宮崎(宮崎ブーゲンビリア)空港(旧宮崎航空基地、海軍赤江飛行場) [├空港]
2006年10月、2024年1月訪問 2024/1更新
撮影年月日1946/04/19(USA M57 285)■ 上の短い白い線は終戦までに未完成だった滑走路
出典:国土地理院ウェブサイト(地理院データを加工して作成)
SkyVector.com
宮崎県宮崎市、宮崎駅南南東約4.5kmにある「宮崎空港」。
元々は海軍の「宮崎航空基地」でした。
先頭のグーグルマップは、上に貼った航空写真等から作図しました。
■防衛研究所収蔵資料「海軍航空基地現状表 内地之部 佐世保鎮守府航空基地現状表」
の中で、当飛行場について一部次のように記載がありました。
基地名:宮崎 建設ノ年:1943 飛行場
長x幅
米:1500x100x2コンクリート 主要機隊数:中型5.0 主任務:作戦 隧道竝ニ地下施設:居住、電信所、燃料庫、爆弾庫、倉庫、工業場、魚雷同時調8本、同格納庫84本 掩体:中型有蓋7
中型無蓋37 小型有蓋7
戦後の接収、返還を経て現在に至ります。
JR日南線が空港に乗り入れてました。
ヤシの木がたくさんあって、南国っぽい雰囲気の宮崎空港(曇りなのが残念)。
見学しやすいデッキでした。
ご当地のヒコーキ。
滑走路の向かい側に航空大学校。
ターミナル内部は広々として華やかな感じでした。
空港の西側に公園がありました。
撮影ポイントを探してうろうろしたのですが、滑走路の西側は、かなり滑走路近くまで近づけますし、
ポイントは何箇所もありました。
地元の方のサイトで、頭上を通過するヒコーキの迫力のある絵が撮られてました。
(オイラは失敗して撮れませんでした)
(以下2024年1月撮影)
元宇宙飛行士山崎直子さんが搭乗されました。
山崎直子/宇宙飛行士
1970年千葉県松戸市生まれ。
1993年東京大学工学部航空学科卒業。
1993年東京大学宇宙工学専攻博士課程修了。
1996年からNASDA(現JAXA)に勤務し、JEMプロジェクトチームで「きぼう」日本実験棟の開発業務などに従事。
1999年NASDAより、国際宇宙ステーションに搭乗する日本人宇宙飛行士の候補者として選定される、2001年9月宇宙飛行士として認定される。
2006年5月「きぼう」日本実験棟の打ち上げミッションの。クルーサポートアストロノート(搭乗者支援宇宙飛行士)に選定される。
2011年JAXA退社。
夢は高く大空へ
「飛行機のある展望公園」
宮崎空港ビル50周年を記念し、子どもたちに「夢」「希望」「未来」を感じていただける場所になるよう、ここに航空大学校の訓練機を展示することになりました。2012年7月21日 宮崎空港ビル株式会社 代表取締役社長 長濱保廣
JA8850エピソード 仙台分校で最終課程の実機として使用され、東日本大震災後、宮崎本校にて訓練を行った。
25年間で約1,700名のパイロットを育てる。2012年3月21日ライスフライトを終えて宮崎空港へ。
Beechcraft式 C90A型(キングエア)
全長:10.82m
全幅:15.32m
全高:4.34m
自重:2,615kg
最高速度:454km
航続距離:9,144km
エンジン:P&Wカナダ式PT6A-21型
掩体壕
掩体壕とは…敵の攻撃から、人や物を守る為につくられたんだよ! 少ない材料で大きな強度があるんだ! 昭和19年に爆撃機などの格納庫としてつくられたんだ。今は、赤江地区に3基、本郷地区に4基、田吉地区に弾薬庫が2基と他にもそれらしきコンクリートの後が残っている地区があります。
特攻隊慰霊碑
宮崎特攻基地慰霊碑前において、奉賛会、地域及び行政と共同で年1回慰霊祭を開催することにより、恒久平和について認識を深め、二度と悲惨な戦争を行なわないよう誓い合い、平和を祈念する場ともなっています。
昭和58年に建立され、宮崎基地から飛び立った特攻隊と宮崎県出身者で宮崎基地以外の基地から発進した英霊とを合わせて799柱の英霊が合祀されています。
クーゴ君が教える昔の宮崎空港
クーゴくん 宮崎生まれ、仙台、帯広育ちの男の子。パイロットを夢見て日々空を飛ぶ練習をしている。
宮崎空港はいつできたの?
宮崎に空港を造る計画ができたのは、1940年(昭和15年)の終わり頃で、最初は日本海軍の飛行場として作られたんだよ。
工事が始まったのは次の年の1941年(昭和16年)はじめの頃で、2年後の1943年(昭和18年)終わり頃に飛行場が完成したんだ。
最初は海軍の飛行場だったの?
そうなんです、日本の海軍が作った飛行場で、おもに爆撃機が使う飛行場として作られたんだよ。かなしいことだけど、はじめは戦争をするために作られたんだ。
戦争のときは空港で何があったの?
宮崎空港は戦争中、海軍航空隊宮崎基地ってよばれていたんだ。最初は爆撃機の操縦訓練をしていたんだけど、沖縄の戦いが始まる少し前の1945年(昭和20年)3月18日に、宮崎空港ははじめてアメリカ軍の飛行機に爆撃されたんだ。その年の8月15日に戦争が終わるまでに、わかっているだけで24回も爆撃をうけたんだよ。
宮崎空港からは特攻隊は飛んでいないの?
ほとんど知られていないけれど、沖縄の戦いがはじまる少し前の1945年(昭和20年)3月21日から、5月25日までの60日ほどのあいだに、わかっているだけで131人の若者が飛行機に大きな爆弾をつんで、沖縄の海にいるアメリカの軍艦に体当たりするために、この宮崎空港から飛び立って帰ってこなかったんだ。一番若い人で17才の人もいたんだよ。
昔の飛行場はどんなすがただったのかな?
上の写真をよく見てね。白黒の写真が(昭和19年)12月28日にアメリカ軍が撮影した写真だよ。カラー写真のいまの宮崎空港とくらべてみると、昔の飛行場の滑走路はXのかたちをしているんだね、上のほうにもななめに少し短い滑走路があるけど、これは戦争が終わるまでに完成しなかったんだ。昔の滑走路は1本が幅100メートル長さ1600メートルで、もう1本が幅80メートルで長さが1500メートルあったんだ。
独立行政法人 航空大学校
航空大学校は、昭和29年に宮崎の地に設立されました。現在では、宮崎、帯広、仙台の3校体制となっております。当校の役割は、我が国の国際線・国内線の第一線で活躍するパイロットの養成です。航空輸送は、世界の人々の生活を支え、旅の楽しみを実現するという大きな役割を担っています。そしてパイロットは、その航空を支える最も重要な仕事です。
航空大学校校歌
黒潮の騒ぐ日も静かな日も 赤江の海の浜風に 若いからだとこころを鍛え 世界の空の使命をになう はてしない希望の続く ああ航空大学校
伝え聞く青島の茂るびろう のどかな光照るここに 空飛ぶ技をみがきつづけ たゆみゆるさぬこころの火花 つつましい英気に生きる ああ航空大学校
高千穂を下に見て空をかける 愛機のあぐるとどろきは 狭い地上に描いた夢を 更にひろげる誇りのひびきを 新しい歴史を築く ああ航空大学校
教育プロセス
宮崎 学科過程
期間…………………4ヶ月
スクール……………本校
学科………………510時間
計器飛行地上訓練…3時間
帯広 フライト過程
期間……………6ヶ月
スクール…帯広分校
学科………76.5時間
訓練機…A36ボナンザ
宮崎 フライト過程
期間……………6ヶ月
スクール………本校
学科………78.5時間
訓練機…A36ボナンザ
計器飛行地上訓練…17時間
仙台 フライト過程
期間……………8ヶ月
スクール…仙台分校
学科…………70時間
訓練機…C90Aキングエア
計器飛行地上訓練…25時間
独立行政法人航空大学校
航空大学校について
航空大学校は、1954年(昭和29年)に運輸省(当時)の付属機関として宮崎の地に設立されました。現在では、宮崎本校、帯広分校、仙台分校の3カ所あわせて24ヶ月の過程を経て、エアラインパイロットを目指します。日本のエアラインパイロットの約4割が航空大学校の出身となっています。
航空大学校の教育理念
1.航空人の育成
2.パイロットとしての知識と技能の習得
3.プロフェッショナル・スピリットの形成
教育プロセス
トレーニングの本拠地
宮崎キャンパス
期間 5ヶ月
学科 534時間
計器飛行地上訓練 3時間
航空大学校の本拠地。空気力学や航空力学、そして航空機の構造やシステム、エンジン、航法、気象、航空法規など15科目。ハイテク化の進む航空機を飛ばすためには、この課程での基礎学力の充実は重要かつ不可欠なものといえるでしょう。
操縦桿を握るよろこび
帯広キャンパス
期間 6ヶ月
学科 175時間
訓練機 シーラス式 SR22型
操縦訓練 73時間45分
はじめて操縦桿を握り、ソロフライトを体験します。単に軽飛行機を操縦するのではなく、将来の旅客機を操縦していると想定したフライトトレーニングが行われます。エアライン・パイロットをめざす学生が空への第一歩を踏み出す地です。
本校でのフライト課程
宮崎キャンパス
期間 6ヶ月
学科 156時間
訓練機 シーラス式 SR22型
操縦訓練 73時間45分
事業用操縦士資格相当を目指し、訓練が行われます。宮崎課程では本格的にプロを目指す訓練になるため、帯広課程よりもより精度の高い技量が求められます。一方で、クロスカントリーでの他空港へのフライトなど、空を飛ぶことの本当の楽しさ、面白さが実感されてくる時期でもあります。
CIRRUS式 SR22型
全長:7.92m
全幅:11.67m
全高:2.71m
自重:1,032kg
最高速度:347km
航続距離:2,165km
エンジン:コンチネンタル式IO-550-N
最終フライト課程
仙台キャンパス
期間 7ヶ月
学科 150時間
訓練機 G58バロン
操縦訓練 57時間
クリティカルな状況を想定し片側エンジンを停止するなど、いかなるときにも沈着で冷静に、そして迅速で的確な判断と操作ができるようトレーニングを行います。この課程では、これまで航空大学校で学んだすべてが問われるといえます。
Beechcraft式 G58型(バロン)
全長:9.09m
全幅:11.53m
全高:2.97m
自重:1,837kg
最高速度:374km
航続距離:2,932km
エンジン:テレダイン・コンチネンタル式IO-550-C型
そして、プロフェッショナルパイロットへ
宮崎県・宮崎空港
ビュー:☆☆☆☆★
展望デッキ:最近無料に。フェンスは低く、広々としていて非常に見やすい
便数多い
施設:☆☆☆★★
案内表示分かりやすい
売店、レストランすごい充実振り
本屋、おもちゃ屋、ヒコーキグッズ、オリジナルスイーツ、熊本鮮馬刺し、博多からしめんたい、空弁など
大きな有料駐車場有。事前支払いで10分サービス。
空港整備公園あり
鉄道が接続している。運行本数も多い
マニア度:☆☆★★★
航空大学校
宮崎市の郊外で原っぱが多い。
東側の滑走路は海に突き出しているが、場周道路は関係者以外立ち入り禁止で通れず。残念。
保安上の問題もあるだろうけれど、是非海側に行けるようにして欲しい
追記:ターミナル側から行こうとすると上記の通りですが、滑走路をはさんで向かい側の、航空大学校側からなら砂浜に行けるのだそうです(情報提供:アスランマリオさん)
・宮崎航空基地(海軍当時) データ
設置管理者:海軍
種 別:陸上飛行場
滑走路:1,500mx100m(09/27)、1,500mx100m(13/31)コンクリート
(滑走路長さは防衛研究所資料から。方位はグーグルアースから)
・宮崎空港(現在) データ
設置管理者:国土交通省
3レター:KMI
4レター:RJFM
空港種別:拠点空港/国管理空港
運用時間:7:30~21:30
所在地:宮崎県宮崎市赤江
標 点:N31°52′38″E131°26′55″
標 高:5.9m
面 積:177ha
滑走路:2,500m×45m
磁方位:09/27
航空管制周波数
・飛行場管制
宮崎タワー 118.30 123.60 126.20
宮崎グランド 121.90
・進入・ターミナルレーダー管制
宮崎アプローチ 120.10 120.90 121.40 123.60
宮崎ディパーチャー 120.10 123.60
・航空路管制
福岡コントロール(南九州東セクター)133.30 132.60
・飛行場情報放送
宮崎ATIS 126.80
・TCAアドバイザリー
宮崎TCA 121.25
沿革
1940年末 海軍省調査団による赤江飛行場適地調査
この頃対米関係悪化から軍は航空の増強を目指し飛行場増設を実施。当飛行場計画もその一環
赤江町に飛行場建設決定。他に大淀川改修、赤江河口の築港もあり知事は宮崎市と赤江町の合併企画
1941年 初め頃 海軍省調査団による赤江飛行場適地調査
03月 町役場にて説明会。敷地内の農民に退去命令(190.4ha)。良質の米がとれる水田が広がっていた
04月 飛行場新設工事開始
08月 滑走路周辺整備及び引き込み線建設工事
1942年03月 飛行場敷地内の民家退去期限
1943年04月 宮崎市と赤江町合併。合併と並行して飛行場工事が進められる
12月 練習基地として開隊。「宮崎海軍航空隊」、「赤江航空隊練習部」の2枚の門札掲示
滑走路は東西1,500mx100m、これにX字形に交差して西北から南東に1,500mx80mの2本
1944年07月 10日 第二航空艦隊所属の基地となる
20日 海軍航空隊の大編成替えで実戦の中継作戦基地となる
08月 海軍航空隊の練習基地を解散
10月 周辺に掩体壕建設。飛行場拡張工事
25日 神風特攻隊敷島隊の第一陣出撃
1945年02月 海軍航空隊再編成。それまでは訓練、待機基地で、鹿屋、出水、国分等、特攻隊の中継基地だったが、
この時から特攻隊の発進基地となる
03月 11日 当基地から特攻隊初出撃
18日 初空襲
05月 15日 緊急整備強化
08月 終戦。接収
1950年06月 連合軍司令官より民間航空の許可指令
1951年03月 宮崎民間空港誘致期成同盟結成。運輸省航空局はじめ各機関に積極的に誘致活動を展開
1954年 返還
07月 全国唯一の国立航空大学校設立
10月 全国唯一の航空大学校の訓練飛行場として開港(宮崎飛行場)
11月 極東航空、定期路線開設。宮崎~大阪 1日1往復
1955年04月 初の日本人による自主管制運用業務開始
1956年08月 公共飛行場として告示(A滑走路1,300m、B滑走路1,340m)
1957年04月 飛行場供用開始示
1961年05月 第二種空港に指定
1962年06月 A滑走路1,500m、B滑走路1,360m
1966年03月 A滑走路延長1,800m
10月 ローカル空港として初めてジェット機(B727-100)就航
1979年03月 A滑走路延長1,900m
1980年06月 B滑走路廃止
1983年06月 滑走路2,500m延長工事起工
07月 B767就航
1987年09月 滑走路海側延長の埋立造成完了
1990年03月 A滑走路延長2,500m、新ターミナルビルオープン
07月 繁忙期という条件付きでB747-100型機就航
1993年04月 宮崎~東京便でB747-100型機定期就航
12月 新貨物ターミナル完成
1994年07月 宮崎空港連絡鉄道 起工
1995年12月 B777-200就航
1996年07月 JR宮崎空港線接続(地方空港初の連絡鉄道)
1997年12月 貨物ビル拡張工事起工。年間乗降客数が初めて350万人突破
1998年03月 ターミナルビル拡張工事起工
04月 宮崎~台湾間 国際線チャーター便就航
1999年02月 国際線施設開設
03月 大型観光バス専用駐車場管制
06月 ターミナルビル拡張
2001年04月 ソウル-宮崎線開設
2002年04月 税関空港に指定
05月 空港内免税店オープン
2003年03月 全国初の高齢者、乳幼児連れ家族用駐車帯、九州初の身障者用駐車場帯、歩道帯ルーフ完成
2014年10月 開港60周年。愛称「宮崎ブーゲンビリア空港」に決定
2017年10月 5番スポット搭乗橋、コンコース新設
12月 26日、Q400対応の「ロングPBB」国内初導入
2018年03月 国際線専用出発保安検査場供用開始
2019年01月 エプロン耐震対策工事着手
関連サイト:
宮崎ブーゲンビリア空港■
国土交通省大阪航空局/宮崎空港■
ブログ内関連記事■■■
この記事の資料:
日本海軍航空史
宮崎の戦争遺跡
防衛研究所収蔵資料「海軍航空基地現状表 内地之部 佐世保鎮守府航空基地現状表」
「21世紀へ伝える航空ストーリー 戦前戦後の飛行場・空港総ざらえ」
2年前に行った時、航空大学校側を海の方に行ったら砂浜になっていて、サ-ファ-がいて、アプロ-チの飛行機の真横が見られました。
交通の便はいいですね!特急列車も宮崎までなら普通運賃で乗れますし。
by マリオ・デ・ニ-ロ (2006-11-19 00:20)
アシアナが来るんですねー。意外です。
by catenamas (2006-11-19 00:51)
金網の高さも低く、写真の撮りやすそうなデッキですね!
こんなフレンドリーな空港がずっと残ってくれることを祈りましょう。
by basashi (2006-11-19 06:43)
とりさん
宮崎空港の滑走路サイドにあって他の空港に
ないもの知ってますか?
さすが宮崎は神孫降臨の地!
ランウエイサイドの草むらにいくつもの埴輪が
あなたの離着陸を見守っているのです!
撮ろうと思っていますが、いまだGetできず!
by しまふくろう (2006-11-19 17:22)
航空大学校のハンガーの中身が気になりますね~。
教育用の機体が入っているに違いない(^_^)
ゼロ戦入ってないかなぁ~←無理!!
by ジョルノ (2006-11-19 23:33)
■アスランマリオさん
>航空大学校側
ありがとうございます~~!!ヽ(*´ヮ`)ノ
オイラ、ターミナル側からしか行ってませんでした。
ネットで一応調べたんですが、海側のことは分からなかったんですよ。特急運賃情報もありがとうございます。本当に感謝です。
(記事修正させていただきました)
コメント&nice! ありがとうございました。
■catenamasさん
そうなんです。アシアナが来てるんですね。オイラも知りませんでした。
アシアナのHPを見たんですが、週3往復みたいですよ。
コメント&nice! ありがとうございました。
■basashiさん
まったく同感です!首都東京の羽田ですらフェンスは低いんですから、空港設計者次第と思います。
コメント&nice! ありがとうございました。
■しまふくろうさん
おお、そうなんですか!これまた情報ありがとうございます!
埴輪、見てみたいなぁ。
コメント&nice! ありがとうございました。
■ ジョルノ飛曹長殿
まあ、「ボナンザが」。というのが無難な答えなんでしょうけど。でもパイロット養成用にゼロ戦を使用していたら面白そうな気がします。
ところで飛曹長殿、「Wikipedia/宮崎空港」に書いてあったんですけど、
近くにゼロ戦などの掩体壕があるらしいですよ。見たい~!
コメント&nice! ありがとうございました。
by とり (2006-11-20 20:32)
さすが宮崎、10月というのにどことなく夏が香る風景ですね。
なのに空港内はイルミネーションと椰子の木のコラボですか!
向こうの人は気候といっしょで明るくてはじけてるんですかね(笑)
by ひろ茶 (2006-11-20 21:36)
掩体壕ですか。
それは見たいですねー。
掩体壕は爆弾の直撃を受けても壊れない構造になっていて、そのため現在も多くが残されているようですね。
壊すにはかなりの爆発で吹っ飛ばすしか無いそうなんですが、その方が危険なんでどこもやりません。(^_^;)
千葉の房総にまだ残っているところがあって、前に見に行ったことがありますよ。(^_^)
ゼロ戦のタイヤでも残ってないかなと思っていたけど、農具が沢山入っていました。農家の方がそのまま使用しているようです。
by ジョルノ (2006-11-20 23:36)
宮崎空港の地方空港に空港線引き入れてるのは知ってて、時刻表でチェックしたことあるんですが、昔はそう多くなかった記憶があるんですが、多いとあるのでまたチェックしてみます。
地方空港に鉄道乗り入れてるのはいいですね^^。
そして高知と同じようなキャンプ地で田舎と思ってたら、空港の中すげえきれい・・、負けたなあと思ってたら、市内にあるのにもう空港の周囲は田舎なんですね^^
夜景撮影おつかれさまでした☆私的nice!つけときます
by コスト (2006-11-21 00:03)
■hirochaさん
とっても暖かくて、流石「南国宮崎」でした。そういえば宮崎の方とは特に話をしたりしなかったなぁ・・・。館内、クリスマスっぽい雰囲気でした。
コメント&nice! ありがとうございました。
■ジョルノ飛曹長殿
掩体壕が現存する理由って、そういうことだったんですね。オイラまだ一度も見たことがないので、是非見てみたいです。
コメント ありがとうございました。
■コストさん
飽くまでもオイラの主観なのですが、龍馬空港は白を基調とした明るくて爽やかな朝のイメージ、宮崎空港はちょっとビッグバードの中央部に通ずるゴージャスな夜のイメージでした。
>夜景撮影
これはですね、この場所で空弁を食べたり、荷物の整理をしつつヒコーキを待っていたら、暗くなってしまったんですよ。
コメント&nice! ありがとうございました。
by とり (2006-11-22 08:15)