SSブログ

六郷(明田地)飛行場跡地 [├空港]

  2009年9月、2018年6月、2019年9月訪問 2023/1更新  


無題5.png
撮影年月日 1948/05/20(昭23)(USA R270 120)  
出典:国土地理院ウェブサイト(地理院データを加工して作成)

秋田県「六郷飛行場」のあった「六郷明天地野(ろくごうみょうてんちの)」 

美郷町民さんから情報頂きました。地元では「明田地(みょうでんじ)飛行場」と呼ばれていたそうです。

地元中学で当飛行場について調査したサイトのリンクを貼って頂きました(リンク切れのため削除しました)。

美郷町民さんありがとうございましたm(_ _)m

 

秋田県仙北郡仙南村出身の飛行家、佐藤章氏が明天地野に降り立ってから26年後の1945年5月、

軍命でこの明天地野に飛行場の造成が始まりました。

佐藤飛行士が離着陸で使用したすぐ東側に位置する1,500mの滑走路で、

整地して野芝を敷いただけの簡単なものでした。

滑走路の予定地にかかり、移転させられた屋敷もありました。

また飛行場跡近くには、「飛行機離着陸の支障」を理由に途中で切られてしまった松が今も残っています。

切られて以来、枝は横に広がるだけなのだそうです。

整地作業には地元だけでなく、仙北郡内から多くの児童生徒が駆り出されました。

動員されたのは4年生以上で、毎日のように作業し、大八車で芝運びをしたこともあったのだそうです。

現在の大曲高校の女生徒たちは、大曲から徒歩で鍬を担いで来て、石を拾い、地ならしの作業をしたのだそうです。

作業中の7月25日、飛行機が数機飛来し旋回するので手を振って迎えたところ、なんとそれは米軍の戦闘機で、

機銃掃射を浴びせてきたため慌てて林の中に隠れて命拾いをするという一幕もあったのだそうです。

多大の労力を費やした飛行場でしたが、結局ここから日本軍機が飛び立つことはありませんでした。

戦後の開拓で滑走路を含む一帯はすべて水田に姿を変えました。

D20_0118.jpg

現在は美しい水田が広がっています。

DSC_0183.jpg

赤マーカー地点。
 
美郷町球場から滑走路方向
 
DSC_0186.jpg

青マーカー地点。
 
美郷町球場前から滑走路方向
 
DSC_0194.jpg

緑マーカー地点。
 
「小西家の松」
 
快く撮影許可して下さいましたm(_ _)m 
 
DSC_0195.jpg
 
DSC_0192.jpg

横枝は戦後払ったもので、飛行場は関係ないのだそうです。
 
DSC_0193.jpg

「根が出てるけど生き続けている」と仰ってました。
 
DSC_0197.jpg

中央二本のうち、右側が切られた松
 
DSC_0190.jpg

「飛行場建設の時、上が切られた杉もあるんですよ」とお宅の裏手に案内して頂きました。 
 
DSC_0196.jpg

外から見るとこんな感じ。
 
DSC_0018.jpg
 
黄色マーカー地点。
 
滑走路北東部分にある案内板。
 
六郷飛行場跡(全文) 六郷飛行場は、太平洋戦争末期に陸軍が整備を進めていた秘匿飛行場の一つである。この飛行場が造成されたのは、本県出身の飛行家・佐藤章(美郷町金沢西根出身)が訪問飛行を行った明田地の原野東側であり、この地名から「明田地飛行場」とも呼ばれている。詳しくは、裏面に説明文を掲載しております。
 
 
DSC_0019.jpg
 
六郷飛行場跡(全文) 六郷飛行場は、太平洋戦争末期に陸軍が整備を進めていた秘匿飛行場の一つである。昭和二十年(一九四五)五月十四日、能代飛行場に本部を置く第七十四飛行場大隊の大隊長らが六郷町役場を訪れ、明田地の原野をそのまま利用し、特攻用の秘匿飛行場を児童の手で整備してもらえないかと、六郷国民学校に打診したのが始まりである。これを受けて六郷を含む近隣の児童二千名以上をはじめとして、(旧制)中学校、高等女学校の生徒、近隣町村の成人までを動員して、幅約二百メートル、長さ約千五百メートルの飛行場の整備が八月十四日終戦前日まで続いた。 作業が進んでいた七月十五日の出来事として、米軍の艦載機八機に飛行場を発見され、突如として機銃掃射を受けて避難したという話が伝わっている。その後も終戦前日まで作業は続けられたが、結局飛行場は使用されないまま終戦を迎えることとなった。現在は、開拓農家が入植し水田へと変わり、山裾を削った燃料貯蔵庫跡と、離発着の妨げになるという理由で幹の上部を切断された小西家の松が残っている。

7月15日六郷飛行場機銃掃射による銃弾(美郷町歴史民俗資料館所蔵)

六郷飛行場燃料貯蔵庫跡 六郷飛行場から約一キロメートル離れた山裾に三か所の壕を掘り、その上を厚い板で覆って土を被せ、飛行機の燃料を格納することになっていたという。飛行場と結ぶ道路も同時に整備された。

後三年空襲被害状況 昭和二十年(一九四五)八月十日早朝、後三年駅で下り一番列車が戦闘機に襲われ、死者四名、重傷五名、軽傷二名が出た。一両目には兵隊、二・三両目には一般客と学生が乗っていたといわれる。引用・参考文献「六郷小学校百年の歩み」「旧陸軍六郷飛行場関係史料調査報告書」

 
DSC_0020.jpg
 
案内板の所から見た滑走路方向はこんな感じ。
 

    秋田県・六郷(明田地)飛行場跡地   

六郷(明田地)飛行場 データ
設置管理者:旧陸軍
種 別:陸上飛行場
所在地:秋田県仙北郡美郷町六郷明天地野
座 標:N39°24′14″E140°34′46″
滑走路:1,500mx200m
方 位:02/20
(座標、方位はグーグルアースから)

沿革
1945年05月 14日 飛行第隊長より六郷役場に飛行場建設打診。その後周辺地域住民の協力で造成始まる
    06月 下旬 ほぼ完成
    07月 15日 艦載機による機銃掃射
    08月 14日 飛行場の整備続く。15日終戦
       戦後進駐軍機飛来。 その後は開拓地に

関連サイト: 
美郷町/六郷飛行場跡  
六郷飛行場 六郷に飛行場を造ることになったいきさつ等記されています
ブログ内関連記事    

この記事の資料:
六郷町史
秋田魁新報
現地の案内板


コメント(21)  トラックバック(0) 
共通テーマ:趣味・カルチャー

升形(最上)滑空場、升形飛行場跡地 [├空港]

  2009年9月、2012年9月訪問 2023/1更新  


無題2.png
撮影年月日 1947/11/11(昭22)(USA M638 167)  

出典:国土地理院ウェブサイト(地理院データを加工して作成)

「近代戦は最終的には航空機による戦闘が勝敗の帰趨を決する」との認識から

滑空訓練の重要性が重視されるようになり、

昭和17年ここ新庄に滑空場を設置しようという試みが具体化しました。

滑空場候補地は当初、東山地内で、同年7月に大日本飛行協会が実地調査を行いました。

そして当地に東北一の滑空場建設を目指したのですが、

用地内に広い水田、畑が含まれており、「食糧増産を急務とする時局に合致しない」ということで実現しませんでした。

 

滑空場設置と平行して滑空指導者の人材育成も行っており、

操縦課・製造課の科目については、滋賀県と大阪府に代表者を派遣して受講させています。

また同じく昭和17年、新庄の中学校では滑空訓練が正科となり、

新荘中学校での盛んな滑空訓練はしばしば紙上で報道されたのでした。

 

そして翌昭和18年5月、次なる滑空場候補地である最上郡八向村升形地内に大日本飛行協会の現地調査が入りました。

同地は30万坪の痩地のため当時は荒地となっており、滑空場用地として好条件であるとされました。

こうして升形が滑空場用地と決定し、建設計画が動き出したのでした。

昭和18年7月11日 起工式

郡内中学校、青年学校生徒15,000名の勤労奉仕と地元八向村森林組合総動員の応援を見込み、着工しました。

30万坪のうち、10万坪の整地と格納庫、宿舎を8月末までに竣工、9月初旬開場の予定で作業が進められました。

昭和18年9月20日 滑空大会と開所式を兼ねた式典が山形県知事代理臨席の下盛大に挙行されました。

第一期工事として郡内の学徒延べ3万人、地元升形集落民150余名の勤労奉仕作業によって完成したのでした。

用地が決定してからは人海戦術による突貫工事で一気に出来上がったのですね。

当時の様子が地元紙で報じられているのですが、

面積、経費、棟数、収容人数については機密として伏字になっています。

また、この完成を以て工事は終了というわけではなく、開所式後も拡張工事が継続されました。

「新庄北高等学校百年史」によりますと、同校生徒の昭和18年から20年までの勤労動員について記載があり、

升形滑空場や真室川飛行場等々多くの動員先が挙げられています。

■防衛研究所収蔵資料「海軍航空基地現状表 内地之部 舞鶴鎮守府航空基地現状表」
の中で、当飛行場について一部次のように記載がありました。

基地名:升形 建設ノ年:1945 飛行場 長x幅 米:600x30方向NW 主要機隊数:小型 主任務:退避 

 

ところで。

パイロット養成が非常に重要というのは理解できるとして、

そのために「グライダー訓練」に力を入れるというのがイマイチピンとこなかったのですが、

市史の中にこんな一節がありました。

「滑空場建設の目的は優秀な飛行機搭乗員の養成にあった。軍と大日本飛行協会が一体になって、搭乗員になるための基礎訓練を行い、陸軍特別幹部候補生または海軍予科練習生に進ませることであった。そのため19年度は約千人を目標に、米沢八幡原、新庄升形、酒田の三訓練所で滑空猛訓練と航空兵志願者に必須な学科の学習が、朝五時起床の厳しい日課の中で行われた。」

現代の純粋なグライダー訓練とは異なり、

最初から軍用機の搭乗員たる軍人育成を目的とした実技と学科だったわけですね。

 

新庄市の市史で升形滑空場は「最上滑空場」とも表記されており、

開所式後も学徒団体の勤労作業で拡張工事を継続しています。

昭和20年6月26日の山形新聞に、第2回戦時青少年滑空訓練生の入所式は24日午後2時から行われたこと、

今回の入所の130名は向こう1ヵ月間訓練を受けることになることなど書かれていました。

終戦ギリギリまでこのようなことが行われていたのですね。。。

 

また、新庄市史第五巻の中で8月10日の空襲について触れ、

升形滑空場は神町飛行場(現在の山形空港)に属する飛行兵の訓練場とされ数機の航空機もあったので、

特に激しい攻撃目標とされたこと、

真室川飛行場、升形滑空場にもこれを迎え撃つ高射砲も航空機もなかったこと、

両飛行場には複葉の練習機(いわゆる赤とんぼ)があったが飛行は禁止されていたこと等記されていました。

 

またこれと同様ですが、「升形飛行場」で検索すると、

「神町海軍飛行場の補助飛行場として、海軍の升形飛行場(800mx30m)が造られた」という記述が多数出てきます。

市史の内容と合わせ、当初は大日本飛行協会の滑空訓練場として開場したものの、

後に海軍の補助飛行場「升形飛行場」として使用されるようになったようです。

D20_0041.jpg

 

 


     山形県・升形(最上)滑空場、升形飛行場跡地    
当滑空場は、「第六地方防空訓練場」とも呼ばれました

 

升形(最上)滑空場、升形飛行場 データ
種 別:滑空訓練場
所在地:山形県新庄市升形
滑走路:800mx30m(「戦前戦後の飛行場・空港総ざらえ」には600mx30mとあり)
座 標:N38°45′24″E140°14′17″
面 積:99.2ha

沿革
1943年05月 大日本飛行協会による現地調査が行われる
    07月 11日起工式
    09月 20日開場
       後に神町海軍飛行場の補助飛行場となる
1945年08月 8、10日空襲により多大の被害を受ける
       戦後開墾される

この記事の資料:
新庄市史 第5巻 新庄市/編 283-286,294-300p
新庄市史 資料編(下) 新庄市/編 319-321p
かつろく風土記 続 23-25p
山形県史 通史編 第5巻 山形県/編 947-948p
新庄北高等学校百年史 272-282p
山形市史
「21世紀へ伝える航空ストーリー 戦前戦後の飛行場・空港総ざらえ」
防衛研究所収蔵資料「海軍航空基地現状表 内地之部 舞鶴鎮守府航空基地現状表」


コメント(10)  トラックバック(0) 
共通テーマ:趣味・カルチャー

今年も宜しくお願い致します [■ブログ]

とり.png

 

今年もどうぞ宜しくお願い致します。

とり。


コメント(24)  トラックバック(0) 
共通テーマ:日記・雑感