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坂戸飛行場跡地 [├空港]

  2009年3月訪問 2023/6更新  

無題5.png
1946/02/13(USA M44-A-5VT 12) 
出典:国土地理院ウェブサイト(地理院データを加工して作成)


埼玉県坂戸市にあった陸軍の「坂戸飛行場」。

ここはオイラの地元にあった飛行場です。

■防衛研究所収蔵資料「陸空-本土防空-48飛行場記録 内地(千島.樺太.北海道.朝鮮.台湾を含む) 昭19.4.20第1航空軍司令部」

に 坂戸飛行場の地図があり、先頭のグーグルマップはここから作図しました。

同資料の情報を以下記させて頂きます。

位置
 埼玉縣入間郡坂戸町
積量
 約二三〇万平方米
地表の状況
 概ね良好にして野芝及雑草混生しあり大体に於て北方
 小傾斜をなしあるも中央部より北方に亘り一五〇〇分の一
 程度の傾斜をなし排水概ね可なるも地下水高し
周囲の状況
 西北に高さ約五米の松林あるも演習上差支なし
将来拡張の能否
 東方に対し現有幅員の儘二〇〇米の拡張可能なるも民家約三〇
 戸の移転を要す
天候気象の交感
 通常は排水可なるも豪雨に際しては建物付近一帯に亘り浸水
 することあり
格納施設
 格納庫六棟(八,一〇〇平方米)あり
飛行機掩体数
 大型機用七個の構築を計画し逐次作業を実施中
居住施設
 なし
交通連絡の状況
 一、自動車運行可なり
 二、東上線(坂戸駅)川越-越生間バス(飛行場正門前を運行
   す)坂戸駅-越生間は越生鉄道あり
其の他
 一、建物地帯より外周道路に沿ひ南方に対し排水溝の完備を
   希望す
 二、消火栓の施設を完備せられ度

■防衛研究所収蔵資料「陸軍航空基地資料(本州、九州)昭19.10 水路部」に当飛行場の資料がありました。

■「防衛研究所収蔵資料:陸軍航空基地資料 第1 本州、九州 昭19.10 水路部」の中でも、
「坂戸陸軍飛行場 埼玉県入間郡坂戸町 35°57′0N 139°25′0E」として、以下全く同じ記載がありました)

面積 北西-南東1,300乃至1,600米 北東-南西1,500米
地面の状況 平坦且堅硬にして植芝密生す
目標 坂戸町、東武鉄道東上線
障碍物 東端より東方約250米に低圧電線、更ニ500米を距てて
高圧電線各1條あり
離着陸特殊操縦法 (記載なし) 
格納設備 大、小格納庫6棟あり
照明設備 (記載なし)
通信設備 (記載なし)
観測設備 なし
給油設備 燃料補給可能
修理設備 なし
宿泊設備 なし
地方風 (記載なし)
地方特殊の気象 7,8月頃雷雨多く5月頃降雹あり
  12月至翌年3月間ハ降雪あり 冬季北風強吹し気流は不良なり
交通関係 坂戸駅(東武鉄道東上線)西方900米
其の他 (記載なし) 
(昭和18年4月)

(「交通関係」の項目、飛行場中心から1.8km先の「坂戸駅」が記されています。本当は飛行場の目の前に若葉駅があるんですが、若葉駅は1979年開業のため、当時は未だありませんでした)

先頭のグーグルマップは同資料から作図したものなんですが、

ご覧の通りで、飛行場敷地の地割はほぼそのまま残っており、

現在跡地には、若葉台団地と富士見工業団地が広がっています。

敷地に斜めの緑線が走ってますが、これは工業団地と住宅団地を隔てる幅50mの緩衝緑地帯です。

■防衛研究所収蔵資料「本土における陸軍飛行場要覧 第一復員局(陸空 本土防空7)」
にも当飛行場の情報がありました。

飛行場名  坂戸
位 置   埼玉県入間郡坂戸町
規 模   要図(東西1400)
舗 装   ナシ
付属施設
 収容施設 三〇〇名分
 格納施設 掩体 有蓋一九棟
摘 要   施設軍有

 

飛行場が建設された土地の歴史

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『川越』五万分一地形圖【測量時期】 明治40年測図/大正12年修正、測図の縮図/昭和14年第2回部分修正及部分修正、測図の縮図 【発行時期】 昭和16年4月発行 (飛行場建設前)

地元図書館に当時の史料が何冊もありましたので、いろいろ混ぜて以下記事にさせて頂きました。

ここには元々、片柳新田、関間新田、鶴ヶ島村大塚野新田があり、この3新田で飛行場のほぼ全域です。

・片柳新田は享保年間(1716年~1736年)、代官川沢木右衛門の計画で、片柳村民によって開墾されました。

 主な農産物は、雞、大麦、小麦、繭、粟などでした。

・関間新田は、享保10年(1725年)、関間三郎兵衛によって開墾されました。

 曹洞宗福泉寺がありました。

 農産物は、雞、大麦、小麦、大豆、粟、生糸などでした。

・鶴ヶ島村大塚野新田は、大塚原と称されていましたが、元文元年(1736年)、

 隣村青木村の百姓鈴木喜平治により開墾され、大塚野新田になったとされているのだそうです。

 大塚野新田は人家が少なく、極めて広大な平地林でした。

 そのため飛行場建設にあたり、ほぼ全域が買収地となり、8戸9世帯が脚折に移転しました。

 これにより、大塚野新田の字は消えてしまいました。

 買収当時、当地は全体的に森に囲まれた屋敷が畑の中に点在しており、昼間でも薄暗く、

 うっそうとした森や林がかなり広い面積で続いていました。

ということで、坂戸飛行場が建設された土地は、森や林などが広がっていた場所の開墾が始まってから、

200年かそれ以上が経過していたのですね。

 

用地買収

昭和15年(1940)2月、坂戸町役場に突然陸軍少佐が憲兵と副官を連れてドカドカと

畳敷きに土足で上がり込んで来ました。

机の上に地図を広げるや否や、「軍に必要な施設を建設するのでこれだけの土地が必要なのです。

ご協力頂きたい。北方の戦備が重要で、それに対する備えもあってまげてご同意願いたい」。と言われました。

地図を見ると230町歩即ち70万坪で、川越、坂戸、鶴ヶ島、勝呂と、一市、一町、ニヵ村にまたがっていました。

既に軍でその地域の土地所有者は全部調べ上げてあり、地主宛ての通知書も出来ており、

「お忙しいとは思うが、緊急を要する軍の仕事であるから今日中に全部配ってもらいたい」と有無を言わせぬ命令。

受け取ったのは確か午後3時ごろ。

その手紙の内容が、「明日午前9時に認印を持って坂戸小学校に集合せよ」

ということで、細部については申しかねると言ったきりでした。

実は当時、この地域にサイドカーで軍人が巡視に来たので、地区の住民は不可解に思っていたのだそうです。

軍の機密、国家存亡の危機、国防上の重要問題と言われると我々は何も言えず、その夜は大騒ぎで配達したのでした。

翌日、少佐が軍刀をガチャつかせながら登壇し、

「坂戸に軍の施設を作らねばならぬことになった。古来、国滅びて山河ありと言うが、

国が滅びれば、もう我々の生命もないはずだ。その点をよくお考え下さって軍の施策にご協力いただきたい。

もちろんこの用地が皆さんの尊い財産だと言うことは、軍も十分知っておる。

しかし、これを作らねば、皆さんの将来はおろか、

二千六百年の輝かしい歴史を有する大日本帝国の前途さえ保障は出来んのだ。

その点、十分にご理解くださって異議なく賛成を頂きたい。

もちろんタダでもらうというのじゃない。適正な価格で買い上げます。

それでは、どなたもご異議はございませんね。ではご協力ありがとうございました。

廊下に皆さんの承諾書が出来ておりますから、それに署名捺印の上、お帰り願いたい」。

で幕。その間20~30分くらいだろうか。

少佐:「各町村で責任者はお残り頂きたい。その中で価格の協定委員を選んで頂きます。

協定委員は何名でも結構ですが、常識的に鶴ヶ島は10人くらい、後は5人くらいで如何でしょう」。

それから1,2日後、価格協定委員の名簿を提出してすぐ価格協定の会議が開催されました。 

この価格協定会議の席上面白いことがありました。

鶴ヶ島から選出された委員が大勢いる真ん中にあぐらをかいている人がいて、

「今日は価格を決めるってんだが、軍部がどういうソロバンをはじくか、あんまり安いようなら、

俺はぶっ殺されたっていい、喧嘩を売ってやる」と息巻いているんです。

その豪傑氏、そこまではよかったんですが、ちょっと言い過ぎて、

「150円以下のことを言えば…」って単価を出しちゃった。

当時のこの辺りの山林はちょっと奥の方に入ると一反大体90円が相場です。

その少し前に高萩の飛行場用地買い上げでは100円を割ったと言いますから、

そんな空気もうすうす察していたんでしょうね。

(陸軍は高萩の開墾地を接収し、昭和13年12月に使用開始しています。今回の坂戸飛行場の出来事は昭和15年2月の話)

少佐がやって来て、

「それでは今日は皆さんの大変貴重な財産を国で頂戴するのだから、その単価をお決め頂くわけだ。

皆さんの方にご意見、ご要望があれば、遠慮なく申し出て欲しい」と言うわけですが、誰も言おうとしない。

するともう一度意見はないかと念を押しました。このときも誰も何も言わない。

「どなたにも意見、異論がないとすれば、こちらの予定買い上げ価格を発表します」

と言って黒板にスラスラと書きはじめました。

一反につき田350円、山林250円でした。

地主側の内心考えている価格の倍以上の発表に皆びっくりした。

これまたドエライ数字が出されたわけです。豪傑氏の150円などとんだ茶番になってしまったわけです。

こんな調子だから異議一つ出ないで、流石の豪傑氏もただ下を向いておりました。

その後は金の支払い方法を決めた。

普通なら登記だなんて騒ぐわけでしょうが、陸軍省の職権で処理しちゃうから、登記も登記簿もあったもんじゃない。

全部向こうで「陸軍省」ってハンコ押して買い上げになった。

工事着手は早急で、8月15日が最終期限。

金の支払いは早かったのですが、山林については、その木を材木屋に売らねばならない。

軍から早く早くと急がされるものだから、材木屋がいっぱいやって来て、山林地主との商談となったが、

期限がないので、二束三文の投売りとなりました。

一方、これは鶴ヶ島地区での話なのですが、

2月3日に調印して、5月中旬にには樹木伐採、地均し工事に着工するとの移転期限を突き付けられ、

あまりの短期間の期限に地主住民には反論する者も出たのですが、

「移転先のない者は満州へ行け! 土地や移転に関することは国で負担する」との申しつけに、

当時は戦争遂行への至上主義の社会情勢の風に吹き飛ばされ、余儀なく調印となってしまったのだそうです。

その後の整理作業は請負業者の責任において進められましたが、緊急を要する軍の仕事というので、

住民も進んで作業隊を組織して応援し、1日50銭くらいの日当が支払われました。

 

建設工事

昭和15年2月起工。

用地買収話があった同じ月にもう起工です(@Д@)

移転作業と飛行場建設工事が同時並行で進んだのですね。

飛行場の整地作業は各地から入り込んだ請負業者、地元の応援、学校生徒等が勤労奉仕を行いました。

現在の若葉駅東方山林内の六尺道の道端には、大きな堆土の上に浅間様が祭られていて、

その堆土を地均しするため「トロッコ」に使うレールを縦横に敷設してしまい、

移転住民は家財道具を運び出すのに至難な状態に追い込まれ、万策を講じて移転したのでした。

3ヶ月半では住宅を建てる暇など無く、大工も徴用で不足しており、釘なども少なくそれどころか、

飛行場内を片づけるため、家屋は壊し始めを催促され、火をつけて燃やした人もあったそうです。

やがて工事が始まると、ともかく緊急を要することながら、若い労働者が少なく、

現在のような機械はなくすべて人力に依るため、八王子刑務所とか聞きましたが、

囚人800人も頼み入れ、しかも逃亡を防ぐため、厳重な警戒と監視のもとに工事に従事させたのだそうです。

鶴ヶ島に仮の刑務所を造り、朝などは作業員と囚人が一緒に整列して訓示を受け作業にかかりました。

やがて誰もが懸命に宅地を買い求めたそうですが、購入する宅地や畑は売渡価格の倍額位で、

これもまた苦労されたようです。

工事中、十数ヵ所から正中2年(1325年)、宝徳4年(1452年)、文明2年(1470年)の板碑二十数枚、

大人でも二抱えもある大土瓶(中に一人分の白骨)が掘り出されました。

工事請負の小林組は永源寺境内に改葬し、中央に白骨を埋葬、周囲に板碑を建て、丁重に弔ったのだそうです。

こうして工事は進み、予定より早く竣工したのでした。

 

飛行場開設

昭和16年5月に飛行場開きがありました。

当日は、原田勅任技師、校長・寺倉中将、幹事・藤本少将以下学校幹部。

地元側として、坂戸、鶴ヶ島、名細、勝呂、大家、入西、三芳野の各町村長ら約250人が参列しました。

修ふつ、入魂の儀、玉串奉てん、式辞、祝詞、谷田部中尉の操縦機による上昇、反転、急降下、宙返り、錐もみ等、

雨中の特殊飛行実施。

正午から中央格納庫で祝宴。

雨のため、編隊飛行、落下傘投下、地元の山車、屋台、旗行列は中止されましたが、

町村民が多数飛行場に押し寄せ、前途を心から祝福したのだそうです。

初代場長には、地元霞が関村的場出身の長島幸治中尉が着任しました。

 

飛行場運用 

坂戸飛行場は、正式名称「陸軍航空士官学校坂戸飛行場」といい、

陸軍航空士官学校の坂戸分教場として開設されました。

航空士官学校では、操縦者の養成ばかりでなく、整備、通信、偵察、爆撃、航法などの

専門家の養成も行われていました。

生徒隊が編成されており、第2生徒隊(第58期生)第23中隊五コ区隊があったと伝えられています。

操縦訓練については基本操縦から入り、徐々に高等技術に移りました。

修武台の陸軍航空士官学校ができ、その分教場として坂戸飛行場が使用されました。

そのため修武台からトラックで生徒が毎日通ってきました。

1機にだいたい5人の生徒がいて、絶えず交代して教官から操縦技術を習いました。

最初は複葉機から始め、上達してくると99式(勅許偵察機と呼んでいた)になりました。

(座談会では、この99式はロンドンへの飛行を達成したのと同型機であることに触れられています・下記リンク参照)

ここは赤土の飛行場だったので、空気取り入れ口にごみが詰まって難渋したのだそうです。

飛行場南側の一番川越寄りの場所は飛行場手前が斜面になっていて、風が吹いているとこの勾配で下降気流が発生します。

この斜面側からの着陸の場合、力も落としているため、下降気流で車輪をひっかけてしまい、

操縦士たちを悩ませたのだそうです。

 

坂戸、鶴ヶ島上空では、垂直に上昇し、あるいは降下し、見るもハラハラする猛訓練が実施されました。

そんな中、若葉駅から約1km(現在の共栄富田整形外科)に隣接した地点に訓練機が墜落し、

エンジンは6m(3~5mという記述あり)も地中深く、土中に操縦士の肉片が巻き付いたまま突っ込むという事故がありました。

97式戦闘機で7,000m上空からの事故だったのですが、

この操縦士が五味ケ谷出身者(飛行場のため移転家庭)で、鶴ヶ島で初めての航空関係の将校でした。

当時、豊岡の航空士官学校では「彼は郷里の空で我が物顔に飛んで、間違って落ちたのだろう」

などと非難の声が上がったのだそうです。

ところが、機体の墜落現場から離れた畑の中から補助翼が見つかりました。

すぐに豊岡の航空士官学校に連絡したところ、即座に教官が補助翼を回収に駆け付けました。

教官によれば、極めて優秀で非常に沈着な操縦士だったのだそうです。

これで、「間違って落ちた」のではなく、旋回訓練中機体が空中分解したのだろう。ということになり、

操縦士の汚名をぬぐうことが出来たのでした。

 

昭和18年3月、メーカーの中島飛行機の社員で、太田小泉飛行場勤務のパイロットが、

坂戸飛行場に飛来したことがあったのですが、 その時の搭乗機がキ44鍾馗で、着陸することができず、

引き返って赤トンボで様子を見に来たことがありました。

 

飛行場の周囲には柵がなく、出入りは自由でした。

近所の家で、夏はスイカ、小豆等出して厚遇してくれました。

坂戸駅前の第一勧銀(現・みずほ銀行)のところに清川という料亭があり、二人の将校が宿泊していました。

またその近辺に整備士などが多数泊まっていました。

現地自活と称して、鶏を飼って卵をかえしたり、周囲の太い松から松根油をとったりしました。

 

昭和19年3月最初の日曜日(ネットで調べたら5日だった)の朝起きたら、突然の爆音がしました。

太田から来たという零戦の3機編隊のうち、2機は無事着陸したのですが、1機がひっくり返ってしまい、

機体と地面(大雪だったとあるので雪面かも)の間に挟まれてしまいました。

救助しようとしたのですが、操縦者の顔が見るうちに紫色になって亡くなってしまいました。

 

97式重爆撃機3機、双発高等練習機2機があり、主として医療機器等の輸送を行っていました。

当時松山中学の2年生だった方が、夏休みに坂戸飛行場の草刈りに駆り出され、自宅から自転車で出かけたのだそうです。

この方は3年生になると、大島屋という旅館に泊まり込み、グライダー訓練を受けました。

昭和19年の7月か8月、97式重爆撃機でグライダーの曳航中に、地元のおばあさんに痛ましい事故が起きてしまいました。

通常はグライダーを離した後、97式は着陸前に一度飛行場に進入して長さ100mくらいの索を落とすところが、

この時はどうしても落ちません。

この機体は手動で落とすことができないため、仕方なくそのまま着陸することにしました。

重爆で1,000m程度の滑走路に降りるため、かなり手前から進入しないとオーバーランしてしまいます。

索を引きづったまま着陸進入したところ、

たまたま農作業をしていたおばあさんの両腕に索が絡まって引っ張ってしまい、両腕切断となってしまったのでした。

今でも仲間が集まると、あそこでおばあさんの腕をとってしまった、大変申し訳ないことをしてしまったと、

このおばあさんの話が必ず出るのだそうです。

(このおばあさんは長生きされたのだそうです)

 

昭和19年9月に操縦要員として移駐して来た方によれば、

軍といえども食糧難で、主食は玄米、副食は連日ごぼう、甘藷など繊維の多いものが続き、

上空では腸ガスが膨張して苦しんだのだそうです。

また甘藷から作ったアルコール燃料で飛び、匂いで酔っぱらう候補生もいたのだそうです。

戦局が激しくなってくると、坂戸飛行場にも無蓋掩体を造りました。

大急ぎで造れとのことで、スコップともっこだけで手作業だったのだそうです。

「旧陸軍坂戸飛行場の足跡」72pに、この掩体の様子を描いた絵図があり、

それによりますと、土塁の断面は、上底1m、下底1.8m、高さ2mの台形でした。

この台形の土の壁で、幅30m、奥行40mのコの字状の囲いを造り、ここに九九式高練を2機縦列駐機させていました。

土塁は飛行場から切り出した芝をサンドイッチ状に挟んであり、崩れを防ぎました。

また、鶴ヶ島市太田ヶ谷の高徳神社(先頭のグーグルマップ紫マーカー)まで誘導路を作り、

神社の隣に飛行機を置いていたのだそうです。

「旧陸軍坂戸飛行場の足跡」には、

「終戦後1年抑留されて帰って来たら、まだ高徳神社に飛行機が残っていた」という話が載っています。

飛行場で掩体を造っていたのと同時期、空挺隊のグライダー訓練の真っ最中でもあり、

ク11という双胴型、最終教育のク8というグライダーを使用していました。

この時訓練していた方の中に、後に沖縄に突入した義烈空挺隊の方々がおられたようです。


 

艦載機による空襲が激しくなり、

飛行学校本体は空襲を逃れるため、満州牡丹江温春に向け、昭和20年2月から大移転を開始しました。

列車で陸路を行き、日本海を渡りました。

この時非常整備員として、900馬力の練習用飛行機1機で牡丹江省の東京城へ移転した方がいます。

飛行時間3時間が限度の機体で、米子、海寧、牡丹江と、1日大体2時間半位飛んで、5日がかりて、

地図と羅針盤を頼りに、18才の若者が操縦し、向かったのでした。

後で知ったのですが、当時親戚は、このまま死んでしまうのではないかと言っていたのだそうです。

 

そして飛行学校の満州への移転と入れ替わるように、立川からの移動がありました。

昭和20年3月頃からの度重なるB29、グラマンの襲撃のため、立川陸軍航空廠は分散することになり、

5月頃、整備部を高萩へ、倉庫関係は狭山飛行場へ、飛行班は坂戸飛行場に疎開させました。

(現在の立川駐屯地は、戦時中は陸軍の立川飛行場でした)

昭和20年5月に立川飛行場から移動してきた方によりますと、

坂戸飛行場には東西方向に1本、砂利敷き滑走路があったのだそうです。

 

この時、立川飛行場で輸送第14中隊に所属していた方が疎開で坂戸飛行場に移り、

一番最初に任務に就いたのが、沖縄に米軍が上陸する時点で弾薬が足らないので、沖縄へ物量投下せよというものでした。

この時は3機で行って、帰って来たのはこの方の機だけでした。

それが終わると、今度はプノンペンで養成した航空隊の操縦者を、特攻隊要員として九州まで運ぶ任務でした。

この頃は坂戸飛行場も空襲が激しくなっていて、グラマンの艦載機P51が夜明けと同時に来襲する状態でした。

このため輸送隊は、夜明け前にここを離陸したのでした。

帰ってくるともう次の飛行機を整備して飛ばされました。

終戦までの3カ月の間に3回くらいこうした輸送を行い、この間も落とされた仲間がいました。

終戦の直前にまた任務についたのですが、右エンジンの不調で滋賀県の八日市に着陸しました。

そこでグラマンの空襲を受け、飛行機が焼かれてしまったため、戻って来て、

次の任務をもらって出る時が8月15日でした。

 

飛行班の任務は、立川飛行場で造られた完成機のテスト飛行やその補給で、

その頃は特攻機の部品集めや特攻機に改造する古い飛行機集めが多かったのだそうです。

その頃はもう日本は航空機の大半を失って迎撃するどころではなく、退避するしかありませんでした。

昭和20年6月以降、南方戦線への輸送に従事していた方によれば、

コースは、坂戸飛行場-熊本-大邱(韓国)-南京(中国)-アモイ(中国)-プノンペン(現カンボジア)

往復で約10日位かかりました。

その頃は、大分戦力も弱まり、辛うじて飛行場だけが確保されていた状態でした。

また、本土決戦に備えるため、貴重なパイロットの搬送が行われました。

97式重爆撃機で往復しました。

操縦士1人、副操縦士2人、機関士1人、無線士1人で乗客は15人程度でした。

爆撃機でしたが、力がなく余り乗せられませんでした。

空襲を逃れるため、いつも日の出前に出発しました。

坂戸飛行場は滑走路がアスファルトやペトンではなく土だったため、

離陸するのに摩擦が大きく、爆撃機用の滑走路でないため、2キロ程度と短く離着陸には相当な技術を要しました。

7月には坂戸も米軍機のの襲撃を受け、機銃掃射やロケット砲の投下を受け、飛行機1機を焼失しました。

8月14日夜、熊谷市がB29の爆撃を受け炎上するのが坂戸からはっきりと見えたのだそうです。
(熊谷空襲:正確には日付が変わった15日午前0時23分~1時39分)

8月15日正午、玉音放送。2,3名の脱走兵が出ました。

実は8月10日頃から無条件降伏の放送が盛んに日本語で流されていたのですが、

当時のことなので、どうせ敵のデマだろうと気にも留めませんでした。


 

戦後

8月15日終戦。

戦後、坂戸飛行場に集結された1式戦闘機(隼)十数機を飛べなくするためのプロペラはずし作業には涙が止まらず、

しみじみと敗戦を実感したのでした。

8月19日に、満州国皇帝(ラストエンペラー)を救いに行くようにという命令を受けたため、

マッカーサー司令部の許可を得て、飛行機にペンキで1mの白帯の標識をせよという指示を得ました。

が、皇帝陛下を迎えに行くこと自体はやってはいけないことだったので、落とされる覚悟でした。

連れてきたなら夜でも何でもとにかく内地まで帰ってこいという指示で、

キの67(4式重爆)という一番新しい飛行機で韓国の京城まで行き、

皇帝を待ったのですが、待機三日目になっても現れない。

それどころから飛行機を襲撃される騒ぎになり、このままでは飛行機が燃やされてしまうということで、

陛下を乗せずに坂戸飛行場まで戻ってきました。

皇帝がソ連に抑留されてしまっていたことは、後になって知ったのでした。

 

9月3日に千葉県木更津、館山、8日には東京、14日には埼玉への進駐が行われました。

埼玉に進駐したのはアメリカ第43師団の将兵7,000人で、まず熊谷市三ヶ尻の元陸軍飛行学校に落ち着き、

その後順次県内の各軍事施設に分かれて行きました。

そして11月末までに埼玉県内への進駐兵は13,800人を数えたのだそうです。

9月中頃、坂戸飛行場に2台のジープに分乗したアメリカの兵隊5,6人が何の前触れもなく到着。

飛行場内の機材、武器弾薬の員数点検の使命だったと思われます。

その将兵らは鶴ヶ島の無線送信所と川角の通信施設の所在を尋ねたというからそのままそちらに廻ったのでしょう。

20年秋にアメリカ軍が駐留しましたが、11月に引き揚げました。

 

(以下「旧陸軍坂戸飛行場の足跡」78p 坂戸飛行場と進駐軍 より抜粋)

坂戸飛行場には米軍386歩兵部隊E中隊が進駐した。

坂戸国民学校は、進駐前から高等科1,2年生が飛行場で畑を作っていた。

進駐後は飛行場は米軍の管理下に置かれ、門に傭兵が配置された。

(中略)ある晩、巡査が米兵を連れて来宅し、通訳してくださいと言う。

そこで、米兵に尋ねてみると、 盗みの疑いで日本人の男が飛行場に捕まえられている、と答えた。

これを巡査に伝えると、彼は急遽巡査部長を呼んできた。

米兵に案内されて飛行場へいくと、石灰を盗んだ容疑者がいたが、

彼の弁明を聞いた米兵側はそれ以上彼を追求しないで放免した。

しかし、坂戸飛行場の進駐軍に関して忘れられないのは、坂戸国民学校の教員・生徒との友好的な交流であった。

初めは、米兵の方から1人か2人連れで学校へ時々やってきた。

彼らの中にクラーク氏がいた。

敬虔なクリスチャンで温厚な人柄だった。

ガムもかまずタバコも吸わなかった。

ハイスクール卒の若い下士官だった。

学校側はこのクラーク氏に特に親近感を抱くようになり、学校に招いて会食したり、生徒の習字等の作品を送ったりした。

また彼はもちろん他の米兵達も一緒に招待して、生徒の踊りや歌を披露したこともある。

国民学校にも英語という科目はなかったが、坂戸には進駐軍がいるという特殊事情から、

高等科1,2年生に英語を教えることとなり、私が担当させられた。

クラーク氏はこの英語の授業で何度か私の助手をつとめてくれた。

昭和20年12月24日のクリスマス・イブには、飛行場で米兵に、生徒と青年団が踊りを披露した。

この行事についてクラーク氏が書いてくれた印象記の一部を次に要約しておく。

「これは、私が日本へきて経験した最も楽しい晩でした。

美しいkimonoを来て美しいobiesを絞めた少女達はまるでお人形のようで、

私は彼女たちをアメリカへ連れて帰りたいほどでした。

私はこれを母が見られたよいのにと願っていました。

ある士官は、終わってから私に、同じことを妻に願っていたよ、と話してくれました。

幼い男優と女優はプロのような演技を見せてくれました。」

クラーク氏は昭和21年2月末に帰国することとなった。

学校は彼のために職員室で送別会を開いた。

彼は日本と坂戸についての印象記を書いてきてくれた。

その中で彼は「私は坂戸の子供が大好きです。…日本人は友好的な国民です。…」と述べ、最後は「坂戸国民学校の

先生方ご一同が私に示して下さったご厚意に心から感謝したいと思います。」と結んであった。

(抜粋終わり)

 

富士見開拓農協

昭和21年、戦争犠牲者となった人々が雑草の生い茂る旧飛行場跡に入植することになりました。

約30世帯、土地割り当て1町~1町5反。

正式名称は「坂戸地区開拓地」で、農協を組織する際、「富士山がよく見えるから」ということで、

「富士見開拓農協」としたのでした。 

入植したのは地元の次男、三男、軍人などで農業未経験者も多かったです。

飛行場は芝が張っていて、それを軍のタンクにプラウをつけて引っ張って土をひっくり返しました。

山を削って平にし、その上に砂利を敷いて押し固めてある。

そんな土地なので、ジャガイモを蒔いたが、収穫が種よりも少ないこともありました。

先に入植した人々は、練成講習修了者の意気盛んな人たちで、埋め立て小屋に風は吹き込む、

雨は漏る、月の光の差し込むところに寝起きし、朝早くから夕方遅くなるまで汗と埃にまみれ、

藷を食し、頑張っている姿にはまったく頭が下がったものでした。

初めは薩摩芋などが多かったのですが、だんだん世の中が静まると作物も変わってきて、

西瓜がとてもよくできました。

冒頭「飛行場が建設された土地の歴史」で触れましたが、

飛行場のあった土地は、元々1700年代に開墾され、少しずつ開けていったのでした。

戦争が終わり、跡地は再び開墾から始まったのですが、

同時に終戦の翌年以降、跡地には各種学校が開校していきます。

 

昭和28年2月19日付の毎日新聞埼玉版にはこんな記事が載りました。

未処理爆弾に戦く 旧坂戸飛行場付近の住民 夜もろくに眠れぬ 県も早速調査を開始
昨年発見された六十キロ爆弾と小銃弾などが県当局に届け出たにも拘わらず、
未だに何ら処置されず付近住民をおののかせている。
この爆弾は昨年十二月二十七日未だに放置され、地元民は当局のルーズさに呆れると共に、
一刻も早く処理するよう要望している。

そして昭和28年9月には、跡地に米軍通信基地を作る計画が持ち上がり、地元に緊張が走る一幕がありました。

もしかしたら対抗案としての意味合いが含まれていたのかもしれませんが、それから1年半後の昭和30年4月には、

坂戸町観光協会、富士見開拓団農協、東京教育大学坂戸分農場といった地元発の跡地利用案として、

植物園、果樹園、総合グランド等を備えた大観光地にする計画が出されました。

これらの案がどのような変遷を経て、現在の工業団地、大規模団地になったのかは不明ですが、

米軍通信基地になっていたり、大観光地になっていたり、という可能性もあったのですね。

飛行場の名残の給水塔が今の坂戸中学校の校庭に残っていたのですが、1968年(昭和43年)に取り壊したのでした。

おるそ坂戸飛行場全図.PNG
写真:「国土画像情報(オルソ化空中写真) 国土交通省」
撮影年度:1974年 地区名:川越北部地区 編集・加工:「空港探索・とり」

上の写真は1974年撮影。住宅都市整備公団が入って9年後の様子です。

西側の一部に住宅地ができていますが、北東の工業団地区画はまだまだですね。

無題f.png
撮影年月日1946/11/14(USA R318-A-8 19) 
出典:国土地理院ウェブサイト(地理院データを加工して作成)

給水塔と防火水槽。

無題g.png
撮影年月日1946/02/13(USA M44-A-5VT 12) 
出典:国土地理院ウェブサイト(地理院データを加工して作成)

上の方で、「誘導路を作り神社の隣に飛行機を置いていた。終戦後1年抑留されて帰って来たら、まだ飛行機が残っていた。」

と話に出てきた高徳神社(白矢印)。

終戦から半年後の撮影ですから、この時はまだヒコーキが残っていたはずです。

ドコが誘導路になっていたか不明なんですが、飛行場から伸びるやけに立派な道があり、

もしかしたらコレなのかも(赤矢印)。

 

D20_0014.jpg

若葉駅前の高層団地から見た飛行場跡地。

田んぼや山林の広がる場所がその後芝の飛行場となり、

戦後は一面の開墾地、そして今はこの状態。 

目まぐるしい変貌を遂げた場所ですね。


       埼玉県・坂戸飛行場跡地       

ここは元々田んぼや山林の広がる場所で、こういう所には大抵神社があるのですが、飛行場建設の際に移転しており古い寺社は全くありません。
ある整備兵だった方の回想録が残っていて、「坂戸飛行場に転属、当飛行場で九十九式高等練習機の整備作業を行った」と書かれていました。

坂戸飛行場 データ
設置管理者:陸軍
種 別:陸上飛行場
所在地:埼玉県旧川越市、入間郡坂戸町、鶴ヶ島村、勝呂村(現・埼玉県川越市、坂戸市、鶴ヶ島市)
面 積:231ha(北西-南東1,300~1,600m 北東-南西1,500m)
座 標:35°57′0N 139°25′0E
標 高:33m
(標高はグーグルアースから) 

沿革
1940年02月 3日 陸軍、地元から土地買い上げ交渉。その後同月起工
    05月 1日 大塚野新田住民、大字脚折に移転
    08月 11日 地鎮祭
1941年05月 25日 陸軍航空士官学校坂戸飛行場開設
    07月 坂戸無線送信所開設。22日、関間新田の神明神社移転
    12月 関間新田の福泉寺、板橋へ移転
1943年夏  この頃グライダー訓練をしていた  
    11月 21日 朝香宮が来場
1944年   この頃から東上線から見えないよう、鎧戸が降ろされた。
       掩体造り。空挺隊の突入訓練(グライダーに20名程度乗り込み、97式重爆撃機で曳航)
    03月 雪中零戦の不時着事故
    06月 助教・須川曹長の東松山市の不時着殉職事故
    08月 曳航機(97式重爆のワイヤーがはずれず)飛行場北端にて農作業中の主婦の両腕切断事故
       夏頃、飛行機が5,6機あり、周辺の松林に緑のネットや枝を被せて隠していた
    11月 この頃からB29の空襲が始まる
1945年02月 23日 満州牡丹江温春に移転開始
    03月 東京大空襲。坂戸からも赤く見えた。空襲に備え、飛行場内の全飛行機撤収
    05月 8日 第15・第16輸送飛行隊が坂戸飛行場に移動
    07月 坂戸飛行場に米軍艦載機による空襲始まる
    08月 15日 終戦 
    11月 米軍歩兵部隊、坂戸飛行場に駐留
1946年    入植開始
    04月 坂戸青年学校に坂戸実務学校、坂戸実修女学校併設
1948年09月 埼玉県坂戸町外5ヵ村立高等学校開校
1949年   富士見開拓団農村工業協同組合設立
1950年04月 坂戸町引揚者住宅建設
1951年07月 30日 飛行場開拓、坂戸町大字千代田、勝呂村大字栄設置。この年村山女史高等学校開校
1952年   坂戸町立坂戸中学校が移転してくる
    05月 12日 越生線浅羽踏切で駐留米軍ジープと電車衝突
    12月 27日 飛行場跡地付近の雑木林(防空壕)の中から60キロ爆弾十数発と小銃弾発見される
1953年02月 19日 「不発弾未だ処理されず」の新聞記事
       09月 跡地を米軍通信基地にする計画が持ち上がり、緊張高まる
1955年04月 跡地を植物園、果樹園、総合グランドなどを備えた大観光地にする計画が立案される
1956年05月 22日 坂戸町大字石井に米軍ジェット機墜落
1963年   女子栄養大学教養部開校  
1965年    住宅都市整備公団、飛行場跡地を「住・工セット型団地」として造成
1971年   坂戸町役場庁舎が当地に移転
1973年   土地区画整理事業(若葉台団地)が事業認可される
1975年   富士見開拓農業協同組合解散
1979年03月 30日 若葉台団地入居開始
    04月 2日 若葉駅開設
1995年11月 1日現在、飛行場跡地(坂戸市千代田地区、鶴ヶ島市富士見地区)の人口:17,930人
       26日 戦後50周年記念坂戸市役所にて「旧陸軍坂戸飛行場にかかる座談会」

関連サイト:
神風号亜欧連絡飛行・1 

この記事の資料:
坂戸史 通史編Ⅱ
坂戸の歴史
坂戸風土記3,4,6,8号  
旧陸軍坂戸飛行場の足跡
防衛研究所収蔵資料「陸軍航空基地資料(本州、九州)昭19.10 水路部」
防衛研究所収蔵資料:陸軍航空基地資料 第1 本州、九州 昭19.10 水路部
防衛研究所収蔵資料「本土における陸軍飛行場要覧 第一復員局(陸空 本土防空7)」
防衛研究所収蔵資料「陸空-本土防空-48飛行場記録 内地(千島.樺太.北海道.朝鮮.台湾を含む) 昭19.4.20第1航空軍司令部」


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