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新田原飛行場(高鍋陸軍飛行場) [├空港]

  2009年10月訪問 2023/1更新  


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撮影年月日 1947/01/25(昭22)(USA M25A-20 43)  
出典:国土地理院ウェブサイト(地理院データを加工して作成・2枚とも)

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SkyVector.com

宮崎県の航空自衛隊新田原(にゅうたばる)基地。

2016年まで飛行教導群のいた基地です。

2017年現在、グーグルアースで使用している画像の取得日は2016/12/7で、

Wikiによれば、2016年6月10日 小松基地へ移転完了とあるのですが、

エプロンにはあの独特なカラーリングのF-15がズラリと駐機しています。

当基地は、かつて陸軍の「新田原飛行場」でした。

 

■「戦前戦後の飛行場・空港総ざらえ」の中で、宮崎県の項目に「高鍋陸軍飛行場」が登場します。

初耳の飛行場で、ググってみてもドコにあるのかなかなか分からなかったのですが、

グーグルブックスで検索したところ、戦中について扱った書籍の中に、

「高鍋陸軍飛行場」=「現・新田原基地」と記したものがありました。

アジ歴で検索してみると、 「菊池高鍋飛行場新設敷地買収の件」という文書が閲覧できます(下記リンク参照)。

この文書は昭和13年2月の新設敷地買収に関するもので、新田原飛行場建設とタイミングも同じでした。

高鍋町は新田原飛行場のある新富町の隣町ということもあり、

「高鍋陸軍飛行場」=「陸軍新田原飛行場」なのだと思います。

■防衛研究所収蔵資料「第四十一航空地区飛行場記録 昭和二十年九月二十日(陸空-本土周辺-114)」

の中で、当飛行場についての記述がありましたので、引用させて頂きます。

判決 自重十五屯以下の飛行機の使用に適す
飛行地区
 滑走地区 一二〇〇x一〇〇 約二十糎のコンクリートマガダム舗装
 舗装路 七〇〇x五〇 約十糎のコンクリートマガダム舗装
 土質 粘質壊土
 地表面の状況 舗装路外は張芝にて地耐力可なるも既設陣地あり着陸困難なり
 周辺障碍物の有無 なし
付属地区
 誘導路 なし
 宿営 三角兵舎二十棟(五〇〇名収容可)但し八月二十六日暴風に依り大部破損す
 夜間着陸設備 なし
 動力線 なし
 電燈線 前頃兵舎に配線ありしも暴風に依り大部分切損す
 給水 井戸は十六を有するも冬期に於て水量少なり
其の他
主風向 西北風但し海陸風の影響大なり

付属地区の項目に、「誘導路 なし」とありますね。

オイラにはあるように見えるんですが、どういうことなのかしらん。

実は同資料では、終盤の頁で当飛行場の「要図」と「飛行場記録」がコンパクトにまとめられて再登場しているのですが、

両者には細かな差異があります。

以下異なっている箇所を列挙します。

・舗装路:「七〇〇x五〇 約十糎のコンクリートマガダム舗装」→「滑走路及誘導路「コンクリートマカダム」舗装」
・土質:「粘質壊土」→「粘土質壊土」
・給水:「水道なし」を追加

同資料内の要図によりますと、滑走路東端の更に東側部分に、

「此の付近転圧不十分 着陸不能」とありました(グーグルマップ赤マーカー)。

■防衛研究所収蔵資料「本土における陸軍飛行場要覧 第一復員局(陸空 本土防空7)」

にも当飛行場の情報がありました。

飛行場名  新田原
位 置   宮崎県児湯郡新田原村
規 模   要図
舗 装   一〇〇×一二〇〇
      基礎築石地形
付属施設
 収容施設 一七〇〇名分
 格納施設 掩体 大三〇ヶ所 小二〇ヶ所
摘 要   施設軍有

 

下の沿革にもまとめたんですが、陸軍飛行場は戦後一旦農地になり、その後再び飛行場に戻っています。

こういうケースもあるのですね。

旧軍用飛行場を戦後再び飛行場として使用する場合、

滑走路、誘導路、エプロン、格納庫等、元々使用していたものをほぼそのまま使用したり、

それが現在までそのまま残って居たりするケースも多々あるのですが、

先頭のグーグルマップの通りで、ここは滑走路も誘導路、エプロンも元のものはほとんど使用していません。

芝張りならともかく、せっかく舗装した立派なものだったのに、これは珍しいです。

民間に払い下げられたのが1947年。

航空自衛隊の飛行場建設が決まったのが1957年で、飛行場が完成したのは翌年でした。

10余年の時を経て再び飛行場になるまでの間に、舗装がすっかり剥がされて、完全に農地に戻ったのかしらん。

なんて思っていたのですが。。。

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1961/10/07(昭36) KU611YZ 1 6   

これは滑走路完成から3年後の写真です。

陸軍当時の滑走路、誘導、エプロンが残っていたにもかかわらず、

新たな滑走路、誘導路、エプロンを建設したことが分かります。

また、この記事内でこれまでずっと、「滑走路の向きは変わっていないっぽい」などと書いていたのですが、

これもオイラの先入観からくる勘違いでした(キレイさっぱり消し去った)m(_ _)m 

年代を追って当飛行場の様子を見ていくと、1990年代後半には旧滑走路等の痕跡はほぼ消えています。

それでも新設滑走路と誘導路に挟まれた部分には、一部ですが今でも旧滑走路面が斜めに残っています。

 

オイラの妄想話はここまでにして話は変わりますが、

ここには有蓋掩体壕が4基現存しています(上のグーグルマップの青マーカー)。

基地南側の外周道路からポコポコと見えます。

現存する掩体壕に西側から勝手に番号をつけました。順番にアップします。


1番目の掩体壕 

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開口部が北北東を向いており、外周道路から見るとほぼ正面に口を開けてます。

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ここの掩体壕、開口部がみんなきれいな弧を描いてました。

陸軍型ですね。

ご覧の通り前には広々とした草原が広がっており、ステージのような不思議な場所でした。

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内部の様子

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2番目の掩体壕

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東北東を向いている2番目の掩体。

1番目の掩体の場所から丸い背中が見えました。

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他の掩体が開口部に直接軽トラで乗り付けて荷物の積み下ろしができるのに対し、

この掩体だけは前が畑になっているのでオイラは近寄れませんでした。

畑に入ってしまわないように慎重に。

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奥に見えているのは1番目の掩体。


3番目の掩体壕

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外周道路から見たところ。

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東南東を向いている3番目の掩体

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ロールがいっぱい入ってました。

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4番目の掩体壕

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北北東を向いている4番目の掩体。

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こちらは柵が設けてあって内部に入れないようになってました。

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     宮崎県・新田原飛行場    

外周道路は狭く、車同士がすれ違うポイントが制限されてます。地元車はよく心得ていて、かなり手前で延々待っていてくれる場合があり、要注意でした

・陸軍新田原飛行場 データ
設置管理者:陸軍
種 別:軍用飛行場
所在地:宮崎県児湯郡新田原村
座 標:32°05'11.5"N 131°26'55.8"E
標 高:74m
滑走路::1,200mx100m(11/29)
(座標、標高、方位はグーグルアースから。他は防衛研究所収蔵資料から)

・航空自衛隊新田原基地(現在) データ
設置管理者:防衛省
種 別:軍用飛行場
所在地:宮崎県児湯郡新富町大字新田19581
4レター:RJFN
標 点:N32°05′01″E131°27′05″
標 高:79m
滑走路:2,701mx46m(10/28)

沿革
1937年春頃 飛行場建設が村に対して内々に打診される
1938年04月 22日県から村助役に対し、新田原一帯を陸軍飛行場とするため本年度から工事着手決定と伝えられる
       23日 地主会招集
       24日 新田原村長名で予定地の作付け中止通知依頼。
       憲兵分駐所長、特高主任出席の下第一回土地買収委員会開催
1939年01月 9日 宮崎県、第六師団経理部から整地工事の委託を受ける
       30日 県、正式受諾
     02月 01日 着工
1940年07月 17日 熊谷陸軍飛行学校新田原分教場開設
     10月 01日 大刀洗陸軍飛行学校新田原分教場となる
1945年   終戦
1947年   農林省に所管換え、開拓農地として民間に払い下げられる
1957年   航空自衛隊新田原基地開設が決定される
1958年   滑走路完成

関連サイト:
アジ歴/菊池高鍋飛行場新設敷地買収の件  
ブログ内関連記事      

この記事の資料:
防衛研究所収蔵資料「第四十一航空地区飛行場記録 昭和二十年九月二十日(陸空-本土周辺-114)」
防衛研究所収蔵資料「本土における陸軍飛行場要覧 第一復員局(陸空 本土防空7)」
「21世紀へ伝える航空ストーリー 戦前戦後の飛行場・空港総ざらえ」


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