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升形(最上)滑空場、升形飛行場跡地 [├空港]

  2009年9月、2012年9月訪問 2023/1更新  


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撮影年月日 1947/11/11(昭22)(USA M638 167)  

出典:国土地理院ウェブサイト(地理院データを加工して作成)

「近代戦は最終的には航空機による戦闘が勝敗の帰趨を決する」との認識から

滑空訓練の重要性が重視されるようになり、

昭和17年ここ新庄に滑空場を設置しようという試みが具体化しました。

滑空場候補地は当初、東山地内で、同年7月に大日本飛行協会が実地調査を行いました。

そして当地に東北一の滑空場建設を目指したのですが、

用地内に広い水田、畑が含まれており、「食糧増産を急務とする時局に合致しない」ということで実現しませんでした。

 

滑空場設置と平行して滑空指導者の人材育成も行っており、

操縦課・製造課の科目については、滋賀県と大阪府に代表者を派遣して受講させています。

また同じく昭和17年、新庄の中学校では滑空訓練が正科となり、

新荘中学校での盛んな滑空訓練はしばしば紙上で報道されたのでした。

 

そして翌昭和18年5月、次なる滑空場候補地である最上郡八向村升形地内に大日本飛行協会の現地調査が入りました。

同地は30万坪の痩地のため当時は荒地となっており、滑空場用地として好条件であるとされました。

こうして升形が滑空場用地と決定し、建設計画が動き出したのでした。

昭和18年7月11日 起工式

郡内中学校、青年学校生徒15,000名の勤労奉仕と地元八向村森林組合総動員の応援を見込み、着工しました。

30万坪のうち、10万坪の整地と格納庫、宿舎を8月末までに竣工、9月初旬開場の予定で作業が進められました。

昭和18年9月20日 滑空大会と開所式を兼ねた式典が山形県知事代理臨席の下盛大に挙行されました。

第一期工事として郡内の学徒延べ3万人、地元升形集落民150余名の勤労奉仕作業によって完成したのでした。

用地が決定してからは人海戦術による突貫工事で一気に出来上がったのですね。

当時の様子が地元紙で報じられているのですが、

面積、経費、棟数、収容人数については機密として伏字になっています。

また、この完成を以て工事は終了というわけではなく、開所式後も拡張工事が継続されました。

「新庄北高等学校百年史」によりますと、同校生徒の昭和18年から20年までの勤労動員について記載があり、

升形滑空場や真室川飛行場等々多くの動員先が挙げられています。

■防衛研究所収蔵資料「海軍航空基地現状表 内地之部 舞鶴鎮守府航空基地現状表」
の中で、当飛行場について一部次のように記載がありました。

基地名:升形 建設ノ年:1945 飛行場 長x幅 米:600x30方向NW 主要機隊数:小型 主任務:退避 

 

ところで。

パイロット養成が非常に重要というのは理解できるとして、

そのために「グライダー訓練」に力を入れるというのがイマイチピンとこなかったのですが、

市史の中にこんな一節がありました。

「滑空場建設の目的は優秀な飛行機搭乗員の養成にあった。軍と大日本飛行協会が一体になって、搭乗員になるための基礎訓練を行い、陸軍特別幹部候補生または海軍予科練習生に進ませることであった。そのため19年度は約千人を目標に、米沢八幡原、新庄升形、酒田の三訓練所で滑空猛訓練と航空兵志願者に必須な学科の学習が、朝五時起床の厳しい日課の中で行われた。」

現代の純粋なグライダー訓練とは異なり、

最初から軍用機の搭乗員たる軍人育成を目的とした実技と学科だったわけですね。

 

新庄市の市史で升形滑空場は「最上滑空場」とも表記されており、

開所式後も学徒団体の勤労作業で拡張工事を継続しています。

昭和20年6月26日の山形新聞に、第2回戦時青少年滑空訓練生の入所式は24日午後2時から行われたこと、

今回の入所の130名は向こう1ヵ月間訓練を受けることになることなど書かれていました。

終戦ギリギリまでこのようなことが行われていたのですね。。。

 

また、新庄市史第五巻の中で8月10日の空襲について触れ、

升形滑空場は神町飛行場(現在の山形空港)に属する飛行兵の訓練場とされ数機の航空機もあったので、

特に激しい攻撃目標とされたこと、

真室川飛行場、升形滑空場にもこれを迎え撃つ高射砲も航空機もなかったこと、

両飛行場には複葉の練習機(いわゆる赤とんぼ)があったが飛行は禁止されていたこと等記されていました。

 

またこれと同様ですが、「升形飛行場」で検索すると、

「神町海軍飛行場の補助飛行場として、海軍の升形飛行場(800mx30m)が造られた」という記述が多数出てきます。

市史の内容と合わせ、当初は大日本飛行協会の滑空訓練場として開場したものの、

後に海軍の補助飛行場「升形飛行場」として使用されるようになったようです。

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     山形県・升形(最上)滑空場、升形飛行場跡地    
当滑空場は、「第六地方防空訓練場」とも呼ばれました

 

升形(最上)滑空場、升形飛行場 データ
種 別:滑空訓練場
所在地:山形県新庄市升形
滑走路:800mx30m(「戦前戦後の飛行場・空港総ざらえ」には600mx30mとあり)
座 標:N38°45′24″E140°14′17″
面 積:99.2ha

沿革
1943年05月 大日本飛行協会による現地調査が行われる
    07月 11日起工式
    09月 20日開場
       後に神町海軍飛行場の補助飛行場となる
1945年08月 8、10日空襲により多大の被害を受ける
       戦後開墾される

この記事の資料:
新庄市史 第5巻 新庄市/編 283-286,294-300p
新庄市史 資料編(下) 新庄市/編 319-321p
かつろく風土記 続 23-25p
山形県史 通史編 第5巻 山形県/編 947-948p
新庄北高等学校百年史 272-282p
山形市史
「21世紀へ伝える航空ストーリー 戦前戦後の飛行場・空港総ざらえ」
防衛研究所収蔵資料「海軍航空基地現状表 内地之部 舞鶴鎮守府航空基地現状表」


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