。姉妹都市締結10周年記念アップルフェステバル
       フロート(山車)制作。三沢祭に特別参加
     10月 5日 太平洋無着陸横断飛行60周年記念式典。ウェナッチ市から市長ら6名来市
1995年08月 18日 ミス・ビードル号記念広場オープン記念式典。ウェナッチ市長出席
1999年03月 4日 米国の航空機実験協会ウェナッチ支部、ミス・ビードル号の復元機製作、再現飛行計画発表
2000年07月 18日 ミス・ビードル号メモリアル飛行実行委員会発足
     07月 20日 三沢ビードルビーチオープン
2001年08月 23日 三沢市とウェナッチ市が姉妹都市締結調印
2002年08月 27日 太平洋展望台完成記念式典。淋代海岸ミス・ビードル号記念広場。高さ22.84m
2003年05月 2日 ミス・ビードル号復元機がウェナッチ市でテスト飛行成功
2005年05月 20日 米ワシントン州議会から通知。ミス・ビードル復元機の再現飛行中止
2009年12月 米国から「ミス・ビードル号」復元機が到着。ミサワ航空科学館で展示
2011年08月 米国から招致した「ミス・ビードル号」復元機が三沢飛行場上空でデモフライト。
       9月の航空祭でも実施。
     10月 「ミス・ビードル号」太平洋無着陸横断飛行80周年記念
       原付自転車のナンバープレートにビードル号のデザインを採用する

関連サイト:
ミス・ビードル号公式サイト 
三沢市/ミス・ビードル号太平洋無着陸横断飛行80周年メモリアルフライト   
ブログ内関連記事     

この記事の資料:
現地の説明版
「ミサワ航空史」


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コメント 2

ばう

いやぁロマンを感じますねー。
ただでさえ寂しい想いがする青森県・・でも実は違うんですねー。

写真もグー!(^^)v ブログ始めて本当によかったねぇ♪
活き活きしている「とりさん」らしい世界が感じます。
by ばう (2005-08-21 14:32) 

とり

コメントありがとございますー
いやホント,おっしゃる通りで,実際に行ってみて
イメージが大きく変わることが多かったです。
by とり (2005-08-21 17:35) 

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