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児玉飛行場(八町八反の飛行場)跡地 [├空港]

  2008年11月訪問 2022/11更新 

6.png
撮影年月日1946/06/08(USA M159-A-5 103) 
出典:国土地理院ウェブサイト(地理院データを加工して作成) 

埼玉県児玉町。

かつてここに陸軍児玉飛行場がありました。

陸軍らしい1,500mx1,500m正方形の飛行場で、当地は元々その広さから「八町八反」(「八丁八反」)と呼ばれており、

地元の方からは「八町八反の飛行場」と呼ばれていたのだそうです。

2021/8/29追記:しむさんから正門の位置にについてコメント頂きました(グーグルマップ紫マーカー/航空写真白矢印)。

ここは付属地区の外周道路に面しており、この場所から飛行地区に向って真っすぐの太い道路が続いていることから、

ここが正門である可能性が高いと思います。 しむさんありがとうございましたm(_ _)m

■防衛研究所収蔵資料「陸空-本土防空-48飛行場記録 内地(千島.樺太.北海道.朝鮮.台湾を含む) 昭19.4.20第1航空軍司令部」

に児玉飛行場要図 があり、先頭のグーグルマップはここから作図しました。

方形の飛行地区の少し南側が滑走路延長のために東西両側に少し飛び出してますが、

同要図ではこの部分が1,800mx300mと記されており、その通りに作図しました。

同資料の情報を以下記させて頂きます。

位置
 埼玉縣児玉郡共和村
積量
 二,四七五,四〇三平方米
交通連絡の状況
 八高線児玉駅東北二粁
其の他
 (記載無し)

■防衛研究所収蔵資料「本土における陸軍飛行場要覧 第一復員局(陸空 本土防空7)」
に当飛行場の情報がありました。

飛行場名  児玉
位 置   埼玉県児玉郡共和村
規 模   要図(長さの数字がかすれて判別できず)
舗 装   ナシ
付属施設
 収容施設 ■〇〇名分 ■〇〇名分工事中
 格納施設 掩体 有蓋大一三棟 有蓋小一二ヶ所
摘 要   施設軍有

D20_0017.jpg

戦後入植者により開墾され、現在は一部工業団地になっています。

この飛行場、完成したのは1943年10月なのですが、

1944年秋、この基地から硫黄島攻撃の重爆撃機を離陸させるため、

飛行場の東西に250mずつ突き出した長くて頑丈な滑走路(2,000m)作りが始まりました。

既に必要な物資を失っていたため、滑走路には「マガダム式」を採用。 

神流川、利根川から運んで来た直径15~20センチの玉石を幾千万ともしれず敷き詰め、

その隙間に砂利を敷き、さらに赤土で覆ってローラーで転圧します。

この気の遠くなるような作業には小学生まで動員されました。

上の地図では分かりませんが、共栄地区がかつての滑走路跡だそうです。

現在でも庭先を20~30センチ掘ると、石や砂利が出てきてまるでコンクリートのように固く、

大根などは作れないのだそうです。

戦後、こうした事情を知らずに当地に越して来た方は、

「どうして我が家の庭にはこんなにびっしり石が敷き詰められてるのだろう??」と不思議に思うのだそうです。

飛行場から飛び出した部分の舗装は結局終戦まで終わらなかったのだそうです。

D20_0018.jpg

工業団地周辺

D20_0025.jpg

赤マーカー地点。

飛行場跡地の一角にこのような記念碑があります。

複数の石碑があり、裏側にも文字が彫られているのですが、

D20_0031.jpg

このようにぐーっと一周できるよう整備されています。

通路には大型のクモの巣がたくさん張られていますので、

通る時は十分注意した方がよいです。

D20_0030.jpgjj.jpg 

D20_0027.jpg

(裏側はこんな)

碑文(全文)第二次世界大戦の苛烈な戦局下、当地に建設された児玉飛行場の生涯は、まさに戦いの厂史であった、即ち陸軍航空特別攻撃隊の出撃基地として、日本々土に来襲する敵軍の勢を砕く古今未曽有の航空作戦に貢献した。児玉飛行場の栄誉は埼玉県はもとより全国に其の名を馳せている。其の建設を胸に秘める児玉郡下市町村住民の血と汗の協力に拠る「八丁八反の飛行場」こそ日本最後の砦として神洲不滅の奇跡を信じ、各種団体から小学校児童に至るまで、困苦欠乏に耐えつゝ工事に奉仕し、昭和十七年春より約一年有半の歳月を経て完成した。昭和十八年十月熊谷陸軍飛行学校児玉教育斑(初代隊長浅井策大尉)として使用開始し、同校の九十五式一型練習機が初めて児玉飛行場に着陸した。先ず、暁部隊の将校、下士官学生十五名に飛行機の操縦技術を施し前線に送った。続いて、昭和十九年四月学徒動員の陸軍特別操縦見習士官二○○名が入校し、児玉教育隊と改称され、三ヶ月の最短期間に操縦教育を終了し陸軍特別攻撃隊要員として第一線に配属された。又同年八月、第一練習飛行隊の編成を見るや全将兵は、児玉郷の山河に別れ南国ジャワ島に移駐した。同年十月児玉基地と改称、第一四四飛行場大隊が配備され、各分科飛行部隊及び、特別攻撃隊の基地、拠点となって帝都の防衛、硫黄島攻撃、或いわ太平洋近海を遊弋する敵機動艦隊に対する攻撃等、重要航空作戦の任に当たった。昭和二十年八月十五日大詔を拝し戦局を結ぶ、児玉基地は、映画「日本の一番長い日」によって全国民に伝えられたが、祖国日本の栄光を背負って戦った、児玉飛行場は尊くも又悲しい無限の教訓を残して、その思い出だけを住民、軍関係の記憶に止どめて日本と運命を共にし、三年有余の厂史を閉じた。我が民族の限り無い雄叫は、厂史の試練に苛なまれ乍らも、同年秋、百十余名の開拓団員の入植となり、農耕地にすると同時に一部は工業団地として再生し今日に至る。戦後三十五年を閲し、往時の□(留?)魂、姿を偲ぶ何物もなく、追想のみ錯綜し物心共に漠々たるものを覚ゆる時此の縁故ある地に生存する有志の悲願が凝って記念碑建立の声こんこんとして湧くが如く起る。幸にして地元同志の篤志と物心両面の援助と更に碑建設の諸般に亘り住民各位の甚大なる協力を受けたことはまさに天佑神助と信じ共に感謝するところである。茲に熊谷陸軍飛行学校、第一練習飛行隊第一四四飛行場大隊の関係者並びに地元有志の発願により、児玉飛行場を飛び立ち祖国の為に散華された幾多将士を始め教育訓練中殉職した戦友の冥福を永久に祈り、再び戦争を繰返さないことを願いつゝ世界の平和と日本の繁栄を祈念してこの碑を建立する。昭和五十五年十一月十五日 児玉飛行場跡記念碑建設委員会

D20_0020.jpg

この石碑の裏側には、輸送飛行隊で殉職した方の階級と氏名が彫られていました。

D20_0021.jpg

第四教育飛行隊鎮魂碑(抜粋)児玉飛行場跡に、護国生死を共にと集いたる第四教育飛行隊に在籍の士が、今茲に訓練中、不幸その任に殉ぜし者、或は米機襲来に斃れし者を部隊終焉の地に、永えに眠られん事を願い、この碑を建立する。部隊は昭和十七年滋賀縣八日市に飛行第三戰隊北方進出の後を享け軽爆撃機操縦者の戰技訓練を主務とした新設部隊であったが、戰局の推移に鑑み、南方補給作戰更に名阪神地区の要地防空戰斗等の戰斗行動に参加、昭和二十年三月部隊はこの地に移駐、戰局漸く悪化するや本然の任務たる教育訓練から特別攻撃隊の養成へと変遷を経て、振武第二九九隊、三○○隊、三○一隊、三○二隊、三○三隊、三○四隊を編成、沖縄特攻作戰の為南下征途に就かしめた。此の間の訓練においても幾多の尊き命が失われたが屍を越え国の護持に訓練は日夜を分かたず続けられた。 二十年八月に入るや米機の空襲も熾烈を極め対空戰斗においても戰死者が出るに至った。斯くして頽勢の挽回ならざるまゝに終戰の日を迎えたが、青春の血滾る憂国の至情も詔勅の渙発に旬日を出ずして敗戰の處理を完了、茲にこの児玉において部隊の歴史は閉ざされた。短期間乍ら苛酷な情勢下における児玉飛行場での生活の一日一日は終生忘れ得ぬものがあり、更に幽明境を異にした幾多の戰友をこの地に残したまま家郷に戻らねばならなかつたことは断腸の思であつた。離散の日より三十七年を歴し、今漸く兄等の安住と、兄等に心の再開を願える地を、児玉飛行場之跡碑奉賛会の御厚志により得ることが出来、この碑の建立される日を迎え得た。昭和五十七年十月十日 八日市会 冲之原会 児玉会

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碑の片隅に野ざらしになっている金属の塊。

プロペラかタイヤの軸かと思ったら、焼夷弾の残骸だそうです。

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青マーカー地点。

近くの公民館にも碑がありました。

碑文(全文)当開拓地は太平洋戦争遂行の為航空後方基地として終戦二年前に完成した旧陸軍児玉飛行場跡地である 戦後緊急食料増産対策として  基地残留部隊員を基幹として復員軍人引揚者開拓者及び周辺町村の次男三男百十六名を以って昭和二十年十月開墾に着手した 以来三十年困苦に耐え欠乏を忍んでひたむきの努力を重ねて今日に至る ここに三十周年を迎へるに当り今は亡き友と共に入植者の足跡を記し子孫の繁栄を祈りこの碑を建立するものである 昭和五十二年四月二十日 児玉開拓農業協同組合

D20_0040.jpg

 

エステー化学の門(紫マーカー)が当時の飛行場の門だったのだそうです(アギラさん情報)。

・不発弾

 沿革にもまとめましたが、2016年5月6日、本庄市内共栄地内(陸軍児玉飛行場の正門跡付近)にて、道路工事中に、長さ1メートル、直径40センチメートルの円筒形の不発弾が発見されました。陸上自衛隊第102不発弾処理隊の調査により、米国製250kg爆弾と判明。自衛隊の処理隊では信管を安全に取り外すための準備作業として、信管を固定しているネジの部分に定期的に油を差す作業を実施(少なくとも3週間はかかる作業らしい)。当日の避難指定区域を半径300メートル以内と定め、6月25日に無事処理終了。


       埼玉県・児玉飛行場跡地         

訓練生を送り出すと飛行場は使命を一変させ、激戦地へ食料や兵員を空輸する実戦基地となりました。硫黄島への出撃なども行い、かなりの死傷者を出しました。しかし支援物資はほとんど友軍の手には届かなかったようです。終戦時には本土決戦用の飛行機約80機がほぼ無傷で残っていたそうです。
余談ですが、8月15日のポツダム宣言受諾演説後、海軍厚木基地司令は徹底抗戦を強固に主張。これに当児玉基地も同調しました。厚木基地司令は憲兵により逮捕、海軍病院に監禁されましたが、これに納得できない部下らが零戦・彗星・彩雲など計32機に搭乗して厚木基地から脱出。このうち彗星など13機が未だ抵抗を続ける陸軍児玉飛行場に降り立ったのですが、すぐ厚木に連れ戻されるという一幕があったのだそうです。

児玉飛行場 データ
設置管理者:陸軍
用 途:操縦教育、航空後方基地
所在地:埼玉県児玉郡共和村(現・本庄市共栄)
座 標:N36°13′27″E139°08′29″
標 高:81m
飛行地区:1,500mx1,500m
滑走路:2,500m×60m
(座標、標高はグーグルアースから)

沿革
1942年    春 建設開始
1943年10月 熊谷陸軍飛行学校児玉出張教育斑として使用開始。暁部隊の将校、下士官学生十五名に操縦訓練
1944年   正月から建設途上の飛行場を使って暁武隊将校を訓練(「児玉飛行場哀史」・アギラさん情報)
     03月 完成(「児玉飛行場哀史」・アギラさん情報。碑によると、1943年半ばの完成)
1944年04月 児玉教育隊に改称。特別操縦見習士官200名入校(7月末まで・アギラさん情報)
     08月 第一練習飛行隊編成。ジャワ島に移駐
     10月 児玉基地に改称。第一四四飛行場大隊配備
1944年   秋 マガダム式滑走路建設開始
1945年08月 終戦
    10月 百十余名の開拓団員入植
1977年04月 20日 児玉開拓農業協同組合、碑建立
1980年11月 15日 児玉飛行場跡記念碑建設委員会、碑建立
1982年10月 10日 八日市会 冲之原会 児玉会、碑建立
2016年05月 6日、不発弾発見
    06月 25日 不発弾処理

この記事の資料:
現地の碑文
防衛研究所収蔵資料「飛行場記録 内地(千島、樺太、北海道、朝鮮、台湾を含む) 昭和十九、四、二〇調製 第一航空軍司令部」
防衛研究所収蔵資料:「本土における陸軍飛行場要覧 第一復員局」
防衛研究所収蔵資料「本土における陸軍飛行場要覧 第一復員局(陸空 本土防空7)」


余談:「帝都防衛??」

「操縦技術習得」、「輸送」、「特攻隊」 、「敵艦隊攻撃」、「敵基地攻撃」等、様々な任務を担った児玉飛行場でしたが、その1つに「帝都防衛」がありました。

時々この周辺を車で走るオイラからすると、これには違和感を感じます。

「敵の艦載機、爆撃機相手にこんな奥地からはるばると?? …随分悠長だなぁ」というのが第一印象でした。

例えばですが、児玉飛行場から東京湾まで車でいくとすると、

最寄のICから関越道、首都高など使って、まったく混んでなければ約80分、

日中の時間帯なら、2~3時間というところでしょうか。

下道を走るとなると一体何時間かかることやら。

そこで、当時陸軍が使用していた戦闘機で児玉飛行場を離陸して、東京湾まで何分で行けるか計算してみました。

 

児玉飛行場→東京湾 距離:80km

「隼(後期型)」 最高速度:548km/h

「疾風」      最高速度:624km/h

として、

時速500キロ出したとすると、所要時間は9.6分

時速600キロ出したとすると、所要時間は8.0分

です。

児玉から東京湾の手前まで10分を切るんですねΣ(゚Д゚;)

実際にはもう少しかかるのでしょうが、大戦当時のレシプロ機とはいえ、

その速さは凄まじいものがあったのでした(@Д@)


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コメント 35

こけもも:

合掌です。
それにしても戦闘機って早いんですね。最高速度の半分を巡航速度として、発進から20分ぐらいで迎撃できそうです。

by こけもも: (2008-11-19 10:21) 

tooshiba

>児玉飛行場の栄誉は埼玉県はもとより全国に其の名を馳せている。
うーん・・・埼玉県民歴20年余りの自分ですが、全く知りませんでした。
「不勉強だ!非国民だ!」と戦前派、戦中派に叱られそうですが。汗

>「敵の艦載機、爆撃機相手にこんな奥地からはるばると?? ・・・随分悠長だなぁ」
当時はお国のためにが合言葉で、今みたいにやれ騒音がどうだの墜落したらどうしてくれるだのという雑音は一切なかったとしても。
入間基地・横田基地の方が帝都防衛の任にはふさわしいですね。1分1秒でも速い方が良いでしょうからね。
現実には、B29などに太刀打ちできなかったとしても。

ただし、上越方面からの侵入を食い止める位置づけなら、本庄児玉は最適かもしれません。

現代において、首都圏の第三空港がそのあたりに設けられていたら、群馬県と埼玉県北の人には福音だったかもしれませんね。
by tooshiba (2008-11-19 11:02) 

qin

焼夷弾の残骸って初めて見ました。
そう言えば中学校時代の恩師が特攻兵で出撃の日も決まっていたのに、その前に終戦を迎えてしまったと話してくれたことがあります。
それにしても陸軍と海軍って仲が悪かったのに、最後は手を組んだんですね。
#微妙に違う?
by qin (2008-11-19 12:11) 

masa

悲しくなるような写真ばかりですね。
平和な今が幸せに感じます。
by masa (2008-11-19 18:13) 

miffy

焼夷弾って大きいんですね。
戦争は二度と嫌ですね。
by miffy (2008-11-19 20:20) 

まめ助の母

ヤバイ!!
ここらへんも十数年前現場があって
車で走り回っていました。
工業団地作る前に遺跡発掘みたいのしてた場所は
もっと関越よりだったから違う場所ですね

焼夷弾の残骸って初めてみました
こんなに無造作においてあるのですか?
びっくり
by まめ助の母 (2008-11-19 20:27) 

コスト

 本庄早稲田の近くに飛行場があったんですね。
歴史も知らなかったんで「日本の一番長い日」がレンタルにあれば見てみます。

>東京湾の手前まで10分を切る これは速い!
新幹線で本庄早稲田~東京駅が停車時間含めて約40分(MAXたにがわ利用)、ノンストップだとしても25分はかかるでしょうから、離陸時間を計算しても圧倒的にレシプロ機速いです^^

by コスト (2008-11-19 21:47) 

OILMAN

こんにちは。
昔の戦闘機でもかなりのスピードですね。
まさに軽さは武器ですね。

by OILMAN (2008-11-19 21:50) 

ジョルノ飛曹長

帝都防衛には児玉はちょうど良い距離だったかもしれませんね。
テキ、爆撃機見ユの一報が入って、スクランブル発進。
スピードが安心して出せる高度4000mまで上がるのに5分強。
敵がB29の場合、6000m〜8000mを飛びますからさらに高度を上げながら接敵。
離陸してから30分後が、一番飛行機と搭乗員の調子が出てくる時間なので、その時間帯に会敵できるわけです。^^
まぁ隼の豆鉄砲ではB29の装甲は貫けませんが、敵の爆撃進路を変えさせるには十分な能力です。^^
by ジョルノ飛曹長 (2008-11-19 21:52) 

hiro78

プロペラの破片だと思いました!
ここはぜひ訪れたい場所ですね。

by hiro78 (2008-11-19 22:36) 

アスランマリオ

児玉飛行場、知りませんでした。埼玉にはこんな元飛行場がたくさん?あるんですね。
現空自の熊谷基地も飛行場だったですよね?
by アスランマリオ (2008-11-19 23:07) 

とり

皆様 コメント、nive! ありがとうございます。

■こけもも:さん
碑にある通り二度と起きて欲しくないことですが、先人の苦労には感謝です。

■xml_xslさん
nice! ありがとうございます。

■赤と青さん
nice! ありがとうございます。

■tooshibaさん
実はオイラも知りませんでした。
帝都までの距離に関して、後から思ったのですが、「遠い」ということの利点部分もあるかなぁ、と思いました。敵の艦砲に晒されることはないですし、内陸になればなるほど敵の攻撃機も、ここに到達するまでにいくつもの基地を通過することになるので、ここが攻撃される可能性も減るとか。
後は専門家、飛曹長殿のコメをご覧くださいませ。

■qinさん
焼夷弾、オイラも初めて見ました。
恩師にそんな方がおられましたか・・・。
>仲が悪かったのに
オイラも思いました。残存兵力十分な同調者ということで、なりふり構ってられなかったんでしょうか。

■masaさん
本当に戦争のない平和が続いて欲しいですね。

■マロンさん
nice! ありがとうございます。

■夢空さん
nice! ありがとうございます。

■miffyさん
焼夷弾、意外とゴツイんですね。撮影のためにちょっと動かしたんですが、結構重かったです。

■まめ助の母さん
あちこちでお仕事されてますね~^^
この辺りは歴史的にも縁のある場所で、いろいろ出てくるみたいですね。
焼夷弾、ゴミでも捨ててあるのか(失礼!)と思うほど、無造作に置いてありました。

■コストさん
>「日本の一番長い日」
オイラもあったら見てみようと思いました。
新幹線で考えるとことがコストさんらしいですね^^

■OILMANさん こんにちは。
確かに軽さは武器ですね^^

■ジョルノ飛曹長殿
一口に迎撃といってもそう単純な話ではないのですね。
流石のご意見ありがとうございました。m(_ _)m

■hiro78さん
機会がありましたら是非!

■アスランマリオさん
調べてみると結構あるんですね~。
>熊谷基地
飛行場でした。ここも調べなきゃ・・・。
by とり (2008-11-20 06:09) 

Qoo

再び戦争を繰返さないことを願いつゝ・・・
全くそうあって欲しいモノです
飛行機を棺桶にして飛び立つ心境は尋常じゃないですよね
日本はバカなことをやったものです
再び戦争を繰返さないことを願います
by Qoo (2008-11-20 06:30) 

an-kazu

焼夷弾の残骸は、まさに炸裂した後の状態でしょうか?

by an-kazu (2008-11-20 22:06) 

とり

■Qooさん
まったくですね(;´Д⊂)

■an-kazuさん
すみません、分からないですm(_ _)m
なんだかめくれ上がってるように見えますが・・・。

■月夜さん
nice! ありがとうございます。
by とり (2008-11-21 07:54) 

sak

この地を飛び立って
戻って来なかった方の方が多いのでしょうね
知覧へ行くといつも涙が出ちゃいますが
ここのこと思っても涙が出そうになっちゃいました。
お国のために闘って下さった方々のご冥福をお祈りします
と、この平和がいつまでも続くことを祈ります。

by sak (2008-11-21 17:43) 

とり

■sakさん
知覧は確かに泣きます。
ここに関しては、sakさんのように思いが至りませんでしたが、確かにそうですね。先人の「お国のために」という真摯な思いに敬意を表します。

■picaさん
nice! ありがとうございます。
by とり (2008-11-24 08:25) 

としあき

重箱の隅をつつくようで申し訳ないのですが、「児玉町」ですね。
まぁ今じゃ本庄市児玉町ですが…。
私の実家から車で五分です。
祖母は当時のことをよく話してくれます。
by としあき (2009-03-08 23:21) 

とり

■としあきさん
発見が遅れましたが、ご指摘ありがとうございました。m(_ _)m

by とり (2009-03-18 07:50) 

アギラ

今晩は 先日、児玉飛行場(八丁八反の飛行場)跡へ行ってきました。
そして上里町にある2か所の碑も見てきました。雨ざらしの焼夷弾の破片には鉄パイプの柱でトタン屋根がついていました。
帰ってきてから判ったのですがエステー化学の門が当時の飛行場の門だったようです。今も当時の石柱かもしれません。
今回は行きませんでしたが第二七飛行団司令部は児玉町の国民学校にあったそうですがなぜかなり離れたところだったのか疑問です。
格納庫があった場所は焼夷弾と碑の場所から道を挟んで反対側にあったそうです。
劇映画「日本の一番長い日」には児玉基地として出てきたそうですが私は昔観たので殆ど覚えていません。
監督は劇映画だから実話とはかなり変えてしまったそうですが時間が経つとそれが真実と思われてしまう恐れもあるので心配です。
私が覚えているシーンは玉音放送の時、将校がピストルをアナウンサーに突きつける場面だけですがあれも実際に突きつけたのは別の局職員だったそうです。
終戦後、児玉から特攻に36機が飛び立ったという話も実際は天候の関係で飛び立たなかったそうですし飛び立てたであろう機体数は10機も無かったそうですからかなりの脚色ですね。
今回調べなければ映画の通りだと私は思っていたでしょう。
(先月この映画を買う予定でしたが今ペンディング状態です。)
過日、国会図書館で見た米軍の偵察資料では5月7日は駐機がゼロだったと書いて有りましたからこれはうまく隠したという事なのでしょう。
海軍の一式陸攻がワンショットライターと言われていたのは有名ですが陸軍の八七爆撃機は空中ライターと呼ばれていたと今回、児玉の記念碑の冊子で知りました。
戦争末期のエピソードで飛行場大隊は物資不足から本泉村太駄(本庄市)で炭焼きもしていたと「写真で見る児玉の歩み」には書かれていました。
 ここの帰りに西崎(松本)キクさんの展示コーナーがある上里町男女共同参画推進センターへも寄ってみました。
日本初女性飛行士3人の名前は時々耳にしていましたが調べたこともありませんでしたが今回、キクさんは日本人女性初の水上機乗りだということを知りました。
私が初めて見たシープレーンは川でした。なぜリバープレーンやウォータープレーンと呼ばないのか当時から気になっています。
今回もまた長くなってしまいました。
長期でお出かけ中とか、期待しております。

by アギラ (2014-06-12 00:27) 

とり

■アギラさん
こんばんは。
トタン屋根のこと、エステー化学の門の事等、
知らない事ばかりでした。
今回も興味深いお話ありがとうございました。
それから、碑に出てくる「八丁八反の飛行場」というのは、
地元での通名だったのですね。
自分でも見ていたのに気が付きませんでした。
飛行場索引、記事修正させて頂きますm(_ _)m
by とり (2014-06-18 18:32) 

アギラ

碑文の「八丁」と書籍類に書いてあった「八町」をあまり気にして
いなかったのですが
大きさからいうと「八町」の方が正しいのでしょうか?

うっかりしていましたが1944年に児玉基地に名称変更も
していたようです。

度々すみません。
by アギラ (2014-06-19 10:32) 

とり

■アギラさん
「八丁」と「八町」
度量衡はまったく疎いのですが、
「町」を略したのが「丁」なので、両者は同じである
とするサイトがあるのですが、違うのでしょうか??

>名称変更
すみません、確認なのですが、
当初「八町八反の飛行場」だったのが、1944年に「児玉基地」に名称変更
ということなのでしょうか?
by とり (2014-06-20 05:38) 

アギラ

とりさんのご指摘のように「町は丁とも書く」とありました。
(知りませんでした。ℳ(__)ℳ)
通称はやはり「八町八反」or「八町八反の飛行場」のようです。
「児玉飛行場哀史」4刷版によると(発行数は分かりませんが初版
から12年で4刷ですから長年売れているようです。)
文中では(P13)児玉飛行場は1944年3月末に完成した。 1944年正月から建設途上の飛行場を使って暁武隊将校を訓練した。
とありこの時は「陸軍熊谷飛行学校 児玉出張教育班」となっていました。
その後「児玉教育隊」と改めた。と有りました。(何月でしょう?)
P19に「1944年4月1日熊谷陸軍飛行学校・児玉分教所の営門を~特操2期生が入ってきた。」
P77に「1944年7月末に特操2期生たちが巣立っていくと~
新しい任務のため~名称も「児玉基地」と改められた。」とありました。
(何月とはありませんでしたが秋頃に名称変更でしょうか?)
南方への輸送を任務とする作戦基地になったから児玉基地にしたようです。
第15輸飛中隊や第60飛行戦隊を児玉に迎えたことで輸送機や
爆撃機の為にとりさんご記述の舗装滑走路にしたようです。
著者の方も1945年春から夏まで舗装のための石運びをしていた
とあり飛行場から飛び出した部分の舗装は終戦までに終わらなかった。
とありました。それは1500m四方の飛行場の南側の場周道路
から500m北方を東西に貫く道路を中軸に幅60m、
東西に長さ2000mの滑走路にしたので250mずつ滑走路が
左右にはみ出していたのだそうです。

尚、この本にもマガダムと書いて有りましたが先日、横浜で
マカダム舗装という文を見たのでアレッと思いましたらこれは
McAdamさんが考案した舗装方法なのだそうです。
ですから濁点は付かないかもしれません。
以上ご査収お願いします。
by アギラ (2014-06-20 19:45) 

とり

■アギラさん
「丁と町」の件、どうもありがとうございました。
「丁」は略だとすると、仰る通り「八丁八反」より「八町八反」の方がより正確。
ということなのでしょうね。感謝です。

「児玉飛行場哀史」からの詳細な情報ありがとうございました。
こちらも記事に反映させて頂きましたm(_ _)m

それから飛行場の名称表記の件ですが、
教育隊から実戦基地に用途が変わるに当たり「児玉教育隊」から「児玉基地」となったとのことですが、
これは飛行場の名称そのものというよりは、飛行場を使用する組織が変更したということではないでしょうか。
現地の完成から戦後まで扱った碑の題が「児玉飛行場の跡」とある通り、
運用部隊の変遷に注目するか、飛行場そのものに視点を向けるかで、呼称は変わると思います。
当ブログ内では、極力飛行場そのものに注目する方向で統一したいと考えておりますのでご了承くださいませ。
(実は飛行場の名称は常に悩むところなんです)

>マカダム
名称の由来は知りませんでした。
「マガダム」で検索すると、「マカダム」でダーッと表示されますね。マカダムが正しいのですね。
なんでマガダムになっちゃったんでしょうか。当時そう聞こえちゃったのでしょうか??
どうもありがとうございましたm(_ _)m
by とり (2014-06-21 11:05) 

ko

児玉基地には、沖縄戦司令官 牛島満中将や東条英機首相も来訪したらしいです。
付近の民家(上真下)に宿泊したらしく、牛島司令官は”命”という書を書いていったそうです。
終戦の日、付近の住民の人たちが飛行機の部品等をもらいに行ったそうです。
当時、すでに飛行機の風防に透明のアクリル板を使っていたんですね。
by ko (2016-10-03 21:27) 

とり

■koさん
貴重な情報をありがとうございました。
by とり (2016-10-04 05:15) 

しむ

今更失礼いたします…

児玉飛行場の門だった場所についてですが、エステーさんの正門ではなく、テイヒューさんの門だったように記憶しています。亡祖父が当の飛行場で終戦を迎え、その後農家となり当地に住んでおりました。そのなかで「ヒューム管(※)の門は昔の飛行場の門だった」と聞いたような、です。
※テイヒューさんの地元での呼び方

Googleの座標でいうとこのあたりです。
hhttps://www.google.co.jp/maps/place/36%C2%B013'36.1%22N+139%C2%B008'43.1%22E/@36.2266911,139.1447628,19z/data=!3m1!4b1!4m6!3m5!1s0x0:0x0!7e2!8m2!3d36.22669!4d139.1453103?hl=ja&authuser=0

おそらく25年ほど前まで、東の本庄から来る道を右折した位置に、石造りの門柱だけ現存していました。かつてテイヒューさんの工場があった場所(児玉工業団地内)とは離れていますが、門柱に「帝国ヒューム管なんちゃら」と表札があったのは祖父母宅へ向かう道すがらに印象的で、鮮明に覚えています。
子供心に「って、どこよ!」みたいな意味で、ですが……
by しむ (2021-08-27 22:48) 

とり

■しむさん
コメントありがとうござます。
記事に反映させて頂きました。
当時の航空写真で確認すると、
しむさんご指摘の位置から飛行地区に向って真っすぐの目立った道路が伸びており、
そのまま格納庫、誘導路の横を通過して、直接駐機場に車で乗り付けられるようになっています。
この駐機場前の位置が、以前アギラさんにコメント頂いた
「エステー化学の門が当時の飛行場の門」に当ります。
しむさんご指摘の位置に正門があり、
アギラさんご指摘の位置に「飛行場の門」が設けられていた可能性があるかもしれない。
と思いました。貴重な情報をありがとうございました。
by とり (2021-08-29 17:58) 

しむ

ご丁寧にも、矢印までありがとうございます!(祖父も喜ぶかと)

飛行場の門、もあったのですね。失礼いたしました…(>アギラ様にも)
エステーさんの前の道は、ちょうど落水路のあったエリアですね。
東西に土側溝のような石組みが、15年ほど前(?)までは一部で現存していましたです。



と、乗っかりの話で恐縮ですが、「格納庫、誘導路の横を…」とおっしゃる格納庫は、航空写真の白い四角の位置のものでしょうか??
現在は集合住宅が8棟かたまっているあたりかと思いますが…

というのも、そこは昭和の当時1mほどの高さでセメント様の躯体?になっており、畑で遊んでいるときに、よじのぼっては飛び降りて、と遊んでおりました。
今思えば何かの基礎部分?だったのかなと……

祖父からは、何かの倉庫だったと、幼い当時に聞いておりました
(弾薬の類だった気が…しないでもなく。「危ないから丈夫に厚く」とも聞いた…ような、です)

弾薬は、祖父が勇ましく盛った可能性も高い、あくまでこぼれ話です。
by しむ (2021-08-30 21:16) 

とり

■しむさん
アギラさんはこの分野の師匠的な存在でして、
過去の貴重な資料を膨大に持っています。
アギラさんの「飛行場の門」というのは、
「そのアギラさんがそう仰るのなら、きっとあったのだろう」
と信じている。という話で、何か資料等からきちんと確認した訳ではありません。
飽くまで可能性の話です。

格納庫は、仰る通り現在は集合住宅が8棟かたまっているあたり(サイディアーナさん西隣)です。
1mほどの高さでセメント様の躯体があったのですか!
格納庫のコンクリ基礎としては、北海道と福島に現存しているのですが、
高さは1mよりもっと高いと思うので、これとは別でしょうか?

https://airfield-search2.blog.ss-blog.jp/kenebetu-airfield1
格納庫基礎(青マーカー)

https://1901rjtt-to-roah.blog.ss-blog.jp/haramachi_airfield
飛行場格納庫の礎石

改めて手持ちの資料を確認したのですが、弾薬庫の有無については確認できませんでした。
ただ、当飛行場は実戦部隊でしたから、弾薬庫は必ずどこかにあったはずです。

落水路、土側溝等、当時の貴重な情報をありがとうございました。
by とり (2021-08-31 07:17) 

しむ

そうしますと、格納庫の土台だったのでしょうね。
お示しいただいた原町飛行場の遺構のような形状とは異なり、印象としては『舞台』のような記憶でして。

畑側からは、1mほどの段差があったように思いますが、全周ぐるりではないのです。
中は舗装された、ひび割れたフィールド、みたいなです。ちょうど、こちらもお示しいただいた北海道の記事の最後の写真の感じが、まさに記憶とピッタリです。

アパートが建設されたとき、整地する際に厚くて解体に難儀したという話も人づてに聞いたことがありますので、さぞかし強固だったようで。

とはいえ、躯体というと構造物然としてしまいますね……失礼いたしました

https://mapps.gsi.go.jp/maplibSearch.do?specificationId=1010427
このカラー写真だと、もしかしたら点々と福島のような構造物があったのかもしれないなと感じます!(よじのぼっていたのは北側の影のある段差部分です)

門柱も写っています。懐かしく思い出しました!
ありがとうございます。

諸々、現住の叔父がおりますのでまた聞いてみようかと思います。
写真でも残っているとよいのですが。
by しむ (2021-08-31 22:14) 

とり

■しむさん
格納庫の件、詳しくありがとうございました。
航空写真もありがとうございます。
この写真だと分かりやすいですね。
門柱、バッチリ映ってますね。
この当時からグーグルカーが走っていたら、
対の門柱が立ってる場面がバッチリ見れたのですが。。。
それから、格納庫の周辺に円形のものが幾つかありますね。
縁取りのあるきれいな円形で、大きさも同じであることから、
防火水槽ではないかと思いました。
同じ埼玉県の坂戸飛行場に同じものが現存しています。
また何かございましたら、コメントお待ちしております。
お写真残っているようでしたら、是非拝見したいです。
by とり (2021-09-03 07:14) 

しむ

防火水槽の痕跡なのですね!今はもう皆無ですねえ…(さすがに)

既に1980年の写真ではくだんの構造物はないようですね。。。
また、格納庫跡の北東部分から入る轍は、祖父の耕運機の痕跡のようです、笑(エステーさん方面の畑に向かう際のショートカットでして、荷台に揺られた記憶が、、、)

写真が見つかりましたら、またお邪魔します。
こちらこそ、貴重なお話をありがとうございます!
by しむ (2021-09-07 19:24) 

とり

■しむさん
昔の思い出が航空写真に残ってるって、スゴイですね。
お写真、オイラが拝見しても構わないようでしたら、
是非よろしくお願いします。

坂戸飛行場の防火水槽跡はこんな感じです。

https://goo.gl/maps/D4X8W5zqJ15tkqhu9

35.95408, 139.40322 (←この数字で検索なさってください)
by とり (2021-09-08 05:59) 

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