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読売加須滑空場(日本学生連盟読売滑空場・旧大利根滑空場) [├空港]

   2007年10月訪問 2022/10更新  




埼玉県加須市にある「読売加須滑空場」。

利根川右岸にあります。

この滑空場の案内標識を(オイラは)発見できなかったのですが、

隣接する「カスリーン公園」の標識をたどって行くと見つけやすいと思います。

この坂を登って土手に上がると、

目の前に滑空場が広がります。

一応滑空場のほぼ全景です。

こちら側のエンド。

あちら側のエンド。

東武日光線の鉄橋が目印になりますね。

土手を降りるとこんな感じ。


       埼玉県・読売加須滑空場     

    ビュー:☆☆☆★★  
ギャラリー席は特になし。滑走路をさえぎるものがなく、見晴らし最高。 

    施設:☆☆★★★  
トイレ、専用駐車場発見できず。

    マニア度:☆☆☆☆☆  
操縦訓練場として一般に広く門戸を開いている。

    総合:☆☆☆☆★  

毎週日曜日にSAF(Student Air Federation)が飛行を行っており、随時会員募集中。入会すれば、ベテラン指導員が親切丁寧に操縦訓練を行ってくれるそうです

読売加須滑空場データ
占用者:特定非営利活動法人学生航空連盟
所在地:埼玉県加須市新川通地先 利根川河川敷
標 点:N36°09′32″E139°40′48″
標 高:17m
離着陸帯:1,350m×60m(グラス)
磁方位:13/31
航空管制周波数
よみうりかぞフライトサービス 130.775 運航日の0900~日没迄

沿革
1969年04月 滑空場開設(二子玉川読売飛行場の返還に伴い移転)
1999年11月 飛行援助用航空局「よみうりおおとねフライトサービス」認可、開設
2007年04月 滑走路延長工事実施。総延長1350m
2010年04月 「特定非営利活動法人学生航空連盟」認証、事業開始
2012年10月 「読売加須滑空場」及び「よみうりかぞフライトサービス」に名称変更

関連サイト:
学生航空連盟   


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羽生滑空場 [├空港]

   2007年10月訪問 2022/10更新  



埼玉県羽生市 羽生スカイスポーツ公園内にある「羽生滑空場」。

 

河川敷に芝が張ってあるだけの場所を想像していたのですが、予想外に立派な公園でした。

公園見取り図の一部ですが、ご覧の通り上から見るとヒコーキを模っています。

右翼:レジナンバーとフラップ。

芸が細かいですね

T-3初等練習機が展示されてました。 

つい最近退役したんですね。

こうしてコックピットを見下ろせるようになってました。

巨大な滑り台がありました。

ちょっと暑いくらいのぽかぽか陽気で、数組のお母さんたちがまだ幼い子供と一緒に滑ってました。

オイラは滑ってません。

本当です。

グライダーゾーン

地元ソアリングクラブの施設になってました。

手前にあるのは公衆トイレ。

滑空場を見下ろせる場所にある駐車場。

公園入り口のところにも駐車場があるのですが、滑走路のある奥まではなだらかな丘を上らねばならないので、

グライダー目当てなら最初からこっちに停めたほうが楽です。

奥の芝が広がっている部分が羽生滑空場です。

画面右側がランウエイエンド。

滑空場はまだほんの数箇所しか見てませんが、こうして河川敷に芝を張って滑走路が設けているパターンが多いです。

土手のスロープがギャラリー席になっているのは妻沼滑空場と似ています。

今日は離発着がないので、立ち入らせて頂きました。

先ほどのランウエイエンドから見た滑走路のセンター。

グライダーが飛んでるときには、部外者のオイラにはこういう写真は絶対撮れません。 

ですから今日来たことは、決して無駄ではないのです(ということにしておこう)。


      埼玉県・羽生滑空場     

    ビュー:☆☆☆☆☆  
ギャラリー席あり。見晴らし最高

    施設:☆☆☆☆★  
トイレ、無料駐車場あり

    マニア度:☆☆☆☆☆  
T-3型初等練習機が展示されている

    総合:☆☆☆☆☆  

施設が非常によく整っている。
1年間に約4,000回の離着陸が行われている。

展示機T-3にはこんな説明書きがありました。
「羽生スカイスポーツ公園は、市民のスカイスポーツの関心を高めるために整備された公園であり、上空から見た姿が、航空機を模った形のユニークな公園であります。このスカイスポーツ公園のシンボルとして、来園者に広く航空機を身近なものに感じてもらうとともに、大空への夢・憧れ・好奇心を高めてもらうために、「自衛隊航空機T-3型初等練習機」を展示するものです」。

羽生滑空場データ
設置管理者:埼玉県羽生市
運用時間:土日祝を主とした飛行活動日 9:00頃~17:00頃
所在地:埼玉県羽生市常木 利根川右岸敷
標 点:N36°11′31″E139°36′33″
標 高:19.2m
滑走路:650m×30m
磁方位:14/32(2006年に変更)
航空管制周波数
羽生フライトサービス 130.725

沿革
2006年 滑走路がやや北西側にずれ、15/33→14/32に変更

関連サイト:
スカイスポーツ公園    
羽生ソアリングクラブ
↑グライダーが飛ぶ日をチェックできます。 


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岡南飛行場 [├空港]

  2007年4月訪問 2022/10更新  


無題2.png
撮影年月日1963/04/26(MCG631X C3 17) 開港翌年。「県の空の玄関口」時代
出典:国土地理院ウェブサイト(地理院データを加工して作成)

無題3.png
SkyVector.com

今回はいきなり着陸シーンからです。

岡南飛行場のJAPCON 新社屋落成式典については、こちらをご覧くださいませ

一見関係者以外立ち入り禁止かと思ってしまいますが、3階が展望台として開放されています。

エレベーターで3階に上がると展望台。 

 


      岡山県・岡南飛行場     

    ビュー:☆☆☆☆★  
展望デッキ無料。見晴らし最高。 

    施設:☆☆★★★  
写真を見ての通りで、管制塔の建物一部を開放するという独特の造りになっている。
自販機、案内表示あり。
売店、土産物店などはない。
飛行場前に無料駐車場あり。   

    マニア度:☆☆☆☆☆  
ジャプコン、岡山航空共に受け入れ度が非常に高い。

    総合:☆☆☆☆★  

ゼネラルアビエーション空港(小型航空機の拠点飛行場)第1号認定。
貸切輸送、遊覧飛行、撮影、宣伝などの事業が行われている。
岡山県警察航空隊、岡山市消防航空隊の基地としても運用。
年間の総着陸回数は約4,000回。

岡南飛行場データ
設置管理者:岡山県
3レター:OKS
4レター:RJBK
空港種別:その他の空港
運用時間:8:30~18:30
所在地:岡山県岡山市浦安南町
標 点:N34°35′29″E133°56′00″
標 高:0.0m
面 積:59ha
滑走路:1,200m×30m
磁方位:09/27
航空管制周波数
・飛行場アドバイザリー
岡南エアサービス 130.75

沿革
1962年10月 岡山空港開港
1988年    岡山市日応寺に新岡山空港(現岡山空港)新設
       岡南飛行場に名称変更
1996年    岡南飛行場拡張工事着工
1997年    進入角指示灯・滑走路末端識別灯供用開始
2001年    新エプロン拡張部、夜間照明用灯火供用開始
2004年    新管理棟の供用開始
2006年    新給油施設の供用開始
2022年07月 8日 双日、ジャプコン(と子会社の岡山航空)を完全子会社化と発表

関連サイト:
岡山県/岡南飛行場管理事務所    
国土交通省大阪航空局/岡南飛行場    
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入間基地(旧陸軍豊岡、修武台飛行場、ジョンソン基地) [├空港]

  2007年4月訪問 2022/10更新  


無題9.png
撮影年月日 1944/09/28(昭19)(891 C2 92)  
出典:国土地理院ウェブサイト(地理院データを加工して作成) 無題0.png
撮影年月日 1946/03/09(昭21)(USA M68-A-6-2 62)  
出典:国土地理院ウェブサイト(地理院データを加工して作成) 
無題e.png
SkyVector.com

埼玉県狭山市にある「航空自衛隊入間基地」。

毎年文化の日の航空祭で超有名ですね。

かつては陸軍航空士官学校の「豊岡飛行場」で、接収時は「ジョンソン基地」となりました。

上の航空写真は終戦1年前の陸軍時代の飛行場、そして終戦の翌年、「ジョンソン基地」のものです。

接収から半年足らずの時期なんですが、こんなに変わっちゃうものなんですね(XДX)

■防衛研究所収蔵資料「陸空-本土防空-48飛行場記録 内地(千島.樺太.北海道.朝鮮.台湾を含む) 昭19.4.20第1航空軍司令部」

に 修武台飛行場 があり、先頭のグーグルマップはここから作図しました。

滑走路の延長に伴って、敷地が南北に拡張している様子が分かります。

敷地西側には格納庫等、諸施設がズラリと並んでいますが、

(黄色線で示した)道路の北側は「材料廠地区」、南側は「飛行機材班地区」と記されています。

それから、恒風:北北西(十二月-四月)、南南東(五月-十一月)、

西武新宿線は「西武鐡道」、西武池袋線の方は「武蔵野鐡道」と記入してありました。

同資料の情報を以下記させて頂きます。

位置
 埼玉縣入間郡入間川町
積量
 約一,八〇〇,〇〇〇平方米
地表の状況
 一般に堅く芝草等密生し平坦にして排水良好なるも東半
 部は軟弱の箇所多きを以て使用せざるを可とす
周囲の状況
 東に電車線あり西に付属設備を有す離着陸方向
 は概ね南北にして障害になるべきものなきも北に森林
 ありて大型機の離着陸に稍注意を要す
天候気象の交感
 雨量多き際は北半部東半部相当軟弱となるを以て
 注意を要す
格納施設
 格納庫一五棟(三三八三六平方米)あり
交通連絡の状況
 飛行場入口に武蔵野鉄道「稲荷山公園」あり西武鉄道入
 間川駅に約二〇〇〇米にして交通連絡に至極便利な
 り
営外者住宅関係
 営外者は一般に豊岡町入間川町所沢町 飯能町付
 近に居住し一部東京近郊に居住しあり一般に武蔵
 野鉄道を利用し一部西武鉄道を利用しあり
備考
 陸軍航空士官学校に於て使用す

■防衛研究所収蔵資料「陸軍航空基地資料(本州、九州)昭19.10 水路部」

■「防衛研究所収蔵資料:陸軍航空基地資料 第1 本州、九州 昭19.10 水路部」

「豊岡陸軍飛行場 埼玉県入間郡入間川町 35°50′0N 139°24′0E」 として、以下全く同じ記載がありました。

面積 北西-南東1,400米 北東-南西800乃至1,100米
地面の状況 平坦且堅硬にして全面植芝
目標 村山貯水池
障碍物 (記載なし)
離着陸特殊操縦法 (記載なし)
格納設備 大、小格納庫26棟
照明設備 (記載なし)
通信設備 對航空機用陸軍無線通信所あり
観測設備 陸軍気象観測所あり
給油設備 燃料補給可能
修理設備 完備せる修理施設あり
宿泊設備 あり
地方風 全年を通じ北風多し
地方特殊の気象 (記載なし)
交通関係 入間川駅(西武鉄道)北方約300米 豊岡町駅(武蔵野鉄道)西方約1粁
其の他 本場は陸軍航空士官学校飛行場なり
(昭和18年4月調)

■防衛研究所収蔵資料「本土における陸軍飛行場要覧 第一復員局(陸空 本土防空7)」

飛行場名  修武台
位 置   埼玉県入間郡豊岡町
規 模   要図(南北1250 東西400)
舗 装   ナシ
付属施設
 収容施設 三一五〇名
 格納施設 掩体 大一三ヶ所 小一六ヶ所
摘 要   施設軍有

 

話はガラリと変わりますが、R/W17側ランウエイエンドのかなり近くに細い歩道があり、

自由に横切れるようになってます(赤マーカー地点)。

R/W17は丘の上にあるため、この歩道から着陸するヒコーキを眺めると、建物を見下ろす形になり、

着陸機がまるで自分に向かってくるような錯覚に陥ります。

小型のT-4でも頭上を通過する時はすごい金属音で迫力があるんですが、

大型のC-1がこっちに向かってくる様は、それはそれは大迫力です。

以前、一緒にココに見に来た友人が、

たった数機見ただけで気分を悪くして(怒ったんじゃないですよ)車に戻ってしまったほどです。

ということで、件のR/W17周辺をうろついてきました。

来た来た!

よーし、十分ひきつけて・・・

…。

…。

…。

…。

うおっ!!

早ェ!!!!

 

その後何度かトライして…

なんとか全体を撮れました。

その後ちょっと移動。

滑走路に進入するC‐1。

周辺には望遠を構えたそのスジの人たちがいっぱいいました。

なんか怖くて近寄れませんでした。

平日だというのに、まったくヒマな物好きもいたものです(オイラもね)。

(この写真も早さについてゆけずに見切れちゃったので、コックピット周りだけトリミングしてみました)

オイラがよくお邪魔するブログの中に、いくつか航空祭の様子等アップしている方がおられますが、

改めてすごいテクだなぁ、と思い知りました。

2014/10/12追記:終戦後当飛行場が接収された際、近くの霞ヶ関カンツリー倶楽部も接収され、基地の米兵がプレイしたのだそうです。キャディーさんが必要になると、近隣の学校にトラックが迎えに来たのだとか。長年同ゴルフ場でキャディーをしていた方からお聞きしました。


     埼玉県・入間基地   

・陸軍豊岡(修武台)飛行場 データ
設置管理者:陸軍
種 別:陸上飛行場
所在地:埼玉県入間郡豊岡町
標 点:35°50′0N 139°24′0E
面 積:北西-南東1,400m 北東-南西800~1,100m

・入間基地(現在) データ
設置管理者:防衛省
4レター:RJTJ
種 別:軍用飛行場
運用時間:8:00~17:00(平日)
その他時間外の訓練(月曜日・火曜日・木曜日)概ね日没1時間30分後に終了
所在地:埼玉県狭山市稲荷山
標 点:N35°50′31″E139°24′38″
標 高:90m
面 積:300万㎡
滑走路:2,000m×45m
磁方位:17/35
航空管制周波数
・飛行場管制 
 タワー 122.05 126.2 236.8 322.2
 グランド 275.8
・進入・ターミナルレーダー管制
 横田アプローチ 118.3 270.6
 横田ディパーチャー 122.1 363.8
GCA 125.30 225.40
RESCUE 123.1x 138.05 247.0x
(xは周波数が変動することを示す)

沿革
1938年12月 陸軍航空士官学校設立
1945年10月 米軍進駐 ジョンソン基地となる
1958年08月 入間基地発足
1978年09月 ジョンソン基地全面返還

この記事の資料:
防衛研究所収蔵資料「陸軍航空基地資料(本州、九州)昭19.10 水路部」
防衛研究所収蔵資料「陸軍航空基地資料 第1 本州、九州 昭19.10 水路部」
防衛研究所収蔵資料「本土における陸軍飛行場要覧 第一復員局(陸空 本土防空7)」
防衛研究所収蔵資料「陸空-本土防空-48飛行場記録 内地(千島.樺太.北海道.朝鮮.台湾を含む) 昭19.4.20第1航空軍司令部」


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神戸空港(マリンエア) [├空港]

  2007年4月、2023年10月訪問 2024/1更新  


無題9.png
SkyVector.com 無題l.png
撮影年月日2001/04/19(KK20011X C5 10) 着工から1年半後
出典:国土地理院ウェブサイト(地理院データを加工して作成)?

兵庫県神戸市沖にある「神戸空港(マリンエア)」。

ポートライナー神戸空港駅

展望デッキ。

高い柵はありますが、広々としてました。

早朝の時間帯だったのですが、デッキには結構人が多く、

「めっちゃ○○やわ~」という関西弁がそこここで飛び交ってました。

展望デッキでヒコーキを撮ったり、ヒコーキをバックに一緒に来ている人を撮ったりする人はいますが、

「展望デッキを撮る」という人はほとんどいないと思います。

警備員さんの前でこういうアングルで撮ると、きっとマークされます

滑走路の反対側からは、ポートアイランド、六甲の山がよく見えます。

ここから眺める夜景は最高(だと思います)。

牽引中に窓から身を乗り出してました。

箱乗り

1階入り口

カウンターがフロアの中央にある珍しいつくりでした。

?

 


(以下2023年10月撮影)

 
DSC_1504_00001.jpgDSC_1477_00001.jpgDSC_1470_00001.jpgDSC_1487_00001.jpgDSC_1488_00001.jpgDSC_1491_00001.jpgDSC_1492_00001.jpgDSC_1496_00001.jpgDSC_1481_00001.jpgDSC_1486_00001.jpg


   兵庫県・神戸空港(マリンエア)  

  ビュー:☆☆☆☆★  
展望デッキ無料。高い金網に覆われているが、カメラ用の穴あり。
滑走路の反対側にはベンチがある。ポートアイランド、六甲山を眺めることができる。
海上空港だけあり、視界を遮るものがない。
滑走路に向かって右側に階段があり、上ったところはフェンスに遮られない(ただしこの階段はレストランのためのもの)。

   施設:☆☆☆☆★  
ポートライナー直通。
ターミナル前に広い有料駐車場あり。
神戸らしく白黒を基調としたブランド物のお店のような建物。
1階にファミマがあり、ヒコーキグッズ、トラベル用品あり。
2階、灘の酒、タイガースグッズ、空弁、スイーツあり。パンの街らしく、空港オリジナルアンパンがおいしい。

   マニア度:☆★★★★  
人口ラグーン

   総合:☆☆☆★★  

2006年2月開港。
現在のところ国土交通省は安全上の観点から関空を優先し、神戸空港の発着数を抑制する措置をとっている。
初年度は319万人の利用を見込んでいたが、実際には269万人(搭乗率61.1%)と予想を下回った。
開港の翌月には、利用者数が244,078人となったが、この数字を上回ったのは1年後の同月1回のみで、翌月には再び22万人台に戻っている。

伊丹、関空と並び、「関西三大空港の1つ」と呼ばれているが、利用者数は伊丹の14%、関空の17%。
ターミナルビル、エプロン、滑走路周辺は非常にコンパクトにまとめられており、公共交通機関から空港カウンターおよびセキュリティゲートまでの距離は、国内空港としては最短ではないかと言われている。
2大空港に挟まれる位置関係にあり、空港機能がコンパクトにまとめられていること、市の運営する第3種空港であることなどから、個人的には「神戸市に行くのに便利な/神戸市民にとって便利な空港」として、ニッチな路線を中心に小ぢんまりと堅実にやっていくのだと思っていた。
開港してからまだ1年を過ぎたところだが、路線の新設、廃止、増/減便がドラスティックに進められており、路線は傾向として小さな空港への便を取り止め、主要空港への便を増やす方向へとシフトしつつある。
市が建設、運営を手がけており、切実な台所事情もあるだろうし、利用客を見込めそうな路線を強化するのは悪くないと思うが、大型機で主要空港から安く大量の客を招くやり方で2大空港と同じ土俵に上がるにしては空港施設が小さいように思う。

神戸と関空が高速船で29分、1,500円で結ばれている。1日20往復。

神戸空港データ
運営会社:関西エアポート神戸
3レター:UKB
4レター:RJBE
空港種別:地方管理空港
運用時間:7:00~22:00
所在地:兵庫県神戸市中央区
標 点:N34°37′58″E135°13′26″
標 高:6.7m
面 積:153ha
滑走路:2,500m×60m
磁方位:09/27
航空管制周波数
・飛行場管制 
 神戸タワー 118.50 126.20
・航空路管制
 東京コントロール(関東北セクター)128.80
・進入・ターミナルレーダー管制
 関西アプローチ 121.15 125.50
 関西ディパーチャー 121.15 125.50
・航空路管制
 東京コントロール(東海セクター)123.90 125.60
 東京コントロール(山陽セクター)133.55 124.95
 東京コントロール(播磨セクター)132.70 124.95
・飛行場情報放送 
 神戸ATIS 128.075
・TCAアドバイザリー
 関西TCA 121.10 125.30

沿革
1946年    空港建設計画が「市復興基本計画要綱」に初めて登場
1971年07月 神戸市、ポートアイランド沖空港試案発表。埋立面積1100ha, 滑走路4000m×4+3200m×2
    10月 航空審議会 関西国際空港部会設置
1973年03月 神戸市会で、関空神戸沖案に市長が反対表明
    10月 神戸市長選挙。革新候補として空港反対の市長が空港推進候補を破る。伊丹市、大阪空港撤去都市宣言
1974年08月 関空泉州沖答申。神戸財界は関空の補助空港としての神戸沖空港誘致をめざす
1979年09月 1982年4月にかけて 泉州自治体での反対決議の撤回
1980年11月 石井試案(当時自民党航空対策部会副委員長の石井一氏私案)発表
       遠くて高コストの泉州沖をやめて阪神沖(神戸沖)に関空を建設という内容
1981年04月 参議院で社会党議員の石井試案に対する質問に塩川正十郎運輸大臣答弁
       神戸沖は審議会で検討済。その上で泉州が適格と判断したから再検討はない
1982年05月 神戸市議会が神戸沖空港建設を求める決議(ほぼ同時期に大阪、和歌山で泉州沖要望決議)
    06月 「神戸沖新空港計画試案」(3000m×1、将来拡張して2本)発表。市長提出するも運輸大臣受取り拒否
    12月 運輸大臣が坂井兵庫県知事と神戸空港に関して会談。新国際空港の必要性で合意
1984年06月 兵庫県が泉州沖案(三点セット)に合意。兵庫県が要求する神戸空港の実現の調査協力に運輸省が合意
    10月 関空会社設立
1985年05月 市会で国に対する「神戸沖空港の第5次空港整備五箇年計画への組み込みに関する意見書」を議決
1986年06月 5次空整へ神戸空港の調査計画が欄外記載の形で組み入れ
    11月 第5次空港整備計画五カ年計画において「調査空港」として位置づけ
1990年03月 神戸市会、第6次空港整備5箇年計画(6次空整)への神戸空港組み入れ要望を全会一致で議決
    12月 大阪国際空港存続決定
1991年11月 第6次空港整備計画五カ年計画において「予定事業」として組み入れ
1993年08月 神戸空港、「新規事業」に格上げ
1994年12月 平成7年度国予算に「着工準備予算費」計上
1995年01月 阪神淡路大震災発生
    06月 「神戸市復興計画」策定:神戸空港の整備を盛り込む
    10月 神戸空港及び空港島を含む神戸港の港湾計画の変更の環境アセスメント開始
1996年11月 飛行場設置許可申請
1997年02月 飛行場設置許可
    03月 空港整備法に基づく第3種空港の政令指定
    10月 神戸市長選挙。空港反対候補が22万5千票を集めるものの、現職候補(27万1千票)に敗れる
1998年03月 神戸空港・住民投票の会成立
1998年10月 埋め立てに係わる環境アセスメント(公有水面埋立)の評価書提出・縦覧
       住民投票署名 有効署名数30万7797人(市選管発表)
    11月 臨時市議会。建設の是非を問う住民投票条例案を市議会が否決
1999年06月 空港島の埋立免許取得。
    09月 神戸空港(空港島の埋め立て)着工
    10月 起工式
2000年05月 市長リコール署名。有効約8万7000票で不成立
2001年10月 空港島の外周護岸既成
    11月 神戸市長選挙。反対派候補が分裂し、推進派の現市長が約21万票を集め当選
2002年12月 神戸空港ターミナル株式会社設立
2003年10月 スカイマークが就航表明
    12月 滑走路整備工事着手
2004年03月 空港への支出返還訴訟で、神戸地裁が棄却
    09月 旅客ターミナルビル着工
    12月 全日空、日本航空ジャパンが就航表明
2005年06月 空港の愛称を「マリンエア」、空港連絡橋の愛称を「神戸スカイブリッジ」に決定、滑走路完成
    10月 国より工事完成検査合格通知受領
    11月 JAL、ANA、SKYの航空3社が運航ダイヤを発表、7路線に1日27便(往復)就航決定
    12月 旅客ターミナルビル完成
2006年02月 ポートライナー延伸線開業、神戸空港連絡橋(神戸スカイブリッジ)供用開始
       16日開港。午前5時50分開港式。7時21分一番機の羽田行きJAL777-300がR/W27から離陸
       8時4分定期便到着一番機ANA767-300が羽田からR/W09に着陸
    09月 CIQとの調整により、初の国際便(セスナ・サイティーションを使ったビジネスジェット)が就航
2007年05月 空港駐車場では初となるIBAサービス開始
    09月 第三種空港としては異例の旅客機を使った初の国際チャーター便(ANA767-300ERパンダジェット)
       が中国・天津に向け離陸
       外国の航空会社の航空機では初となる国際チャーター便(海南航空、長安航空737型機を使用)受け入れ
2010年06月 日本航空グループ撤退。スカイマーク、自衛隊主導の運航に反発し神戸~茨城線を9月から運休と発表
    07月 スカイマーク、9月から茨城線を運休し、10月1日から再開させると発表
    10月 天草エアライン撤退
2013年06月 7番搭乗口・搭乗橋、搭乗口新設に伴うコンコースの延伸部分がそれぞれ供用開始
       スカイネットアジア航空、AIRDO就航
2017年07月 神戸空港の運営権、オリックス陣営が取得へ
    08月 空港運営会社名、「関西エアポート神戸」に決定。2018年4月から2060年3月末まで運営
2018年02月 神戸市、民営化機に空港特別会計廃止へ。借金470億円は港湾会計に移管
     04月 1日 神戸空港民営化。関空、伊丹と一体運営化。9日、神戸空港にて3空港一体運営式典
     09月 14日、台風21号災害に伴う関空代替便受入れ開始
     10月 11日、台風21号災害に伴う関空代替便受入れ終了
2019年05月 11日、関西経済連合会、規制緩和検討懇談会開催。運用時間1時間延長、発着回数引上げ合意
2020年11月 28日 コロナ禍で「関西3空港懇談会」開催。神戸の国際化議論進まず
2021年09月 17日 阪大などと共同でロボット接客を約1週間実験
2022年09月 18日 関西3空港発着枠、2030年めど羽田並み50万回で地元合意。30年めどに神戸国際化へ
     10月 神戸市、国際化へインフラ整備始動。ターミナル新設、駐機場増設、輸送体制増強等
2023年05月 10日 市、「神戸空港サブターミナル」(仮称)の事業概要発表。万博視野に2025年年3月末供用予定
     06月 市、ビジネスジェット専用施設運営事業者公募開始。8月に優先交渉者決定予定
2024年01月  新ターミナルを駅近くに。デッキ接続も視野、計画変更でパブコメ募集

関連サイト:
KOBE     
KOBE/神戸空港     
国土交通省大阪航空局/神戸空港
神戸-関空ベイシャトル
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調布飛行場 [├空港]

  2004年8月、2007年4月訪問 2023/9更新  


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撮影年月日1945/01/06(95D4 C2 20) 
出典:国土地理院ウェブサイト(地理院データを加工して作成)

無題1.png
SkyVector.com

東京都調布市にある「調布飛行場」。

都営コミューター空港として、東京都の離島への定期便が飛んでいる他、

様々な小型機が盛んに飛んでいます。

沿革にもまとめましたが、「調布飛行場」は元々、東京府の公共用飛行場「東京調布飛行場」として、

1941年に開設しました。

後に帝都防空のため陸軍が使用するようになり、戦後の接収、返還を経て現在に至ります。

上の航空写真は1945年1月撮影ですから、日本陸軍が使用していた頃の写真です。

先頭のグーグルマップは、白糸台の掩体壕脇にある掲示板を参照して作成しました。

紫の丸はその掲示板に示されている有蓋掩体壕です。

■防衛研究所収蔵資料「関東地方飛行場及不時着陸場 昭和18年8月刊行 水路部」の中に、

当飛行場の情報がありました。

以下引用させて頂きます。

第11 東京調布飛行場 (昭和18年4月調)

管理者 航空局。
位置 東京府北多摩郡調布町、三鷹町、多摩村地内。
   (武蔵境駅の南西方4粁、北緯35°40′6、東経139°32′6)。
種別 公共用陸上飛行場。

着陸場の状況
高さ
 平均水面上約44米。
広さ及形状
 本場は総面積163萬平方米にして長さ南北1,500米、幅東西930米及長さ
 東西1,500米、幅南北400米の略L字形地域なり・着陸地域は概ね図示の
 既設滑走路を主用するを最適と認むるも風向等に依りては南北滑走路の西
 側200米迄、東西滑走路の南側約100米迄の地区を使用するを可とす(付
図参照)。
地表の土質
 地表面より60糎迄は腐蝕土にして以下は粘土質なり。
地面の状況
 概ね平坦なるも処々に稍凸凹せる箇所あり・全般的に西より東に向け3/100
 の下り片勾配を為す・滑走路以外は一面に良好なる植芝密生し地盤極めて
 堅硬なり、滑走路は「コンクリート」舗装にして(長さ東西700米及南北
 1,000米、幅各80米)2條あり、各滑走路より格納庫の前面迄「コンクリー
ト」舗装の誘導滑走路あり・滑走路の両端中央部に着陸接地燈及停止燈、
着陸進入燈等の標識燈あり、之等は地表面と平面を為すを以て滑走上支障
 とならず・場周にV字型排水溝及約100米の間隔を以て高さ約1乃至2米
 の場周燈あり。
場内の障碍物
 なし。
適当なる離着陸方向
 北北西又は南南東、東又は西(滑走路方向)。
離着陸上注意すべき点
 北東方約400米に高さ63米の無線電信柱4基(夜間は障碍物標示燈を点燈
 す)あり又北西方に高樹林多きを以て注意を要す。
施設
 航空局航空試験所格納庫(間口50米、奥行36米)1、(間口58米、奥行50
米)2・陸軍格納庫4(建築中)・東京飛行機製作所格納庫1・航空試験所
事務所及管理所・油庫1・舗装滑走路2條・西側に大日本飛行協会格納庫
(間口20米、奥行25米、高さ8米)4・本部庁舎、講堂1、宿舎、発動機
室(建築中)あり。
昼間標識 場周標識(白黒縞模様にして頂に場周燈あり)・吹流1(格納
庫屋上)・空地連絡布板信号あり。
夜間標識 場周燈(橙色)・着陸進入燈4・着陸停止燈・着陸照明燈・
 着陸接地燈・丁型風向標示燈・風速標示燈1・障碍物標示燈
 等の施設あり。

周囲の状況
丘陵
 付近は概ね農耕地にして西及南方は平坦なる畑地なるも北-北東方一帯は
 高き台地をなし北東方約400米付近より略南北に連互する高さ15米内外
 の丘陵あり、此の丘陵は場の東方付近に至りて自然的に平地となる・北西
 方約2粁に高さ80米の浅間山と称する円形の丘陵あり、付近に於ける顕
 著なる目標なり。
樹林
 北西及東方は山林にして北西方樹林は高さ20米前後の松樹及落葉樹密生
 す・東方樹林は稍低く障碍となる程度ならず・遥か北西方に樹木密生する
 多摩墓地あり。
建築物
 場の東方に隣接して東京飛行機製作所及所属工場、格納庫、青年学校等の
 建物あり、又東端に航空局格納庫、事務所 及陸軍第105及108航空戦隊兵
 舎及付属建物等あり・場の西端中央に大日本飛行協会格納庫4棟及目下建
築中の本部庁舎等あり。
電線
 北東方約400米の丘陵上に高さ63米の無線電信柱4基、東方約500米の
 森林中に高さ40米の陸軍中央無線電信調布受信所の無電柱18基あり・南
 方500米及西方200米に各高さ9-12米の高圧架空線あり。
河川
 南東方約2.5粁に南東流する多摩川あり、此の付近に於ける唯一の大河に
 して遠望極めて顕著なり。
着目標
 多摩川、中央本線、浅間山(高さ80米、北西方約2粁)、無線電信柱(北東
 方400米に4基)、格納庫、場の南端付近の多摩川保養院(赤色屋根)。

地方の状況
医療
 場内に医務室あり・調布町に医院あり。
宿泊
 場内に相当数収容し得る宿泊設備あるも武蔵境町の旅館を利用するを可と
 す。
清水
 場内に完備せる給水設備あり。
応急修理
 場の東側に隣接せる東京飛行機製作所に完備せる修理設備を有す。
航空需品
 場内に相当量の航空用燃料及潤滑油の貯蔵所あり。

交通及通信
鐡道及電車
 多摩墓地前駅(西部鐡道多摩線)北西方約300米、上石原駅(京王電気鉄
道)南方約1.5粁、武蔵境駅(中央線)北東方約4粁。
乗合自動車
 省線武蔵境駅より調布町に至る武蔵野「バス」あり、最寄停留所は大沢橋
 (東方約400米)なり。
道路
 本場の東方約400米に北は武蔵境駅、南は調布町、西は府中町に通ずる良
好なる道路あり。
無線電信所
 東方500米に陸軍中央無線電信所調布受信所あり又北東方約1粁に在る天
 文台に文部省時報無線電信局あり。
電話
 飛行場事務所内に電話あり。

気象
地方風
 流行風は春、秋及冬季は北西風なるも日中は南風多し・夏季は南風なり。
天候
 暴風季節は5月下旬及9月上旬至翌年4月下旬間なり。
地方特殊の気象
 1月至2月下旬間は北西風強吹し霜柱の立つことあり・3月下旬より4月
 下旬に至る間は風塵来襲し咫尺を弁ぜざる事ありと言う。

其の他
1. 本場は昭和16年4月公共用飛行場として航空局の設置せるものなるも現
 在は陸軍飛行場として戦技訓練に主用せられつつあり。
2. 大日本飛行協会の設置に係る民間航空機及滑空機乗員養成所は場の西側地
 区に一部建物の完成を見目下95式練習機8機を常備し飛行訓練実施中な
 り。

■防衛研究所収蔵資料「本土における陸軍飛行場要覧 第一復員局(陸空 本土防空7)」
にも当飛行場の情報がありました。

飛行場名  調布
位 置   東京都北多摩郡調布町
規 模   要図(東西950 1700 南北1600)
舗 装   八〇×一〇〇〇米 八〇×七五〇米 基礎栗石一五糎 
      表層玉石コンクリート(調合一、三、六) 厚サ一五糎
付属施設
 収容施設 二五〇〇名分
 格納施設 掩体有蓋三〇棟
摘 要   施設軍有




赤マーカー地点。

調布飛行場入り口の両脇に門柱が立ってました。

ちょっと読みにくいですが、「東京調布飛行場」と書かれています。

とても古いものですが、これは何かといいますと、

開戦前に飛行場の正門として設けられた、非常に古いものなんですね。

1.png
撮影年月日1945/01/06(昭20)(95D4 C2 20) 
出典:国土地理院ウェブサイト(地理院データを加工して作成。2枚とも)

この航空写真は、調布飛行場の滑走路と、その北側にある中島飛行機の三鷹研究所なのですが、

両者の間を拡大してみると、

3.png

こんな感じ。

<研究ノート>中島飛行機三鷹研究所―その稼働期― によれば、

調布飛行場と中島飛行機三鷹研究所は誘導路で連絡していたとのことで、上の写真の「↑誘導路」の部分が、

同資料内で「建設中の調布飛行場への誘導路」と説明されていました。

そういう目でみれば、研究所から飛行場敷地まで、なんとなく誘導路が伸びているように見えますね。

また、<研究ノート>中島飛行機三鷹研究所―その建設まで― によれば、 

滑走路北側部分(現・野川公園)を延長して、巨大爆撃機の発着を可能にする計画があったのだそうです。


 

この飛行場の管理が国から都に移管したのは平成4年7月。

種別が「場外離着陸場」から「その他飛行場」に格上げし、

正式飛行場(都営コミューター空港)として開港したのは平成13年3月のことです。
 

空港敷地内にあった公園。飛行機の形の大きなジャングルジム?もありました。

離島便のターミナル。

航空関係の小さな建物がいくつも並んでいるところで、しかも少し奥まったところにあるので目立たないですが、

管制塔前の駐車場からちゃんと標識が出てます。

標識に従えば問題なく行けます。

尾翼が壊れた飛行機。

この写真は2004年8月に撮ったものなんですが、2007年4月に行った時にもまだありました。

コメント欄で「熊さん」から情報を頂いた「武蔵野の森公園」。

R/W17側(管制塔、ターミナル入り口を背にして左側)にあります。

本当にランウエイエンドが間近にありますし、高台もあるので、ここで凧揚げはあぶないです。

ところで隊長、公園内にものすごいものを発見しました!

これです。

なんと、戦時中に造られたコンクリート製の有蓋掩体壕が公園内に2基残っていました。

初めて見ました。いつか見てみたいなぁ、と思っていたのですが、まさかこんなところでお目にかかれるとは!

「掩体壕(えんたいごう)」:(資料:武蔵野の森公園内の掲示板より)

「掩体壕」とは、軍用機を敵の空襲から守るための格納庫で、本土決戦に備えて、残り少なく貴重な飛行機を温存するために造られました。
太平洋戦争における戦況が悪化した昭和19年(1944年)頃から、コンクリート製の有蓋掩体壕約30基、土塁で造ったコの字型の無蓋掩体壕約30基、合計約60基が短期間で造られました。
建設は主に陸軍と建設会社があたり、地元の植木組合や中学生も大勢動員されたのだそうです。

この武蔵野の森公園内の2基以外にも、府中市に2基の掩体壕が残っているそうです。

「飛燕1型丁」:(資料:武蔵野の森公園内の掲示板より)

「飛燕1型」は川崎航空製機で、高空能力に優れた陸軍主力戦闘。
ドイツのダイムラーベンツの技術をもとに、国産化した液冷エンジンを搭載。
エンジン出力1,100馬力、最高時速590km/h 昭和18年(1943年)正式採用。

調布飛行場には、首都防衛のため「飛行第244戦隊」に「飛燕」が配備されました。
昭和20年(1945年)、B29爆撃機による本土空襲が激しくなり、迎撃機となりましたが、物量に勝る圧倒的なB29の攻撃であまり戦果を挙げる事ができませんでした。
その後戦況がますます悪化するなか、本土決戦のため貴重な飛行機を温存するため掩体壕に格納されるようになりました。

(追記:掲示板には「あまり戦果を挙げる事ができませんでした」と書かれていますが、それでも調布基地の第244戦隊は非常に練度が高く、陸軍航空隊の対B29としては、最も戦果を挙げたと言われているそうです)
 

去年の暮れにこんなことが起きてしまいました。

事件の後二重に囲んだのでしょうか? 残念です。。。

園内は広々していて飛行場の様子をよく眺めることができます。

この写真は公園に掲示されていたものです(北←)

現在の地図に、昭和20年(1945) 春の調布飛行場の施設配置を示したものです。

ターミナル、駐車場の前の道路は、現在も運用している滑走路に対して斜めになっていますが、

これは2本の滑走路がクロスしていた時には必然の形であり、当時の名残であることが分かります。

現在の滑走路(800m×30m)は当時の1,000mの滑走路の上にできており、

北端部分、今もターニングパッドが残っています。

東西方向にあった滑走路の西端のターニングパッドも残ってますね。

ヒコーキにまったく興味がない方からすると、「んだから何?」ということでしょうし、

同じヒコーキファンでもいろいろジャンルが別れますから、特に興味を引かないという方もおられることでしょう。

でもオイラにとっては、こういう「滑走路の跡」というのはたまらない魅力を感じます。

普通の滑走路でも見ているだけで脳内麻薬が分泌されるのですが、

今は使用されていない滑走路を見ると、かつてここを飛び交っていたヒコーキの妄想イメージがかき立てられます。

それが跡地で、しかもかすれているほどイイのです。

 

日本には、第二次大戦の時期に建設された飛行場が無数にあります。

敗戦後、そのほとんどは使われなくなりましたが、そのまま飛行場として生き残ったものもあります。

今全国にある飛行場の多くは、戦時中は軍の基地として使用されており、

戦争とはまったく無縁の飛行場の方が珍しいくらいです。

そういう意味で、ここ調布飛行場は日本の飛行場がたどった歴史の代表的なケースであり、

戦時中の形跡が今尚残る貴重な場所です。

しかも、飛んでいるヒコーキがイイです。

かつてこの飛行場の主力戦闘機として飛び回っていた「飛燕」のエンジンは、

同盟国ドイツのダイムラー社製DB601のライセンス生産でした。

日本では珍しい液冷エンジンを搭載したその独特の外見から、「和製メッサーシュミット」とも呼ばれていました。

時が流れ、現在この飛行場から離島に飛ぶコミューター機は国内では珍しいドイツ製の機体です。


         東京都・調布飛行場          

    ビュー:☆☆☆☆★  
離島行きの定期便があるので,時刻表で調べて狙うことができる。
定期便は最近使用機材が全機ドルニエDo228‐212に切り替わったようで、1日に20便の離着陸がある。
武蔵野の森公園がよく整備されている。ランウエイエンド付近にやぐらがあり、離着陸するヒコーキを間近に眺めることができる。
定期便だけでなく自家用機の離着陸も多い。

    施設:☆☆★★★  
離島行きのターミナルは小ぢんまりしている。
近くにお洒落なカフェあり。

    マニア度:☆☆☆☆☆☆  
武蔵野の森公園からの眺め良好。やぐらも整備されているが、じっくり眺めるなら滑走路反対側の運動公園の階段を上がった場所もおススメ。
掩体壕、門柱など、戦時をしのぶ遺跡あり。
ドルニエDo228の定期便を拝めるのは、現在全国でここだけ。
ジャムコの工場

    総合:☆☆☆☆★  

(資料:武蔵野の森公園内の掲示板)
調布飛行場は、昭和13年(1938年)に、東京府北多摩郡調布町・三鷹村(現在の府中市)にまたがる約50万坪の土地に計画され、畑・家畜・寺・基地などを半強制的に買収して建設。
工事は、昭和16年(1941年)に東京府と逓信省航空局・陸軍省の予算で着工。
基礎工事には府中刑務所の受刑者や中学生が動員。
同年4月に、南北方向に1,000mと東西方向に700mの2本の滑走路と格納庫などが完成。
当初は予備国際飛行場と航空試験飛行場・陸軍訓練飛行場として使用するはずだったが、陸軍が全面的に利用することになり、首都防衛のため、戦闘機「飛燕」を中心とした陸軍飛行部隊が配置された。

太平洋戦争の戦況が悪化した昭和20年(1945年)頃には、日本本土空襲のため飛来する米軍のB29爆撃機や艦載機の空襲で、飛行場や近くの高射砲陣地が爆撃され死傷者が出た。
またこのころには、特別攻撃隊(特攻隊)の訓練と九州知覧基地への中継地にもなった。

戦後、飛行場の西側の一部には、「進駐軍」(アメリカ占領軍)が消費する野菜を栽培する「水耕農場」が建設された。
調布飛行場の周辺には、現在も戦時中に利用していた門柱・掩体壕・高射砲台座などが、市民団体の努力で残されている。

・東京調布飛行場 データ(昭和18年4月当時)
管理者:航空局
位 置:東京府北多摩郡調布町、三鷹町、多摩村地内
標 点:N35°40′6″E139°32′6″
標 高:44m
種 別:公共用陸上飛行場
面 積:163ha
滑走路:1,000mx80m(17/35)、700m×80m(09/27) コンクリート舗装

・調布飛行場 データ(現在)
設置管理者:東京都
4レター:RJTF
空港種別:その他の空港
所在地:東京都調布市西町290番3
標 点:N35°40′18″E139°31′41″
標 高:42.3m
面 積:39ha
滑走路:800m×30m
方 位:17/35
運用時間:平日8:30~17:00、日祭日10:00~17:00
航空管制周波数
・飛行場管制 
 調布タワー 118.00 126.20

沿革
1938年12月 26日、都計東京地方委員会、調布空港案、正式決定。直ちに工事着手へ
1941年04月 東京府、調布飛行場開設(公共)
1945年09月 米軍が接収 調布水耕農園、補助飛行場として使用
1954年08月 日米共同使用が認められる
1955年    飛行場地区一部返還
1972年    飛行場地区大部分返還
1973年03月 全面返還
1979年03月  調布~新島間運航開始
1984年12月  調布~大島間運行開始
1992年07月 国から東京都に管理移管。調布~神津島間運行開始
1998年12月 25日 飛行場設置許可
2001年03月 31日 正式飛行場(都営コミューター空港)として供用開始
2006年04月 1日 東京都による情報提供業務開始
2013年04月 2日 ターミナルビル供用開始
    06月 18日 離島航空路線に計器飛行方式導入
2014年04月 2日 調布~三宅島間運航開始

関連サイト:
調布市/東京都調布飛行場管理事務所    
国土交通省東京航空局/調布飛行場   
新中央航空
basashiさんの記事「プロペラカフェ」   
ブログ内関連記事
    

この記事の資料
現地の掲示板
防衛研究所収蔵資料「関東地方飛行場及不時着陸場 昭和18年8月刊行 水路部」
防衛研究所収蔵資料「本土における陸軍飛行場要覧 第一復員局(陸空 本土防空7)」


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那覇空港(旧海軍沖縄、小禄航空基地、那覇飛行場) [├空港]

   2007年3月、2013年5月、2017年4月訪問 2024/5更新  
 

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1945年1月撮影(USA 5M3 6) 
出典:国土地理院ウェブサイト(地理院データを加工して作成) 
5.png
6.png
Ryukyu Islands airfields. Report No. 1-b(10), USSBS Index Section 6
(国立国会図書館ウェブサイトから転載。2枚とも)
無題6.png
SkyVector.com
 
沖縄県那覇市にある「那覇空港」。
 
本土と先島諸島を中継するハブ空港ですが、元々は1934年に海軍の小禄飛行場として誕生しました。
 
■国立公文書館デジタルアーカイブ 昭和十四年一月 航空要覧 逓信省航空局編輯 帝國飛行協会発行

の中で、「本邦飛行場一覧(昭和十三年十月現在)」として以下記されていました(8コマ) 

名 称  那覇飛行場
経営者  國
所在地  沖縄縣島尻郡小禄村字当間
水陸の別 陸
滑走区域 東西八五〇米 南北九二〇米
備 考  (記載無し)

 
「戦前戦後の飛行場・空港総ざらえ」によりますと、
 
1936年4月1日 日本航空輸送、福岡~那覇~台北間定期航空輸送開始に合わせて中継基地として、130,200㎡を買収拡張し、那覇飛行場として軍民共同使用した。1972年5月15日 沖縄の本土復帰にさいして、運輸省の設置管理となる。
 
とありました。
 
■戦史叢書「沖縄方面海軍作戦」p100

十九年一月八日、佐鎮命令による航空基地
整備要領は次のとおりで、従来と違って明らかに作戦基地として
整備が進められた。

施設名 小禄
工事要領等 一 差当り対潜哨戒用小型機0.五隊使用可能の如くし引き続き艦攻一隊(中攻可能とす)常駐可能なる如くすると共に風水害防止対策を徹底的に講ずるものとす
      二 滑走路は一,二〇〇mとし、将来一,五〇〇mとするを目途とし計画実施す
記事 昭和一八年官房機密第二八三三号訓令に依り施行


防衛庁防衛研修所戦史室 編『沖縄方面海軍作戦』,朝雲新聞社,1968. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/9581812 (参照 2024-05-15)
 
■防衛研究所収蔵資料「陸空-本土防空-48飛行場記録 内地(千島.樺太.北海道.朝鮮.台湾を含む) 昭19.4.20第1航空軍司令部」

に 1/10,000 那覇飛行場 がありました。

要図には飛行場敷地について、北北東~南南西1123 西北西~東南東1060 と記されていました。

位置
 沖縄縣島尻郡小禄村当間
面積
 七十万六千平方米
土質
 粘土
地表面の状態
 糾草密生
付近の状況使用上の注意
 四囲農耕地なるも東側丘陵、西側東支那海、南側一
 般に二七米の独立丘陵及村落あり 北側平坦なる耕地
 飛行場全周排水濠あり 場内排水状況不良なり
 雨期間場内東側及南側地区往々浸水、地盤軟弱
地方特殊の気象状況
 十二月より三月迄は季節風にて北風卓越し□(十?)米に達す
 七月より十月にかけて台風の襲来多し
 五月、六月は夏がれと云ふ当地方の雨期にて本州の梅雨
 の前駆をなす
無線柱
 飛行場北東方に粁に気象台無線柱高さ九十米あり
丘陵
 飛行場西側海岸線に沿ひ護岸壁あり 飛行場面
 より高さ約一米、東方二〇〇乃至三〇〇米を南北に標高
 三〇米の丘陵あり 南々西方約一〇〇米二独立せる標高
 二七米の丘陵あり

 西方約二〇〇米 南方約六〇〇米にて海岸線に出つ
電線
 飛行場東南隅より南外方に高圧線及電灯線あり
 南方約二五〇米外方に東西に走る電灯線あり
 東方約二〇〇米外方丘陵上に障碍標示燈用電線あり
其の他
 昭和十五年八月二十六日航空法第二十三條の二第一項の規定に
 に依り、特別地域を指定す 範囲は飛行場周一〇〇〇米以内
 那覇市内に自動車あるも運用意の如くならず
 那覇市□□□□にて約五十分を要す

 
■国立公文書館デジタルアーカイブ 昭和十四年一月 航空要覧 逓信省航空局編輯 帝國飛行協会発行
の中で、「本邦定期航空現況(昭和十三年十二月現在)」として以下記されていました(6コマ) 

経営者 大日本航空株式会社
航空線路 福岡-臺北
区間 福岡-那覇間 毎日一往復
   那覇-臺北間 毎日一往復
線路開設年月 昭和十年十月

 
 
上の航空写真は、1945年1月撮影のものです。
 
沖縄の地上戦は同年3月に始まりましたから、その直前の「日本海軍沖縄(小禄)飛行場」当時のものです。
 
この写真と、防衛研究所収蔵資料「南西諸島航空基地一覧図 昭和19・11 第三航空艦隊司令部」
 
の地図を元に作図したのが、先頭のグーグルマップです。
 
戦時中軍が建設した飛行場をそのまま空港に利用する場合、
 
長さは別として滑走路位置はを変えないケースが多いですが、那覇空港は違うんですね。
 
2020年に滑走路が2本になる予定ですが、日本海軍当時は3本でした。
 
防衛研究所収蔵資料「海軍航空基地現状表 内地之部 佐世保鎮守府航空基地現状表」
の中で、当飛行場について一部次のように記載がありました。

基地名:沖縄 建設ノ年:1943 飛行場 長x幅 米:1,500x150x2 1,300x200 主要機隊数:中、小型機 主任務:作戦 隧道竝ニ地下施設:施設アルモ数量不明 掩体:施設アルモ数量不明 
 
1944年10月10日のいわゆる「十・十空襲」について、
 
第2章  旧軍飛行場用地問題の歴史的な背景とその後の経過 (6コマ目)にこんな一節がありました。 

「第1次空襲(6時40分~8時20分)では、米軍機が操縦士の顔が見えるほど急降下爆撃や機銃掃射を繰り返した。ガジャンビラや天久の高射砲陣地からの対空砲火での応戦は、敵機に弾が届かず空中で炸裂するのみでなかなか命中しなかった。小禄飛行場から飛び立つ飛行機は1機もなく火の海と化した。(中略) 第2次空襲(9時20分~10時15分)は、引き続き飛行場や船舶に攻撃を加えたほか、那覇港埠頭や隣接の西新町にも爆弾が投下され、軍需物資集積所のドラム缶が炎上し、付近の家屋に引火した。桟橋向かいの垣花町も炎上した。」
 
戦時中は海軍航空基地でしたが、戦後は本土復帰を経て国内有数の空港へと変貌を遂げました。
 
 

ゆいレール那覇空港駅

ゆいレール、立体駐車場利用者は、連絡橋を通ってターミナルへ。

連絡橋を使うとターミナルの「2階 出発ロビー」に入れます。

ターミナルに入って左側がJAL系列、右側がANA系列に分かれています。

出迎えの場合は「1階 到着ロビー」へ。

出発の場合は、一旦「3階 チケットロビー」へ上がります。

「3階 チケットロビー」

JAL側のガラス壁が赤っぽくて、

ANA側のガラス壁が青っぽくなってます。

ここで注意しなければならないのは展望デッキへの行き方です。

大抵の空港で展望デッキへは最上階から出る訳ですが、

那覇空港で案内標識を無視して本能のままに最上階の「4階 レストランフロア」に上がってしまうと、

デッキに出られません。

やってしまったオイラが言うのですから間違いありません。

案内に従い「3階 チケットロビー」から出ましょう。

展望デッキ。

広々としていますが、建物の両翼に分断されており、それぞれのデッキに出るたびにお金が必要です つД`)・゚・。・゚゚・*:.。
2009/02/07追記
現在展望デッキは高いフェンスが張られています。Takashi Hoshizawaさんから情報頂きました。コメント欄のリンクから確認できます。

 

柵には沖縄の動植物が描かれています。

ここで覚えておけば、道を歩いていてヤママヤーやヤンバルクイナを見つけたときに役立ちますね。

 

展望デッキ(1)

展望デッキ(2)

展望デッキ(3) 

平面駐車場。立体駐車場とほとんど同じ料金

展望デッキ(4)

日韓ワールドカップを記念して作られたモニュメント(嘘)

ターミナル中央は、2~4階まで吹き抜けのウエルカムホールになっていて、いろいろなイベントが催されています。

タイミングがよければ琉球舞踊、エイサーの飛び入り参加ができるかも。

ご覧の通り、ウエルカムホールはエプロンに面していて、全面ガラス張りのため、眺めが良いです。

プッシュバック時などは、ヘタに展望デッキから眺めるよりもいいかもしれません。

JAL側の搭乗待合室。

土産物、空弁、軽食が並んでいます。

那覇空港はほとんどボーディングブリッジで直接ヒコーキの乗り降りができるようになっています。

離島便の小型機などはバス移動なのですが、バス移動専用の28番搭乗口が1番手前です。 



~ここからはターミナル増築、移設関係です~


0.png
撮影年月日 2010/09/27(平22)(COK20101 C12 5) 在りし日の旧国際線ターミナル 

出典:国土地理院ウェブサイト(地理院データを加工して作成) 

上に貼った写真とグーグルマップを見比べての通り、かつて北ウイングのすぐ北側(赤マーカー地点)には、

独立した国際線ターミナルビルがありました。

D20_0106.jpg
2013年5月撮影 旧国際線ターミナル(内部の様子)

DSC_0171.jpg
2017年4月撮影 旧国際線ターミナルはなくなってしまいました。

D20_0119.jpg
2013年5月撮影 すぐ隣で国際線ターミナル新築工事中

DSC_0163.jpg
2017年4月撮影 新国際線ターミナル

DSC_0166.jpg同じく新国際線ターミナル

DSC_0167.jpg新国際線ターミナル内部

DSC_0169.jpg新国際線ターミナル外側に設置されてました。

D20_0120.jpg2013年5月撮影 (新国際線ターミナルをバックに撮ってます)

国内線ターミナル増築工事中

DSC_0170.jpg2017年4月撮影 国内線ターミナル増築した部分

ということで、国内線ターミナル北ウイング側が一部増築し、国際線ターミナルが移設しました。

滑走路、エプロンと、陸自の敷地に挟まれた非常に細長いエリアにターミナル、駐車場、道路を設けているのですが、

国際線ターミナル移設の際、国内線ターミナルと真っ直ぐの線に合わせたため、

エプロンは広がったのですが、それまで平面駐車場だった区画を潰してしまいました。

そして2017年1月、国内線ターミナルと国際線ターミナルをくっつける「際内連結ターミナルビルが起工」しました。

これで両ターミナルビルの間に残った平面駐車場も完全に消えることに。

今後ますます利用客の増加が見込まれる一方で、駐車場区画が狭くなったことから、

駐車場の立体化が進んでおります。


      那覇市・那覇空港    

    ビュー:☆☆★★★  
展望デッキ1人100円。
ベンチ、双眼鏡等、特に施設はなし。
離着陸の瞬間を撮ろうとすると、大抵建物の影か、ずらりと並ぶP‐3Cが重なってしまうため、(オイラの腕では)あまりいい絵が撮れない。

    施設:☆☆☆☆★  
ゆいレール、立体駐車場利用者はターミナル2階に誘導される。出迎え客は1階へ。入ると目の前には土産物などの売り場が広がっている。先ずショッピングをするのなら便利だが、出発客は3階でチェックインを済ませ、再び2階に戻らねばならない。時間がないと焦る。
立体駐車場、平面駐車場有料。

    マニア度:☆☆☆★★  
瀬長島からの眺めはおススメ! ただし、ここは公共交通機関では行きにくい。
徒歩だと空港から約7キロ。バスだと、まずバスターミナルまで行き、そこからバスに乗って最寄のバス停から徒歩20分。ゆいレールだと方向が違うけど、空港から1つ目の赤嶺駅からだと徒歩で約3kmで、空港から歩くよりかなりマシになる。一番便利なのはやっぱりタクシーかレンタカー。

    総合:☆☆☆★★  

離着陸の約2割は自衛隊機、本島はすっぽりと嘉手納ラプコンに覆われ、米軍による管制が行われている特異な空港。
観光客を中心に利用客は年々増え続け、H15の資料では、年間離着陸回数が11.6万回で、1本の滑走路としては離着陸回数日本一の福岡空港の13.6万回に迫る勢い。 ピーク時の11~17時台には離着陸回数は25~33回/H。
1年で最も利用者の多い夏の時期は、人気の羽田発那覇行きの午前便は2週間前には1/3が満席に。
機材の大型化、臨時便による対応なども実施しているが、航空会社の機材繰り、行き先空港のスロットの制約もあり、ハイシーズンには需要に完全に応えることができず、沖縄行きのチケットが取れずに行き先を変更する観光客もいる。

那覇空港そのものの処理能力の限界にも近づいており、増え続ける需要に対応するため、現在PIを実施(下記にリンクあり)。具体的には、高速脱出誘導路の新設、平行誘導路の二重化、ターミナル地区の見直し、2本目の滑走路新設などがある。

1986年 滑走路2,700→3,000m
1999年 国内線新ターミナルオープン
2003年 ゆいレール直通
利用者数の伸びと共に徐々に姿を変えてきた那覇空港だが現在も過渡期。これからまだまだ姿を変えていく。
 
那覇空港データ
設置管理者:国土交通省
3レター:OKA
4レター:ROAH
空港種別:拠点空港/国管理空港
運用時間:24時間
所在地:沖縄県那覇市
標 点:N26°11′45″E127°38′45″
標 高:4.5m
面 積:327ha
滑走路:
 A滑走路 3,000m×45m(18L/36R)
 B滑走路 2,700m×60m(18R/36L)
航空管制周波数
・飛行場管制 
 那覇タワー 118.10 126.20
 那覇グランド 121.075
 那覇デリバリー 122.075
・進入・ターミナルレーダー管制
 沖縄アプローチ 119.10 126.50
 沖縄ディパーチャー 119.10 126.50
・航空路管制
 那覇コントロール(宮古西セクター)123.90 132.10
・飛行場情報放送 
 那覇ATIS 127.80

沿革
1933年    小録村鏡水、大嶺に飛行場着工(海軍佐世保鎮守府管轄・沿岸警備、緊急避難の拠点として設定)
1934年05月 「小禄飛行場」完成。750mx50mの滑走路をL字型に連結した形。海軍飛行場群の中核となる
1935年10月 逓信省航空局に移管
1936年   「那覇飛行場」に名称変更
    04月 1日 日本航空輸送、福岡~那覇~台湾の旅客機週1便程度運航開始
1940年   23haに拡張、滑走路1,500mに延長(日中戦争でDC3の便数が急増したことに対応したもの)
1941年12月 太平洋戦争。那覇飛行場は南方諸地域への玄関口として戦略的重要度が増す
       駐機場には陸海軍の飛行機が常駐し、訓練が活発になる
1942年   年の半ば沖縄近海に米潜水艦出没。輸送船団に被害が相次ぎ、南西諸島の航空基地強化が急務
1943年08月 逓信省航空局から海軍佐世保鎮守府輸送隊へ再移管。「海軍小禄飛行場」に名称戻す
       同時に13.2haの拡張工事。1,500mx3本の全天候型飛行場として完成
       対潜哨戒開始。その後沖縄航空隊が常駐するようになる
1944年01月 米潜水艦による輸送船の被害がますます増大したため、飛行場の拡張整備に着手
       対潜用小型機が常駐できるよう滑走路拡張して1,500mにする(1940年に1,500m化しているが?)
       海軍設営隊駐屯。徴用労働者や婦人会、男女学徒勤労奉仕隊等の協力で昼夜兼行の建設作業
    04月 早晩米軍が沖縄に侵攻してくることを予想して沖縄方面根拠地隊を新設
       小録飛行場を中心に防備体制を確立すべく工事が行われる
       南方戦線の経験から、米軍の猛烈な砲爆撃に対応すべく掩体施設を強化して基地を要塞化
     09月 末 航空作戦基地としての飛行場が完成する
     10月 十・十空襲。 第一攻撃目標とされ、地上の飛行機はほとんど撃破、滑走路大きく破損
1945年04月 米軍、沖縄本島上陸作戦。飛行場群は航空隊の配備がないまま米軍の攻撃にさらされる
1952年02月 米空軍が滑走路、軍事施設、民間空港地区の整備工事を行う
       1954/11まで民間機の乗り入れは嘉手納飛行場に変更
1964年07月 エア・アメリカ、琉球列島内の航空事業開始
1967年06月 南西航空設立、エア・アメリカ、琉球列島内の航空事業廃止
1967年07月 南西航空、琉球列島内の航空事業開始
1972年05月 15日 本土復帰。運輸省の設置管理となる
     11月 滑走路2,550m→2,700m
1986年03月 滑走路2,700m→3,000m
1999年05月 国内線新ターミナルオープン
2003年08月 ゆいレール開業
2012年10月 LCC専用ターミナルオープン
2013年09月 国内線ターミナル増築部分運用開始
2014年01月 新滑走路(B滑走路)着工
     02月 新国際線ターミナルオープン
2016年08月 2020年目途に6基目の燃料タンク増設検討
    09月 21日、新立体駐車場(P3)全面開業。1,226台駐車可能に
2017年01月 際内連結ターミナルビル起工
    02月 28日、国内線サクララウンジリニューアルオープン
    09月 29日、県企画部長、那覇空港の民営化調査・検討へ
2018年02月 28日 JAL、国内線ターミナルに最上級ラウンジ「ダイヤモンド・プレミアラウンジ」オープン
    12月 18日、際内連結ターミナルビル一部先行運用
2019年03月 18日 新ターミナル供用開始。ピーチとバニラ、同日現在のLCCターミナルから新ターミナルへ
       31日搭乗分より、国内線の利用者から旅客取扱施設利用料(PSFC)を徴収
2020年01月 15日 新管制塔運用開始
     03月 26日 新B滑走路供用開始
2021年11月 15日 北谷町トランジットセンターとの直通シャトルバス運行開始 
2022年03月 27日 国内線施設使用料大人120円→240円。子供60円→120円

関連サイト:
那覇空港国内線旅客ターミナルビル
沖那覇港湾・空港整備事務所/那覇空港   
国土交通省大阪航空局/那覇空港     
ブログ内関連記事    

この記事の資料
沖縄戦研究Ⅱ(沿革1933~1945年)
防衛研究所収蔵資料
「南西諸島航空基地一覧図 昭和19・11 第三航空艦隊司令部」
「海軍航空基地現状表 内地之部 佐世保鎮守府航空基地現状表」
「21世紀へ伝える航空ストーリー 戦前戦後の飛行場・空港総ざらえ」
防衛研究所収蔵資料「陸空-本土防空-48飛行場記録 内地(千島.樺太.北海道.朝鮮.台湾を含む) 昭19.4.20第1航空軍司令部」


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久米島空港 [├空港]

  2007年3月訪問 2022/10更新   


無題d.png
撮影年月日1971/03/20(MOK701X C7Z 10) 
出典:国土地理院ウェブサイト(地理院データを加工して作成)

無題e.png
SkyVector.com

沖縄県島尻郡久米島にある「久米島空港」。

那覇市の西北西約95kmに位置しています。

ターミナル正面

玄関のところにいました。久米島は楽天のキャンプ地になっているのだそうです。

ターミナル内:広々してました。1階は軽食スタンド、売店が充実してます。

展望デッキ

今回こんな暗い写真ばっかりです。申し訳ありません

 

ご覧の通りで広々していてフェンスなし、手すりも低く、見やすいです。

デッキ裏側から見た空港前の道路

ターミナル前無料駐車場

デッキから滑走路もよく見えます。

タラップ車とボーディングブリッジをくっつけてます。面白いですね。

この空港にやってくる定期便は、RACのダッシュ8(小型機)とJTAのB737で、

ダッシュ8の場合はこのタラップ車を利用してボーディングブリッジに上ります。

デッキから見た(T先生が乗っている)ダッシュ8の離陸。  

滑走路の向こう側に海が見えますね?

この後、海側に行ってみました。

裏側の様子。

砂浜になってましたので、晴れてればキレイだと思います。

砂浜から撮ったのですが、滑走路手前はご覧の通りテトラポットだらけ。

滑走路手前にテトラポットと壁があるので、

ヒコーキは半分隠れてしまいます。

というわけで、折り返し便をテトラポットの上から撮ることにしました。

プッシュバック開始

横着してあまり沖側に移動しなかったので、1番美味しいところでフェンスにかかってしまいました

やっとフェンスの上に出た頃には、ちっこくなってました。

これにて時間切れ。本数が少ないのでもう撮り直しはできません。トホホ


      久米島・久米島空港    

    ビュー:☆☆☆☆★  
展望デッキ無料。広々としていて見晴らし良い。
館内表示に従うと3階のデッキ入り口に誘導されるが、オイラが行った時にはここからはデッキに出られなかった。

    施設:☆☆☆☆★  
軽食スタンドにソバ、ぜんざい、飲み物あり。
売店、土産物店充実。久米泉(くめせん:有名な久米島ブランドの泡盛)もありました。
ターミナル前に大きな無料駐車場

    マニア度:☆☆☆★★  
滑走路海側が良かったです

    総合:☆☆☆☆★  

本島周辺では最大の島。見所も多く、今回回った島の中では最も観光地化していた。
そのためヒコーキの便も良く、石垣、宮古に次いで本数が多い。
6~9月は羽田からの直行便(久米島発の便は那覇経由)も運行。

久米島空港データ
設置管理者:沖縄県
3レター:UEO
4レター:ROKJ
空港種別:地方管理空港
運用時間:8:00~19:30
所在地:沖縄県島尻郡久米島町
標 点:N26°21′49″E126°42′50″
標 高:6.9m
面 積:62ha
滑走路:2,000m×45m
磁方位:03/21
航空管制周波数
・飛行場アドバイザリー
 久米島リモート 122.70(RAG)
・進入・ターミナルレーダー管制
 那覇アプローチ 119.10 126.50

沿革
1963年 米国民政府援助資金により建設
1965年 民間就航(エア・アメリカ)により運行開始
1967年 南西航空CV‐240就航
1968年 南西航空YS-11就航
1977年 滑走路1,200mで供用開始
1997年 新ターミナルビル、滑走路2,000mで供用開始

関連サイト:
沖縄県/久米島空港  
国土交通省大阪航空局/久米島空港    
ブログ内関連記事   


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波照間空港 [├空港]

  2007年3月訪問 2022/12更新  


無題8.png
撮影年月日1975/06/26(OK751Y C2 3) 開港まであと11ヵ月の空港(上)と、緊急着陸飛行場(下)
出典:国土地理院ウェブサイト(地理院データを加工して作成)

無題5.png
SkyVector.com

石垣から到着したばかりのアイランダー。

ヒコーキからターミナルまでは歩いて移動します。

30分後にまた石垣に戻ります。

ドア全開。

空港からちょっと離れた坂道から滑走路が見下ろせるようになってました。

向こう側が下がってますね。

なので、ランウエイエンドのフェンスのところからこっちに向かって離陸するヒコーキを撮ると…

こんな感じです。

ほとんど見えませんが、「波照間空港」と書かれています。空港入り口のところにありました。

空港正面

ターミナル内部。
ベンチがカラフル

売店。各種ドリンクのお品書きが貼ってあります。

メニュー:
・サコナジュース
・シークワーサージュース
・フーチバジュース
・トッキンジュース グアバ
・ツナンパジュース
・マンゴージュース
・ゴーヤージュース
・ヌーバージュース
・パッションフルーツジュース
・ハイビスカスジュース
・アイスコーヒー
・ホットコーヒー
・コーラ

地元ネームのものがたくさんありますが、いくつわかるでしょうか? 

サコナ=長命草
シークワーサー=ヒラミレモン
フーチバ=ヨモギ
トッキン=グアバ
ツナンパ=アキノノゲシ
ヌーバー=琉球ヨモギ?

定刻15:35着のヒコーキ。

 


      波照間島・波照間空港    

    ビュー:☆☆★★★  
展望デッキなし。
ターミナル内のベンチからガラス越しにエプロンの様子がよく見える。
ターミナル出て左側からエプロン、滑走路がよく見える。

    施設:☆☆☆☆★  
各種トロピカルドリンクが飲める。その他オリジナルTシャツ、黒糖
職員、皆さん気さくで親切
駐車場無料

    マニア度:☆☆☆☆★  
滑走路周辺歩いて回りやすい
ローカル駅みたいな雰囲気の小さな空港

    総合:☆☆☆☆★  

運行会社が変わり運行再開したのもつかの間、再び運休。
この先安定路線となることはできるのだろうか。
島では滑走路を拡張して更に大きな機材導入を求めているが…

RAC運行当時の時刻表
10:25波照間発→10:45石垣着 
16:05波照間発→16:25石垣着 

9:30石垣発→9:55波照間着
15:10石垣発→15:35波照間着
火、金、土、日の週4運行

エアードルフィンによる運行もRACと同じく火、金、土、日の週4日、1日2往復。
使用機材も同じくアイランダー。

波照間空港データ
設置管理者:沖縄県
3レター:HTR
4レター:RORH
空港種別:地方管理空港
運用時間:8:00~18:00
所在地:縄県八重山郡竹富町字波照間
標 点:N24°03′30″E123°48′14″
標 高:13.1m
面 積:9ha
滑走路:800m×25m
磁方位:02/20
航空管制周波数
・飛行場アドバイザリー
 波照間リモート 118.40(RAG)
・航空路管制
 那覇コントロール(宮古西セクター)123.90

沿革
1972年03月 米軍民政府援助資金により緊急着陸飛行場(主に救急患者の輸送用)建設
    09月 民間航空による運航開始
1976年05月 場所を移転し供用開始(滑走路800m)SWAL(南西航空)、石垣路線開設
1992年    南西航空(現JTA)からRACに路線移管
2007年11月 30日 路線廃止
     12月 28日 エアードルフィンによる運行開始
2008年11月 1日 運休 
2021年     第一航空、年内の石垣便運航開始を目指す。 週3回程度、14,000円(島民割引5,000円)予定
2022年04月 18日 30日から石垣便運航を目指していた第一航空機、多良間空港で機体トラブル。就航延期
     12月  21日から石垣―波照、多良間線就航を予定していた第一航空、機材・乗員繰りつかず就航延期

関連サイト:
沖縄県/波照間空港     
国土交通省大阪航空局/波照間空港    
ブログ内関連記事    


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北大東空港 [├空港]

  2007年3月訪問 2022/10更新  


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撮影年月日1978/11/27(昭53)(COK782 C1 7) 800m滑走路で供用開始の年
出典:国土地理院ウェブサイト(地理院データを加工して作成)

無題4.png
SkyVector.com

沖縄県島尻郡大東諸島の1つ、北大東島にある「北大東空港」。

島の東海岸沿いにあります。

SkyVector.をご覧の通りで、南大東島の北北東に位置しており、非常に近いです。

ターミナル前は無料駐車場になってます。

暗いですが、中はこんな感じ。

2階にレストランがあるのですが、現在閉鎖中でした。

入り口に求人の貼紙がしてあり、「長期働ける真面目な人」を募集してました。

北大東島空港で働くチャンスですよ!

どなたか如何でしょう

展望デッキ。

広々としていて眺め良好です。 

デッキからの眺めはこんな感じ。

ターミナル裏側

ランウエイエンド周辺は原っぱで、広々してます。

この空港は1日1便で、しかもヒコーキはすぐに飛んで行ってしまうので、

この場所から離着陸シーンを撮ろうとすると、2泊する必要があります。

ランウエイエンドに背を向けるとこんな感じなので、好きなポイントから狙えます。 


      北大東島・北大東空港    

    ビュー:☆☆☆☆☆  
展望デッキは外階段で上がる。
入場無料で、南大東空港よりも広い。
エプロン、滑走路など、全域眺め良好。
反対側からは島内が見渡せる。

    施設:☆☆☆★★  
レストラン、売店のスペースはあるが、現在閉鎖中。
長期できる真面目な人募集中!
ターミナル内には自販機、冷水機あり。
警備員を含め、スタッフは気さくで親切な人ばかり。
ターミナル前に十分な広さの無料駐車場あり。
モニュメント、白い建物は遠くからもよく目立ち、島外者には市役所によく間違えられる。

    マニア度:☆☆★★★  
ランウエイエンドからの眺め最高。

    総合:☆☆☆☆★  

定期便は午後に1便やってくるのみ。午前中はカウンターは無人で開きっぱなし。

北大東空港データ
設置管理者:沖縄県
3レター:KTD
4レター:RORK
空港種別:地方管理空港
運用時間:8:00~18:00
所在地:沖縄県島尻郡北大東村字南
標 点:N25°56′41″E131°19′37″
標 高:21.6m
面 積:36ha
滑走路:1,500m×45m
磁方位:03/21
航空管制周波数
・飛行場アドバイザリー
 大東リモート 126.20(RAG)
・航空路管制
 那覇コントロール(宮古西セクター)124.50

沿革
1964年 大日本精糖の所有経営から村営に変更
1971年 米国民政府援助資金で緊急着陸飛行場(主に救急患者輸送用)として設置。
1978年 供用開始(滑走路800m)
1997年 滑走路1,500mで供用開始

関連サイト:
沖縄県/北大東空港   
国土交通省大阪航空局/北大東空港    
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南大東空港 [├空港]

  2007年3月訪問 2022/10更新 


無題3.png
撮影年月日1994/12/06(OKC9410 C2 8) 建設の進む南大東空港。開港まであと2年7ヵ月
出典:国土地理院ウェブサイト(地理院データを加工して作成)
無題4.png

SkyVector.com

 

空港入り口 

ターミナル正面

ターミナル前の無料駐車場

展望デッキ。全域見晴らし良好です。 

那覇から到着したダッシュエイト。RAC861便(JA8972/DHC-8-103Q)

地上スタッフがチェーンを張ってからドアを開けてました。

荷降ろし中。

午後便は南大東、北大東を経由して那覇に戻る三角ルートなのですが、

このヒコーキは午前便なので、北大東空港を経由せず、25分後にそのまま那覇に戻ります。

ヒコーキが離陸準備をしている間にターミナルから滑走路の見える場所へ移動。

VOR/DME

25分後、定刻通りタキシング開始。

今度は862便として那覇へ。

滑走路正面に容易に出られました。

まだ3月だというのにこの陽炎…

まだなんか、みょーんとくっついてマス

定刻11:15に出発。

那覇到着予定時刻は、12:30。


      南大東島・南大東空港    

    ビュー:☆☆☆☆★  
展望デッキ無料。小さいがエプロン、滑走路よく見える。     

    施設:☆☆☆☆☆  
ターミナル内明るくてきれい。
売店に各種飲み物、お土産、お弁当あり。 大東すし(550円)がおススメ。
ターミナル前に無料駐車場あり。 

    マニア度:☆☆☆☆★  
VOR/DMEのすぐそばまで行ける。
滑走路周辺は撮影しやすい道が多い。

    総合:☆☆☆☆★  

正面玄関入ると、向かいのカウンターからニコニコ顔で「こんにちは!」と声がかかる南国っぽい気さくな雰囲気の空港。

南大東空港データ
設置管理者:沖縄県
3レター:MMD
4レター:ROMD
空港種別:地方管理空港
運用時間:8:00~18:00
所在地:沖縄県島尻郡南大東村
標 点:N25°50′48″E131°15′49″
標 高:48.3m
面 積:36ha
滑走路:1,500m×45m
磁方位:02/20
航空管制周波数
・飛行場アドバイザリー
 大東リモート 126.20(RAG)
・航空路管制
 那覇コントロール(宮古西セクター)124.50

沿革
1973年    米国から日本の航空法に変更し、旧空港の滑走路が800mしか認められず、YS-11からDHC-6に変更
       小型による運用のため、悪天候、横風の影響から就航率低下。大型機運用の必要から新空港建設
1997年07月 新空港供用開始

関連サイト:
沖縄県/南大東空港   
国土交通省大阪航空局/南大東空港   
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南大東島航空基地(旧南大東空港)跡地 [├空港]

  2007年3月訪問 2024/5更新  


南大東島a.png
撮影年月日1963/04/01(USAdaitou LINE11 96) 

撮影年月日1963/04/01(USAdaitou LINE11 98) 
撮影年月日1963/04/01(USAdaitou LINE12 80) 
撮影年月日1963/04/01(USAdaitou LINE12 82) 
出典:国土地理院ウェブサイト(地理院データを加工して作成) 
7.png8.png
Ryukyu Islands airfields. Report No. 1-b(10), USSBS Index Section 6 
(国立国会図書館ウェブサイトから転載)

南大東島の真ん中にはあった旧南大東空港。

元々は日本海軍の「南大東島航空基地」でした。

当記事を書くにあたり、以下3点の資料を使用しました。

1.防衛研究所収蔵:「南西諸島航空基地一覧図 昭和19・11 第三航空艦隊司令部」
 飛行場要図があり、先頭のグーグルマップはこの要図から作図しました。
 4本の滑走路と、計画であろう破線で描かれた1本の滑走路が描かれていました。

2.防衛研究所収蔵:「海軍航空基地現状表 内地之部 佐世保鎮守府航空基地現状表」
 当飛行場について一部次のように記載がありました。
 基地名:南大東島 建設ノ年:1944 飛行場 長x幅 米:910x95 480x70 880x70 500x70 
 主要機隊数:小型機 主任務:着陸場 

3.アジ歴:Translation No. 65, 12 May 1945, digest of Japanese air bases.21コマ
 当航空基地の要図があるのですが、1.の要図とは細かい箇所が微妙に異なっています。

資料1と3の要図、どちらも4本の滑走路に長さと幅の数値が書かれていて、

その数字は資料2の数字と全て同じでした。

但し、破線で描かれた滑走路については、資料1では1500x150 とあり、資料3では1500x300 とありました。

ということで、これらの資料から南大東島には、

戦中に日本海軍が建設した4本の滑走路があることになっているんですが、

島のドコに建設されたのか、位置までは示されていません。

国土地理院の当島の航空写真は、閲覧可能な最も古いものが1963年で、

しかも細かい写真の連続になっていて、全体を写したものがありません。

その後しばらく空白期間があり、1977年になってやっと島全体の写真が閲覧できます。

で、1963年の細かく区分された写真1枚1枚を見ても、1977年の写真を見ても、

目立つのは島の真ん中にある旧南大東空港の滑走路のみ。

1963年の航空写真を貼り合わせてみたら、やっと海軍航空基地の痕跡が見つかったのでした。

上の航空写真がそれで、これは4枚を貼り合わせてあります。

ご覧の通りで周辺には小さな池が点在するのですが、

この池は1963年の航空写真と現在とで形がまったく変わらないもの、

完全に消えたもの、突然出現したもの等様々です。

東西方向の滑走路の西端部分に四角い池がありますが、これも1963年にはなかったものです。

ということで、3つの資料と1963年の航空写真を参考に作図したのが先頭のグーグルマップです。

極力3つの資料に忠実に作図したかったんですが、どうしても成り立たない箇所があり、

そこは少々修正してありますが、おおよそこんな感じではないかと。

作図して初めて気が付いたんですが、南北方向の滑走路はかなり地割が残ってますね。

 

■戦史叢書「沖縄方面海軍作戦」p100

十九年一月八日、佐鎮命令による航空基地
整備要領は次のとおりで、従来と違って明らかに作戦基地として
整備が進められた。

施設名 南大東島
工事要領等 既訓令工事を促進すると共に小型機一隊使用可能の如く 滑走路を更に拡張し成し得れば一,〇〇〇mとす
記事 昭和一八年官房機密第二八三三号訓令に依り施行


防衛庁防衛研修所戦史室 編『沖縄方面海軍作戦』,朝雲新聞社,1968. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/9581812 (参照 2024-05-15)
 

■「沖縄県立埋蔵文化財センター調査報告書第25集  沖縄県戦争遺跡詳細分布調査(Ⅳ) -本島周辺離島及び那覇市編-
2004年(平成16年)3月 沖縄県立埋蔵文化財センター 」の中で一部こうありました。

「南大東島は1946年まで、通常の行政自治のない企業私有地であった。この南大東島に軍事施設として、 1934年に海軍飛行場が造られ、その後1944年に第322設営隊が来島、飛行場の拡張建設・管理にあたった。 北大東・南大東両村では、本島で繰り広げられたような地上戦は展開されずに済んだが、米軍による空襲 や艦砲射撃は盛んに行われた。」


■南大東島 第三百二十三設営隊隊員の方の手記がありました。以下抜粋させて頂きます。

 佐世保鎮守府施設部で四十日の教育をうけ、第三百二十三設営隊付を命ぜられ、沖縄飛行場補修要員となった。
そのころは負け戦の最中で、先まで行けず大牟田から設営機材を積み込み、「兵器を渡す」というので取りに行ったら、六連発の鴨射ち猟銃を六人に一挺ぐらい渡されました。
翌日出発したが、空襲がはげしいので奄美大島に機材を降ろし、小さな機帆船に積み替え南大東島へ出発しました。

昭和19年8月29日、製糖会社のクレーンで、人も機材共々吊り上げて上陸しました。
仮兵舎を作り、第三百二十三設営部隊約二百十~二百六十人が入った。
今川部隊といって隊長は証左か中佐でしたが、我々は兵器は一切使ったことはなかった。

 設営隊の仕事は、飛行場滑走路の修理でしたが、しょっちゅう爆撃され、二十メートルぐらいの穴があき、土地が海面すれすれのため直ぐ水が濁ってしまう。
地面は珊瑚礁なので、土を運んで埋めるが、作業中にまた爆撃を受ける。
沖縄の往き帰りに、行きがけの駄賃と残飯整理のためか爆弾を落として行く。
爆弾は二十五キロ~五十キロぐらいなので穴は相当深かった。
施設もやられた。

 島は、全島砂糖黍畑といってもいい。
島の砂糖と内地の米等とバターで、食糧は内地にたよっていた。
十一月一日ごろ、潜水艦で食料を運んで来たけれど、天候が悪く陸揚げが出来ず引き返し、その後空襲がはげしいため食料の補給が無くなった。

 そんな具合で南大東島は完全に孤立し、まず困ったのは食糧でした。
主食は唐芋、葉は汁の中に入れ、お茶は笹の葉を石油缶で焚いて飲む、バッタを火であぶって食うが、蛇は一匹もいなかった。
ビンロー樹は竹の子の代用、一番有難かったのは岸壁のくぼみに溜まった海水が夕方には塩となり、砂糖ささもに貴重な調味料となったことです。

 爆撃で飛行場滑走路に穴があくのだが、トラックも車もない。
歩いて行っても作業が出来ない。
幹線も全然近寄れない、クレーンは爆撃されているので荷揚げは出来ない。
また十一月過ぎれば波が荒くて船は寄り付けない。
心理的にも不安で、いろいろなデマが飛ぶ。米軍が上陸するとか。
空襲の時、陸軍にも高射砲はあったらしいが、機関銃を射ったようで、敵機を撃墜した。すると敵が同僚を助けにきた。
日本は玉砕だ玉砕だというが、米軍は人命を大切にしていた。

 一番恐ろしかったのは、滑走路の補修でトラックに乗って行って艦砲射撃をされたときです。
飛行機の爆弾は見ておれば大体見当がつくが、艦砲は島が小さいから右から売っているのか、左からなのかわからない。
弾は音がドオン~ヒューと気味悪い余韻を残して落ちてくる。
得体の知れぬ怪物みたいで、爆風で私も右の耳が聞こえなくなった。

「旧空港跡地」と書かれていたので、行ってみました。

サトウキビ畑の中に建物発見。右側の外階段を使えば展望デッキに上がれたのでしょうか?

近づいてみると、あたり一面むせるような甘くて濃いィ匂いが。

空港ターミナル待合所は、そのままラム酒工場になってました。なんでも日本初のラム酒工場だそうです。

「(株)グレイスラム」 という看板がかかっていますが、

それよりはるかに大きい空港の文字はそのまま残っています。

本土の感覚では、まずはこういうものから外すような気がするのですが…。

まあ、オイラからしたら嬉しいですけど。

この旧ターミナル関連のサイトをあちこち見てみましたが、

空港が閉鎖されてからラム酒工場に生まれ変わるまで数年の空白期間があり、

その間建物は廃墟ですっかりボロボロでした。

建物やその周辺がかなり古くなっていることは否めませんが、廃墟当時と比べると現在は大分こざっぱりしてました。

建物内に入ってみたかったのですが、カギがかかっていました。

裏手の方からは機械音が聞こえてきます。

島ではちょうどサトウキビの収穫が終ったばかりで忙しいのかもしれません。

 

ターミナル裏手には滑走路が一部残っていました。

そして、なんと滑走路上に村営集合住宅が!

いーなー。こういう所に住みたいなぁ。

同条件の物件なら、1万円位高くても、滑走路の上に住みたいっ!

 

旧南大東空港.JPG
写真:国土画像情報(オルソ化空中写真) 国土交通省
撮影年度:昭和53年 地区名:大東島 編集・加工:空港探索・とり

1978年当時の旧南大東空港。

まだ現役バリバリで頑張ってた頃です。

日本の航空法が適用されて滑走路が短くなってしまってから4年後の時期なのですが、

滑走路両端が白っぽくなっているのはそのせいでしょうか。


      南大東島・旧南大東空港跡地    

・南大東島航空基地(海軍当時) データ
イ 910mx95m(11/29))
ロ880mx70m(01/19)
ハ 480mx70m(13/31)
二 500mx70m(07/25)
1,500mx150m(破線部分)
*イ~二と数字は防衛研究所収蔵「南西諸島航空基地一覧図 昭和19・11 第三航空艦隊司令部」より

・旧南大東空港(運用当時) データ
設置管理者:沖縄県
3レター:MMD
4レター:ROMD
空港種別:第3種/地方空港
所在地:沖縄県島尻郡南大東村字旧東
標 点:N25°50′33″E131°14′44″
面 積:13万3,800㎡
滑走路:1,200m(800m)
磁方位:11/29

沿革
1931年09月 海軍の大演習あり。小飛行場が建設され戦闘機が着陸
1934年    大日本帝国海軍飛行場として開設
1944年    米潜水艦による輸送船の被害が増大。工事を促進し、小型機1隊が使用できるように滑走路拡張
    10月 10日 米軍機による初空襲
        24日 部隊の軍旗祭飛行場で行われる。着陸中の戦闘機2機基地に向かって離島したが1機が、
       エンジン故障で島内に墜落、搭乗員2名戦死。
1945年01月 米軍機(B29)の空襲はげしく対空砲火で激しく交戦
    03月 10日 空襲による被害甚大。砂糖倉庫火災となり9日間燃え続ける
       27日 夕刻米艦隊から艦砲射撃を受ける
    04月 10日 空襲連日続く。海軍の食料を輸送して入港した潜水艦で学校の御真影を送還
       21日 艦砲射撃を受ける
    05月 10日 艦砲射撃を受ける
    06月 10日 艦砲射撃を受ける
    07月 6月10日を境に空襲少なくなり7月以降全然なし。過去の空襲と艦砲射撃により住民2名軍隊40余名戦死
    09月 米軍占領部隊上陸。武器弾薬没収爆破及び海中投棄
1963年    滑走路等整備
1965年03月 9日 民間航空路開通(エアーアメリカ社10人乗り)。副民政官、行政主席一行来島、空路開通記念式典挙行
1967年07月 3日 民間航空、南西航空社初就航式(従来のエアーアメリカ社は事業閉鎖)
1968年   滑走路1,200mに整備しYS-11型機が就航
    04月 27日 飛行場ターミナルビル工事竣工検査
1969年02月 16日 飛行場拡張工事落成式挙行
1970年06月 30日 飛行場回収工事着工
1971年12月 15日 気象台空港出張所開所式
1972年    飛行場現況届告示(滑走路1,323m)
     05月 7日 通貨交換のため自衛隊機にて円通貨到着。23日US$貨自衛隊機にて輸送
     07月 26日 相次ぐ台風接近により船便欠航。食糧米欠乏し、自衛隊機により米5屯空輸し急場をしのぐ
     11月 8日 運輸省より空港施設調査のため14名空路来島
       13日 これまで米軍機で多数の急患を空輸したが、自衛隊救難機による急患初空輸
1973年11月 29日 地図5千分の1作成のため航空撮影実施
1974年08月 14日 本土復帰で米国法から日本の航空法に変更。滑走路が800m分しか認められなくなり、
       YS-11から小型のDHC-6に変更(就航率が下がってしまったため、新規の空港を建設することとなる)
1979年09月 6日 南大東空港、航空保安、施設(NDB)新築移転
1980年04月 20日 南大東空港対空通信施設運用開始
    05月 1日 空港ターミナル落成式
1983年03月 1日 国有農地(元飛行場用地)145,796平方メートル耕作農家へ払い下げられる
1986年08月 30日 相次ぐ台風接近で船便欠航。食糧米欠乏し自衛隊機による3.2トン空輸実施
1989年05月 2日 新南大東空港建設促進住民大会開催
1991年10月 22日 新南大東空港建設に関する公聴会開催される
    11月 18日 旧日本海軍が米軍による武装解除の際に西港海底に投棄した砲弾類の回収及び爆破処分を
       海上自衛隊が実施する
1992年11月 16日 南西航空から琉球エアーコミューターに変更
    12月 14日 西港海底に投棄した旧日本軍の砲弾類の回収及び爆破処分を海上自衛隊実施
1993年04月 9日 新南大東空港建設促進住民大会開催
1994年11月 22日 新南大東空港建設起工安全祈願祭及び祝賀会が挙行される
1997年07月 22日 新南大東空港の落成式(県主催)並びに落成祝賀会(村主催)挙行。旧空港は閉鎖
2004年   旧空港ターミナルがラム酒工場に

関連サイト:
村の歴史(年表) 
沖縄県立埋蔵文化財センター調査報告書第25集  沖縄県戦争遺跡詳細分布調査(Ⅳ) 
南大東島 第三百二十三設営隊 
沖縄県庁/南大東空港
アジ歴:Translation No. 65, 12 May 1945, digest of Japanese air bases. 
グレイス・ラム(ラム酒工場)
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この記事の資料:
防衛研究所収蔵「南西諸島航空基地一覧図 昭和19・11 第三航空艦隊司令部」
防衛研究所収蔵資料「海軍航空基地現状表 内地之部 佐世保鎮守府航空基地現状表」


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妻沼グライダー滑空場 [├空港]

  2006年11月訪問 2022/10更新  



埼玉県熊谷市にある「妻沼グライダー滑空場」。

ここは2005年まで妻沼町だったんですが、合併で熊谷市の一部となりました。

グライダーは無音なのですが、川で水上バイクが走り回っていて、エンジン音が響いてました。

ウインチ曳航。無線でやりとりをしながら操作してました。

グライダーはそのか細い姿から、優雅で繊細で、デリケートに扱わないとたちまち壊れてしまいそうで、

離陸も着陸もそっとやさしくやるのだと思ってました。

しかしそれはオイラのとんでもない勘違いでした。

READY…

GO!!
(注:この先、連続写真のようでそうではない場合が多々あります。ご了承くださいませ)

索が風を切り裂く音と共に、あっという間に離陸

 そして急上昇!

F‐15のハイレートクライムとまではいきませんが(実際に見たことないけど)、

戦闘機の通常の離陸より、グライダーの離陸の方がよっぽど角度、上昇率共にすごいです。

調べてみたらグライダーの機体強度は、アクロ用でなくても普通に+5G~‐2.5G程度あり、旅客機よりも頑丈です。

あの見た目に騙されてました。

オイラが見ている間に1回だけ飛行機曳航をしてました。

こちらはすごくのんびり。

サーマルがそれほど発生していないからなのか、

はたまた離着陸の訓練を主としているからなのかは定かではありませんが、

滞空時間はほんの数分ですぐ着陸するパターンが多かったような気がします。

すぐ後ろにファイナルターン中の機が迫っているように見えますが、

河川敷を手前と奥に分けており、”平行滑走路”みたいにしてました。

ファイナルターン中の機はこの後奥の方に着陸してました。

この写真の右側でも、背中合わせで別のチームが離着陸を繰り返してました。

離陸/着陸をする方向は一応決まっているのですが、中には逆方向から降りてくる機もありましたΣ(゚Д゚;)

接地は上手にフワリと行う機と、「ゴンッ!」という音がこっちまで聞こえてきて、バウンドする機もありました。

でも頑丈ですから大丈夫!(多分)

上手なパイロットは、接地後にちょうどスタッフたちの待ち構えている地点でピタッと止まるので、

翼端が地面につくこともありません。

ところが中には…

スタッフたちの目の前を優雅に通り過ぎ、まだ飛んでます。

ようやく接地。

この後車に引かれながら、延々数百メートル戻ってました。

いくつかの大学?のチームが練習を行ってましたが、まったり(静かに)やっているところがある一方で、

先輩:「次、21番出すから準備しとけ!」

後輩:「ハイッ!」

みたいなやり取りが大声で飛び交っているチームもありました。

このチームは着陸した機体の移動も駆け足で、本当に体育会系でした。

学生グライダー、全然優雅じゃないです。

索持ってきたお。

飛行の様子が間近に眺められるようになってます。

この写真は練習が終了する頃に撮ったので見学者はあまり写ってませんが、見に来ている人たちは結構な数でした。

脱ぎっぱなしの靴下みたいなのが散らばってます

近寄ってみると、「左翼」とか書かれてました。 

日本一のグライダー滑空場だったんですね。

灯台下暗しでした。

地元を知らずにフラフラと他県の空港行ってる場合じゃありませんでした(汗


     埼玉県・妻沼グライダー滑空場   

    ビュー:☆☆☆☆☆  
土手の離着陸が良く見える場所に特等席が完備。期間中はひっきりなしに繰り返す離着陸、キビキビと動き回るスタッフたちを見ていると飽きない。家族、カップルでの見学者が多い。

    施設:☆☆☆☆☆  
土手の反対側にトイレあり。自販機、コンビニなどは近くにないので注意。

    マニア度:☆☆☆☆☆  
駐機中のグイラダー、ウインチなど、間近に見ることができる。
土手の反対側に寮兼整備場?もあり、様子を眺めることができる。   

    総合:☆☆☆☆☆  

河川敷を利用した滑空場で眺めは抜群。周囲ものどかでいい感じ。滑走路と見学者を隔てるものが何もないので(葦が茂ってるけど)、どこまでも近づくことができる。見学者の側に判断力とマナーが求められる。もしも注意を受けたら、それは既に相当迷惑行為と心得て即刻立ち去るべし。

妻沼グライダー滑空場データ
設置者:日本学生航空連盟
所在地:埼玉県熊谷市葛和田 利根川右岸敷
標 点:N36°12′47″E139°25′02″
標 高:27.1m
滑走路:1,500m×100m
磁方位:14/32
航空管制周波数 130.5

沿革
1963年 開設

関連サイト:
熊谷市/グライダー妻沼滑空場   


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ニューアーク・リバティー国際空港 [├空港]

  2006年10月訪問 2022/10更新  


無題2.png
SkyVector.com

米国 ニュー・ジャージー州 ニューアークにある「ニューアーク・リバティー国際空港」。
 

今回唯一の空港写真。

ターミナルC コンチネンタル航空成田行き121番ゲート前。

明るく開放的な雰囲気。奥にA&Wのスタンドがありました。

コンコースはとても広々としていて、

10人位の人と荷物を運べる電動の大きな台車のようなものが走り回ってました。

そのうちの1台を黒人の若いスタッフが、テーマパークの乗り物かというほどの猛スピードで派手に走らせ、

乗せていた客たちの大喝采を浴びてました。

我々が利用したゲートは日本向けの便が多いからなのか、

本人確認(写真撮影と指紋採取)や、出発案内はスタッフが日本語で行ってました。

土産物店でチョコを買ったら、「コレハ ホジョゴジデ ワタシマス」と言われました(搭乗口のことでした)。


     ニュージャージー州・ニューアーク・リバティー国際空港    

大空港。搭乗口周辺は非常に明るくて広々。9.11の際ハイジャックされたうちの1機はこの空港を離陸。空港の東"11"キロ地点に自由の女神像があり、犠牲者を追悼して「リバティー」が名称に加わった。入国審査の時の雰囲気はものすごく厳しい。ちょっとヘンな真似をすると、即ハチの巣(そんな雰囲気だった)。出国手続きの保安検査の時も、靴までX線で調べるという警戒ぶり。しかし検査を無事に通過し、晴れて自由の身になると、気さくな職員が多かった。ドレッドヘアー、レスラーのような体格(スリーサイズは日本女性の倍くらいありそう)の黒人女性スタッフたちが大声で仲間と楽しそうにしゃべりながら働いているのが印象的だった。コンチネンタル航空のハブ空港で、同社のヒコーキが多数見られる。

ニューアーク・リバティー国際空港 データ
運営者:NY&NJ港湾公社
3レター:EWR
4レター:KEWR
空港種別:公共用空港
運用時間:24時間
所在地:米国ニュージャージー州ニューアーク市
標 点:N40°41′32″W74°10′07″
標 高:5.5m
滑走路:3,353m×45m(04L/22R)
          3,048m×45m(04R/22L)
       2,072m×45m(11/29)
航空管制周波数
・飛行場管制 
 ニューアークタワー 118.3 257.6
 グランド 121.8
 デリバリー 118.85
・飛行場情報放送 
 ATIS 115.7 134.825

沿革
1928年10月 ニューヨーク周辺で最初の主要空港として開港
         第二次大戦中は旅客輸送一時中断(米陸軍)
1952年    滑走路1/19、6/24閉鎖
1973年    ターミナルA、B完成
1988年10月 ターミナルC完成
2001年   「ニューアーク・リバティー国際空港」に改称

関連サイト:
ニューアーク・リバティー国際空港    
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笠岡地区農道離着陸場(笠岡ふれあい空港) [├空港]

  2006年10月訪問 2022/10更新  



岡山県笠岡市にある「笠岡地区農道離着陸場(笠岡ふれあい空港)」。

周辺は広大な干拓地が広がっています。

門のところに正式名称と愛称が。

到着が遅かったため、既に人気はなく残念ながら中に入ることはできませんでした。

オートジャイロがいっぱいいました。これ乗ってみたいなぁ。

誘導路と滑走路

周囲は見渡す限りこんな感じ。


     岡山県・笠岡地区農道飛行場(笠岡ふれあい空港)  

農道離着陸場は、1988年に農林水産省の主導で始まった。ここ「笠岡ふれあい空港」は、全国に作られた8ヵ所のうちの1つ。「付加価値の高い農産物を新鮮なうちに、農道から直接小型機で大都市の消費者へ-」発想は良かったけど、夜間の運用ができないこと1つ取ってみても、コスト、利便性、あらゆる面でトラック輸送に勝てず…。本来の目的は頓挫してしまい、ここを含めて、他の農道空港はスカイスポーツ等様々なイベントで生き残りを図っている。ここは「西日本における模型飛行機のメッカ」と言われているらしい。様々なイベントを通じて気軽に空に親める場所が全国に点在(といっても偏っているけど)しているのは怪我の功名と言えるかもしれない。

笠岡地区農道飛行場(笠岡ふれあい空港)データ
設置管理者:笠岡市
種 別:場外離着陸場  
運用時間:8:30~17:00(ただし日没が午後5時10分以前のときは、日没10分前まで)
所在地:岡山県笠岡市カブト西町
標 点:N34°28′33″E133°29′20″
標 高:3.9m
滑走路:800m×25m
磁方位:03/21
航空管制周波数 122.6

沿革
1991年10月 開港

関連サイト:
Kasaoka Air-Station  
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広島西飛行場(運用当時) [├空港]

  2006年10月訪問 2022/10更新  


無題1.png
撮影年月日1961/02/27(CG611YZ C4A 65) 開港まであと7ヵ月
出典:国土地理院ウェブサイト(地理院データを加工して作成) 
 

2012年11月15日 「広島西飛行場」は廃港となり、「広島へリポート」として供用開始しました(下記リンク参照)

流石に元広島県の空の玄関口を張っていただけに立派な門構え。

飛行場向かい側はこんな感じ。

三菱の工場の形をなぞるように道路ができていて、飛行場前の道路はカクカクしてました。

ターミナル正面。早速展望デッキに上がろうと思ったのですが…

…うーむ、残念!

待合ロビーの様子。奥に見えるのが喫茶店。雑誌、土産物も扱ってます。何か買ったりできるのはここだけ。

ターミナルを出て、滑走路の向こう側の様子。滑走路に沿って川が流れてました。

こちら側からは空港の様子がよく見えます


        広島県・広島西飛行場     

    ビュー:★★★★★  

展望デッキ:あるけど閉鎖中
定期便は現在JACの鹿児島、宮崎 1日10便のみ
(追記:2010年10月 定期便なくなりました)

    施設:☆★★★★  

売店、喫茶、みやげ物類は全部1コーナーに小さくまとめてある
小さく簡単なつくりの建物で、利用客が立ち入れるのは1階のみ
ターミナル前に無料駐車場あり

    マニア度:★★★★★  

特になし

    総合:☆☆★★★  

三菱の城下町にある飛行場という印象
1961年に「広島空港」として供用開始したが、1993年に現在の広島空港開港に伴い、「広島西飛行場」に名称変更。管理者を運輸大臣から広島県に移管
空港の外側にはゴミやホコリが溜まっている箇所があり、館内も古くて薄暗い印象
館内放送の試験をしていたが、学級放送のような雰囲気だった
ともかく全体的に寂れているという印象
飛行場側に受け入れの努力はほとんど見られないものの、熱心なファンサイトが幾つもある。川側からの眺めに救われている部分が大きい

広島西飛行場データ
設置管理者:広島県
3レター:HIW
4レター:RJBH
空港種別:その他の空港
運用時間:7:30~21:30
所在地:広島県広島市西区観音新町
標 点:N34°21′48″E132°24′56″
標 高:2.7m
面 積:49ha
滑走路:1,800m×45m
磁方位:04/22
航空管制周波数
・飛行場アドバイザリー
 広島西フライトサービス 130.65
・進入・ターミナルレーダー管制
 広島アプローチ 119.90 124.05 121.50

沿革
1957年08月 第六管区海上保安本部の航空基地として使用開始
1961年09月 供用開始(滑走路1,200m)
1972年09月 滑走路延長1,800m
1993年10月 新広島空港開港、元の空港はコミューター、小型機専用空港
              「広島西飛行場」として供用開始
2010年10月 定期便運休
2012年11月 15日 広島西飛行場廃港。広島へリポート供用開始

関連サイト:
広島県/広島へリポートの供用開始     
国土交通省大阪航空局/広島西飛行場■(ページ削除)   


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山口宇部空港 [├空港]

  2006年10月、2017年5月、2024年1月訪問 2024/2更新  


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撮影年月日1965/08/08(MCG656X C11 6) 建設の進む山口空港。開港まであと11ヵ月
出典:国土地理院ウェブサイト(地理院データを加工して作成)

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SkyVector.com

山口県南西部、宇部市にある「山口宇部空港」。

空港の3方が瀬戸内海に面しています。




6:30am まだターミナルがオープンしたばかりの時間帯です。

エプロン側に回ると、ナイトステイ機がいました。

東京行きの1番機です。

この空港の西側は滑走路に沿ってなだらかな丘が続いています。

遊歩道も整備されていて、ワンちゃんと一緒に早朝から散歩をしている地元の方に何人もすれ違いました。

エプロンの近くは木が茂っていて滑走路はあまり見えないのですが、滑走路端に向かって少し歩くと、

上の写真のように視界が開け、滑走路が見下ろせるようになります。

プッシュバックし、エプロンを離れた1番機。



8:00発 羽田行き ANA692便 B767-381/JA8285

コレ、コラじゃないですよ? 

たまたまシャッターを切った瞬間、鳥が画面をかすめたので、もしやと思ったら写ってました。

丘の上から見た空港周辺

滑走路端の部分は漁港の敷地になっていて、漁師さんに許可でも得ない限り入れません。

こちら側から着陸する絵もよさそうです。

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以下国際線ターミナル内部

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(以下2024年1月撮影)

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       山口県・山口宇部空港    

    ビュー:☆☆☆★★  
展望デッキ:大人100円
フェンス低く見やすい。国際線側にも行ける(らしい)。国際線ターミナルは8:00オープン。現在羽田便1日8往復。

    施設:☆☆☆☆★  
売店、レストラン、みやげ物店(フグ、萩焼、墨)、軽食スタンドあり
館内はきれいで明るく利用しやすい。職員さん丁寧
ターミナル前に大きな無料駐車場。22:00‐5:30まで閉鎖
滑走路沿いに緑地帯あり。離着陸の様子がよく見える
ターミナルビル東側には広々とした「ふれあい公園」があり、離着陸の様子が見える。ミニ滑走路あり

    マニア度:☆☆☆☆★  
空港イベントでプラモデルのコンクールが行われ、出品作品が展示されていた。戦闘機の出品まではいいとして、なぜかガンダム、軍用車両が結構並んでいた。
滑走路沿いに緑地帯を設ける空港は多いが、ここのようにヒコーキがよく見えるように配慮されているところは嬉しい
ふれあい広場

    総合:☆☆☆☆★  

周辺は漁港のある住宅地。少し歩くと駅もある
滑走路の両端は海上
ターミナルのオープン時間になっても、レストラン、売店はまだ閉まっている空港は多いが、ここは6:30のオープンと同時にほぼすべての店が利用できた。

山口宇部空港データ
設置者:国土交通省 管理者:山口県
3レター:UBJ
4レター:RJDC
空港種別:拠点空港/特定地方管理空港
運用時間:7:30~21:30
所在地:山口県宇部市沖宇部
標 点:N33°55′48″E131°16′43″
標 高:4.5m
面 積:155ha
滑走路:2,500m×45m
磁方位:07/25
航空管制周波数
・飛行場アドバイザリー
 山口宇部レディオ 118.05 126.20
・進入・ターミナルレーダー管制
 築城アプローチ 120.10
 築城ディパーチャー 120.10
・航空路管制
 福岡コントロール(中国北セクター)132.50 132.90
 福岡コントロール(中国南セクター)126.10 132.90

沿革
1966年07月 山口空港供用開始(滑走路1,200mX30m)
1979年11月 滑走路運用休止
       新滑走路供用開始(2,000mX45m)
1980年04月 山口宇部空港に改称
1983年11月 旧滑走路廃止
2000年03月 新ターミナルビルオープン
2001年03月 滑走路延長2,500m

関連サイト:
山口宇部空港      
山口宇部空港ターミナルビル     
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北九州空港 [├空港]

  2006年10月、2009年10月、2024年1月訪問 2024/2更新  


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撮影年月日2002/05/25(CG20025X C6 28) 

出典:国土地理院ウェブサイト(地理院データを加工して作成)建設の進む北九州空港。開港まであと3年10ヵ月無題b.png

福岡県北九州市、周防灘に浮かぶ「北九州空港」。

西約8kmにあった旧北九州空港から2006年に引っ越してきました。

窓越しか、金網から眺める展望デッキ。

離着陸の時間表が貼ってありました。

展望デッキは建物の一部分で、スペースはそれほど広くありません。

この展望デッキのところにおられた職員のおじさんがやたらと親切で、「写真を撮ってあげよう」とか、

「足湯もあるから是非入っていきなさい」とか、空港、ヒコーキの説明などしてくれました。

「もう少し早く来たらスターフライヤーが見られたのに、残念だったねー」と言われました。

 

「せまい展望デッキだなー」と思っていたのですが、自宅に戻ってから空港パンフをよく見たら、

ここは「北」展望デッキで、もう1つ「南展望デッキ」があるのです。

こちらは広いスペースで、そこから連絡橋などもよく見えるのだそうです

展望デッキにお越しの際は、是非橋の見えるスペース(足湯のある方)へ!

離陸滑走するMD90-30/JA004D型機

この機体は元JASの「黒澤塗装7号機」です。

おおっと! 滑走路の熱と、海風の気温差で胴体が縮んで見えます。これは珍しい!

工場があるということで、目立つ場所に日産車が展示されてました。

(空港のすぐ近くにトヨタの工場もありました)

1階エントランス部分

この橋を渡って陸側に帰れます。

 


 

2009年10月に再訪した際の写真を載せておきます。

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前回撮り損ねた南展望デッキ


(以下2024年1月撮影)

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         福岡県・北九州空港     

    ビュー:☆☆☆★★  
南展望デッキ:無料
足湯利用可(大人100円)
ガラス越しか、金網(カメラ用の穴あり)からの眺め
双眼鏡、自販機あり
北展望デッキ:無料

    施設:☆☆☆☆★  
売店、レストラン、みやげ物店、セブンイレブンあり。
空港限定スイーツ、空弁、軽食
明るく広々とした館内
展望デッキに足湯
ターミナル前に巨大有料駐車場

    マニア度:☆★★★★  
特に発見できず

    総合:☆☆★★★  

旧北九州空港が人工島の空港に移転してできた。
自動車連絡橋で対岸とつながっているので、利用者は自家用車、バス、タクシーを利用することになる。
巨大な駐車場が設けられているが、ほぼ満車状態だった。
車の通路をつぶして駐車スペースにしている跡も見られた。

ターミナルビル内にコンビニ、宅急便、佐川急便、誰でも利用可能なインターネットコーナーなどがあり、非常に便利。
日産自動車展示コーナー、観光案内なども充実。
エントランスは全面ガラスを取り入れ、明るく非常に広々としており、メーテルがお出迎え。
職員さんも親切で明るい。利用者にとって便利で快適な空港にしようという姿勢を強く感じる。

反面、連絡橋を渡っての人工島の空港という、他の空港にはない独特の雰囲気はあるものの、ヒコーキ好きが楽しいと感じる部分は少ない。
館内はまだまだ広さを持て余している印象。今後に期待。
(2009/11/9追記:施設が充実してきており、前回感じた「広さを持て余している感」はなくなっていました)

新北九州空港データ
設置管理者:国土交通省 
3レター:KKJ
4レター:RJFR
空港種別:拠点空港/国管理空港
運用時間:24時間
所在地:福岡県北九州市小倉南区空港北町
標 点:N33°50′44″E131°02′06″
標 高:6.3m
面 積:160ha
滑走路:2,500m×60m(3,000m化事業開始)
磁方位:18/36
航空管制周波数
・飛行場管制 
 新北九州タワー 118.85 126.20
・進入・ターミナルレーダー管制
 築城アプローチ 120.10
 築城ディパーチャー 120.10
・航空路管制
 福岡コントロール(中国北セクター)132.50 132.90
 福岡コントロール(中国南セクター)126.10 132.90
 福岡コントロール(北九州セクター)118.90 132.90

沿革
2006年03月 開港
2008年06月 「新北九州空港」から「北九州空港」に改称
2019年09月 市長、民営化、改称、愛称を検討。「新福岡空港」、「福岡第2空港」、「福岡・北九州空港」等
2020年02月 1日 三菱スペースジェット用格納庫エプロン竣工
        国交省、3,000m化に向け延伸調査費、新年度予算計上の方針
2023年02月 国交省、3,000m延伸について事業化に向けた手続きに入る方針を固める
     03月 30日 国交省、3,000m延伸について新年度からの国の新規事業に採択すると発表
     05月 31日 国交省、滑走路3,000mに延長今秋着工、27年度中の利用開始を目指す方針と発表
     12月 2日 滑走路3,000m延長着工
2027年08月 31日 3,000m滑走路運用開始へ

関連サイト:
北九州空港     
国土交通省大阪航空局/北九州空港   
スターフライヤー  
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大分空港 [├空港]

  2006年10月、2024年1月訪問 2024/2更新  


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撮影年月日1971/05/09(KU718Y C5B 12) 
出典:国土地理院ウェブサイト(地理院データを加工して作成)  建設の進む大分空港。開港5ヵ月前
無題2.png
SkyVector.com
 

大分県国東市にある「大分空港」。

元は大分市内にあったのですが、1971年10月にこちらに引っ越してきました。

広々として見学しやすいデッキ

デッキから

同じくデッキから見た管制塔

内部の様子。すみません、かなりボケてます。

大分空港といえば、知る人ぞ知るこんな乗り物があります。

受付のおねいさんに頼んで撮らせて頂きました。

(ホーバーは2009年10月31日廃止になりました)

ドリームルビー号:
 乗客席数:105
 総トン数:51t
 全長:23.1m
 最高時速:90km

大分空港と大分市を25分で結んでいます。

ヒコーキの発着に接続運行していて、結構な頻度で運行してました。

日本で唯一、お金を払って普通に乗れるので、乗ろうかと思ったのですが、

片道2,950円、2枚綴り券でも5,000円という金額にビビッて断念しました。

…と思っていたのですが、もっとお得なチケットがありました。

「大分空港までお迎えに行きたい」
「大分空港まで見送りに行きたい」
「ホーバーにふらっと乗船したい」

そんな方のための時間限定往復割引です。

大人:2,960円。空港滞在時間3時間限定だそうです。

Marioさんから情報いただきました。ありがとうございました。

すごいドリフト!

空港が見渡せる緑地がありました。

緑地から 


(以下2024年1月撮影)

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      大分県・大分空港     

    ビュー:☆☆☆★★  
展望デッキ:6年10月~無料!
フェンスは大人の胸の高さ。建物の一角だが見晴らしは良い

    施設:☆☆☆★★  
売店、レストラン、土産物屋あり。
海産物、めんたいなどと共に、かぼすのふりかけ、ジュース、つぶらなかぼすなど、かぼすモノが充実
ヒコーキグッズ、空港オリジナルスイーツあり
分かりやすい館内
有料駐車場完備
国内線1階到着ロビーに足湯オープン。無料

    マニア度:☆★★★★  
ヒコーキと接続運行しているホバークラフト
   

    総合:☆☆★★★  

海に突き出した滑走路が大きな特徴。
良いポイントを探せば、いい絵が撮れるはず

大分空港データ
設置管理者:国土交通省 
3レター:OIT
4レター:RJFO
空港種別:拠点空港/国管理空港
運用時間:7:30~21:30
所在地:大分県国東市武蔵町大字糸原字海田
標 点:N33°28′34″E131°44′23″
標 高:5.2m
面 積:148ha
滑走路:3,000m×45m
磁方位:01/19
航空管制周波数
・飛行場管制 
 大分タワー 118.80 126.20
 大分グランド 121.60
・進入・ターミナルレーダー管制
 大分アプローチ 120.60 127.70
 大分ディパーチャー 119.05
・航空路管制
 福岡コントロール(中国南セクター)126.10 132.90
・飛行場情報放送 
 大分ATIS 127.80

沿革
1971年10月 旧大分空港廃止。新空港供用開始(滑走路2,000mX45m)
1982年12月 滑走路延長2,500m
1988年10月 滑走路延長3,000m
1991年12月 新ターミナルビルオープン、ホーバー直接乗り入れ
2009年10月 31日 ホーバー廃止
2016年06月 国内線1階到着ロビーに足湯オープン。11:00~18:00 14席無料
2019年06月 米ヴァージン・オービット、ANAホールディングスと、日本・アジア展開に関する契約を締結
2020年03月 県、早ければ2023年に空港と市内を結ぶホーバークラフト航路を再開すると発表
    04月 2日、大分県、米ヴァージン・オービットの大分空港活用について、合意を発表
       大分県、空港運営を民間一本化へコンセッション方式の導入に向け、国交省に調査依頼へ
2021年08月 16日 国交省、大分空港民営化について、民間から意見募集開始
2022年    ヴァージン・オービット、大分空港を拠点に747-400型機(登録記号N744VG)で人工衛星打ち上げへ
     10月 10日 ホバークラフト大分市側ターミナル起工式。今後空港側も整備進め、23年度就航へ
2023年03月 16日 米ヴァージン・オービット、経営難から事業停止
     04月 4日 ヴァージン・オービット、米連邦破産法11条申請。事業売却目指す
       5日 県、「宇宙港構想の推進方針には変わりない」とコメント
     05月 9日 県、ホーバーのターミナル名「ホーバーターミナルおおいた」、愛称「ホボッタ」と発表
        23日 米ヴァージン・オービット、保有資産を4社に売却して事業終了と発表
     11月 8日 ホーバークラフトが訓練初日に接触事故。船体が複数破損。修理に2~5か月か

関連サイト:
大分空港     
国土交通省大阪航空局/大分空港 
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宮崎(宮崎ブーゲンビリア)空港(旧宮崎航空基地、海軍赤江飛行場) [├空港]

  2006年10月、2024年1月訪問 2024/1更新  

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撮影年月日1946/04/19(USA M57 285) 上の短い白い線は終戦までに未完成だった滑走路 
出典:国土地理院ウェブサイト(地理院データを加工して作成)無題0.png
SkyVector.com

宮崎県宮崎市、宮崎駅南南東約4.5kmにある「宮崎空港」。

元々は海軍の「宮崎航空基地」でした。

先頭のグーグルマップは、上に貼った航空写真等から作図しました。

■防衛研究所収蔵資料「海軍航空基地現状表 内地之部 佐世保鎮守府航空基地現状表」

の中で、当飛行場について一部次のように記載がありました。

基地名:宮崎 建設ノ年:1943 飛行場 長x幅 米:1500x100x2コンクリート 主要機隊数:中型5.0 主任務:作戦 隧道竝ニ地下施設:居住、電信所、燃料庫、爆弾庫、倉庫、工業場、魚雷同時調8本、同格納庫84本 掩体:中型有蓋7 中型無蓋37 小型有蓋7 

戦後の接収、返還を経て現在に至ります。

JR日南線が空港に乗り入れてました。

ヤシの木がたくさんあって、南国っぽい雰囲気の宮崎空港(曇りなのが残念)。

見学しやすいデッキでした。

ご当地のヒコーキ。

滑走路の向かい側に航空大学校。

ターミナル内部は広々として華やかな感じでした。

空港の西側に公園がありました。

撮影ポイントを探してうろうろしたのですが、滑走路の西側は、かなり滑走路近くまで近づけますし、

ポイントは何箇所もありました。

地元の方のサイトで、頭上を通過するヒコーキの迫力のある絵が撮られてました。

(オイラは失敗して撮れませんでした)


(以下2024年1月撮影)

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元宇宙飛行士山崎直子さんが搭乗されました。
山崎直子/宇宙飛行士
1970年千葉県松戸市生まれ。
1993年東京大学工学部航空学科卒業。
1993年東京大学宇宙工学専攻博士課程修了。
1996年からNASDA(現JAXA)に勤務し、JEMプロジェクトチームで「きぼう」日本実験棟の開発業務などに従事。
1999年NASDAより、国際宇宙ステーションに搭乗する日本人宇宙飛行士の候補者として選定される、2001年9月宇宙飛行士として認定される。
2006年5月「きぼう」日本実験棟の打ち上げミッションの。クルーサポートアストロノート(搭乗者支援宇宙飛行士)に選定される。
2011年JAXA退社。

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 夢は高く大空へ
「飛行機のある展望公園」
宮崎空港ビル50周年を記念し、子どもたちに「夢」「希望」「未来」を感じていただける場所になるよう、ここに航空大学校の訓練機を展示することになりました。2012年7月21日 宮崎空港ビル株式会社 代表取締役社長 長濱保廣
JA8850エピソード 仙台分校で最終課程の実機として使用され、東日本大震災後、宮崎本校にて訓練を行った。
25年間で約1,700名のパイロットを育てる。2012年3月21日ライスフライトを終えて宮崎空港へ。

Beechcraft式 C90A型(キングエア)
全長:10.82m
全幅:15.32m
全高:4.34m
自重:2,615kg
最高速度:454km
航続距離:9,144km
エンジン:P&Wカナダ式PT6A-21型

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掩体壕
掩体壕とは…敵の攻撃から、人や物を守る為につくられたんだよ! 少ない材料で大きな強度があるんだ! 昭和19年に爆撃機などの格納庫としてつくられたんだ。今は、赤江地区に3基、本郷地区に4基、田吉地区に弾薬庫が2基と他にもそれらしきコンクリートの後が残っている地区があります。

特攻隊慰霊碑
宮崎特攻基地慰霊碑前において、奉賛会、地域及び行政と共同で年1回慰霊祭を開催することにより、恒久平和について認識を深め、二度と悲惨な戦争を行なわないよう誓い合い、平和を祈念する場ともなっています。

昭和58年に建立され、宮崎基地から飛び立った特攻隊と宮崎県出身者で宮崎基地以外の基地から発進した英霊とを合わせて799柱の英霊が合祀されています。

クーゴ君が教える昔の宮崎空港
クーゴくん 宮崎生まれ、仙台、帯広育ちの男の子。パイロットを夢見て日々空を飛ぶ練習をしている。

宮崎空港はいつできたの?
宮崎に空港を造る計画ができたのは、1940年(昭和15年)の終わり頃で、最初は日本海軍の飛行場として作られたんだよ。
工事が始まったのは次の年の1941年(昭和16年)はじめの頃で、2年後の1943年(昭和18年)終わり頃に飛行場が完成したんだ。

最初は海軍の飛行場だったの?
そうなんです、日本の海軍が作った飛行場で、おもに爆撃機が使う飛行場として作られたんだよ。かなしいことだけど、はじめは戦争をするために作られたんだ。

戦争のときは空港で何があったの?
宮崎空港は戦争中、海軍航空隊宮崎基地ってよばれていたんだ。最初は爆撃機の操縦訓練をしていたんだけど、沖縄の戦いが始まる少し前の1945年(昭和20年)3月18日に、宮崎空港ははじめてアメリカ軍の飛行機に爆撃されたんだ。その年の8月15日に戦争が終わるまでに、わかっているだけで24回も爆撃をうけたんだよ。

宮崎空港からは特攻隊は飛んでいないの?
ほとんど知られていないけれど、沖縄の戦いがはじまる少し前の1945年(昭和20年)3月21日から、5月25日までの60日ほどのあいだに、わかっているだけで131人の若者が飛行機に大きな爆弾をつんで、沖縄の海にいるアメリカの軍艦に体当たりするために、この宮崎空港から飛び立って帰ってこなかったんだ。一番若い人で17才の人もいたんだよ。

昔の飛行場はどんなすがただったのかな?
上の写真をよく見てね。白黒の写真が(昭和19年)12月28日にアメリカ軍が撮影した写真だよ。カラー写真のいまの宮崎空港とくらべてみると、昔の飛行場の滑走路はXのかたちをしているんだね、上のほうにもななめに少し短い滑走路があるけど、これは戦争が終わるまでに完成しなかったんだ。昔の滑走路は1本が幅100メートル長さ1600メートルで、もう1本が幅80メートルで長さが1500メートルあったんだ。

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独立行政法人 航空大学校
航空大学校は、昭和29年に宮崎の地に設立されました。現在では、宮崎、帯広、仙台の3校体制となっております。当校の役割は、我が国の国際線・国内線の第一線で活躍するパイロットの養成です。航空輸送は、世界の人々の生活を支え、旅の楽しみを実現するという大きな役割を担っています。そしてパイロットは、その航空を支える最も重要な仕事です。

航空大学校校歌
黒潮の騒ぐ日も静かな日も 赤江の海の浜風に 若いからだとこころを鍛え 世界の空の使命をになう はてしない希望の続く ああ航空大学校

伝え聞く青島の茂るびろう のどかな光照るここに 空飛ぶ技をみがきつづけ たゆみゆるさぬこころの火花 つつましい英気に生きる ああ航空大学校

高千穂を下に見て空をかける 愛機のあぐるとどろきは 狭い地上に描いた夢を 更にひろげる誇りのひびきを 新しい歴史を築く ああ航空大学校

教育プロセス
宮崎 学科過程
期間…………………4ヶ月
スクール……………本校
学科………………510時間
計器飛行地上訓練…3時間

帯広 フライト過程
期間……………6ヶ月
スクール…帯広分校
学科………76.5時間
訓練機…A36ボナンザ

宮崎 フライト過程
期間……………6ヶ月
スクール………本校
学科………78.5時間
訓練機…A36ボナンザ
計器飛行地上訓練…17時間

仙台 フライト過程
期間……………8ヶ月
スクール…仙台分校
学科…………70時間
訓練機…C90Aキングエア
計器飛行地上訓練…25時間

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独立行政法人航空大学校
航空大学校について
航空大学校は、1954年(昭和29年)に運輸省(当時)の付属機関として宮崎の地に設立されました。現在では、宮崎本校、帯広分校、仙台分校の3カ所あわせて24ヶ月の過程を経て、エアラインパイロットを目指します。日本のエアラインパイロットの約4割が航空大学校の出身となっています。

航空大学校の教育理念
1.航空人の育成
2.パイロットとしての知識と技能の習得
3.プロフェッショナル・スピリットの形成

教育プロセス
トレーニングの本拠地
宮崎キャンパス
期間       5ヶ月
学科       534時間
計器飛行地上訓練 3時間
航空大学校の本拠地。空気力学や航空力学、そして航空機の構造やシステム、エンジン、航法、気象、航空法規など15科目。ハイテク化の進む航空機を飛ばすためには、この課程での基礎学力の充実は重要かつ不可欠なものといえるでしょう。

操縦桿を握るよろこび
帯広キャンパス
期間   6ヶ月
学科   175時間
訓練機  シーラス式 SR22型
操縦訓練 73時間45分
はじめて操縦桿を握り、ソロフライトを体験します。単に軽飛行機を操縦するのではなく、将来の旅客機を操縦していると想定したフライトトレーニングが行われます。エアライン・パイロットをめざす学生が空への第一歩を踏み出す地です。

本校でのフライト課程
宮崎キャンパス
期間   6ヶ月
学科   156時間
訓練機  シーラス式 SR22型
操縦訓練 73時間45分
事業用操縦士資格相当を目指し、訓練が行われます。宮崎課程では本格的にプロを目指す訓練になるため、帯広課程よりもより精度の高い技量が求められます。一方で、クロスカントリーでの他空港へのフライトなど、空を飛ぶことの本当の楽しさ、面白さが実感されてくる時期でもあります。

CIRRUS式 SR22型
全長:7.92m
全幅:11.67m
全高:2.71m
自重:1,032kg
最高速度:347km
航続距離:2,165km
エンジン:コンチネンタル式IO-550-N

最終フライト課程
仙台キャンパス
期間   7ヶ月
学科   150時間
訓練機  G58バロン
操縦訓練 57時間
クリティカルな状況を想定し片側エンジンを停止するなど、いかなるときにも沈着で冷静に、そして迅速で的確な判断と操作ができるようトレーニングを行います。この課程では、これまで航空大学校で学んだすべてが問われるといえます。

Beechcraft式 G58型(バロン)
全長:9.09m
全幅:11.53m
全高:2.97m
自重:1,837kg
最高速度:374km
航続距離:2,932km
エンジン:テレダイン・コンチネンタル式IO-550-C型

そして、プロフェッショナルパイロットへ

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       宮崎県・宮崎空港    

    ビュー:☆☆☆☆★  
展望デッキ:最近無料に。フェンスは低く、広々としていて非常に見やすい
便数多い

    施設:☆☆☆★★  
案内表示分かりやすい
売店、レストランすごい充実振り
本屋、おもちゃ屋、ヒコーキグッズ、オリジナルスイーツ、熊本鮮馬刺し、博多からしめんたい、空弁など
大きな有料駐車場有。事前支払いで10分サービス。
空港整備公園あり
鉄道が接続している。運行本数も多い

    マニア度:☆☆★★★  
航空大学校

    総合:☆☆☆★★  

宮崎市の郊外で原っぱが多い。
東側の滑走路は海に突き出しているが、場周道路は関係者以外立ち入り禁止で通れず。残念。
保安上の問題もあるだろうけれど、是非海側に行けるようにして欲しい
追記:ターミナル側から行こうとすると上記の通りですが、滑走路をはさんで向かい側の、航空大学校側からなら砂浜に行けるのだそうです(情報提供:アスランマリオさん)

・宮崎航空基地(海軍当時) データ
設置管理者:海軍
種 別:陸上飛行場
滑走路:1,500mx100m(09/27)、1,500mx100m(13/31)コンクリート
(滑走路長さは防衛研究所資料から。方位はグーグルアースから)

・宮崎空港(現在) データ
設置管理者:国土交通省
3レター:KMI
4レター:RJFM
空港種別:拠点空港/国管理空港
運用時間:7:30~21:30
所在地:宮崎県宮崎市赤江
標 点:N31°52′38″E131°26′55″
標 高:5.9m
面 積:177ha
滑走路:2,500m×45m
磁方位:09/27
航空管制周波数
・飛行場管制 
 宮崎タワー 118.30 123.60 126.20
 宮崎グランド 121.90
・進入・ターミナルレーダー管制
 宮崎アプローチ 120.10 120.90 121.40 123.60
 宮崎ディパーチャー 120.10 123.60
・航空路管制
 福岡コントロール(南九州東セクター)133.30 132.60
・飛行場情報放送 
 宮崎ATIS 126.80
・TCAアドバイザリー
 宮崎TCA 121.25

沿革
1940年末   海軍省調査団による赤江飛行場適地調査 
       この頃対米関係悪化から軍は航空の増強を目指し飛行場増設を実施。当飛行場計画もその一環
       赤江町に飛行場建設決定。他に大淀川改修、赤江河口の築港もあり知事は宮崎市と赤江町の合併企画
1941年    初め頃 海軍省調査団による赤江飛行場適地調査 
     03月 町役場にて説明会。敷地内の農民に退去命令(190.4ha)。良質の米がとれる水田が広がっていた
     04月 飛行場新設工事開始
     08月 滑走路周辺整備及び引き込み線建設工事
1942年03月 飛行場敷地内の民家退去期限
1943年04月 宮崎市と赤江町合併。合併と並行して飛行場工事が進められる
     12月 練習基地として開隊。「宮崎海軍航空隊」、「赤江航空隊練習部」の2枚の門札掲示
       滑走路は東西1,500mx100m、これにX字形に交差して西北から南東に1,500mx80mの2本
1944年07月 10日 第二航空艦隊所属の基地となる
       20日 海軍航空隊の大編成替えで実戦の中継作戦基地となる
     08月 海軍航空隊の練習基地を解散
     10月 周辺に掩体壕建設。飛行場拡張工事
       25日 神風特攻隊敷島隊の第一陣出撃
1945年02月 海軍航空隊再編成。それまでは訓練、待機基地で、鹿屋、出水、国分等、特攻隊の中継基地だったが、
       この時から特攻隊の発進基地となる
     03月 11日 当基地から特攻隊初出撃
        18日 初空襲
     05月 15日 緊急整備強化
     08月 終戦。接収
1950年06月 連合軍司令官より民間航空の許可指令
1951年03月 宮崎民間空港誘致期成同盟結成。運輸省航空局はじめ各機関に積極的に誘致活動を展開
1954年    返還
     07月 全国唯一の国立航空大学校設立
     10月 全国唯一の航空大学校の訓練飛行場として開港(宮崎飛行場)
     11月 極東航空、定期路線開設。宮崎~大阪 1日1往復
1955年04月 初の日本人による自主管制運用業務開始
1956年08月 公共飛行場として告示(A滑走路1,300m、B滑走路1,340m)
1957年04月 飛行場供用開始示
1961年05月 第二種空港に指定
1962年06月 A滑走路1,500m、B滑走路1,360m
1966年03月 A滑走路延長1,800m
    10月 ローカル空港として初めてジェット機(B727-100)就航
1979年03月 A滑走路延長1,900m
1980年06月 B滑走路廃止
1983年06月 滑走路2,500m延長工事起工
    07月 B767就航
1987年09月 滑走路海側延長の埋立造成完了
1990年03月 A滑走路延長2,500m、新ターミナルビルオープン
    07月 繁忙期という条件付きでB747-100型機就航
1993年04月 宮崎~東京便でB747-100型機定期就航
    12月 新貨物ターミナル完成
1994年07月 宮崎空港連絡鉄道 起工
1995年12月 B777-200就航
1996年07月 JR宮崎空港線接続(地方空港初の連絡鉄道)
1997年12月 貨物ビル拡張工事起工。年間乗降客数が初めて350万人突破
1998年03月 ターミナルビル拡張工事起工
    04月 宮崎~台湾間 国際線チャーター便就航
1999年02月 国際線施設開設
    03月 大型観光バス専用駐車場管制
    06月 ターミナルビル拡張
2001年04月 ソウル-宮崎線開設
2002年04月 税関空港に指定
    05月 空港内免税店オープン
2003年03月  全国初の高齢者、乳幼児連れ家族用駐車帯、九州初の身障者用駐車場帯、歩道帯ルーフ完成
2014年10月 開港60周年。愛称「宮崎ブーゲンビリア空港」に決定
2017年10月 5番スポット搭乗橋、コンコース新設
    12月 26日、Q400対応の「ロングPBB」国内初導入
2018年03月 国際線専用出発保安検査場供用開始
2019年01月 エプロン耐震対策工事着手

関連サイト:
宮崎ブーゲンビリア空港     
国土交通省大阪航空局/宮崎空港   
ブログ内関連記事 

この記事の資料:
日本海軍航空史
宮崎の戦争遺跡
防衛研究所収蔵資料「海軍航空基地現状表 内地之部 佐世保鎮守府航空基地現状表」
「21世紀へ伝える航空ストーリー 戦前戦後の飛行場・空港総ざらえ」


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枕崎空港(運用当時) [├空港]

    2006年10月訪問 2023/4更新  

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撮影年月日2006/10/07(KU20068X C7 7)  
出典:国土地理院ウェブサイト(地理院データを加工して作成)

空港の手前3キロ地点にあった公園

公園から見た景色。知覧茶畑が広がる。

 同じく公園から。目の前に東シナ海。

空港到着。だれもおらず、ドアも閉まってました。 

エプロン

滑走路に沿って外周道路がありました。

ターミナル(左側)と滑走路

遊覧飛行、宣伝飛行は分かるのですが。

…ばびろび? 

 

広報まくらざき 平成19年(2007年)1月号 に運用当時が垣間見える記事がありました。

詳しくは直接記事をご覧いただくとして、

「東和航空株式会社」が格納庫を市に寄贈したという内容でした。

同社は当空港を拠点に平成8年から平成15年4月に休止するまでの間、

チャーター便や遊覧飛行などを運行していたとのことです。

更に記事によれば、この頃は福岡大学や第一工大などの大学やグライダー愛好家グループ等、

複数団体がグライダーの操縦訓練をしており、

将来的にパイロット養成を中心とした事業の展開を模索していた様子が記されています。

この情報はBurunoさんから頂きましたm(_ _)m 


       鹿児島県・枕崎空港    

    ビュー:☆★★★★  
展望デッキ:建物内に入れなかったため不明
格納庫は稼動してました

    施設:☆★★★★  
無料駐車場あり
建物内に自販機あり

    マニア度:☆☆☆★★  
空港に沿って外周道路があり、周囲は茶畑と海が広がり、眺めの良いポイントがたくさんある
撮影場所としては最高

    総合:☆☆★★★  

平成12年現在の6t以下の着陸料:1,050円。1泊810~850円
九州の南端に位置し、種子島、屋久島、硫黄島へは鹿児島空港から行く場合と比べて半分強の距離しかない
鹿児島の離島を結ぶ空の道としての役割も期待され、平成3年に全国初のコミューター空港として開港するが、需要見通しが立たず
現在は県の防災ヘリの運用が主となっている。空港を廃止し、跡地に国の刑務所を誘致しようとしたことがある
空港の39km手前に案内の標識発見。呼び込みの努力はあるものの、シーンとした無人のターミナルビルは地方空港の運営の難しさを象徴している

枕崎空港 データ
設置管理者:鹿児島県枕崎市 飛行場管理事務所
空港種別:その他の空港 
運用時間:8:00~17:00
所在地:鹿児島県枕崎市あけぼの町275番地
標 点:N31°15′58″E130°21′23″
標 高:52.2m
面 積:11ha
滑走路:800m×25m
磁方位:18/36
航空管制周波数
・飛行場アドバイザリー
 枕崎フライトサービス 129.80

沿革
1991年01月 開港
1996年    東和航空株式会社、当空港を拠点に事業開始
2003年    東和航空株式会社、事業休止
2006年08月 11月にかけて試験的に遊覧飛行やチャーター便の運航を実施
     12月 15日 東和航空株式会社、格納庫を市に寄贈
2013年03月 廃止

関連サイト:
枕崎市/枕崎空港
国土交通省大阪航空局/枕崎飛行場(ページ削除)
広報まくらざき 平成19年(2007年)1月号 
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高知(高知龍馬)空港(旧高知海軍航空隊第一基地/日章飛行場) [├空港]

  2006年9月、2023年12月訪問 2023/12更新  

無題4.png
撮影年月日1947/12/15(USA M692-1-1 84) 終戦から2年後。たまに占領軍が飛行場として使用していた無題5.png
撮影年月日1962/05/08(昭37)(MSI623X C1 14) 大阪線開設から8年後。まだ滑走路を横断する2本の農道が見える無題6.png
撮影年月日1980/11/15(昭55)(SI801Y C4 14)   新空港起工式の翌月。旧空港最終形態無題7.png
撮影年月日1983/05/09(昭58)(SI831X C5 23) 新空港開港7か月前。過渡期の高知空港 無題8.png
撮影年月日2004/02/26(平16)(MSI20033X 4 19) 2,500m滑走路供用開始 
出典:国土地理院ウェブサイト(地理院データを加工して作成・5枚とも)無題3.png
SkyVector.com

高知市の東隣にある高知県の空の玄関口、「高知空港」。

元々海軍の「高知航空基地」で、高知県初の本格的な飛行場であり、

発足時の主任務が「偵察教育」という、特殊な航空基地でもありました。

地名から地元では「日章飛行場」、「三島飛行場」とも呼ばれました。

戦後の接収、返還を経て現在の姿になりました。

■防衛研究所収蔵資料「海軍航空基地現状表 内地之部 呉鎮守府航空基地現状表」
の中で、当飛行場について一部次のように記載がありました。

基地名:高知 建設ノ年:1943 飛行場 長x幅 米:1400x1100芝張ノ内1500x60コンクリート 1000x40x2砂利 主要機隊数:小型1.0 主任務:偵察教育 隧道竝ニ地下施設:居住(25000㎡)、指揮所、電信所、爆弾庫、燃料庫、倉庫、工業場、魚雷調整場 魚雷格納庫 掩体:中型無蓋15 小型有蓋9 w型有蓋17 其ノ他記事:空爆ニ依リ建物一部焼却 

■防衛研究所収蔵資料:5航空関係-航空基地-90 航空基地図(本土関係)

高知航空基地(隊)施設調査資料 
水陸別 水上 陸上      
所在地 高知県香美郡三島村
最寄駅 土讃線後免駅
飛行場 滑走路(台)コンク六〇x一,五〇〇米  
主要機種 小型機、練習機
主要任務 偵練教育
収容力 人員 終戦時 二,五〇〇平米
収容力 飛行機 終戦時 掩体 小(九) 中十五 W型(十七)
其の他の主要施設 送信所、舟溜、桟橋、爆撃場、隧道

■「高知空港史」(1984年発行:高知県)の中で、

当時から現在に至る様子が非常に詳細且つ分かりやすく扱われていました。

以下関係個所を引用させて頂きました。

まず、防衛省資料から高知基地について次のように記されていました。

飛行場=長さx幅(1,400mx1,100m芝張り、うち1,000mx60mコンクリート舗装、1,000mx40mx2基・砂利敷き)
用地面積1,320,000㎡
格納庫=25,920㎡
収容施設=士官160名、兵員3,600名。工業場、倉庫、教育施設
隊外酒保、爆撃場、射撃場、射朶(射撃場)、送信所、方位測定所
掩体=中型15、小型9、W型17
隧道・地下施設=居住(2,500㎡)、指揮所、通信場、爆弾庫、燃料庫、倉庫、工業場、魚雷調整場、魚雷格納庫
主要機=小型機
主任務=偵察教育

 

□日章飛行場建設のいきさつ

昭和15年当時、高知県土木課内で、どこかに海軍の飛行場を建設するので待機せよと聞かされました。

翌16年1月23日、それは香美郡三島村(日章村発足前)だと発表されました。

同月27日、境界杭第一号打ち込み。

その後買収区域が追加され、合計2,124,298㎡となり、三島村の七割が航空隊、飛行場にとられた。

第一次立ち退き105戸、第二次立ち退き210戸。

海軍施設部では、移転する人たちに坪数に応じてセメント、洋釘を配給しました。

飛行場建設時、一番の難工事は飛行場中央南部、標高28.2mの室岡山の取り崩しです。

山に坑道を掘り、爆薬を何トンも使って崩しました。

<住民と立ち退き命令>
昭和16年1月の寒い日に、村議会議員や村の有志らを三島小学校の講堂に集めて、時の村長西川豊馬氏は、高知県知事の通達を伝えた。「三島村に、海軍航空隊の飛行場を作ることが決定した。田の中に赤い旗が立てられている範囲内の者は、みんな立ち退いてもらわんといかんことになった。まことに急なことで村民に申し訳ないが、戦争に勝つために協力してもらい、本日了承を願いたい。ただちに立ち退きに取りかかって欲しい」と声をつまらせながら言い渡した。集まっていた人々は、誰一人として反対する者はなかった。

□白菊での特攻

当飛行場は元々偵察搭乗員を養成するための基地で、配備されたのは、「機上作業練習機白菊」でした。

1945年1月19日、B29が高知市神田に初投爆。

戦局悪化と共に、日章飛行場所属の高知空は練習航空隊から実戦航空隊となりました。

任務は実戦部隊に変わり、練習機白菊をそのまま実戦に使用することになったのでした。

当初は白菊の性能を考慮して、本土に攻めてくる敵に対する水際作戦に使用する計画だったのですが、

後に方針が変わり、沖縄への特攻に使用されることになりました。

白菊には偵察、操縦の2人が乗り、胴体下に250kg通常爆弾二個を吊り下げ、鹿屋基地を発進、

約580kmを飛んで沖縄に特攻をしようという作戦です。

白菊の航続距離を延ばすため、燃料の増量タンク(零戦用のベニヤ板製)を積まねばなりません。

胴体下は爆弾をぶら下げるので、増槽タンクは後部座席へ据え付けます。

そのため後部座席の偵察搭乗員は、増槽タンクに馬乗りに座るのです。

機体を少しでも軽くするため、電信機や機銃は撤去しました。

それでも、爆弾二個500kgの重さで白菊の足は一層鈍足になり、鹿屋基地から沖縄まで4時間余りを要します。

制空権のまったくない海に待ち構える米軍は、レイテで既に特攻を経験し、十分な研究と対策を施していました。

物量に物言わせた対空砲火、要撃機に対し、こちらは裸同然の練習機です。

そこで、唯一これしかない作戦として、薄暮、黎明、月明を利用し、目立たぬよう単機ごとに、

電波探知器の網にかからないほどの超低空で接敵するという戦術を採用しました。

これに合わせた特攻訓練が続けられ、実際に薄暮、黎明、月明を狙って長距離計器飛行、

爆撃訓練など連日繰り返しました。

高知海軍航空隊の白菊隊は、5月24日から6月25日まで鹿屋基地から沖縄に出撃しました。

5月24日
15機が19時26分から19時54分にかけて、単機ずつ鹿屋基地を発進
エンジン不調等のため6機が引き返し、1機が不時着、8機16人が未帰還
未帰還者16人の県別内訳は、秋田1名、山形2名、栃木2名、埼玉1名、神奈川1名、愛知3名、大阪2名、広島1名、福岡1名、宮崎1名、山口1名
このうち2機(愛知、栃木)は同県出身者の組み合わせでした
訓練時から同郷のコンビだったのか等は不明

5月25日
1機のみ5時7分鹿屋基地を発進。未帰還

5月27日
15機が18時48分から19時37分にかけて、単機ずつ鹿屋基地を発進
エンジン不調のため3機が引き返し、1機が不時着、11機22人が未帰還

6月21日
8機が19時00分から19時30分にかけて、単機ずつ鹿屋基地を発進
エンジン不調のため3機が引き返し、5機10人が未帰還

6月25日
21日出撃したものの引き返した1機の再出撃。
1機が20時00分発進。未帰還
同日特攻作戦打ち切り決定

特攻作戦打ち切り決定後、残存する白菊は日章の飛行場に戻り、

7月には隠蔽のため20数機の白菊が高知第三飛行場(現四万十町宮内)に移りました。

7月4日、高知市に大空襲、市街の大部分が焼失しました。

 

□戦後の日章飛行場

そして終戦となり、高知第三飛行場の全機は再び日章に戻されます。

「特攻隊員は米軍に処刑される」という噂が飛び交ったため、特攻隊員を優先的に飛行機を使って帰郷させたのでした。

8月20日頃隊員に帰郷の許可が出され、飛ばせる白菊は全部使ったので、残ったのは壊れた白菊だけでした。

終戦直後、米軍の求めに応じ提出された基地別9月1日現在の保有機数(実際には特攻作戦以前のものと推定される)

によれば、高知には2式中練3機、白菊55機、計58機となっていました。

四国には米第24師団が入り、高知へは11月4日、米第19連隊が松山から朝倉駅午後1時30分着の列車で進駐して来ました。

進駐軍は旧朝倉兵舎に入ったのですが、一部は日章の旧航空隊兵舎にも分駐しました。

当高知海軍航空隊分隊長・大尉の手記が「高知空港史」に記されていました。

「私は古参の大尉だというので、残務整理を命ぜられ、10月末まで旧航空隊にいました。

残務整理は高知出身者ばかり100人ほどで、しまいには50人以下になりました。

ほかに、帰るに帰れない台湾、沖縄出身の乙飛が60人ほどいたのです。

実はこれが一番厄介でした。まだ子供みたいな連中です。

残務整理の終わった11月からは、民家を借り、その乙飛の連中と一緒に飛行場の開墾をし、麦や野菜作りをしました。

一方で帰郷先の世話もしなければなりません。

飛行場は少しでも開墾して田畑に戻すのが、地元への罪滅ぼしという思いもあったのです。

米軍が元航空隊兵舎へ入ったのは、11月末か12月初めだと思います。

200人くらいです。

兵器引き渡しに立ち会ってくれと言われ出かけました。

米軍の大尉は、私が元大尉だと聞くと、きちんと敬礼するので私は少しあわてましたよ。

航空隊を空中撮影した写真を持っていましたが「この格納庫はどうしたか」と言うのです。

実は、空襲で7棟の格納庫のうち3棟は壊れていたので、地元の人たちに、要るなら差し上げますと言ったら、

きれいに壊して持って行ったわけです。

仕方ないから、その通り説明したら「わかった」と言ってそのままになりました。

窪川の飛行場の写真も見せてくれましたよ。窪川を爆撃しなかったのは、必要がなかったというだけです。

米軍は日章の兵舎を使っただけで、米軍の飛行機は見かけませんでした。

台湾、沖縄の連中も、家族との連絡がついて順次帰っていったし、

地元に開拓組合も結成され、元の地主から耕作地返還の要望がありましたので、昭和21年6月にそこを引き払いました。」

1946年5月14日、進駐軍の進駐区域の変更で、中国四国は英豪連合軍の区域となり、米軍と交代で高知入り。

スコットランド兵がスカートをなびかせて市中行進して朝倉と日章の旧兵舎に駐屯したのでした。

1946年12月21日、南海大地震と津波が発生。

高知県でも大被害をもたらし、死者670人、行方不明9人、負傷者1,836人、家屋倒壊4,834戸にのぼりました。

終戦間もない衣食住に事欠く時期です。

英豪軍は生活物資の救援活動に全力をあげ、列車で高知駅へ、輸送船や駆逐艦アメフィスト号で

高知港外の桂浜沖へ救援物資を輸送したほか、日章の飛行場へ空輸も行ったのでした。

12月26日午前8時と午後1時30分の2回、双発の大型輸送機を着陸させて、

洋服1,000着、毛布1,000枚などを送り届けたと記録されています。

 

□返還

1948年4月、旧航空隊跡地が高知軍政府部長から返還されましたが、滑走路とエプロン地帯は除外されており、

これらの返還は一番最後となりました。

日章の返還は高知大学農学部を予想したものだったのですが、これがすんなり決まったわけではありませんでした。

農学部よりも前に、物部川の水を利用し、旧航空隊跡地に高知製紙のパルプ工場誘致の運動がありました。

工場の進出は、日章村民の雇用の機会を増やし、村に入る固定資産税の額も大きいと支持者も多く、

「大学もパルプ工場も」という欲張った考えも出ました。

結局沿岸漁民の反対で計画は実現しませんでしたが、県へは何度か、賛成、反対の陳情が押しかけ、

新聞、ラジオをにぎわせたのでした。

1949年5月31日、高知大学設置。

7月18日、第1回生305人が入学。

1952年1月24日、農学部の校地、建物、付属農場が正式に大蔵省から文部省に移管。

日章は飛行場になる前は大部分が水田だったので、これを飛行機が発着するよう造成するには、

石や砂礫を1m近くも入れ、地固めせねばなりませんでした。

そのため今の滑走路を中心にして、その周囲の広い地域に亘り、物部川の砂利はもとより、

付近にあった幾つかの山や丘が無くなったという程、岩石や赤土を全県民総動員して運び入れ、地固めして造ったのでした。

戦後、ここを農学部の耕地とすることになり、つるはしを力任せに打ち込んでみると、カチンと音を立てて弾き返されました。

普通のトラクターを入れてみたのですが、円盤犂は空回りするばかりで全然受け付けません。

仕方なく八ヵ岳農場から、重砲を曳く怪物のような6噸牽引車を借り、最大の円盤犂をつけて約2か月かかって、

ようやく反転して耕地を造成しました。

こうして飛行場周辺は大変な苦労を重ねて徐々に畑、水田が増えてゆきました。

 

□滑走路をどうするか

1952年7月28日、最後まで残されていた滑走路とエプロン地帯の接収が解除になり、政府に返還されました。

これを民間航空に使うべきか、農地に還元すべきか。将来を決する重大問題でした。

日章村では、「飛行場復活反対、農地に払い下げよ」との声が高く、数回の村民大会が開かれました。

村民の気持ちは無理もありません。

軍の絶対命令で突然先祖伝来の土地を追い立てられ、

その美田や屋敷跡は、飛行場の砂利とコンクリートの下にあります。

飛行機は御免だ、元の静かで豊かな田園地帯に戻したいという願望の強さもうなずけます。

しかし一方で、「この飛行場を有効に生かすべきだ」という声もありました。

たとえそれが戦争の落とし子であるとしても、またと造れない飛行場ではないか。

久しく京浜、阪神から隔絶された土地ということで不遇に泣かされてきた。

民間航空の復活は、それを脱却する絶好のチャンスではないのか。

みすみす逃す手はない。いっそのこと、地元で民間航空の会社をつくってはどうか、などと考える人もいました。

 

□戦後の飛行場跡地(昭和22年6月に日章村村長となった方の回顧談)

昭和20年11月、大蔵、農林両次官通牒によって、戦中にできた新軍用地は、

農地として元所有者または耕作者に返還するという方針が出ていました。

そのころ元所有者、耕作者によって香南農地開拓組合ができていたのですが、

県議会や期成同盟は盛んに跡地を四国総合大学に全部使うと言って運動していました。

「そんな勝手なことはいかん。元の所有者や耕作者が現にいるではないか」と反対するが、なにしろ小さな村です。

県や県議会に太刀打ちできません。

知事に会うと、「大学は高知県のため是非必要だから認めてくれ。

滑走路、エプロン地帯が接収解除になった民間航空も必要になるだろう」と言います。

村民大会も何回か開きましたよ。農地開拓組合を中心に猛烈な反対です。

「農地に全部還元せよ。大学に全部渡せない。飛行場はいかん」と言います。

結局、高知大学農学部だけの約15万坪の先取りはやむを得ないということになります。

27年7月に滑走路とエプロン地帯の接収が解除されました。

9月県議会では「全面的に農地として元所有者、耕作者に返還すべきである」という議決をしています。

県としては、本当は農地になどしたくないはずなのに、農地開拓組合を中心とする地元の強い突き上げで、

そのような議決をせざるをえなかったのでしょう。

僅か2年後の29年の県議会では、今度は民間航空再開を要望する議決をしています。

村民大会で、「村長は飛行場を認めるのか、もし飛行場が軍用に使われることになったら、どう責任をとるのか」

と詰め寄られまして、

「そんなことにでもなったら滑走路の上で腹を切ってやる」と大見得を切りました。当時は私も若かったのですね。

いつも空港推進派と見られてきたようです。空港拡張の最初の頃の現地説明会へは知事と一緒に出掛けました。

司会もやりましたが、ずいぶんつるし上げられたものです。

高知新聞の社長はじめ先輩、知人から「うるさい物(飛行場の意味)を持っているせいで苦労するなあ」と、

同情されたり、励まされたりします。

空港のあるところに住む者の宿命ですね。

それだけに、空港によって恩恵を受ける県民、利用者が、

地元の人たちに温かい気持ちを持って見て欲しいと思いますよ。

 

□西日本軽飛行機協会

1953年5月のこと、高知県、市、財界人をバックに「西日本軽飛行機協会」という社団法人がつくられ、

極東航空が高知に航空路を開設するより先に航空事業を始めて、日章飛行場で飛行機を飛ばしました。

運輸省航空局に不定期航空事業の免許を申請して免許状をとり、

9月15日から2ヶ月余、アメリカ製のライアン・ナビアンを借用し、

11月27日、同じくアメリカ製のパイパーPAベイサーを購入しました。

しかし占領がようやく終わりを告げた時代であり、軽飛行機の用途も狭く、協会の経営は苦しく、

1960年、不定期航空事業の免許を他へ譲渡し、保有機のパイパーPAベイサーも売却し、協会は解散しました。

 

□路線開設

日章周辺では依然として飛行場復活反対の運動がありましたが、高知県の政財界には民間航空再開を望む意見が強く、

1954年、高知新聞社、土佐電鉄、極東航空が提携して数回にわたり「高知-大阪空の旅」を開催しました。

使用機はデハビランドDHダブ(10人乗り)、日章-伊丹間 所要1時間、運賃片道3,500円、往復6,000円でした。

物珍しさもあって結構参加者がありました。

そしてこの年の10月1日、準定期空路の高知-大阪線が開設されました。

海軍飛行場として誕生した日章飛行場は終戦から9年、米軍/英豪軍接収の時期を経て、

民間飛行場として新たなスタートを切ったのです。 

準定期というのは不定期ということですが、日曜日を除いて毎日運航とし、

所要1時間10分、片道3,000円、往復6,000円でした。

その直後の10月12日、極東航空の新鋭旅客機ハンドレページHPマラソンが日章飛行場にテスト飛行で飛来しました。

同機には運輸省大阪航空保安事務所長の他、航空官3人が乗り、日章飛行場を視察しました。

11時40分日章飛行場に着陸、午後1時30分大阪に引き返しました。

それから1カ月余の11月下旬のこと、大阪航空保安事務所から極東航空を通じて厳しいお達しが舞い込みました。

「誘導路の整備、旅客待合所新設など飛行場の設備を整えなければ、12月以降の運航を取り消す」というものでした。

その当時、日章飛行場では旅客の乗降、見送り出迎えは、滑走路上で直接行っていました。

旅客待合所もありません。

海軍航空隊時代の誘導路は使用しないので草ぼうぼう。まるで道路でバスに乗るような感覚でした。

保安事務所の指摘は、現状のままでは危険が伴う。

誘導路整備、旅客待合所を新設し、旅客機は滑走路から誘導路を徐行して旅客待合所前まで行き、

そこで旅客を乗降させよ、というものでした。

その頃の日章飛行場は、滑走路が1本あるだけで周りは草ぼうぼうの荒れ地で、

今からでは想像もつきませんが滑走路上が連絡バスの乗降場となっていて、農家の人たちの通路にもなっていました。

開設以来ほぼ満席の空路であり、極東航空、土佐電鉄、高知県、財産管理の四国財務局高知財務部が緊急の協議を行い、

空路取り消しは切り抜けることが出来たのでした。

 

□航路の進展

1955年2月1日、定期航空に格上げされ、4月1日から松山郵政局が高知-大阪間で速達航空便の取り扱いを開始しました。

5月23日から1日2便に増便となり、大阪日帰り旅行が可能になりました。

同時に4発旅客機のハンドレページHPマラソン(22人乗り)が就航し、輸送力は大幅に増えました。

7月20日には、取り敢えず小さいながらも旅客待合所が竣工。

11月6日には、日章飛行場で初の航空ページェントが開催されました。

展示機は築城基地のT-33 4機、鹿屋基地の対潜哨戒機TBM-3W 2機、八尾基地の練習機セスナL-19 3機、

民間の各種連絡機セスナ、パイパーなど5機、計14機でした。

1957年3月5日から高知-大阪間にダグラスDC-3(30人乗り)が就航。

当初はハンドレページHPマラソンと交互運航でしたが、1958年5月1日からはDC-3のみの運航となりました。

巡航速度300km/hで、高知-大阪間の所要時間は50分。

着陸時の所要滑走距離は、ハンドレページHPマラソンの800mに対して、590mでした。

1957年11月6日、極東航空、土佐電鉄、高知新聞社の共催で、DC-3での高知市上空遊覧飛行が企画されました。

高知市をかすめて朝倉上空で旋回、高知港桟橋、稲生を回る10分の飛行コースで、

これには「一生に一度は飛行機に乗ってみたい」という老若男女250人が日章飛行場に集まり、

朝9時40分から12回も飛ぶという盛況ぶりでした。

1957年12月1日、日本ヘリコプター輸送と極東航空が合併し、全日本空輸が設立されました。

 

大阪線の使用機は徐々に大型化し、1日2往復化も果たしましたが、飛行場そのものは1,200mの滑走路と、

700mの補助滑走路、バラック建ての航空局仮事務所、ちっぽけな旅客待合所があるだけというお粗末さでした。

航空局からキツイお達しを受けたものの、旅客が滑走路で直接飛行機に乗降するという状態も依然として続いていました。

1957年9月から始まった高知県議会でも、「飛行場整備を強く要望する」という意見書が採択され、

総理大臣、衆参両院議長、大蔵、運輸大臣に提出されました。

 

□日章飛行場から高知空港へ

1956年4月20日、空港整備法公布、施行。

1958年1月30日、高知空港設置(陸上飛行場F級、滑走路1,200x30m)が告示され、

2月10日に空港整備法による第2種空港の指定を受け、運輸大臣所管の空港となり、

日章飛行場は高知空港になりました。

同年10月、大蔵省が所管していた空港用地320,254㎡が運輸省に移管。

運輸省では3か年計画で重点的にローカル空港の整備を進めることとし、高知空港では1957年10月から翌年3月まで、

工費1,309万円で、航空保安事務所、管制塔、テレタイプ、タワー通信(対航空機短波)などの工事が行われました。

工事は翌年も継続され、工費2,500万円で滑走路、エプロン整備、管制塔関連、航空気象室、

NDBなどの工事が進められました。

1958年10月からは滑走路の嵩上げと誘導路新設が行われました。

滑走路は空路開設から丸4年の間、戦時中の遺物をそのまま使用していたため、路面に高低が出来ていて、

旅客機が離着陸するつど機体に衝撃が伝わり、早急な改修が望まれていました。

滑走路嵩上げ工事のため、12月10日~翌年の1月31日まで53日間、2往復の全便運休という措置がとられました。

そして予定通り1959年2月1日に運航は再開されたのでした。

誘導路とエプロンの整備により、旅客機は滑走路から誘導路を徐行し、エプロンに入り、

そこで乗降するという正規の方法がとれるようになりました。

8月、NDB(無線航行援助施設)完成。 これまでは有視界飛行のため悪天候では着陸できなかったのですが、

視程1,600m、雲高200mあれば着陸が可能となり、欠航が少なくなりました。

9月16日旅客待合所完成。11月NDB本格運用開始。11月末空港夜間照明工事終了。日没後も運用が可能になりました。

 

1962年1月、滑走路のあちこちにひび割れが出来ているのが見つかりました。

当空港の滑走路は、旧海軍が作った厚さ10cmのコンクリート舗装に

運輸省航空局が厚さ5cmのアスファルトを敷いたものです。

戦時中のコンクリート舗装だから基礎工事がしっかりしていません。

従来の旅客機はせいぜい10t程度だったのですが、その頃就航していたコンベアCV-440は23tもあります。

前年には大阪線が3往復化し、団体客輸送で臨時便もあります。

これらが滑走路への負担となって蓄積し、コンクリートの継ぎ目に沿ってアスファルトに割れ目ができたのでした。

応急処置を施したのですが、いずれ本格的な滑走路の強化工事が必要な状況でした。

 

全日空が発表した1963年1~12月の高知-大阪間の旅客実績は、利用率86.6%、旅客数85,34人で、

これはいずれもローカル線の第1位でした。

この年は空港工事のため46日間の運休があったのにこの数字で、

高知-大阪線のドル箱的性格はますます強くなっていったのでした。

高知空港の滑走路は1961年に1,500mx30m、1963年には1,500x45m(陸上飛行場D級)となりました。

この時点では名古屋、宮崎に次いでAクラスの空港で、

ここまでの拡張のスピードはローカル空港としては全国屈指でした。

コンベアCV-440メトロポリタン(52人乗り)、

ビッカース・バイカウント(68人乗り)といった幹線用の機材が就航できたのは、

滑走路整備が進んだ高知空港ならではで、

結果として国内に就航したレシプロ機、ターボプロップ機のほとんどが就航したのでした。

ただし、早くに拡張が進み、あらゆるレシプロ機、ターボプロップ機に対応出来たことが、

高知空港のジェット化を遅らせたという見方もあります。

 

□農道閉鎖

1969年11月、懸案となっていた滑走路の農道を閉鎖しました。

高知空港では滑走路の東と西に2つの農道が横断していました。

日章飛行場時代から"田んぼの中の飛行場"としてスタートしたため、

人や耕運機、軽トラが滑走路を横断するのは大目に見られていました。

初期の頃は発着回数も少なくて問題なかったのですが、

運航数が多くなるに従い、時々ヒヤリとする事態も出てきました。

これは増便申請の際、運輸省が安全対策を指摘して増便を渋る原因にもなっていました。

これまでは滑走路の周囲に金網を張り巡らし、農道の出入り口に柵を設け、

6人の監視員を配置し、旅客機が発着する時は、柵を閉じるという方法をとってきました。

更に地元の人たちと折衝し、必要最小限利用しなければならない人に通行証を発行し、

その人しか通さないことにしました。

これと並行して地元の了承により、工費3,000万円で滑走路周辺に約8kmの迂回農道を造りました。

少し遠回りになるのですが、新設の農道を通ってもらうためです。

そして11月15日、2つの滑走路を横断する農道には出入り口に金網が張られて閉鎖されました。

西側の迂回農道には、東側と同じく、警報機が取り付けられました。

飛行機が離着陸の時、人や車に”頭上注意”を警告する設備で、

この警報機というのも当時高知空港の名物の1つになっていました。

鉄道の警報機と違って、警報が鳴り、信号灯が明滅しても、平気で通行する車も多かったのだそうです。

今やローカル空港としては全国屈指の路線を擁しており、

この規模の空港の滑走路を横切れないようにするというのは、安全面から考えても至極当然のようですが、

そもそも地元の方にとって飛行場は戦時中に有無を言わさず奪われた土地です。

それがそのまま戦後も飛行場であることそのものが大反対の方が多いという事情があり、

この滑走路横断禁止という措置は、

後の空港大拡張の際の地主との激しい対立の前哨戦という面があったかもしれません。

 

□滑走路の嵩上げ

1977年になると、高知空港は1日23往復の定期便を発着させており、

滑走路の路面にひび割れが走り、アスファルトが部分的に剥げ落ちるなど痛みが酷くなりました。

大幅な改修工事が必要なのですが、一方でジェット化対応の高知空港整備計画ができていました。

この計画では滑走路を新設する可能性もあります。

しかしこの整備計画は予定よりも数年遅れる雲行きのため、現在の滑走路の全面改修に踏み切ることにしたのでした。

工事は、運輸省第三港湾建設局高知港工事事務所が、1977年6月20日から工期三か月で実施。

1,500mx45mの滑走路に厚さ15cmのアスファルト舗装をするのですが、

もはや以前とは異なり、何十日も空港全面閉鎖という訳にはいきません。

それで毎日発着のない午後7時30分から翌朝6時までに工事を行いました。

工事の後、すぐに航空機が離着陸しても支障のない工法でなければなりません。

アスファルト舗装は1層5cmとし、3回重ねて、3層15cmの厚さとしました。

施工部分と未施工部分の境目で航空機にショックを与えないよう、

1%以内の縦断勾配とし、1日100m程度としました。

こうして8~11トンダンプ15台、フィニッシャー(仕上げ機)1台、填圧器3台、

作業員約60人が動員され夜毎の突貫工事となりました。

空港は工事用照明で不夜城の明るさ。

ちょうど梅雨のシーズンにも引っ掛かっていて工事関係者の気を揉ませたのですが、予定通り工事は完了しました。

 

□地勢

高知県は80%強が森林で、県西部の中村市周辺のわずかな平地を除けば、

空港のある高知平野が唯一最大の平野であり、

ここは二毛作も出来、なんでも作れる国内有数の穀倉地帯。

移設して新規空港とせず、既存の空港を拡張する場合、美田を大規模に潰すことになるため、地元農家は無論の事、

建設を推進する県、運輸省でさえ拡張案にはためらいがありました。

「これほどの農地を潰して平野部への空港建設は後にも先にも、高知空港だけでは…」と囁かれたほどです。

 

□空港移設案

1967年以降、空港整備について、現在地で拡張するか、移転するか、運輸省ではたびたび各地を調査検討しました。

・空港位置
高知市を中心として車で1時間以内の場所(須崎~安芸間約30km)

・空港用地
空港基本施設、保安施設の設置に必要な条件をもった要地で120万㎡の土地が確保されること

・気象条件
風向、風速、その他突風、乱気流がない場所

・空域制限
航空機の発着、旋回操作を安全かつ容易に行うに障害物件の高さ等規制するもの

こうした条件で移設先を探したのですが、適当な場所を見つけることが出来ず、

最終的に現在地を拡張することとなり、

空港拡張整備計画の成否は「農地が買えるかどうか」に絞られたのでした。

 

□難問が多かった新空港(高知県企画部副部長兼高知空港整備事務所長の回顧談)

高知空港の拡張で広い美田を潰すことになりました。

当然地元の反対はものすごく、この対応には本当に苦労しました。

ここ以外に空港の適地はないのかという意見も出ました。

別に造るとしても、高知から車で1時間以内ということになります。

東は安芸市、西は須崎市までの範囲です。

宇佐、浦ノ内、北山、土佐町の4か所が検討されました。カネの事は一切考えずに作るとしても、

空域制限、気象条件がダメです。

「他の空港では海の方へ滑走路を延長しているではないか。高知空港はなぜ海へ出さないか」という意見もあります。

素朴にそう考えるはずです。

物部川の河口を移設する案もあります。

しかし海へ突き出すと、河川法の定めで防潮堤と同じ高さまで滑走路を上げなければなりません。

2階建てほどの高さになるでしょう。これでは物理的に造れません。

 

□各候補地の評価

a.須崎市野見地区

須崎湾東部の山地地帯に建設する案。この山地はおおむね西南西方向に配列しているので、恒常風と一致しないため、

山地の稜線と平行に滑走路を建設するのは安全面から問題がある。

恒常風方向に滑走路を建設しようとする場合、山地稜線と交差することとなり、

滑走路建設予定地上の高低差が著しくなり、施工に困難が伴う。

また既存道(国道55号線)と空港を結ぶ連絡道の建設が必要である。

 

b.春野町西畑地区

仁淀川東部の丘陵地帯に建設する案。

この地帯の丘陵は概して北西方面に配列しており、恒常風方向と一致するが稜線部分の幅が狭く、

300mの着陸帯を設置するためには、周辺部低地への多量の盛り土が必要で、周囲の自然環境破壊が著しく、

周辺地区への影響が大きい。

また土佐市の中心街が進入路の真下になり、騒音公害の問題がある。

 

c.高知市正蓮寺地区

高知市の北部に広がる四国山地の辺縁部に建設する案。

この山地の配列は概して西方向であり、恒常風方向と一致せず。

また、西-北方向には四国山地の400~500m級の峰が点在し、空域制限に抵触するなど問題が多く、

また気流の乱れ、霧の発生などがあり、安全面から飛行場の建設は困難。

 

d.土佐町平石地区

高知市の北方約15kmの四国山地の中にある大地に建設する案。

この大地の稜線方向はおおむね南西方向であり、恒常風方向と大きく異なり、

また周囲は700-900m級の四国山地であり、空域制限内に多くの支障物件がある。

また山間部であり、気流の乱れ、霧の発生などがあり、安全面から飛行場の建設には問題が多い。

また、高知市と空港を結ぶ新しい連絡道の建設が必要となる。

 

e.夜須町手結地区

夜須町手結の北部に広がる四国山地の周縁部に建設する案。

この地区の稜線方向はおおむね南西方向であり、恒常風方向と大きく異なる。

また地区の北-東方向には400-700m級の峰が点在し、空域制限に抵触するなど問題点が多い。

 

f.南国市日章地区

高知市の東方に広がる香長平野にある現高知空港を拡張する案。

この地帯は高知県下最大の平野であり、滑走路を恒常風方向に建設することができる。

また空域制限内の支障物件も少なく、最適地と考えられる。

ただこの地帯は県下有数の水田地帯であり、この水田を潰地とすることに問題があるが、

この点については現使用地を活用することにより潰地面積を最小限に抑えることが出来る。

 

□現地拡張4案

1.南北案(南北方向の滑走路を新設)

既存空港用地の利用が殆ど出来ないので、取得面積が大きくなる。

南部地区下島浜の地盤が高いので、電柱、家屋等の物件が進入表面の障害物件となる

計画滑走路と現滑走路の中間に位置する農地の用水路計画が困難となる

秋田川の処置が必要である

進入地域(下島浜、王子、物部)に多数の民家が存在するとともに、東側転移表面の至近距離にも高知大学が存在する

現滑走路と交差することになるが、

相互地盤の高低差ができるので現滑走路は根本的改良を行わない限り利用できなくなる

 

2.延長案(現在の滑走路東側部分を延長)

西側部落物件の一部が進入表面に抵触することになる

物部川の堤外地を利用することになる。特に2,000m延長の場合は河川の中央部に達するので、

堤防の付け替えが必要である

滑走路の東側を堤防の高さまで嵩上げする必要があるので、工事の施工に困難を伴う

県道春野赤岡線の一部を地下道とする必要がある

西側の進入地域に多数の民家が存在する

 

3.平行案(現在の滑走路の西側に平行滑走路新設)

西側進入表面等の諸物件の一部を移転する必要がある

秋田川、後川の河川を根本的に改修する必要がある

市道、農道、水路などを付け替える必要がある

県道 前浜-土佐山田線と着陸帯との交差部分の措置が必要

東側進入地域の堤防及び樋門が障害とならないよう滑走路の縦断勾配を考慮する必要がある

 

4.平行交差案(現在の滑走路と位置はほぼ同じ。角度を変えて新設)

離陸上昇表面下に山並みがあり、これが障害となることが予想される

土地の状況から残地の形態に問題があり営農に支障を生ずる

その他の事項は平行案と同一内容の案件が生ずる

 

□旧空港概要

標点の位置 北緯33°32′28″ 東経133°40′31″ 標高6.00m

滑走路の方向(真方位) 北45°30′西

空港面積 368,421㎡

着陸帯 1,620mx120m

滑走路 1,500mx45m

誘導路 258.3mx18m

エプロン 15,400㎡(YS-11級4バース)

航空保安施設 

 無線施設 NDB,VOR,VHF,TTY等

 照明施設 進入角指示灯、滑走路灯、誘導路灯、エプロン灯等

 

□新空港計画の概要

標点の位置 北緯33°32′28″ 東経133°40′26″ 標高6.00m

滑走路の方向(真方位) 北49°29′25″西

空港面積

総面積 1,209,912㎡(拡張面積841,491㎡)

うち本体用地 1,161,318㎡(拡張面積792,897㎡)

ILS用地 44,338㎡(拡張面積44,338㎡)

進入灯用地 4,256㎡(拡張面積4,256㎡)

着陸帯 2,120mx300m

滑走路 2,000mx45m

誘導路 2,240mx23m

エプロン 46,800㎡(B727-200 8バース)

航空保安施設 

 無線施設 ILS/DME,ASR,NDB,VOR/DME,VHF,TTY等

 照明施設 進入灯、進入角指示灯、滑走路灯、誘導路灯、エプロン灯等

 

□公聴会

1974年6月5日 運輸省主催の「高知空港施設変更告示(決定)に関する公聴会」が行われました。

これは「高知空港拡張は是か非か」について利害関係者の声を聞くもので、39人の公述人が意見しました。

賛成派は「観光産業など県の発展、利用客の増加に対応するなど県民の利益のためにも必要」と主張し、

反対派は「騒音、用地問題など地元住民に犠牲を押し付けるもので許せない」と対立、

警察官が待機する物々しい雰囲気でした。

公聴会終了で、拡張計画の決定告示に必要な法的手続きはすべて終わり、7月10日付官報で決定告示されました。

 

□基金創設

知事は地元の不安に応える形で、空港周辺整備事業に官民の資金を募り、

その金利を活用する基金制度を創設しました。

受益者負担と、迷惑を受ける地元の空港周辺の地域への利益還元を図ることにしたもので、

「南国市が心配する地元負担は、実質的に心配いらぬようにする」と説得。

全国的にもユニークな方式を打ち出し、県下市町村、航空会社などもこの出資に協力しました。

最終的には県10億円、市町村3億円、民間15億2,000万円、合計28億2,000万円で運営されたのでした。

 

□地権者の意識調査

1977年8月、用地買収基準価格が初めて地権者に提示され、同時に意向調査の結果を公表しました。

「価格の折り合いがつけば売ってよい」64%、「ある程度時間がかかりそう」27%、

「反対か、会えなかった世帯」9%

この時点で地権者数は物部23戸46人、久枝64戸130人、田村59戸118人、下田村36戸87人、下島12戸29人、

地区外(前記5地区以外)73戸55人でした。

 

□金融戦争

1981年12月 全ての用地補償問題が終了し、用地費、補償費合わせて約147億円となったのですが、

地権者に支払われるこの147億円を巡って、銀行、郵便局、農協などが熾烈な預貯金獲得運動を展開しました

(南国市内のこれら金融機関の預金を全部合わせて400億円といわれていた)。

四国銀行、高知相互銀行、南国市農協、郵便局などが地元出身者を担当に地縁血縁を頼り、

「ひとまずうちへ…」と金融戦争が繰り広げられたのでした。

 

□着工

空港拡張工事で運輸省が真っ先に手を付けたのが、秋田川暗渠工事でした。

1,500mの旧滑走路は秋田川の手前まで伸びていたのですが、

2,000mの新滑走路は秋田川より更に先まで伸ばさねばなりません。

そのため、滑走路の下に川を通す暗渠工事が行われたのでした。

加えて、田村川、県道前浜-土佐山田線(後の前浜-植野線)も新滑走路の下を通すことになりました。

空港本体の盛り土では、南国市稲生と香美郡香我美町刈谷の2か所から採取し、

1日当たり延べ2,000台の10トンダンプで運搬されました。

全体の盛り土の土砂量は130万立方メートルでした。

新滑走路はまず物部川寄りから1,000mを仕上げ、秋田川、県道の完成を待って1983年6月頃から残り1,000mを仕上げました。

本体の土木工事と並行して、延長5,273mの場周道路、用水路4,244m、排水路3,261mが整備されました。

先頭のグーグルマップの青マーカーは暗渠化した川と道路です。

凄い工事をしたものです。

 

□空港全面閉鎖し仕上げ工事

新空港の建設工事は順調に進み、暫定開港の見通しがついたところで、

1983年12月6日から13日まで8日間全面閉鎖し、

ジェット機乗り入れのため最後の仕上げ工事が実施されました。

工事は、新滑走路‐旧滑走路‐エプロン間に誘導路を造るのが主体(旧滑走路は16日から誘導路となる)でした。

ダンプやパワーショベルなど作業車数十台を使い、掘削や盛り土をしました。

また、ターミナルビルへの取り付け道路、新滑走路の照明施設の工事も進められました。

一方、ジェット機を曳く牽引車やコンテナ牽引車の試運転、従業員の研修などあわただしい準備が展開されました。

閉鎖期間中、土電航空部では、航空貨物を1日1往復、トラックで松山まで運び、松山空港から代替輸送しました。

 

□工事に伴う諸問題

周辺のハウス養鰻業者から「工事の騒音、振動が原因で大量のウナギが死んだ」、「地下水位が低下、井戸水が枯れた」、

「施設園芸のハウスが砂塵で汚れ、作物の生育に支障が出た」等々想定外の問題が発生し、

工事の円滑な進行のため懸命な地元対策が実施されたのでした。

 

□慣熟飛行

12月10日から新滑走路を使って慣熟飛行が始まりました。

これは新しい空港の安全確保のために必要なテスト飛行で、

全日空のB767,B737、東亜国内航空のDC-9により14日まで計102回(発着204回)、

午前8時から午後5時半まで繰り返し行われました。

慣熟飛行が始まると、空港周辺に初のジェット機を見ようとする人たちが訪れ、

双眼鏡やカメラで熱心に機体を追っていました。

日曜日の11日には、大勢の見物人が押し寄せ、付近の道路はマイカーで埋め尽くされ、

空港駐車場も満車になりました。

その人出を当て込んで屋台のラーメン屋も登場するおまけがつきました。

慣熟飛行では通常の運航とは全く違い、悪天候、強風等様々な条件を想定し、

低空やエンジンを絞り切った状態等特殊なテストをします。

このため騒音にもバラつきがあり、通常運行とは違った出方が予想され、周辺住民からの苦情が心配されました。

しかし、事前のPRが行き届いていたせいか、さほどの苦情もなかったのだそうです。

 

□高知新聞社 取材レポート

四国四県ではいつもビリを走りがちな本県が、空港だけは松山に次ぎ、

2,000m滑走路による四国で2番目のジェット化を実現した。

地権者との用地買収に当たった県、県土地開発公社の若手職員は日夜をわかたず、時には泊まり込みで仕事に励んだ。

その熱意と誠意が実り地権者も最初は庭先で話をしていたのが、次には縁側、そして座敷へ、と徐々に態度を軟化させ、

職員を受け入れるようになったのだろう。

当時若手職員が、

「何年か後で地権者に会った時、『騙した』と言われないよう、むしろ喜んでもらえるようにしなければ…」

と語っていたのが耳に残っている。

机の上では味わえない、人と人とのつながり、第一線の行政を肌で知った職員も多かったはず。

地権者から「神祭に出て来い」「娘を世話しようか」との声が出るまでになった頃、

用地問題はすでに大きなヤマを越していた。

地元で忘れられない人が2人いる。1人は推進の執念を燃えたぎらせた橋本一二三・南国市議だ。

市長と共に、県との橋渡し役を務めた。

特に、大赤字だった市財政について、空港をテコに立ち直りのきっかけをつかむ努力に懸命の姿勢だった。

空港拡張反対市民連合に対し、「俺は助けの神ぞ、時の氏神ぞ」と大見得を切ったことも忘れられない。

豪放にして繊細、そして頼まれればイヤと言えない、勘の鋭い親分肌の政治家だ。

もう1人は、反対の総大将だった元南国市議である。

ややもすると、イデオロギーというか、政党政派的な要素を抱えかねない反対運動を、

素朴な土着の反対運動として支えた1人といえよう。

米国ロッキード社から直接資料を取り寄せるほどの勉強家で、ハッタリのない政治姿勢は好感を呼んだ。

結果的に拡張が実現し"敗れた"形だが、真面目な人柄が嫌味のないさわやかさを残した。

 


<B-18605/Boeing 737-8Q8>

R/W14から離陸するチャイナエア機

R/W32は海側に面していて、最初の写真の場所から振り返るとこんな感じです。

こちら側から進入してくるところが見てみたいです。

同じ場所から見たターミナルとエプロン

高知龍馬空港には、上空を飛ぶヒコーキに方向、距離を知らせる装置が設置されているので、

よく上空をヒコーキが通過していきます。

一次/二次レーダーもすぐそばで見ることができます。

グールグル回転するモーター音も聞こえます。

空港入り口

展望デッキ入り口

床面だけでなく花壇にもベンチにも木が使ってあり、すごくいい感じでした。

各種ヒコーキのタイヤがずらりと並んでます

展望デッキから・1

展望デッキから・2


(以下2023年12月撮影)

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穴は開いてるのですが、オイラのΦ67のレンズでフードつけっぱだと、この穴を通すのはかなりギリギリでした。

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穴にレンズツッコんで最大限右に振ったらこんな感じ。

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今度はデッキ左端

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同じく穴にレンズツッコんで最大限左に振ったらこんな感じ。

DSC_1966_00001.jpgDSC_1971_00001.jpgDSC_1972_00001.jpgDSC_1973_00001.jpgDSC_1974_00001.jpg


      高知県・高知空港(高知龍馬空港)    
当地は昭和31年まで日章(にっしょう)村でした。そのため海軍航空基地当時、地元では「日章の飛行場」と呼ばれていました。時は流れ高知空港になった現在でも、地元の年配の皆さんにとっては変わらず「日章の飛行場」なのだそうです

    ビュー:☆☆☆★★  
展望デッキ:大人100円
高いフェンスに囲まれているが、のぞき窓が数箇所開いている
周囲に視界を遮るものはないので、眺めは良い
便数多い
建物は新しく、きれい。標識分かりやすい     

    施設:☆☆☆☆★  
売店、レストランあり。深層水、ヒコーキグッズ
ターミナル前に有料駐車場あり

    マニア度:☆☆☆☆★  
展望デッキに展示されているヒコーキのタイヤ
空港拡張計画のジオラマ
写真撮影のロケーション最高

    総合:☆☆☆☆★  

周辺は学校がある以外、のどかな風景が広がる
ヤシの木が南国を感じさせる

 

・高知航空基地(海軍当時) データ
設置管理者:海軍
種 別:陸上飛行場
所在地:高知県香美郡三島村
面 積:132ha
飛行場:1,400mx1,100m芝張
滑走路:1,500mx60m(14/32)(コンクリート)、1,000mx40m2本(砂利)
(所在地、飛行場と滑走路の長さは防衛研究所資料から。)

・高知空港(現在) データ
設置管理者:国土交通省
3レター:KCZ
4レター:RJOK
空港種別:拠点空港/国管理空港
運用時間:7:00~21:00
所在地:高知県南国市物部
標 点:N33°32′46″E133°40′10″
標 高:7.0m
面 積:141ha
滑走路:2,500m×45m
磁方位:14/32
航空管制周波数
・飛行場管制 
 高知タワー 118.75 126.20
・進入・ターミナルレーダー管制
 高知アプローチ 124.80 125.00
 ディパーチャー 124.80 125.00
・航空路管制
 福岡コントロール(南九州東セクター)133.30 132.60
 福岡コントロール(四国北セクター)132.40 119.35
・飛行場情報放送 
 高知ATIS 126.45

沿革
1940年    高知県土木課内で、どこかに海軍の飛行場を建設すると内示あり
1941年01月 23日 飛行場建設地は香美郡三島村(日章村発足前)と発表
       27日 境界杭第一号打ち込み
       三島小学校講堂にて村長が村民に飛行場建設を伝え、予定地からの立退き要請
1942年01月 用地買収と同時に建設開始。建設は終戦の日まで続いた
1944年03月 15日 海軍航空基地として開設(滑走路1,250mX60m)
1945年08月 終戦。接収
1946年10月 27日 日章飛行場跡地開拓に香南農地開拓組合結成
     12月 26日 南海大地震救難物資緊急輸送のため英豪連合軍の大型輸送機が日章飛行場へ着陸
1948年04月 日章の旧航空隊跡地と兵舎(滑走路、エプロン地帯を除く)を高知軍政部長から返還
     08月 12日 日章の旧航空隊跡地の高知製紙パルプ工場計画に沿岸漁民が県へ反対の陳情(10月14日計画断念)
1949年05月 31日 国立学校設置法により文理・教育・農の三学部、高知大学設置。農学部は航空隊兵舎と敷地借用
1950年04月 旧航空隊跡地に高知大学農学部付属農場設置
1952年01月 高知大学農学部が借用中の旧航空隊の兵舎、敷地を大蔵省から文部省へ移管
     07月 28日 日章の飛行場跡地の滑走路、エプロン地帯の接収解除、返還される
     09月 10日 第39回高知県議会で「元高知飛行場に関する意見書」を採択
     12月 21日 青空クラブが日章で戦後初のグライダー飛行
1953年01月 28日 県内各種航空団体を統合。高知県航空連盟発足
     05月 社団法人西日本軽飛行機協会設立
     09月 15日 西日本軽飛行機協会、日本機械貿易会社からライアン・ナビアン借用。藤沢飛行場から空輸
     11月 27日 西日本軽飛行機協会がパイパーPAベイサーを購入。多摩川飛行場から日章へ空輸
1954年03月 20日 第46回高知県議会で「高知、大阪間定期航空再開について意見書」を採択
     10月 1日 極東航空が大阪線開設。日曜運休の準定期路線。デハビランドDHダブ(10人乗り)
        12日 極東航空のハンドレページHPマラソン4発機がテストのため日章へ飛来
1955年02月 1日 極東航空の大阪線が定期路線に昇格
     04月 1日 松山郵政局、高知-大阪間に速達航空便の取り扱い開始
     05月 23日 極東航空大阪線、2往復に増便。ハンドレページHPマラソン4発機(22人乗り)就航
     07月 20日 日章飛行場に旅客待合所新設
     11月 6日 日章で戦後初の航空ページェント。陸海空自衛隊機など14機参加
1956年06月 11日 極東航空、大阪線にスチュワーデスを乗務させる
1957年03月 5日 極東航空、大阪線にDC-3(30人乗り)を就航させ、HPマラソン機と交互運航
     10月 10日 第65高知県議会で「日章飛行場完全整備についての意見書」採択
     11月 6日 極東航空、土佐電鉄、高知新聞社の共催によりDC-3で高知上空の遊覧飛行実施
1958年01月 30日 高知空港設置告示(陸上飛行場F級 滑走路1,200mx30m)
     02月 10日 空港整備法による第2種空港に指定。名称 日章飛行場→高知空港に変更
     03月 管制塔完成
     05月 1日 全日空、大阪線をDC-3に機種統一
     09月 20日 航空日行事に知事が一日機長
     10月 高知空港用地320,254㎡を大蔵省から運輸省へ所管替え
     12月 10日 高知空港滑走路等改修工事のため全便を53日間運航休止
1959年02月 1日 滑走路等の改修工事が完了し、全便運航再開
     09月 6日 旅客待合所落成式
     11月 ラジオビーコン(NDB)使用開始
     12月 8日 夜間照明設備完成。テスト実施
1960年04月 滑走路1,200mX30mで供用開始
       10日 高知空港整備完成記念空港ページェント開催。ジェット機など17機参加。高知上空遊覧飛行
1961年04月 1日 土佐電鉄、高知大学-空港間に定期バス路線開設
     07月 10日 フォッカーF-27フレンドシップ(44人乗り)就航。7月中はDC-3と交互運航
     08月 1日 大阪線3往復化(F-27 2往復、DC-3 1往復) バス路線、はりまや橋間の専用無料送迎に変更
     09月 滑走路両端を150mずつ延長して、1,500m滑走路化工事
       20日 航空日行事に県議会議長が一日機長
     10月 1日 大阪線にコンベアCV-440メトロポリタン(52人乗り)就航。DC-3との交互運航に
       滑走路両端延長工事完了。1,500mx30mに
1962年09月 20日 航空日行事に高知市長が全日空の1日機長
     11月 18日 高知県、県航空協会主催により航空ページェント開催。自衛隊機、民間機16機参加
1963年03月 16日 グライダー練習の高知県学生航空連盟発足
     07月 11日 東亜航空がCV-240(40人乗り)、DHヘロン(16人乗り)にて広島-松山-高知線開設
        28日 日東航空がG-73マラード(12人乗り)にて大阪-徳島-高知線開設。1日1往復
     09月 1日 はりまや橋-空港間の無料送迎専用バスを有料(100円)の空港連絡バスに変更
     10月 1日~11月15日まで46日間全便運休して滑走路、誘導路等第三次改修工事実施
     11月 高知空港拡張整備計画
       16日 運航再開。滑走路5cm嵩上げ、拡幅30m→45m。誘導路12.5m→18m拡幅
       エプロン CV-440型2機→3機用に拡張。陸上飛行場F級→D級(滑走路1,500mx45m)に格上げ
1964年01月 17日 全日空大阪線が4往復化(CV-440 3往復、F-27 1往復)
     03月 航空保安事務所、旅客待合所の増築完了
     04月 15日 北日本、富士、日東が合併して国内航空となり、大阪-徳島-高知線は国内航空に移管
        使用機材をG-73マラードからCV-240に変更
       26日 空港整備完成航空ページェント開催。米軍、自衛隊、民間機30機参加
     07月 21日 YS-11試作2号機が高知空港にテスト飛行のため着陸
     08月 1日  大阪-徳島-高知線廃止。東京-徳島-高知線開設。1日1往復。コンベアCV-240就航
     09月 19日 大阪線開設10周年記念行事として全日空、 小学生10人を東京見物に招待
     11月 14日 全日空ターボプロップ4発機のビッカース・バイカウントが発着テストのため飛来
       22日 空港開設10周年記念の航空ページェント開催。自衛隊機、民間機12機参加
     12月 1日 大阪線からCV-440が引退し、全便F-27となる(全便ターボプロップ化)。1便増便し、5往復化
1965年04月 1日 国内航空、東京-徳島-高知線にYS-11就航。CV-240は引退(YS-11の国内定期路線初就航)
     07月 19日 全日空、高知-大阪線にビッカース・バイカウント(68人乗り)機就航
     08月 25日 全日空、 高知-大阪線にYS-11(60人乗り)機就航
     09月 1日 全日空、 高知-大阪線1日6往復化
     12月 20日 全日空、 高知-東京線開設。1日1往復。ビッカース・バイカウント(68人乗り)機就航
1966年10月 1日  全日空、 高知-宮崎線開設。1日1往復。ビッカース・バイカウント(68人乗り)機就航
1967年    この年以降空港整備について、現在地で拡張するか、移転するか、運輸省ではたびたび各地を調査検討
     02月 「高知空港整備促進協議会」高知商工会議所内に発足
     04月 空港に関する事項を土木部港湾課から県企画管理部開発課に移管。同課に新空港整備に関する窓口設置
     07月 14日 東亜航空、広島-松山-高知線休航。東亜航空の高知線が無くなる
     10月 1日 高知航空保安事務所を高知空港事務所と改称。空港長配置
     11月 1日 国内航空、東京-徳島-高知線廃止。大阪-徳島-高知線開設(YS-11)
        この年、全日空、高知-大阪線7往復化
1968年03月 1日 全日空、高知-大阪線8往復化
     09月 VOR設置のため、滑走路東側の国有地49,500㎡を運輸省に移管
1969年01月 VOR設置工事開始
     07月 1日 全日空大阪線10往復化。F-27フレンドシップ、ピッカース・バイカウント、YS-11の3機種使用
     09月 10日 全日空訓練用小型双発機ビーチクラフト、離陸に失敗。オーバーランして機体破損
        21日 全日空開設15周年記念。開設日生まれの中学生10人を大阪日帰りの旅に招待
       南国市、市制10周年と航路開設15周年記念として高齢者174人を足摺岬40分空の旅招待(ANA YS-11)
     10月 VOR(超短波全方向式無線標識)運用開始
     11月 1日 国内航空、YS-11にて高知-大阪線開設。1日1往復(全日空と初のダブルトラック化)
        国内航空、大阪-徳島-高知線休止。東京-徳島-高知線開設
       15日 東と西に2つある滑走路横断農道閉鎖。耕運機、軽トラの滑走路横断不可に
1970年01月 29日 地元周辺農家、「高知空港拡張反対期成同盟会」結成。その後も次々反対同盟が結成される
     07月 20日 南国市に「空港周辺地域開発協議会」発足。周辺整備、騒音対策
     08月 1日 全日空、YS-11の座席数を60から64に増設
     10月 3日 駐機中の昭和航空セスナ機が19歳の少年に爆破される。駐機中の航空機爆破は全国初のケース
     11月 9日 県に副知事を本部長とする高知空港対策推進本部を設置
1971年    初年度となる今年の空港整備促進の県予算は2,000万円
     05月 20日 地元4地区(田村、前浜、久枝、物部)で初となる新空港整備説明会を2日間開催
       15日 国内航空と東亜航空が合併し、東亜国内航空設立
     06月 1日 全日空大阪線12往復化。国内航空と合わせ、大阪線は14往復
     07月 20日 空港旅客待合所増築完成(160㎡)
     08月 空港周辺地域開発基本構想発表。主要道、河川、農業生産基盤、生活環境施設整備、騒音対策等
     12月 22日 南国市議会に高知空港対策調査特別委員会設置
1972年    今年度の空港整備促進県予算は4,800万円
     01月 全日空大阪線13往復化
     02月 待合所の拡張工事
     05月 1日 全日空、高知-宮崎-鹿児島線開設(YS-11・鹿児島直行便にしたかったが運輸省の路線認可遅れ)
     06月 1日 全日空、高知-鹿児島直行便スタート。利用率はせいぜい30%台と低迷
       地元反対派や市議会特別委がジェット機を飛ばして騒音を調べるよう県に申し入れ
       第2回目の現地説明会に臨んだが、田村地区では「試験飛行が先決」と住民不参加で流会に
     07月 20日 待合所増築工事完成。スペースが2倍になり、搭乗口、到着口が別々になる
     09月 29日 全日空B737による騒音調査実施
     12月 ANA東京線(YS-11)増便し2往復化。TDA東京線(徳島寄港便)の利用率が40-50%→20-30%に減少
       運輸省、空港整備基本計画を決定
1973年    今年度の空港整備促進県予算は3億9,000万円
        この年反対組織は「高知空港拡張反対期成同盟連合会」に一本化され、公聴会も延び延びとなる
       南国市長選挙では空港拡張反対の新人候補が当選し、翌年度の予算は前年度の三分の一ほどになる
        ただし、市議会は保守系が圧倒的多数
     03月 1日 東亜国内航空、東京線(徳島寄港便)休止
         航空公害防止協会が「高知空港騒音調査報告書」まとめる
         17日 運輸省より空港拡張と供用開始日、1978年4月1日の予定告示(ジェット化対応空港)
         27日 知事が現地地元住民への説明会に初出席。ジェット機の試験飛行も局面打開の決め手とならず
     04月 1日 全日空、東京線(YS-11)1日1往復に減便。機材のやりくりがつかないため
     05月 25日 高知空港拡張反対期成同盟南国市連合会が結成
     10月 1日 ANA大阪‐高知‐宮崎‐熊本線開設(YS‐11・従来の宮崎線を熊本まで延長したが1年も経ず休止)
       31日 全日空、高知-鹿児島線休止
1974年02月 5日 南国市に高知空港地域対策協議会設置(従来の空港周辺地域開発協議会を廃止)
     03月 17日 反対期成同盟連合会、日本科学者会議高知支部、革新市政を誕生させた
       「明るい南国姿勢をつくる会」などが反対集会を開き、「高知空港拡張反対市民連合」旗上げ
     04月 10日 南国市議会が空港反対請願を不採択
       25日 南国市に高知空港対策本部設置
     05月 27日 県庁前に農民ら約千人が集まり、美田を渡すな! と決起集会。運輸省主催の公聴会中止を迫る
     06月 5日 運輸省主催の「高知空港施設変更告示(決定)に関する公聴会」
       「高知空港拡張は是か非か」について利害関係者の声を聞く
     07月 10日 航空法第40条による高知空港施設変更(決定)告示
       17日 県議会が空港地元4団体の反対請願を不採択
       30日 南国市議会に高知空港対策特別委員会設置(従来の調査特別委員会に代わるもの)
       南国市田村地区に住民らが空港拡張反対のやぐらを建てる。反対運動のシンボル的存在に
       県、学識経験者らによる「高知空港騒音対策等協議会」発足
     08月 9日  高知空港騒音対策等協議会初会合
     09月 運輸省と県土地開発公社が用地取得に関する覚書締結。国に代わって県公社が用地買収へ
       地元地権者は”一坪たりとも売らぬ”と不売盟約を結ぶ
     10月 市役所前に約1,400人を集めて高知空港拡張反対市民連合が集会開く
1975年01月 11日 運輸省、高知空港に1億800万円を決定
     02月 1日 県の高知空港騒音対策等協議会専門委員会が中間報告。「海側からの離着陸で影響範囲狭まる」
     04月 1日 高知県企画部に空港対策室を設置
       「高知空港騒音対策等協議会」が、「海側からの離着陸を優先すれば、騒音の影響はかなり狭まる
       大気汚染、水質汚濁、漁業、家畜への影響は大した問題はない」とする最終報告
     05月 26日 知事と地元住民の話し合い。4時間の話し合いも物別れに終わる
       この時、会場入り口には、知事を揶揄して「故溝渕”巳”霊位」としたためた祭壇が置かれる
     09月 待合所を増築し、ハイジャック防止関連工事実施
     12月 23日 南国市議会に再度、高知空港対策調査特別委員会設置(従来の特別委員会に代わるもの)
         南国市に保守市政、県に自民党知事誕生
1976年01月 ハイジャック防止関連工事完了。総ガラス張りのホールディングルーム(チェック済みの乗客控室)設置
     11月 6日 拡張反対市民連合と知事の話し合い
     12月 1日 大阪線を全日空が17往復に、東亜国内航空が6往復に、それぞれ増便
         9日 知事2度目の話し合い「拡張をやる、やらないの話し合いならいつまでもするつもりはない」
         14日 久枝、物部地区地権者から県、市との話し合いを要望する動きが出、知事初会合。協力要請
       南国市議会は県からの空港関係協力要請文書を受け入れると決議(出席27人、賛成15人)
1977年04月 1日 県企画部の空港対策室を空港対策課と改称
     05月 11日 知事、地権者に対し、「用地買収は2-3年で終わらせる。近く補償基準価格を示す」
     06月 20日 夜間作業で滑走路の嵩上げ工事開始(工期3か月)
         24日 特定飛行場指定。空港周辺71.8ha、49戸が防音対策区域指定。騒音対策事業を国庫補助で推進
     08月 3日 用地買収基準価格が初めて地権者に提示されるが、価格面、ランクが小分けし過ぎと不満示される
         秋 旧空港ビル旅客待合所を中心とした改修工事実施
     09月 28日 特定飛行場騒音対策区域を告示(YS-11のみ就航の空港としては初めて)
     11月 7日 南国市商工会議所内に県の空港整備現地連絡所開設
     12月 29日 政府予算案で高知空港整備事業費92億円決まる
       用地買収基準価格、7ランクから4ランクに減らし、価格も10-14%アップして再提示
1978年01月 運輸省第三港湾建設局と県が用地測量委託契約を締結
     02月 県、建設コンサルタントに委託し、2月中旬現地での測量を試みるが、地元反対で中断
     03月 1日「空港周辺地域開発協議会」解散し、「高知空港周辺整備対策協議会」発足。周辺整備、騒音対策
        30日 県市町村、民間協力の財団法人高知空港周辺整備基金を設立
        騒音対策事業として共同利用施設の田村東部公民館完成
     04月 県、南国市の土木事務所庁舎内に暫定的に空港整備事務所開所
     05月 4日 南国市田村に高知県空港整備事務所開設。前線基地とする
        16日 旧空港ビル旅客待合所を中心とした改修工事完了。新装オープン
       各地区地権者への戸別訪問開始
     06月 1日 TDA名古屋線開設。1日1往復(YS-11)。前年からANAとの競願になっていた。平均利用率85%
       用地買収の個別交渉に入る。全国的にも珍しい70haの代替地あっせん
     07月 全日空、東京線(YS-11)増便して正式に2往復化
     09月 19日 下田地区で測量。地権者は三角点をテントで隠すが県は高層車で上から測量。その後買収が進む
1979年    正月前後を境に空港用地の予約売買契約が進む
       全日空、東京線増便して3往復化
     01月 1日 東亜国内航空、名古屋線1日2往復化
       5日 空港整備費に大蔵省が満額71億円を内示
     02月 運輸省第三港湾建設局、用地買収、測量進展に伴い新空港本体の基本設計に着手
     03月 ASR(空港監視レーダー)着工に地権者の全員同意
     06月 空港拡張面積に対し、用地買収72%に達する
     08月 空港周辺整備事業の見直し作業完了(123億円→142億円)
     09月 1日 空港運用時間拡大(11時間半から13時間に。7:30~20:30)
        19日 YS-11で空港騒音調査(29日まで15地点)
     11月 1日 東亜国内航空、名古屋線1日3往復化
     12月 22日 大蔵省が55年度予算原案で空港整備事業に34億2,700万円を内示
         空港基本設計既成(6-12月各地区ごとの話し合いにより、田村分水工を除き完了)
1980年    吾岡山が航空法の進入表面に抵触するため、五か年計画で6.35mの切り取り
         春 新管制塔完成。従来の高さ12mから23mに
     01月 騒音防止対策事業として共同利用施設の田村西部公民館完成(144㎡)
     03月 新管制塔と航行援助施設(ASR,NDB,VHF)完成。(空港拡張工事のうち一番乗りの工事)
     04月 1日 空港ビル設立準備事務局発足
        20日 全日空、東京線増便して4往復化
     07月 駐車場整備
     09月 24日 日章開拓農協所有の農道、水路買収で高知県と同農協が売買契約交換
     10月 23日 南国市下島新田の秋田川左岸にて高知空港整備工事起工式。南国市体育館にて祝賀会
1981年04月 21日 高知空港ビル株式会社創立総会
         25日 全日空、東京線4往復に増便
     10月 24日 空港本体の盛り土開始。新滑走路は2-3m嵩上げ
     12月 28日 土地収用法事業認定告示。第1回収用裁決申請
         団結やぐらの撤去を含め、1件の強制収用もなく全ての用地補償問題解決。用地費、補償費 約147億円
1982年03月 30日 ジェット化に伴う航空機騒音防止対策区域が運輸大臣から指定される(YS機対策から変更)
     04月 1日 県企画部の空港対策課を空港輸送課と改称
         15日 空港ジェット化記念に59年度 '84高知くろしお博開催すると発表
     07月 15日 東亜国内航空、福岡線開設1日1往復(YS-11)
     11月 1日 全日空、東京線1日1往復増便し、5往復化(81年度利用率94%)
         12日 最終の土地収用委員会(第1回以来数件の審理も本件限りで用地補償は全て解決)
1983年01月 19日 高知空港ターミナルビル起工式
     04月 1日 東亜国内航空、福岡線増便。1日2往復化
     06月 1日 東亜国内航空、利用率低下のため大阪線を1往復減便。5往復に
        1日 土佐電鉄の空港連絡バスを高知駅まで乗り入れ開始。南国バイパス沿いに3停留所新設
        6日 空港予定地内の田村遺跡群の水田跡20㎡を切り取り、永久保存のため1km東へ移動。仮埋設
     07月 「12月16日にジェット化開港」と決定
       25日 空港敷地の地下に潜る県道前浜-植野線の地下道開通式
     09月 1日 全日空、東京線2往復増便して7往復化
     11月 新ターミナルビルオープン
     12月 6日 旧滑走路と新滑走路をつなぐ工事等、新空港移行のため13日まで全面閉鎖
       10日 14日まで慣熟飛行(発着204回実施)。ANA B767,B737  TDA DC-9
       13日 ターミナルビル、2,000m新滑走路の落成式
       14日 高知空港運航再開。新滑走路を使いYS-11の定期便のみ
       15日 地権者ら約720人余を招待し、B767,DC-9で足摺岬上空まで体験飛行
       16日 新滑走路供用開始式典。ジェット初便は東京からの全日空B767。機長は高知市出身者
       18日 空港初の国際チャーター便が香港に飛ぶ(全日空B767)
1984年01月 9日 全日空、大阪線にB767が暫定就航(2月末まで)
        10日 空港周辺20地点でジェット機騒音調査(高知県が向こう1年間四季ごとに実施)
     03月 20日 '84高知くろしお博覧会開催(5月13日まで)
1986年02月 陸上飛行場C級全面供用開始
1989年04月 エアーニッポン、高知-大阪線開設(全日空から13便移管)
1991年03月 全日空、高知-大阪線にA-320(166席)就航
     04月 エアーニッポン、高知-宮崎線開設(全日空より移管)
1992年03月 エアーニッポン、高知-大阪線に一部 A-320(166席)就航
       日本エアシステム、高知-大阪線にMD-87(134席)就航
1993年04月 日本エアシステム、高知-福岡線に DC-9(128席)就航
1994年07月 高知空港整備基本計画策定(滑走路2,500mx45m)
1995年11月 エアーニッポン、高知-宮崎線にB-737(126席)就航
1996年04月 エアーニッポン、高知-札幌線開設
     08月 高知空港施設変更告示(航空法第40条)
1997年07月 日本エアシステム、日本航空、高知-東京線開設
1998年10月 日本トランスオーシャン航空、高知-沖縄線開設
     11月 ジェイエア、高知-宮崎、高知-名古屋線開設
1999年04月 ジェイエア、高知-広島西線、高知-福岡線開設
2002年03月 高知空港施設変更告示(航空法第46条)
     06月 ターミナルビル増築工事完成
2003年11月 愛称「高地龍馬空港」採用。A-net、高知-伊丹線開設
2004年02月 滑走路延長2,500m供用開始
2007年03月 13日 ANA(運航はエアーセントラル)DHC8-Q400機、着陸前に前輪が出ず主脚のみで緊急着陸
     04月 運用時間7:00-21:00に変更
2010年    韓国のイースター航空と定期便就航に向けて協約を締結
2014年    県道373号高知空港インター線の開通に備え、構内道路と駐車場を改修
2018年11月 6日 県、国際線対応新ターミナル計画。2021年度運用開始予定
2020年01月 22日 県、国際線新ターミナル整備基本構想決定。2022年夏利用開始へ
     06月 30日、 県議会にて高知空港国際ターミナルの22年夏供用断念表明。新型コロナの影響
2023年10月 30日 県、25年目指し国際線ターミナル新設へ

関連サイト:
高知龍馬空港     
国土交通省大阪航空局/高知空港   
コストブログ:高知龍馬空港&土佐人   
(↑コストブログ:空港に初めて人名をつけた土佐人気質考が興味深いです。必見!)
ブログ内関連記事  

この記事の資料:
高知空港史
日本海軍航空史
防衛研究所収蔵資料「海軍航空基地現状表 内地之部 呉鎮守府航空基地現状表」
防衛研究所収蔵資料:5航空関係-航空基地-90 航空基地図(本土関係)
「21世紀へ伝える航空ストーリー 戦前戦後の飛行場・空港総ざらえ」


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所沢陸軍飛行場跡地 [├空港]

  2006年9月訪問 2022/6更新  

無題2.png
撮影年月日1936/06/11(昭11)(A'1 C2 56)  
出典:国土地理院ウェブサイト(地理院データを加工して作成)

埼玉県所沢にあった「所沢陸軍飛行場」。

国内初の公式飛行場で、戦後の接収から部分返還を経て、

現在は所沢航空記念公園、東京航空交通管制部、米軍所沢通信基地等があります。

■「防衛研究所収蔵資料:陸軍航空基地資料 第1 本州、九州 昭19.10 水路部」の中で当飛行場の情報がありました。

以下引用させて頂きます。

「所沢陸軍飛行場 埼玉県入間郡所沢町」

面積 東西1,800米 南北2,000米 
地面の状況 概ね平坦なるも南西-北東に向け緩除なる下り片勾配を為す、硬度は普通にして一面に良好なる植芝密生す
目標 所沢市、村山、山口両貯水池
障碍物 場内中央に格納庫多数あり
離着陸特殊操縦法 着陸方向は通常南又は北とす
格納設備 格納庫(大型、小型機用)多数あり
照明設備 場周灯あり
通信設備 (記載なし) 
観測設備 陸軍気象観測所あり、航空気象を観測す
給油設備 完備す
修理設備 修理施設完備す
宿泊設備 兵舎あり
地方風 全年を通じ北風多し
地方特殊の気象 暴風は3及4月に多し、霧は7,8月頃く、雷雨は7月及8月頃来襲す(原文ママ)
交通関係 所沢駅(武蔵野鉄道)南方約2粁
其の他 (記載なし) 
(昭和18年4月調)
 

給油設備と修理設備の項目、こうやって「完備す」とキッパリ書ききるのは非常に珍しいです。

流石国内初の公式飛行場ですね。

後述しますが、先頭のグーグルマップは段階的に拡張された陸軍飛行場敷地の最大期の線を引いてあります。

■防衛研究所収蔵資料「本土における陸軍飛行場要覧 第一復員局(陸空 本土防空7)」
にも当飛行場の情報がありました。

飛行場名  所沢
位 置   埼玉県入間郡所沢町
規 模   要図
舗 装   六〇×一五〇〇米
      中央九〇〇米代用舗装
      厚さ一〇糎前後各々
      三〇〇米
      砂利
付属施設
 収容施設 三,一五〇名分
 格納施設 掩体 大三九ヶ所 小六九ヶ所 有蓋小二五棟
摘 要   施設軍有

赤マーカー地点。

青マーカー地点。

記念館の前にこんな細長い敷地と、モニュメントがあります。

「あっ、飛行機がとんだ!」この地点はわが国最初の公式飛行場「所沢飛行場」の滑走路にあたります。この滑走路で1911年(明治44年)4月5日早朝、徳川好敏大尉操縦のアンリ・ファルマン機が初飛行を行いました。この飛行は公式飛行場における日本最初の快挙であり、以来所沢は「日本の航空発祥の地」といわれています。このモニュメントは、その偉業を成し遂げた滑走路を永遠にたたえる意味で作成されました。

(細長い敷地は、日本初の滑走路(400x50m)です)

紫マーカー地点。

日本初の飛行場は、日本で最初の航空機による死亡事故が起きてしまった地ともなりました。

これは公園内にある、事故で墜落してしまった木村、徳田両中尉の碑。

この所沢飛行場、第四期まで段階的に拡張工事を行っています。(詳しくはこちら をご覧ください)

最初にここからヒコーキが飛び立った1911年当時の飛行場は非常に小さくて、

現在の公園の周辺程度でした。

因みに1911年当時、1,500m滑走路はまだ飛行場の敷地の外でした。

 

■日本民間航空史話(昭和41年6月)p2で当飛行場について触れられていました。

1909年8月、「臨時軍用気球研究会」という内閣直属の研究会が発足しました。

これはライト兄弟以降の欧米の航空機開発に刺激を受け、

日本でも軍用を目的に飛行機、飛行船を研究調査することが目的でした。

当研究会の第一の仕事は飛行船および飛行機を試作すること、第二の仕事は、実験室、工場、格納庫などの建設、

第三は試験に使用する飛行場の設定であり、そのために関東平野の各地に実際に自転車で訪れ、

地質、地勢、水利、常習風向、地価調査を行いました。

その結果、埼玉県所沢市の平坦な畑地を最も適当として報告、

更に若干名が現地を視察した後、いも畑約八万坪を買収することに内定しました。

そして至急ヨーロッパに出張して各国の飛行場などを視察して敷地の広さ、施設などを調べ、

二か月のうちに所沢の計画でよしとの電報が送られて正式に建設が進められることになったのでした

(土地の価格は一反歩百円だったらしい)。

直ちに工場、飛行機格納庫、気象観測所等の建築が始まったのでした。

所沢飛行場は1911年に開設し、春には早速徳川、日野(代々木練兵場で国内初飛行を行った)両氏の

ファルマン式、ブレリオ式、グラーデ式、ライト式の諸飛行機が運び込まれて訓練飛行を開始。

また同年10月には国産初の飛行船、「イ号気球」の試験飛行も行われた他、

外国製の飛行船の試験等も当地で行われたのでした。 


■「南国イカロス記 かごしま民間航空史」30pによれば、

明治四十四年(一九一一年)四月一日から使用可能になった所沢陸軍飛行場の西側に、

四月二十日ごろ丸太を組み合わせ天幕をはっただけの掘っ立て小屋、つまり「奈良原式飛行機庫」が完成し、

その中に1号機と2号機が同時に搬入され、1号機は白戸栄之助が、2号機は奈良原三次が地上滑走練習をはじめた

とありました。


     埼玉県・所沢飛行場跡地     

所沢飛行場 データ
設置管理者:大日本帝国陸軍
所在地:埼玉県入間郡所沢町(現・所沢市並木)
種 別:陸上飛行場
標 点:N35°47′53″E139°28′21″
標 高:72m
面 積:245.3ha
滑走路:
・国内初の公式飛行場 400mx50m(08/26)
・後にできた滑走路 1,500m×60m(16/34)
(標点、標高、方位はグーグルアースから)

沿革
1911年   日本初の飛行場として開設
    04月 1日 使用可能に。5日 アンリ・ファルマン機初飛行。20日頃、「奈良原式飛行機庫」完成
    05月 5日 奈良原氏、国産機による初飛行
1913年   同飛行場にて日本初の航空機死亡事故発生  
1920年   所沢航空学校開設
1945年   接収 在日米陸軍の航空通信隊が使用 
1971年   第一次返還(約6割が返還される)
1978年   第二次返還(約7割が返還されたことに)
1979年   所沢航空記念公園開園
1993年   所沢航空発祥記念館会館

関連サイト:
所沢航空記念公園 
ブログ内関連記事   

この記事の資料:
現地の説明版
日本民間航空史話(昭和41年6月)
南国イカロス記 かごしま民間航空史
防衛研究所収蔵資料:陸軍航空基地資料 第1 本州、九州 昭19.10 水路部
防衛研究所収蔵資料「本土における陸軍飛行場要覧 第一復員局(陸空 本土防空7)」


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伊江島空港 [├空港]

  2006年5月訪問 2022/6更新  


無題.png
撮影年月日1944/09/29(昭19)(USAokinawa MR7.RV40BG 151)  
出典:国土地理院ウェブサイト(地理院データを加工して作成)無題1.png
SkyVector.com

美ら海水族館の沖約5kmに浮かぶ伊江島。

その伊江島にある伊江島空港は元々日本陸軍の建設した飛行場でした。

米軍による占領、整備、一部返還の後、1975年の海洋博の際、3本の平行滑走路のうち1番東側の「東飛行場」を

「伊江島空港」として整備し、現在に至ります。

エアードルフィンが運航していましたが、2008年に運航を停止し、現在定期便はありません。

空港ターミナル。

周囲には誰もいませんでした。

お邪魔した当時は那覇空港との間にエアードルフィンがチャーター便を運行していたんですが、

正面入り口はシャッターが下りていて、まるで廃墟のようでした。

2009/03/14追記:エアードルフィンはその後事業停止してしまいました。

正面入り口の軒下に入ってみました。

雨上がりで床面には小さいカタツムリがうようよしてました。

中を覗くと、建物内はひっそりとしていて、引越し前日の雰囲気でした。

エプロン

たっちゅーから見た伊江島空港。

中央の細長い赤っぽいのが伊江島空港ターミナル、右隣の青い屋根がエアードルフィン格納庫? 


      伊江島・伊江島空港    

    ビュー:☆★★★★  
展望デッキ:建物内に入れなかったので、あるかどうか不明
周囲に視界を遮るものはないので、眺めは良い
路線は、那覇とのチャーター便のみ

    施設:☆★★★★  
建物に入れなかったので、なんとも言えず
建物前に無料駐車場あり

    マニア度:☆☆★★★  
廃墟マニアにとってはたまらない雰囲気をかもし出している

    総合:☆☆★★★  

伊江島空港は、昭和50年に開催された沖縄海洋博に合わせて開港した
伊江島は、海洋博会場と目と鼻の所にあり、空路を利用した方が時間が読め、早かったはず
その後、海洋博自体は半年間の開催で幕を閉じた
利用客の減少、米軍訓練空域内にあるため運用制限がつくことなどから、定期便の運行は1年7ヵ月で停止。現在に至っている

伊江島空港(旧東飛行場)データ
設置管理者:沖縄県
3レター:IEJ
4レター:RORE
空港種別:地方管理空港
運用時間:土曜日12:15~16:45  日曜日09:15~16:45
所在地:国頭郡伊江村
標 点:N26°43′21″E127°47′13″
標 高:72.5m
面 積:358,356㎡
滑走路:1,500m×45m
磁方位:04/22

沿革
1943年    夏から翌年4月にかけて、陸軍航空本部と国場組により飛行場新設工事開始(第1期)
1944年05月 7月にかけて飛行大隊により、東、中飛行場滑走路(1,500m)急速設定工事(第2期)
     08月 9月にかけて戦闘部隊を投入した急速設定(第3期)
     10月 翌年2月にかけて航空要塞化の補強工事。東、中滑走路は完成、西滑走路は未完成(第4期)
1945年03月 守備軍、修復に10日を要する程度を想定して地上戦直前に滑走路爆破。(終期)
     04月 米軍伊江島占領。滑走路補修。上陸2日後には使用開始。東飛行場を1,830mに拡張
1970年    東飛行場返還
1975年07月 海洋博開催のため東飛行場を「伊江島空港」として供用開始(滑走路1,500m)、定期便運行開始
1977年02月 定期便運航休止
1994年10月 エアードルフィンのチャーター便運行開始
2008年10月 エアードルフィン、親会社の破産によりに事業を停止

関連サイト:
沖縄県/伊江島空港    
国土交通省大阪航空局/伊江島空港   
ブログ内関連記事  

この記事の資料:
沖縄戦研究Ⅱ


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粟国空港 [├空港]

  2006年1月訪問 2022/6更新  

無題y.png
撮影年月日1977/11/21(昭52)(COK772 C1 4) 開港まであと8ヵ月。建設の進む粟国空港 
出典:国土地理院ウェブサイト(地理院データを加工して作成)無題x.png
SkyVector.com

那覇市の北西約60kmに浮かぶ粟国島。

その島の東側に「粟国空港」があります。

1978年開港の建物。

建物前には無料駐車場。

空港消防車。

空港内。入って右側が売店。

右奥にある荷物受け取り所。

左側にカウンターと搭乗口。

カウンターで体重を量って座席が決まります。

カウンター横のドアに懐かしいマークが。

空港のお姉さんに「コレ、撮ってもいいですか?」と尋ねると、

すぐに「どうぞどうぞ」とニコニコしながら許可してくれました。

ちょっと離れた所に保安施設がありました。 

島の中心部から空港の方に向かう道。

てくてく歩くと…

滑走路の端に出ました。

周辺はこんな。

空が広いです。


        粟国島・粟国空港    

    ビュー:☆☆☆★★  
展望デッキなし。
路線は、那覇との1日3往復のみ。使用機材はアイランダー。
滑走路の片方は珊瑚の海岸近くまで伸びている。

    施設:☆☆☆☆★  
小さな売店で島のかりんとうと塩を売っていた。本の貸し出しもしている。
律儀に案内板が出ている。
建物前に無料駐車場あり。
今まで見てきた中で最も「離島の空港」っぽい。         

    マニア度:☆☆☆☆☆  
SWALマーク、「空港分布図2001」が貼ってある。
空港隣に粟国気象台と、サビた空港消防車。
国交省那覇空港事務所管理の保安施設。

    総合:☆☆☆☆★  

周辺はサトウキビ畑。
沖縄の離島空港も徐々に新しくなりつつあるが、ここはまだまだ南西航空時代の面影をそのまま残してくれている。

粟国空港データ
設置管理者:沖縄県
3レター:AGJ
4レター:RORA
空港種別:地方管理空港
運用時間:8:00~18:00
所在地:沖縄県島尻郡粟国村字浜
標 点:N26°35′34″E127°14′25″
標 高:11.6m
面 積:9ha
滑走路:800m×25m
磁方位:01/19
航空管制周波数
・飛行場アドバイザリー
 粟国リモート 118.00(RAG)
・進入・ターミナルレーダー管制
 沖縄アプローチ 119.10

沿革
1976年02月 19日 空港設置許可(R/W800m、設置者:沖縄県)
     03月 26日 第三種空港に政令指定
     12月 第三次空港整備五カ年計画及び沖縄県振興開発計画に基づき建設工事に着手
1978年07月 6日 供用開始(滑走路800m)。那覇線開設(南西航空)
1992年11月 南西航空から琉球エアコミューターに路線移管
2008年06月 18日 法改正に伴い地方管理空港に指定
2008年12月 琉球エアコミューター、慢性的な赤字、機材、乗員問題から粟国~那覇線を2009年5月末運休と発表
2009年06月 19日 那覇便不定期運航開始(第一航空・BN-2B型機)
2010年07月 第一航空、9月15日に粟国線から撤退と発表
     09月 那覇~粟国線が国交省の支援対象路線となることから第一航空は粟国線継続
2014年02月 12日 第一航空、アイランダーの後継機として2015春ツインオッター400導入と発表
2015年08月 28日 第一航空、 DHC6が着陸時に事故。乗客ら11人が負傷。事故を受け定期便停止
2016年11月 国交省、第一航空で2017年秋運航再開へ
2017年02月 補助金で折り合いがつかず、第一航空撤退表明も、県からの依頼を受け、撤退表明撤回
       21日 第一航空、下地島空港で訓練開始。4月半ばごろから那覇-粟国間の飛行訓練を実施予定
2017年11月 航空便再開、来年に延期。赤字補填協議難航のため 
2018年01月 15日 第一航空、那覇便再開
     04月 1日、那覇便再運休。第一航空は沖縄事業本部を6月末までに一時閉鎖へ
     05月 新ターミナル完成
2019年05月 9日、第一航空、補助金が認められず、事業継続できなくなったとして県を提訴
     08月 港南(大阪府)が第一航空の経営権取得し、経営体制変更。路線就航については継続して検討
2020年09月 第一航空、県への訴訟取り下げへ。県内での運行再開目指す
2021年07月 21日 第一航空、那覇便再開。当面はチャーター方式
     09月 粟国村議会、交流人口増目的に補助事業決定。第一航空側に値下げ提案
     10月 25日 第一航空、 那覇便の普通運賃を片道1万4千円から8千円に値下げ。粟国村の一括交付金利用

関連サイト:
沖縄県/粟国空港    
国土交通省大阪航空局/粟国空港   
第一航空   
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与那国空港 [├空港]

  2006年1月訪問 2022/6更新  

無題w.png
撮影年月日1962/06/15(USAyonakuni LINE39 7)  
出典:国土地理院ウェブサイト(地理院データを加工して作成)無題v.png
SkyVector.com

日本最西端の島、与那国島。

東西11km、南北4km足らずの小さな島ですが、昭和18年に日本軍により飛行場が建設され、現在に至ります。

道路から滑走路が見えました。

与那国空港入り口。

建物前にある駐車場。

展望デッキ

展望デッキ:駐車場側

展望デッキ:滑走路側

ターミナル内:待合所

ターミナル内:小さな売店が幾つもあって、島の濃いィお土産を販売してました。


        与那国島・与那国空港    

    ビュー:☆☆★★★  
展望デッキ無料。与那国~石垣間を、JTAが1日1便、RACが週3便。与那国~那覇間をRACが週3便運行。ヒコーキの離着陸をじっくり見ようと思ったら、宿泊した方が良いかも

    施設:☆☆★★★  
レストランなし。個人規模の売店がたくさんある。民芸品が多い
建物はわりと新しい。案内標識は少ないが、建物が小さいので迷う心配はない
ターミナル前に無料駐車場あり

    マニア度:★★★★★  
特に発見できず

    総合:☆☆★★★  

日本最西端の島
台湾との間に防空識別圏の問題を抱えている
以前のターミナルは、ちょっと大きなバス停という雰囲気で、現在の建物は随分立派になった
周辺はサトウキビ畑

与那国空港データ
設置管理者:沖縄県
3レター:OGN
4レター:ROYN
空港種別:地方管理空港
運用時間:8:00~19:30
所在地:沖縄県八重山郡与那国町
標 点:N24°28′03″E122°58′47″
標 高:15.0m
面 積:58ha
滑走路:2,000m×45m
磁方位:08/26
航空管制周波数
・飛行場アドバイザリー
 与那国リモート 118.50(RAG)
・航空路管制
 那覇コントロール(宮古西セクター)123.90

沿革
1943年06月 旧日本軍により建設
1957年08月 民間航空機運行開始 
1975年03月 滑走路800mにて供用開始
1987年02月 滑走路延長1,500m
1999年07月 暫定ジェット化開始
2007年03月 滑走路延長2,000m

関連サイト:
沖縄県/沖縄の空港/与那国空港    
国土交通省大阪航空局/与那国空港   
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旧石垣空港(運用当時) [├空港]

   2006年1月訪問 2022/6更新  


6.png5.png
Ryukyu Islands airfields. Report No. 1-b(10), USSBS Index Section 6 
(国立国会図書館ウェブサイトから転載。2枚とも)

無題t.png
撮影年月日1962/12/29(昭37)(USAisigaki LINE65 3) 
出典:国土地理院ウェブサイト(地理院データを加工して作成)無題u.png
SkyVector.com

沖縄県石垣島南部にあった「旧石垣空港」。

元々は海軍の「平良航空基地」でした。

■第2章  旧軍飛行場用地問題の歴史的な背景とその後の経過 (9コマ目)にこんな一節がありました。 

「昭和19年(1944年)10月10日午前10時頃、何処からともなく「本日午前6時頃より那覇市は空襲中」との報が伝わり、同日夕刻には「那覇市は灰燼に帰した」との噂が拡がったが、詳細の公表はなかった。超えて12日には初めて空襲があった。午前8時35分頃バンナ岳の北上空より平喜名飛行場へ向かって、4機の飛行機が空襲を行ったのだ。
  その後暫時しばらく空襲はなかったが、12月下旬に再び飛行場に対し空襲があった。民間には被害はなかった。
  昭和20年(1945年)1月1日午前10時頃、石垣島の飛行場に空襲があった。爾その後ほとんど毎日のごとく、昼間または夜間飛行機が来襲した。1月から2月にわたっては夜間は午前2時頃石垣島の西南から来襲し、人々の睡眠を妨害した。1月23日には始めて民家に爆弾が投下された。
  3月に入ると空襲は烈しくなり、飛行場はもちろんのこと、平得、真栄里、大浜、宮良、白保等、近傍の部落も爆弾に見舞われた。特に同月下旬沖縄作戦が始まる頃から6月にわたってはもっとも熾烈を極めた。7月以後は漸次緩慢となり、8月12日を最後に空襲がなくなった。」

戦後は先島のハブ空港的な存在となりましたが、拡張が難しく、運用に制限が伴うことから、

2013年の新空港開港と共に廃止されました。

現在は跡地の再開発が進められています。

以下、運用当時の2006年の様子です。

石垣空港入り口。

先に進んでいくと、

石垣空港ターミナル前到着。

JALとANAで建物が分かれてます。

分かりにくいですが、写真の左側がJAL,JTAの建物です。

ANA側の建物。

こっちのが新しいです。

広々とした無料駐車場に続く道路。

展望デッキ:画面左側は壁になっているため、見える方向が制限されてます。

展望デッキ

展望デッキ:金網がどうしてもレンズに入ってしまいます。見づらくてスミマセン。

展望デッキ:管制塔

搭乗待合室。

ヒコーキを待ちながらブルーシールなめたい方は、画面右に少しだけ写っている「コーラルウエイ」へGO!

 


        石垣島・旧石垣空港     

    ビュー:☆☆★★★  
展望デッキ無料。ただし、屋上にあるわけではなく建物の角にあり、空港の一部しか見えない。スペースも狭く、ベンチ等もなし。隅っこのダクト?に腰を下ろせる。
ココは県内では那覇空港に次ぐ忙しさで、JTA、RACといった沖縄ならではのヒコーキがたくさん見れる。

    施設:☆☆☆★★  
小さな売店がいろいろあり。土産物、軽食スタンド、レストランあり。あのジューシーかまぼこも販売している。アジアン雑貨が好きな方、土産物コーナーは一見の価値あり。
案内標識は必要最低限で、慣れないと少しまごつく。
ターミナル前に広々とした無料駐車場有。ただし、2時間までしか利用できず、夜間は使用不可。
JAL側ターミナル内にあるレストランは、南国ムード満点。パイロットとCAたちで(同じ便のクルー?)仲良く雑談しながら食事をしていることも。

    マニア度:★★★★★  
特に発見できず。

    総合:☆☆★★★  

施設内にもたくさんやしの木が植えられていて、南国ムード。
空港の周辺ものどかな田舎の風景。
石垣空港は、那覇空港に次ぐ沖縄第2のハブ空港であり、先島諸島への玄関口となっている。
需要も大きく、利用客、貨物共に年々着実な増加を見せており、平成14年に貨物取扱量が第三種空港の中では全国1位、平成15年には乗降客数が同じく第三種空港(当時)としては全国1位になっている。
しかしこうした数字から見ると、現在の空港の規模はあまりに小さ過ぎる。
ターミナルビル内は混雑し、滑走路も1,500mと短い。
そのため、東京、大阪への直行便はあるが、文字通り直行できるのは本土からの到着便のみで、本土行きの便は、滑走路が短すぎて十分な燃料を積むことができず、宮古、那覇で給油が必要になる。しかも、給油の際は保安上、乗客は全員手荷物を持って一旦機外に出なければならず、不便を強いられている。
到着機も、滑走路に余裕がないため常に急制動が強いられ、過去にオーバーランが原因の機体炎上事故も発生している。
宮古空港と比較すると、乗降客数で約2倍弱上回っているのに対し、建物の大きさは約1/4、滑走路の長さは3/4にとどまっている。
空港拡張、新空港建設の計画は以前からあるが、環境団体などの猛反対(建設予定地での一坪運動など)に遭い、遅々として計画が進まない現状になっている。
今後の見通しが立たないため、現在の空港の大規模な改修もできず、不便な運用が続いている。
建設推進派は、既に空港の規模が限界に達しており、そのことが石垣発展の足かせになってしまっていること、今後更に需要は伸びると予測されること、滑走路が短すぎて危険であることなどを示し、新空港の必要性を説くが、反対派は、「新空港を建設すると、赤土が海に流失し、サンゴが死滅してしまう。魅力のなくなった石垣に訪れる人はいない。だから新空港建設は不要。県の主張する環境への影響はないとする説明は信じられない。」と言う。
どちらの言い分ももっともな気がするが、台風など自然条件も厳しい中で、余裕のない運行を強いられており、”直行便”の給油のための再着陸など、余分な排ガスを出し続けている。需要に供給が追いついていないという現状はこのままでは変わらない。
今後どのようにこの問題が推移していくのか、見守りたい。

追記・新たな場所に空港を建設することが決定し、2006年10月に起工式が行われました

旧石垣空港 データ
設置管理者:沖縄県
3レター:ISG
4レター:ROIG
空港種別:地方管理空港
運用時間:8:00~21:00
所在地:沖縄県石垣市字真栄里
標 点:N24°20′41″E124°11′13″
標 高:26.2m
面 積:46ha
滑走路:1,500m×45m
磁方位:04/22
航空管制周波数
・飛行場管制 
 石垣タワー 118.00 126.20
・航空路管制
 那覇コントロール(宮古西セクター)123.90 132.10

沿革
1943年06月 海軍平得飛行場として建設
1956年06月 沖縄旅行社、運行開始(週2便)
1959年    琉球航空社 運行開始
1963年01月 石垣市長が管理者に
1972年05月 本土復帰 管理者が沖縄県に
1979年05月 暫定ジェット化
2013年03月 7日 新空港開港、旧空港廃止
2014年01月 10日 滑走路の撤去作業開始

関連サイト:
沖縄県庁/沖縄の空港/石垣空港     
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多良間空港 [├空港]

  2006年1月訪問 2022/12更新  


無題r.png
SkyVector.com

多良間島西岸に位置している「多良間空港」。

元々島の南側に旧空港があったのですが、2003年に引っ越して開港した比較的新しい空港です。

空港前ロータリー。

地元の方々が車を正面玄関前に乗り付けて、オジー、オバーを降ろしてました。

瓦屋根の上にポコポコしている黒いものは、展望デッキにいる人の頭です。

晴れてればなぁ…。

すごくシンプルな展望デッキ。

展望デッキ:滑走路側。滑走路のすぐ向こう側には海が広がっているはずなのですが…見えません。

展望デッキ:駐車場側

展望デッキ:滑走路端

 ターミナル内:カウンターの様子。只今職員さんは全員、保安検査、荷物の積み込み作業中。

到着口。

空港前の様子。

同じく空港前の様子。

残念ながら今年3月で休止になってしまった多良間~石垣便のチケット


        多良間島・多良間空港     

    ビュー:☆☆★★★  
展望デッキ無料。ベランダのようなスペースで、何もありません。立ち見専用。石垣便が2006年3月に運休になってしまったため、現在は琉球エアコミューターの宮古便が1日2往復のみ。
滑走路の一部が木々に視界を遮られる。
展望デッキは内カギ式。

    施設:☆☆☆★★  
小さな売店があり、地元ならではのものを販売。
建物は比較的新しく、キレイ。こぢんまりとしていて利用しやすい。
ターミナル前に無料駐車場有。

    マニア度:☆★★★★  
少し離れた所に旧多良間空港あり。

    総合:☆☆★★★  

再入場可能な到着口、到着口手前に軽トラで運ばれてくる手荷物、手荷物の計量器で乗客の体重を量っての座席決めなど、大きいヒコーキしか利用していないと、勝手が違うことばかり。更に出発時刻ギリギリでのんびりと空港に現れる乗客、齢百歳近いのではないかというようなオジー、オバー、非常に強い敬老精神、大人も子どもも声が大きくて元気など、ヒコーキというよりも、沖縄の離島らしさを満喫できる空港でした。

多良間空港データ
設置管理者:沖縄県
3レター:TRA
4レター:RORT
空港種別:地方管理空港
運用時間:8:00~18:00
所在地:沖縄県宮古郡多良間村
標 点:N24°39′14″E124°40′31″
標 高:10.3m
面 積:35ha
滑走路:1,500m×45m
磁方位:18/36
航空管制周波数
・飛行場アドバイザリー
 多良間リモート 118.60(RAG)
・進入・ターミナルレーダー管制
 下地アプローチ 120.30 121.20 125.00

沿革
1971年03月 米軍民政府援助資金により緊急着陸飛行場として建設
2003年10月 旧空港廃止、新空港供用開始(滑走路1,500m)
2006年03月 琉球エアコミューター(RAC)石垣便休止 
2021年   第一航空、年内の石垣便運航開始を目指す
2022年04月 18日 30日から石垣便運航を目指していた第一航空機、多良間空港で機体トラブル。就航延期
     12月  21日から石垣―波照、多良間線就航を予定していた第一航空、機材・乗員繰りつかず就航延期

関連サイト:
沖縄県/沖縄の空港/多良間空港     
国土交通省大阪航空局/多良間空港   
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宮古空港 [├空港]

  2006年1月訪問 2022/6更新  


無題q.png
撮影年月日 1963/01/03(昭38)(USAmiyako LINE6 4)  
出典:国土地理院ウェブサイト(地理院データを加工して作成) 無題r.png
SkyVector.com

宮古島中西部に位置する「宮古空港」。

元々は海軍の宮古航空基地でした。

■「平良市史第1巻(1979年発年発行)」によれば、昭和19年(1944年)10月10日午前7時30分、

いわゆる「十・十空襲」が宮古島にもあり、この日米軍機の編隊が島上空に現れ、

宮古島の3ヵ所の飛行場からは応戦に飛び立つこともなく、9機が撃破されたのだそうです。

また1945年5月4日、戦艦2隻、巡洋艦5隻、駆逐艦11隻からなる英国太平洋艦隊の艦砲射撃にさらされました。

東部沿岸、嘉手苅、宮国、保良の人々は上陸戦が開始されるのではないかと大混乱の中を逃げまどう中、

島の3つの飛行場はことごとく破壊され385発の艦砲弾は飛行場のみならず周辺畑地まで及んだのだそうです。

■防衛研究所収蔵資料:「海軍航空基地現状表 内地之部 佐世保鎮守府航空基地現状表」

の中で、当飛行場について一部次のように記載がありました。

基地名:宮古島 建設ノ年:1944 飛行場 長x幅 米:1,500x200 1,300x150 1,350x150 主要機隊数:中、小型機 主任務:作戦 隧道竝ニ地下施設:施設アルモ数量不明 掩体:施設アルモ数量不明 

 

ターミナル正面。石垣空港より路線、利用客数は少ないけれど、建物は宮古空港の方が立派。

早速展望デッキへ。床面の色がエメラルドグリーンです。

展望デッキ:1 滑走路側。

2008/7/28追記:
現在の展望デッキには、高いフェンスが設置されています。
撮影環境について、詳しくは、
コメント欄の北宇のピューマさん情報をご覧下さいませ。

展望デッキ:2 駐車場側。

豪雪地帯の空港は駐車場の通路に屋根が設置されているところが多いですが、こちらもついてました。

ターミナル入り口。

滑走路に沿って歩いていくと…

滑走路の端に出られました。


        宮古島・宮古空港    

    ビュー:☆☆★★★  
展望デッキ大人100円。ベンチあり。
見晴らし良好。JTA、RACのヒコーキが飛んでます。
2008/1/27追記:
tabitoさんから情報頂きました。展望デッキの料金を入れる部分、テープで塞がれているそうです(☆1つ増えました)。
2008/7/28追記:
北宇のピューマさんから情報頂きました。展望デッキ、相変わらず無料なのですが、
高いフェンスが張られてしまったそうです(☆2つ減りました)。

    施設:☆☆☆☆☆  
建物は瓦屋根で非常に凝った外観。
売店、土産物屋、レストランいろいろあり。
案内表示分かりやすい。
ターミナル前に無料駐車場あり。

    マニア度:☆☆★★★  
ランウエイエンドからの眺め。

    総合:☆☆☆★★  

周囲はさとうきび畑。

 

・宮古航空基地(海軍当時) データ
設置管理者:海軍
種 別:陸上飛行場
滑走路:1,500mx200m(04/22)、1,300mx150m(09/27)、1,350mx150m(18/36)
(滑走路長さは防衛研究所資料から。方位はグーグルアースから)

・宮古空港(現在) データ
設置管理者:沖縄県
3レター:MMY
4レター:ROMY
空港種別:地方管理空港
運用時間:8:00~21:00
所在地:沖縄県宮古島字下里
標 点:N24°46′58″E125°17′42″
標 高:42.8m
面 積:124ha
滑走路:2,000m×45m
磁方位:04/22
航空管制周波数
・飛行場管制 
 宮古タワー 118.20 126.20
・進入・ターミナルレーダー管制
 下地アプローチ 120.30 121.20 125.00
 ディパーチャー 125.00
・航空路管制
 那覇コントロール(宮古西セクター)123.90 132.10

沿革
1943年06月 海軍飛行場として建設
1944年10月 十・十空襲
1945年05月 4日 艦砲射撃により3飛行場ことごとく破壊される
1956年06月 民間航空機就航
1983年07月 滑走路延長(1,500m→2,000m)
1997年07月 新ターミナルビルオープン

関連サイト:
宮古空港     
沖縄県/沖縄の空港/宮古空港    
国土交通省大阪航空局/宮古空港   
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この記事の資料:
平良市史第1巻
防衛研究所収蔵資料:「海軍航空基地現状表 内地之部 佐世保鎮守府航空基地現状表」


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旧北九州空港・運用当時(旧陸軍曽根飛行場、小倉飛行場/空港) [├空港]

  2006年1月訪問 2022/6更新  


無題2.png
撮影年月日1947/04/26(昭22)(USA M279 46) 終戦から2年後。接収期の曽根飛行場無題5.png
撮影年月日2005/04/16(平17)(CKU20051X C8B 25)  廃港1年前の北九州空港
出典:国土地理院ウェブサイト(地理院データを加工して作成・2枚とも)

廃止後の記事はコチラ   

 

福岡県北九州市小倉南区にあった陸軍の「曽根飛行場」。

戦後の接収期を経て、2006年まで「北九州空港」でした。

■防衛研究所収蔵資料「飛行場記録 第12飛行師団司令部」(陸空-本土周辺-120)に要図があり、

先頭のグーグルマップはこの要図から作図しました。

オイラが作図した限りでは、「北九州空港」時代は滑走路中心線はそのままに、

海側部分の滑走路端を100m程延長して使用していたようです。

上記資料「曽根飛行場記録」を以下引用させて頂きます。

判決 自重六屯以下の飛行機の使用に適す

飛行地区
滑走地区 一七五〇x四〇〇埋立転圧
舗装路 一五〇〇x六〇 マダガム(10cm)舗装
土質 粘土質
地表面の状況 雑草にして滑走路北地区地耐力なし
周辺障碍物の有無 なし

付属地区
誘導路 一二〇〇x二〇
宿営 木造平建五、事務室一、空中勤務者控所三、(四〇〇名収容)  
夜間着陸設備 有
動力線 なし
電灯線 各建物に配線しあり
給水 水道なし井戸も水質塩分を含み飲料水に不適

其他
風向 東、西、但し朝夕海霧のかかることあり

備考 飛行場は満潮時に於ては海面より低く海岸に堤防を構築しあるも暴風雨の際は堤防決壊することあり
現に八月二十七日暴雨時約150m決壊しあり(80cm)浸水す

旧北九州空港は、霧の影響で欠航が多いことがネックだった訳ですが、

当時の資料にも「朝夕海霧のかかることあり」と出てますね~。

実は同資料の後ろの頁にも当飛行場についての資料が綴られていて、幾つか差異がありました。

判決の項目で、「六屯」の代わりに、

「自重10頓以下の飛行機の使用に適す 但し舗装路外は6頓以下可能」とありました。

舗装路の項目では、「マカダム」の部分が、「1,500x60 10糎「コンクリート」舗装」とあり、

地表面の状況の項目では、「雑草」の部分が「張芝」になっていました。

■防衛研究所収蔵資料「本土における陸軍飛行場要覧 第一復員局(陸空 本土防空7)」

にも当飛行場の情報がありました。

飛行場名  曽根
位 置   福岡県企救郡曽根村
規 模   要図(1800x400)
舗 装   六〇×一二〇〇米
      基礎割石地形
      表層コンクリート一〇糎
付属施設
 収容施設 (記載無し)
 格納施設 (記載無し)
摘 要   施設軍有

以下運用当時お邪魔した写真をズラズラと。

ターミナル前の植物が南国っぽい。

 

展望デッキへはこちらの外階段から。

広々していて見学しやすい展望デッキ。

便数が少ないので、ヒコーキが行ってしまうと、展望デッキの見学客も一気にいなくなります。

地方空港でよく見かける光景です。

展望デッキ:1 羽田から飛来したヒコーキ。

展望デッキ:2

展望デッキ:3

ターミナル内では、「新北九州開港まであと○○日」とカウントダウンしてました。

北九州市消防航空隊

路線バスの表示


       福岡県・旧北九州空港    

    ビュー:☆☆★★★  
展望デッキ無料。自販機、双眼鏡、ベンチなし。
便数少ない。見晴らし良好。

    施設:☆☆☆★★  
小さい売店にパン、弁当など軽食あり。からし明太あり。レストランあり。
案内表示は必要最低限。
ターミナル前に有料駐車場あり。

    マニア度:★★★★★  
特に発見できませんでした。

    総合:☆☆★★★  

周囲は住宅、会社がパラパラと。
ヒコーキがない時間帯になると、人もなく、バス、タクシーもなく、鉛色の空、冷たい雨と相まって、寂しさばかりが印象に残る閉鎖前の空港でした。

・曽根飛行場(陸軍当時) データ
設置管理者:陸軍
種 別:陸上飛行場
所在地:福岡県企救郡曽根村
滑走地区:1,750mx400m 埋立転圧
滑走路:1,500mx60m マカダム舗装→コンクリート舗装?
方 位:11/29
(データは防衛研究所収蔵資料から)

・旧北九州空港 データ(運用当時)
設置管理者:国土交通省
3レター:KKJ
4レター:RJFR
空港種別:第2種空港 
運用時間:7:30~21:30
住 所:福岡県北九州市小倉南区曽根北町
標 点:N33°50′11″E130°56′49″
標 高:3.0m
面 積:61ha
滑走路:1,600m×45m
磁方位:11/29
航空管制周波数
118.25 126.20

沿革
1944年09月 陸軍曽根飛行場として開設
1945年08月 接収
1953年12月 接収解除、小倉飛行場に
1958年07月 第2種指定、小倉空港に
1973年02月 北九州空港に名称変更
1983年10月 定期便運行停止
1991年03月 滑走路延長(1,500m→1,600m)
       当時のJASが東京便で定期便復活
2006年03月 廃止、新北九州空港開港

関連サイト:
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この記事の資料:
防衛研究所収蔵資料:「飛行場記録 第12飛行師団司令部」(陸空-本土周辺-120)昭和二十年九月十七日
防衛研究所収蔵資料「本土における陸軍飛行場要覧 第一復員局(陸空 本土防空7)」


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