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岩手陸軍飛行場(後藤野飛行場)跡地 [├空港]

  2009年9月訪問 2019/10更新  



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1947年11月(USA M621 321)    
出典:国土地理院ウェブサイト(地理院データを加工して作成)

岩手県にあった「岩手陸軍飛行場(後藤野飛行場)」。

ここは飛行場敷地の地割がハッキリせず、なかなか作図できなかったんですが、

サイト:「地域遺産を語り継ぐ会」様(下記リンク参照)の作図を参考にやっと作ることができましたm(_ _)m 

飛行場敷地のかなりの部分は現在、後藤野工業団地になっており、後は畑が広がっています。

敷地西側の地割は現在畑で消えていますね。

「地域遺産を語り継ぐ会」様よりの情報ですが、

上の航空写真の白っぽく見えている部分が滑走路だったそうです。

また、現県道103号線は花巻に至る、そして同192号線は藤根に至る飛行場道路だったそうです。

「防衛研究所収蔵資料:陸軍航空基地資料 第1本州、九州 昭19.1 水路部」の中に、当飛行場の頁がありました。

以下引用させて頂きます。

岩手陸軍飛行場
岩手県和賀郡藤根村
39°19′6N 141°1′0E

面積 北西-南東1,750米 北東-南西1,750米 
地面の状況 概ね芝地なるも所々に砂利露出す、北西-南東に向け1/80乃至1/100の
下り傾斜を為す 硬度は普通にして排水良好なり
目標 和賀川、横黒線軌道
障碍物 西方約2粁に南北に縦走する奥羽山脈あり
離着陸特殊操縦法 (記載無し)
格納設備 木造格納庫(20x30米)4棟あり
照明設備 (記載無し)
通信設備 横川目郵便局(電信及電話取扱)南西方約4粁
観測設備 水沢測候所(南東方約25粁)あり
給油設備 少量あり
修理設備 なし
宿泊設備 兵舎あり
地方風 全年を通じ南南東風多し
地方特殊の気象 冬季降雪あり、最近の統計に依れば雪日数81.4、霧日数14.9なり
交通関係 横川目駅(横黒線)南西方約5.5粁「バス」の便なし
其の他 (記載無し)
(昭和18年4月調)
 

 

近隣にある「北上平和記念展示館」に当飛行場につしての非常に詳しい資料がありました。

以下抜粋して記させて頂きます。

■岩手県陸軍飛行場
 岩手県陸軍飛行場(通称は後藤野飛行場)は、昭和12年9月2日黒沢尻 花巻町をはじめとする隣接2町11ヶ村による後藤野飛行場設置期成同盟会の結成によって建設を促進することとなった。既に数箇所の候補地があげられていたが、後藤野は広さと地形の平坦さとから適地とされ、百万坪の寄附採納をへて昭和12年11月29日後藤野飛行場設置は正式に決定された。
 昭和13年6月6日起工式を挙行。工事は県内各地から一般、婦人会、青年団、中等学校生徒などの勤労動員がなされ、その数は延べ12万851人に及んだ。要した費用は8万9000円。かくして、昭和13年11月6日、わずか148日の工期をもって岩手県陸軍飛行場並びに飛行場道路の竣工式が行われた。
 当初は、教育訓練用として使用され、連日双葉の練習機が飛んだ。昭和16年太平洋戦争が始まると、次第に作戦用飛行場に転換され、ついに特攻隊の訓練地にかわっていった。
 終戦近く、昭和20年5月頃は特攻隊を編成して前線基地に出陣するなど緊迫感につつまれたが、終戦と
なり竣工以来およそ6年10ヶ月で使命を終えた。 

■蜃気楼が見えた「後藤野」
 後藤野は、4キロ先まで見渡す限りの広大な原野で、太い木が育たず森林が形成された形跡もない土地であった。また、「きつねだて」という蜃気楼の現象が1907年(明治40年)頃まで、毎年暮れより1月の始めにかけて見られたそうである。

■「飛翔の地」後藤野
 野ぎつねが駆け巡った後藤野の草原は、過去の歴史から見ても、いくたびの戦いの兵隊や軍馬が行軍する軍事上の要路であり陣営を張った聖地でもあった。八世紀末には、坂上田村麻呂が蝦夷(阿弖流為総大将)討伐のため、この地で大軍の観兵式を行ったと伝えられています。十一世紀中ごろには、後藤野は前九年の役の重要な舞台のひとつともなり、阿部貞任を追って源義家(八幡太朗義家)が後藤野に軍を進めた。それ以来後藤野は八幡原とも呼ばれた。また義家が、前九年の戦いのために荒れ果てた当地方の安泰を願って、京都伏見稲荷神社(千本鳥居がある所)より分祀したのが、現在の後藤野稲荷神社だとも伝えられている。
 十二世紀末になると、平泉に黄金文化を築いた奥州藤原氏の第四代藤原泰衡を討伐するために、源頼朝が鎌倉からこの地に進軍した。泰衡が家来の河田次郎に暗殺され、頼朝はその泰衡の首を確かめるため、紫波のの(原文ママ)陣ヶ丘に28万4千騎の大軍をもって向かう途中、後藤野に一夜の陣営を張ったという。
 また、この地域は全国的にも一揆が多く発生した場所で、1866年(慶応2年)この年、鬼柳、黒沢尻で起こった一揆の衆約一万人が、後藤野の荒野で勢揃いをして紫波神社まで押し寄せ、最終的には三万人もの大一揆となったことなどが、和賀町に伝わる古文書『慶応二寅ノ巻』に詳しく記されている。
 終戦後は、岩手県に民間飛行場(現:花巻空港)の建設が持ち上がり、後藤野の飛行場跡地が有力となるが、開拓者、農民、市民の反対派は後藤野に集結し、トラクターに乗り込み県庁に向かったという。これが、後藤野における最後の一揆(反対)運動である。
 これらの歴史から思うと、この地(後藤野)は『飛翔の地』として位置付けされていたのではないだろうか。 後藤野-最北の特攻出撃基地-加藤昭雄著より参考転記

■後藤野に飛行場を進言した澤藤幸治黒沢尻町長
(経歴等中略) 飛行場の誘致合戦激化 1931年(昭和6年)9月18日、『満州事変』を契機として、大々的に戦争熱・愛国熱が煽られ、飛行機・飛行場の献納運動が全国的にまき起こっていった。その後、陸軍省航空隊拡張計画で東北に一ヵ所の陸軍飛行場建設の意向が示されると、県内各地で飛行場の誘致活動が活発となるのである。そのころには、金ヶ崎(高谷野原)仮飛行場で熊谷飛行学校の飛行訓練等も行われ事実上陸軍省航空本部も金ヶ崎を最適地とみなしていた。そんな中、岩手県はたび重なる凶作や1933年(昭和8年)3月3日の三陸沖大地震による大津波が引き起り、やっと立ち直りを見せた時で飛行場を誘致することは地域経済への効果は多大に影響するとの思いがあり、各地での誘致合戦が激化することとなる。

■後藤野に飛行場を進言する
 1936年(昭和11年)9月26日岩手県盛岡市出身で、陸軍航空界の先駆者といわれる長澤賢治郎陸軍少将(当時熊谷飛行学校校長)がこの日、黒沢尻中学校(現:黒沢尻北高等学校)での講演のため黒沢尻を訪れていた。この時、澤藤幸治黒沢尻町長(当時)が長澤少将に後藤野を視察してくれるよう進言した。「本県には飛行場がないから見ておいても良いが、何せ雪が多くて困る」と当初は乗り気でなかった長澤少将を、昼食前のわずかな時間に無理やり連れだすような形で、その視察は行われたという。10月には、黒沢尻町評議員会で後藤野飛行場建設の意思決定がなされ、その後1937年(昭和12年)黒沢尻、花巻の二町と藤根、江釣子、岩崎、横川目、飯豊、二子、湯田、笹間、太田、湯口、湯本の11ヶ村で「後藤野飛行場設置同盟会」を結成し実現を図った。同年、11月27日 後藤野飛行場の献納が正式に決定され、本格的に工事が始まるのである。

■近年の工業都市基盤を創りだした澤藤幸治
 澤藤幸治氏の経歴を見てみると、戦争末期の時代に大阪で新聞記者を経験した後、澤藤商店・東京では出版社など開業している。当時、親友であった風見章氏(元代議士)との交流もあったことから、戦争関連・軍事産業の詳しい状況が把握できたと思われる。この地域の主な産業基盤は農業が主体で、毎年凶作が続き苦しい生活をおくっていた時代である。そんな中、軍事産業がいかに地域の経済効果を高めるかを澤藤幸治氏は思い描いていたのではないだろうか。事実、飛行場工事に伴う道路工事や飛行場の整地作業などで、多くの労働者が訪れ街は活気づくのである。また、飛行場献納式の時には秩父宮を迎えるなどで、街は大いに沸き立ったていった。(ママ)その後も、軍関係者が管理施設の建設を行うと共に飛行訓練が開始されると、街への経済効果がいっそう表れて来るのである。
 戦局も厳しくなり、都心にあった中島飛行機の工場が空爆を避け、北上近郊の各地に工場が建設される事になった。これにより、下請け工場や工業技術者も増え益々にぎわいを見せるのである。戦後は、こういった技術を生かした中島飛行機黒沢尻工場のちのイワフジ工業などの様に各地に引き継がれ、工業都市としての技術基盤が創られていったのである。

■岩手陸軍(後藤野)飛行場の誘致決定
 期成同盟会は、各関係方面に陳情を行うと、「飛行場敷地30万坪(99㌶)では役に立たぬ、近代空の門戸としての飛行場は少なくとも100万坪(330㌶)を要する」と、陸軍の本音をあからさまに言われるのである。同盟会は、計画を急遽120万坪(396㌶)に変更し、日本一広い後藤野飛行場が1937年(昭和12年)11月27日に正式決定されるのである。(地代は、1坪当り5銭という安値で、泣く泣く印鑑をつかされたという。金ヶ崎で32銭と主張する地主と、20銭を主張する村側で折り合いがつかなかった事を聞けば、あまりにも非情に思うがその時代、言葉にすることが非国であった。

■岩手県は財政難
 この頃の岩手県は、続く大凶作に見舞われ悲惨の極にあった。更に1933年(昭和8年)3月3日の三陸沖大地震は三陸沿岸に
大津波を引き起こし、大きな被害をもたらした。このような中で岩手県は一機の飛行機の献納すら不可能な状況で、飛行場
の建設費は、県費に負担がかからない方法を講究しなければならなかった。ちょうどそのころ、『秩父宮台慮奉戴青年勤労報国団』が県下各学校・地域、職場を単位として、その年の5月に結成され、ねがってもないこの運動に便乗し、抜根、芝払い、整地作業をすべて青少年の勤労奉仕に頼るという計画を立てたのである。また、県民の戦争への意識を高揚する恰好の材料として連日新聞紙上でその模様が報道されたという。
                
■飛行場の起工式が行われる
 1938年(昭和13年)6月6日、後藤野飛行場建設の起工式が行われ、黒沢尻中学校(現:黒沢尻北高等学校)生徒225名が最初の労力奉仕に参加した。伐木、伐根、刈り払いが中心で、高い所の土をリヤカーで低い所へ運び整地するという全く原始的な人海戦術であった。奉仕団の宿舎としては近郷の小学校校舎が割り当てられ、近くの在郷軍人会の者が作業の指揮をとった。労力奉仕には、県下の全中等学校(現:高等学校)が二泊三日でかり出される。1ヶ月間の第1期工事には、県下13校、延べ9,198人が勤労奉仕に参加。第2期工事は整地作業に移り、上記の中等学校(高等学校)に加えて、上記以外の沿岸県北の中等学校(高等学校)・女学校・専門学校・青年勤労報国団・婦人団体・小学校児童教員団・消防団等計305団体が参加した。

■勤労達の日程
 朝は4時に起床し、一汁一菜の朝食をしてから約4㌔道を歩いて飛行楊(ママ)に着き、午前7時に国旗掲揚、宮城揺拝(ママ)をして仕事を始める。50分勤労して10分間は体操し、正午から1時間半休んで5時まで働き、又4㌔の道を歩き宿舎に戻る。入浴もせず小学校の板の間に毛布一枚にくるまって蚊帳もつらず眠っていた。17歳の生徒達には相当な重労働であったろう。

■秩父宮を迎えての飛行場献納式
 1938年(昭和13年)9月25日、秩父宮(昭和天皇の弟宮)を迎えて岩手陸軍飛行場の受納式(献納式)が挙行されることとなり、神事の後献納にいたる経過報告、献納書贈呈、受納書交付があり、陸軍大臣代理岩下新太郎少将より『岩手陸軍飛行場』の命名が宣せられた。岩手県下の、付近町村勤労奉仕団等約十万人が参列したという。

■勤労奉仕による飛行場の完成
 完成全体面積は、120万坪(396ヘクタール)・飛行場:17.5kmx17.5km、管理施設:300mx300m、関東の熊谷飛行場(314ヘクタール)をしのぐもので、抜根、整地作業は建設機械のなかった当時、県下中等学校(現:高等学校)地域青年団、職場を単位として結成された青少年勤労報国団の勤労奉仕によって、すべて人力によって行われた。
 1938年6月6日の起工式から竣工まで総工日数148日、延べ12万851人が勤労奉仕に参加したが、総工費はわずか8万7千円だった。飛行場道路が花巻間21㌔藤根駅間4㌔で用地費3万5千円、工事費が21万円だったことからすると、飛行場整地の工費8万7千円がいかに安あがりだったかが伺える。完成後も飛行場拡張整備のため、勤労奉仕の青年学徒8千人を動員して終戦まで行われた。


■地域は活気に満ちた
 献納式典が終わると、午後からは航空ページェントに移り、陸軍戦闘機3機、偵察機1機の外に中島式AS型旗葉機(ママ)が参加して、後藤野飛行場で高等飛行を公開し、さらにグライダー協会による滑空競技が行われ、集まった観衆は熱狂した。当目(ママ)の藤根駅の乗降客は1万599人に達し、活気に満ちていたという。

■『和賀新聞』勤労奉仕による二重三重の意義を惟い発行
 我等は本飛行場の抜根整地工作が、県下各団体員、学校生徒等の勤労奉仕によって出来上がったことに格別の意義を認めねばならぬ。事変下において団体の勤労奉仕は何処でも奨励され実行されている。現在の事変下のみならず、今後の所謂長期建設下又はそれ以後の恐らく遠い将来ではあろうが平和時代於てさえ、これは多々益々奨励され実行されなければならぬことであろう。けれども何分にもこの勤労奉仕なるものは、率直にいえば足下から鳥が立つように催されたものであった。故に他の場合に徹するに、往々にして或は心構えに周到を欠き或は順序方法を過った例もないではなかった。実際上の目的を持った勤労奉仕は、夫等の点に於て断然その選を異にする。我が後藤野に於げる汗の奉仕に参加したものは千万言の訓言教示を俟たずして、如実に勤労奉仕の精神を体得した筈である。本県飛行場がかくして県下青年諸子の尊き体験によって完成した所りでなく、本県の勤労奉仕がこの飛行場の完成を契機として本物となったと云っても必ずしも不言であるまい。その点からしても、本飛行場の竣功は永久に紀念せられなくてはならぬ。
 本紙は、本日我が郡下藤根村に堂々とその功を竣った陸軍飛行場の受納式が行わるゝに当って、以上の如き二重三重の意義を惟い、こゝにこの記念号を発刊する次第である。」(『和賀新聞』九月二十五日付)


■後藤野飛行場の完成によって練習機が飛び交う
 完成した岩手陸軍飛行場は、陸軍航空整備学校演習部隊本部、熊谷飛行学校岩手分教場となり、教育飛行訓練が行われることになる。しかし、竣工から2~3年間は、冬季は積雪が多く、西風が強いということで使用されなかったようだ。ところが、竣工3年後の1941年(昭和16年)12月8日 ハワイ真珠湾攻撃をし宣戦布告してから状況が変わり、この頃から慌ただしくなりはじめ整備学校演習部隊本部が設置されることになる。

■勝ち戦と思われていた時
 翌年、1月マニラ占領、2月シンガポール陥落と続く緒戦の勝利に国民は熱狂した 「演習部隊本部」設置されると整備学校の学生が多数やってきて、後藤野飛行場は赤トンボと呼ばれる練習機や偵察機が上空を飛ぶ姿が見られる様になり、いよいよ活気が満ちてくるのである。

■戦況が厳しくなり、後藤野飛行場が大きな役割
 真珠湾攻撃からわずか半年後の1942年(昭和17年)6月、ミッドウェー海戦の敗北を境に戦況は一変する。8月にはアメリカ軍がガダルカナル島に上陸し、6ヵ月にわたって2万4千人の戦死者、餓死者を出すという死闘の末1943年(昭和18年)2月 日本軍はガダルカナル島撤退を余儀なくされた。その後も、アッツ島守備隊2千638人が玉砕した。南方、北方の一連の戦況の悪化により、日本軍は航空政策の転換を余儀なくされ、後藤野飛行場はこれまでにも増して大きな役割を果たす時がきたのである。
 南方戦線の敗北により航空操縦者が大量に失われた結果、不足する下級将校を補充するため、学徒出陣が決定され、大学・高専を繰り上げ卒業した特別操縦見習士官及び小学校高等科(現:高等学校)卒業者を対象とする操縦特別幹部候補生(特幹)の若い航空操縦者(後の特攻隊員)を増やしていった。これにより、後藤野飛行場はこの『特操』の教育訓練用飛行場としての機能を活用されていったのである。

旧軍の飛行場の名称は、地元の市や町の名前を付けることが多いのですが、県名を付けるのは結構珍しいです。

どういうことかと不思議に思っていたんですが、「東北に陸軍飛行場を一つ」という構想から始まり、

周辺2町11村の期成同盟が結成され、県のかなり広範囲の勤労奉仕活動によって出来た飛行場。

といういきさつがあったんですね。

県の財政難にもかかわらず、日本一の飛行場を作ってしまった発想も凄いです。

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「後藤野工業団地」が見えてきました。

 

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飛行場敷地の中央付近に公園(グーグルマップ青マーカー)があります。

 

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この公園内に、碑、説明板がまとまって設置してありました。

 

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裏側には沿革が刻まれてました。

沿革(全文)
  一九三七年(昭和十二年)日中戦争が始まった七月、岩手県下の市町村長会議で愛国機の献納と飛行場設置が決議され、当時の黒沢尻、花巻の二町と藤根、江釣子、岩崎、横川目、飯豊、二子、湯田、笹間、太田、湯口、湯本の十一ヶ村で「後藤野飛行場設置同盟会」を結成し、地権者から僅少価格で用地を買収して、その実現を図った。
  広さ百二十万坪(三九六ヘクタール」は関東の熊谷飛行場(三一四ヘクタール)をしのぐもので、抜根、整地作業は建設機械のなかった当時、県下中等学校(現高等学校)地域青年団、職場を単位として結成された「青少年勤労報国団」の勤労奉仕によって、すべて人力によって行われた。
  翌年九月二五日秩父宮を迎えて献納式が行われ「岩手陸軍飛行場」と命名された。起工式から竣工まで一四八日、延十二万八五一人、総工費僅か八万七千円であった。
  当所は陸軍の教育訓練飛行場として使用され、上空には赤トンボと呼ばれた複葉練習機が飛び交ったが、一九四四年(昭和十九年)本土が空襲を受けるようになって俄かに実戦基地化され、「神鷲隊」という特攻隊が移駐し短期間の訓練の末各地に配属されていった。翌年八月九日 米軍艦載機により空襲を受けて飛行場の施設が破壊され、隣接する民家に投下された爆弾で横川目国民学校四年○○○君(当時十歳)が犠牲となった。同日、特攻隊三機が発進したが○○○○中尉(二十二歳)○○○○少尉(二十二歳)○○○伍長(十九歳)は 還らぬ人となった。
  一九四五年(昭和二十年)八月十五日終戦となって飛行場の役目が終った後藤野は、国から払い下げを受け開拓団が入植して農地に生まれ変わり、さらにその一角には工場が誘致され工業団地となって発展した。当時の飛行場の面影を残すものは何もなく忘れ去られようとしている。戦後五十年に当り、この地が飛行場跡であることを後世に伝え、さらなる平和を願い、地区民ならびに篤志者の淨戝と、北上市、花巻市の御援助により記念の碑を建立するものである。
一九九五年(平成七年)十二月二十一日
後藤野飛行場史跡整備委員会

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説明板拡大

碑文にもありますが、「県から軍に献納された飛行場」なんですね。

陸軍が使用しましたので、「愛国飛行場」ということでしょうか。

 

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説明板の地図拡大

この公園は工業団地の隅っこにあるのですが、

飛行場があった時にはこの公園が中心地だったのですね。

それにしても、こんなに飛行場の資料が充実している跡地は初めてです。

まだそんなに見学してませんけど。

この後地元の図書館に寄ったら休館だったのですが、もういいことにしました。

 

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秩父宮殿下を迎えて行われた献納式を記念する碑

 

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公園のすぐ近くにはこんな風景が広がってました。

 

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   岩手県・岩手陸軍飛行場(後藤野飛行場)跡地   

岩手陸軍飛行場 データ
設置管理者:旧陸軍
空港種別:陸上飛行場
所在地:岩手県北上市和賀町後藤
飛行場: 1,750mx1,750m
管理施設 300mx300m
面 積: 396ha
座 標:39°19′6N 141°1′0E
面 積:396ha

沿革
1931年09月 18日、満州事変。 全国で飛行機、飛行場の献納。その後陸軍が東北に一つの飛行場建設意向示す
1933年03月  三陸沖大地震による大津波。地域経済効果から各地での飛行場誘致合戦が激化
1936年09月 熊谷飛行学校校長、後藤野視察
    10月 黒沢尻町評議員会で後藤野飛行場建設の意思決定
1937年07月 2町11ヶ村による後藤野飛行場設置同盟会結成
    11月 27日、後藤野飛行場の献納が正式に決定される
1938年06月 6日 起工式
    09月  25日 秩父宮を迎えての献納式。陸軍航空整備学校演習部隊本部、熊谷飛行学校岩手分教場
1942年    この頃から赤トンボが飛び交うようになる
1943年    特操の教育訓練用飛行場として機能するようになる
1945年02月 熊谷飛行学校は第六練習飛行隊に改編。特攻隊の訓練基地となる
    03月 10日 県内初空襲
    08月 空襲を受ける
戦後は農地、工業団地になる

関連サイト:
地域遺産を語り継ぐ会  

この記事の資料:
北上平和記念展示館
防衛研究所収蔵資料:陸軍航空基地資料 第1本州、九州 昭19.1 水路部


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